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花は月に眠れず
森下真理(もりした まり)は、幼い頃に佐藤家へ引き取られた。 義兄の佐藤陽翔(さとう はると)は、誰よりも彼女を甘やかし、守ってくれる存...
Chương (1)
第1章
森下真理(もりした まり)は、幼い頃に佐藤家へ引き取られた。
義兄の佐藤陽翔(さとう はると)は、誰よりも彼女を甘やかし、守ってくれる存在だった。
養父母に隠れて、二人は七年もの間、恋人同士として過ごしてきた。
「誕生日になったら、真理にプロポーズする」
そう陽翔は約束してくれていた。
けれど、その日。
真理は偶然、彼と友人たちの会話を耳にしてしまう。
「彩乃が『結婚するまではダメ』って言うから、陽翔さん、欲求不満で死にそうなのに、一度も触れてないんだってな。
でも真理は勝手に体を差し出してきた。都合のいい道具だろ?タダより安いもんはないぜ」
下品な笑い声が続いた。
そして誰かがからかうように尋ねた。
「なぁ、陽翔さん。彩乃と結婚しても、養妹とこっそり続けるんじゃないんすか?」
一瞬の沈黙。
次に響いたのは、低く嗤うような声だった。
「そんなわけないだろ。彩乃は純白なんだ。汚したくない」
その一言は、真理の胸を鋭く切り裂いた。
息が詰まり、足元が揺らぐ。
けれど声を出すこともできず、ただ静かにその場を後にした。
......泣くことさえ許されない気がした。
すべてを呑み込み、真理は決めた。
海外の戦場へ向かおう。
国境なき医師として、命を懸けて人を救うんだ。
彼の人生で脇役にされるくらいなら、舞台を降りる。
これからは、自分の物語のために生きよう。
その知らせを知ったとき、陽翔は狂ったように、彼女を探し始めることになった。
第1話
森下真理(もりした まり)が成人したばかりの時、義兄の佐藤陽翔(さとう はると)と、禁断の果実を摘んでしまった。
昼間は「お兄ちゃん」と素直に呼ぶのに、夜になるとベッドの上で「あなた」と声が枯れるまで言わされた。
許してもらえるのは、いつも朝方になる頃だった。
二人の秘密は七年も続いた。
リビング、浴室、キッチン......家の隅々まで、すでに痕跡でいっぱいだ。
ある日の午後。養父母が寝室に入った途端、真理は大きな窓の前で陽翔に押し倒された。
白いワンピースを腰まで乱され、身体の距離は一瞬でなくなった。
「......やだ、聞こえちゃう......」
震える声でそう言うと、陽翔は唇を歪めた。
「何を怖がってるんだ。こっちの方が、ずっとスリルあるだろ?
ほら、いい子だ。お兄ちゃんは、お前のその声が一番好きなんだよ」
その瞬間、強烈な快感に襲われ、真理の思考は真っ白になる。声を上げる代わりに、必死に陽翔の肩に噛みついた。
けれど、本気では噛めない。ただ、甘えるように歯を立てるだけだった。
世間での彼は、佐藤グループの冷徹な若き社長。
「妹を溺愛する兄」として名を馳せている。だが真実を知るのは、真理ただ一人。
彼がどれほど強い欲を抱え、どれほど多彩な方法で彼女を狂わせるか......それを知るのは彼女だけだった。
必死に応える真理の姿に、陽翔は眉をひそめ、低く息を洩らす。「......やっぱり、お前は最高だ。お兄ちゃんはお前なしじゃ生きられない。なぁ、真理。永遠に俺だけを愛してくれるだろ?」
頬を染め、蕩ける視線で彼を見つめる真理。二十数年、彼はずっと自分の一部だった。
昔から兄妹だった。けれど、この先は......
ふと不安が胸を刺し、真理は動きを止めた。「......ねぇ。いつになったらお義父さんたちに話すの?最近、あなたにお見合いを勧めてるじゃない」
途端に陽翔の表情が曇った。だがすぐに彼女の唇へ優しい口づけを落とし、囁いた。
「俺の誕生日が終わったら言うよ。その方が、きっと受け入れてもらいやすい」
確かな答えに、真理の胸の中は一気に明るくなる。その夜、二人は何度も愛を確かめ合い、同じ頂へと昇りつめた。
事が終わると、陽翔は当たり前のようにティッシュを渡してくれる。ズボンを履き終えた彼のスマホが鳴り、画面をちらりと見た後、小さな箱を真理に差し出した。
「今日は友達の誕生日なんだ。もう迎えが来てる。俺が帰るまで、いい子で待ってろ」
包みを開け、中身を見た瞬間に真理の顔は真っ赤になった。その様子に、満足したはずの陽翔が再び熱っぽい目を向けた。
「......俺が帰るまで、外すなよ」
命令されれば、逆らうことなどできない。
「......うん」
真理はただ素直に頷くしかなかった。
陽翔が出て行ったあと、ふとソファに財布が置き忘れられているのに気づいた。慌てて車に乗り込み、彼を追った。
胸は高鳴り、心は浮き立っていた。道端の花まで鮮やかに見え、鳥の声さえ自分を祝福しているように思えた。
だが、店の個室の前に着いた瞬間。中から聞こえてきた笑い声が、真理の足を止めた。
「さすが陽翔さんだよな。カーテンも閉めないなんてさ。俺たち全員、腹よりテント張っちまったぜ」
「ほんとほんと。顔もテクもAV女優並み。けど所詮は養女だ。あんなに乱れるなんてな。陽翔さんが本気じゃないから、俺らも楽しめるってわけだ!」
......わざと、見せていた?
真理はその場で硬直した。
耳鳴りがする。胸が苦しくて、呼吸が乱れる。何が本当で、何が嘘なのか......分からなくなっていった。
部屋の中から漏れる笑い声は止まらなかった。
その一言一言が胸を刺し、真理の中で燻っていた疑念に答えを突きつけてくる。「さすが陽翔さん。彩乃のこと、大事にしすぎて手も出せないんでしょ」
「彩乃が『結婚するまではダメ』って言うから、陽翔さん、欲求不満で死にそうなのに、一度も触れてないんだってな」
「けど、俺たちは知ってるよ。陽翔さんは、女遊びが好きなくせに外の女は汚いって嫌っている。便利な発散道具が身近にあるなら、使わなきゃ損だし、十年以上も養ってきてんだ。無駄にはしないさ」
「なぁ、陽翔さんって彩乃と結婚しても、養妹とこっそりこの関係を続けるんじゃないんすか?」
一瞬の沈黙。
次に響いたのは、低く嗤うような声だった。
「そんなわけないだろ。彩乃は純白だぞ。汚したくない」
吐き捨てるような調子。
冷たく、どこか見下す響き。
まるで知らない誰かの声に聞こえた。
足がふらつき、心臓が大きく跳ねる。
けれど体の奥では、まだ陽翔に仕込まれた玩具が容赦なく蠢いていた。
「お前はただの道具だ」と嘲笑うかのように。
視界がにじむんだ。
そして近くから店員の足音が迫ってくる。
見られるのが怖くて、真理は慌てて踵を返した。
情けないほど必死に、その場から逃げ出すしかなかった。
けれど、逃げても記憶は追いかけてくる。
両親を亡くした日。
五歳で孤児になった自分を、父の戦友だった佐藤家の叔父さんがためらいなく引き取ってくれた。
佐藤家の一人息子は「どうしようもない問題児」だと聞かされていたから、真理は最初から肩身の狭い生活を覚悟していた。
だが、初めて会った陽翔は手を引いてくれて、優しく「真理ちゃん」と呼んでくれた。
雷が怖くて泣きじゃくった夜は、朝まで布団のそばにいてくれた。
学校で不良に絡まれた時は、自分の身を張って返り討ちにし、頭に二十針も縫う怪我を負った。
年を重ねるほどに、陽翔は誰よりも格好よくなっていった。
彼を慕う人は星の数ほどいた。
真理もそのひとりだ。
想いを胸に隠し、日記にだけ書き綴る日々。
ずっと、密かに好きでいるだけでいいと思っていた。
十八歳になるまでは。
あの日。放課後に部屋のドアを開けた時、陽翔は真理の日記を開いていた。
責めるような視線。
けれど口から出たのは別の言葉だった。
「やっぱりか。真理も俺と同じで、汚い気持ちを抱えてたんだな」
その日、二人は初めて体を重ねた。
不器用で、けれど狂ったように繰り返された行為。
我に返った時、シーツに残る赤いモノが目に飛び込み、胸が押し潰されそうな後悔に襲われた。
それでも陽翔の一言が、彼女を縛り付けた。
「籍を入れられるようになったら、真理を妻にするよ」
その約束を信じ、何度も繰り返した。
隠し続けた七年。
十八歳から二十五歳まで。
真理はもう、この秘密の関係に疲れ果てていた。
それでも「いつか」と願い続けてきた。
だが今日、すべてが崩れた。
自分は最初から、彼の目に映ってなどいなかった。
ただ、鈴木彩乃(すずき あやの)を「汚さない」ための、代わりの道具なのだ。
理解した瞬間、胸に広がったのは絶望と虚無。もう、何事もなかったように振る舞うことはできない。けれど、これからどうすればいい?
彩乃の「結婚前の試用品」として生き続けるのか?
そんなの、絶対に嫌。
震える手にスマホが震えた。
画面には、以前から参加していたボランティアのグループ通知が表示されている。
【国際医療のため、アルディア州への国境なき医師を募集中。帰国時期未定。生命の危険あり】
しばらく無言で見つめ、やがて真理は深く息を吸い、メッセージを送った。
【......まだ応募できますか?】
自分はもともと孤児。
佐藤家に置かれて、生かされてきただけ。
彼の人生ではただの脇役だった。
なら、ここで舞台を降りよう。
これからは、自分自身の物語を生きるために。
第2話
ボランティアは真理の履歴書を見終えると、慌てたように電話をかけてきた。
受話器越しの声は震えていて、驚きが隠せない。
「冗談じゃないですよね?あんな名門の医科大学を出たのに、国内の大病院じゃなくて......あんな過酷な場所で、国境なき医師団に参加するんですか?
アルディアは今、戦争中です。状況は混乱していて、常に命の危険があります。ちょっとでも気を抜けば、そのまま帰ってこられないかもしれません。本当に、それでも行くんですか?」
真理はまっすぐに答えた。
「子どもの頃からの夢なんです。ずっと諦められなかった夢でした。これまでは国内に、離れたくない人がいました。でも、今は......もういなくなったので」
一瞬の沈黙。やがて相手の声は熱を帯びる。
「......ありがとうございます。心から歓迎します。あなたの勇気と献身に、国際医療の仲間として感謝します」
そして、彼らは真理に日程表を送った。
出発は一週間後。ちょうど、陽翔の誕生日の日だった。
待ち望んでいたはずの日は、今や別れの日に変わった。
かつては一番近しい存在で、誰よりも大切な人。
けれどこれからは、太平洋の向こうの二度と会えない他人になる。
電話を切った真理は、その場に座り込み、しばらく動けなかった。
赤く腫れた目元の涙を拭って立ち上がり、浴室へ向かった。
タオルで肌をこすり、必死に陽翔の痕跡を洗い流そうとした。
ふと脚の間にぬるい感覚がした。視線を落とすと、鮮やかな赤が広がっていた。
......よりによって、生理が来たのだ。
真理は昔から重い生理痛に悩まされてきた。ひどい時には意識を失うほどだ。
鎮痛剤を飲むと、枕元のカレンダーに赤い丸で出発日を囲んだ。
深夜。痛みにうなされて寝返りを打つと......
部屋の扉がそっと開いた。
陽翔だった。
スタンドライトの薄明かりの中、彼はすぐにカレンダーの印を見つけた。
スマホを枕に置き、にやりと笑って首筋に顔を埋めた。
「お兄ちゃんの彼女になるの、待ちきれないのか?」
息が止まり、真理の瞳に再び涙がにじんだ。
ようやく気づいたのだ。
......自分は彼と恋人とするようなことを散々してきた。
なのに、一度も「彼女」と呼ばれたことはなかった。
陽翔はその思いに気づくこともなく、大きな手をスカートの奥へ滑り込ませてきた。
荒い吐息。指先がそこに『何もない』ことを見つけると、低く笑った。
「言うこと聞かない子は、お兄ちゃんが罰を与えないとな」
布団をめくり、覆いかぶさるように押し寄せてくる。
真理は必死に胸を押し返した。
「......生理中よ」
しかし陽翔は止まらない。逆に手首をつかみ、頭上へ押さえつけた。
「前にもやっただろ?......お兄ちゃんはお前が好きで仕方ない。我慢なんてできるかよ」
軽口のような声音。
けれど、その一言が胸を突き刺した。
......自分はただ、欲望をぶつけるための道具なのだ。
そう思った瞬間、真理の心は屈辱と悲しみに押し潰されそうになった。
本当に愛しているのなら......行為を、友人達に見せつけるような真似、するはずがない。
ただの欲望をぶつけるために、彼女の身体を犠牲にするなんて。
真理は目の奥の熱を押し殺し、海のように深い瞳を見据えた。
「もし......いつか私が遠くて危険な場所に行って、もう二度と会えないかもしれないってなったら......どうする?」
重すぎる問いに、陽翔の手が止まった。
しばし沈黙ののち、額に小さな雨粒のようなキスがいくつも落ちた。切なさと、どうしても手放せない執着が入り混じっていた。
「そんなわけないだろ。お兄ちゃんはお前をこんなにも愛してるんだ。一生離すわけない」
......愛?
汚いって言ったのは誰?
六年間、私を汚したのは......あなたじゃないの。
下腹に鋭い痛みが走り、思考が途切れた。
「っ......」声が漏れ、額から汗がつっと伝った。
「どうした?どこか痛むのか?」
ようやく陽翔が気づいた、その瞬間だった。
彼の手が額に触れかけたとき、スマホの画面が光を放つ。
ちょうど見える角度で、通知の文字が真理の目に飛び込んできた。
......【陽翔お兄ちゃん、生理きちゃったの。すごく痛いよぉ】
目を細めた陽翔の表情が硬くなった。
「......仕事で問題が起きた。お前はもう寝ろ。明日も仕事だろ」
ベッドから降り、あっさりと言い捨てた。
スマホに短く打ち込み、立ち去る背中は振り返らなかった。
残されたのは、真理ひとり。そして......枕元の鎮痛薬まで持っていかれていた。
それは、前に彼が買ってきてくれた薬だった。
彼女が痛みで泣き叫んだ夜、唯一の救いだった薬を。
「......お兄ちゃん」
声は届かない。
閉まる扉の音に消え、足音はすぐ遠ざかっていった。
涙がシーツに散り、丸くしみを作った。
体を小さく丸め、声を殺して泣いた。
耐えられると思った。
けれど心が沈むほど、痛みは鋭さを増していく。
鈍い刃物で内臓をかき回されるような感覚。
息が乱れ、意識が霞む。
薬箱を探しても、どこにもない。
視界が滲み、倒れ込みそうになったとき、スマホの画面が光った。
......陽翔からの不在着信が並んでいる。
折り返そうとした瞬間、着信音が鳴った。
慌てて出ると、焦り切った声が飛び込んできた。
「すぐ病院に来い!」
「......なにが......あったの」腹を押さえ、声を出すだけで精一杯だった。
「いいから!一刻をも争うんだ!」
その声をかき消すように、受話口から甘えた女の声が漏れる。
「陽翔お兄ちゃん......ほんとに痛いの......彼女、まだ?」
ぷつり、と通話は切れた。
第3話
陽翔が取り乱す姿なんて、今まで一度も見たことがなかった。
いつも冷静で揺るがない人なのに......
真理は時計に目を落とした。まだ夜明けには程遠い。
この痛みじゃ、気を失ってもおかしくない。動くのさえやっとだ。
けれど、陽翔からのメッセージは止まらない。
一通、また一通。言葉は荒くなり、焦りがにじむ。
まるで命に関わる大事でも起きたように。
真理はとうとう鍵を手に取り、壁にすがって外へ出た。
歯を食いしばり、車を飛ばした。
病院の入口に着いた途端、待ち構えていた陽翔に乱暴に腕を引かれた。
そのとき初めて気づいた。彼の額から血が流れていることに。
以前の古傷よりも深く裂け、肉が見えるほどに。
「怪我してるじゃない!すぐ治療しないと!」
痛みも忘れて彼の手首をつかみ、治療室へ引こうとした。
だが陽翔は鋭く振り払った。
「俺のことはいい。彩乃が生理中で大出血している。俺の傷は、さっき急いで運んでいる時に花壇にぶつけただけだ。
夜勤の医者が足りない。お前が今すぐ手術してやれ」
真理の汗が背中を伝う。眉間に深い皺が寄る。
......生理で手術なんて、聞いたことがない。
それに......彼は命を張ってまで彩乃を守るの?
真理の顔から血の気が引いていく。
その表情に、陽翔の瞳がわずかに揺れた。何か言いかけた、そのとき......
「陽翔お兄ちゃん......痛い......」
病室から、か細い声が洩れた。
ベッドの上の彩乃。
弱り切った顔で、頼りなくこちらを見ていた。
陽翔は言いかけた言葉を飲み込み、そのまま病室へ駆け込んでいった。
真理はその場に立ち尽くした。心も体も抜け落ち、手足の動かし方すら忘れたみたいに。
......看護師長に肩をつかまれるまでは。
「ちょっと森下先生、大丈夫?顔色真っ青よ」
耳元で、好奇心を隠さない声がささやく。
「さっき運ばれてきたあの女の子ね。彼氏のほかに愛人とも遊びすぎて、黄体破裂よ。運ばれたとき、彼氏に『生理の出血って言え』って必死に隠させてさ。『そう言わなきゃプライバシー侵害で訴える』って」
横から若い看護師が続ける。
「それだけじゃないですよ。この前、うちで処女膜再生手術の予約してました。遊び尽くして、最後は真面目そうな男捕まえるつもりなのでしょうね」
真理は普段から私生活を語らない。
だから誰も、彼女と陽翔の関係を知らない。
二人の看護師はため息をつき、憐れむように首を振った。
「彼氏さん、あんなに心配してるのにね。ほんとに愛してるんだろうな......でも可哀想だわ。あんなイケメンなのに、裏切られて」
「今どきの女の子って、自分を大事にしない子ばっかりね」
その言葉が胸に重くのしかかる。
......彩乃には「正妻」という肩書きがある。
じゃあ、自分は?影で弄ばれるだけの、もっと惨めな存在じゃないか。
視界が滲み、足元が揺らぐ。
看護師長が慌てて抱きとめた。
「森下先生、無理しないで。顔色ひどいわよ。手術はやめましょう、転院させればいいのよ」
真理は必死に顔を上げたとき、病室から出てきた陽翔と目が合った。
陽翔の口から出たのは、心配の言葉じゃなかった。
眉間に深い皺を寄せ、不機嫌そうに怒鳴る。
「まだ突っ立ってんのか?早く手術の準備しろよ。お前が一分でももたつけば、その分だけ彩乃の危険が増すんだぞ!」
看護師長が意味ありげに二人を見比べた。
「森下先生、彼って......」
真理は返す気力もなく、ただかすれた声で言った。
「手術......たぶん無理よ」
なのに今は気に留める様子もなく、苛立ちのまま真理の腕を乱暴に掴む。
「どうしてできないんだ」
そのやり取りに、看護師長が堪えきれず顔をしかめた。
「見りゃわかるでしょ!森下先生は体調が悪いの。こんな状態で大きな手術をしたら、患者より先に倒れかねないわよ」
ようやく陽翔は真理の体を支えた。
声も少し和らぐ。
「......どうしたんだよ」
真理は苦く笑って答えた。
「生理痛がひどくて......今は本当に無理」
陽翔は知っていた。真理が生理のたびに地獄のような痛みに襲われ、意識を失うほど苦しむことも。鎮痛薬でしか耐えられないことも。
けれど次の瞬間、彼は真理を乱暴に突き放した。
その勢いで、真理は床に崩れ落ちそうになる。
「真理。言い訳はやめろよ。お前、いつもは従順だろ。俺の友達を助けるだけなのになんでそんなに拒むんだ?」
声は冷たく、皮肉が滲んでいた。
「違うの、本当に私は......」
言葉の途中で、陽翔の冷たい声が重なってきた。
「真理。患者の命を助けるのが、医者の勤めだろ?お前に拒否権なんかあるのか?俺がお前の兄だからって、告発しないとでも思ってるのか?
この手術は、やるしかない。やらなきゃ終わりだ。
彩乃に何かあれば......お前のキャリアなんて一瞬で潰してやる」
......こんな陽翔、見たことなかった。
情もなく、優しさもなく。
自分の尊厳すら踏みにじった。
胸の奥が抉られ、血が吹き出すように痛む。
手足は痺れ、体は小さく震えた。
「ちょっと!あんたねぇ!」
看護師長が思わず声を荒げる。
けれど真理はそっと手を伸ばし、その声を制した。
視線を落とし、力なく囁く。
「......大丈夫。やるわ」
最後の一度。
それで借りを返す。
あとは......互いに、何も残らない。
第4話
真理は無理やり鎮痛薬を飲み込むと、そのまま手術室に入った。
いつもなら三十分もかからない手術が、今回は二時間もかかった。
ようやく彩乃が危険を脱したとき、真理はすでに限界を超えていた。
扉が開くと、廊下を落ち着きなく歩き回る陽翔の姿が目に入る。
張り詰めた糸がぷつりと切れ、真理の体は揺れた。
差し伸べた手は、彼に届かない。
陽翔は振り返ることなく、担架で眠る彩乃に駆け寄った。
一瞥さえ与えずに。
真理はその場に崩れ落ち、頭を床に打ちつけた。
鈍い音とともに血が額から伝う。
看護師の声は遠く、霞の向こうで陽翔の背中がどんどん小さくなっていった。
......目を覚ますと、病室のベッドにいた。
周りには誰もいない。
点滴は抜かれ、テープの跡がじんじんと痛む。
それでも体は少し楽になっていた。
服を整え、真理は彩乃の病室へ向かう。
看護師の話では、陽翔は一晩中そばに付き添い、今は朝食を買いに出ているという。
病室に入ると、ちょうど彩乃が目を開けた。
ゆっくりと笑みを浮かべる。
「昨日はありがとう」
けれどその笑みの奥に潜む軽蔑は、あまりにも鋭かった。
「でもね、何を言っていいかダメなのか、わかってるでしょ?陽翔が愛してるのは私よ。私はいずれ佐藤家に嫁ぐの。あなたも、余計なことはしない方がいい。
妹は妹よ。分をわきまえないと。もし知られたら、下品だって笑われるわよ。兄を誘惑するために恥も捨てたってね」
真理の拳が震え、血の気が引いていく。
「......何を話してるんだ?」
低い声が空気を裂いた。
振り返れば、陽翔が扉に立っていた。
会話はすべて聞かれていた。
だが彼は、何事もなかったように袋を机に置いた。
視線を逸らし、ぎこちなく笑う。
その瞳に宿るのは、真理への気遣いではなく、彩乃を庇おうとする迷いだった。
......そうか。
今ここで何を言っても、私が嫉妬に狂ったみっともない女にしか見えない。
彩乃はすぐに、弱々しくも可憐な笑顔を浮かべた。
「ねえ、あなた。ちょうど妹さんにお礼を言ってたの。命を助けてもらったから。ほんと、私って身体が弱いわ......たかが生理なのに、こんな騒ぎになっちゃって」
陽翔は彼女の髪を耳にかける。
指先は優しく、その眼差しは甘い優しさで溢れる。
「じゃあ、これからは体を大事にしろよ。だって......」
真理の存在に気づき、言葉が途切れた。
真理は唇を噛み、残りを飲み込んだ。
二人だけが共有する秘密のように、視線を交わして頬を染める。
その光景に、真理の胸はきゅっと締めつけられた。
情欲に溺れるときは、どんな汚い言葉でも平気で口にした彼。
けれど本当に好きな人の前では、少年みたいに不器用で真っ直ぐな顔を見せるのだ。
陽翔が、丁寧に朝食を並べていく。
彩乃はちらりと見て、得意げに笑った。
「わあ、このおかゆ、私たちが何度も食べに行った店のよね。あの店、結構遠いのに......しかも私がネギ嫌いなの、ちゃんと覚えててくれたんだ。
うん、この味。思い出すなあ。学生の頃、私が病気で寝込んだ時、わざわざ何時間も飛行機乗ってお菓子を持ってきてくれたでしょ?あの時、ルームメイトみんな羨ましがってたの。
それからね、クリスマスに学校に来てくれたとき。男の子が私にショートケーキくれたのを見て、すっごく焼きもち焼いて、危うくケンカになるところだったよね。怒ったあとで『俺が一番いいものを買ってやる』とか言って、オーダーメイドケーキ買ってくれてさ。今思えば子供みたいにバカらしいけど......」
真理は静かに聞いていた。
昔から、陽翔のことを大雑把な人だと思っていた。
シナモンが嫌いなことを、何度言っても忘れられていた。
誕生日に、アレルギーがあるのにマンゴーケーキを買ってきて、全身蕁麻疹になり、危うく二十歳で命を落とすところだった。
自分が危なっかしいところのある彼を、支えてやらないと......そう思ってきた。
けれど違った。
彼の細やかさは、すべて「本当に好きな人」に向けられていたのだ。
好みを覚えて、馬鹿みたいに嫉妬して。
時には命さえ投げ出して......
真理はかすかに口元を引き上げ、踵を返した。
この空間は二人に委ねよう。
無言で去っていく真理の背中を見て、陽翔の心にはわずかなざわめきが残った。
少し迷ったあと、スマホを取り出しメッセージを送った。
【彩乃とはただの友達だ。勘違いすんな】
【いい子だ、よく頑張ったな。少し休め。あと六日だ。その時が来たら、親に全部話して、お前にプロポーズする】
【カイロを買った。家に届くよう手配したから、帰ったらすぐ貼れよ】
画面を見下ろしながら、真理は心の中で嘲った。
こんな安っぽい気遣いと約束なんて、もう聞き飽きた。
スマホの電源を落とした。
返事は一文字も打たなかった。
......六日後、二人の関係は完全に終わる。
第5話
三日後、彩乃は退院した。
その日、真理は院長に辞表を出した。
「えっ、辞めるのか?」
院長は目を丸くした。
「君、ここは家から近いし、両親や兄のそばにいられるからって言ってただろう?主任医師に推薦しようと準備もしてたのに......考え直さなくていいのか?」
卒業してから、いくつもの大病院から声がかかった。
けれど真理はすべて断った。
......陽翔のそばにいたくて。
だが結局、距離はどんなに近くても、心には一歩も踏み込めなかった。
ならいっそ、海の向こう、二度と会えない場所へ行けばいい。
日にちは冷たく進む。さらに三日。
その間、陽翔は一度も家に帰らなかった。
だが彩乃のSNSには毎日のように姿を見せた。
海辺でカモメに餌をやり、パワースポットで名前を書いた錠を掛け、お菓子を食べるために千里を駆ける......
どう見ても恋人同士。熱に浮かされたカップルそのものだ。
真理は画面を黙って眺め、ひとつずつ「いいね」を押していった。
そして携帯を置き、ライターを手に取る。
青春のすべてを書き残した日記帳に火を点けた。
......けれど忘れていた。
共通の友人には「いいね」が全部見えることを。
翌朝。
朝ごはんを食べに降りていくと、消えていたはずの陽翔が、もう席についていた。
真理を見るなり、牛乳を注いで差し出した。
真理は受け取らず、黙って椅子に腰を下ろした。
視線を合わせることはなかった。
重たい沈黙を破ったのは、陽翔の母だった。
「真理。院長から聞いたわよ。仕事辞めたって?」
箸を持つ陽翔の手が止まった。
驚いた顔で真理を見た。
ここ最近、彼の心は彩乃にばかり向いていた。
昔なら服を一枚買うのにも相談してきた真理が......こんな大事な決断を一言も告げずにいたなんて。
真理は何も説明せず、適当な言い訳で話を終わらせた。
食事を済ませると部屋に戻り、黙々と荷造りを始めた。
これからは、異国の地に赴き、自分で自分の身を守るしかない。
服を畳んでいると、背後から腕が回された。
陽翔だった。
熱い吐息が首筋をかすめる。混じるのは焦りと不安。
「真理......誰かに何か聞いたのか?」
あの日の出来事が胸をえぐる。
けれど真理はただ衣服をたたみ終え、そっと腕を振りほどいた。
「何のこと?私にはわからないわ」
望んだ答えのはずなのに、陽翔の体は強張った。
胸の奥に、言いようのない予感が広がる。
......何とかしなければ、この子は本当に自分の前から消えてしまうと思った。
言葉を探す。だがその瞬間、スマホが鳴った。
画面に一瞬映ったのは【彩乃】の文字。
陽翔の顔が慌てて強張り、真理を残して部屋を出ていった。
残された背中を見送りながら、真理は苦く笑う。
荷造りを終えた頃、陽翔の親友から電話が入った。
「真理!すぐ東豪ビルに来てくれ!陽翔が......事故ったんだ!」
一度は切ろうとした。
けれど、養父母の顔が脳裏をよぎる。
......彼は佐藤家の一人息子だ。
真理は迷った末、外へ足を踏み出した。
第6話
東豪ビルに着いた瞬間、真理の目に飛び込んできたのは、人だかりだった。
十階の窓際に、彩乃が今にも落ちそうに身を乗り出している。
少し離れたところには陽翔。必死に言葉を投げかけていた。
二人とも、一歩間違えれば命を落とすだろう。
眉をひそめた真理の耳に、陽翔の親友の声が届く。
「彩乃の......その、写真がネットに流れたんだ。で、聞いたら『真理が陽翔を奪うために画像を捏造した』って。そう言い張って飛び降りるって......」
顔を上げると、陽翔が必死に手を伸ばしていた。
「俺は真理にお前を傷つけさせない。結婚したら、あいつは家から追い出す。二度と関わらせないから」
真理の胸に冷たいものが落ちた。
彼は急いで『妹』と線を引いた。
「本当......?やっと信じてくれたの?」
彩乃が涙に濡れた目で手を伸ばす。
「ずっと信じてるよ。お前のために全部片づける。真理のことも含めて」
陽翔は必死に頷き、目に憐れみを浮かべた。
その姿を、真理は下から見上げていた。
最後に残っていた小さな火も、冷たい水を浴びせられたように消えていく。
背を向けようとした瞬間......
彩乃の足がもつれ、体が宙に落ちた。
人々の悲鳴が響く。
次の瞬間、陽翔が躊躇なく飛び降りた。
彼女を抱きしめ、共に落ちていく。
十階から。
粉々になってもおかしくない高さだ。
それでも、彼にとって彩乃は命より大事だった。
間一髪、設置されたエアマットが二人を受け止めた。
その時だった。
群衆の中から彩乃の友人が真理を指差した。
「この女よ!自分の兄に色目を使って、挙げ句に彩乃さんを陥れようとしたのよ!」
怒りの声が一斉に湧く。
誰かが拾ったレンガを投げつけた。
「恥知らずの女!」
「不倫女、死んじまえ!」
ゴン、と鈍い音。
真理の頭に衝撃が走り、世界が真っ白になる。
頭頂にべったりとした感覚。手で触れると、赤く染まった。
地面が揺れ、視界が歪む。
意識が遠のく寸前、陽翔の親友が叫んだ。
「陽翔!真理が......」
けれど陽翔は、彩乃を救えた安堵に浸っていた。
かすかに名前を聞いた気がしても、振り返れば何も見えない。
その隙に真理は血を押さえ、最後の力で人混みを抜けた。
家に戻り、簡単に傷を処置した。
リビングに座り、じっと家を見回した。
一つひとつ、目に焼きつける。
そして、スーツケースを引き寄せる。
鍵を玄関に置き、静かに背を向けた。
空港へ向かう車の中で、陽翔からメッセージが届いた。
【真理、明日は俺の誕生日だろ。だけどやっぱりプロポーズは指輪を買ってからにするよ。ちゃんとした形でな】
思い出した。
温もりの中で、甘えるように言った言葉を。
「プロポーズには指輪がいるのよ。そんなの基本でしょ。鈍いんだから、何でも私に言わせないで」
真理は一瞬も迷わなかった。
返信はただ一言。
【わかった】
そのあとすぐ、彼をブロックした。
恋人になったことは一度もない。
だから、別れを告げる必要もない。
これから先、彼はただの「兄」。
それ以上でも、それ以下でもない。
過去は煙のように消え、残るのは......別れだけ。