縁が終わっても、これからの人生はきっと花咲く

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縁が終わっても、これからの人生はきっと花咲く

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式の控え室で、上野千夏(うえの ちなつ)は膨らんだお腹にそっと手を当て、寂しげに目を伏せた。 「春菜、お願い。あなたの病院で、中絶手術...

Chương (1)

第1章

式の控え室で、上野千夏(うえの ちなつ)は膨らんだお腹にそっと手を当て、寂しげに目を伏せた。 「春菜、お願い。あなたの病院で、中絶手術の予約をとってくれない? 日にちは……三日後でいい」 ブライズメイドのドレスを着た親友の中島春菜(なかじま はるな)は、一瞬ぽかんとした顔をした。 「千夏、正気なの? 龍生は精子が弱いから、あなたがこの子を授かるまでにどれだけ苦労したか……漢方を飲んだり、体外受精までして……今日はやっとの結婚式なのに、どうしてそんなこと……」 春菜は千夏の虚ろな黒い瞳を見つめ、結局それ以上の言葉を飲み込んだ。 たった三十分前、千夏が七年も待ち望んできた結婚式は、橋本龍生(はしもと りゅうせい)のアシスタント、松井愛莉(まつい あいり)によってめちゃくちゃにされたのだ。 式場の巨大LEDスクリーンに映るはずだったのは、自分が厳選したウェディングドレス姿の写真だった。 だがそこに現れたのは、愛莉の妊娠検査のカルテだった。 そして、父親の欄には、はっきりと龍生の名前が記されていた。 第1話 式の控え室で、上野千夏(うえの ちなつ)は膨らんだお腹にそっと手を当て、寂しげに目を伏せた。 「春菜、お願い。あなたの病院で、中絶手術の予約をとってくれない? 日にちは……三日後でいい」 ブライズメイドのドレスを着た親友の中島春菜(なかじま はるな)は、一瞬ぽかんとした顔をした。 「千夏、正気なの? 龍生は精子が弱いから、あなたがこの子を授かるまでにどれだけ苦労したか……漢方を飲んだり、体外受精までして……今日はやっとの結婚式なのに、どうしてそんなこと……」 春菜は千夏の虚ろな黒い瞳を見つめ、結局それ以上の言葉を飲み込んだ。 たった三十分前、千夏が七年も待ち望んできた結婚式は、橋本龍生(はしもと りゅうせい)のアシスタント、松井愛莉(まつい あいり)によってめちゃくちゃにされたのだ。 式場の巨大LEDスクリーンに映るはずだったのは、自分が厳選したウェディングドレス姿の写真だった。 だがそこに現れたのは、愛莉の妊娠検査のカルテだった。 そして、父親の欄には、はっきりと龍生の名前が記されていた。 愛莉は泣きそうな顔をして龍生の背中に隠れ、そのか弱い姿はまるで自分こそが被害者かのようだった。 龍生は何事もないように言い放つ。 「愛莉が一人で出産するのは可哀想だと思って、検診に付き添っただけだ。父親の欄は形だけ。俺はせいぜいその子の名付け親ってとこだな」 千夏は、二人の重なり合う手を見つめ、爪が食い込むほど強く自分の掌を握り締めた。 「未婚で子どもを宿した彼女が可哀想なら、結婚式も、旦那も、全部あげるわ」 千夏は唇に冷笑を浮かべ、グラスを掲げて大声で祝福する。 「ご結婚おめでとう。授かり婚だね」 式場は一瞬で凍りついた。 「やめろ!」龍生は険しい顔で、彼女のグラスを乱暴に奪い取った。 「千夏、これは俺たちがずっと待ち望んだ結婚式だろ?こんなくだらないことのせいでぶち壊す気か!」 不機嫌さと苛立ちが滲む声。 千夏は涙がこぼれそうになるのを必死に堪え、かすれ声で叫んだ。 「壊したのは私じゃない!あなたと愛莉よ!」 「あなたは『愛莉は優秀だから』って言って、七年も傍に置いてきた。なのに、こんな大事な場をめちゃくちゃにして、それでもただの事故だと本気で思ってるの?」 あらゆる挑発も悪意も、千夏は公衆の面前で暴き出した。 だが龍生は沈黙したままだった。 その瞬間、千夏は悟った。彼が守るのは、アシスタントの愛莉だと。 二人がなおも手を繋いでいる姿を見て、千夏の心は決然と冷え切った。 「……龍生、私たちは終わりよ。二人の邪魔はしない」 龍生は一瞬呆然とし、次の瞬間激怒した。 「馬鹿言うな!俺と愛莉は潔白だ!妊娠検査の用紙一枚で、七年の愛を捨てるつもりか!? どうしてそんなにせせこましいんだ!子どものこと、少しは考えろよ!」 その言葉に千夏は無意識に腹に触れた。そこには、二人が何よりも望んだ命があるはずだった。 だが今、その命は龍生が彼女を縛るための道具に変わっていた。 わずかに動揺を見せた千夏を見逃さず、龍生はブライズメイドたちに目配せした。すると彼女は控室に連れて行かれる。 千夏は抵抗せず、静かに身を任せた。けれど心の中では、すでに決断していた。 ――龍生との縁を、完全に断ち切ると。 舞台から音楽が流れ出し、千夏は思わず足を止めた。 「……もう別れるって言ったのに、どうして挙式が続いてるの?」 控室を出た千夏の目に飛び込んだのは、祝福ムードに包まれた式場だった。 スクリーンにはなおも愛莉の検査表が映し出され、客達は「松井さんと橋本さんはお似合いだ」と拍手を送っている。 そこへ龍生と愛莉が現れた。 愛莉は彼の後ろから顔を出し、涙ぐんだ声で言った。 「上野さん、全部愛莉のせいなの。お腹の子が暴れるから、写真を間違えてしまったの……叱ってくれてかまわない。 でも今日は取引先もたくさん来てる。式を中止したら、橋本社長の顔に泥を塗ることになるでしょ?だから代わりに私が新婦を務めたの」 「上野さんは大人だから、子どもみたいに拗ねたりはしないわよね?」 千夏は耳を疑い、必死に龍生の顔を伺った。 彼は優しげに千夏の髪を撫でるが、その声音は命令のように強かった。 「俺の意志でもある。機嫌の悪い君を式に立たせたくない。今日は帰って、落ち着いて待ってろ。 千夏、心配するな。橋本夫人の座は永遠に君のものだ」 すぐに護衛が数人、彼女を取り囲む。断れば無理やり連れ出されるだろう。 千夏は唇を噛み、黙って身を翻した。 視界の端で、愛莉が龍生の腕に絡みつき、二人がまるで本物の夫婦のように笑っているのが見えた。 そして、龍生の目の届かない場所で、愛莉が冷たく唇を動かす。 ――「ピエロ」 帰り道、事情を聞いた春菜は怒りで顔を真っ赤にした。 「プロポーズの時は口先だけの『愛してる』ばっかり!結局ぜんぶ嘘だったのね!こんなクズ男、必ず報いを受けるわ!」 その言葉に、千夏の目が一瞬で赤く染まり、心臓は誰かに握り潰されるように痛んだ。 彼女は孤児で、ずっと家族に憧れていた。自分の家庭を持ち、かわいい子どもを育てることが唯一の夢だった。 十八歳のとき、龍生は耳まで赤くしながら彼女に告白した。あの時の彼の瞳は真っ直ぐで、燃えるように熱かった。 「世の中には金も権力もある奴が山ほどいる。でも千夏に手を出せる奴なんて一人もいない。俺が死なない限りはな」 二十二歳、卒業式のとき。龍生は片膝をつき、彼女の手を握りしめて、期待に満ちた顔で言った。 「千夏、俺を待ってくれ。必ず成功して、世界で一番盛大な結婚式をしてやる」 二十五歳、龍生の会社が上場した日。花束と指輪を抱えて、声を震わせながら告げた。 「千夏、俺と結婚してくれないか?一生大事にする。君と赤ん坊を、この世界で一番幸せにしてみせる」 千夏はその約束を信じて、全国の病院を駆け回り、ありとあらゆる苦しみに耐えて、ようやく二人の愛の証を宿した。 だが今――ウェディングドレスを纏い、彼の子を腹に抱えたまま、冷たい風の中を、ただ一人で悲しく歩み去るしかなかった。 過ぎ去った甘い記憶は、まるで体を蝕む毒のようで、心臓を絶えず突き刺してくる。 それでも千夏は冷静に悟っていた。もう彼と戻ることは決してできないのだと。 深く息を吸い、静かな口調で言う。 「春菜、全部終わったら一緒に海外へ行こう」 春菜は涙をこらえ、力強くうなずいた。 「うん。そのときは、あたしがあなたに新しい身分を用意する。もう一生、奴には見つからせないから」 第2話 千夏は一人で、思い出の詰まったあの家に戻った。 春菜の付き添いを断り、どうしても独りになりたかった。最後のひとときを、お腹の中のまだ産まれていない子と静かに過ごし、きちんと別れを告げたかったのだ。 思いは自然と、彼女の人生を変えてしまったあの日へと遡っていった。 ある日、龍生が定期健診で不妊を告げられた。 その瞬間、彼は悪事を働いた子供のようにどうしていいか分からず、千夏の胸に顔を埋めた。 「千夏、どうしたらいいんだ…… 俺は何度も夢見てたんだ。もし子供ができたら、女の子がいいなって。君みたいに目がまん丸で……でも、もう全部無理なんだ……」 普段は仕事で雷のように迅速で、誰にも怯むことのない龍生が、その時ばかりは珍しく声を震わせていた。 あの瞬間、千夏は決めた。どんな代償を払ってでも、二人だけの結晶をこの世に迎えようと。 苦いものが嫌いな彼女が、数えきれないほどの漢方を飲み、怪しげな民間療法にまで手を出した。ムカデを生で飲み込んだり、正体も分からない黒く臭う液体まで口にしたこともあった。 その度に生死の境を彷徨うような苦しみが襲ったが、決して諦めることはなかった。 最後に選んだのは、もっとも過酷な体外受精という道だった。 鋭い針が何度も彼女の腹を突き刺し、耐え難い痛みに意識が遠のきそうになった。 それでも龍生に心配をかけまいと、歯を食いしばり、一度も声を漏らさなかった。 幾度となく繰り返される拷問のような日々――それなのに千夏の心は蜜に浸かるように甘やかだった。二人の愛の希望を抱いていたからだ。 しかし、そのすべては愛莉の登場によって打ち砕かれる。 龍生が愛莉を妊婦検診に連れていったあの日、それは奇しくも千夏が初めて産婦人科を訪れる日でもあった。 すべては、すでに伏線としてそこにあったのだ。 空虚な部屋に、千夏の抑えきれないすすり泣きが響いた。積み重なった屈辱と痛みを吐き出すかのように泣き続け、ついに力尽きて眠りに落ちた。 夢の中で、誰かがそっと彼女の足首をつまみ、慣れた手つきでやさしく揉んでいる感覚があった。 ぼんやり目を開けると、酒に酔った龍生が片膝立ちでベッドの端に座り、手にはマッサージオイルを持ち、妊娠でむくんだ彼女の脚を丁寧にほぐしていた。 だが、この子は結局、この世に生まれることは叶わない。 千夏は顔を背け、音もなく涙が流れ落ちた。龍生に弱さを見せたくなくて、慌てて涙の跡を拭き隠す。 そんな彼の目には、まだ彼女が怒っているように映ったのだろう。罪の意識に顔を曇らせ、彼はベッドの縁に腰を下ろし、小声で耳元にささやいた。 「ごめん、会社が上場したばかりでさ……結婚式であんな大失態があったら、取引先に響く。まだまだ君と赤ちゃんを養うために稼がないといけないんだ。だから怒らないで。 愛莉との事は、ただの芝居だ。もう少し様子を見たら、もっと盛大でロマンチックな結婚式をやり直すから」 龍生の弁解を、千夏は顔色ひとつ変えずに聞き流した。何も言わず、何の反応も示さない。 彼女の唇の色があまりに青ざめているのを見て、龍生は一気に慌て始めた。 「怒るなって。医者が言ってたろ、妊婦の感情の波はお腹の子に悪いんだ。 結婚式の後で、ちゃんとお詫びの品を選んできたんだ。ちょっと見てくれないか?」 不安でいっぱいの瞳で、必死に許しを乞い続ける男が目の前にいる。 千夏はかすかに口角を上げた。 「ふうん……私たちにも、子供がいるってこと、まだ覚えてたんだ」 その一言に、龍生の身体がピクリと硬直した。慌ててポケットから小さな箱を取り出し、開けて見せる。そこには緑の翡翠を嵌めた胸飾りが収められていた。 龍生はそれを取り出し、千夏の手を取ってそっと触れさせ、説明を始める。 「見て、外側の銀の線はピーナッツの形をしていて、多産と繁栄の意味がある。その中に小さな翡翠が包まれているだろ。俺がそうやって、君と赤ん坊をしっかり守るって意味なんだ」 彼の甘い言葉は、相変わらず人を引き込む。子供のことを大切に思っている気持ちに嘘はなかった。 愛莉との健診の日以外は、子供に関することは何でも自ら手を動かしてくれていた。 新米ママの講習にまで参加し、赤ん坊の世話を真剣に学んだほどだ。 千夏は確かに彼の真心を感じた。けれど、それ以上に愛莉へ注がれる気遣いを敏感に悟ってしまった。 彼女の虚ろな顔色を見て、龍生は再び手を握りしめた。 「千夏……君と赤ちゃんは、俺にとって一番大切で、何よりも守りたい存在なんだ。他には誰もいない。君らのためなら、俺はなんだってやる」 その言葉に、千夏の心は揺さぶられた。 七年の歳月の中で、二人の人生は深く絡み合い、離れることなど考えられないほどだった。 無理に引き裂けば、心の肉を抉り取られるように血が滲む。 彼女は少し声を柔らげ、淡い期待を込めた。 「龍生、明日は二回目の健診なの……」 その瞬間、龍生のスマホが明るく点いた。 そこに浮かび上がったのは「愛莉」と登録されたメッセージ。 【橋本社長、お腹が急にすごく痛くて……怖いです。今すぐ来ていただけませんか?】 第3話 携帯のロック画面には、愛莉からのメッセージと検診予定のカレンダー通知が並んで表示されていた。まるで二本の鋭い針のように、千夏の心臓に突き刺さる。 「龍生、明日一緒に来てくれるよね?」 千夏は初めて無力な視線を夫に向けた。その瞳にはかすかな祈りさえ宿っていた。 龍生はこの得難い子どもをずっと大切にしてきた。しかし、最初の検診の時、愛莉のせいで彼は姿を見せなかった。 今回こそ――千夏は唇を噛み、もう一度だけチャンスを与えることにした。愛情を修復できる、最後の機会を。 数秒の沈黙が、まるで永遠のように重かった。 龍生は苦しげに、ため息を含んだ声で口を開いた。 「千夏、今日の披露宴は愛莉が全面的に助けてくれたんだ。彼女のおかげで無事に終えられた。でもさ、その彼女のお腹の調子が急に悪くなっちゃって……俺たちにも責任があるだろ」 千夏の表情は急速に冷え、胸の奥でかすかに芽生えた感動は瞬時にかき消えた。 「……うん」 彼女が頷くと、龍生は勢い込んで数歩近づき、手を握りしめて持ち上げるように言った。 「ありがとうな、やっぱり君は一番わかってくれる」 千夏は深呼吸して、心の底に隠し続けてきた言葉を一気に吐き出した。 「それで……別れる件、考えてくれた?」 その一言で、龍生の表情が一瞬にして曇った。 「別れるってどういう意味だ?」 声を張り上げると、続けざまに怒鳴りつける。 「俺は橋本社長だぞ。プレゼント買って謝って、ひざまずいて揉んでやるほど下手に出てるんだ。これ以上何を望むってんだ。図に乗るなよ!」 彼の口元には冷笑が浮かんでいた。その眼差しには軽蔑の色が満ちていた。まるで、言うことを聞かない飼い犬でも見ているかのようだ。 千夏はただ冷ややかに頷くだけで、余計な言葉は吐かなかった。 その顔を見つめながら、彼女の脳裏には昔の龍生が蘇る。笑顔が眩しかった少年時代の彼――その記憶が、愛という免罪符になっていたのかもしれない。長年の変化や二人の間に走った亀裂を、見ないふりさせてきた。 「千夏、よく考えとけよ。君は俺と七年も付き合って、しかも今は俺の子まで孕んでる。そんな重荷背負った女、誰が好き好んで拾うんだ」 その言葉は刃物のように千夏の耳を刺し、震えが止まらなかった。 「一晩やるから、家でちゃんと考えろ。いい子にしとけよ」 吐き捨てると、彼は踵を返して出て行った。ドアには鍵がかけられ、金属音が響いた。 千夏の目には、彼の震える手と不安げな足取りが映っていた。心がレモン水に浸されたように、ひどく酸っぱく、苦しかった。 ――そうか、彼はこれほどまでに愛莉を心配しているのだ。自分の声に耳を傾ける余裕さえ持たないほどに。 彼女は携帯を取り出し、震える指で春菜へメッセージを送った。新しい身分の手配がどうなったかを尋ねる。 すぐに返事が届いた。 【千夏、もう全部用意したよ。新しい身分はA国。子どもを亡くした老夫婦がいて、とても優しい人たち。あなたを受け入れてくれる。もう誰にも見つからない】 その文字を見て、ほんの少しだけ心が落ち着いた。 千夏は熱いシャワーを浴び、争いによる汗を洗い流し、布団に横たわった。 だが夜半、突然激しい痛みに目を覚ます。腹部が絞り上げられるように痛み、呼吸すら困難。冷や汗が額を伝い、手は震え続けていた。 「龍生……」 反射的に彼へ電話をかけた。鍵がかかっている以上、誰かを呼ぶ手段はそれしかなかった。 長い呼び出し音の後、ようやく繋がる。激痛に耐えながら、声を振り絞る。 「龍生……お腹……すごく痛い……」 「千夏、君いつからそんなに妬ましくなったんだ?愛莉がお腹の調子が悪ければ、君もお腹の調子が悪いと?俺を三歳児だと思ってるのか?」 彼の声は次第に冷え、最後には冷酷さを帯びていた。そこに心配も労わりもなかった。 千夏はもう声を発することすらできず、沈黙が続いた。 その沈黙すらも、龍生には「認めた」と解釈されたのだろう。 「もう茶番はやめろ。俺は暇じゃねえんだ」 直後、受話口から甘ったるい声が響いた。 「龍生、ちょっと来てくれる?妊婦だと体拭くの大変で……手伝ってくれない?」 ――愛莉だった。 龍生は軽く怒鳴るように数言言い残し、慌ただしく電話を切った。 千夏は必死で体を起こした時、自分が泣いていることに気づいた。 ――やっぱり、悲しい。まだ、こんな男のために涙を流してしまうなんて。 彼女は自分で救急車と鍵の業者に電話をかけた。その数字を押すだけでも、全身の力を振り絞らねばならなかった。 ほどなく救急車が到着し、彼女は担架で運ばれていった。シーツには真っ赤な血が広がり、寝間着を染めていく。 枯れかけた薔薇のように、千夏は天井を虚ろに見つめ、無数の管をつながれていった。 携帯には、龍生の最後のメッセージが残っていた。 【小細工はやめろよ。俺は昔の素直な君が好きなんだ】 千夏は痛みに顔を歪めながら、震える指で言葉を打ち込んだ。 【もうすぐ……迷惑かけなくなるから】 その瞬間、視界が真っ暗になり、意識を失った。 第4話 千夏が再び目を覚ましたのは、もう翌日の午前だった。 医師が回診に来たとき、腹部の激しい痛みはもう収まっていたものの、身体はまだひどく虚弱なままだった。 「先生、私……どうしたんですか?」 千夏の問いかけに、医師はカルテをめくりながら徐々に眉間を寄せていった。 「これは試験管ベビーだよね?やっと授かった命なのに、なぜ明後日の中絶手術を予約してるんだ?」 返事をする間もなく、医師は切なそうに言葉を続けた。 「赤ちゃんはまだ小さいけれど、立派に一つの命だ。母親の感情だってちゃんと伝わるんだよ。もしあなたが望まないって思えば、赤ちゃんも傷つくんだ」 千夏は一瞬呆然として、その言葉に胸の奥底を鋭く突かれた。無意識に、自分の下腹部へ手を添える。 そこには、自分が数え切れないほど待ち望んできた小さな命が宿っている。 妊活を始めて以来、龍生は大切な宝を守るかのように、千夏のすべてを背負ってくれていた。 薬を飲む時間からリハビリのスケジュール、そして医師選びに至るまで、細かいことから大事なことまで、彼は必ず自ら関わってきた。 胚検査の日、龍生は数百万円規模の商談までキャンセルし、結果を一刻も早く知るために病院の廊下を行ったり来たりしていた。 精子が弱い彼にとって、いくつもの胚は失敗に終わり、今回のが最後のチャンスだった。 あの日の彼は、あの堂々とした橋本社長とは思えないほど落ち着きを失っていた。 「千夏、赤ちゃんのことが心配で仕方ないんだ」 彼は千夏の手をぎゅっと握りしめ、その手のひらはじんわりと汗で濡れていた。 神仏を信じたことのない龍生が、その時ばかりは本気で祈った。 「この子が無事に生まれるなら、俺の寿命を削ってもいい」 「何を馬鹿なこと言ってるの」 千夏はそう言って彼の肩を軽く叩いたが、その手はかすかに震えていた。 医師から成功を告げられたあの瞬間、千夏は喜びで涙が止まらなくなり、長い時間泣き崩れた。 この子は自分の血肉であり、数え切れない努力と痛みの結晶でもある。 「少し考えてみます……」 その言葉を待っていたかのように、医師はすぐに安胎薬を処方し、細かく注意を与えてきた。 「この薬は一日三回。感情の起伏に気をつけてね。強いストレスがあれば赤ちゃんは持たない可能性がある」 千夏は重たい薬袋を下げて帰路についた。 龍生が「子どもが好きだ」と言った、その一言のためだけに、これ以上に苦くて大量の薬を飲んできた。 だが彼の「好き」は、全ての子どもに向けられていた。 もちろん愛莉のお腹の中の子どもも含めて。 「龍生……やめて……」 ふいに艶やかな吐息混じりの声が耳に届き、馴染み深い呼び名が千夏の心を一気に凍りつかせた。 手に提げていた袋が床に落ち、鈍い音を響かせる。 だが車の中の男女は互いの世界に溺れ、気づきもしない。 誕生日にプレゼントされたあの高級車の助手席に、愛莉は当然のような顔で座っていた。目元は赤く腫れ、泣いた直後のように見える。手で唇を押さえながら、甘えるように呟いた。 「龍生、痛いよ……」 千夏の頭はくらりと揺れ、それ以上耳を塞いでも意味がなく、逃げ出すように家へ戻った。 激しく上下する胸を押さえながら、短い呼吸を繰り返す。 涙は音もなく頬を伝い、腹の中の赤ちゃんも、母の心の痛みを感じているかのように静かだった。 やがて龍生がドアを開け、部屋に入ってきた。 千夏はソファに身を預け、彼を見ようともしなかった。 「ごめんな、千夏。遅くなっちゃった」 彼の声は妙に媚びた響きを帯びていた。千夏のもとへ早足で近づき、隣に腰掛けて肩をやさしく抱いた。 「会社で少し手間取ってね。妊婦検診、大変だったろう?先生はお腹の赤ちゃんのこと、何て言ってた?」 彼は彼女のお腹へそっと手を伸ばし、その表情は心からの心配を滲ませている。 千夏が言葉を発しないまま黙り込んでいると、龍生の眉はますます曇り、手にした袋をテーブルに置いて見せつけるようにした。 「輸入の安胎薬、買ってきたよ。すごく効くらしい」 彼はソファのへりに腰を掛け、柔らかいが強引な手つきで千夏の身体をこちらに向けた。 「大丈夫」 千夏は淡々と口を開いた。 「先生は赤ちゃん元気だって」 視線の端に映ったその袋には、高価な輸入薬が綺麗に収められており、陽光を反射して冷たい光を放っていた。 龍生は安堵したように大きく息を漏らす。 「よかった……赤ちゃんのことが心配で、仕事に集中できなかったんだ」 だが、彼からは馴染みのない香水の香りがわずかに漂っていた。 その角度からはっきりと見えた、シャツの襟元に残る赤いキスマーク。 千夏は心の奥まで打ちひしがれ、虚ろな瞳を閉じ、これ以上は言葉を交わしたくなかった。 「埋め合わせに、一緒にベビーシッターを選びに行かないか?」 彼は千夏の変化にまるで気づかず、一人で話を進めていた。 千夏は争う気力もなく、ただ流されるように立ち上がり、彼と共に外へ出た。 玄関に差しかかったその時、外はいきなり大粒の雨に覆われ、二人は傘がなく足止めされてしまう。 「急に降り出すなんて……今日はやめておこうか」 龍生がそんな言葉を口にしかけた瞬間、雨の向こうに視線を奪われて動きを止めた。 そこには白いワンピースを着た愛莉の姿があった。真っ青な顔で雨に打たれ、まるで一輪のか弱い白い花のように立ち尽くしている。 「龍生……ごめんなさい。私、迷惑かけてる……?」 第5話 「龍生、急に雨が降ってきて、帰りの車が捕まらないの……」 愛莉は雨の帳の中に立ち、声には頼りなさと甘えが滲んでいた。 濡れたワンピースが体にぴたりと張り付き、しなやかな曲線を浮かび上がらせる。乱れた髪が頬に貼り付き、その姿は一層儚げだった。 龍生は緊張したように振り返り、千夏に視線を送った。 「千夏、誤解するなよ。愛莉は大事な書類を届けに来ただけなんだ。赤ちゃんのためにも、感情を抑えないと」 必死に弁解する龍生の瞳に、一瞬走った迷いを、千夏ははっきりと見逃さなかった。 千夏は冷たく笑い、ゆっくりとうつむく。長いまつ毛が、心の奥から溢れる感情を隠すように影を落とした。 子どもを守るというのは、彼女に堪え忍ばせることなのか。愛莉に出しゃばらせないよう釘を刺すことではなく。 その「守る」という名目は、ただの残酷な束縛にしか思えなかった。 愛莉が苦しげなうめき声をあげる。次の瞬間、龍生は慌てて駆け寄り、迷わずジャケットを脱いでその肩に掛けた。 二人の身体はぴたりと寄せ合い、愛莉の胸元が龍生の腕にすり寄る。その光景は千夏の目を突き刺すほど痛々しかった。 龍生の動きが一瞬ぎこちなくなり、喉が上下し、かすれた声が漏れる。 「大丈夫だ。俺が送っていく」 その言葉に、千夏はすぐに気づいた。彼の体が反応している、と。 唇の端に嘲るような笑みを浮かべ、二人を一瞥もせず、背を向けて雨の中へと歩き出した。 雨は、止む気配を見せなかった。 千夏は粥の香りに目を覚ました。 目を開けると、龍生が湯気の立つお粥を持ち、ベッドのそばで優しく見つめていた。 「千夏の寝顔、すごく可愛いな。俺たちが出会ったころを思い出すよ。あの時も思ったんだ……君は本当に綺麗だって」 昨日おとなしかった千夏に満足しているのか、甘い言葉を惜しみなく口にする。 「君を一生家に閉じ込めておきたいよ。そしたら絶対離れていかないだろ」 付き合っていた頃、そんな言葉を何度も聞いた。 その度に千夏は頬を赤らめ、彼の胸を軽く叩き、恥ずかしいと言いつつも心は甘い幸福感で満ちていた。 だけど今は違う。かつて家に閉じ込められた記憶が鮮明に蘇り、背筋がぞくりと震えた。指先まで止まらない震えが走る。 袖口に手を隠しながら、龍生の目から何かを読み取ろうとしたが、そこに映るのは、虚飾に満ちた柔らかさだけだった。 「さあ、少し食べよう。もうベビーシッターセンターに予約を入れてる。一緒に見に行こう」 しかし千夏には打ち明けられない計画があった。春菜と約束した日が迫っている。 それが唯一の逃走の機会、逃せば終わりだ。だから彼の言葉に従うようにお粥を口にし、後ろについて外へ出た。 ベビーシッターセンターの受付は、明るく広々としていた。 笑顔の受付員がサービス内容を丁寧に説明する。待合スペースには……愛莉の姿があった。 ピンク色のワンピースに身を包み、完璧なメイクで、くつろぐように座っている。 龍生が言い訳を探す前に、千夏が口を開いた。 「松井さんもいたんですね、偶然ですね」 あまりに平然とした口ぶりに、愛莉は唇を噛み、不満げな光を瞳に宿した。 やがて、制服姿のベビーシッターたちが列をなして現れる。笑顔で並び、客の選択を待っていた。 千夏はすでに中絶を決めている。選ぶ気などなく、虚ろな目で前を見つめ続ける。 一方の愛莉は、すっかり母親の顔になり、ベビーシッターを一人ひとり囲んでは経験や育児について矢継ぎ早に質問していた。 ようやく人を選んだものの、会計には進まず、腹をかばいながら龍生に甘えるような視線を送る。 「この前の結婚式でミスをして、自分で罰として一ヶ月の給料を返上したの……だからお金が足りなくて」 「俺が払うさ。従業員への福利厚生だと思えばいい」 龍生は一瞬ためらい、すぐに頷いた。 その様子を横で見ていた千夏は、茶を口につけながら皮肉な笑みをこぼす。 「待って」 「千夏、またわがままか?愛莉は俺たちの結婚式のために給料を失ったんだぞ!」 怒りを含んだ龍生の視線を受け止め、千夏は淡々と指さした。 「あなた、誤解してるわ。カードを間違えてるの。そっちじゃ残高がないから、こっちを使った方がいい」 細い指先から差し出されたカードを見つめ、龍生の心臓がどくんと跳ね上がる。 そのカードを受け取ったら、大切な何かを失う気がした。 考える間もなく、隣から押し殺したすすり泣きが聞こえてきた。 「ご迷惑をかけてしまって……上野さん、怒らないでください。このベビーシッターは諦めます」 泣き声に混じったその声は、ひどく哀れを誘うものだった。 龍生は思わずカードを掴み取り、会計へ走った。 千夏は呆れたように二人を見やり、立ち上がる。腕を組み、その目は冷え切っていた。 「私が欲しいって言った?ある人にとっては宝物でも、私にはただの普通のものよ」 声は小さかったが、その場にいた誰もがはっきりと聞き取れた。 愛莉は大きな悲劇に見舞われたかのように、ふらりと龍生の胸に倒れ込む。 龍生の表情から血の気が引き、彼女を抱きかかえて医者を呼ぶ声を上げ、駆け出していった。 去り際、赤く充血した目で千夏を睨みつけ、低く警告を残す。 「もし彼女のお腹の子に何かあったら……お前が責任を取れ!」 第6話 千夏は、この茶番がただただくだらなくて仕方がなかった。 龍生は、まるで忘れ去ったかのように知らん顔をしている。けれど千夏のお腹にいるのは、彼が神に祈り、九百九十九段もの階段をひたすら一歩ずつ頭を下げながら登り、ようやく授かった子どもだった。 一方で、愛莉のお腹の子どもには、本来の父親がいるはずで、彼らとは何の関係もない。 もともと千夏はこのベビーシッターセンターに来ること自体、心の底から嫌でたまらなかった。だからこの混乱に紛れて、そっと家に帰った。 家に戻るなり、慌ただしく荷物をまとめ始める。 今日はしっかり眠って体を休め、明日の中絶手術を終えたら、春菜と一緒に遠くへ行く。そして、この傷だらけの場所から離れるのだ。 携帯が「ピロン」と鳴り、メッセージが飛び込んできた。 【龍生と結婚してるからって何?愛されない方こそが愛人なのよ。今は私が上、お腹の赤ちゃんが生まれたら、あなたの子なんて踏みつけにしてやる!】 続けて、もう一通。 【龍生は私にこんなにも優しいの。ねえ、もしかしたら本当に私のお腹の子の父親になってくれるかもよ。どっちの子を可愛がるのかしらね】 千夏は画面を凝視し、震える手で番号をブラックリストに入れると、そのままスクリーンショットを撮って龍生へ送った。 それからやっと身体を横たえ、そっとお腹に手を当て、小さな命に別れを告げた。 「ごめんね、赤ちゃん……パパは多分、私たちのことをそこまで愛していないの。だからママは、あなたをこの世界に連れて来られない。また縁があったら……ママのところに来てくれる?」 手術は翌日の午前中に予約されていた。 朝食を食べ終えても、龍生はまだ戻って来なかった。 その方がいい、邪魔されずに済むから。 荷物を持ち、家を一歩ずつ出ていく。 病院で手術を待つ列に並んでいると、足元がじわっと濡れていく感覚がした。 ゆっくり下を見ると、白いズボンに真っ赤な血が広がっていた。 大慌てで駆け寄ってきた看護師に支えられ、千夏はそのままベッドへ運ばれる。 ぼんやりとした目で天井を見つめながら、ふと医者の言葉が頭をよぎった。 「子どもは、自分が望まれていないと感じたら、自ら旅立つことがあるよ」と 。 まさか……赤ちゃんは、母親に中絶の重荷を背負わせないために、自分から去ることを選んだのだろうか? そう思った瞬間、涙は糸が切れたように零れ落ち続けた。 腹部に残るのは、わずかな鈍い痛みだけ。 不安と恐怖で目を大きく見開き、空をつかむように手をばたつかせる。 やっと隣の看護師の手をつかんだ。温かくて柔らかいその手だけが、今の彼女の唯一の拠り所だった。 看護師はすぐに握り返し、切迫した声を上げた。 「赤ちゃんはもう危ない!ご親族はどこにいる?すぐに署名させて!」 千夏は震える声で答える。 「私は中絶手術を予約した……すでに署名はしてある……」 看護師は厳しい口調で返した。 「でも今のあなたの状況はは危険すぎる!もう一度署名が必要よ!」 震える指で電話をかけ、龍生に繋がる。 「龍生……病院に……来てくれる?」 受話器の向こうは小さな呼吸音だけ。 突然、背景に病院のアナウンスが流れ、次の瞬間、通話は途切れた。 千夏は彼がすでに病院に来てくれたのだと思った。だが待てど暮らせど、姿は見えない。 看護師の催促はどんどん強まり、千夏の呼吸は荒くなっていく。 必死に身体を起こし、彼の姿を探し回る。 だが、どこにもいない。 そのとき、見慣れた影が視界をかすめた。 心臓がぎゅっと縮む。龍生が、愛莉の手を優しく支え、顔を寄せて囁いていたのだ。 愛莉はお腹を撫でながら、恥ずかしそうに頬を赤らめる。 二人はまるで夫婦そのもののように、笑顔を交わしていた。 愛莉の視線が鋭く千夏を捉える。そして勝ち誇ったように唇の端を吊り上げた。 龍生は病院にいた。けれど、それは愛莉のためだった。 千夏はその場で力が抜け、ベッドに崩れ落ちた。 「子どもの父親は死んだ……私が自分で署名する」 第7話 手術はあっという間に終わった。 千夏がゆっくりと目を開けると、病室は相変わらず静まり返っていて、龍生の姿はどこにもなかった。 彼女は手を下腹部に当てた。そこは、あまりにも静かだった。 涙が糸の切れた真珠のように、次々と頬を流れ落ちた。 妊娠を知った日のあの溢れるような喜びから、たった二ヶ月あまりで子供を失うこの結末へ――それは終わりなき残酷な悪夢のようだった。 母と子、本来ならこの世で最も近しい存在。命が芽生えたその瞬間から、片時も離れることなく結ばれているはずだった。 だが今、その絆は無情に断ち切られてしまった。その痛みは骨の髄まで染み渡り、愛莉が龍生にべったり寄り添う姿を見る時よりも、二人が抱き合っているのを目の当たりにする時よりも、何千倍何万倍も辛かった。 「ごめんね、赤ちゃん」 千夏は声を詰まらせながら、もうこの世にいない我が子に再び謝った。 短く休んだあと、彼女は極限まで衰弱した身体を無理に支え、退院の手続きをしに立ち上がった。 春菜が待っている。 会計窓口で、千夏はよく知る人影と鉢合わせした。 龍生が愛莉を気遣うように支えながら、産婦人科からゆっくり出て来るところだった。 最初に千夏に気づいたのは愛莉だった。その目に一瞬だけ誇らしげな光が差し、すぐに取り繕うように慌てたふりをして龍生の腕を放した。 そして少し顔を上げ、か弱い声で千夏に呼びかける。 「上野さん、どうしてここに……」 すぐさま言い訳をするように続けた。 「誤解しないでください。私、感情が高ぶって赤ちゃんに影響しそうだったので、龍生にお願いして病院まで送ってもらっただけなんです」 千夏の名を聞いた瞬間、龍生の身体が一瞬だけ強張り、慌てて愛莉の手を離した。 しかし、すぐに眉間を緩め落ち着いたふうを装いながら言う。 「大丈夫、そんなに気を張らなくていい。千夏は君を責めたりしない。 元々は彼女の方に非があるんだ。彼女がわざときついこと言わなければ、君だって入院することはなかった」 千夏は冷ややかに愛莉を見やった。頬は血色よく艶やかで、ベビーシッターセンターで訴えていた腹痛で耐えられない姿なんてどこにもなかった。 視線を龍生に移すと、彼はただただ心配そうに愛莉を見つめており、千夏の蒼白な顔も、今にも倒れそうな身体にも全く気づかない。 あのメッセージを見てくれたのかどうか―――もう、そんなことはどうでもよかった。 目の前で掛け合いのように演じる二人を眺めるだけで、胸の底から嫌悪感が込み上げる。 術後の身体は極度に虚弱で、立っているだけでも地獄のように苦しい。足は力を失い、今にも崩れ落ちそうだった。 「へぇ……橋本社長の会社は随分と福利厚生が充実してるのね。ベビーシッターの費用も出るし、社長自らアシスタントの健診に付き添ってくれるなんて」 千夏は皮肉を込めて言い放った。 愛莉は慌てて歩み寄り、千夏の手首を握った。目元には涙を浮かべている。 「上野さん……龍生のこれまでの尽くし方を無視するとしても、そんな皮肉な言い方で龍生を傷つけるなんて……ひどいです。彼はあなたをこんなに愛してるのに。お願いです、どうか私のせいで二人の関係が……あっ!」 言い終える前に、愛莉は千夏の腕を力いっぱい押し、自分の身体を後ろへ倒した。 腹部を床に強くぶつけ、顔を歪めて地面にのたうち回りながら、両腕でお腹を必死に抱え、悲鳴を上げる。 「龍生っ!痛い……赤ちゃん……赤ちゃんは……!?」 「千夏!」 龍生の顔から血の気が引いた。 彼は反射的に千夏を突き飛ばし、蒼白な愛莉を抱きしめる。その瞳には溢れるほどの心配と痛ましさが宿り、愛莉こそが全てであるかのように見えた。 「お前は、日頃の鬱憤を俺にぶつけるだけならまだしも、愛莉はお前と同じ妊婦なんだぞ。どうして突き放すような真似をする!もしものことがあったらどうするつもりだ!」 視線はどんどん冷たくなり、まるで見知らぬ人を見るかのように千夏を睨む。 「ベビーシッターセンターの時の話もまだ片付いてないのに、今度はそれ以上のことを……他人のことを思いやれないのなら、せめてお腹の子のために善行の一つでも積んだらどうだ!」 千夏の腰は机の角に強く打ち付けられ、瞬時に冷や汗が額いっぱいに浮かんだ。 彼女は目の前の二人を、ただ虚ろに、絶望の中で見つめ続ける。 あの子は、もういない。 なのに、この男は別の女のために――まだ自分に刃を突き立てていた。 愛莉が涙で潤んだ瞳のまま口を開いた。 「龍生……どうか上野さんを責めないでください。私が自分でバランスを崩しただけ。悪いのは全部私です。上野さんがわざと私を突き飛ばすなんて、あるはずないですから……」 その言葉を聞けば聞くほど、龍生の表情は暗く険しくなっていく。 「千夏、謝れ!」 第8話 「彼女は自分で転んだフリをした」 千夏は眉間に深い皺を寄せ、歯の隙間から声を絞り出すように言った。 「私に、彼女を押す力なんてないわ。全部、彼女の自作自演なのよ。どうして、私が謝らなきゃいけないの?」 今の千夏は、傍らの机にすがりついてやっと地面に倒れ込まずに済んでいた。 龍生の視線は刃のように鋭く、全てを貫くように千夏に突き刺さる。 「お前が言いたいのは、愛莉が腹の子の命を使ってまで、わざとお前を陥れたってことか。 自分の子供をそんなふうに利用する母親がどこにいる。彼女に何の得があるんだ?」 千夏は他の女を必死で庇う龍生をじっと見つめ、その瞳は水底のように静まり返っていた。 沈黙の後、口元に皮肉な笑みを浮かべて言う。 「もちろん、橋本夫人の座のためよ。私はもう別れを切り出したわ。あなた達の望み通りに」 結婚式の前に婚姻届を出していなかったことを、この時ほどありがたく思ったことはなかった。離婚の話し合いにまで進まずに済んだからだ。 龍生の顔に一瞬で陰りが走り、呼吸は荒くなる。 「千夏!俺は一度も別れるなんて言ってない! 最初から最後まで勝手に暴れてるのはお前だ。分かれたいだと?ふざけるな!今日、病院で起こったこと全部、愛莉に対する謝罪としてお前が処理してこい!」 千夏は視界がますますぼやけ、頭もくらくらしていた。春菜との約束の時間は刻一刻と迫ってきている。焦燥が胸を締めつけ、ただこの息苦しい場所から離れたいと願うばかりだった。 だが踵を返そうとした瞬間、龍生に乱暴に腕をつかまれた。 「お前の友達の春菜、最近大金を入れて会社を立ち上げたばかりだろ?その資金を丸ごと水の泡にしたくはないよな」 龍生の声は氷のように冷たく、蛇の舌のようにぞっとするほど陰湿で、千夏の背を悪寒が駆け抜けた。 「……私を脅してるの?」 「千夏」 龍生の口元に冷酷な笑みが浮かぶ。その瞳には露骨な威圧が宿っていた。 「先に脅してきたのはお前だろ。俺はお前を何年も養ってきた。ようやく俺達の子供も授かったんだ。逃げられると思うな」 その言葉に、千夏の胸は無数の針で刺されたように痛み、一度鼓動する度に胸の奥に激痛が走る。 子供が欲しいと言ったのは龍生だった。だから彼女は苦しさに耐えた。 けれど結果は、自分の子供が他人の子供に踏みにじられる仕打ち。 妊活が辛いと言ったのも龍生だった。だから彼女は仕事を辞め、夢まで捨てて体外受精の準備に専念した。 だが最後には、「男に寄生するだけの女」だと罵られる。 滑稽で、そして耐えがたい屈辱だった。 千夏は手に握った流産の診断書をきつく握りしめ、龍生の冷たい瞳を見つめて、歯を食いしばりながら答えた。 「……わかった」 どうせ今日を越えれば、ここを、そしてこの男を二度と見なくて済む。 今は耐えればいい、それだけだ。 愛莉は挑発するように視線を寄越しながらも、声色だけは遠慮がちで可哀想ぶる。 「上野さんは妊娠中なんです、こんなふうに一日中走り回ったら体に障りますよ」 龍生は書類を全部千夏に押し付けた。 受付、検査、報告書の受取、会計…… そして愛莉を振り返ると、口調は一変して優しくなる。 「大丈夫だ。二ヶ月経てば安定期だし、一日くらい動き回っても支障はない。俺が普段から甘やかしすぎたんだ。これを機に妊娠中の大変さをちょっとは味わわせてやらないとな」 だが千夏に向き直った時、その声は再び冷たく落ちた。 「検査、一つも漏らすな」 千夏は唇を結び、何も言わず、虚ろな体で各科を駆け回った。 歩を進める度に、腹部を鋭い痛みが貫く。内側で刃物がかき回されているかのようだ。 流産したばかりの体では到底こなせる労働ではなかった。数歩歩くだけで全身が針で突き刺されるように痛む。その苦しみは手術そのものよりも強烈で、身体中が裂けてしまいそうだった。 夕方、ようやく千夏は愛莉の入院手続きをすべて整えた。 書類の束を無造作に龍生の胸に押し付けると、もう限界だった。力尽きたように椅子に倒れ込む。 顔は真っ青で紙のように血の気がなく、額は冷や汗でびっしょり。湿った髪が頬に張り付いている。 薄い衣服も冷汗に濡れ、吹き込む風が骨にまで沁みて震えが止まらなかった。 龍生はまだ顔を険しくしており、口元を歪め嘲ろうとした。 「また大げさに……」 だがその言葉が終わる前に、傍らから悲鳴が上がった。 「血だ!大変だ!血がすごく出ている!」 周囲の視線が一斉に集まる。 千夏が呆然と視線を落とすと、温かい液体が腿を伝い、ズボンを真っ赤に染め上げていた。 流産後の大出血――! 次の瞬間、山のように覆いかぶさる激痛が腹を貫き、体から一気に力が抜けて暗闇に引きずり込まれる。 意識が途切れる瞬間、千夏は龍生の怯えきった顔を見た。 「千夏!」