この先は縁もなく、それぞれの彼方へ

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真言と千浬は結婚して五年、その五年間ずっと互いを消耗し合ってきた。 彼は外で女を作り、彼女も外で男を作った。 二人は約束していた── ...

Chương (1)

第1章

真言と千浬は結婚して五年、その五年間ずっと互いを消耗し合ってきた。 彼は外で女を作り、彼女も外で男を作った。 二人は約束していた── 遊ぶのは外だけにしよう、相手を家に連れて帰ることだけは禁じる、と。 しかし、千浬は結局その約束を破った。 女を家に連れ帰り、真言と離婚すると言い出したのだ。 けれど彼は知らなかった。 真言は二日前にすでに死んでいたことを。 夫の彼のために贈り物を用意しようとして、帰宅途中に車にはねられたのだ。 死の間際、彼女の前に現れたのは閻魔だった。 執念に囚われた彼女と閻魔は、奇妙な賭けを交わした。 七日のうちに、もし千浬が心から彼女に一度でも口づけをすれば、再び命を得ることができる。 そうでなければ、彼女は閻魔のもとに残り、彼の花嫁となる。 その賭けの勝算が、どれほど低いかは真言自身がよく知っていた。 結婚して五年、千浬は一度たりとも彼女に口づけしたことがなかったからだ。 たとえ数えるほどしかなかった同衾の夜ですら。 それでも彼女は諦めきれなかった...... 第1話 温品真言(ぬくしな まこと)と鷹取千浬(たかとり せんり)は結婚して五年、その五年間ずっと互いを消耗し合ってきた。 彼は外で女を作り、彼女も外で男を作った。 二人は約束していた── 遊ぶのは外だけにしよう、相手を家に連れて帰ることだけは禁じる、と。 しかし、千浬は結局その約束を破った。 彼は真言の誕生日の日に、亡くなった姉にそっくりな女性を家に連れてきた。 「この女を愛してしまった。真言とは離婚する」と彼は言った。 けれど彼は知らなかった。 真言はすでに死の間際にあったことを。 あるいは、二日前にはもう亡くなっていた。 二日前。 それは二人の結婚五周年記念日だった。 千浬への贈り物を用意するため、帰宅途中で真言は事故に遭ったのだ。 猛スピードで走る車が彼女をはね飛ばし、数メートル先まで吹き飛ばした。 瀕死の状態で、彼女は閻魔の姿を見た。 執着心が強すぎて、死に切ることができなかったのだ。 そこで閻魔は、彼女と一つの賭けを交わした。 七日のうちに、もし千浬が心から彼女に一度でも口づけをすれば、再び命を得ることができる。 そうでなければ、彼女は閻魔のもとに残り、彼の花嫁となる。 その賭けの勝算が、どれほど低いかは真言自身がよく知っていた。 結婚して五年、千浬は一度たりとも彼女に口づけしたことがなかったからだ。 たとえ数えるほどしかなかった同衾の夜ですら。 江代都の名門の社交界で、千浬は最も奔放で恐れられる存在だった。 容姿も権力も兼ね備え、多くの令嬢が彼を追いかけた。 だが彼の心の中にいたのは、いつも真言の姉── 温品真雪(ぬくしな まゆき)ただ一人。 彼は言ったことがある、「僕の妻は永遠に真雪だけだ」と。 本来、彼と結ばれるはずだったのも真雪であり、真言ではなかった。 五年前、真雪が突然の事故で命を落としたため、彼は仕方なく真言を娶ったのだ。 真雪がいなければ、誰を妻にしても構わなかった。 幼馴染である真言は都合の良い選択肢だった。 彼は彼女にすべてを与えたが、愛だけは与えなかった。 真雪の死後、彼は記者会見を開いて世界に宣言した。 「僕の妻は永遠に真雪だけだ。僕と真言、ただの政略結婚だ」 そう言って彼は記者の前で真雪の位牌を取り出した。 そこにはこう刻まれていた。 「吾が最愛の妻、真雪之位」 その会見の場に、真言はサングラスをかけて座っていた。 無数のカメラのフラッシュを浴びながら。 「温品さん、鷹取さんの発言についてどう思われますか?」 「もし鷹取さんが一生妻として認めないのなら、死後浮遊霊になることを恐れますか?」 真言はただ微笑んで答えた。 「そんなことはありえません。こんなに一途な夫を持てたのは、私の幸せですから」 そのとき彼女は信じていた。 心を尽くせば、いつかは彼の心の扉も開くと。 けれど五年経っても、彼の心は冷たい鉄のように凍りついたままだった。 「私がここに住んだら......あの人、怒るかな......」 目の前の女は白いTシャツに色あせたジーンズ、擦り切れたキャンバスシューズを履き、怯えるように千浬の背に隠れていた。 そのか細い声は、人の庇護欲を自然と掻き立てる。 千浬は彼女を抱き寄せ、優しい声で言った。 「大丈夫だ。すぐに君がこの別荘の女主人になる。彼女は出て行くから」 五年の間、真言は一度もそんな優しい口調を彼から向けられたことがなかった。 ようやく勝てるかもしれないと思った瞬間に、気づいたのだ。 自分はもう負けている、と。 諦めたい。 けれど、心の奥にはまだ微かな希望が残っていた。 もしも。 もしも恋愛小説みたいに、彼が目を覚まし、自分こそが最愛の人だと気づいてくれたら。 しかし、千浬の瞳が上がったとき、その声は氷のように冷たかった。 「真言、聞こえただろう。五年だ......僕はもう疲れた。離婚しよう」 真言は疲弊した声で言った。 「もし私が、もうすぐ死ぬと言ったら......千浬は心から、ただ一度でいいから、私にキスてくれる?」 第2話 彼女は期待を込めて彼を見つめた。 だが彼はただ、冷たく吐き捨てるように言った。 「キス?分かっているだろう、僕は愛していない女に口づけなどしない。お前にそんなことされる資格があると思ってるのか?五年も一緒にいただけで、本当に僕の妻になれたと思うな」 そう言い終えると、隣にいた小娘が怯えたように彼の袖を引いた。 「千浬......真言さん、どうしてそんなことを言うの?だってもう五年も結婚してるんでしょう?一度もキスしたことがないなんて......」 彼はその問いに答える代わりに、彼女の頬をつまんで甘やかすように言った。 「バカだな。男は本気で愛した女にしかキスはしないんだ。僕は彼女を愛していない。だから、するはずがないだろう」 そう言い放つと、彼はその場で彼女に口づけを落とした。 一言一言、一つ一つの仕草が、真言の心を鋭く切り裂いた。 唇を震わせながら、彼女はようやく声を絞り出す。 「千浬.....五年の結婚は、数日の恋にさえ敵わないの?」 「お前は一体何がしたいんだ。欲しいものはすべて与えてきただろう。鷹取家奥様の座、金も、名誉も、地位も。さらにはお前が毎月求めた一度の同衾だって、欠かさず与えてきた。まだ足りないのか」 彼は一歩、また一歩と近づき、その声は冷ややかで氷のようだった。 「外にあれだけ男がいるだろう。好きに探せばいい。だが僕が、お前にキスすることはない」 言葉はますます毒を帯び、彼女は反論する力も失っていった。 ただ見ていることしかできない。 彼が女性を連れて階段を上っていく、その背中を。 必死に求めても得られないものを、その子は容易く手に入れていく。 たかが一度の口づけ、それすら彼は与えようとしなかった。 視線を落とすと、手首の「赤い糸」が淡く消えかけていた。 それは、彼女に残された時間がもう僅かだという証だ。 部屋に戻った真言は、秘かに大切にしてきたアルバムを開いた。 そこに写っているのは千浬と真雪、そして彼女。 けれど、どの写真でも主役は二人で、彼女は背景でしかなかった。 子供の頃から、千浬と姉の真雪は公然の「理想のカップル」だった。 高校に入ると、すでに社交界で才子佳人と囁かれていた。 容姿も、頭脳も、釣り合っていた。 彼女はただの脇役で、後ろから黙って二人を追いかけ、密かに千浬を想い続けるしかなかった。 その気持ちを伝えられず、彼女はアルバムに恋文を隠した。 18才のときに書き、渡せなかった手紙だ。 けれど結婚して間もなく、それを彼に見つけられてしまった。 その日から彼は冷たく警告した。 「僕がお前を好きになると思うな。そんな気持ちを抱いていたと知っていたら、絶対に結婚なんかしなかった。男が欲しいなら外で探せ。何人と関係を持とうが、僕は構わない」 その言葉に彼女はただ頷くしかなかった。 だが彼は知らない。 この五年、真言には他の男などいなかったことを。 彼女の心も身体も、最初から最後まで彼ひとりだけのものだったことを。 彼は毎月決まった夜にだけ彼女と関わったが、口づけだけは与えなかった。 始まりも終わりも急ぎ足で、そこには愛も情もなかった。 コン、コン、コン...... 不意に扉が叩かれ、真言の思考は途切れた。 慌ててアルバムを閉じると、声がした。 「真言さん」 振り返ると、そこにはあの人が立っていた。 真雪が生前着ていた寝間着を纏い、姿も声も真雪そのものだった。 「千浬がね、真言さんのベッドのほうが寝心地いいから、ここで寝ろって。あ、自己紹介がまだだった。私、中畔琉雅(なかぐろ るあ)って言います。よろしくね」 来たばかりの人に、夫はもう自分の部屋を譲れと言うのか。 彼女は冷笑し、差し出された琉雅の手を無視して、無言のままゲストルームへ向かった。 夜半。 不意に背後から誰かが潜り込み、腰を抱きしめられた。 「琉雅ちゃん」 耳元に響く声は、千浬のものだった。 瞬間、真言の身体は石のように硬直した。 「私は......琉雅じゃない。真言よ」 「は?」 千浬は枕元の灯りを点け、彼女の顔を見た途端、胸の奥に怒りが渦巻いた。 「正気か?僕と寝たいあまりに、琉雅ちゃんのふりをしてベッドで待っていたのか?」 「何を言ってるの?」 真言は眉を寄せ、目に涙を溜めた。 「あの子を主寝室に入れて、私はゲストルームで寝ろって、あなたが言ったじゃない」 「琉雅ちゃんが来てまだ一日だったのに、もう悪巧み始まったか。もう演じる気もなくなった?」 「演じる?」彼女は喉を詰まらせた。 「千浬は、この五年、全部私の演技だと思っていたの?」 「昔は真雪と僕の間に割り込もうとした。今度は琉雅ちゃんを代わりにして僕を誘う気か。いいだろう、望み通りにしてやる!」 言うが早いか、彼は大きな手で彼女の薄い寝間着を荒々しく引き裂いた。 第3話 一陣の冷気が襲い、男の瞳に宿る血のような赤を見て、真言は首を振った。 「違う......そうじゃないの、千浬!」 彼女は胸を押して退けようとしたが、彼はその手を疎ましく思い、両腕を頭上に縛り上げた。 「望み通りにしてやるよ」 視線の端に映った壁掛けの暦を見やり、彼は冷笑する。 「なるほど......今日は毎月のあの日か。道理でそこまで手段を選ばないわけだ」 月光が彼女の雪のように白い肌を照らし、彼は怒りの炎をその瞳に燃え上がらせた。 欲望の色など欠片もなく、ただ憎しみで彼女の身体を貫く。 抵抗は無意味だった。 ただ火花のような痛みを刻まれるしかなかった。 一晩中、千浬は様々な方法で彼女を責め苛んだ。 夜が白み始めた頃、真言は肩にすがりつき、かすれた声で囁いた。 「私は本当に、千浬の妻になりたいの......本物の妻に。お願い......一度でいいから、私にキスをして......?」 必死に胸に縋りつき、唇を伸ばす。 だが彼は身を引いた。 「言ったはずだ、不可能だ」 その言葉と共に、壊れた人形を投げ捨てるように彼女をベッドへ叩きつけた。 それでも彼女は諦めず、抱きつき、何とか唇を奪おうとした。 ついに、彼女の唇が彼の唇に触れた。 しかし、夢見た温もりは訪れなかった。 逆に、千浬の嫌悪はさらに膨れ上がる。 「吐き気がするぜ!」 その言葉を残し、振り返ることなく部屋を去った。 閉ざされた扉を見つめながら、真言は嗤う。 やはり、強引では駄目だった。 どうして。 どうして、たった一度の口づけすら、与えてくれないの......? 夜明け、彼女は眠りにつき、目を覚ますとベッドサイドに離婚協議書が置かれていた。 まさか、彼がもう準備していたとは思わなかった。 結婚して五年。 彼の周りには女が絶えなかった。 だが唯一、結婚を考えた相手は、亡き姉・真雪に酷似した琉雅だけ。 彼女は離婚協議書を開き、内容を確かめた。 千浬は金銭的には冷酷ではなかった。 10億の慰謝料、この別荘まで譲るという。 だが―― もうすぐ死ぬ自分には、何の意味もない。 真言はシャワーを浴びて階下へ降りた。 食堂では千浬と琉雅が朝食を取っていた。 「琉雅ちゃん、今夜は仕事の会合がある。夕食は一緒にできない、留守を頼んだ」 「難航してた例の?川崎社長、まだ契約に応じてくれないの?」 「心配するな」 言い終えると、彼のスマホが鳴った。 「だから駄目だと言ったろう。僕と真言は離婚手続き中だ。離婚後なら好きにすればいい、だが今、彼女をお前に差し出すつもりはない」 「そうか。それなら契約の話はなかったことにしよう。鷹取さん、せいぜい自分の首を絞めろ」 会話の全てを、真言ははっきり聞いていた。 彼が必死に進めていた大口の取引、その突破口は自分。 「もし私がこの取引をまとめたら、千浬は心から一度、私にキスをしてくれる?」 「お前、頭がおかしいのか?」 彼は冷笑した。 「僕は女で商売を取るような男じゃない。それともお前はそういう女か?昨夜じゃ足りなかったのか?」 「そうよ。千浬じゃ足りないから別の人のところに行くの。でも、約束して」 「しつこいな!好きにすればいいだろう!」 「行ったら、キスしてくれる?」 「わかったわかった!約束するよ!お前、本当にイカれてるな」 その一言を、真言は真実として受け取った。 彼が出て行った後、真言は川崎社長に一通のメールを送った。 第4話 蒼夜館。 二階の個室で、真言は川崎社長の膝の上に座らされ、嫌悪を押し殺しながら男に口元へ押しつけられる酒を一口また一口と呑み干していた。 「いやあ、驚いたよ。温品さん、随分と酒に強いじゃないか!これだけ呑んでも、顔色一つ変わらんとはな」 男の落ち着きのない手が彼女の白い肩に伸びる。 真言は気づかぬふりをして静かに押し退けた。 「川崎社長、今夜はご満足いただけましたか?」 「満足だとも!温品さん自ら俺に酒を注いでくれるんだ、これ以上の幸せがあるか?」 「それはなりよりです。ではこの契約書に、署名をお願いします」 彼女が差し出すと、男は下卑た笑みを浮かべて首筋へ顔を寄せ、深く匂いを嗅ぐ。 「温品さん、今夜は暇か?一晩付き合ってくれるなら、契約どころか川崎家の商売すべて、鷹取に任せてもいいぞ!」 「未来のことはどうでもいい。私はただ、川崎社長にこの契約を署名してほしいだけです」 胃の奥が波のように逆巻き、吐き気が込み上げる。 「いいだろう!だがすぐに一緒に来てもらうぞ!」 男はあっさりと契約書にサインし、彼女の腕を引いて立ち上がる。 「おえっ......」 堪えきれず、胃の中のものがせり上がった。 「失礼します......お手洗いに」 洗面所へ駆け込み、彼女は激しく嘔吐した。 吐瀉物に混じる赤黒い血を見て、彼女は乾いた笑みを漏らす。 胃が弱いのに......こんなに酒を呑んでしまった。 でもいい......千浬が、キスしてくれるなら、何だって我慢できる...... 身なりを整え個室へ戻ると、そこには琉雅の姿があった。 同じように川崎社長に抱き寄せられ、酒を呑まされている。 止めに入ろうとした瞬間―― 慌ただしく扉を開け、千浬が現れた。 真言の姿を認めた途端、その顔は氷のように冷え切った。 「真言!琉雅ちゃんはどこだ?どこへやった!」 返事をする間もなく、視線の先に琉雅が見えた。 男に弄ばれている彼女を。 怒りに燃え、千浬は真言を乱暴に突き倒し、扉を蹴破った。 「琉雅!」 床の痛みに耐え、彼女が顔を上げた時、見たのは琉雅を庇いながら川崎社長に拳を叩き込む千浬の姿だった。 「何するんだ!」 「それはこっちのセリフだ!」 彼は男を床に押さえつけ、拳を雨のように浴びせる。 琉雅は契約書を握りしめたまま、必死に腕を掴んで泣き叫ぶ。 「千浬、もうやめて!少し傷ついたくらい、大丈夫だよ。契約もちゃんとサインしてあるから」 「誰が来いと言った?言ったはずだ、僕の仕事に首を突っ込むなと!」 叱咤に、琉雅は怯えて声を震わせた。 「そんなの知らなかったの......私、真言さんに呼ばれて......こんなことになるなんて思わなかったの......」 すすり泣きながら、彼女はおずおずと入口に立つ真言を見やる。 「怒らないで......真言さんだって悪気はないと思う。ただ......私をまだ受け入れられないだけ......だから、責めないであげて」 「真言!」 雷鳴のような声とともに、千浬は彼女に迫る。心臓が凍りつく。 「千浬、違う、私は――」 言葉を終える前に、彼の手が彼女の首を掴んだ。 鋭い痛みと共に、呼吸が途絶える。 苦悶の視線で、彼女は必死に男を見つめるが、声は出ない。 「これが、お前のやり方か?琉雅ちゃんを犠牲にして契約を取る......そんなに死にたいのか?」 突き飛ばされ、彼女は床に倒れ込み、荒い咳を漏らす。 「ごほっ、ごほっ......!」 喘息の発作が襲い、息が詰まる。 「く、薬......薬を......」 震える手で鞄を探るが、混乱のあまり、吸入器は床に転がり落ちた。 第5話 彼女は膝をつき、床に転がった吸入器を拾おうとした。 だが、その前に琉雅が素早く足で蹴り飛ばした。 「きゃっ」 琉雅は吸入器を踏みつけたままバランスを崩し、畳に倒れ込んだ。 「琉雅ちゃん!」 千浬は慌てて駆け寄り、彼女を抱き起こす。 「大丈夫か!?」 「足が、痛い......」 「病院へ行こう」 彼は琉雅を抱きかかえ、そのまま振り返りもせずに去っていった。 真言は床に伏したまま、遠ざかる背中と、少し先に転がる吸入器を見つめ、激しく喘ぎ続ける。 「千浬......薬が......助けて......」 意識が戻ったとき、彼女はすでに病院の白いベッドの上だった。 診察を終えた医師は険しい顔をして告げた。 「体は危険な状態です。今回運ばれるのが少しでも遅ければ......命はなかったでしょう」 真言は唇を震わせた。 「千浬は......?」 「鷹取さん?来ていませんよ」 医師は説明した。 「あなたを運んだのは、通りかかった若者です。道で倒れていたあなたを見つけて運び込んでくれたのです。鷹取さんに連絡を取りましょうか?」 「彼じゃない......?」 真言は乾いた笑みを浮かべる。 その笑みには深い苦味があった。 彼は知っている。 自分が喘息で、薬がなければ死ぬことを。 それでも、琉雅を抱えて先に病院へ行った。 愛していなくても、せめて一緒に自分を運ぶことはできたはずなのに。 どうして......どうして、あの人は手を伸ばそうともしないの? 残された時間は、あと四日。 けれど進展どころか、千浬との溝は深まる一方。 真言は胸の奥でどうしようもない絶望を抱えた。 考え込む彼女の前に、影が差し込む。 病室の扉が乱暴に開かれ、誰かが彼女をベッドから引きずり下ろした。 「な、何?!」 振り返ると、そこに立っていたのは千浬だった。 「琉雅ちゃんに謝れ!」 彼の声は冷たく響く。 目を向けると、扉の側に立つ琉雅の顔には赤い発疹が浮かんでいた。 まるで呪いに触れたかのように。 「琉雅ちゃんは酒アレルギーだ!それをお前は無理やり飲ませただけでなく、あの川崎社長の相手までさせた......真言、お前には心底失望したぞ!」 「違う......」 真言は力なく口を開く。 「私はやっていない。あの契約は彼女じゃなく、私が川崎社長と飲んで、体を差し出すと約束してようやく署名させたの。彼女がどうしてあそこに来たのか、私は分からないよ!」 涙で滲む視線の先、彼女は問いかける。 「どうして一度も、私を信じてくれないの?部屋を彼女と代わったのは私じゃないと言っても信じない。川崎社長に媚びさせたわけじゃないと言っても信じない。 じゃあもし、私が『もうすぐ死ぬ』って言ったら?それも信じないの......?」 パシン! 頬に鋭い衝撃。 千浬の手が振り抜かれ、彼女の顔は赤く腫れ上がった。 「......え?」 信じられない思いで、彼女は目の前の男を見つめた。 これまで何度言い争っても、手を挙げたことなど一度もなかった。 彼の気を引くために―― 出張の航空券を破った。 他の女に買った贈り物を盗んだ。 女遊び用の遊覧船や、プライベートジェットを壊した。 彼の背後で数えきれないことをしてきた。 それでも千浬は、それが彼女の仕業だと知りながら、黙って受け流していた。 口喧嘩も衝突もあった。 だが、暴力だけは、一度もなかった。 「信じられない......あの頃、いつも僕と真雪の後をついて来ていたあの子が、今ではこんな醜い姿になるとは......」 千浬は頭を振り、深い失望を滲ませる。 「真言。もし真雪がいなければ、僕はとっくにお前と離婚していた。五年待った。これ以上は限界だ。今すぐ琉雅に跪いて謝れ。そうでなければ......たとえお前が死んでも許さない」 真言はゆっくりと息を吸い込み、涙を拭った。 「......分かった」 その声は震えていたが、瞳は澄んでいた。 「跪くわ。謝罪もする。ただ一つ、お願い。私が死ぬ前に......一度だけ、私にキスして」 第6話 「一体いつまでこの茶番を続けるつもりだ」 千浬の声には苛立ちが滲んでいた。 「さっき廊下で医師に会って聞いたが、お前は健康体じゃないか!なのに毎日『死ぬ』『死ぬ』って......お前が死ねば僕が悲しむとでも思ったか? 言っておくぞ、真言。 たとえ本当に死んだとしても、僕は絶対にお前にキスなどしない。その幻想はさっさと捨てろ!」 「そんな言い方しないで、千浬。真言さんはただ不安なだけなの。キスしてあげればいいじゃない」 琉雅は無垢を装う瞳で瞬き、ハンカチを差し出す。 「真言さん、泣かないで。千浬を説得してあげるから。今日のことも責めるつもりはないの。あなたが千浬のために必死になってただけだって分かってるからね」 その演技は巧妙で、危うく真言自身も信じそうになるほどだった。 もし彼女が琉雅を呼んでいないこと、川崎社長に付き合わせてもいないことを知らなければ。 だが真実は違う。 「琉雅ちゃん......君は本当に優しい」 千浬はため息をつく。 「まあいい。琉雅ちゃんがそう言うなら考えてみるよ」 真言は嗤った。 自分が何度言葉を尽くしても届かないのに、琉雅の一言で心が揺らぐ。 「明後日は琉雅ちゃんの誕生日だ。パーティーを開こうと思う。もし本気で償いたいなら、お前が準備しろ。琉雅ちゃんが満足すれば......お前の望みをひとつだけ聞いてやる」 胸の奥から苦味がこみ上げる。 真言は乾いた唇を舐めた。 「いいでしょう。死ぬ前に私にキスしてくれるなら、何でもする」 「本当に狂ってる」 千浬は琉雅を抱き、部屋を去った。 去り際に琉雅が振り返り、挑発と嘲笑を宿した瞳を真言に向けた。 翌日。 誕生祝いの準備のため、真言は一日中動き続けた。 四日目の夜明け、最後のイルミネーションライトを吊るし終えたころには、体は鉛のように重かった。 その夜、千浬は帰らなかった。 使用人の話では、琉雅と共に海辺の別荘へ行き、豪華なクルーザーを贈ったという。 船には「雅」と名付けられ、そんな待遇、真言は一度も受けたことがなかった。 「奥様......旦那様のあんな仕打ちに、腹も立たないんですか?どうしてあの女のために必死で飾り付けまで?」 使用人は心配と困惑の入り混じった目で見つめる。 「旦那様、今までどんなに浮気しても女を家に連れ込むことはなかったのに......今回は堂々と、奥様の家に住まわせて......」 真言はかすかに笑った。 「村上さん、もう行っていいわ」 椅子に腰を下ろした瞬間、電話が鳴った。 千浬からだった。 「今朝は会社に寄る。琉雅ちゃんがクルーザーで待っているから迎えに行け」 返事を待たず、一方的に切られた。 疲れを押し殺し、真言は海辺へ向かった。 そこで待つ琉雅の指には、鳩の卵ほどもある大粒のダイヤモンドリングが輝いていた。 「見て。千浬からの贈り物よ。彼、私にプロポーズしたの」 「そう」 心に鋭い痛みが走る。 それでも彼女は大きな反応を見せなかった。 「悔しいでしょ?聞いたよ、結婚して何年も経つのに、千浬から一度も贈り物をもらったことがないんだって」 「やっと仮面を外したのね」 真言は低く言った。 「ええ。気づいたの。真言さんは敵すらならないって。だって千浬の心にあなたはいないんだから」 「中畔さんは知ってるの?あなたが私の姉に似てるから、彼はあなたを代わりにしてるだけだって」 「それがどうしたの?だって真言さんの姉はもうこの世にいない。たとえ身代わりだとしても、私は選ばれた。哀れね、五年もそばにいながら、キスすらしてもらえないなんて」 心が海鳴りのように崩れ落ちる。 真言が言葉を返そうとした瞬間。 背後から、何か重いものが肩を打った。 黒い影の気配と共に、彼女の視界は闇に呑まれていった。 第7話 真言が目を覚ましたとき、そこは廃ビルだった。 琉雅は椅子に縛り付けられ、怯え切った表情でこちらを見ていた。 「いやっ......真言さん、そんなことしないで......ごめんなさい、千浬のそばに現れたのが間違いだったの。お願いだから、許して......」 真言は呆然と立ち尽くした。 何が起きたのか、分からない。 確かなのは、さっき肩に鋭い痛みを覚えた直後に意識を失い、目覚めたらここにいて、手には血の滴るナイフが握られていたことだけ。 琉雅の腕には深い切り傷があり、赤い血が流れ落ちて床を濡らしていた。 「これは......」 真言が戸惑いながら近づくと、琉雅は恐怖に引きつった声で叫んだ。 「来ないで!真言さん、お願いだからやめて!私......千浬から離れるから!」 「何を言ってるの?......紐を解いてあげるよ」 その瞬間、背後から低い怒号が響いた。 「真言!何をしている!」 振り返ると、千浬が立っていた。 真言が言葉を発する前に、琉雅が声を張り上げる。 「千浬......!真言さんが私をここに連れてきて、殺すって言ったの!この腕も......彼女が刃物で切ったのよ!」 真言は凍り付いた。 そんなことはしていない。 唯一の可能性―― これは琉雅の自作自演。 あまりの恐ろしさに、彼女は信じられないという目で琉雅を見つめた。 「お前は狂ったのか?誘拐して傷つけるなんて......」 千浬の視線は鋭く、彼女の手に握られた血のナイフに突き刺さった。 「琉雅を解放しろ。今すぐだ。そうすれば......今日のことは見逃してやる。だが拒めば......お前を警察に突き出す」 「......ふふ」 もう、彼の中ではすべてが「真言の犯行」になっている。 ナイフを握る手が震え、心臓を抉られるような痛みが走った。 「私が彼女を誘拐したって思ってるの?千浬の中で......私はそんな人間なの?」 千浬の瞳は氷のように冷たかった。 「まだ言い逃れするのか?ここにいるのはお前だけだ。琉雅がこっそりお前のスマホを使って僕に連絡してくれなければ、気づきもしなかった。なぜこんな方法を選んだんだ」 「......そこまで決めつけるなら、もう言うことないわ」 冷たい笑みを浮かべ、真言はナイフを琉雅の首筋に押し当てた。 「いやっ!やめて!千浬、助けて!」 琉雅は蒼白になり、叫び声を上げる。 計算のはずだったのに、本当に命を奪われるかもしれない恐怖が彼女を突き上げた。 千浬の顔は暗い怒気に染まる。 「彼女に指一本でも触れたら......お前を殺す!」 「そんなに彼女が大事?」 真言の瞳に絶望が宿った。 もう、彼の愛など望まない。 復活して彼とやり直すことも、求めない。 ただ、生き直すための「きっかけ」が欲しいだけ。 「彼女を解放してほしいなら......いいわ」 赤く滲む瞳で千浬を見据え、真言は言った。 「私にキスして」 第8話 「いったい何なんだ。なぜそんなにキスにこだわる?たかが一度のキスで、不老不死にでもなれるのか?」 千浬は目の前の女を睨みつけ、ただ狂気としか思えなかった。 彼女が強く望めば望むほど、彼の心は嫌悪に傾いていった。 「......別に」 ただ、それで自分は生き返れる。 真言はかすかな希望を込めて言った。 「中畔の命と、キスを交換。どうかしら?」 「真言......そんなに愛に飢えているのか?」 千浬は、椅子に縛られ恐怖に震える琉雅を憐れむように見つめ、長い沈黙のあと、静かに頷いた。 「いいだろう。キスしてやる」 一歩、また一歩と近づいてくる。 真言は期待に胸を震わせ、静かに目を閉じた。 だが次の瞬間―― 彼は急に飛びかかり、彼女の手からナイフを奪おうとしたのだ。 「......!」 真言は愕然とした。 彼は危険を冒してでも、彼女のキスを拒んだ。 その瞬間、心は粉々に砕け散った。 「刃物を渡せ!」 「そんなに嫌なの?たった一度のキスさえも!」 怒りと絶望で体が震え、真言は刃を握りしめた。 「本当に......私がこの子を刺すかもしれないのに!」 彼女が刃を振りかざした瞬間、千浬は力づくで奪い取ろうとした。 もみ合う中、その刃は深々と真言の胸に突き刺さった。 「......っ!」 焼けつくような激痛が走り、真言はゆっくりと自分の胸を見下ろした。 血に濡れた刃が突き刺さっている。 「僕は警告したはずだ――」 千浬は慌てて手を放したが、その後の言葉は喉で詰まった。 「あの子のために......刃を選ぶの?私は十五歳からあなたを愛してきた。十五年間よ......その結果がこれ?」 鮮血を吐きながら、真言は床に崩れ落ちた。 千浬の胸が締め付けられる。 「真言、病院へ連れて行く!」 「痛いよ......千浬......私、このままだと死ぬかも......」 そのとき琉雅が気を失い、千浬は即座に彼女を抱き上げた。 そして立ち去ろうとする。 彼は倒れた真言に一瞥を投げた。 「待っていろ。琉雅を病院に運んだら、すぐに戻ってお前を助ける。 恨むなよ。これは自業自得だ......あの一撃は心臓を外れている、お前は死なない。琉雅があれほど血を流したんだ。今度はお前が味わえ」 その後の言葉は、真言の耳にはもう届かなかった。 彼女はかすかに唇を動かした。 「千浬......私が死んだら......あなたは悲しむ?」 千浬は冷たい目で見下ろし、氷のように答えた。 「僕を悲しませるのは......真雪だけだ。いや、今は違う。琉雅もだ。だがお前は違う。 もう惨めに自分を落とすのはやめろ。これで終わりだ。僕たちは離婚する。もう二度と関わるな」 「......そう。家に戻ったら、書斎を見て。結婚記念日のために......私、贈り物を用意してあるの。五周年、おめでとう......」 「死ぬようなことを言うな。すぐに戻って助けるから」 そう言い残し、彼は琉雅を抱えたまま闇に消えていった。 遠ざかる背中が霞んでいく。 真言は静かに目を閉じた。 その瞬間、長年の執念も、未練も、すべてが霧散した。 千浬、さようなら。 もう二度と、千浬の人生を邪魔しない。 もう自分を解放する。 千浬のことも、解き放ってあげる。 第9話 千浬は琉雅を病院へ運んだ。 医師は「搬送が早かったので大事には至らなかった」と告げた。 彼は胸を撫で下ろし、真言を迎えに戻ろうとした。 ベッドの上で琉雅がか細く咳をする。 「千浬、もう行っちゃうの......?お願い、行かないで......怖いの。目を閉じるたび、真言さんのあの恐ろしい顔が浮かんで......」 真雪に酷似したその顔が涙に濡れているのを見ると、千浬の心は締め付けられた。 彼は優しく抱きしめ、低く囁いた。 「今日のことは僕が悪かった。お前を一人にして、しかも真言を迎えに行かせた......安心しろ、必ずけじめをつける。真言に謝らせてやるよ」 「ううん、いいの......彼女はただ、心が不安定なだけ。でも千浬、今日は私の誕生日なのよ。生まれてから、一度も祝ってもらったことがなかったから、ずっと今日を楽しみにしていたの。なのに、どうして真言さんは、今日という日に私を傷つけるの?」 再び泣き崩れる彼女を見て、千浬の胸にあった真言への罪悪感は跡形もなく消え去った。 「分かった。じゃあ僕は行かない。彼女を連れ戻させる。今日はずっと琉雅ちゃんのそばにいる。誕生日を祝おうか」 「うん」 琉雅は顔を上げ、濡れた瞳を輝かせる。 千浬の目には、彼女はただ無垢で愛らしい少女にしか映らなかった。 かつての真雪に瓜二つの。 真雪が死んだ時、自分は海外にいて戻れなかった。 ずっと負い目を感じていた。 だから彼の周囲の女は、皆どこか真雪に似ていた。 しかし九分通り似ているのは、琉雅ただ一人。 まるで天が与えた贈り物のように、真雪の命日―― その日に彼女は自分の前に現れた。 だから、これからは琉雅が望むなら、たとえ天の星であろうと贈ってやりたいと思った。 「千浬、退院したい。家に帰りたいの。だって今日、私に誕生日パーティーをしてくれるって言ったでしょう?その場で、私たちの婚約をみんなに発表すると」 「だが、琉雅ちゃんの体は――」 「先生も大丈夫だって言った。ただ腕を少し傷めただけ。気をつければ平気」 琉雅は潤んだ瞳で見上げ、甘えるように言った。 「お願い、千浬......家に帰ろう?」 「......分かった」 千浬は頷いた。 「連れて帰る」 病院を出る前に、彼は電話をかけ、人を廃ビルに向かわせて真言を病院へ搬送させるよう指示した。 鷹取家の屋敷。 千浬が琉雅を伴って戻ると、客人たちはすでに集まっていた。 誰の誕生日かは知らされていなかったが、彼が琉雅を連れて現れた瞬間、皆心中で察した。 「おや、鷹取社長......新しいお相手ですか?」 「まだ若そうだな......18になったかどうか」 「冗談だろ?でも、まさか鷹取社長が女を家に連れてくるとはな。奥様は黙ってないんじゃ?」 囁き合う中、琉雅はおとなしく彼の隣に立ち、紹介を待っていた。 「僕と真言は、間もなく離婚する」 「......え?」 「嘘!」 「きっと嘘じゃないんだ。前から聞いてたろ?二人はそれぞれ好き勝手やってるって。離婚は時間の問題だったんだ。もともと鷹取社長は真言を愛していない」 「そうそう。それに......気づいた?隣の子、あの死んだ真雪にそっくりじゃないか?」 「しっ!鷹取の前であの人の名を口にするなんて、命が惜しくないのか!」 千浬はわざとらしく咳払いし、琉雅の手を強く握り、客人たちへと宣言した。 「僕は真言と離婚したら、琉雅を妻にする。今日は琉雅の誕生日であると同時に、我々の婚約披露宴だ。どうか皆、楽しんでいってほしい」 人々は顔を見合わせ、すぐに口を揃えた。 「おめでとうございます、鷹取社長!」 「いやぁ、幸運な方だ!」 「そういえば奥様は?姿が見えませんが......まさかもう出て行ったとか?」 真言の名が出ると、千浬は冷ややかに答えた。 「少し体調を崩している。病院にいるはずだ」 その言葉が終わるや否や、外に出した部下から電話が入った。 「社長、ご指定の廃ビルに行きましたが......何度探しても、奥様の姿はどこにも......本当にそこでしたか?」