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風のような愛、空ろな心
怜司が、育ててきたあの小娘に流星群を見せるため、高熱の私を山道に置き去りにしたそのとき、私は離婚を決めた。 友人が怜司に「機嫌を取って...
Chương (1)
第1章
怜司が、育ててきたあの小娘に流星群を見せるため、高熱の私を山道に置き去りにしたそのとき、私は離婚を決めた。
友人が怜司に「機嫌を取ってやれ」と耳打ちする。
「兄貴、妹は妹、妻は妻。重さを取り違えるなよ」
怜司は気定まって、どこか高みから笑う。「本当に離婚すると思うか。脅しかけてるだけだ。
何年も俺が落ち着ける場所を与えてやった。俺がいるから彼女には家がある。俺から離れる?できるわけない。
見てろ、離婚届が受理される前に、泣いて復縁を願いに来るさ」
だが三十日が過ぎても、私は一度も振り返らない。
彼が四方八方に私を捜していたころ、私は霧に包まれた山中の別荘で、静かにお茶を飲んでいた。
「旭兄、やっぱりここがいちばん落ち着くね」
第1話
私は、神谷怜司(かみや れいじ)に離婚届を差し出す時に、彼はタブレットで綾野かんな(あやの かんな)の卒業用ドレスを選んでいるところだ。
電話越しに、少女の甘えた声が聞こえてくる。
「お兄ちゃん、夜の帳を下地に、星を散らしたようなドレスがほしいの。あの夜、二人で見た流星群みたいにロマンチックなのがいい」
「いいよ、ゆっくり探そう。合うのがなければ仕立てればいい。うちのお姫様が満足するのが一番だろ」
怜司は相手を甘やかすようにあやし、私が差し出したものを見もしない。最後のページにぱらりとめくって、署名だけ落とす。
二人のいちゃつきが終わって、彼がテーブルの水を取りに行くついでに、ようやく一瞥する。
一瞥しただけで、彼は鼻で笑う。
「凪(なぎさ)、最近は気が強いな。病院に付き添わなかったくらいで、離婚なんて言い出すのか」
なぜいけないの?
あの日、私は生理で体調が悪かったのに、彼は無理に私を連れて山頂のリゾート山荘へ向かった。
夜になって私は発熱した。
病院へ連れて行ってと頼む私を、彼は山の中腹に置き去りにした。
「ここから歩いて十分下った先に、24時間の診療所がある。自分で薬を買って飲め。急用がある、先に行く」
熱が39.8度まで上がった私が、真夜中にどうやって一人で下山するというのか。
彼が去った直後、私は熱で意識を失った。
後になって知った。彼の「急用」は、かんなと流星群を見に行くことだった。
「やるやらないの問題じゃない。もう切り出してる」
私は落ち着いて靴を履き替え、家を出る。彼の詰問なんて意に介さない。
「署名したなら――神谷社長、市役所へ回して手続きを進めて」
怜司がほっとして同意すると思っていたのに、彼は不意に怒り出す。
「凪、俺が行けないとでも思ってるのか。
その時になって後悔するな」
後悔なんてありえない。私はひらりと手を振ってドアを閉め、車でアトリエへ向かう。彼の言葉の含みなんて、考える気はない。
最近、新しくオーダーメイドのドレスを受けていて、片づけ終えるころにはもう夜だ。
スマホに怜司からメッセージが入る。
【心苑(しんえん)に来い。裁縫道具を持ってこい】
離婚はもうカウントダウンだ。私は彼のために自分の時間を犠牲にはしない。
――が、さらに通知が続く。
【来ないなら、離婚届を出す当日に俺が来るかどうか、保証できないぞ。
それとも、離婚はただの焦らし戦術か】
ふっと鼻で笑い、私は疲れた体に裁縫箱を提げて出る。
夜の渋滞はひどい。心苑に着いたころ、連中はもうだいぶ出来上がっている。
怜司はかんならと輪になって、はしゃいでいる。
私とそこそこ付き合いのある南条明斗(なんじょう あきと)が怜司を諫める。
「兄貴、妹は妹、妻は妻。重さを取り違えるなよ」
友人の一言が気に入らないのか、かんなは怜司の頬を両手で包み、そのまま唇を奪い、横柄で勝ち誇ったように言う。
「私はお兄ちゃんに育てられたの。彼の心で一番大事なのは、もちろん私」
「はいはい、君が一番大事だ」
怜司はかんなの馴れ馴れしい仕草にすっかり慣れている。彼女の頭をくしゃりと撫で、余裕の笑みを浮かべる。
「本当に離婚すると思うか。脅しかけてるだけだ。
何年も俺が落ち着ける場所を与えてやった。俺がいるから彼女には家がある。俺から離れる? できるわけない。
見てろ、離婚届が受理される前に、泣いて復縁を願いに来るさ」
私は裁縫箱を握ったまま、立ち尽くす。
山の中腹に一人置き去りにされたとき、私は泣かなかった。
離婚届に署名させたときも、私は泣かなかった。
けれど今、鼻の奥がひりつく。
若いころ、彼が「君の帰る場所になる」と約束したから、漂うばかりの私の心は動いた。恋に落ちた。
そして数年後、その約束は、いま私の胸を刺す刃に変わる。
やっぱり、一番近い人間こそが、あなたの急所を一番よく知っている。
第2話
気持ちを整えて歩み寄ると、怜司が先に私に気づく。
彼の顔に浮かぶ驚きは一瞬で過ぎ、すぐに嘲るような笑みを浮かべる。
「どうした、たった一日で後悔したのか?離婚をやめてって頼みに来たのか」
私は手の裁縫箱をわずかに持ち上げる。
「呼んだのはあなたでしょ、私は来た。だから手続きに協力するだけ、言ったことを反故にしないで」
彼は慌ててスマホを操作し、履歴を見て一瞬だけ顔色を曇らせる。何か言いかけるより早く、かんなが前に出る。
彼の腕に絡みつき、柔らかく甘える。
「お兄ちゃん、私のドレスのえりぐりが大きすぎて手が出せなくて」
「じゃあ上着を着ろ」
怜司の注意はすぐそちらへ逸れる。彼はためらいもなく自分のジャケットをかんなにかける。その親密さに、周りの視線が集まる。
けれど――まるで離婚届に魔法でもかかっているみたいに、かんなの示威も、怜司の甘やかしも、私の心を少しも波立たせない。
逆に怜司は自分の所作に気づいたのか、珍しく私に弁解してくる。
「かんなは小さいころから俺たちのあとをついて回ってて、俺は……癖で」
「うん」
私は淡々とうなずき、そんな上っ面の言い訳を切る。
「じゃあ用はないね、私は帰る。二人で楽しんで」
「凪」
ドアに手をかけたとき、怜司が呼び止める。
彼は傘を掲げて早足で来て、私の頭上に差し出し、ぎこちなく鼻に触れる。
「明斗が外は雨だって、送るよ」
雨は強くないけれど、風にあおられてあちこちへ飛ぶ。
怜司は私の肩を抱き寄せ、体で庇う。
「熱が引いたばかりだろ、風邪をぶり返すな」
彼の視線が私の顔に落ちる。その眼差しは、驚くほどやさしい。
かんなが戻ってきてから、彼がこんな目で私を見るのは、いつ以来だろう。
でも――遅すぎる、怜司。
砕けた心は、もう元へは戻らない。
泥沼を抜け、茨をくぐって芽吹いた新しい心臓には、もうあなたの居場所はない。
私は素早く車に滑り込み、彼からいちばん遠い席に座る。
数日かけて、私は手元のオーダーをすべて仕上げる。
その日、いったん全クライアントに休業の連絡を入れ、アトリエを不動産サイトに出して、早めに家へ戻る。
ドアを開けると、内装業者が出たり入ったりしている。
シンプルだったリビングは、ピンク系で埋め尽くされたプリンセス城に変わり、カーペットまでハートのぽこぽこ柄に替えられている。
かんなは怜司に持ち上げられ、ドアの上へイルミネーションを取り付けている。
花柄だらけの子どもっぽいシャツを着た怜司が、滑稽に見えて、私は思わず笑ってしまう。
小娘はほんとうに全力で縄張りを示し、私を追い出したいわけだ。
そして切れ者の神谷の御曹司は――気づかないふりなのか、それともわざとなのか。
私に気づいた怜司はかんなを下ろし、気まずそうに咳払いして言い訳する。
「かんなはまだ妹分で、賑やかなのが好きだから、しばらくこっちに泊まるだけなんだ。気にするな」
妹?
二十代にもなって、キスまでできる「妹」ってあるのかな。
そんな無様な質問は、私は口にしない。
一度傾いた心は、何を言っても戻らない。
それに、これは元妻の私が口を出す筋合いじゃない。
私は肩をすくめて自室へ向かう。「私の部屋にだけは触れないで」
「凪、うどんを作ったんだ。一緒に食べるか」
私の平然とした態度に驚いたのか、それともかんながやりすぎだと本気で思ったのか、怜司が引き止める。
「今夜は宴会でろくに食べられないだろ。先に少し入れておけ」
第3話
彼の指す方へ目をやると、テーブルの上に湯気の立つ麺が二杯、きちんと並んでいる。
このときになって、私は怜司が料理をする人間だと気づく。
――昔、私は外食が口に合わなくて、吐いてばかりで、胃が痛んで汗まみれになって、家でお粥が欲しいと言ったのに、彼は「作れない」と言っていた。
そうか、できないんじゃなく、私には作りたくなかったんだ。
私は軽く笑って断り、夜の会に持っていく誕生日祝いを用意しに二階へ上がる。
本来なら離婚の手続きの中で、出席する義理はない。
けれど今夜の主役は岩谷栄子(いわたに えいこ)――私の最初のクライアントで、私と怜司の仲を取り持った恩人だ。欠席はしたくない。
栄子の好みに合わせ、手縫いのトートバッグを用意してある。柔らかな革で、形は簡素。
支度を終えて下へ降りると、怜司が私の行く手をふさぐ。
「どうしたの」
私の冷ややかな視線に、一瞬だけ彼がたじろぐ。だがすぐ、気まずそうに言う。
「今日は行かないでくれ。その贈り物、かんなに回してやってほしい。
かんなはもうすぐ卒業で、岩谷エンタテインメントに入りたい。岩谷会長に気に入られればずっと楽になるし、先の道もまっすぐになる」
彼は知らないのかな――この贈り物に、どれだけ手間をかけたか。一針一針縫うだけで、指先がすり切れるほど……
いや、知っている。
ただ、かんなの未来に比べれば、私は気にかけるに値しない――それだけ。
だから彼は、軽いひと言で、私の労と心をまるごと消し去ろうとする。
ぱきん。
耳の奥で、なにかが小さく割れる音がする。
その直後、胸の中に、驚くほどの軽さと解放感が広がる。
もう、この感情には最後の未練すらない。
私は口角をわずかに上げ、手の中の箱を差し出す。
「いいよ。あなたから渡してあげて」
私と岩谷会長のやり取りは途切れていない。こちらの事情もすべて伝わっている。
今夜は行かなくてもいい。明日、個別に会えば同じこと。
この贈り物については――どれほど心を込めても、相手が違えば無駄になる。
あまりにあっさり頷いた私に、怜司は意外そうに目を見開き、それから笑みを浮かべてブローチを差し出す。
「前からブローチがほしいって言ってただろ。悪かったよ、君の言葉を大事にしてなかった。これからは少しずつ埋め合わせする」
――アメとムチのやり口、彼は本当に手慣れている。
これはバレンタインのとき、私が欲しいと伝え、カートにも入れておいたもの。彼はずっと見ないふりをしてきた。
今日はかんなのためなら、目が利くんだね。
でもね、物が特別であるかどうかは、それを誰がくれるかで決まる。
意味を失った品は、どれほど良くても、もう要らない。
「よし」
怜司は私にブローチを留め、ショールを整える。
「毎日そんなに不機嫌になるなよ。前のことは俺が悪かった。もう怒るな。かんなは長く国内にいられないんだ。あの子のことは大目に見てやってくれ、な?」
彼はいまだに、私の離婚がただの癇癪だと思っている。
説明する気はない。身をひねって彼の手を避けようとした瞬間、彼は私を腕の中へ引き寄せる。
「凪、離婚申請を取り下げよう。もう二度と君を置いていかないと約束する」
言葉は真剣で、思わず、あの冷たく私を切り捨てた怜司が幻だったかのように感じてしまう。
でも、それは一瞬だけ。
扉の方から現れたかんなの身に、同じブランドのセット一式が光るのが見えるから。
そして私は、さっきスマホに届いた広告を思い出す。
セットを買うと、ブローチがオマケ。
ふふ、皮肉。甘い「アメ」でさえ、手抜きなんだね。