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月明かりの果てに
夏目汐(なつめ しお)の夫は、東都の法曹界で「無敗将軍」と称えられる長坂研一(ながさか けんいち)である。 彼らは世間から見れば理想の夫...
Chương (1)
第1章
夏目汐(なつめ しお)の夫は、東都の法曹界で「無敗将軍」と称えられる長坂研一(ながさか けんいち)である。
彼らは世間から見れば理想の夫婦だった。
しかし、彼女を自らの手で刑務所へ送り込んだのも、また彼であった。
理由はただ一つ、彼の初恋の人である篠田裕美(しのだ ゆみ)が激情により過失致死、つまり汐の父を殺してしまったからだ。
本来なら彼女の正義を貫くべき夫は、法廷で彼女の対峙する側に座り、彼女が殺人に関与した証拠を提出したのである。
三年間の刑務所生活で、彼女はありとあらゆる苦しみを味わった。
彼が残したのは、ただ一言の「ごめん」、そして「待っている」という言葉だけだった。
第1話
夏目汐(なつめ しお)の夫は、東都の法曹界で「無敗将軍」と称えられる長坂研一(ながさか けんいち)である。
彼らは世間から見れば理想の夫婦だった。
しかし、彼女を自らの手で刑務所へ送り込んだのも、また彼であった。
理由はただ一つ、彼の初恋の人である篠田裕美(しのだ ゆみ)が激情により過失致死、つまり汐の父を殺してしまったからだ。
本来なら彼女の正義を貫くべき夫は、法廷で彼女の対峙する側に座り、彼女が殺人に関与した証拠を提出したのである。
三年間の刑務所生活で、彼女はありとあらゆる苦しみを味わった。
彼が残したのは、ただ一言の「ごめん」、そして「待っている」という言葉だけだった。
「3527番、出所後はまっとうに生きなさい」
刑務所の重い鉄の門がゆっくりと開いた。
路肩には黒いセダンが待ち構えている。
しかし、車から降りてきたのは汐の夫ではなく、彼の助手だった。
「奥さん、長坂さんはちょっと用事があって。俺がお迎えに来ました」
汐の曇った瞳には、深い疲れが刻まれていた。彼女は無反応のまま、車の後部座席へと歩みを進めた。
「あ、奥さん、ちょっと待ってください」
助手は彼女を呼び止めると、慌てて助手席から柚の葉を取り出し、申し訳なさそうな眼差しで言った。
「長坂さんが言ってました、柚の葉で厄払いを、とのことです。奥さん、失礼します」
そう言うと、手にした柚の葉で汐の身体をはたいた。
汐の瞳には、嘲笑の色が満ちていた。
「私が厄介だから?私を自らの手で刑務所に送り込んだのが誰だったか、彼は忘れてしまったの?」
服役中の三年間、彼女はあの日のことを決して忘れられなかった――
裕美が精神病を発症し、ガソリン入りの缶を手に彼女の家から飛び出し、彼女を焼き殺そうとした。
しかし、誤って彼女の父を焼き殺してしまったのだ。
彼女はすべてを研一に打ち明けた。
だが、裁判の当日、彼は彼女の敵側に立った。
汐の弁護士が分厚い証拠書類を手に滔々と弁論を展開し、彼女のために必死に反論している最中、研一は冷静な眼差しで、静かに一つの封筒を取り出した。
「皆さんがご存じないことをお話します。私にはもう一つの身分があります。それは夏目汐の夫であるということです。
私の知る限り、夏目汐の父は彼女が幼少期に彼女にわいせつ行為を働き、更に成人後には強姦未遂事件を起こしました。封筒内の写真がその証拠です。これらは全て、彼女に犯罪の動機と意図があったことを証明するものです」
場内は瞬時に騒然となった。
汐の弁護士でさえ、思わず彼女へ視線を向けるのを禁じ得なかった。
汐は大きく瞳を見開いた。まるで頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
耳鳴りのように、傍聴席からの指さしも見えなければ、噂話の声も聞こえなかった。
心底にしまい込んだ傷痕を、最も愛する者自らの手で暴露されるとは、夢にも思わなかった――
その後の15分の審理は、研一の証拠とその弁護により、彼女を「殺人犯」として絶対的な烙印を押す結果となった。
審理終了、裁判官が槌を打ち下ろす音は、まるで彼女の頭蓋骨を直撃したかのようだった。
彼女は崩れ落ちそうな声で問うた。「どうして?」
研一の目の中に、一瞬だけ葛藤が走った。
「裕美は俺と別れたことでバーで暴行され、精神病がより重篤になってしまった。俺は彼女に、償いとして五つの願いを叶えると約束した……
彼女は刑務所に行きたくないと言った。俺にはどうすることもできなかった……汐、すまない。だが、安心してくれ。どんなに時間がかかっても、俺は必ずお前が出てくるのを待つ!」
彼の言葉を聞き、汐は大声で笑い出した。
笑い続けるうちに、涙が口元に流れ込み、まるで胆が喉元で破裂したかのような言いようのない苦さだった。
彼女は研一を七年間も片想いしてきた。
彼が裕美と別れ、バーでひどく酔っ払っていた時、常に彼のそばに寄り添い、無事に家まで送り届けたのは彼女だった。
仕事に没頭し、食事を忘れがちな彼のために、彼の好みに合った食事を事前に準備したのもいつも彼女だった。
彼女はそんなにも長く静かに待ち続けて、ようやく「汐、結婚してくれ」という言葉を紡ぎ出してもらえたのだ。
結婚後、彼も彼女を大切に扱ってくれた。
彼女が一目見たものは、何でもかんでも買い与えてくれた。
彼女の好物は、すべて覚えていてくれた。
彼女はついに自分の努力が報われたのだと思っていた。
だが、裕美の一言「刑務所には入りたくない」で、研一は迷うことなく、彼女に罪を被せることを選んだ。
さらには、彼女が心底に埋め込み誰にも知られたくなかった痛みを、生々しくえぐり取り、血みどろの状態でみんなに晒すことさえ厭わなかった。
「汐、俺がお前の弁護を担当する。故意による殺人ではないと立証する。だから、自ら進んで罪を認め、刑務所で模範的に振舞い、減刑を勝ち取ってくれ。
俺を信じてくれ。俺の妻は永遠にお前だけ、夏目汐だ」
彼は、彼に信じろと言うのか?
彼女は顔中を涙で濡らし、目の前の男を笑いながら見つめた……
「奥さん、着きました」
記憶はここでぷつりと途切れた。
汐は平静に、うずくように痛む目をまばたきさせた。
彼女はどれほど涙を流していなかっただろうか?
彼女の涙は、とっくに刑務所で完全に枯れ果てていた。
医者によれば、彼女はもう二度と涙も流せないという。
汐は目の前に見知らぬ街並みと、路肩に並ぶ高級レストランを静かに見つめ、沈黙した。
突然、車のドアが外から開かれた。
研一が満面の笑みを浮かべて現れた。
「汐、早く車から降りて!裕美がお前のために歓迎会を準備してくれたんだ。お前を待ってるんだ!」
第2話
研一は、彼女の記憶の中のままの姿だった。
目の縁に春風のような温かみをたたえ、いっそう自信に満ちて見える。
汐のまつげが微かに震えた。彼の長い指が自分の肩を抱いていた。
押しのけようとするより先に、向こうから声がかかった。
「汐さん、いらっしゃったんですね!」
裕美の声が響いた瞬間、肩を抱いていたその手がさっと離れた。
汐は返事をしなかった。空気が張り詰める。
裕美は目を赤くして、進み出て自ら彼女の手を取った。
「汐さん、以前のことは全部私が悪かったんです。心から謝罪したいんです」
研一は彼女が涙を浮かべるのを見て、思わず口を開いた。
「裕美はお前が出所を祝おうと、朝早くからレストラン選びや準備で忙しくて、まだ食事もとっていない。本当に謝りたいんだ」
二人が話す様子は、まるで汐が情理をわきまえないと非難しているようだった。
誰一人として、でっち上げの罪を着せられ、殺人犯の汚名を着せられ、刑務所で三年間を彼女がどう過ごしてきたかには、気を留めようとしない。
汐が口を開こうとした瞬間、研一にレストランの中へと引っ張り込まれた。
中に入り切らないうちに、すでに汐に関する噂話が聞こえてきた。
「研一くんと裕美ちゃんの顔が立つからってんじゃなかったら、こんなとこで食事なんかしないよ。人殺しの出所祝いだなんて、何祝うの?人殺したこと?」
「そうよ!前から研一くんには言ってたんだから。田舎育ちのくせに、どういう育ちか分かったもんじゃない?そんな背景じゃ、ろくでもないに決まってるわ!」
「ろくでもないって言えば、聞いた話なんだけど、彼女が父を殺した理由って、父にレイプされそうになったかららしいよ!子供の頃から猥褻されてて、大人になって本格的にやられそうになって、でもできなかったんだって!」
「マジで!そんな生い立ちなのに、研一くんがよく惚れたね?裕美ちゃんと比べたら、違いすぎるでしょう?あの時、二人がうまくいってたら、研一くんの両親が承知しさえすれば、子供だってできてたかもしれないのに!」
それらの言葉を聞いて、研一はたちまち表情を硬くした。
反射的に汐をぎゅっと抱き寄せ、手のひらで彼女の耳をしっかりと覆った。
これは無意識のような動作で、研一の脳裏に深く刻み込まれていた。
だが、慣れ親しんだ震えは来ず、代わりに枯れ枝のように細い手が彼をそっと押しのけた。
研一は当惑した様子で汐を見た。
汐には彼の考えがわかっていた。
幼少期、父から猥褻されたことは、ずっと汐の心の中に隠された古傷だった。
苦しんでそのことを思い出すたび、研一はいつもこの方法で彼女のそばに寄り添い、慰めてきた。
彼は鎧のように、彼女の傷だらけの心を小心に守ってきた。
研一は、自分が彼女を守ると言い、二度と誰にも彼女を傷つけさせないと言った。
だが、あの日まで、彼女は気づかなかった。その鎧が全身に刺々しい針を備え、毒に塗れていて、彼女を完膚なきまでに刺し、息つく暇も与えなかったのだと。
受けるべき白い目や嫌悪は、とっくに受け終えていた。
汐はもう、張本人が投げてよこす鎧など必要としていなかった。
研一の胸は突然締め付けられ、言いようのない感覚が、彼を抑圧して苦しめた。
彼はすぐにいら立った感情を部屋の中の連中のせいにした。
次の瞬間、彼は足で勢いよくドアを蹴り開け、中での噂話はぱたりと止んだ。
彼は陰鬱な表情で、さっきまで勝手気ままに汐の噂話をしていた連中を見た。
「汐は俺の妻だ。彼女が経験したことは全て、彼女の望んだことではない。彼女に何か言いたいことがあるなら、俺に言え。来たくないなら無理に来るな。面と向かってはいい顔をして、陰でこそこそ言うな!」
座っていた者たちは顔を見合わせ、声をひそめた。
裕美は研一のその表情を見て、目の奥に一瞬の嫉妬と恨みを走らせた。
だが次の瞬間、またもや屈辱的な様子を見せて、酒を手に汐の前に歩み出た。
彼女はグラスの酒を一気に飲み干し、もう一杯を汐の前に差し出した。
「全部私が悪いんです。私はただみんなに楽しく過ごしてほしかっただけです。汐さん、ここで正式に謝罪します。許してくれませんか?」
第3話
汐は冷たくて目の前の酒を押しのけた。
すぐ傍で誰かが憤慨した。
「あの女、何あんなに偉そうにしてんの?裕美ちゃんがここまで頭下げて謝ってるっていうのに、これ以上どうしろって言うのよ!」
「そうよ、今日来てるのはみんな、裕美ちゃんが侮辱されるのを見るためじゃないわ。研一って何考えてるの?裕美ちゃんが自分の評判も顧みずに三年も付き合ってあげたのに、ありがたさもわからないんだから」
研一は顎を引き締め、向かい側で悔しそうにしている裕美を見て、それから隣の汐を見た。
最終的には、その長い指が裕美が空中に差し出していたグラスを受け取り、汐の目の前に持ってきた。
「汐、お利口に、みんなの前で恥をかかせないでくれ」
汐は心底、笑いが止まらなかった。
恥?
誰の恥だ?裕美の?
彼女がまったく手を出そうとしないのを見て、研一は真っ黒な瞳をし、彼女の耳もとに寄り添うようにして、そっと語りかけた。
「お前はもう随分、お婆さんに会いに行ってないだろう?汐、言うことを聞いてくれ、裕美が立場なくなるような真似はよして。この酒を飲めば、お婆さんに会いに連れて行ってやる」
お婆さん?!
汐の目にようやく動揺が走った。
目の前で揺れる酒を見て、喉にはもう鉄臭い味が広がっているような気がした。
迷わず、グラスを奪い取ると一気にあおった。
場の空気はこれで和らぐはずだった。
しかし、連中は突然騒ぎ出し、順番にグラスを手にしながら彼女に酒を勧めてきた。
汐は無意識に研一の方を見た。
彼は軽くうなずき、全部飲み干すよう合図した。
テーブルの下で、汐の手は震えながらズボンを強く握りしめていた。
指先は力なく白く、顔色も尋常ではない青白さだった。
しかし、彼女のこれらの変化に、研一は終始気づかなかった。
彼は裕美にエビを剥いて食べさせるのに忙しかった。
裕美の方は時折彼女を見て、目の中にはからかいの笑みを浮かべていた。
一杯、二杯、三杯……
汐は自分が何杯酒を飲まされたのかわからなかった。
胃の中が焼けつくように痛く、痛みで額には大量の汗がにじんでいた。
「汐さん、私ももう一杯!」裕美は笑いながら酒を差し出してきた。
しかし、彼女の喉が詰まり、一口の血を瞬間的に吐き出した。
「きゃっ!!!」
研一は即座に裕美の前に立ちはだかり、血は彼の白いワイシャツに飛び散った。
汐は両目を固く閉じ、制御不能に後ろに倒れこんだ。
「汐!」
意識が戻った時、汐はもう病院に運び込まれていた。
まぶしい灯の光がまぶたの上を照らす。
研一が傍にどれだけ座っていたのかわからない。
彼女が意識を回復したのを見て、彼の目は冷たさでいっぱいだった。
「酒を飲まないためなら、随分と演技したな。
汐、いつからそんなに計算高く、そんなに演技がうまくなったんだ?」
汐の胸は突然、締め付けられた。
「私が仮病を使っていると思う?」
これは彼らが再会して以来、汐が口にした最初の言葉だった。
しかし、この言葉は研一の眉を強く曇らせた。
記憶の中の柔らかく美しく澄んだ声とはかけ離れている。
眼前で大きく痩せ細った汐を見て、彼はしばし沈黙した。
さっき彼女を抱き上げた時、彼女がどうしてこんなに軽いのか気づいた。
軽く、まるで重みが感じられない。
内心の罪悪感が再び湧き上がってきた。
研一は深く息をつくと、再び彼女の傍に座った。
彼の温かい手のひらが汐の手の甲に触れ、そこにある冷たさを追い払おうとした。
「汐、裕美への五つの約束、俺はもう三つ果たした、あと二つだ。彼女への約束を全部果たせば、俺は完全に過去を振り切れる。その時は、お前が東都にいたくなければ、俺たちは海外に行く、お前が花いっぱいの場所に住みたいと言ったから、俺は農園を買い取り、お前のために中いっぱいに花を植える……」
彼は喜びに満ちて描いたが、病床に横たわる人の目が虚ろで蒼白であることに気づかなかった。
「お婆さんは、どこにいるの?」
汐が口を開いて彼の幻想を打ち破ると、研一の顔には少し驚きの色が浮かんだ。
彼はすぐに反応し、口を開こうとした瞬間、ドアが突然強く押し開かれた。
「長坂さん、裕美ちゃんの発作がまた出ました、早く見に来てください!」
手の甲の上の手のひらが素早く引き離され、研一は急いで部屋を離れ、振り返って後の女性を見ることさえしなかった。
汐は彼の去っていく姿を眺め、嘲笑した。
第4話
部屋のドアが再び開き、ナース服を着た女性が念入り周囲を見回してから、書類を彼女の手に押し込んだ。
「夏目さん、誰か恨みでも買ったんですか?こんなにひどい重傷があるのに、上からはあの方に見せるように偽の検査報告書を作るよう指示されてるんですよ。
これがあなたの本当の報告書です。気管に古傷がありますし、胃の中にも異物が残留しています。手術で取り出して検査する必要があります」
看護師はそう言うと、すぐに去っていった。
汐は真っ白な壁を見つめ、ぼんやりしていた。
気管の傷は、刑務所に着いたばかりの頃、集団で無理やり異物混入の食事を飲み込まされた時に負ったものだ。
あの日、彼女はたくさんの血を流した。
彼女は昔のことを思い出した。自分のカバンを奪われ、脚に傷を負ったあの時のこと。
彼女の脚の傷口を見て、研一の目には心痛みがあふれていた。
彼は一晩中、彼女をぎゅっと抱きしめ、謝り続けた。
あの日以来、彼は毎日、わざわざ反対方向から車を走らせ、彼女を仕事の後に迎えに来てくれた。
片道40分の道のり、春から冬まで、一度も不平を言わなかった。
それが今では……
汐は検査結果を嘲笑うように一瞥した。
バカだったのは自分だ。
男の口にする「愛」が一生続くものだと、本気で信じていたなんて。
汐は手術が必要だった。しかし手術費用を支払うお金がなく、仕方なく研一に電話した。
だって、以前仕事で得たお金は、全てまだ研一が握っていたから。
しかし、研一は「手術」という言葉を聞くや、呆れたように笑った。
「汐、まだ演じてるつもり?酒を数杯飲んだだけで、手術だなんて。俺の方だっててんてこ舞いなんだよ。これ以上、迷惑をかけないでくれ!」
電話の向こうではざわついた音がし、間もなく、先ほどまで自分を厳しく叱責していた同じ男が、優しい口調で裕美を安心させている声が聞こえてきた。「裕美、生理中だろう?これは食べちゃダメだよ。いい子だから、言うこと聞いて」
たとえ研一に完全に愛想を尽かしていたとしても、この瞬間、汐の心は紐でぎゅっと縛り上げられたように、息が詰まるような鈍痛が走った。
泣くことさえできず、彼女はただ嗤笑うしかなかった。
笑いに笑って、もう笑う気力も尽き果てるまで。
手術費用は、元獄友の藤沢恵(ふじさわ めぐみ)が支払ってくれた。
恵は彼女の見すぼらしい姿を見て、タバコに火をつけ、彼女の口にくわえさせた。
しばらくして、哀れんで怒るような口調で言った。「あなたってば、マジでどうかしてるよ?そんな男、出所してまでわざわざ探すことあんの?」
煙が輪をくぐりながら漂う中、汐の濁った瞳がじっと見つめる。
長い時間をかけて、彼女はそっと口元をゆるめた。
「私がまだ彼を愛していると思う?」
「そうじゃないの?私があなただったら、とっくにあのカス男とクソ女をぶん殴るわ!」
汐は目を細めて笑った。
「それだけじゃ、足りないでしょう?」
研一は彼女の人生をめちゃくちゃにし、世間から嫌われ、蔑まれるような立場に追いやってしまった。
それなのに、彼は相変わらずの『長坂家の御曹司』で、『長坂弁護士』だ。
裕美もこの三年で、彼と肩を並べる女性弁護士になった。
自分たちの血肉の上に立って、賞賛を浴びる存在になった二人のことを、果たして誰が知っているだろうか。
彼女は自分が受けたこれらの屈辱を決して忘れない。研一と裕美を這い蹲る泥の様な存在に引きずり下ろしてやる。
「恵、戸籍課の人、知り合いだったよね?」
恵は驚いたようにこっくりと頷いた。
「恵、もう一つだけお願い。一月後、私に関する全ての情報、夏目汐という存在を抹消してほしいの……」
汐が本当に手術を受けたことを知り、研一は真っ先に病室に駆けつけた。
彼はわざわざ専門家を手配し、汐の胃から取り出された腫瘍の分析をさせた。
食事の世話から身の回りのケアまで、彼女をお姫様のように寵愛した。
検査結果が良性であると分かるまで。
彼は安堵のあまり、汐をぎゅっと抱きしめた。
汐はその時、初めて彼の震える体に気づいた。
滑稽に思え、思わず嘲笑の言葉が口をついた。「私が手術するって信じてなかったくせに、今さらそんなに怖がるの?」
研一は彼女が怒っていることを理解していた。
彼は彼女の両手を掴み、自らの薄い唇に当てながら、心配と懊悩の入り混じった眼差しで見た。
「汐、偽の報告書を作った奴はもう突き止めた。あれは裕美の友達で、裕美の憤りを晴らしてやろうとしてやった馬鹿げた行為なんだ。もうきちんと罰してやったよ、お前の代わりに恨みを晴らした。これで――」
汐は忽然と顔を上げ、彼と見つめ合った。
「どう罰したのか、教えてくれない?」
第5話
研一は言いかけた言葉を飲み込んだ。複雑な表情が一瞬、瞳にかすんだ。
「今回の入院費用は、彼女が三倍負担する。栄養費と介護費もお前の口座に振り込まれる。家族にも警告したから、一週間は自宅謹慎だ」
「ふっ」汐は口元をゆがめて笑った。
研一は顎を引き締め、彼女から目をそらす。
「彼女はどうしても裕美の親友だ。重く罰しすぎると、裕美が耐えられない」
「……」
裕美、裕美。研一の口から出るのは篠田裕美ばかり。
汐は笑いで体を震わせた。狂ったように叫びたかった。
だが、声は出ない。なぜなら喉が潰れていた。
絶望的に指が肉に食い込んだ。
研一は言い訳をしようとしたが、どこから話せばいいか分からない様子だった。
しばらくして、何かを思いついたように口を開いた。「汐、信じてくれ。あと二つだけ願いを叶えれば、俺たちは――」
「研一、疲れた。休みたい」彼女は遮った。
平静な瞳の奥で、何かが渦巻き、叫び続けている。
ドアが静かに閉まるまで、汐はひたすら目を閉じていた。
研一を追いかけるこの道で、彼女はあらゆる困難を乗り越えてきた。
結婚さえすれば、自分は世界一幸せな女になれると思っていた。
でも現実は教えてくれた。自分のものではないものに、決して手を伸ばすなと。
退院の日、研一は彼女を家に連れて帰った。
三年ぶりに訪れたその家に、汐は、まるでよそ事のように庭を眺めた。
庭には彼女が植えた野菜や果物がなくなり、真紅の鮮やかなバラに変わっていた。
玄関では、彼女の昔のスリッパが見つからない。
代わりに、ピンクのバラが描かれた新しいスリッパが置いてあった。
研一は硬い表情でそれを蹴りよせ、客用のスリッパを出して彼女に渡した。
そして、気まずそうに彼女を見て、「お前のスリッパは古いから替えたんだ。新しいのはまだ買ってなくて」と言った。
汐はうつむいて答えない。
古い靴は古い人。研一が替えたかったのは、スリッパだけじゃないはずだ。
リビングのソファには、女性の衣服が乱雑に置いてあった。
彼はまた説明した。「裕美が二日前に発作を起こしてね。突然で、友達がここに連れてきたんだ。でも、心配しないで、彼女は客室に泊まったんだから!」
誤解を恐れてか、研一はわざわざ裕美が使った客室に彼女を連れて行った。
汐が無関心な様子を見せると、彼は慌てた。
彼は汐を抱きしめ、心中的な不安を振り払おうとした。
「汐、本当に会いたかった。刑務所にいる時、お前は会うのを拒んだ。毎晩眠れなくて、お前に責められる夢を見た。俺は――」
「昔の話はもうしたくない」
汐は強引に彼の腕を振りほどき、遮った。
研一は指を微かに震わせ、無意識に彼女の手を握りしめた。「そうだな、もう過去のことだ……」
汐は冷たく笑った。お婆さんのことを聞こうとした時、ドアベルが鳴った。
裕美は慣れた様子で荷物を置き、研一が汐を抱いているのを見て、嫉妬らしい感情を隠せていないようだった。
「研一、一緒にデパートに行って、汐さんに着替えを何枚か買ってあげようよ」彼女は親しげに汐の腕を取った。
研一は何かを思い出したように汐を見た。
「お前の昔の服はしまいっぱなしだったから、裕美が着られないと思って処分しちゃったんだ」
処分?
汐は冷たく裕美の手を振り払った。
裕美は彼女が発狂するのを待っているようだったが、汐はただ淡々と「わかった」と答えた。
出発間際、汐はトイレに行くと口実して、こっそりと研一の書斎と裕美の寝室に潜り込んだ。
小型カメラを慎重に隠した。
デパートに着くと、裕美は理由をつけて研一を離れさせ、彼女を壁に追い詰めた。
裕美は悪意に満ちた目で汐を見た。
「夏目汐、あなたってほんとしぶといわね。それでも死なないなんて!でもいいのよ。研一が私とあなた、どちらを選ぶか、はっきりさせてあげる!」
そう言うと、裕美は手を伸ばして煙感知器を作動させた。
デパート内は瞬く間にパニックに陥った。
悲鳴と逃げ惑う声、そして人混みはたちまち二人を引き離した。
研一は押しのけられている裕美を見ると、考えずに駆け寄った。
しかし、汐を探そうとした時、裕美に腕をしっかり掴まれた。
彼女は涙で顔を濡らし、慌てた様子で研一を見つめた。「研一、私、怖いよ!」
第6話
研一は眉をひそめ、しかし躊躇いはしなかった。
彼は目の前の女――裕美を強く抱き上げると、安全な場所へと移動した。
汐は、彼の背中が自分の視界から消えていくのをただ見つめていた。
彼の名前を呼び止め、「私がここにいる」と伝えることだってできたはずなのに。
それでも、彼女は最後まで口を開かなかった。
裕美は彼女に見せたかったのだ。自分と彼女、研一が結局どちらを選ぶのかを。
裕美のことを滑稽に思った。
その選択は、とっくに三年前に、研一自身が下していた。今更、試すまでもないことだった。
後ろの人たちに激しく押され、強く地面に叩きつけられるように転倒した。
命だけが大事な人々は、足元に人がいようが物があろうが構わず、彼女の肩を蹴り上げながら進んでいく。
汐は痛さに悲鳴をあげた。次は頭、足、指――もう何がなんだか判別できない。
薄くなった空気に顔を赤らめ、息を吐くこともできなかった。
胃が攣るような痛みが神経を麻痺させていった。
眼前が真っ暗になるまで、そして完全に気を失った。
再び目を覚ました時、そこはまた病院だった。
研一がタバコを手に、窓に向かって煙を吐いていた。
煙にむせび、汐は激しく咳き込んだ。
彼は彼女に詰問されるのを恐れているように慌ててタバコの火を指で潰した。
研一が突然、口を開いた。「汐、あの時はお前を迎えに戻るつもりだった。だが、裕美が突然頭痛を訴えてしまって。彼女は元々体が弱いから、大事を恐れて一旦彼女を外に出してから、すぐに戻ってお前を迎えに行くつもりだったんだ。だけど――」
「わかってる」彼女は口元を動かした。
どうしてわからないことがあろうか。
本当に説明が必要な人は、裕美の方だ。
彼が既に十分に彼女を気にかけていること、彼女が二度も三度も自分に証明する必要などないことを。
彼女のそんな態度に、研一が長い時間かけて準備してきた言い訳は、喉元で詰まってしまった。
「わかっているのか?」
「ええ、わかってる」
彼女は確信に満ちた様子だった。
研一の顔色がたちまち沈んだ。
どうしようもない怒りが彼の心の中に横たわり、上がることも下がることもできない。
「お婆さんに会いたい」
研一はようやく、彼女からの要求を聞いた。
だが、それがただそれだけの些細なことだとは思ってもみなかった。
彼は少し考えてから口を開いた。「汐、お婆さんは二日前に心臓の調子が悪かった。だが、心配するな。既に検査を手配した。お前の具合が良くなったら、すぐに会えるように手配する」
彼女は肋骨を傷めており、息をするだけでさえ激しい痛みを伴っていた。
お婆さんの病気の話を聞いて、汐の心は突然強く締め付けられた。
「心配するな、ただの軽い症状だ。心療内科の専門家にも尋ねてみたんだ。
お前が立ち上がれるようになったら、すぐに連れて行って会わせる」
埋め合わせをするかのように、研一は汐のそばを離れずに見守った。
だが、翌日の夜、彼のポケットの中のスマホが鳴り響いた。
「研一、確かに私はあなたのことが好きだ。でも、先に愛し合ったのは私たちの方なのよ。汐さんは、私を死に追いやろうとしているのか!」
電話の向こうからは裕美の泣き声が伝わってきた。
電話が突然切れた。研一は一瞬の躊躇いもなく、上着を手に取るとドアの方へ歩いていった。
汐は何が起こったのかわからなかったが、直感が彼女に良くない知らせだと感じさせた。
彼女はスマホを手に取り、再び恵に電話をかけた。
「恵、もう一つだけ手伝ってくれない?
私のお婆さんが結局どの病院にいるのか、調べてくれないか……」
研一が戻ってきたのは、真夜中になってからだった。
外は雨が激しく、彼は全身ずぶ濡れで、ぽたぽたと落ちる雨が汐の病床に落ちた。
しかし、よく見ると、それは雨水なんかじゃない。明らかに血の混じった水だ。
汐がぱっと目を見開くと、そこには真っ黒な不機嫌な顔をした彼がいた。
「夏目汐、どうしてそんなことをした?」研一の眉間は黒く曇り、陰鬱さを漂わせていた。
彼女はわけがわからずに眉をひそめた。「何の話?どうしてって?」
研一は素早くポケットからスマホを取り出すと、彼女の手の甲に叩きつけた。
彼女は痛さに眉をひそめながら、画面の写真を見た。
そこに写っていた一枚一枚の写真は、数年前、裕美がホテルで暴行を受けた時に撮影されたものだった。
【美人の女弁護士、酒酔い状態で惨く暴行を受ける!】赤太文字の見出しがそこにはっきりと表示されていた。
彼女が承知の上で不倫相手になった、恥知らずで下劣だという書き込みもあった。
ありとあらゆる汚らわしく堪え難い言葉が、コメント欄に並んでいた。
「もうこのニュースを暴露した記者に聞いたんだ。彼が明確に指摘している。夏目という姓の女が彼に連絡を取り、金は一切受け取らず、目的は裕美を追い詰めることだったと!
証拠は確実だ!夏目汐、まだ何か言い訳があるのか!」
彼女は顔を上げ、彼の真っ赤な両目を見つめた。
「私じゃない。私はそんなことしてない」
パン!
鈍い平手打ちの音が部屋の中に突然響き渡った。
「夏目汐、どうしてお前はこんな悪女になってしまったんだ!
裕美はお前のせいで手首を切って自殺を図ったんだ。夏目汐、この件はこれで終わりにはしない」
研一は踵を返すと、振り返りもせずに去っていった。
彼女は痺れて硬直した体をゆっくりと動かし、とっくに見えなくなったあの人の姿がいた方向を見た。
思い出したのは、結婚式の時に二人が読み上げた誓いの言葉だった。
誠実、信頼、慈愛……
「あは……研一、あなたは結局、どれを守れたっていうの?」
第7話
汐はすぐに悟った。
研一が去り際に放った言葉の真意を。
ネット上で「美しい女弁護士」の暴行された写真や不倫疑惑の話題が一瞬で消え去ると、それに取って代わったのは、思春期の汐が実の父に猥褻された写真だった。
情報提供者はあからさまに彼女の名前と顔を晒し、ネット上の好奇の目に晒した。
さらに彼女を、嫉妬深い既婚女性で、「言論の自由」を利用したネットいじめで夫の元恋人に復讐する人物だと形容した。
【最低じゃない?自分が優位に立ちたいだけなのに、他人の傷ついた写真を流出させるなんて。自分だってそんなに潔白じゃないだろうに!】
【まったく、この親にしてこの子よ。あんなキモい父だから、娘も同じなんだよ。もしかしたら本人も楽しんでたんじゃないの?】
【見てよ、この胸。あの年で既にDカップだよ。どこの誰が揉みまくったんだかね!】
……
無数の卑劣で侮辱的な言葉が汐の目に飛び込んでくる。
彼女は猛然とスマホを掴み、両手で頭をしっかりと抱えた。
過去の悪夢が、もともと緩んでいた封印を破って溢れ出そうとしていた。
どんなに苦しんでもがいても、必ず誰かが過去の出来事を持ち出しては彼女の口と鼻を押さえつけ、息もさせてはくれなかった。
「夏目さん!落ち着いて呼吸を!夏目汐さん!」
「ビニール袋を早く!急いで!」
頭は真っ白になり、耳元では雑音が鳴り止まない。
何かが頭にかぶせられるまで。
一回……二回……三回……
少しずつ視界に色が戻っていく。
研一の姿が再び彼女の前に現れた。
だが、彼が何か言おうとする前に、裕美に呼ばれてまた去っていく。
研一が立ち去る間際、かすかに聞こえたのはただ一言だった。
「ネットの話題はもう削除させた。汐、次はないぞ」
その後、研一は裕美のそばに寄り添って過ごした。
彼は彼女を連れて海を見に行き、お月見に行った。
二人は山の上で昔の良き思い出に語らう。
それを偶然見かけた通行人が撮影し、ネットに上げた。
裕美の不倫行為を非難する者など一人もいない。
コメント欄は、彼らの実らなかった恋愛に対する祝福と感慨であふれていた。
自称・二人の恋愛の証人なる者が現れ、学生時代、研一が裕美に贈り物をするため、クラス中ほぼ全員に配った話や、彼女が何気なく言った小さなケーキの為だけに、彼が思わず隣の街まで買いに行き、その夜中に彼女の元へ届けた話などを語りだした……
こうしたエピソードを受けて、ネット上では一部の人々が、研一に「悪女」と離婚して初恋の女性と結婚するようけしかけるようになった。
裕美は飽きもせず、それらの書き込みのスクリーンショットを汐に送りつけてくる。
汐は彼女の挑発には一切応じなかった。
あの男は、とっくに自分から捨てると決めていたのだ。
夜、汐は防犯カメラと連動したアプリを開いた。
そこで予想だにしなかった光景を目にする。丸裸になった裕美が研一の前に立ち、潤んだ目で懇願している。
「四つ目の願い、研一、私に触れてください」
映像の中、研一は複雑な眼差しで彼女を見つめている。
「裕美、それは――」
「これは四つ目の願い。ただ触れるだけでいい。研一、どうか拒らないで」
彼女は研一の手を取って、自身の胸の柔らかな膨らみへと導いた。
今回は、彼は躊躇いながらも、ついに拒むことはなかった。
汐の瞳には嘲笑が満ちていた。
彼女は動画をコピーすると、すぐにスマホの電源を切った。
恵が彼女のお婆さんが入院している病院を見つけ出した。
そして、身分証明の登録抹消手続きのための連絡先を彼女に渡してよこす。
彼女は全てを準備し、身なりを整えてから、お婆さんのいる病院へと足を向けた。
第8話
あの年、刑務所に入った時、汐が研一に唯一お願いしたのは、田舎に住むお婆さんにだけはこのことを話さないでほしい、ということだった。
彼女はお婆さんと二人きりで育ってきた。父が自分にしたこと、あの全てを、お婆さんは何一つ知らない。
お婆さんは年だって取っているし、心臓も悪い。
もし知ったら、お婆さんがどれだけ心を痛めるか、想像することすらできなかった。
汐の顔に、久しぶりで笑顔が浮かんでいた。
彼女は花を手に、病室のドアノブに手をかけた。
その時、中で何かが割れる音がした。
「最後にしっかりご覧くださいよ、これがあなたの孫娘が実の父に猥褻されている姿なのよ。こんなものまだ何十枚もあるわよ、たっぷりご覧に入れましょう!
聞くところによると、あなたが自ら孫娘を彼女の父の元に送り込んだんだってね?これはなんていうの?張本人?ふん、そういうことなら、あなたも死ぬべきだわ。孫娘は自分を猥褻した父を殺し、三年も刑務所に入って、最近やっと出所したばかりなのよ!
言ってみなよ、彼女のような腐った人間が、生きる価値あるっていうの?」
ドアが「バン」という音を立てて押し開かれた。
裕美は彼女を見ると、ぱったりと笑顔を消した。
「お婆さん!」
汐の嗄れた声が部屋中に響いた。
ベッドに横たわる老人の顔は青ざめ、濁った目には涙がいっぱい浮かんでいた。
痩せこけた手で、必死に胸の服を握りしめ、苦しそうにもがき、息を大きく吸い込んでいる。
「シ……汐……」
心電図モニターが突然、甲高い警告音を発した。
裕美は状況を見て、後ろめたさと怖さからそっと足を動かしたが、うっかりさっき自分が激しく叩きつけた皿の破片を踏んでしまった。
「きゃああっ!」
薄い靴底は貫かれ、血が床いっぱいに広がった。驚いた彼女はパニックを起こした。
「裕美!どうしたんだ!」
研一が突然、入口から駆け込んできた。
彼女の驚いた様子を見て、慌てて彼女を抱き上げた。
彼の鋭い視線は、病室内で情緒が崩壊し、「お婆さん」と叫び続ける汐を捉えた。
「夏目汐!何度言ったら分かるんだ、なぜまた裕美に因縁をつけるんだ!」彼は大声で怒鳴った。
しかし汐は最初から最後まで、二人に視線を向けようともしなかった。
裕美の呼吸が突然荒くなった。
彼はもう何も構っていられなかった。「お前たち、裕美の様子を見てくれ!息が苦しそうだ!」
汐の傍で救命処置を施していた医師は板挟み状態だった。
「ですが――」
「ですがも何もあるか!裕美に何かあったら、お前たち一人一人、ただでは済まさないからな!」
汐は雷に打たれたようになり、渇いた目の奥が酸っぱく痛んで、腐ってしまいそうだった。
「ダメ!ダメ!研一、お婆さんが気を失ったんだ!」
彼女はほとんど転ぶようにしてひざまずき、研一のズボンの裾を掴もうとした。
しかし彼の表情は冷たく、眼底には嫌悪の色が浮かんでいた。
「お前のお婆さんは裕美を傷つける元気があるなら、別に大事なんかじゃないだろう!」
彼はそう言うと、ためらうことなく背を向けて去ろうとした。
医師たちは仕方なくため息をついた。「お嬢さん、……あなたのお婆さんはもう……逝去されました。お悔やみ申し上げます」
大きくて熱い涙が彼女の腕に落ちた。彼女はただただ首を振り、信じようとしなかった。
全身の力を使い果たして、どうしようもなく立ち去ろうとする医師たちの袖を引っ張った。
「お願いです、お願いですからお婆さんを助けてください!」
彼女は跪いて頭を地面に擦り付け、激しい音を立てて頭を叩きつけた。
しかし彼らはこれ以上遅れるわけにはいかず、しかたなく強引に病室を後にした。
突然静まり返った病室を見て、彼女はついに我慢の限界を超え、声を嗄らして叫んだ。顔に溢れる絶望と崩壊感が彼女を飲み込もうとしていた。
汐が旅立つ日、空は暗く、雨雲が垂れ込めていた。
彼女は麻痺したようにお婆さんの葬儀を終え、数日ぶりに家に荷物を取りに帰ると、数日間姿を消していた研一も家にいることに気づいた。
書類の束が突然、彼女の前に置かれた。
研一は眉間を揉んだ。「これは裕美の最後の願いなんだ。
彼女は過去を埋め合わせたくて、俺と結婚式を挙げたいんだ。全てを本当らしく見せるために、俺たちはまず仮の離婚をしよう。手続きが終わっても証明書は受け取らなければいいだけだ」
汐は無表情で書類を受け取り、ためらうことなくそこに署名した。
彼はふと安堵の息をついた。
「汐、やっと終われるよ。旅行はどこへ行くかもう決めた?その時はお婆さんも連れて行こう、三人で出発だ」
汐が返事をする間もなく、研一のスマホが再び鳴り響いた。
「研一、ウエディングドレスの試着に行く時間って約束してたけど、もうそろそろ着く?」
彼は時計を見ると、急いで上着を手に取って出かけようとした。
玄関で足を止め、振り返って汐を一瞥した。
彼女は相変わらず静かにそこに座っていたが、どこかが欠けているようでもあった。
彼は首を振った、多分気のせいだろう。
ドアが閉まり、汐の目にようやく少しの動揺が走った。
彼女は隅に押し込められていた結婚式の写真を取り出し、一枚一枚の合照を真ん中から引き裂いた。
引き裂かれた写真が床いっぱいに広がるまで。
彼女は荷物を取り出し、振り返ることなくその場を去った。
彼女はこの新郎新婦に、一生忘れられない新婚祝いを贈ってやる……