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夕風に散る過去
朝霧澄華(あさぎりすみか)が三十歳の誕生日に願ったのは、海外出張中の久遠雅彦(くおんまさひこ)に会うことだった。 玄関の扉が突然開いた...
Chương (1)
第1章
朝霧澄華(あさぎりすみか)が三十歳の誕生日に願ったのは、海外出張中の久遠雅彦(くおんまさひこ)に会うことだった。
玄関の扉が突然開いたその瞬間——澄華が声を発する暇もなく、彼女は窓ガラスに押し付けられていた。
「雅彦……」振り返った澄華は、息を荒げながら彼を見上げた。「私、三十歳になったの。私たち、もう三年付き合ってる。そろそろ、結婚したいの」
愛し合ったあと、雅彦は煙草をくゆらせながら、優しく澄華を抱き寄せた。
「澄華……俺の事情は分かってるだろ。家の決めた政略結婚には、できるだけ逆らうつもりだ。でも、今はまだタイミングじゃない。安心しろよ、俺はお前なしじゃ生きていけない。それだけは、ずっと変わらないから」
——だが、澄華がこの目で見たのは、雅彦にすでに婚約者がいるという現実だった。しかも彼は、友人の前では澄華のことを「ババア」と嘲笑っていた。その瞬間、澄華の中で何かが音を立てて崩れた。
「お母さん、お見合いの話……してたよね。受けることにする」
雅彦、あなたと私の間には、山と川が隔てているように——二度と交わることはないのよ。
第1話
朝霧澄華(あさぎりすみか)の三十歳の誕生日の願いは、海外出張中の久遠雅彦(くおんまさひこ)に会うことだった。
窓の外では、まるで壊れた堰から一気に水があふれ出すような豪雨が叩きつけている。雨脚は強く、その勢いも激しかった。
澄華は胸の奥に広がる寂しさを必死に押し殺し、ろうそくの火をそっと吹き消すとリビングが闇に包まれた、その瞬間──玄関の扉が勢いよく開いた。
声を上げる間もなく、澄華は誰かに窓ガラスへ押し付けられた。
雨の匂いに混じって、懐かしいシダーウッドの香りがふわりと鼻先をかすめ、胸の鼓動が一気に速くなる。
「飛行機が欠航で、帰れないって言ってたじゃない?」
そう口にしたときには、もう雅彦の手が彼女の腰のラインをなぞるように滑り降りていた。
「お前の三十歳の誕生日だぞ。俺が来ないはずがない。どんなことをしてでも、祝うために帰ってくるさ」
「雅彦……」
振り返った澄華は、息を詰めながら彼を見上げた。「……私、三十歳になったのよ……」
雅彦は彼女の柔らかな唇を親指でそっとなぞり、そのまま抱き上げて寝室へ向かう。
「三十になっても十分若いさ。俺はお前より五つ下だけど、小さいのは年齢だけで、それ以外はもう負けないよ」
男はそのまま彼女を求め、熱く結ばれた瞬間、澄華の白い首筋にダイヤのネックレスをかけた。
「誕生日おめでとう、澄華」
愛を交わしたあと明かりをつけると、リビングには贈り物が山のように積まれていた。
すべて雅彦が持ってきたものだ。
澄華は首にかけられたダイヤのネックレスにそっと触れ、感動を込めて隣で煙草をくゆらす男を見つめた。「雅彦、私たち……もう三年付き合ってるわよね。結婚したいの」
雅彦は煙草を吸う手を止め、火をもみ消すと澄華を強く抱き寄せた。
「澄華……俺の事情は分かってるだろ。家の決めた政略結婚には、できるだけ逆らうつもりだ。でも、今はまだタイミングじゃない。安心しろよ、俺はお前なしじゃ行きていけない。それだけは、ずっと変わらない」
澄華がさらに何かを言おうとしたとき、雅彦の携帯が鳴った。
「雅彦さん、いついらっしゃいます?詩乃様がもうお待ちです」
その声に、雅彦の口調がわずかに軽くなる。「もうすぐ着く。あと十分だけ待たせてくれ」
電話を切ると、ソファの上に置いてあった特別包装の豪華なギフトボックスを手に取り、澄華の額に軽く口づけた。
「ゆっくり休め。用事があるから行ってくる」
雅彦が振り返りもせずにドアを押し開けて出ていく背中を見送り、澄華の胸に小さな痛みが走った。
この嵐の中を戻ってきたのは、本当に自分の誕生日を祝うためだったのか──それとも……
外では雨がさらに激しくなっていた。窓越しに、雅彦が愛車のカリナンを走らせていく姿が見えた。
誰に会いに行くのか確かめたくて、澄華もタクシーを拾い、後を追った。
ミッドナイト・ブルーにて。
「どうしてこんなに遅いのよ?」
「愛しの詩乃に贈るプレゼントを買ってたんだ」
雅彦は精巧なギフトボックスを、店の隅で赤いドレスを着た女に差し出した。
御影詩乃(みかげ しの)は嬉しそうに箱を開ける。「これ……ずっと欲しかったネックレスじゃない! ベルセリア帝国のオークションに出てたやつでしょ? どうして……」
「お前のために、わざわざベルセリア帝国まで行って落としてきたんだ。気に入ったか?」
「ありがとう、雅彦」詩乃は彼の頬に口づけした。「でも、宣伝では端材で作ったお揃いもあるって聞いたけど……あれは?」
「お前には似合わないから、捨てた」
雅彦は詩乃を抱き寄せ、口づけを返す。
個室の友人たちは囃し立て、グラスを掲げて笑った。「なんて甘いんだ! 二人ともお幸せに、早く子ども作れよ!」
ドアの外で立ち尽くす澄華の頬には、すでに涙が伝っていた。雅彦の縁談相手は、かつての初恋の人・詩乃だったのだ。
だから、あれほど縁談を嫌っていた彼が最近になって急に妥協し始めたのか……
澄華は彼が二人の未来のために背負っている重圧だと信じていた。
しかし雅彦は最初から澄華を欺いていたのだ。
澄華は首元のネックレスに触れるとかすかに笑みを浮かべた。
あの「誕生日プレゼント」ですら、詩乃に贈るネックレスのおまけにすぎないのだから。
「雅彦さん、あのメイドは? 一緒じゃないの?」
詩乃が不思議そうに首をかしげる。「メイドって、誰のこと?」
雅彦は淡々と答えた。「別に、大したことじゃない。ずっと俺の世話をしてくれてる女だ」
ドアノブを握る澄華の手にぎゅっと力がこもった。その顔を見るたび、胸が何百本もの刃で切り裂かれるように痛む。
そばにいた誰かが、わざとからかうように言った。「雅彦さん、それはちょっと薄情じゃない?この前、城南のコロッケが食べたいって言ったら、夜中に三つの通りを走って買ってきてくれたじゃないか」
詩乃は雅彦の胸に身を寄せ、片眉を上げる。「へぇ……そんなにしてくれるの?」
雅彦は顔を近づけ、口元に笑みを浮かべた。「妬いてんのか?メイドが俺に尽くすのは当然だろ。それに、あんな年増女、気にすることはない」
澄華の指先は白くなるほど強く握られ、吐息さえ冷たくなった。
聞いているうちに、涙を流しながら笑ってしまう。
雅彦と初めて会ったのは、澄華が十二歳のとき。母が久遠家に住み込みで働き始め、澄華は七歳の雅彦の遊び相手になった。
一緒に積み木を組み、十歳の彼の勉強をそばで見守り、二十歳になった彼と夏の夜に葡萄棚の下で星を数えた──。
雷鳴が途切れることなく轟くある夜、二十二歳の雅彦は、澄華の布団にもぐり込んだ。
一夜の放縦を経て、その快楽を知った彼は、その甘美さにすっかり取り憑かれてしまった。
やがて雅彦は片膝をつき、澄華に向かって誓った。「これから先の俺の人生は、すべてお前のものだ」
こうして二人の三年間にわたる秘密の恋が始まった。その間、雅彦は澄華を誰よりも大事にし、澄華もまた、彼の心には自分しかいないと信じ込んでいた。
「身分なんてどうでもいい。家柄も関係ない。愛しているのはお前だけだ」──そう言ったのも、ほかならぬ雅彦だった。
しかし雅彦の胸の内での澄華は、ただの「メイド」、そして脅威にもならない年増女にすぎなかった。
「こんなふうに飲んでても退屈だわ。ねえ、賭けをしない?」詩乃が楽しげに口を開いた。「メイドって呼べばすぐ来るんでしょ? じゃあ、どれくらいで来るか、時間を当てっこしましょうよ!」
「ねえ、いいでしょ? 雅彦!」
ほろ酔い気分の雅彦は、携帯電話を軽く放り投げながら笑った。「お前が楽しければ、それでいい」
第2話
プルルルル。
玄関の外で電話のベルが鳴り、身なりを整えた澄華がドアを開けて入ってきた。
「私が来たから、もう賭けなんてやめていいわよ」
その場の空気が一瞬で凍りついた。
「これが、あんたたちが言ってた──何年も雅彦の世話をしてきた『お手伝いさん』ってわけ?」
詩乃は唇の端をつり上げ、軽蔑するように上から下までじろりと眺めた。
「来るのが早いじゃない。雅彦が出て行ったのを見て、すぐ追いかけてきたんでしょう?
雅彦が行くところならどこにでもついてくる……あんた、雅彦に飼われてる犬なの?」
澄華は無表情のまま、その言葉を心の外に閉ざすように聞き流し、穏やかに、「詩乃さん、こんばんは」とだけ返した。
雅彦は子どもの頃から酒に弱く、たった数杯だけで酔ってしまう。
耳慣れた声に反応し、ようやく顔を上げた彼は澄華を見た瞬間、すでに呂律が怪しかった。
「……なんで来たんだ」
「あなた、酔ってるわ。帰りましょう」
澄華がここにいるのは、雅彦の母から「雅彦を見ていてほしい」と頼まれていたからだ。
雅彦は胃が弱く、酒を多く飲ませてはいけない。
もし澄華が止めなければ、母は倍の酒を飲ませて澄華に「自分の立場を思い出させる」のだ。
詩乃が眉を上げ、男の一人に目配せをした。男はグラスを二つ持って立ち上がる。
「来たばかりで帰るってのかい、お嬢さん。俺たちに恥かかせる気か?
まだ盛り上がってねぇんだ。雅彦を連れてくってんなら、俺とも一杯やってけよ」
澄華が動かずにいると、男はそのまま近づき、彼女の腰に手を回そうとした。
「澄華、一杯くらい飲もうぜ?誰と飲んだって同じだろ?雅彦には相手がいるし、なんなら俺の相手をしてよ、どうだい?」
「……私、お酒は飲めないんです」
澄華も胃を悪くしており、それは雅彦の母から何度も罰を受けた結果だった。
雅彦もそのことを知っている。
──だが、止めようとはしなかった。
「そんなつれないこと言うなよ。飲めねぇわけねぇだろ。飲まねぇってのは俺たちに恥をかかせるってことだ。雅彦!お前からも言ってやれ!」
雅彦はゆっくりと顔を上げ、低く言い放った。「澄華……自分の立場、忘れてないか?この酒……お前は飲まなきゃならないんだ」
「雅彦……あなた、私が飲めないこと、知ってるでしょう?」
「俺が知ってるのはな、今日お前が俺の友達の機嫌を損ねたら……帰ったらお前の母さんが痛い目に遭うってことだ」
澄華は信じられない思いで目の前の男を見つめた。──雅彦が、母を使って自分を脅すなんて……
詩乃が冷ややかに笑う。「澄華、私だったら飲むわよ。ここにいる誰一人として、あんたが敵に回せる相手はいないんだから。だって、あんたはただの『お手伝いさん』なんだから」
「……分かりました。飲みます」
澄華は目の前のグラスを手に取り、男と無理やり乾杯した。
男はまだ物足りなさそうに、澄華の胸元に視線を落とし、下卑た笑みを浮かべる。
「澄華、これから俺と一緒にどうだ?雅彦さんがあんたにやれるもんは、全部俺だってやれるぜ」
「はいはい、今日はもう終わり。雅彦、小間使いが迎えに来たんだ、先に帰れよ」
間に入ってくる者がいて、詩乃はこのあと予定があったため、雅彦を澄華に預けた。
「澄華、雅彦はあんたに任せるけど……二度と余計な気なんて起こすんじゃないわよ。さもないと、どうなるか分かってるわよね?」
詩乃は傲慢さと挑発を隠そうともせず、射抜くような視線を送った。
澄華は胃の痛みに耐えながら、雅彦を連れて別荘へ戻った。
道中、雅彦はずっと酒臭くしきりに呟いていた。
「……詩乃、やっと帰ってきたんだな」
「詩乃……俺がこの日をどれだけ待ってたか、分かるか……?」
澄華の胸にもたれながら、口にしているのは別の女の名だった。
澄華は顔を背けて窓の外を見やる。過去の光景が、走馬灯のように脳裏をよぎった。
──幼い頃から、雅彦が何か過ちを犯すたび、罰を受けるのはいつも澄華だった。
彼の代わりに鞭を受け、膝をつき空腹に耐えた。
そのせいで若くして関節炎を患い、胃まで悪くした。
雨の日には関節が痛み、そんなときは雅彦がこっそり湿布を持ってきて、労わるように抱きしめてくれた。
「澄華、俺が久遠家の全てを手に入れたら、もう絶対にお前を罰なんかさせない。大事にしてやる、愛してやる……」
胃が痛むときには、雅彦は必ず常備薬を差し出した。
「これを飲めば楽になる」
飲み会で誰かが澄華に酒を勧めれば、雅彦は必ず奪い取って──
「彼女は胃が弱い。俺が代わりに飲む」
しかし今日──彼は澄華の母を持ち出して脅したのだ。
ベッドで眠る雅彦を見下ろし、澄華は深い失望を覚えた。
部屋へ戻ろうとしたとき、母から電話がかかってきた。「澄華、この前話した件、考えてくれた?夕凪朝臣くん、いい子よ。時間を見つけて会ってみない?もう三十歳なのにいつまでも結婚しないで……いつまで引き延ばすつもり?」
母が見合いを勧めるのは、これが初めてではない。今まではすべて断ってきた。
だが今日は、澄華は答えた。
「ええ、お母さん。分かったわ。お見合いしてみる」
「ほんと!?」
「よかった……こんなに恋愛もせずにいたから、てっきり男の子が好きじゃないのかと思ってたわ」
「……お見合い?なんだと……?」
ベッドの雅彦がもぞりと動き、うわ言のように言った。「澄華……お前は俺のもんだ。他の誰とも……お見合いなんか、許さねぇ……」
酒に酔ったその姿を見つめ、澄華は電話を切った。瞳には、静かな哀しみを湛えていた。
──お母さん。私、恋愛をしていなかったわけじゃないの。三年も続けた恋があったのよ。でも今……ようやく、それを終わらせるの。
第3話
雅彦はぐっすり眠り、目を覚ますとすでに朝になっていた。階下へ降りると、キッチンでは澄華が静かに朝食の支度をしている。
雅彦はその背後から近づき、腰に腕を回した。
「朝一番に澄華の顔が見られるなんて、最高だな」
澄華はその手を押しのけ、淡々と「ご飯にしましょう」とだけ言った。
「……俺、昨夜どうやって帰ったんだ?確かバーで友達と飲んでたはずなんだが」
雅彦はテーブルに腰を下ろし、眉をひそめる。昨夜のことはほとんど覚えていないらしい。
澄華はエプロンを外し、短く告げた。「あなたの友達から連絡があって、迎えに行ったのよ」
「そうだったのか?……どうした?なんだか機嫌が悪いな。俺、何かしたか?怒ってるのか?」
本当に覚えていないのか、それとも演技なのか──澄華は確かめようとはしなかった。
もうどうでもよかったから。
「別に……ちょっと出かけてくるから、ゆっくり食べて」
そのとき、電話のベルが鳴った。澄華は受話器を取り、耳に当てる。
相手は母だった。「澄華、朝臣くん、もう公園で待ってるわよ。ちゃんと行くの、忘れないでね!」
「分かったわ。すぐ行くから」
電話を切って玄関へ向かうと、雅彦が立ちはだかった。
「どこに行くんだ?誰に会うんだ?」
その顔にはわずかな焦りが浮かんでいる。「男か?女か?」
「詩乃さんが今朝電話してきて、今日は馬場で練習するから後で来てって」
「そうか」
雅彦はすぐに手を放し、急いで食事をかき込む。
「詩乃は俺の遅刻を嫌うからな……」
顔を上げたときには、澄華の姿はもうなかった。
公園に着くと、川辺に立つ男性の背が見えた。
澄華は深く息を吸い、その背へ歩み寄る。「朝臣さん……遅れてしまって、すみません」
振り返った瞬間、澄華の胸が一拍遅れて跳ねた。
母の段取りで会う見合い相手は、ごく普通の男性だろう──そう思っていた。
しかし、そこに立っていたのは予想を裏切るほど整った顔立ちの男だった。
涼やかな眉目に、柔らかなまなざし。澄華を見ると、口元に優しい笑みを浮かべる。
「澄華さん、はじめまして。夕凪朝臣です」
声までが穏やかで、耳に心地よい。
澄華は、こんな人に自分は釣り合わないと痛感した。
「すみません。母がきっと人違いをしたんです。失礼します」
踵を返そうとすると、朝臣は眉をひそめ、しかし距離を保ちながら前へ回り込む。
「澄華さん、俺のどこかが気に入らないのなら、教えてください」
「違います。あなたはとても素敵な方です。ただ、私……」
澄華は真っ直ぐに彼を見上げ、誠実な声で告げた。「私の名前は朝霧澄華。久遠家で働く家政婦の娘です」
「知っています」
曇りのない瞳で朝臣は言った。「君のことは、全部知っています」
「……いいえ、知らないはずです。私と雅彦は──」
「知っています。誰にだって過去はあります。それを俺は気にしません」
「せっかくこうして会えたんです。少し話してみませんか?もし俺のことを好きになれなければ、そのとき離れても遅くはありません」
澄華は唇を噛み、小さくうなずいた。「分かりました。では、この後はどこへ行きましょう?」
「もしよければ、一緒に行きたい場所があります」
まさか、その「場所」が馬場だとは思わなかった。
入るなり朝臣はコーチのもとへ行き、用具を受け取っている。
入口にひとり残された澄華が戸惑っていると、背後から聞き慣れた声が響いた。
「澄華?まさか……本当に、どこに行っても離れられないんだな」
第4話
澄華が振り返ると、そこには雅彦と詩乃、そして彼らの仲間たちが立っていた。
詩乃は明らかに不機嫌そうな顔で、「雅彦、あなたが呼んだの?」と詰問する。
澄華の姿を目にした雅彦の表情も険しくなった。
「お前……出かけるって言ってたのは、俺を尾行してここまで来るためだったのか?」
「違います」澄華はためらいもなく答える。「私は友達と一緒に来ただけです」
雅彦の友人たちが鼻で笑った。
「友達?あんたにそんな金持ちの友達がいるわけないだろ。ここは会員制だぞ。この馬場に入るには会員カードが必要なんだ。年会費がいくらか知ってるか?何千万もするんだぞ。あんたの友達でそんな金出せるやつなんているのか?」
「雅彦、あなた私に『このお手伝いとはもう関わらない』って言ったじゃない。今日のこれはどういうこと?」
詩乃は唇を噛み、プライドを傷つけられたように目を潤ませた。
詩乃が泣き出すと、雅彦は眉間に深く皺を寄せてそっと彼女を抱き寄せた。
そして澄華に鋭い視線を投げつける。
「今すぐ出て行け!」
「さっきも言ったでしょう。尾けて来たんじゃなくて、友達と一緒に──」
「朝霧澄華!いつからそんなに狡くなった?」
怒るとき、雅彦は必ずフルネームで呼ぶ。「お前が何しに来たかなんてどうでもいい。とにかく、詩乃が会いたくないって言ってるんだ。今すぐ出て行け、聞こえないのか!」
「しつこいぞ!さっさと消えろ!」
「そうだ、さっさと行け!」
「恥知らずな女だな。お手伝いの分際で、久遠家の奥様にでもなれると思ってるのか?」
雅彦の友人たちは指を突きつけ、嘲り笑ったが、雅彦はまるで見えていないようだった。
彼は詩乃の涙をそっと拭い、優しくささやく。
「ほら、泣かないでくれ。お前が泣くと、俺はたまらなく辛いんだ。今すぐあいつを追い出すから」
その光景に、澄華は手をぎゅっと握りしめた。
そのとき、背後から誰かに勢いよく突き飛ばされた。
「出て行けって言ってるだろ、耳が聞こえないのか!」
足元がふらつき、澄華は前につんのめって額をガラス扉にぶつけた。
「ガシャン!」という音とともに、扉のガラスが粉々に砕け散る。
飛び散った破片から詩乃をかばうように、雅彦は彼女を抱き寄せ、後ろへ下がった。
だが澄華の体には、いくつものガラス片が深く突き刺さった。
──痛い。
澄華は眉をひそめ、傷口からじわじわと血がにじみ出るのを見つめる。
「雅彦……」
助けを求めるように名を呼んだが、雅彦の目は詩乃しか見ていなかった。
「詩乃、大丈夫か?どこか怪我はないか?」
「私は平気。でも澄華が──」
「放っておけ。念のため病院に行って検査しよう」
雅彦は詩乃を抱きかかえ、そのまま立ち去った。澄華には一瞥もくれずに。
その後を、雅彦の友人たちは笑いながらついていく。
「ははっ!澄華、お前の頭、どんだけ硬いんだよ!ガラス扉をぶち破るなんてな!」
「恥知らずで、バカで、しかも痛みに鈍いんだな!」
彼らが去った後、馬場の責任者が足早に近づいてきた。「お嬢さん、この扉は高額なんです。弁償していただかないと困ります」
「いくらですか?」
澄華は痛みに耐えながら立ち上がり、バッグから財布を取り出す。
「400万円です」
「えっ?400万円?」
まさか、たった一枚のガラス扉が四百万円もするなんて──。
「はい。特注品ですので。お支払いはどうされますか?」
「私……」
そんな大金、持ち合わせているわけがない。澄華は途方に暮れた。
「どうしたんだ、澄華?その怪我……」
朝臣が早足で駆け寄り、傷に気づくと眉をひそめた。「ちょっと目を離しただけなのに……どうしてこんなことに?」
「私は大丈夫。でも、扉を壊してしまって……」
澄華が説明しようとすると、朝臣は彼女をひょいと抱き上げた。「もう話すな。すぐ病院に行くぞ!」
「でも、この扉が──」
「この怪我で、扉のことなんて気にしてる場合か!」
低く叱るその声は、さっきまでの柔らかさを失っていた。
マネージャーが慌てて後を追う。「ですが、夕凪さん、これは400万円も──」
「夕凪家の勘定につけておけ。たかが400万だ。澄華の命に比べれば何でもない」そして、朝臣は澄華に視線を向け、柔らかく言った。「澄華……悪かった。怪我をするくらいなら、今日馬場になんか連れてくるんじゃなかった」
その腕の温もりに、澄華の胸がじんと熱くなる。
──雅彦以外に、自分をここまで気遣ってくれる人がいるなんて。いや、雅彦よりもずっと、心から大切にしてくれる人だ。
第5話
病院。
朝臣は、看護師が澄華の傷を手当てしている様子を、胸が締めつけられるような思いで見つめていた。
「あっ!」
澄華が小さく声を上げると、朝臣の胸もズキリと痛む。
ブーブー……
携帯が鳴り続けているが、朝臣は出ようとしない。
「朝臣さん、携帯……ずっと鳴ってますよ」
「会社からだ。大した用じゃない」
「用事があるなら、行ってください。私は大丈夫ですから」
朝臣は眉をひそめた。「本当に平気か?」
「本当に平気です。早く行ってください」
澄華は努めて明るい笑顔を見せる。朝臣は彼女の携帯を手に取り、自分のLINEを登録した。
「何かあったら、必ず俺に連絡しろ」
朝臣が去ったあと、澄華の頬をようやく涙が伝った。
だが、体の痛みよりも胸の奥の痛みのほうが、ずっと深かった。
先ほどの雅彦の態度を思い出すだけで、胸が締めつけられる。
「久遠さん、隣の病室にいるんだって!婚約者が怪我して入院したらしくて、人がいっぱい集まってるみたいよ」
「そうなの?結婚するんだ。残念ね、この市でまた一人、いい男が減っちゃった」
「いいなぁ、その子。御影家のお嬢様なんだって。家柄も釣り合ってるし……私たちみたいな普通の子には無理よね」
看護師たちの会話を耳にしながら、澄華は壁を見上げた。
その一枚の壁の向こうで、雅彦は詩乃の看病をしている。
けれど、詩乃は何も怪我をしていないはずだ。
──昔は、澄華が怪我をすれば雅彦は必ず真っ先に駆けつけてくれた。
二十歳のとき、澄華はプールに落ちて意識を失った。試験中だった雅彦は、昏睡状態と聞くや試験を放り出し病院へ駆けつけた。
そして澄華を抱きしめ、「澄華が死んだら、俺も生きていけない」と泣き崩れたのだ。
二十三歳のとき、澄華はうっかりブレスレットを壊して雅彦の母に鞭で打たれた。
そのときも雅彦はピアノ室から飛び出し、「打つなら俺にしろ! 澄華を打つな!」と叫び彼女をかばった。
二十五歳、澄華が落ちていた鳥の巣を拾い木に戻そうとした時があった。
危ないからと雅彦が代わりに登り、巣を戻したあとに足を滑らせて怪我をした。その傷は今も残っている。
──それなのに今日は、澄華が怪我をしても、雅彦は一度も顔を見せない。
涙がこみ上げ、とうとう声を上げて泣いてしまう。
看護師が慌てて手を止める。「お嬢さん、痛いですか?じゃあ、もっと優しくしますね」
もう一人の看護師が冗談めかして言った。「わかった、彼氏が帰っちゃって寂しいんでしょ?」
そのとき、病室の外から冷たい声がした。
「澄華、また何を言ってるんだ。前にも言ったよな、外では俺のことを彼氏と呼ぶな」
看護師たちは顔を見合わせる。「いえ、久遠さん、誤解です……」
「言い訳はいらない。全員出て行け。澄華と二人で話がある」
低い声で叱られ、看護師たちは慌てて部屋を出て行った。
病室には澄華と雅彦だけ。針が落ちる音さえ聞こえそうな静けさが広がる。
澄華は涙を拭い、淡々と問う。「何が言いたいの?」
「澄華、大丈夫か?」
雅彦は歩み寄り、彼女の傷を見て心配そうに言った。「今日のことは俺が悪かった。詩乃ばかり気にして、お前を放ってしまった。でもお前もお前だ。詩乃は親しくされるのを嫌がるんだ。もう、こっそり後をつけるのはやめろ、いいな?」
澄華は微笑んだ。「じゃあ、あなたはまだ私がこっそりと馬場について行ったと思ってるのね?」
「違うのか?あんな金持ちの友達がいるはずないだろ。お前の周りに俺以外、誰がいる?」
その一瞬見えた軽蔑の色を、澄華ははっきりと見た。
──雅彦にとって、自分は金持ちの友人など持てるはずのない、ただの使用人なのだ。
「そうね、あなたの言う通りよ。安心して。もう二度と、あなたの婚約者の前には現れないわ」
「澄華は本当にいい子だな」
雅彦は彼女を抱き寄せ、ため息をつく。
「わかってるだろ、家同士の縁談なんだ。俺にはどうにもできない。だからこの先、もし詩乃のためにお前を傷つけても、許してくれないか?」
その言葉に、澄華の失望はさらに深まった。
──家同士の縁談?どうにもできない?
嘘だ。雅彦はむしろ喜んでいる。
「わかったわ。あなたの言う通りね。家のこともあるし、私のところに来るのは良くないわ。早く婚約者のところへ戻ってあげて」
「やっぱりお前は物分かりがいい。恋人にするならお前みたいなのが一番だ」
雅彦は懐から香り高い桜餅の箱を取り出し、澄華に手渡す。「特別に買ってきたんだ。お前、痛いときは甘いものを欲しがるだろ」
澄華は黙って受け取り、「ありがとう」とだけ言った。
「じゃあ、行くよ。あ、そうだ。詩乃が先に俺の家に引っ越したいと言ってる。この数日は来るなよ。お前に会えない日々、俺はきっと寂しくなると思う」
雅彦が去り、扉が閉まる。澄華は携帯を取り出し、朝臣にLINEでメッセージを送った。
【朝臣さん、あなたのこと、いい人だと思います。もし私でよければ、できるだけ早く婚姻届けを出しませんか?】
しばらくして、ようやく返信が届いた。
【明後日は良い日だ。市役所で会おう。】
第6話
澄華が退院して、まず向かったのは――雅彦と人目を忍んで会うために使っていた、あの別荘だった。
そこにはまだ澄華の私物が多く残っており、彼女はそれらをすべて持ち出すつもりだった。
別荘の廊下はやや薄暗く、澄華は自分に関わる物を片っ端からゴミ袋に詰め込んでいった。
帰ろうとしたとき、ふと少し離れた棚の上に置かれたガラスの花瓶が目に留まった。
それは、雅彦が十八歳のとき、自らの手で作ってくれた淡い水色の花瓶だった。底には二文字が刻まれている。
「彦」と「華」だ。
指先でその冷たい表面をなぞると、あの日の少年の顔が鮮やかによみがえった。
「澄華、俺ももう十八歳だ。もうすぐ大学生、立派な大人だぞ!この花瓶、お前にやる!」
「これって、どういうつもり?」
「もちろん、愛の証だ!」
雅彦はこっそりと工房に通い、半月かけてその花瓶を作ったのだと話していた。
「少し不格好かもしれないけど、世界に一つだけだ。俺の気持ちを込めた唯一のものなんだ」
「十八歳で恋愛?私にとっては、まだ子どもみたいなものよ」
「じゃあ待っててくれ。大学を卒業したら、そのとき一緒になろう!」
耳の奥にその声が残ったまま、澄華は花瓶を捨てることができず、胸に抱えて立ち上がった。
そのとき、大きなドアが開き、雅彦と詩乃が腕を組んで入ってきた。後ろには数人の引っ越し業者が続いている。
澄華の姿を見た瞬間、詩乃の笑みがすっと消えた。
「澄華、どうしてここに?」
詩乃は雅彦に問いただそうとしたが、澄華が先に口を開いた。「雅彦さんから、あなたが引っ越してくると聞きましたので……先に来て掃除をしていたんです」
澄華の足元に置かれたゴミ袋に目をやり、詩乃は納得したようにうなずく。
「そうなの?随分と気が利くのね」
だが次の瞬間、詩乃の視線は澄華の腕に抱えられた花瓶に移った。「さっきからそれを持って行こうとしていたみたいだけど……まさか盗もうとしてるんじゃないでしょうね?」
澄華は花瓶を握る手に力を込めた。「盗みじゃありません。これは私のものです」
「あなたの?信じられないわね」
詩乃はあからさまに疑い、一歩踏み出して手を伸ばす。「ちょっと見せて。それ、気に入ったわ」
「これは盗んだものではありません。雅彦さんが――」
澄華が言い終える前に、雅彦が眉をひそめて口を挟んだ。「もういい、澄華。花瓶は置いていって出ていけ」
澄華は一瞬言葉を失った。「本当に……私に置いて行けって言いますか?雅彦さん」
「詩乃が気に入ったんです。置いていってください」
胸の奥に苦味が広がる。澄華は静かにうなずいた。「わかりました。あなたにあげます」
詩乃は冷ややかな笑みを浮かべ、澄華の手から花瓶を取ろうと近づく。だが、わざと力を抜いたように手を滑らせた。
「あっ!」
甲高い音とともに、花瓶は床に落ち、淡い水色のガラスが粉々に砕け散った。
詩乃は甲高い悲鳴を上げて飛び退き、雅彦を振り返った。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「雅彦、この人わざとよ!私に渡すくらいなら壊したほうがましだと思ったのよ!彼女はただの家政婦なのに、主人の物を壊したのよ。雅彦、ちゃんと罰を与えて」
澄華は、自分は家政婦ではないと言いかけた。だが、その前に雅彦が口を開いた。
「どう罰するつもりだ?」
「このガラスの破片の上を歩かせるのよ」
雅彦は眉をひそめる。「詩乃……」
「やらないの?あなた、私の言うことは何でも聞くって言ったわよね?私は御影家の娘で、未来の久遠家の妻よ。それなのに家政婦ひとり罰せられないの?どうせ、ガラスに刺されるのは初めてじゃないでしょう?」
雅彦は視線を上げ、澄華を見た。
視線が交わり、長い沈黙のあと、ようやく口を開く。
「澄華、自分で歩くか、それとも誰かに手伝わせるか、どっちだ?」
澄華ははっと顔を上げ、血の気が引いていくのを感じた。「あなた、自分が何を言っているかわかっているの?」
「詩乃が歩けと言ってる」雅彦の声は、まるで他人事のように静かだった。「自分で歩くか、俺がボディガードを呼ぶか。どっちにしても、今日は逃げられない」
澄華は雅彦を見つめ、薄く笑った。「本当に……そうするのね?」
雅彦は答えず、ボディガードを呼び寄せた。
「いいわ。自分で歩く」
指先が掌に食い込み、澄華は深く息を吸うと、静かに腰をかがめ、スリッパを脱いだ。
第7話
次の瞬間、澄華はもう裸足でガラスの破片を踏みしめていた。
鋭い痛みが一気に襲いかかり、まるで無数の針が足裏に突き刺さっているかのようだった。
歯を食いしばりながら、一歩、また一歩と前へ進む。踏み出すたびにガラスはさらに深く食い込み、やがて鮮やかな赤が床一面に広がっていった。
十八歳の少年が託したあの想いが、三十歳になった自分を刺す刃に変わる日が来るなんて――澄華は夢にも思わなかった。
雅彦の隣に立つ詩乃は、澄華の苦悶を眺めながら、口元に得意げな笑みを浮かべる。
たかが家政婦の娘のくせに、私と男を取り合おうなんて……身の程知らずね。
その痛ましい光景に、雅彦の拳は固く握られ、指先は白く変色していた。喉仏が小さく動き、今にも止めようと口を開きかけた、そのとき――
澄華はもうガラスの上を歩き終えていた。「これで終わり。雅彦、もうあなたに借りはない」
そう言い残し、痛みに耐えながらも振り返らず歩き去る。
数歩進んだところで、背後から詩乃の声が響いた。
「そういえば雅彦、私たちって明日、市役所に婚姻届を出しに行くんだったわよね?」
「ああ」
雅彦の返事は、押し殺したように低かった。
――玄関の外。
澄華の足が一瞬止まる。唇の端がわずかに上がり、ふっと苦笑いがこぼれた。
雅彦と詩乃は、すでに結婚の手続きまで進んでいる。それなのに、雅彦はまだ自分を欺き続けていた――。
可笑しい。本当に、呆れるほど可笑しい。
壁にもたれ、しばらく立ち尽くす。足裏から、じくじくとした痛みが絶え間なくせり上がってくる。
そのとき、ポケットの中の携帯が振動した。
雅彦からのメッセージだ。
【澄華、ご苦労。詩乃は裕福な家のお嬢さんで、甘やかされて育ったせいか少しわがままなんだ。気にしないでくれ。最高の傷薬と消炎剤を買わせたから、すぐに届けさせる。これから少しずつ償っていくから。】
画面を見つめるうちに、澄華の頬を涙がぽつぽつと伝い落ちていった。
――まず傷つけ、それから慰める。
それが雅彦のいつものやり口。
だが今回は、もうこれで終わり。
二度と、雅彦に自分を傷つけさせはしない。
澄華は家で一日休養し、翌朝早く市役所へ向かった。
「ごめん、遅くなった」
目の前に現れた朝臣は、グレーのスーツに身を包み、磨き上げられた革靴を履いていた。頭のてっぺんから爪先まで隙なく整えている。
ただ、額ににじむ数滴の汗が、ここまで走ってきたことを物語っていた。
「大丈夫、そんなに待ってないわ。中に入りましょう、外は暑いし」
澄華が笑みを向けると、朝臣は背後から一束のバラを取り出し、差し出した。
「これ、君に。結婚するっていうのに、まだ一度も花を贈ってなかったから」
ふわりと広がる爽やかな香り。澄華は花束を抱える朝臣を見つめ、胸の奥がかすかに震えた。
唇を結び、鼻の奥がつんとする。
「朝臣さん、本当に……私でいいの?」
「『さん』は要らない。朝臣って呼んでくれ」そう言って花を澄華の手に押し込み、静かに答えた。「結婚することは、もうずっと前から決めてる」
「わかった。じゃあ、行きましょう」
――賭けてみるだけだ。
澄華は足を引きずりながら歩き出す。おとといの傷はまだ癒えていない。
朝臣はその様子に眉を寄せながらも、澄華と並んで市役所へ入った。
「はい、こちらは結婚証明書です。おめでとうございます」
証明書を受け取った瞬間、澄華の胸は大きく高鳴った。
――私、結婚したの?しかも、知り合ってまだ三日にも満たない男性と?
朝臣がどんな人なのか、家族構成も、仕事も、住所さえも、何も知らない。
「ちょっと待っててくれ。すぐ戻るから」
入口に差しかかったところで、朝臣の視線が向かいの宝飾店に止まった。「今日は暑いし、ここで座って待ってて」
朝臣は足早に去っていった。澄華は何をしに行ったのかわからないまま、手元の結婚証明書に目を落とし、それをそっと大事にしまい込んだ。
第8話
「まったくもう、気が狂いそうだ!雅彦、この家政婦、やっぱり頭おかしいんじゃないの?」
耳元で女の甲高い叫びが響き、澄華は顔を上げた。まさか、本当にこんな場所で鉢合わせするとは――。
雅彦の表情は険しくなる。「澄華……どうして今日、俺がここで婚姻届を出すって知ってたんだ?」
「黙ってたのに、よくもまあ追いかけて来れたもんね。あんた、まさか雅彦に追跡装置でも仕込んだの?」
「どこへ行っても付いて来るなんて、怖すぎよ!」
「運の悪いこと。雅彦、詩乃と先に中へ入りなさい。私たちで彼女を足止めするから」
数人が澄華の前に立ちはだかり、問答無用で彼女を指さし、口汚く罵る。
「澄華、まさかとは思うが、久遠家の奥様になろうなんて夢見てないだろうな?自分の立場がわかってるのか?お前が雅彦にふさわしいとでも?」
詩乃はあからさまな嫌悪の眼差しを向け、雅彦は澄華を横へ押しやりながら口を開く。「澄華、もうやめてくれ。今日は帰ってくれないか?後でちゃんと説明する。これは一時的なものだ。最後には必ずお前と結婚するって約束するから……」
「雅彦、あなたが信じようが信じまいが、私は今日ここに来たのはあなたの為じゃない」
澄華は雅彦の手を振り払い、背後から嘲るような笑い声が上がる。
「雅彦のためじゃない?嘘も大概にしなさいよ。じゃあ何、あんたが結婚でもしに来たってわけ?」
澄華は表情ひとつ変えず、雅彦を見ることもなく答える。「そうよ。結婚しに来たの」
バッグから結婚証明書を取り出そうとした瞬間、雅彦の顔色がさっと変わった。「いい加減にしろ。まだわからないのか?澄華、お前はただの家政婦の娘だぞ。俺が本気でお前と結婚すると思ったのか?」
結婚証明書を持つ手が止まり、澄華は唇を噛んで顔を上げる。「やっと本音を言ってくれたのね」
「あんた、しつこいわね。私と雅彦の手続きを邪魔しないで、さっさと消えてちょうだい」
詩乃が堪えきれず声を荒らげ、雅彦は慌てて彼女をなだめる。
「大丈夫だ、詩乃。俺が結婚したいのはお前だけだ。澄華が誰かと結婚したって、俺は気にしない」
「そう?」
澄華はバッグから結婚証明書を取り出し、人目にさらすように高く掲げた。
「じゃあ、皆さんのご希望どおり、私は結婚しました。これからは雅彦、そして未来の久遠家の奥様、あなたを煩わせることはありません。お二人の永遠の幸せと、早くお子さんが授かることをお祈りします」
その証明書を目にした途端、雅彦の顔から血の気が引いた。
「澄華……お前……」
「嘘でしょ?あり得ない!」
詩乃は鼻で笑った。「相手は誰?まさか雅彦を怒らせたくて、適当に誰か捕まえただけじゃないでしょうね?」
雅彦の友人たちもつられて笑う。彼らにとって澄華は、気の弱い家政婦の娘。そんな彼女が急に結婚相手を見つけるなんて、信じがたい話だった。
だが、誰かが澄華の手から結婚証明書を奪い、中身を見た瞬間、信じられないといった顔で声を上げた。
「本物だ。市役所のハンコまである。相手は……夕凪家の跡取り、朝臣じゃないか!」
「そんなはずない、絶対に偽物だ!」
詩乃が証明書をひったくり、嘲るように言う。「証明書を偽造するにしても、もっと普通の人を選びなさいよ。よりによって朝臣を利用するなんて。あんた、朝臣が誰だか知ってるの?あんたみたいなのが接触できる相手じゃないのよ!」
雅彦はほっと息をついた。――やはり偽物だ、と。
「澄華、そんなふうに自分を貶める必要はない……」
詩乃は証明書を地面に放り捨てた。「そうよ。結婚指輪すらないくせに、よく結婚したなんて言えるわね。笑わせるわ」
そして踏みつけようと足を上げたその瞬間、近くから冷ややかな男の声が響き渡った。
「その結婚証明書に指一本でも触れたら――跡形なく潰してやるぞ」