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合わぬ相手とは二度と会うまい
「由香、結婚を美雪にタダで譲れって言ってるわけじゃない。ちゃんと補償はする……」 馴染んだ声が聞こえ、木村由香(きむら ゆか)は激痛の...
Chương (1)
第1章
「由香、結婚を美雪にタダで譲れって言ってるわけじゃない。ちゃんと補償はする……」
馴染んだ声が聞こえ、木村由香(きむら ゆか)は激痛の中で目を開いた。
朦朧とした意識がはっきりした途端、松本光希(まつもと こうき)との結婚一ヶ月前へ戻っているのに気づいた。
父・木村慎吾(きむら しんご)の真剣そのものな顔は、結婚を譲れと迫ってきた記憶と寸分違わない。
「いいよ」
由香はかすれ声で、意図せず父の言葉をぶった切った。
慎吾の表情は嬉しさであふれ、抑えきれていない。
「由香、ようやく分かったんだな!」
由香の顔は曇り、赤い唇を少しつりあげる。嘲るような笑みがこぼれた。
「その代わり、200億円欲しい」
「200億円?頭おかしいのか!」言い終える前に、慎吾の顔はこめかみに筋が浮き上がり、怒りに震えていた。
由香は耳の後ろ髪を払い、ゆっくりと続ける。
「それに、あなたとの親子の縁を切る」
第1話
「由香、結婚を美雪にタダで譲れって言ってるわけじゃない。ちゃんと補償はする……」
馴染んだ声が聞こえ、木村由香(きむら ゆか)は激痛の中で目を開いた。
朦朧とした意識がはっきりした途端、松本光希(まつもと こうき)との結婚一ヶ月前へ戻っているのに気づいた。
父・木村慎吾(きむら しんご)の真剣そのものな顔は、結婚を譲れと迫ってきた記憶と寸分違わない。
「いいよ」
由香はかすれ声で、意図せず父の言葉をぶった切った。
慎吾の顔は嬉しさにあふれ、抑えきれていない。
「由香、ようやく分かったんだな!」
由香は赤い唇を少しつり上げ、嘲るような笑みをこぼした。
「その代わり、200億円欲しい」
「200億円?頭おかしいのか!」言い終える前に慎吾の顔はこめかみに筋が浮き上がり、怒りに震えていた。
由香は耳の後ろ髪を払い、ゆっくり続ける。
「それに、あなたとの親子の縁を切る」
慎吾の顔色が一瞬にして変わり、彼女を指す手が止まらず震える。
「このクズが!自分が何を言ってるか分かってるのか!」
「分かってるに決まってる!」
由香は顔を上げ、その表情には憎しみが滲んでいる。
「母の妊娠中に浮気して、母子ともに死なせたあの日から、あなたに私の父である資格はない!どうせあなたの心の中で娘は美雪だけ。
あの子のために松本家との結婚まで私に譲らせようとする。親子の縁なんて切れているようなものでしょう!条件は二つ。どっちも譲らないわ!」
彼女は少し身を乗り出し、苛立ちを滲ませる。
「返事はイエスかノーよ」
慎吾は怒りで呼吸を荒げ顔を真っ赤にしている。彼は奥歯を噛みしめ、絞り出すように言った。
「縁は切ってやる!後悔するなよ!200億円は時間が要る。ただし、俺にも条件がある!松本家のあの後継者は君のことを気に入ってる。美雪を無事に嫁がせるために、一ヶ月以内に国を出て行け!二度と戻ってくるな!」
その言葉を聞いて、由香は動悸がした。
慎吾が妹・木村美雪(きむら みゆき)のためならそこまでやることに対してか、それとも「松本家の後継者は君のことを気に入ってる」という一言に対してか、理由は自分でも分からない。
小さな声で言葉をふりしぼる。
「あの人が私を気にかけるわけない」
「何だと?」慎吾が言い返す。
由香は視線を落とし淡々と言う。
「何でもない。一ヶ月以内に200億円を私の口座に。手続きを全部済ませたらあなたたちの前から完全に消える」
由香はそう言ってその場を去った。玄関に差しかかったところで、光希と美雪が肩を並べて歩いてくるのが見えた。
二人は談笑していて、やけに親しい。
由香は、光希が初めて美雪を見た時の、氷のようなに冷たい視線から感じた嫌悪感を忘れられない。
美雪が自分に近寄ろうとすると、彼は片手で喉元を押さえ込み、首を絞めあげ冷たく警告した。
「近づくな!」
なのに今、彼の視線は柔らかい。
そうか、この時点でもう心は美雪に傾いていたのか。
由香の胸が裂かれるように痛み、手足が痺れた。
前世の記憶が潮のように押し寄せた。
あの頃、妊娠中の母は追い詰められて命を落とし、父は愛人と婚外子を引きとり、由香は木村家でまるで影のように生きていた。
婚約者である光希が、たった一人で木村家へ乗り込み、暗い監禁部屋に閉じ込められ傷だらけの彼女を救い出した。
その日から、光希とその背後の松本家は彼女の唯一の希望になった。
彼は強引に彼女を庇い、木村家は松本家の力を恐れながらも、この縁談の利益に目をくらませ、何度も美雪を身代わりとして嫁にやろうとした。
けれど由香が応じるはずがない。
木村家は元より松本家には及ばない。この結婚は母・木村彩花(きむら あやか)と光希の母・松本恵(まつもと めぐみ)の古い縁で得たもの。
彩花がこの世に残していったことだ。
慎吾の威圧と懐柔は、いつも跳ね返された。
美雪は諦めきれず、裸で光希の部屋に潜り込んだが、容赦なく追い出された。
結納当日には死を盾にし、彼の脚にすがって泣き喚き、最期は皆の前で海に身を投げ、遺骨も残らなかった。
それで美雪が消えれば、光希と穏やかに暮らせるはずだった。
結婚後の三年は、たしかに仲睦まじかった。
その日、街角で光希と美雪が親しく抱き合っているのを見る時までは。二人のそばには二歳の子までいた。
その時ようやく知った。
美雪は死んでおらず、彼がどこかに彼女を匿っていた。
二人には子どもまでいた。
詰め寄る暇もなく、暴走した大型トラックが彼女に突っ込んだ。
体を砕く激痛の中で、光希がこちらを見るのが見えた。
かつて優しさで満ちたその目には、ただ冷たさだけがある。
意識が遠のく最後の瞬間、心に浮かんだのはただ一つ。
もし来世があるなら、光希と美雪という「恋人同士」を必ず成就させてやる。
偽りの混ざった愛なんて、私はいらない!
「由香!」
光希の声が過去の記憶から彼女を引き戻した。
彼女を見つけた瞬間、彼の顔に眩しい笑みが咲き、瞳の光は彼女が世界そのものだと言わんばかりだった。
その目を一度は信じた。
だが後にその目が美雪を見つめ、同じ優しさで満ちていたのも知っている。
光希はいつものように手を差し出した。
「あと一ヶ月で結婚式だ。ドレスの試着に連れていく」
由香は差し出された手を見つめ、脳裏にはその節ばった手が美雪の肩に置かれていた光景がよぎる。
胸がきゅっと縮み、彼女は無表情のまま身をずらして避け、素っ気なく「うん」とだけ言って歩き出した。
光希は空を切った自分の手を見て一瞬固まったが、気に留めず機嫌が悪いだけだと解釈して足早に追った。
美雪の脇を通り過ぎると、彼女がそっと袖をつまみ、怯えた声を出した。
「お姉ちゃん、わたしも……一緒にドレス、見に行っていい?」
由香はその遠慮を感じて、ふっと笑った。
「いいよ」
「だめだ」
二つの声が同時に響いた。
光希は面食らって由香を見て、顔に困惑が広がる。
「由香、君、いちばん嫌って……彼女のこと……どうして……」
由香は心の中で冷たく笑った。
なぜかって?
もちろん、一ヶ月後にウェディングドレスを着て彼の隣に立つのは、美雪に決まっているからだ。
第2話
ロールスロイスが道を疾走し、光希は助手席の美雪をちらっと見て、由香の耳元に身を寄せて聞いた。
「由香、なんで急に彼女を乗せたんだ?」
由香は、彼が美雪の名を口にするとき決まって眉間にしわを寄せ、不機嫌さを隠そうともしない。
まるで本当に彼女を心底疎ましく思っているかのように。
演技が上手すぎる。
あまりにも巧妙で、前世の彼女は三年間も欺かれていた。
街角で二歳の子どもを目にするまで、この関係がすでに髄まで腐りきっていたことに気づかなかったのだ。
由香は伏し目がちに視線を落とし、淡々と言った。
「あなたはいつも彼女がしつこいって嫌がってたでしょ。だったら自分で、あなたが私を嫁にとるってことを見せればいい。そうすれば諦めもつくかもしれない」
光希の顔が一瞬くもる。
唇がかすかに動き何かを言おうとするが、喉仏が小さく上下するだけで、結局その説明を受け入れた。
店に着くと、光希は由香を連れてブライダルサロンへ。
美雪も一歩遅れてぴたりとついてくる。
オーダードレスはとっくに決まっている。
アイボリーのレースに細かなダイヤがびっしり、灯りの下で夢みたいにきらめく。
スタッフがドレスを抱えて現れた瞬間、由香が手を伸ばす前に美雪が一歩先に近づいた。
レースの模様をそっとなぞり、羨望を目いっぱいに浮かべてから、ようやく振り向く。
「お姉ちゃん、私も……試していい?」
つくられた無垢さに、由香は心の底で冷たく笑った。
結婚は譲ってやる。
けれど自分のものまで、どうして差し出さなきゃいけないの。
赤い唇がわずかに開き、彼女は容赦なく嘲るように吐き捨てた。
「あなたの母が愛人だったことだけじゃ飽き足りないのね。あなたまでそうなりたいの?」
美雪の顔色は血の気を失い、怯えたように光希を見上げ、瞳の奥は助けを必死に求めている。
光希の顔もわずかに曇り、二人の間に身を差し入れるように立って、由香の腕を軽く押しながらなだめるように言った。
「由香、みっともないところ見せないで、早く着てみろ、サイズが合うかどうか」
そう言いながらも、その何気ない仕草で、美雪をしっかりと庇っていた。
由香は彼のこわばった体を見つめながら冷ややかな笑みを浮かべると、ウェディングドレスを受け取り、くるりと身を翻して試着室に入った。
着替えを終え、鏡の前に立った由香は一瞬、意識が遠のくような感覚におそわれた。
鏡の中の自分は大きな瞳と白い歯を輝かせ、白いドレスの裾が肌の白さを一層際立たせていた。
前世、この場に立ったときは、胸いっぱいに未来への期待が広がっていたのに。
だが今、鏡に映る自分の瞳には、ただ暗い影が広がっているだけだった。
「きゃっ!」
外から突然、美雪の悲鳴が聞こえた。由香は手を伸ばし、カーテン少し開けた。
美雪が左足を右足に引っかけ、そのまま光希の胸へ倒れ込んだ。
光希は避けもせず、腕を回してしっかり腰を支え背中をぽんと軽く叩く。
まるで怯えた小動物をあやすかのようだ。
彼の心がもう自分にはないと分かっていても、目のあたりにすると心が痛む。
思い出した。
昔は美雪の指先が光希の裾に触れただけで、人前でその服を火鉢に投げ込み、「汚い」と吐き捨てた男だ。
なのに今は?
腕の中の女を優しくあやし、寄り添う姿は、試着室の本妻よりよほど恋人らしい。
由香はカーテンをつかむ手に力を込め、胸を鷲掴みにされたような鋭い痛みに息を呑んだ。
彼女が深く息を吸い、まさにカーテンを開けようとした瞬間、天地がひっくり返るような揺れが襲いかかった。
部屋の中のものが一斉にぐらぐらと揺れている。
地震だ!
由香の頭の中にその言葉が聞こえ、反射的にドレスの裾を掴んで外へ走り出そうとした。
だがウェディングドレスの裾はあまりにも大きく、気づかぬうちに裾を踏んでしまい、彼女は床に叩きつけられた。
腕の肌が擦れて血が滲み、頭上から細かい破片が身体に刺さり、痛みに顔が青ざめる。
だが、数歩先にいた光希はまるで彼女に気づかないかのように、美雪を抱き上げ、そのまま外へと駆け出した。
二人が由香の脇をすり抜け、遠ざかっていくとき、会話の断片が入った。
「お兄ちゃん、私なんか放っておいて、お姉ちゃんがまだ中に……」
「彼女は自分で出られる。君は足を怪我してるんだ、まずは君を外へ連れていく!」
その一言が刃のように心臓へ突きささり、息ができない。
どれほど経ったのか、揺れはようやく止んだ。
店内は荒れ放題で、今の由香の心と寸分違わなかった。
由香はドレスを脱ぎ、脇のハサミを取ると、ざくざく音を立てて切り裂いた。
出て行く前、呆然とした店員に冷たく言い放った。
「光希には言わないで!」
美雪が嫁ぐというなら止めはしない。
だが自分のものは、たとえ壊してでも、あの二人には絶対に渡さない。
店を出た由香は、そのまま入国管理局へ向かい、書類を提出すると同時に急ぎの手続きを願い出た。
職員は彼女の腕の擦り傷を見て、うなずきながら言った。
「一か月以内に手続きが済むはずです」
玄関口で大きく息を吸い、どんよりした空を仰いだ。
一ヶ月後、この町を完全に離れ、ようやく自分の日々が始まる。
第3話
由香は木村家へ戻らず、そのまま外に用意しておいたワンルームへ向かった。
ベッドに身を投げた頃には、窓の外はもう真夜中だった。
夕方から今まで、光希は一度も連絡してこない。
労わりの一言も、事情の説明も、安否の確認すらない。
由香は画面を延々と見つめ、目が熱くなるまで離れなかった。やがて携帯を放り投げて目を閉じ、そのまま眠りに落ちた。
翌朝、まだ覚めきらないうちに騒がしさで目が覚めた。
出てみると、光希が人に指図して荷物を部屋に運び込ませていた。
彼女を見るなり、光希は早足で近づいて手を取り、申し訳なさそうに言った。
「由香、悪かった。昨日は会社で急用ができて先に出た。伝える時間がなかった。あとで地震を知った。大丈夫だったか」
平然と嘘をつく男を見つめながら、由香の胸に細い針で刺すような痛みが走った。
昨日、説明が必要だと分かっていながら、彼は嘘をでっちあげ、地震の現場に置き去りにしたことを無かった事にしようとする。
もう別の女を愛しているのに、なぜ自分と結婚しようとするのか分からない。
騙しやすいからか、それとも家では本妻、外では愛人として扱い楽しんでいるのか。
由香が黙ったままなのを見て、光希はため息をつき、髪をくしゃりとなでて言った。
「こういうの好きだろ。いろんなジュエリーを用意した、俺からの詫びだ。もう怒るなよ」
由香は唇を噛みしめ、「いいよ」の一言も言えずにいると、着信音が鳴り響いた。
光希が電話を取り、相手の言葉は聞こえないが、顔色がわずかに変わり、困ったように由香を見る。
「由香、会社で急用ができた。今日は付き合えない。先に行く」
返事を待つこともなく、彼は足早に出て行った。
残ったのはスタッフが荷を出し入れする物音だけ。
どれほど経っただろうか、携帯が鳴った。
開くと、美雪のSNSの投稿だった。
写真には高価なジュエリーが山のように並び、隅には節の目立つ手がさりげなく写り込んでいた。それに中指には見慣れた指輪が光っている。
並ぶ宝石は、今日光希が持ってきた物とまったく同じものだ。
その指輪は、由香の中指にはめられたものとセットだ。
あれは光希の手だ。
由香の目にじわりと痛みが広がり、心臓は握りしめられているかのように苦しく、呼吸さえままならなかった。
愛は真っ二つに割れるのだと知った。
光希の愛は最初から唯一のものではなかったのだ。
「由香さん、すべてのジュエリーをこちらに置きましたので、ご確認ください」
スタッフの声が彼女を現実へと引き戻す。
由香はテーブルの宝石をじっと見て、ふっと笑ってスタッフに言った。
「全部売って。一つも残さずに」
私だけの物じゃないなら、いらない。
処分を済ませた途端、光希から電話が入った。
由香が切っても、またかけてくる。
何度か繰り返してようやくおさまり、メッセージが一通だけ届いた。
【気に入らないなら、今度は一緒に店へ行って選ぼう】
由香はそのメッセージを見たが返信せず、連絡先から長年の友人の名を探し、会う約束を入れた。
彼女はもうすぐここを離れる。
どうしても、きちんと別れを告げておきたい。
夕方、由香は着替えてバーへ向かった。
友人の安藤紗英(あんどう さえ)はすでに待っていて、出国の話にまず目を丸くし、すぐに光希とのことをたずねてきた。
何杯か飲み、由香は伏し目で淡々と言った。
「結婚は譲った」
「ふざけるな!」
紗英がばっと体を起こし、口を開いた。
「相手は光希だよ!彼はあなたに……」
「彼がどうでも、もう関係ない」由香は遮り、かすれ声で首を振った。
「私は正気だよ」
脳裏にまた、子供を抱く光希とその肩にもたれる美雪の光景がよぎる。
その光景に胸の奥をきゅっと締めつけられる。
嘘を付く男なんて、彼女には要らない。
紗英がさらに何か言おうとしたとき、由香は立ち上がった。
「ちょっとトイレ」
個室の前を通りかかると、中から聞き覚えのある男の声が聞こえてきた。
由香は足を止め隙間から中をのぞく。
光希が腰かけているのが見えた。
顔は薄暗い灯りに隠れ、はっきりとは見えないが、その隣には、白いドレスを纏った美雪が座っていた。
第4話
由香の全身が凍りついた。
美雪が光希の友達と親しげに笑い合う様子を見るからには今日が初めてじゃない。
光希はいつの間に、美雪を仲間内に入れたんだろう。
由香は何も知らなかった。
あの連中がヘラヘラ「義姉さん」なんて呼んだとき、心の中では由香のことを笑ってたんだろう、枕元の男の心変わりにも気づかない間抜けだって。
爪が肉に食い込むほど握りしめ、由香は個室の中を凝視した。
部屋の中では、みんなが輪になって座り、「王様ゲーム」と呼ばれるゲームに興じて、回したボトルがまっすぐ美雪の前に止まった。
質問が少し意地悪く、周りはすぐに酒を飲ませようとする。
美雪が潤んだ目で光希を見ると、彼は考えもせずグラスを取り、ぐいっと煽ってから場を見渡し、注意する。
「そのへんにしろ。美雪は体が弱い。茶化すな!」
そう言うと、また笑いがあふれる。
数巡して、ボトルはまた美雪の前に止まった。
彼女は再び「罰ゲーム」を選ぶと、隣の人に何かをねだれという内容だった。
美雪はおずおずと光希を見上げ、彼の手首の数珠を指した。
「お兄ちゃん、それ、もらってもいい?」
それは由香が贈ったもの、母から託された唯一の形見だった。
由香の目の前で、光希は木の数珠を指先で二度撫でると、ためらいもなく外して美雪に差し出した。
足元から頭のてっぺんへ、氷のような寒気が一気に駆け上がり、由香の身体は止められぬほど震え出す。
彼女は覚えている。
あのとき自らその数珠を彼の手首にかけながら言った言葉。
「光希、これは私にとって一番大事なものなのよ」
そのとき光希は笑いながら彼女の頭を撫で、こう言った。
「由香がくれたものだから、ずっと身につけてるよ」
前世彼がそれをつけていないのを見つけて問いかけたとき、彼はただ「壊れると困るから、しまってある」と答えた。
その一言を信じて、彼女は二度と数珠の行方を追及しなかった。
まさか、すでに、彼がそれを最も憎んでいた相手に渡していたなんて。
もう、堪えることなどできなかった。
由香は個室の扉を乱暴に開け、目を真っ赤にして光希を見た。
「光希、母の形見が要らないなら返して。どうして美雪にやるの!」
ざわめきは一瞬で止まり、場の誰もが突然の乱入に目を見張った。
光希の瞳孔が縮み、顔に動揺が走った。
彼は早足で由香の前に来て叫んだ。
「由香、誤解だ!そんなんじゃない!」
「じゃあなんなの!」
由香は耳を貸さず、美雪の手にある数珠を奪おうと身を躍らせた。
だが美雪は素早く身をかわし、光希の背後に隠れると、怯えたように彼の服の裾を掴んだ。
「お兄ちゃん……」
光希は何が起こっているのか分からなかったが反射的に二人の間に立ちふさがった。
由香の胸は何か重いものに叩きつけられたように痛み、彼女は光希を見つめ、声を震わせた。
「あなたは……彼女を庇うの?光希、あの女が誰の娘か知ってるくせに、それでも庇うの?」
光希は唇を噛み、低い声で言葉を紡いだ。
「由香、黙ってたのは誤解されたくなかったからだ。美雪は俺を助けてくれたんだ。そのせいで病を抱えることになった。君が彼女の母を嫌ってるのは分かってる。でも……美雪は違う!」
「違うとか関係ない!」
由香は鋭く遮った。
「恩返しがしたいなら自分でやって!なんで私のものを使って貸しを作るのよ!私のものを返して!」
美雪は首をすくめ、涙声で言った。
「でもこれはお兄ちゃんがくれたものなの……本当に気に入ってるの。私が初めてこんなに好きになった物なのに……一度人にあげた物を取り返すなんて、おかしいよ……」
美雪はそう言うと、胸を押さえながら小さく咳き込んだ。
個室の中は、針が落ちても響くほどの静けさに包まれた。
光希は眉をひそめ、美雪の背をさすって息を整えさせると、ゆっくりと由香へ顔を向け、口を開いた。
「由香……譲ってやってくれ!」
声は軽やかに響いたが由香の胸には、鋭い刃となって深く突き刺さる。
彼女は一歩も退かず、今にも裂けそうな赤い目で睨みつけた。
「光希、あれが何か分かってるの?母の形見だよ!それを、母を死に追いやった女の娘に渡して、あの世で母が安らげると思うの!」
光希の喉仏が上下し、何か言いかけたところで、美雪の咳がそれを断ち切った。
美雪は光希の腕にすがり涙目のまま由香へ歩み寄り、数珠を差し出した。
「お姉ちゃんがどうしてもって言うなら、返すよ……」
由香が受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間。
美雪がぐいっと由香の手首を掴み、体が大きく後ろへ引っ張られた。
数珠は彼女の手から離れ、空に弧を描き、バラバラと床に落ちた。
第5話
由香は目の前で数珠が床に落ち、糸が切れて、木の珠が四方へ転がっていくのをただ見ていた。
混乱の中、誰かが踏みつけ、いくつもその場で粉々になった。
砕けた欠片を茫然と見つめ、光希が倒れた美雪を抱き起こしたことさえ気づかなかった。
周囲の声が急に遠くなり、耳鳴りだけが鋭く刺さる。
視界は揺れ、現実感がなくなっていく。
光希は美雪を庇い、顔を寄せて低い声でたずねた。
「怪我はないか?」
美雪が首を振ると、彼は眉間に皺を寄せて由香の方へ行き、押し殺した苛立ちをにじませた。
「由香、彼女は返すって言ったんだ。どうして突き飛ばした?」
その一言が、麻痺した心を針で一気に破った。
由香は視線をゆっくり光希の足元へ落とす。
踏み潰された木珠が一つ、彼の靴底に食い込んでいた。
理性がなくなった。
誰かが反応する間もなく、由香はテーブルのボトルを掴んで、美雪の頭に叩きつけた。
悲鳴が響く。
血が額から落ち、白いワンピースを瞬く間に染めた。
美雪の目が霞み、由香はもう一本のボトルへ手を伸ばす。
今度は光希が追いつき、彼女の手首を鷲づかみにして押さえつけた。顔は氷のように冷たい。
「由香、正気か。人に手を上げるなんて」
由香は唇の端をあげ、憎しみを込めた声で言った。
「母の形見を壊された。殺したって気が済まないわ!」
そこでようやく光希は床の木珠を見やり、声を荒げた。
「壊れたのは自業自得だ。君が押したから砕けたんだ!俺が甘やかしてきたせいで、君はこんなにもわがまま放題になってしまったんだ!」
言葉が一つ一つ、胸に深く刺さった。
前は違った。
美雪とぶつかるたび、光希は笑って言った。
「好きにしろ。俺が全部どうにかする」
なのに今になって、彼は彼女をわがままだと言う。
由香は赤い目でふっと笑い声を漏らした。
「わがままにしたのはあなたでしょ。どうしたの、今さら後悔?」
光希の顔はこれ以上ないほど険しくなった。
「こうなると分かってたら、最初からきっちり締めておくべきだった!」
言い終える前に、背後から低いうめき声と共に美雪の体がふっと力を失って、そのまま気を失った。
光希は慌てて抱きとめ、「後で落とし前をつける」と言い捨てると、美雪を横抱きにし、目の前の由香を肩で弾き飛ばした。
由香は弾き飛ばされて床に激しく倒れ、後ろ腰をテーブルの角にぶつけた瞬間、痛みで涙がぶわっとあふれた。
だが美雪を抱えた光希は一度も振り返らず、彼女が見えていないかのように、そのまま去っていった。
彼女の視界が暗くなり、彼の姿が廊下の奥で消えていくのを見ているうちに、全身の力が抜け落ちていった。
ここまで騒ぎになったので、他の者たちも全員姿を消していった。
やがて個室には由香ひとりだけが残され、彼女は床に這いつくばって必死に探し続け、ようやく無事な数珠の玉を二粒見つけた。
それを掌にそっと握りしめると、胸は裂かれるように痛んだ。
だが彼女は歯を食いしばり、涙を流すまいと耐えた。
どうせ誰も、自分を気にかけてはくれない。泣いたところで、何も変わらない!
どれほどの時間が経ったか分からない。
紗英がやってきた。
荒れ果てた室内を見渡し、何かを問いかけようと口を開いたが、由香の目とぶつかると、その言葉を呑み込んだ。ただ彼女の手を取り、マンションまで送ってくれた。
紗英と別れ、マンションの入り口に差しかかると、そこに黒い影があった。
気配に気づいたその影が振り返る。光希だった。
しばしの沈黙のあと、光希はかすれた声で口を開いた。
「美雪が目を覚まして、責任を追及すると言い出した」
由香は冷ややかに笑った。
「それで?」
「俺が止めた。ただし……美雪は条件を出してきた」
光希の暗い瞳が彼女を見つめる。
「君に一日、彼女の世話をさせろって。身の回りのことを全部」
由香は息を呑み、信じられないといった眼差しで彼を見つめた。
「……あなた、承諾したの?」
光希の眼差しは凍りつくように冷たかった。
「まさか俺が黙って君が刑務所に入るのを見ていられると思うか?由香、今回はいいチャンスだと思え。その性格、そろそろ改めるべきだ!」
第6話
翌朝早く、由香は光希の手下に両脇を抱えられ、強引に連れ出された。
必死にもがいたが、さらに強く拘束された。
声を上げる前に、首筋に鋭い痛みが走り、そのまま意識を失った。
次に目を覚ましたとき、視界は真っ暗だった。
拳が雨のように身体に降り注ぎ、鈍い音と自分の押し殺した呻きが混じり合った。
内臓がひっくり返されたかのような痛みに襲われる。
由香の胸に恐怖が広がり、思わず叫んだ。
「誰なの!どうして私を捕まえるの!」
返ってきたのは、暴行だった。
骨がずれる音が耳の奥で炸裂した瞬間、視界が真っ白になり、冷たい汗が全身を濡らした。
二時間に及ぶ拷問が終わった頃、彼女は床に倒れ、指一本動かす力さえ残っていなかった。
誰かが足で彼女の腰を小突き、痛みに身を縮めた次の瞬間、電話の発信音が響いた。
「光希さん、仰せの通り片づけました!」
由香の血が、一瞬で凍りついた。
骨の隙間を突き破る痛みも、こめかみをずきずき打つ脈動も、胸の奥を貫く鋭い寒気には及ばなかった。
「一日の世話に」という言葉は嘘だった。
美雪の復讐を果たすこと、それこそが真実だ。
愛を失った人間の心は、ここまで冷たくなれるのか。
光希……あなたは、残酷すぎる。
由香はとうとう耐え切れず意識が遠のく。
次に目を開けた時、鼻先に強い消毒液の匂いがした。
「由香、今回は自分の非を分かったか」
隣から光希の声がする。
由香は不自然に首を向け、口角を上げた。
彼女はかすれ声で嘲笑う。
「で、光希。お説教はもう気が済んだ?」
光希は眉間を深く寄せ、腹を立てる。
「少し君に教えただけだ。これで音を上げるか。じゃあボトルで美雪を殴った時、彼女が耐えられるか考えなかったのか」
可笑しい話だ。
今の仕打ちが、あの一撃より軽いとでも? いや、あれ以上だ。
それでいて、まだ罰が甘いと言いたいのか。
布団の下で握りしめた手は爪が肉に食い込み、痛みで頭がぼんやりする。
唇は噛みすぎて白くなり、突然、争う気力が抜け落ちた。
由香は顔を天井に向け、かすかな声で言った。
「教えてくれてありがとう。もう分かった。出て行って、休みたいの」
いつもは気の強い彼女が急に折れたのを見て、光希の目に驚きがよぎる。声も少し和らいだ。
「由香、大人しくしてろ。もう駄々こねるな。数日後は君の母の命日だ。しっかり療養して、退院したら一緒に行こう」
そう言って身を起こし、彼女の布団を掛け直そうとしたそのとき、由香は勢いよく布団を引き寄せ、背を向けて壁に身を丸めた。
あまりにもわかりやすく拒絶した。
光希の手が宙に止まり、短く間を置いて、ため息をつくと出て行った。
由香は三日間入院した。
三日間、美雪のSNSは露骨に更新が増えた。
今日は、光希が街中を走り回って廃版の棒付きキャンディーを探した話。
明日は、世界限定の高級ジュエリーを買い占めて届けた話。
明後日は、うつむきながら慎重に包帯を巻いてやる写真。
由香は一枚一枚めくりながら、自分を傷つけているようだった。
かつて自分だけに向けられていた優しさが、今はすべて美雪へと移っていて、胸の痛みは最初の鋭さから、次第に痺れるような無感覚へと変わっていった。
彼女は自分に鞭打ち、心の底から光希を少しずつ剥がしていった。
その場所が空洞になり、もう彼を収める隙間がなくなるまで。
退院したその日は、ちょうど彩花の命日だった。
一緒に母のもとへ行くと約束していた光希は、いつまでたっても現れない。
由香は自嘲し、まだ彼に期待していた自分に苦笑いした。
道端で車を拾ったちょうどその時、携帯が鳴った。
光希からのメッセージだった。
【由香、会社で急用ができた。先に墓地で待っててくれ。すぐ行く】
由香の指は長く画面の上で止まり、結局【分かった】とだけ返した。
もうすぐここを離れる。
せめて発つ前くらい、母にみっともない姿は見せたくない。
車が墓地の入り口に着き、由香は降りて待った。
真昼の陽から空が薄闇に沈むまで待っても、光希の影は現れなかった。
夜の風は冷たさを含み、彼女の腕をじわりと冷やしていった。
忍耐は少しずつ削られ、頬の熱も落ちていく。
最後の夕焼けが天から褪せると、彼女は歯を食いしばりながら山道を登り始めた。
ちょうど中腹に差しかかった頃、携帯が鳴りメッセージが一件届いた。
動画だった。
第7話
動画の中、光希はゆったりした部屋着のまま、鍋に向かって黙々とスープを煮ていた。
カメラがふわりと揺れ、甘い声が入る。
「お兄ちゃん、今日はお姉ちゃんに付き添うって言ってたよね。彼女のことはどうするの?」
光希は顔も上げない。
「待てなきゃ勝手に帰る。心配いらない」
そして付け足す。
「由香は気が強い。誰にもいじめられない。俺がいようがいまいが同じだ。それより、君は体が弱いんだ、外をうろつくな」
映像はそこでぶつっと切れたのに、由香の手の震えは止まらない。
昼から夜まで、墓地の門でひとり何時間も立っていたのが、彼からの「待てなきゃ勝手に帰る」の一言で終わった。
由香は自分がまるで救いようのない馬鹿に思えた。
まだ彼にわずかな期待を抱いていたなんて。
「待ってろ」と言われて、本当に愚かしくもじっと待ってしまった。
なのに彼は来もしないし、「行けなくなった」の一言さえ惜しんだ。
踵の痛みは骨に食い込むようだったが、一歩も止めずに母の墓前へ辿り着いた。
墓碑に刻まれた彩花の優しい笑顔を見つめると、由香はもう耐えきれず、ドサリと音を立てて地面に座り込み、涙が糸の切れた珠のように止めどなく溢れた。
光希との過去が映像のように脳裏を駆け抜けた。
最初のときめき、やがては依存、そして前世の最期に見た、あの冷たい視線で止まった。
彼女は手を伸ばし、墓碑に触れて、声を詰まらせながら言った。
「お母さん……私、行くね。すごく遠い遠い場所へ、二度と戻らない。怒る……かな?」
清らかな風が吹き抜け、前髪を揺らす。それはまるで母の柔らかな手が撫でているようだった。
由香は鼻をすんと鳴らし、涙を飲み込んだ。
母ならきっと「大丈夫」と言ってくれているに違いない。
彼女は墓前に長く座り込み、空が白み始める頃になってようやく硬直した身体を引きずり下山した。
墓地の入り口に差しかかったとき、不良の数人の男たちが突然行く手を塞いだ。
由香は避けようとしたが、彼らはわざと前に立ちふさがった。
「お嬢ちゃん、こんな人けのないところで何してる?これからどこ行くんだ?俺たちと遊んでいかないか?」
先頭の男がにやつき、いやらしい視線を全身にまとわりつかせてくる。
由香の呼吸は詰まり、美しい瞳が怒りでいっぱいになる。
「どけ!」
しかし男たちは動くどころか、一歩近づいてきた。
先頭の男が手を伸ばし、腕をつかもうとする。
「そんな怖い顔すんなよ、俺たちは優しくしてやるから」
由香は素早く身をかわし、顔色を強張らせた。
相手は大勢、正面からぶつかれば勝ち目はない。
彼女は歯を食いしばり、男が油断した隙にくるりと身をかわして走り出した。
せまる足音と荒い息が重なり、心臓は破裂しそうに脈を打つ。
背後の足音はどんどん近づいてきた。
混乱の中、由香は震える手で携帯を取り出し、何度も押し間違えながらようやく緊急連絡先を呼び出した。
登録してあった緊急連絡先は光希だった。
コール音が二度鳴り、ようやくつながった。
「光希、助けて!チンピラが追いかけてくるの!」
由香は切羽詰まった声を張り上げた。
言葉が途切れた直後、足元の突き出た石に引っかかり、由香は地面に激しく倒れ込んだ。
肘と手のひらが擦りむけて痛み、足首もひねった。この痛みに息が止まる。
電話口は沈黙のまま。由香は焦り、もう一度叫んだ。
「光希!聞こえてるの!?」
電話の向こうからカサカサとした雑音が聞こえ、数秒後甘い声が響いた。
「お姉ちゃん?」
美雪の声だった。
「当ててみて?お兄ちゃんが、助けに来てくれると思う?」
由香の顔から血の気が引き、全身の血が凍りついていた。
彼女がはっと顔を上げたとき、追いついた男が目の前に迫り、手を伸ばして彼女に襲いかかってきた。
第8話
由香は女性警官から渡された上着に身をくるみ、まだ震えが止まらないまま、警察署の椅子にひとり座っていた。
少し離れた所では、チンピラが数人しゃがみ込み、警察に怒鳴られている。
光希が駆け込むと、由香の様子が一目で分かった。
手の傷はまだ血がにじみ、右足首は不自然に腫れ上がり、裾には泥や草がこびりついている。
彼は眉をひそめ、早足で近づいてしゃがみ込んだ。
「由香、どうした。またトラブル起こしたのか?」
彼は警察署からの電話を受けた時、事情も聞かずに飛び出してきたのだ。
由香は空虚な顔を上げた。
あの時、死に物狂いで抵抗して床に落ちていた携帯をつかめて、たまたま巡回のパトカーに見つけられた。
そうでなければ、今ごろどうなっていたか分からない。
それなのに、光希の第一声は「またトラブル起こしたのか?」だった。
由香の笑みがひきつった。
笑いながら、涙が止まらない。
その様子に光希の胸もきゅっと締めつけられた。何か声をかけようとしたとき、そばの警察が近づいてきて帰っていいと言われた。
由香は一瞬も迷わず立ち上がり、そのまま外へ歩き出した。
光希はしかたなく警察に軽く会釈し、足早にあとを追った。
彼は手を伸ばして彼女の手首を掴み、そこで大きく擦りむけているのに気づいた。
乾いた血が白い肌にやけに痛々しく映った。
彼は「それ、どうしたんだ」と尋ねた。
由香は何も言わず、ただ黙って歩みを進めた。
光希はいらだった。
何に怒っているのか見当がつかない。
けれど、この突き放した態度に落ち着かない。
「もういい、先に送っていく」
彼は眉をひそめ、諦めたような声を出した。
帰り道、由香は終始一言も発さなかった。
光希には彼女が静かすぎるとしか思えなかった。
これまでトラブルを起こすたび、騒ぎ立てては後始末を押しつけてきたのに。
今日はまるで魂を抜かれたみたいだ。
車内の空気はどんどん重くなり、マンションの下に着くまで、二人は一言も発さなかった。
「由香」光希が呼び止めた。
由香は一度だけ振り返って彼を見るや部屋に入り、ほどなくして山のような荷物を抱えて出てきた。
どれもこれも、彼が贈ったものだった。
彼女は彼の目の前で、それらを一気にゴミ箱へ放り込み、ライターに火をつけた。
炎が包装を舐め、「パチパチ」と音を立てる。
光希は一瞬呆け、すぐに駆け寄った。
「何してる!」
「昨日、墓地に来なかった。どこにいたの?」
由香は彼の顔から一切の表情を取り逃さないと決めた目で見た。
光希の目は泳ぎ、ため息をついた。
「会社で急な用事があった。そのことで怒ってるのか?」
由香の顔から血の気が引き、瞳の光が完全に消えた。
彼女はもう彼を見ず、かつて宝物のように大事にしていた品々が炎に呑まれ、最後に灰になるまで、ただ静かに見届けた。
「気は晴れたか?」
光希は彼女を見つめ、きいた。
言い終わりそうなタイミングで彼の携帯が鳴った。
電話を取り二言三言で切り上げると、彼の表情には明らかな焦りが浮かんだ。
慌ただしく電話を切り、由香の方へ戻る。
「燃やしたものは、同じものをまた用意させる」
「いらない」由香はようやく口を開き、かすれ声で続けた。
「もう要らない」
光希の胸がきゅっと締め付けられたが、彼は深く考えなかった。
彼は眉間を押さえ、「分かった。君が嫁いできたら、欲しいものは全部、あらためて一式そろえてやる」
そう言って、手元のメッセージに目をやると、足は無意識に玄関の方へと動いていた。
「まだ用がある。先に行く。結婚式の三日前からは新郎新婦は会わないものだし、この数日は顔を出さない」
彼は一度だけ振り返り、わずかにうんざりした様子で言った。
「由香、その性格もそろそろ抑えろ。いつまでも俺が尻拭いはできない」
言い終えると彼は早足で去り、振り返らなかった。
由香はその場に立ち尽くし、遠ざかっていく背中を苦笑いで見送る。
「光希、さよなら」
その声は風のように軽く、空気に紛れて消えた。
玄関に差しかかった光希が一瞬だけ足を止めたように見えた。
だがそれも錯覚だったのか、すぐに遠ざかっていった。
由香は携帯を取り出した。慎吾からのメッセージが静かに画面に表示されている。
【200億円はもう振り込んだ。式の前にさっさと出ろ!】
彼女は荷をまとめ、家のことは紗英に任せるよう手配し、入国管理局で書類を受け取り、そのまま車で空港へ向かった。
ターミナルのゴミ箱の前で、電話カードを真っ二つに折って捨て、振り返りもせずに搭乗口へ歩いていった。
飛行機は滑走離陸し、雲を抜ける頃には窓の外の街は次第に小さな点へとなっていく。ついには完全に消えた。
ここから先はもう彼と何の縁もない。