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海に散る星、届かぬ夢
結城晴香(ゆうき はるか)と桐生真也(きりゅう しんや)は、幼い頃から同じ孤児院で育った。 互いに寄り添い合い、支え合いながら、相手こそ...
Chương (1)
第1章
結城晴香(ゆうき はるか)と桐生真也(きりゅう しんや)は、幼い頃から同じ孤児院で育った。
互いに寄り添い合い、支え合いながら、相手こそが自分にとって唯一の存在だと信じていた。
十八歳のとき、真也が告白し、二人は同じ大学へ。学内でも評判の良いカップルとなった。
二十二歳でプロポーズを受け、二人で新居を飾りつけながら幸せな未来を思い描いていた。
だが結婚式の直前、晴香はその新居で浮気をし、しかもその現場を真也に見られてしまった。
激しい怒りに駆られた真也は、晴香を責め立て、容赦なく傷つけた。しかし、その出来事の裏には、誰も知らない真実が隠されていた!
第1話
薬物研究所から解放されたあと、結城晴香(ゆうき はるか)はその足で葬祭センターへ向かい、自分の葬式の手配を始めた。
正面の大きなスクリーンには、桐生真也(きりゅう しんや)と椎名家の令嬢が一か月後に結婚するというニュースが流れていた。
記者がマイクを向ける。「真也社長は神原市のテクノロジー業界で『カリスマ』と呼ばれる若き経営者です。美玲さんとのご結婚は、まさに大物同士の誕生だとも言われています。挙式の準備だけで二十億円以上をかけられたとか?」
真也は隣の椎名美玲(しいな みれい)を見つめ、優しく答えた。「美玲と出会えたのは、俺にとって奇跡なんだ。彼女のためなら、どれだけお金を使ったって惜しくない」
記者たちは一斉に賛辞を並べ立て、二人を「理想のカップル」「絵に描いたような美男美女」と持ち上げた。
晴香は目を伏せた。三年前、本来なら彼女が真也の妻になるはずだった。
二人は幼い頃、同じ孤児院で育った。
互いに寄り添い、支え合い、相手こそが唯一の存在だと信じていた。
十八歳のとき、真也が告白し、二人は同じ大学へ。学内でも評判のカップルとなった。
二十二歳でプロポーズを受け、二人で新居を飾りつけながら未来を夢見ていた。
だが結婚式の直前、晴香はその新居で浮気をし、しかもその現場を真也に見られてしまった。
――彼の取り乱した姿はいまも忘れられない。
血走った目で晴香をその男の腕から引き剥がし、「なぜだ!」と叫んだあの瞬間を。
彼女は唇に冷たい笑みを浮かべ、言い放った。「もうバレたんだし、隠す意味なんてないわ。あなたは急性心不全で、すぐに死ぬんでしょ?だから私は次の相手を探すしかないの」
血を吐きながらも、真也は信じられず問い詰めた。「本当は理由があるんだろう?」
胸をえぐられる思いを押し殺しながら、晴香はさらに突き放した。「理由?もう惨めな暮らしはしたくないだけ。拓海様と一晩過ごせば二十万円。それにこのバッグも、彼からのプレゼントよ。百九十六万円」
その日、真也は狂ったように新居を壊し、晴香を追い出した。
それが、三年前の最後の別れだった。
「お客様、ご予約の葬儀プランですが、総額は百七十二万円になります」
提示された金額に、晴香は手元のキャッシュカードを見下ろした。残高は百万円。望む死に方すら、今の自分には贅沢だった。
彼女はカードを差し出した。「百万円しかありません。残りは数日待っていただけますか?」
職員は一か月以内に補えばいいと応じた。
だが、一か月で七十二万円を稼ぐのは容易ではない。それでも、一つだけ思い当たる方法があった。
晴香は神原市で最も華やかなジュエリーパーティーの会場前に立った。
招待状がないため、警備員に追い返され、それでも三時間待ち続けた。
やがて会場から人が出てきた。
真也が美玲の手を取り、堂々と姿を現す。
傍らにいた社交界の令嬢が声を弾ませた。「美玲さん、本当に幸せ者ね。十六億円の指輪を落札するなんて、真也社長ったら一瞬も迷わなかったわ!」
美玲は甘く微笑んだ。「真也は言ってくれたの。結婚は一度きりだから、すべてを最高のもので揃えてあげたいって」
「まあ、それ『絶対に離婚しない』って誓いみたいなものじゃない?」
二人が黒いリムジンに乗り込もうとしたとき、晴香は声を張り上げた。
真也が振り返る。
彼女の姿を見た瞬間、その瞳にはさまざまな感情が去来し、やがて憎しみだけが残った。
晴香は歩み寄り、首から外した貝殻のネックレスを差し出した。
「真也。このネックレスを七十二万円で買い取ってほしいの」
それは、二人が付き合い始めた頃に真也が海辺で拾った貝殻をつなぎ、手作りしてくれたものだった。――「晴香、信じてくれ。このネックレスがあれば、いつか俺と世界で一番大切なものを交換できる」
真也はそのネックレスを乱暴に奪い取り、晴香を睨みつけた。
「……三年ぶりに現れて、金目当てか?」
第2話
晴香は俯き、彼の目を避けてつぶやいた。「無理なら、仕方ないわ」
もともと期待などしていなかった。ただ――
ただ死ぬ前に、もう一度だけ彼に会って、その姿を心に刻みたかったのだ。
そう言って、彼女は手を伸ばし、貝殻のネックレスを取り戻そうとした。
しかし真也は、それを地面に投げ捨てた。
晴香は思わず拾おうとしたが、その手の甲を真也に踏みつけられ、悲鳴が漏れた。
さらに力が加わり、貝殻は粉々に砕け散った。鋭い破片が掌に突き刺さり、血がにじんだ。
「痛むか?だがな……お前が俺に残した傷に比べれば、こんなのは痛いうちにも入らない」
いつの間にか、周囲には人だかりができていた。「彼女って、あの時に真也社長を捨てた女よね?」
「起業の最中に心不全になって移植が必要だったのに、彼女は金持ちに乗り換えて海外に逃げたんだって」
「今さら後悔してるんでしょ。だから厚かましく近づいてきたのよ」
「ほんと最低!私なら絶対に仕返しするわ」
そう囁く声に、誰も真実を知る者はいなかった。
――あの頃、真也は心不全で移植を待つしかなく、晴香は必死に相応しい心臓を探し出した。
提供者は植物状態の男性。その父親・岸本浩司(きしもと こうじ)は新薬研究にのめり込み、臓器を渡す条件として、晴香を実験台に差し出すことを求めてきた。
真也が絶対に許すはずがないと分かっていた晴香は、浮気を演じて彼を遠ざけた。
それから三年。薬の副作用で体は蝕まれ、複数の臓器が機能不全に陥った。医師から、あと一か月もつかどうかと言われた。
真也の足はなおも力を込め、晴香の手は震えた。
彼女は顔を上げ、皮肉を帯びた笑みを浮かべる。「そんなことされたら……まだ私のこと、気にしてるんじゃないかって思っちゃうわよ」
真也は彼女を蹴り倒した。「お前にそんな資格があるか!」
胸を締めつける痛みに顔を青ざめさせながらも、晴香は声を殺して耐えた。
地に伏したまま、砕け散ったネックレスの破片をひとつひとつ拾い集め、ポケットに入れて立ち去ろうとした。
その時、華やかな服装の男が札束を手にして立ちふさがった。
「昔、一晩で二十万で寝たって聞いたけど……今ここで二十万だ。脱いで、その惨めな体を見せてみろ」
見物人は笑い声を上げ、晴香が動かないと、さらに札束を投げつけた。
「金が足りないなら、もう二十万追加してやる。さあ脱げ!」
「脱げ!脱げ!」と囃し立てる声が響く。
晴香は顔を赤らめ、屈辱に震えた。逃げようとしても、取り囲む人々で身動きができない。
隣にいた美玲が真也の腕を取り囁く。「真也、行こう。こんな女もう見る価値ないわ」
二人が車に向かおうとしたその瞬間、誰かが晴香の服を引き裂いた。
「このクズめ!裸になって見せ物にしろ!」
晴香は地面にしゃがみ込み、自分の体を抱き締めた。だが、服はすでに引き裂かれ、広く肌がさらされていた。
視界はぼやけ、心は幼い頃の孤児院の日々へと引き戻された。だが今度は誰も助けてくれない。
守ってくれた唯一の人を、自分の手で遠ざけてしまったのだ。
「やめろ!」
真也の怒鳴り声が周りの人々を押しのけ、上着が晴香の肩にかけられた。
「……晴香。お前、あの時拓海と一緒に海外へ行ったんだろ?あいつは、お前をこんな目に遭わせる男だったのか?」
彼の瞳に宿る気遣いを見て、晴香は青ざめた顔で答えた。
「彼は……遊び終わったら私を捨てたの。でも、あの時は……私もただお金が欲しかっただけよ」
「一晩で二十万……真也社長も試してみる気?」
真也は晴香を地面に押し倒し、吐き捨てた。「そこまで金に飢えて、本当に下劣だな!」
すぐに部下を呼び、二百万の札束を持ってこさせると、それを彼女の顔に投げつけた。角が頬を切り裂く。
「月契約なら安くしてもらわないとな。これから一か月、お前は俺の召使いであり、俺のものだ。じっくり楽しませてもらう」
第3話
そう言い捨て、真也は美玲を伴って車に乗り込み、そのまま去っていった。
晴香は、地面に散らばった一万円札を拾い集め、乾いた笑みをこぼした。
――まだ運は残ってる。たった一日で、自分の葬儀代くらいは稼げたんだから。
金を手に葬祭センターに立ち寄り支払いを済ませると、タクシーで真也のくれた住所へ向かった。
春水町の別荘に着くと、執事がすぐに召使い用の服を差し出す。
「早く着替えてください。真也様のお言いつけです。今夜はご寝室の前で徹夜して見張るように、と」
着替えを済ませ二階の寝室の前に立つと、近づく前から中から甘い声がもれ聞こえてきた。
その瞬間、晴香の体は凍りつき、鋭い刃のように心を容赦なく切り裂いた。
逃げ出そうとしたとき、ドアが開いた。
真也がパジャマ姿で現れる。胸元や首筋には、熱い口づけの痕がいくつも刻まれていた。
鋭い視線が晴香を射抜く。「人のベッドでのことを外で盗み聞きするのは、さぞ面白いだろう?」
晴香は、彼があのときの自分の「浮気」の仕返しをしているのだと気づいていた。
だから、隙を見せるわけにはいかなかった。
「美玲さん、まだ肩の力が抜けていないようだから」
彼の首に腕を絡める。「せっかくお金をくれたんだから。直接お手本を見せてあげましょうか」
真也は顎を乱暴に掴み、低い声で吐き捨てる。「やっぱり安い女だ。金さえあれば誰にでも体を差し出すのか」
晴香は妖しく微笑んだ。「もちろん。お金に逆らえる人なんて、いないでしょ?」
次の瞬間、彼は晴香を力任せに突き飛ばした。「誰とでも寝るようなお前なんて、汚らわしい」
そして冷酷に言い放つ。「だが獣なら、お前を嫌がらないだろう」
意味を飲み込めないうちに、背後から鋭い声が落ちた。「庭に連れて行け。サイボーと交尾させろ」
二人の従者がすぐに晴香を引きずり出した。
そこにいたのは、巨大なチベタン・マスティフだった。
剥き出しの牙を見た瞬間、全身が震え上がった。幼い頃、孤児院で犬に噛まれたことがあり、それ以来、犬への恐怖が骨の髄に刻まれていた。
「いや……入りたくない……」晴香は執事に縋りつくように懇願する。「お願い、放して……助けて……」
背後から真也の冷たい声が響いた。「晴香。金のためなら何でもするんだろう?どうして今さら怖がる?」
理性の最後の糸を必死につなぎとめ、晴香は震える声で返す。「ええ、お金のためなら何でもするわ。でも、こんな異常なことには追加料金が必要ね。あなたの払った額じゃ足りない」
怒号が飛んだ。「なら二百万足す!この女を檻に放り込め!」
従者たちは力ずくで晴香を檻に押し込み、鉄扉を閉めた。猛獣のような犬が一歩ずつ迫ってくる。
檻を握りしめ、晴香は恐怖と絶望に呑まれていった。心の防壁は崩れ落ち、冷静さは粉々に砕け散る。
「真也……私が悪かった……お願い、ここから出して……」
泣き崩れる姿を見つめながらも、真也の胸に復讐の快感はなかった。
あるのは、言いようのない別の感情……
その刹那、晴香の悲鳴が夜を裂いた。
犬が彼女の足に噛みついたのだ。痛みと恐怖の中、意識は闇に沈んでいった。
そこへ美玲が着替えて現れた。真也は晴香を抱きかかえ、狂ったように外へ飛び出した。勢いで美玲を突き飛ばしたことすら気づかずに。
倒れた美玲の目には、嫉妬と憎悪の炎が燃えていた。
やがて晴香が目を開けると、柔らかなベッドの上だった。脚の傷は手当され、包帯が巻かれている。
枕元に立つ美玲が、鋭い声で問い詰める。「晴香、どうして戻ってきたの?」
「あなたはかつて心臓を患った真也を置き去りにし、彼を新居に一人残した。そのせいで彼が死にかけたのを知ってる?」
「私が駆けつけた時、彼は血を吐きながらも、あなたの名前を呼んでいたわ」
「それでも神様は彼を見捨てなかった。病院に着いた直後、奇跡的にドナーが見つかって心臓移植を受けられたの」
「手術を終えた彼が最初にしたことは、あなたを探すことだったわ。元気になったから、もう嫌われない。必死に稼いで、あなたに最高の生活を与える――そう言ったの」
「でも、あなたはどうした?お金持ちの男と海外に逃げて、真也を空港で泣き崩れさせた」
晴香の目から涙があふれた。この三年、彼女の苦しみは真也に劣らない。
光の差さない研究施設に閉じ込められ、薬漬けにされ、実験台にされる日々を生きてきたのだから。
「私は三年間、彼のそばに寄り添い、ようやく心を得たの。もうすぐ結婚するのよ。なのにあなたは、また金目当てで彼にまとわりつくつもり?」
唇を震わせながら、晴香は言葉を探す。「わたしは……」
言いたかった。金のためじゃない。ただ死を前にして、最後に一度、真也に会いたかっただけだと。
けれど、その言葉は喉に詰まり出てこなかった。
美玲の声は怒りを帯びる。「あなたのような金目当ての女を、これ以上真也のそばに置いておくわけにはいかない!」
そう叫ぶと、美玲は晴香を乱暴にベッドから引きずり起こし、自ら壁に頭を打ちつけた。額から鮮血が流れ落ちる。
第4話
真也は声を聞くと、慌てて部屋に飛び込み、美玲を抱き上げて焦った様子で尋ねた。「美玲、大丈夫か?」
美玲は真也の胸に身を預け、弱々しく囁いた。「真也……彼女に押されたの……」
晴香は呆然と立ち尽くす。まさか美玲が自分を陥れるため、ここまでやるとは思わなかった。弁解しようと口を開きかけたその瞬間――
真也の蹴りが晴香の体をとらえた。凍りつくような眼差しで睨みつけ、吐き捨てる。「美玲に何かあったら、絶対に許さない!」
そう言い残し、美玲を抱きかかえたまま病院へ駆け出した。
床に倒れた晴香は、腹部の激痛に身を縮める。
だがそれ以上に胸を引き裂いたのは、心の痛みだった。
――真也は自分を憎んでいる。殺したいと思っている。
これが望んだ結末じゃないの?
なのに、どうしてこんなにも悲しくて、死にたくなるほど苦しいのか。
どれほどの時間が過ぎたのか分からない。執事が人を連れ、晴香を病院へ押し運ぶ。その姿は、まるで大罪を犯した者のようだった。
病院に着くと、美玲の頭はすでに包帯で覆われ、真也の腕にぐったりと寄りかかっていた。
彼の目は心配でいっぱいだったが、晴香を見るなり憎悪の色に変わる。
「跪け。そして美玲に謝れ」
晴香は押さえつけられ、膝をつかされた。
もう抵抗する気力はなく、目に死の影を浮かべて呟く。「謝れば……許して帰してくれるの?」
体も心も、限界だった。
ただ静かな場所で、終わりを迎えたかった。
「帰る」という言葉に、真也の胸は強く締めつけられる。
彼は病室のコップを手に取り、中の水を晴香の顔に浴びせかけた。「俺と交渉する気か!お前が俺に負ったものは、一生かかっても返せないんだ!」
晴香は皮肉を込めて笑った。「真也、ほんとに器の小さい男ね。付き合ったり別れたりなんて普通のことなのに、どうして私が借りを負うことになるの?」
「お前には心がない!」真也は冷たく命じる。「美玲に土下座して謝れ!」
すぐに誰かが彼女の頭を押さえつけ、床に叩きつけた。ひとつ、ふたつ、みっつ……
額は腫れ、血がにじんでも、誰も止めようとはしない。
やがて、美玲が口を開いた。「真也、もういいわ。彼女を許してあげて」
真也は美玲の肩を抱き寄せる。「美玲、この女はろくでもないやつだ。君に手を出すなんて絶対に許せない。哀れむ必要なんてない」
けれど美玲は真也を見つめて言った。「哀れだなんて思ってないわ。ただ、あなた自身には過去から解放されてほしいだけ。もう三年も経ったのよ。彼女のことは手放して……」
「美玲、余計なことは考えるな。もう愛してなんかいない。ただ、この裏切り者に復讐したいだけだ!」
美玲の目に涙が浮かぶ。「本当にそうなの?」
真也は額に軽くキスを落とし、囁いた。「もちろんだ。結婚式までに、この女を俺たちの世界から消すと約束する」
美玲は静かに頷いた。
真也は血まみれの晴香を見やり、低く命じた。「医者を呼べ。手当てさせろ」
駆けつけた医師は、床に横たわる晴香を見て驚いた。「晴香さん……どうしてここにいるんですか?」
真也が眉をひそめる。「知り合いなのか?」
晴香の心は一瞬で凍りついた。――高橋康太(たかはし こうた)。この医師は、あの心臓移植の真実を知る人物だった。
第5話
当時、彼は彼女にこう言ったことがある。「浩司は薬学の狂人です。自分の子どもさえ植物状態にしてしまった。そんな男の研究所で実験台になるなんて、ご自分の命を差し出すようなものですよ」と。
それでも晴香は、命を懸けてでも真也を救いたいと強く願っていた。
もし真也があの頃のことを問いただせば、真実は隠し通せない。
晴香は先手を打ち、口を開いた。「あのときね、私と藤原様が夜更けまで遊んでいて、うっかり病院に入っちゃったの。急患として受け入れてくれたのが康太先生だったの」
その言葉に、真也の表情は一気に険しくなり、怒りが爆発した。「晴香、お前、ほんとにふざけてるな!」
「この病室も中の人間も、徹底的に消毒しろ!」
そう命じると、美玲を連れて部屋を出て行った。
晴香は康太の白衣の裾をつかみ、必死に懇願した。「康太先生、お願いです。真也にはあのときの真実を言わないでください」
康太は、ぼろぼろになった晴香を見つめて言った。「あなたは彼を救うために、三年間も実験室で苦しみ続けたんです。今も命は長くない。それなのに誤解されたままで……それでも本当に意味があるんですか?」
晴香はかすかに笑みを浮かべ、昔と変わらぬ強い眼差しで答えた。「あります」
ほどなく、防護服姿の看護師たちが消毒液を背負って現れ、部屋中と晴香の体に大量の消毒液を吹きかけた。
刺激臭にむせ、涙が止まらない。
康太は深くため息をつき、ティッシュを差し出し、額の傷を消毒して包帯を巻いてくれた。
その後数日間、真也は晴香に手を出すことはなかった。ただ召使いのように扱い、虐げるだけだった。
洗面器を持たせ、足を洗わせ、蹴り飛ばして地面に跪かせて水を拭かせる。
晴香が心を込めて作った食事は、目の前で犬に与えられた。
「お前みたいな汚れたやつの作ったもんは、人間の食い物じゃない。犬にでも食わせとけ」
真也は美玲を連れて高級ブランド店に行き、何億円も使ってバッグをすべて買い取り、それを徒歩で別荘まで運ばせた。
晴香は一昼夜、走り回った末に道端で倒れ込むほど消耗した。
再び病院で目を覚ますと、数日間の無理が祟り、体はもはや限界に達していた。余命はせいぜい一週間ほどだと、康太から告げられる。
その言葉に、晴香はなぜか安堵を覚えた。
ようやくこの死にかけの体を引きずり、真也への抑えきれない想いから解き放たれる――そう思えたのだ。
ただ、死ぬ前に果たさなければならないことが、ひとつだけ残っていた。
そのとき、真也から電話が入った。
「晴香、ただの貧血で倒れただけだろ。いつまで病院で怠けてる気だ?」
真也は命令口調で続けた。「さっさとロマンティック・ウェディングドレス店に来い。美玲にドレスを着せ替えろ!」
晴香はベッドを降り、急いで店へ向かった。あまりに顔色が悪く人を驚かせるほどだったので、看護師から化粧品を借りて薄化粧でごまかした。
店に着くと、美玲はすでにドレスを着て試着室から姿を現した。
淡い紫を基調としたドレスは、美玲の完璧なプロポーションをいっそう際立たせていた。
店員たちは羨望の眼差しで口々に言った。「本当に素敵ですね!真也社長自らデザインされたんですって」
「このラベンダー色は、プロヴァンスの花を忠実に再現したものなんですよ」
「美玲さん、本当に幸せ者ですね。真也社長はお金持ちで、ハンサムで、しかも愛情深い。こんな男性と結婚できるなんて、前世でよほどいいことをなさったんでしょうね」
晴香はその場で立ち尽くし、思わず目に涙がにじんだ。
このドレスは、かつて自分が夢見た姿そのもの。真也は、それを本当に形にしてくれたのだ。
けれどそれを着るのは、もう自分ではなかった。
真也は優しく美玲の髪を整え、振り返ったときの視線には晴香への温かさなど微塵もなかった。
「そんなに顔色がいいのに、貧血だと?やっぱり医者とグルになってついた嘘だな」
晴香は涙をぬぐい、泣き顔よりもなお惨めな笑みを浮かべた。
「見抜かれちゃったか。せっかく数日間ゆっくり休もうと思ったのに」
真也は冷たく笑った。「晴香、二百万円でお前を一か月雇ったのは、楽をさせるためじゃない。さっさと美玲の靴を持ってこい!」
第6話
晴香は歩み寄り、棚に置かれていた宝石を散りばめたハイヒールを手に取り、美玲の足元へ差し出した。
美玲は足を持ち上げ、そのまま靴を履きながら、鋭いヒールの先端で晴香の手の甲を思い切り踏みつけた。
「痛っ……」晴香は悲鳴を上げる。
美玲はゆっくりと足を上げ、気だるげな口調で言った。「ごめんなさい。ドレスの裾が大きすぎて、足元が見えなかったの」
真也の視線が、晴香の紫色に変わりゆく手の甲をかすめる。
「所詮はただの召使いだ。踏まれたくらいで、謝る必要なんてない」
彼は近寄ると、片膝をつき、美玲に自ら靴を履かせてあげた。
美玲は頬を赤く染め、恥じらいを浮かべながら真也を見つめ、その瞳には隠しようのない愛情が満ちていた。
店員も空気を読んで駆け寄り、彼女のドレスの裾を丁寧に整える。
胸の奥が締めつけられる。晴香は人々に押しのけられるようにして部屋を出た。うつむいたまま、足取りは暗く沈んでいた。だが数歩も行かないうちに、後ろから腕をつかまれた。
引きずり込まれたのは隣の休憩室だった。真也が壁際に彼女を追い詰める。
「晴香。もしあの時、お前が裏切らなかったら……今日このすべてはお前のものだったんだ。後悔してるだろう?」
――後悔?
もしあの時、実験台になると承諾していなければ、暗黒の三年を過ごすことも、死を待つような運命を背負うこともなかった。
それでも。目の前に生きて立つ真也を見つめていると、すべてが報われたように思えた。
彼女は視線を上げ、真っ直ぐに見返す。「いいえ。私は後悔なんてしてない」
「なぜだ!」真也は肩をつかみ、怒声を浴びせる。「金のために俺を捨てた女が、今さら何を言う!今の俺には金も力もある。なぜ悔やまない!」
晴香は彼を押しのけ、冷えた声で胸の奥の愛情を押し殺した。
「理由なんてない。私は、自分が選んだことを後悔する女じゃない」
そう言い切ると、バッグからカードを取り出し、彼に差し出した。
「ここに残っている百二十八万円、返すわ。これで私はもう、あなたの召使いじゃない。真也――私たちの関係は終わりよ」
その言葉に、一瞬で三年前の記憶が甦る。柳川拓海(やながわ たくみ)を抱き寄せながら、冷たく突き放した彼女の声――
「真也、もう愛してない。今日限りで私たちの関係は終わりよ」
何も言えずに立ち尽くす真也の手に、晴香はカードを無理やり押しつけると、背を向けて歩き出した。
このままでは、胸に溢れる感情を抑えられなくなってしまうから。
だが、ドアノブに手をかけた瞬間――
背後から真也が飛びかかり、彼女の腰を抱き寄せ、壁へ押しつけた。
「晴香。俺をまだ三年前と同じように、言いなりになる男だと思っているのか? お前が望めば離れ、捨てられても従うとでも?」
迫り来る顔に、晴香の胸は恐怖と混乱でかき乱される。「やめて……真也、何を――」
言葉を最後まで紡ぐ前に、真也は彼女の顎をつかみ、強引に唇を奪った。
「んっ……」
必死に抵抗するが、抱き締める腕はより強く、唇は噛まれ、鉄の味が二人の口内に広がる。
その時、不意に扉が開いた。
振り返った視線の先には、ウェディングドレスを纏った美玲。
目を見開き、言葉を失ったまま二人を凝視する。
理性を取り戻した真也は、慌てて晴香を放し、愧じるように美玲を見た。「美玲……俺は……」
美玲は数歩後ずさりし、踵を返すと駆け出していく。真也はすぐさま後を追った。
支えを失った晴香の体は、力が抜けたように壁に沿って崩れ落ちる。
両手で顔を覆っても、涙は指の隙間を伝い落ちた。真也の心に、まだ自分への愛が残っている――その確信が胸を締めつける。けれど、彼女は応えることができない。
――もうすぐ死ぬのだから……
どうして神様は、彼と自分にこれほど残酷な罰を与えるのだろう……
第7話
美玲はウエディングドレスのまま店を飛び出し、車道へと駆け出した。猛スピードで迫ってくる車が彼女に向かって突進してくる。
真也は咄嗟に手を伸ばし、彼女を引き止めた。
だが美玲はその手を振り払い、なおも車の流れへ身を投げ出そうとする。「どうして助けるの?死なせてよ。そうすれば、堂々と晴香と一緒になれるじゃない!」
真也は美玲を強く抱き寄せ、歩道へと引き戻した。「美玲、聞いてくれ」
美玲は耳をふさぎ、首を振る。「聞きたくない、聞きたくない……」
それでも真也の声は胸に突き刺さった。
「美玲、本気で君と結婚するつもりだった。でも――晴香が現れた瞬間から、心がもう自分のものじゃなくなったんだ」
「憎いのに、それ以上に彼女を愛してしまう。今君と結婚したら、それこそ君に不公平だ」
美玲は涙に濡れた顔で真也を見つめた。「真也、私は公平なんていらない。ただ一緒にいたいだけ」
「晴香なんて、あなたの愛を受ける資格はない。あなたが一番苦しかったとき、あの人は見捨てたじゃない。ずっとそばにいたのは、私よ」
「どうして私を見てくれないの?私は五年間も、あなたを想い続けてきたのに」
「でも俺は、晴香を十八年間も愛してきた。七歳で孤児院で出会ったとき、泣いていた俺に彼女が差し出してくれた、あの一粒の飴……あれから、心には彼女しかいなかった」
「一度見捨てられても、俺は忘れられない」
「美玲、ごめん……俺じゃ君にふさわしくない」
美玲は泣き叫ぶ。「真也、目を覚まして!晴香はあなたを愛してなんかいない。お金目当てに決まってる!」
だが真也の瞳には、揺るぎない想いが宿っていた。「たとえお金のためでも、それでいい」
――やっと、自分は稼げるようになった。晴香に、欲しいものをすべて与えられる。
真也は落ち込んだ美玲を連れ、再びウェディングドレスの店へ戻った。心の奥の想いを正直に晴香へ伝えようとした、そのとき――
先に口を開いたのは晴香だった。「真也、実はさっきまで拓海と口論してて……だからあなたのところに来ただけ。でも、さっき仲直りの電話があったの。M国行きの航空券まで用意してくれて……私、もう帰ることにした。
あなたと美玲の結婚式には出ない。ここで二人の幸せを祈るわ」
その瞬間、真也の胸に怒りが込み上げた。だが表情は逆に凍りついていた。
「晴香……俺は、いったいお前にとって何だったんだ?」
晴香は胸の痛みを隠すように、皮肉めいた笑みを浮かべる。「言わせるの?」
「言え」
「もちろん、都合のいいキープよ。拓海と別れたときだけ、あなたという大木にしがみついた。拓海が戻れば、私は迷わず彼を選ぶわ。
正直に言えば……真也も悪くはないけど、ベッドじゃ真面目すぎて退屈なの。私には拓海みたいに遊び慣れた男じゃないと物足りないの」
真也の手が振り下ろされ、乾いた音が響いた。「……晴香、お前ってやつは、本当にどうしようもないな!」
晴香は頬を押さえ、涙をにじませて笑った。「そうよ、私は最低。あなたは三年前から気づいてたはずでしょ?」
そう言って背を向ける。
だが真也は行く手を遮った。「晴香、俺のネックレスを返せ。二度と会いたくない」
晴香は立ち止まり、首から外した。それは――彼に踏み壊され、彼女が修復したばかりの貝殻のネックレスだった。
真也はそれを受け取ると、無情に足で粉々に踏み砕いた。二度と直せないように。
胸の奥で、心が砕け散る音を晴香は確かに聞いた。かすれた声で問う。「これで……行っていい?」
真也の声は氷のように冷たかった。「俺もお前に返すものがある。それを受け取ったら――生きていようが死んでいようが、二度と俺と関わるな」
第8話
「いいわ」
彼女が待ち望んでいたのは、この一言だった。自分が死んだあとも、真也が健康で、幸せに、生き続けてくれること。それだけが望みだった。
真也は俯き、美玲に静かに言った。「美玲、ここで少し待っててくれ。すぐ戻るから」
そして厳かに約束を口にした。「戻ってきたら、俺の心には君だけしかいない。愛するのも、君だけだ」
美玲はその言葉の真剣さを感じ、涙ぐんで頷いた。
「待ってるわ」
真也は晴香を連れて、神原市で一番大きなお菓子屋へと車を走らせた。
「店にある飴を、全部出してくれ」
店員は思わず目を見張り、不安げに問い返す。「お客様……全部でよろしいんですか?」
真也はブラックカードを取り出し、無造作にカウンターへ放った。「そうだ、全部だ」
ほどなくして、倉庫から大袋に詰められた飴が次々と運び出され、二人の前に山のように積み上げられた。
真也はその一袋を抱え、晴香の前で開けた。
「晴香。七歳のとき、お前は俺に一粒の飴をくれた。その瞬間、俺の心はお前に奪われた。今、その心を取り戻すために、千倍、万倍の飴で返そう」
晴香の爪が掌に食い込み、血がにじんだ。押し殺すように声を絞り出す。「……いいわ、真也。これで、私たちももう貸し借りなしね」
「そうだ。これで帳消しだ」
真也はそれ以上彼女を見ようとはせず、きっぱりと背を向けて歩き去った。
その背中が人混みに完全に消えるまで、晴香は目を逸らせなかった。
彼女はしゃがみ込み、袋を破っては飴を口へと押し込んでいった。喉が詰まり、吐き戻すまでやめなかった。
そして地面にうずくまり、声をあげて泣いた。これまでの屈辱も、痛みも、抑えていた真也への想いも、すべてを涙で吐き出すように。
やがて彼女は店員に声をかけ、残りの飴を神原市の孤児院の子どもたちに届けてほしいとお願いした。
翌日。晴香は航空券を手にした。向かう先は、自分で予約しておいた葬儀の場所――南仏プロヴァンス。
選んだのは自然葬。死後、遺灰をラベンダー畑に撒いてほしいと願っていた。
飛行機に乗り込む直前、大画面のニュースに目が吸い寄せられる。
画面に映るのは、事故で無残に潰れた車――それは真也の車だった。
晴香の頭は真っ白になった。次の瞬間には病院へ駆け出していた。
走りながら、彼女は何度も真也に電話をかけた。けれど、応答はなかった。
心の中で神に必死に祈る。――どうか彼が無事でありますように。自分の命などすべて差し出します。
病院にたどり着くと、康太が険しい顔で美玲に告げた。「患者は手術の末、一命は取り留めました。ただ……両目が強い衝撃を受け、角膜が深刻に損傷しています。目覚めても、視力は失われるでしょう」
美玲は衝撃で立ちすくみ、両手で康太の腕を握りしめ必死に訴えた。
「先生、お願いです……どうか彼の目を治してください!彼にとって視力は本当に大事なんです。失明なんて、そんなの……」
康太は静かに首を振った。「治すには角膜移植しかありません。しかし、いま病院に提供者はおりません」
「私が提供します!」
晴香が飛び出し、康太の前で叫んだ。「私の角膜を……今すぐ手術してください!」
康太は眉をひそめる。「晴香さん、角膜は生体からの移植はできません」
晴香は焦りをにじませ、必死に訴えた。「先生も、わかっているでしょう……私、もう残された日が少ないんです」
「たとえ余命わずかであっても、生きている人間から角膜を取ることは法的にも倫理的にも許されません」康太は険しい表情で答えた。
晴香は横のトレイから鋭いメスを掴み取り、自らの喉元へ突きつけた。
「死んでからでないと提供できないのなら――今ここで死んでみせます!」
激しいやりとりの末、彼女が免責同意書に署名することで、病院はついに手術を認めた。
晴香は深く息を吐き、美玲に向き直る。「どうか……真也には伝えないで。角膜を提供したのが私だってことは」
美玲の顔に混乱と疑念が浮かぶ。「どういうこと?あなた……死ぬって、どういう意味なの?」
そしてふいに、テレビで見たドロドロの恋愛ドラマのことを思い出し、声を震わせながら尋ねた。「まさか……あのとき、お金のために真也を裏切ったんじゃないの?」
晴香はふっと笑みを浮かべた。「美玲。これから真也のこと、よろしくね」
それだけ言い残すと、振り返ることもなく手術室へと歩き去った。
手術台には、隣り合う二つのベッド。
晴香は手を伸ばし、真也の掌を握りしめる。指と指を絡めながら、ずっと心の奥に秘めていた想いをそっと口にした。
「……真也。死ぬ前に、最後にあなたのためにできることがあって、嬉しい……」涙が頬を伝い落ちる。「真也、愛してる……」
麻酔が静かに彼女の体を満たし、瞼が重く閉じていく。やがて、その指先も力なくほどけていった。