すれ違い

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薄暗い個室の中、児玉茂香(こだま しげか)はずぶ濡れのまま中央に立ち尽くしていた。血の気が引いた頬は凍えるように冷たく、その色は失われ...

Chương (1)

第1章

薄暗い個室の中、児玉茂香(こだま しげか)はずぶ濡れのまま中央に立ち尽くしていた。血の気が引いた頬は凍えるように冷たく、その色は失われていた。寒さで震えが止まらず、ビンタされた頬がヒリヒリと痛んだ。 再び、氷水の入ったバケツが頭から浴びせかけられたその時、無機質なシステムの音声が響いた。 「宿主様、任務完了が近いことを検知しました。もう少しの辛抱です」 茂香は思わず息を呑んだ。胸がキュッと締め付けられ、今にも泣き出しそうだった。 3年間、耐え忍んできた。やっと、愛しい彼と再会できるのだ。 茂香は柏原若彰(かしわら わかあき)など好きではない。彼女が愛しているのは、朝霧陸(あさぎり りく)という男だ。 陸とは幼馴染として育った。生母を亡くし、この世界で恐ろしい継母にいじめられていた時に、彼女を守ってくれたのは陸だけだった。 愛情に飢えていたあの頃、茂香は陸と出会った。それ以来、彼女の心の傷を癒せるのは陸だけだった。 数えきれないほどの昼と夜を、陸はそばにいてくれた。もうすぐ結婚し、やっと安らぎの場所が手に入ると思った矢先、陸は死んだ。 何者かの罠にはまり、出張先で崖から転落。遺体すら見つからなかった。 絶望の淵に立たされ、陸の後を追おうとした茂香の前に、システムが姿を現した。 任務は、柏原若彰と結婚すること。 結婚式さえ無事に終えれば任務完了となり、陸は戻ってくるという...... 第1話 薄暗い個室の中、児玉茂香(こだま しげか)はずぶ濡れのまま中央に立ち尽くしていた。血の気が引いた頬は凍えるように冷たく、色を失っていた。寒さで震えが止まらず、ビンタされた頬がヒリヒリと痛んだ。 再び、氷水の入ったバケツが頭から浴びせかけられたその時、無機質なシステムの音声が響いた。 「宿主様、任務完了が近いことを検知しました。もう少しの辛抱です」 茂香は思わず息を呑んだ。胸がキュッと締め付けられ、今にも泣き出しそうだった。 3年間、耐え忍んできた。やっと、愛しい彼と再会できるのだ。 茂香は柏原若彰(かしわら わかあき)など好きではない。彼女が愛しているのは、朝霧陸(あさぎり りく)という男だ。 陸とは幼馴染として育った。生母を亡くし、この世界で恐ろしい継母にいじめられる時に、彼女を守ってくれたのは陸だけだった。 愛情に飢えていたあの頃、茂香は陸と出会った。それ以来、彼女の心の傷を癒せるのは陸だけだった。 数えきれないほどの昼と夜を、陸はそばにいてくれた。もうすぐ結婚し、やっと安らぎの場所が手に入ると思った矢先、陸は死んだ。 何者かの罠にはまり、出張先で崖から転落。遺体すら見つからなかった。 絶望の淵に立たされ、陸の後を追おうとした茂香の前に、システムが姿を現した。 任務は、柏原若彰と結婚すること。 結婚式さえ無事に終えれば任務完了となり、陸は戻ってくるという...... 児玉夫人になった継母は、まるで虎の威を借る狐のように振る舞い、最も有力な財産相続人である茂香を追い出したくてたまらなかった。まるで筋書きがあったかのように、茂香と若彰の婚約はとんとん拍子で決まった。 結婚式は来月。そのため、茂香は若彰がこの間に問題を起こさず、婚約が滞りなく進むことさえ保証されれば、この地獄から抜け出せるのだ。 柏原若彰という男に対する茂香の評価は、ただ一つ。 愛情に飢えた、繊細で、性悪で幼稚なクソガキ坊ちゃん。 そのため、任務は想像を絶するほど困難を極めた。 この3年間、茂香はひたすら耐えた。若彰の狂犬のような気性に、何度心が折れそうになったことか。 「婚約してるからって何だ?俺がお前と結婚するわけないだろ、茂香!夢見るのも大概にしろ!」 グラスが足元で派手に砕け散り、ガラスの破片が白い足首に食い込んで血の筋を引いた。 個室にいる誰もが、無様に佇む茂香を高みの見物と決め込み、彼女が崩れ落ちる瞬間を期待していた。 だが、茂香は崩れなかった。 若彰が隣の女にけしかけて、また一桶の氷水を浴びせさせ、ビンタをさせたその時からずっと、茂香はただその場に立ち尽くしていた。 顔が痺れ、体が凍りつくような痛み。それでも歯を食いしばった。これが、彼女に残された最後の希望なのだから。 「もう、お家に戻ってもいいですか?柏原おじ様が、お待ちです......」 茂香はかろうじて、その言葉を絞り出した。 「聞いたか?昨日、若彰さんは日の出を見るための望遠鏡を届けさせるために、あいつを山の麓から頂上まで登らせたらしいぜ。三千段以上の階段を、マジで行ったんだと!」 「それだけじゃない。あの茂香って女、毎日若彰さんに朝食を届けてるんだと。会社のビル前で毎日、時間通りに待機してんだぜ」 「婚約してるからって、そこまでするか?よっぽど若彰さんのことが好きなんだな!」 ...... 「若彰さん、彼女が私を怒らせたの。謝らせてよ......」 若彰の隣に座るセクシーな女が、彼の腕に絡みつきながら甘えた声で言った。 若彰は片肘をつき、意地の悪い笑みを浮かべている。 「聞こえなかったのか?俺のフィアンセよ。俺の連れを不機嫌にさせたんだ。何か償いでもしたらどうだ?」 茂香は顔を上げて心の中で、あなたの連れがしたことは、もう十分すぎるほどだろう、と思った。 それでも、彼女は無理やり笑みを作り、どうして欲しいのかと目で問いかけた。 若彰の瞳がすっと細められ、薄い唇が開く。「茂香、お前はそこまで俺が好きなのか?」 「......なら、今から外で30分このままで立っていろ。戻ってきたら、結婚してやる」 「......本当ですか?」茂香の瞳が明らかに輝きを増した。若彰の冷たい視線を受け、彼が頷いたのを確認すると、彼女は躊躇なく踵を返して駆け出した。 それは零度に近い気温の日。茂香のワンピースは完全に濡れており、外で30分立つことが何を意味するかは言うまでもない。 だが、茂香は気にしなかった。ただ、一刻も早く陸に戻ってきてほしかった。会いたくてたまらなかった。 若彰の表情に影が差した。その視線は、茂香が消えたドアに釘付けになっている。 誰かが酒を続けるよう声をかけた途端、若彰は立ち上がり、個室を出て行った。 主役がいなくなって、誰が飲めるというのか。 取り巻きたちは諦めて若様の後を追い、ホテルの外に出ると、遠くで茂香が震えながら立っているのが見えた。 茂香の顔色はどんどん悪くなっていく。酒を飲んでいたせいもあり、外気に当たって意識が朦朧としているようだ。その場にいた誰もが息を呑んだ。分別のある者が何か言おうとしたが、すぐに周りに止められる。 中には、茂香は本当に若彰を愛している、命まで投げ出すとは、と囁く者もいた。 騒がしいざわめきが若彰の眉間に深い皺を刻んだ。空き地にぽつんと立つ、小さな影を見つめながら、彼はふと我を忘れた。 第2話 この天気では、ほんの少しの油断が茂香の命取りになりかねない。 突然、茂香の視界が真っ暗になり、立っていられなくなった。地面に倒れ込む寸前、魔が差したように、若彰は飛び出して彼女を受け止めていた。 腕の中の存在を見下ろす。小さな顔は凍えて真っ白だ。若彰は、なぜか胸の奥が締め付けられるような息苦しさを感じた。 その場にいた者たちは、若彰が茂香を抱きかかえて車に乗せるのを見て、ざわめき始めた。 「ただ、ここで死なれたら、児玉家に申し訳が立たないからな」 若彰は墓穴を掘るような言い訳をした。 茂香が完全に意識を取り戻したのは、2日後のことだった。 「起きたか?まったく、命知らずだな」 茂香はぼんやりと目を開けた。一瞬、陸の声が聞こえた気がした。 期待に胸を膨らませて身を起こしたが、若彰の姿を見た途端、彼女の目から光が消えた。 若彰は眉をひそめる。茂香の表情を見て、無性に腹が立った。 「なんだその顔は?俺がいて不満か?」 茂香は恐る恐る白湯を一口飲み込んだ。陸なら決してこんな風に怒鳴ったりしないだろう、と思った。 「いいえ、そんなことありません。これほどあなたを愛しているのに、どうしてそんなことが......」 その言葉を聞いて、若彰はまた笑った。彼自身もそう思いたかったのだ。 若彰はしばらく黙り込んだ。茂香が眠っていたこの2日間、多くのことを考えていた。 この棲波田市で何年も遊び歩いてきたが、彼の家柄だけで、何もしなくても数えきれないほどの人間が擦り寄ってきた。だが、母が死んでからというもの、心から接してくれる人には出会ったことがない。 もし茂香が心から愛してくれるのなら、付き合ってみるのも悪くないかもしれない、と彼は思った。 茂香は、実のところかなりの美人だ。透き通るような白い肌に澄んだ瞳。笑うとえくぼができ、若彰は一瞬見惚れてしまった。 いや、違う。茂香が心から彼を愛するはずがない。 若彰は首を横に振り、何度も自分に言い聞かせた。 彼と茂香はただの政略結婚。彼が茂香を好きになることはないし、茂香も彼を好きになることはない。 「午後からお前のスマホが鳴りっぱなしだったぞ。音楽会の関係者からだ」 若彰はそう付け加えた。最近になって初めて、茂香がピアノ好きで、ここ数年でちょっとした有名人になったことを知った。 ピアノは、茂香が幼い頃から唯一続けてきた趣味だった。彼女の人生は、その大部分がピアノと陸で占められていたと言っても過言ではない。 「分かりました」 茂香はメッセージに返信し、淡々と答えた。 再び沈黙が訪れる。茂香は静けさで若彰を追い払おうとし、その態度を見た若彰も、これ以上ここに座って不機嫌な顔をされるのは御免だと、扉を押し開けて出て行った。 電話が鳴る。親友からだった。電話に出ると、悲鳴のような声が聞こえた。 「茂香、大変!小鳥遊美波(たかなし みなみ)って子に、SNSであなたの曲を盗作だって言ってるわ!」 茂香はハッとした。頭が高速で回転する。彼女の曲はすべてオリジナルだ。盗作などあり得るはずがない。小鳥遊美波......どこかで聞いたことのある名前だ。 盗作だと濡れ衣を着せられたピアノ曲は、彼女が陸のために作ったものだった。 あの真夏の日、バスケを終えたばかりの意気揚々とした少年が、茂香のピアノを聴くために駆けつけてくれた。ステージの下で、彼は満面の笑みで茂香を応援してくれた。あの頃が、茂香にとって最も幸せな時間だった。 この曲が盗作であるはずがない。 しばらくして、彼女は思い出した。この小鳥遊美波は、若彰の従妹だ。 そして、この棲波田市ではとっくに噂になっていた。従妹であるはずの美波が、若彰に恋心を抱いていると。 それは許されざる想いのはずだが、当の美波はそう思っておらず、若彰も気づいていない。 ならば、すべて辻褄が合う。 スマホで検索すると、「作曲家・茂香、盗作」というトレンドが一番上に表示されている。美波が裏で手を回しているに違いない。 最新の投稿は動画だった。美波が目を真っ赤に腫らし、悔しさを滲ませ、真剣な表情で語っていた。 「盗作問題は許せません。茂香さんの経歴が長いからといって、私が隠蔽するわけにはいきません。彼女を責めるつもりはありませんが、創作者にはいつかインスピレーションが尽きる日もあるでしょう。ただ、この事実を認めて、私に謝ってほしいだけです。なぜなら、このピアノ曲は亡くなった祖母のために私が作ったもので、この感情が汚されるべきではないからです!もし皆さんが信じられないなら、私には曲の原稿があります。真実は必ず明らかになります!」 この動画が公開されるや否や、ネットの世論は一方的に茂香を非難し、中には茂香のすべての情報を暴き出す者までいた。 この2日間、彼女は気を失って若彰の家に滞在していた。曲の原稿はスマホの中だ。美波が原稿を盗み出せるチャンスがあったとすれば、この二日間しかない。 茂香は仕方なく若彰に電話をかけた。電話はすぐにつながったが、若彰は何も言わない。 沈黙がすべてを物語っているようだったが、茂香はまだ希望を捨てずに尋ねた。 「この2日間......美波さんをここに来させましたか?」 電話の向こうで、息を呑む音がした。やがて、若彰が「ああ」と答えた。 第3話 「私のスマホを、見せたでしょう?」 茂香の声は震えていた。事実を受け入れたくなかった。愛する人のために作った曲が、他人に盗まれ、根も葉もない濡れ衣を着せられるなんて、到底受け入れられるはずがない! 「そんな大したことじゃないだろ。ガキの遊びみたいなもんだ。そんなに本気になるなよ。もうすぐ家族になるんだし、これは年下へのプレゼントってことでどう? それに、美波はまだ若い。一曲くらい譲ってやっても、別に減るもんじゃないだろ」 茂香が反論しようとした途端、若彰はすでに電話を切っていた。 茂香はベッドに座り込み、無力感に打ちひしがれていた。顔にはすでに涙がとめどなく流れていた。 たかが一曲。茂香は自嘲気味に笑った。 でも、それは陸との大切な思い出なのだ! 若彰の言いたいことは明らかだった。これはプレゼントだ、と。もし茂香がこの曲を取り戻そうと固執するなら、結婚式は中止になるだろう。 結婚式が中止になれば、彼女の陸は戻ってこない。 心臓を突き刺されたような痛み。もし陸が生きていたら、誰も彼女をいじめたりしないのに。 若彰が裏で指示したのか、美波が茂香に公開謝罪を要求する動画は削除された。しかし、汚名はそそがれないままだった。 茂香の「盗作」という汚名は、これによって決定的に刻みつけられた。盗作したピアニストを演奏に招く者などいない。彼女はもう二度とステージの上に立つ機会を失ったのだ。 茂香は夕方までうつらうつらと眠り、頭が割れるように痛い。 「熱があるな」 若彰が大股で部屋に入ってきて、薬の袋をベッドに放り投げた。その口調は、相変わらず棘々しい。 「たかが一曲で、そんなに落ち込むなよ」 「薬を飲め。明日は実家のパーティーに付き合ってもらう。服は用意してある」 飲みたくなかったが、病気になるたびに心配してくれた陸の顔が浮かび、苦さをこらえて錠剤を飲み込んだ。 指を折りながら数える。あと、28日。結婚式さえ無事に終われば、陸は戻ってくる。 陸が戻ってくれば、この日々受けた苦しみなど、何でもない。 茂香はそこまでお人好しではない。陸が戻ってきたら、この自分を散々苦しめた男を、陸に徹底的に懲らしめてもらおうと心に誓った。 翌日、茂香はまだ体調が悪いにもかかわらず、無理をして起きて若彰のために朝食を作った。 若彰は朝食を食べる習慣がない。このままでは胃を壊しかねない。結婚式に影響が出たら大変だ。 だから彼女は一日も欠かさず、若彰の朝食を用意し、彼の三食と健康状態に気を配っていた。 若彰は昨夜、泥酔していた。朝起きると頭がガンガンしたが、テーブルに麺が一杯置かれているのが目に入った。 それは彼好みのあっさりとした味付けだ。一瞬、若彰は呆然とした。 病気がまだ完治していないのに、こんなに早く起きて食事を作ってくれたのか? 昔、こんなことをしてくれたのは、母だけだった。 若彰は気を引き締め、ようやく麺を食べ始めた。 パーティー会場は、隅々まで楽しげな笑い声で満ちていた。若彰は茂香の腰を抱き、会場を立ち回っていた。 柏原家は大家族だが、息子は彼一人。もし父が数日前に隠し子を連れて戻ってこなければ、彼が唯一の後継者だったはずだ。 今となっては、彼も少しは気を揉まなければならない。柏原家の一族の中で、自分の足場を固めるために。 「離してくれませんか?」 茂香が居心地悪そうに身じろぎすると、若彰はさらに強く彼女を抱き寄せた。 「どうせ結婚する仲だ。これくらい我慢しろ」 意気揚々とした若彰の姿を見て、茂香の心に寂しさがよぎった。 もし陸が生きていたら、若彰と同じように、いや、若彰よりもずっと輝いていたはずだ。 若彰は、酒を飲まない茂香を見て、ふと、ある日彼が泥酔した時、茂香が彼のために迎え酒を作ってくれたことを思い出した。 この中に、少しでも本心が含まれているのだろうか? 若彰がぼんやりと考えていたその時、美波がワイングラスを片手に、まっすぐ若彰の元へやってきた。 「若彰お兄様、お久しぶり!」 近づいてきた女は、馴れ馴れしく若彰の手を取り、周囲の視線を集めた。 「お兄様がくださったネックレス、とっても気に入ってるわ。でも、茂香さんが先に予約してたって聞いたの。若彰お兄様が私にくださったから、茂香さん、怒ってないかしら?」 茂香はちらりと一瞥したが、大して興味もなさそうに視線を逸らした。 無視されたことに、美波の顔が一瞬こわばったが、すぐに笑顔を取り繕った。「きっと、これには興味があると思いますよ」 「お兄様の隣にいる、その単純そうに見える婚約者さんは本当に単純な人かしら」そう言って、美波はスマホを若彰に差し出した。 若彰はそれを受け取り、目を走らせたら、顔色がみるみるうちに険しくなった。 茂香は何のことか分からず、「単純って何のこと?」と尋ねようとしたが、その前に若彰に激しく突き飛ばされた。体勢を崩してテーブルにぶつかり、あまりの痛みに悪態をつきたくなった。 「よくもやってくれたな、お前!まさか俺の傍にいたのは金のためだったとは!どうりでそんなに執着するわけだ。やっぱり目的があったんだな」 彼は冷たい目で茂香を見つめ、茂香の困惑した視線と目が合うと、さらに怒りが募った。 「誰か!この女を連れて行け!」 権力の中心で育っただけあって、若彰の指示は迅速かつ的確だった。すぐにSPが現れ、茂香を屋敷の離れの一室へと引きずっていった。 真っ暗な部屋は、手を伸ばしても何も見えない。茂香は避けようもなく震え始めた。 彼女は閉所恐怖症だった。 第4話 生母を亡くした幼い茂香にとって、暗闇は何よりも恐ろしいものだった。 さらに恐ろしいのは、表と裏の顔を持つ、あの継母だ。 あの数え切れないほど部屋に閉じ込められた夜々が、彼女の精神に深い傷を負わせた。その時、何度も彼女を慰め、心を癒してくれたのは陸だけだった。 愛情に飢えていたあの頃、茂香は陸と出会った。それ以来、心の傷はすべて陸が癒してくれた。 なのに、その陸はもういない。 めまいがして、耐えきれずにドアに駆け寄り、力いっぱい叩き始めた。 「出して、若彰!お願い、ここから出して!」 茂香は嗚咽を漏らし、狂ったようにドアを叩き続けた。窒息感が押し寄せてくる。 「若彰、若彰、私が悪かったから、お願いだから出して......」 もし陸が生きていたら、きっと守ってくれただろうに。 茂香がもう限界で、暗闇に飲み込まれそうになったその時、ついにドアが開いた。 光が差し込み、茂香はほとんど這うようにしてドアの前にへたり込んだ。息を整える間もなく、乾いた音と共に頬に強烈な平手打ちを食らった。 殴られた衝撃で顔が横を向き、頭がガンガンと鳴る。朦朧とする意識の中、美波の後ろで冷たく自分を見下ろす若彰の姿が見えた。 「俺を騙したんだ。どうなるか、覚悟はできてんだろうな」 若彰の視線は刃物のようで、茂香は嫌な予感を覚えた。彼女はほとんど無意識に口を開いた。 「やめて、若彰、あなたから離れられないんです......私と結婚して......お願い......」 ドアの前に立つ女は、惨めな茂香を見下ろし、その目に浮かぶ笑みを隠そうともしない。 「どこの馬の骨とも知れない女が、若彰お兄様と結婚しようなんて......身の程を知りなさいよ、児玉茂香!児玉家が破産したからって、お兄様と結婚すれば借金を肩代わりしてもらえるとでも思ったの?夢物語もいい加減にして!」 だがすぐに、茂香は美波が今言った言葉の意味を理解した。 「何ですって?児玉家が、破産?」 茂香はハッと顔を上げ、その瞳には信じられないという色が満ちていた。 「まだシラを切る気?あんた、本当に大した役者ね!」 「児玉家はお前が俺と婚約した時からすでに資金繰りに窮していたんだ。ずっと柏原家の会社名義で、俺の名前を使って金を回していた。美波が教えてくれなかったら、俺は今でもお前に騙されたままだったぞ!」 若彰はドアの枠にかけられた茂香の手を力ずくで引き剥がした。茂香は体勢を崩し、頭を壁に打ち付けて血が滲んだが、そんなことは気にも留めなかった。 児玉家が破産しようがしまいが、彼女には関係ない。母が死に、父が再婚した時点で、児玉家は彼女にとって他人同然だった。 だが、もしこのことで結婚式が中止になれば、彼女にとってこの世でたった一人大切にしている陸が、永遠に戻られなくなるのだ。 彼女は若彰のズボンの裾を固く掴み、涙を流しながら、卑屈に彼に懇願した。 「本当にあなたから離れられないんです......若彰、婚約を破棄しないで、お願い......児玉家がやったこと、私は知らないんです......本当に知らないんです。もうずっと、実家とは連絡を取っていませんから......」 若彰の顔に少し動揺の色が見えた途端、美波は目をきらめかせ、すかさず言った。 「若彰お兄様、だから言ったでしょう?この女があなたに近づいたのは目的があるって。信じてくれなかったじゃない......私が陰口を叩いてるって......それに、本当に愛してるなら、『愛してる』って言葉の一つくらい聞いたっていいものじゃない?」 茂香の眉がピクリと動いた。幸い、若彰は美波の最後の言葉には耳を貸さなかったようだ。 彼女は密かに安堵のため息をついた。確かに、若彰に愛していると言ったことは一度もない。 彼女の愛は、陸だけのものだから。若彰には、その言葉を捧げる価値がないのだから。 若彰は、茂香の額から流れる痛々しい血から視線を外し、彼女を部屋の中央へと蹴り飛ばした。茂香は床に倒れ込み、光の差し込んでいたドアが再び閉じられるのを、ただ呆然と見つめていた。 「児玉茂香はここに閉じ込めておけ。俺の指示があるまで、誰一人として会わせるな!」 まるで死神のように、若彰は茂香に判決を下した。 再び暗闇に包まれ、窒息感が再び押し寄せてくる。茂香は体をきつく丸め、陸の名前を呟き続けた。 あと二十日、あと二十日耐えれば、このサイコパスみたいな男から解放される。陸が、迎えに来てくれる。彼女は何度も自分にそう言い聞かせ続けた。 再び光を見たのは、それから二日後のことだった。 部屋から出た時、顔はやつれ果て、目もほとんど開けられない状態だった。若彰が彼女を支えると、彼女は無意識に呟いた。 「陸......」 第5話 腕に走る鋭い痛みが、彼女を現実に引き戻した。若彰は不機嫌な顔で茂香を見ている。彼は漠然とした不安を感じていた。茂香が自分を見る目は、まるで他の誰かを見ているようだと、ずっと思っていた。 「......今、誰の名前を呼んだ?」 「もちろん、あなたの......あなたの名前です」 茂香はかすれた声で言った。立っているのもやっとで、二日間の拷問は彼女を狂わせる寸前だった。 若彰は気を取り直し、いや、そんなはずはない。茂香は本気で俺を愛しているんだ、と自分に言い聞かせた。 「なんで閉所恐怖症だって早く言わなかったんだ?今回の件は調べた。児玉家のことと、お前は無関係だった。まあ、俺も悪くない。俺のことも少しは理解してくれ。柏原家には今、どれだけの奴らが俺を監視してると思ってるんだ。仕方がなかったんだ」 「数日間、大人しくしてろ。結婚式は予定通り行う。来週、美波にウェディングドレスの試着に連れて行ってもらうから......」 「いいか、俺たちはただの政略結婚だ。お前に感情はない。お前も俺に期待するな」 若彰がその後、何をぶつぶつ言っていたのか、茂香にはよく聞こえなかった。ただ、「結婚式は予定通り行う」という言葉を聞いた時だけ、茂香の目に光が宿り、彼女はほとんど無意識に口にした。 「今日、試着に行きましょう!」 若彰は一瞬呆気にとられたが、やがて苦笑した。 「ダメだ。来週にしろ。医者が休めと言ってただろ。美波はまだ子供なんだ。お前が大人になって、譲ってやれ。喧嘩するなよ」 若彰は茂香の頬を軽くつまんだ。初めて見せる優しい口調だったが、茂香は吐き気を覚えた。 茂香のスマホが鳴った。陸が毎月予約していた漫画の入荷通知だ。 返信しようとした瞬間、若彰にスマホを取り上げられた。 「退院したばかりなんだから、スマホは見るなと医者に言われただろ。何を買ったんだ?......漫画か」 茂香の心に警報が鳴り響いた。彼女は漫画を読まない。若彰はそれを知っているはずだ。 「......俺にか?」若彰が不意に言った。「なんで俺がこの漫画を好きなの、知ってるんだ?」 若彰は柏原家で育った。幼い頃から唯一の後継者として育てられ、漫画やゲームとは無縁の子供時代を送った。 一度だけ、友達とゲームセンターで半日遊んだだけで、父に書斎で3日間も土下座させられたことがある。 誰かが彼に漫画を贈ってくれたという出来事は、明らかに彼の想像を超えていた。 茂香は、彼がひどく感動している表情を見て、ここで否定すれば面倒なことになると悟った。 仕方なく頷き、この漫画は若彰のために買ったものだと偽った。 若彰の瞳に、迷いの色が浮かんだ。本当に、自分の好きなものを覚えていてくれる人がいるとは。 だが、間もなく、冷たい口調で言った。「......今後は、こういうのはいい」 しかし、若彰はしっかりと宅配便の宛先と番号を記憶し、秘書に取りに行かせた。 茂香はこめかみを押さえ、改めて陸のために漫画を注文し直した。 一週間後、若彰に言われるまでもなく、茂香はウェディングドレス店へ向かう車に乗っていた。 茂香は窓の外をぼんやりと眺めていた。順調にいけば、あと十日。 十日後、結婚式が終われば、陸が戻ってくる。 美波はとっくにドレス店で待っていた。茂香を見る目には敵意が満ちていた。 だが、茂香が近づくと、美波は一転して親しげな笑顔を作り、茂香の腕を組んだ。 近くに、若彰のSPがいることを美波は知っているのだ。 「若彰お兄様を騙せたからって、私まで騙せると思わないでよね」 二人が寄り添った瞬間、美波は茂香の手を強く握りながら囁いた。 茂香は驚いて美波を見た。彼女の腕から手を引き抜こうとしたが、びくともしない。 茂香の胸がざわめき、突然、嫌な予感がした。 彼女とあまり関わりたくない。ただ平穏無事に任務を終えて、ここを去りたいだけなのだ。 だが、ウェディングドレス店に入ると、美波は甲斐甲斐しく茂香を二階へと案内した。ヨーロッパ風の螺旋階段。茂香が前を歩いていると、美波が不意に彼女を呼び止めた。 「茂香さん」 茂香はわけが分からず振り返った。その途端、美波に腕を強く掴まれ、思い切り突き飛ばされ、そして彼女自身も後ろへと倒れ込んだ。 第6話 茂香は目を丸くした。ここまで自分に非情になれる人間がいるなんて、想像もしていなかった。 悲鳴が響き渡ると同時に、若彰が外に配置していたSPたちが駆け込んできた。 彼らは若彰の命令で茂香を守るために来ていたが、今、目の前で倒れているのは美波だ。SPたちは顔を見合わせ、どうしていいか分からず、若彰に電話をかけるしかなかった。 茂香は急いで駆け下り、美波を助け起こそうとしたが、その手は振り払われた。美波は泣きじゃくりながら訴えた。 「私が、あなたが柏原家の隠し子と電話してるのを見ただけなのに、そこまで私にひどいことするなんて!」 美波は頭をぶつけて血を流していたが、一息つく間もなく、茂香が救急車を呼ぼうとしたスマホをひったくり、そばにあった噴水へと投げ捨てた。 「証拠隠滅なんてさせないわ!」 茂香は呆れて笑いそうになった。何か言おうとした瞬間、SPたちに無様に床に押さえつけられた。 「児玉様、申し訳ありません。これもボスのご命令です」 すぐに、若彰が病院に駆けつけた。彼は怒りに燃え、憤怒の形相で茂香に詰め寄る。 「このアマ、よくも俺を裏切ったな!」 椅子に押さえつけられた茂香が、反論しようと口を開いた瞬間、美波が割って入った。「違います!美波さんが自分で......」 「茂香さん、証拠もないのに、そんなこと言っても無駄よ!みんな、私があなたをウェディングドレス店に連れて行ったのを見てるじゃない。私はただ、あなたと友達になりたかっただけなのに。たまたま、あなたが柏原家の隠し子と電話してるのを聞いちゃっただけなのよ。もし私があなたを陥れるつもりなら、こんな高い階段から自分を突き落とす必要なんてあるかしら?」 美波は若彰の腕を掴んで泣きつき、その口調には悔しさと信じられないという感情が滲んでいた。もし茂香が、美波が自分で倒れるのを見ていなければ、本当に自分が美波を突き飛ばしたのではないかと疑うところだった。 だが、今の問題はそこではない。 立ち上がって説明しようとした茂香の頬に、若彰の強烈な平手打ちが炸裂した。その威力に、茂香は一瞬で床に崩れ落ち、顔には熱い痛みが走った。 「よくもやってくれたな、茂香!まさかお前を信じていた俺が馬鹿だったとは!この数日、あの忌々しい奴のせいで気が立っているというのに、お前は奴に情報を流していたのか!なんだ?奴が柏原家の財産を奪うのを手伝うつもりか?俺の周りの人間は皆、俺を裏切るつもりなのか!」 SPが止めなければ、若彰の蹴りは茂香の腹に当たっていただろう。 平手打ちの衝撃で、茂香はめまいがして頭がガンガンと鳴り響き、若彰が何を叫んでいるのか全く聞こえなかった。 必死に身を起こすと、悪鬼の形相で自分に怒鳴り散らす若彰の姿が見えた。 「若彰お兄様、婚約なんて破棄して、この女を棲波田市から追い出して!こんな人間、お兄様の傍に置いておくべきじゃないわ!」 美波はまるで自分が病人であることを忘れたかのように、数歩で若彰の前に駆け寄った。 茂香は口を開いたが、声が出ないことに気づいた。 何度か試みたが、自分の声は全く聞こえず、目の前の世界はぐるぐると回っていた。 声が出なくなったのだ。 閉所恐怖症と同じような、ストレス性の症状。 茂香は自嘲気味に笑った。忘れていた。今は陸がそばにいない。よりによって、こんな最悪のタイミングで。 彼女は重いまぶたをこじ開け、若彰を見つめた。 その傷ついた瞳に、若彰は心を射抜かれた。以前、茂香を誤解した時のことを一瞬で思い出した。 もしかして、今回も間違っているのではないか...... 若彰は心の中で葛藤を繰り返した。茂香の澄んだ瞳と目が合い、彼の心は突然、チクリと痛んだ。 若彰の逡巡に気づいた美波は、彼の前に立ちはだかり、わざとらしく茂香の手に足を乗せた。 かつて陸が、宝物のように大切に守ってくれたピアニストの手が、今、他人に踏みにじられている。 茂香の顔が苦痛に赤く染まり、生理的な涙が溢れるのを見て、美波は満足げに足をどけた。 その時にはもう、茂香の手は見るも無残に傷つき、震えて伸ばすことすらできなかった。 美波はわざと若彰に傷口を見せつけながら、いかに茂香に階段から突き落とされたかを、立て板に水のごとく訴え続けた。 若彰にかろうじて残っていた理性の欠片は、完全に砕け散った。ここ数日の心労が、彼の冷静さを奪っていた。 「彼女を許すな!美波、これは俺がお前の仇を討つんだ。彼女の手を折ってしまえ。治療費は俺が出す。お前を突き飛ばした方の手を折ってしまえ」 若彰は、氷のように冷たい声で言い放った。彼が目配せすると、二人のSPが有無を言わさず茂香の肩を押さえつけた。 茂香の目が恐怖に見開かれた。これほどの恐怖を感じたことはない。身を縮めて後ずさろうとするが、無駄な抵抗だった。 美波の顔には笑みがさらに深まった。彼女は茂香を見下ろし、足を上げてその白い手の上に踏みつけた。 茂香は無力に首を横に振ったが、身を引き裂くような痛みには抗えない。手を引っ込めたい。若彰に、自分じゃないと伝えたい。だが、声が出ない。 柔らかい指の関節が、ありえない方向に曲がる。茂香は痛みで意識が遠のきそうになったが、声は出なかった。まるで猟師の手に落ちた獲物のように、牙を抜かれて、無力にもがくことしかできない。 茂香のわずかな意識は、ピアニストにとって手がどれほど重要かをはっきりと理解させていた。 もう二度と、ピアノを弾けないかもしれない。 第7話 「喋れ!茂香、だんまりを決め込むな!」 若彰は突然、茂香の首を締めた。茂香の顔がみるみるうちに赤く染まっていくが、彼女は抵抗せず、ただじっと若彰を見つめ返した。 死んだっていい、と茂香は思った。 陸と一緒に死のう。 だが、その願いは叶わなかった。若彰は、ふと我に返ったように、パッと手を離した。 茂香は床に手をついて大きく息を吸い込みながら、ふと、もし若彰が、世間知らずだと思っている美波が自分を慕っていると知ったらどうなるだろう、と考えた。 「ボス、調査結果が出ました。児玉様は......最後の通話履歴は、ボス宛てでした」 絶妙なタイミングで、調査を命じられていたSPが戻ってきた。その場は、水を打ったように静まり返る。 若彰は宙に浮かせた手を硬直させ、信じられないといった様子で振り返った。 「......何だと?」 入ってきたSPは、おどおどしながら、顔に冷や汗をかきつつも、正直に答えた。 「児玉様の最後の通話は、ボス宛てでございました」 彼が振り返ると、すでに意識を失って倒れている茂香の姿が見えた。初めて、彼は少しばかり罪悪感を覚えた。 若彰の頭は高速で回転する。彼は今になって、またしても茂香を誤解していたことに気づいたのだ。 この3年間、茂香が見せてきた数々の行動が、否応なく彼の脳裏をよぎる。 これほど長い間、茂香が自分にどれほど多くを捧げてきたか、彼は初めて実感した。そして、今に至るまで、彼女は一度も自分を弁解する言葉を口にしなかった。 彼は美波の制止を振り切り、茂香を横抱きにして、大股で救急室へと駆け込んだ。 若彰は一晩中、茂香のベッドのそばに座っていた。会社の仕事も手につかない。だが、茂香は目を覚まさなかった。 以前の彼なら、絶対にこんなことはしなかっただろう。 今や若彰自身にも、その理由は分からなかった。ベッドに横たわる、青白い小さな顔を見つめていると、胸の奥から、言葉にできない感情が湧き上がってくる。 これは、憐れみか? 時間だけが刻々と過ぎていく。焦燥感に駆られた若彰は、医者を呼びつけた。 「もう2日だぞ。なぜ彼女は目を覚まさないんだ?」 医者は首を横に振り、困惑したように言った。 「柏原様、児玉様の身体機能に問題はありません。ここまで目覚めないということは、ご本人が目覚めたくないと、そう思われているのかもしれません」 若彰は愕然とした。目覚めたくない? そうか。美波にこれほどひどい仕打ちをさせたのだ。茂香が目を覚ましたいと思うはずがない。 彼は、うわ言のように呟き続けた。「茂香、早く目を覚ませ......俺たちの結婚式が近いんだぞ......」 ベッドのそばに血走った目で茂香を見つめていた若彰は、彼女が目を開けたのを見て、3日ぶりに初めて笑顔を見せた。 医者を呼び、彼女の失声が一時的なものであることを確認すると、ようやく安堵した。 若彰は、茂香が最初に尋ねるのは自分の手のことだと思っていた。だが、彼女の第一声は、予想もしないものだった。 「......結婚式まで、あと何日ですか?」 若彰は一瞬、言葉を失った。茂香を見る目がさらに複雑になった。その瞳の奥には、彼自身が認めたくない感情が宿っていた。 「体調がまだ良くないから、結婚式は延期してもいいんだぞ......」 「延期しないで。絶対に!」 茂香の声はかすれていたが、残された無事な方の手で、若彰の服の袖を強く掴んでいた。 1日たりとも待ちたくない。一刻も早く、陸に会いたい。 若彰は茂香の瞳をじっと見つめ、その中に深い愛情を見た。 「......わかった。延期はしない。あと、5日だ」 彼は茂香の手を握ろうとしたが、振り払われた。 「私、もうピアノは弾けないんですか?」 茂香の瞳は虚ろで、ただ天井を見つめていた。その心は、死んだように静かだった。 またしても、沈黙が答えだった。若彰は顔を上げることができなかった。生まれて初めて、誰かと向き合うのがこれほど辛いと思った。 「美波が実家に連れ戻された。あいつはまだ子供なんだ。あまり、責めないでやってくれ......」 茂香が婚約を破棄せず、むしろ前倒しを望んでいることに、本来なら若彰は喜ぶべきだった。だが今、彼を包み込んでいるのは、強い不安感だけだった。 茂香は何も言わず、静かに布団を引き寄せた。今はただ、この5日間が早く過ぎ去ることだけを願っていた。 陸に会いたい。 あの太陽のような笑顔と、温かい腕の中に、早く帰りたい。 第8話 茂香は退院を強く主張し、若彰の助手が5日間で組んでいたスケジュールを3日に短縮させ、さらに結婚式を2日早めた。若彰の複雑な感情をよそに、茂香は着実に自分の目標を達成していく。 この数日間で、茂香はもう一つのことを成し遂げていた。 美波の昔のSNSアカウントを見つけ出したのだ。 アカウントはとっくに非公開にされていたが、美波の乙女心がそうさせたのか、従兄である若彰への恋心を綴った記録が、一つ残らず残されていた。 画面いっぱいの乙女心は一見ロマンチックに見えるが、それが従兄妹という関係に当てはまると、途端に異様なものへと変貌する。 このアカウントを見つけ出し、ロックを解除するのは容易ではなかった。茂香はかなりの大金を払い、腕利きのハッカーを雇ったのだ。 棲波田市で一番大きな商業施設の巨大スクリーンに、タイマー設定で投稿が公開されるのを確認し、彼女は安堵のため息をついた。 そしてついに、結婚式の当日を迎えた。 鏡に映る自分の姿を見て、茂香の目から、涙が自然とこぼれ落ちた。 もうすぐ。もうすぐ、陸が戻ってくる。 若彰は、グルームズマンたちに囲まれてタキシードに着替えていた。二十数年生きてきて、初めて自分らしくいられるような気がしていた。 部屋の中は楽しげな笑い声に満ち、友人たちは若彰をからかい、ついに一本取られたな、と言っていた。だが、彼らは知らなかった。その頃、茂香がすでに荷造りを始めていることを。 茂香は、特に着飾ることはしなかった。一番気を配ったのは足元の白いスニーカーだ。少しでも速く走れるように。 「茂香様、こちらのベール、もう少しきつく留めましょうか?」 メイクアップアーティストは、息を呑むほどの茂香の美しさに目を奪われ、まさに彼女のキャリアで最もメイクしがいがある顔だと感嘆していた。 「いえ、結構です。ベールは、軽く乗せておくだけで」 茂香は、着ているドレスが走っても支障がないかを再度確認すると、プランナーの案内に従って式場へと向かった。 若彰は、とっくにその場で待っていた。茂香の姿を目にした瞬間、彼は息をすることさえ忘れた。 何しろ今の茂香は、人が目を離せないほど美しかったのだから。 「新婦、あなたは新郎と白髪になるまで添い遂げ、未来の甘い日々を共に歩むことを誓いますか......」 司会者が言い終えるのを待たず、茂香ははっきりと答えた。 「誓います」 若彰の瞳には感動が満ちていた。彼は茂香が世界で最も情熱的で、自分にとって最高の女性だと信じた。 続いて、若彰は彼女にキスしようとしたが、茂香は恥ずかしがるふりをしてかわした。 その時、茂香の脳内にシステムの音声が響いた。 「宿主様、おめでとうございます。任務は完了しました。報酬を配布中です。お疲れ様でした!」 茂香の目から、一瞬で涙が溢れ出した。呼吸は震え、目の前のすべてが非現実的なものに思えてくる。 任務完了。陸が戻ってくるのだ。 3年。丸3年間。愛する人が、ついに戻ってくるのだ。 彼女は満面の笑みを浮かべる若彰を一瞥し、陸に会いたいという思いがさらに募った。もう、行かなければ、と彼女は思った。 彼女の興奮した様子はすべて、若彰には結婚の喜びだと誤解されていた。 お色直しのため、二人は一旦退場する。若彰は名残惜しそうに茂香の後ろ姿を見送り、傍らの友人たちにからかわれた。 「まだ結婚したばかりなのに、そんなに名残惜しいのか?」 「ああ、そうさ。俺はな、こんなに長い間生きてきて、初めて心から俺を愛してくれる人に出会えたんだ。茂香は、他の女とは違う......」 彼が、茂香との未来について語り始めようとしたその時、茂香のメイクアップアーティストが慌てて駆け寄ってきた。 「若彰様、大変です......茂香様が......いなくなりました!」