朝も夜も、もうあなたはいない

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朝も夜も、もうあなたはいない

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三年前、中村圭吾(なかむら けいご)は刃物を持った男に襲われそうになっていた森下優奈(もりした ゆうな)を助けた。 その出来事がきっかけ...

Chương (1)

第1章

三年前、中村圭吾(なかむら けいご)は刃物を持った男に襲われそうになっていた森下優奈(もりした ゆうな)を助けた。 その出来事がきっかけで、二人の縁は始まった。 この三年間、彼は彼女に深い愛情を注ぎ、家族を失った悲しみの時期を支え続けた。 だが三年後、莫大な借金を抱えた圭吾を残し、優奈は彼の敵である西川律人(にしかわ りつと)と結婚の手続きをした。 半月ほど前に知ってしまったのだ。 恋人の破産は芝居であり、自分は彼にとって、大切な初恋相手の代わりにすぎないことを。 その初恋相手が再び現れて挑発してきても、彼が嘘を重ね、その女ばかりかばい続けても、優奈の心にはもう静けさしかなかった。 もうどうでもよかった。三日後には律人と結婚式を挙げる。式が終われば、圭吾と顔を合わせることは永遠にない。 第1話 新春を迎える前日、森下優奈(もりした ゆうな)は恋人の敵と共に市役所に行った。 西川律人(にしかわ りつと)は彼女をからかうように見つめながら言った。「よく考えろよ。俺と婚姻届を出したら、圭吾とはもう終わりだ」 優奈はしばらく黙り込み、やがてうなずいた。「……うん」 手続きはすぐに終わり、二人は婚姻証明書を手にして市役所を出た。その時、律人は不意に彼女の手をつかみ、強引に家宝の腕輪をはめた。 「契約結婚だろうと、形だけは必要だ。三日後に式を挙げる。これは西川家の大切なものだ。外すなよ」 律人は昔から強引な人だ。優奈に拒む余地はなく、仕方なく受け入れるしかなかった。 市役所を出たあと、彼女は借りている部屋に戻った。玄関を開けると、料理の香りが漂ってくる。 キッチンから顔を出した中村圭吾(なかむら けいご)が優しい笑顔を向けてきた。「出張から帰ったのか?すぐにご飯できるよ、手を洗っておいで」 その声を聞いた瞬間、優奈の胸には痛みと怒りが同時に込み上げた。 彼と付き合って三年。二年前、彼の会社が破産して多額の借金を抱えた時、優奈は彼のために昼夜働き詰めで、四つも五つも仕事を掛け持ちした。食費も衣服も切り詰め、百円のミルクティーさえためらう生活を送ってきた。 苦しくても、いつか報われると信じていた。 だが十日前。ジュエリーのオークションで通訳のアルバイトをしていた彼女は、そこで圭吾を見かけた。 仕事でも探しているのかと思ったが、次の瞬間、彼は人気女優の清水美鈴(しみず みすず)を抱き寄せ、会場中の宝石をまとめて買い取ったのだ。 経営者たちは彼に媚びるように笑い、つい先ほどまで優奈をこき使っていた責任者も、彼の前では恭しく頭を下げていた。 信じられない光景だった。問いただそうと近づこうとしたが、マネージャーに止められた。「やめなさい! あの方はうちの超VIPだ。機嫌を損ねたら、あなたの仕事なんてなくなるよ!」 「超VIP?」優奈は呟いた。「彼、破産して借金まみれじゃなかったの?」 「冗談でしょ!」マネージャーは鼻で笑った。「あの人は世界有数のお金持ち、中村家の跡取りよ。さっき何百億円分も一括で買ったの。破産なんて、ありえない。どこでそんな馬鹿げた噂を聞いたの?」 優奈は呆然と立ち尽くした。 お金持ちの御曹司? 彼は小さな会社の社長だと言っていたのに。 マネージャーはさらに言った。「聞いた話じゃ、清水さんとは幼なじみなんだって。三年前に別の人と結婚したけど、中村さんはずっと彼女を待っていたそうよ。先月離婚して帰国した途端、また付き合い始めたらしいわ。やっぱり初恋相手は特別なのね」 そう言って優奈を見つめ、感心したように笑った。「それにしても、あなたと清水さんってすごく似てるわね」 雷に打たれたような衝撃で、優奈は体が冷たくなった。 二人が出会ったのは空港だった。あの時、刃物を持った男が無差別に暴れていて、優奈に刃が振り下ろされようとした瞬間、彼は身を挺して庇い、そのまま意識を失った。血まみれの中で彼が最後に漏らした言葉は、「君が……無事なら、それでいい……」だった。 病院で目を覚ました時、彼は優奈の顔を見てこう言った。「やっぱり……彼女じゃなかったんだな」 その時は深く考えもしなかった言葉が、今になって一つの答えへとつながっていく。それでも、優奈は信じたくなかった。 三年前、祖母と姉が交通事故に遭い、祖母は即死、姉は植物状態になった。絶望の中で寄り添ってくれたのは圭吾だった。彼は優奈にとって、失えない唯一の支えだったのだ。 だから優奈は初めて自分の誇りを捨て、都合のいい思い込みにすがった。「さっきのは見間違いかもしれない……」 しかし、わずか三十分後。意外なことが起きた。 美鈴のアシスタントから呼び出され、初めて訪れた高級レストランに行くと、美鈴は余裕の笑みを浮かべて待っていた。 「今日は圭吾くんの代わりに謝りたくてね。彼があなたを選んだのは、私を愛していたからなの。結婚してしまった私の代わりに、あなたを代わりの人にしただけ。怒らないであげて」 対面に座る華やかな美鈴と、鏡に映る自分の姿を見比べた瞬間、二人が似ていることを認めざるを得なかった。 だが、青白い顔色、安っぽい服、休めない生活でできた隈が、その差をさらに際立たせていた。 その時、心に湧いたのは怒りではなく、抑えようのない劣等感だった。 優奈は深呼吸して気持ちを押さえ込んだ。「……たとえそうでも、今の彼女は私なの」 「彼女?」美鈴は鼻で笑った。「じゃあ聞くけど、彼が本当の身分を教えたことある?この店が一番好きだって知ってた?あなたの誕生日プレゼントを彼が身につけたことは? ……全部ないでしょう。彼は安物なんて絶対つけない。あなたみたいな恥ずかしい女を、彼の本当の世界に連れて行くわけない」 優奈の胸の奥に、苦しさが波のように広がった。本当は叫びたい。「違う、彼は私を愛している」と。 だが、彼の行動の数々が、その言葉を口にする勇気を奪っていた。 涙をこらえ、ただ黙ってその言葉を受けるしかなかった。 最後に、美鈴は勝ち誇ったように立ち上がり、優奈の肩を軽く叩いた。「あなたは何も知らない。所詮、彼の暇つぶしよ。信じられないなら、賭けをしましょうか」 第2話 美鈴が持ちかけた賭けは単純だった。「一週間、出張ってことにして家を空けてみなさい。その間、圭吾が自分から連絡してくるかどうか、試してみて」 最初、優奈は勝てると思っていた。 あの日々を思い出す。彼が何度も告白してきて、二十回以上も断ったのに諦めず、ちょうど祖母と姉が次々に不幸に見舞われたとき、彼は支えてくれた。その優しさに心を動かされ、二人は付き合うようになった。 付き合ってからの三年間、圭吾は毎日送り迎えしてくれ、優奈が出張の時は二時間ごとに電話かメッセージを寄越した。返事が遅れると心配しすぎて警察に連絡したことすらある。 だから、この七日間も、優奈は寝る時でさえスマホを抱きしめて待っていた。一本の電話も、一通のメッセージも逃すまいと。 けれど、日が経っても――何もなかった。 一度も連絡は来なかった。 「何度も呼んだのに返事しないなんて、何考えてるんだ?」テーブルに料理を運んできた圭吾が、いつものように優しく額に口づけしようとした。優奈はさりげなく顔をそらす。 彼は一瞬驚いたが、すぐに柔らかく笑った。「怒ってるのか?一週間、忙しくて連絡できなかったから?会社のことで手一杯だったんだ。許してくれるか?」 その言葉に、優奈は思わず笑った。 自分は十日間、家を空けていたのだ。 以前なら、彼は「五日と六時間二十八分ぶりだ」と正確に数えていたのに。今では、彼女が何日いなかったのかさえ気にしていない。 はっきりした。自分はもう、彼にとってただの「代わり」にすぎない。初恋相手が戻ってきた今、自分の存在はどうでもよくなったのだ。 怒鳴りたい気持ちはあった。どうして? なんでこんな仕打ちを受けなきゃならないの? だが、口から出たのはため息だけだった。 疲れ切って、もう争う気力もない。 三日後、結婚式を挙げる。彼とは二度と会わないのだから。 「別に怒ってないよ。ちょっと出張で疲れただけ。食べよう」そう言ってテレビをつけると、芸能ニュースが流れていた。 人気女優・美鈴、ホテル前で謎の男性とキス 画面に映るぼやけた横顔を、優奈は一瞬で見抜いた。圭吾だった。 当の本人は、心臓を鷲掴みにされたような顔をして、慌てて彼女を見やった。だが優奈は黙って食事を続ける。安堵したのか、彼は急いでテレビを消した。「最近のニュースはくだらないな。芸能人の話ばかりだ」 その反応が、優奈にはおかしくて仕方なかった。 自分に隠す意味なんてあるのだろうか。代わりの自分に、取り繕う必要なんて。 夕食後、上司の千夏から電話が入った。「退職届見たよ、もう承認してある。でもね、近々大きな広告撮影があるの。あなたほど感性のあるカメラマンが他にいないのよ。辞める前に、それだけ撮ってくれない?」 千夏はこれまで何度も優奈を助けてくれた。同僚に手柄を奪われそうになった時も、上司に不当な扱いを受けた時も、必ず庇ってくれた。 だからその頼みを断る理由はなかった。むしろ全力を尽くそうと思った。 撮影はその日の午後から始まった。現場に着くと、モデルとして現れたのは美鈴だった。 撮影が始まって二十分ほど経った頃、美鈴が声を上げた。「みなさんお疲れさま。彼氏が差し入れを持ってきてくれたので、どうぞ召し上がって」 美鈴はそう言って配ったお菓子の箱を、優奈に手渡すふりをしてわざと落とした。「森下さん、こんな高級なお菓子初めてでしょ?緊張して手が震えちゃった?」 周囲から笑い声が起こる。 同僚たちと優奈の仲はもともと良くなかった。8桁の年収がありながら、服も二千円以上の物は買わず、会社の飲み会やイベントにも顔を出さない。ケチで無口な変わり者だと思われていた。 嘲る視線に居たたまれなくなり、優奈は外に出て窓辺に立った。 ふと下を見下ろすと、バルコニーに立つ二人の姿が目に入る。美鈴と圭吾は抱き合い、熱いキスを交わしていた。三年間付き合ってきたが、彼がこんなふうに我を忘れて誰かを求める姿は一度も見たことがない。彼は今、全身で美鈴に燃えていた。 夢見てきた相手を腕に抱き、少年時代から願ってきた口づけを交わしながら、それでもふと、別の人のことを考えてしまう。優奈のことを。キスの時にきつく閉じた瞳、震えるまつ毛、恥ずかしそうに赤くなる頬、そして最近の隈。 そのすべてが、彼には愛おしく、切なく思えた。 胸騒ぎに駆られ、彼は上を見上げる。けれど、そこに優奈の姿はもうなかった。 彼は一歩、遅かった。 第3話 撮影に戻って間もなく、圭吾からメッセージが届いた。【会社の外にいる。少し顔を見せて】 外に出ると、彼は笑顔で手を振り、小さな箱を差し出した。「たまたま近くに来たから寄ったんだ。フルーツポンチ、買ってきたよ」 以前なら、こんなことで一日中嬉しくなれた。けれど今は違う。さっきまで美鈴と会っていたその足で、今度は自分に。彼女には高級なアフタヌーンティー、自分にはスーパーの割引フルーツ。 そういう扱いなのだろう。安い物をあげれば、それで満足する女――そう思われている。 「昼も夜も働いて、大変だったろ」労わる声に、優奈はかすかに笑い、淡々と返した。「清水さんの彼氏がさっき差し入れてくれたから、お腹いっぱい。これは自分で食べて」 背を向けて撮影所に戻ると、圭吾はしばらく立ち尽くした。 胸の奥に、理由の分からない不安が広がっていく。 その後の撮影は順調に進み、早ければ三日ほどで終わりそうだった。 夜、帰宅すると、向かいの奥さんが買い物帰りに声をかけてきた。「いい匂いがしてるわねぇ。あなたの彼氏、本当にいい人だね。背も高いし顔もいいし、毎日ご飯まで作って待っててくれるなんて」 優奈は微笑むだけで答え、玄関の扉を開けた。 中に入ると、勢いよく抱きついてくる影があった。「優奈!帰ってきたんだな!一学期ぶりだ、会いたかった!」 圭吾の弟・中村匠真(なかむら たくま)だ。彼は大学一年になったばかりの少年だった。 最初、彼は優奈を激しく嫌っていた。「厄病神」だと罵り、祖母や姉の不幸を全部彼女のせいにした。優奈を育てたおばあちゃんは早く亡くなり、優しくしてくれていたお姉さんまで病院に入ってしまって。そりゃ、生まれたときに捨てられてもおかしくないって。「金目当てで兄さんに近づいたんだろ」とまで言った。 そんな言葉にどれだけ傷ついたか。一人で泣いた夜も少なくなかった。 けれど、圭吾を愛していたから。彼が家族と自分の間で苦しむのを望まなかったから。全部黙って耐え、匠真の世話も続けた。二年前、圭吾が破産したと告げた時も。 「もう何もない。借金しか残ってない。なのに、どうして君はまだいるんだ?」そう問いかけられた時、優奈は笑って彼の顔を両手で包んだ。「バカだね。私が愛してるのはあなただもの。お金なんて関係ない。あの時、私が一番辛い時にそばにいてくれたのはあなた。だから今度は、私が一緒に返していく」 その言葉に、彼は人生で味わったことのない感情を抱いた。罪悪感、感謝、恐れ、そしてどうしようもないほどの愛。 その前までは、彼は優奈のことなんて気にも留めていなかった。弟が彼女をいじめているのを知っていても、見て見ぬふりをしていた。 それ以来、匠真に「優奈を馬鹿にするな」と強く言い渡した。もっとも、彼の態度はそれを待つまでもなく変わり、今では仲が良すぎるほどだ。 「おい、いい加減にしろ」帰宅した圭吾が弟を引きはがす。「呼び方は? 優奈じゃなくてお義姉さんだろ」 匠真は不満そうに口を尖らせた。「だってまだ結婚してないじゃん。それに兄さん、もう……」 兄の冷たい視線に射すくめられ、匠真は言葉を飲み込み、しぶしぶ言い直す。「……借金だらけで、結婚はまだまだ先でしょ」 そのやり取りを聞いて、優奈は心の底から笑いがこみ上げた。みんな知っていたのだ。自分だけが、信じきっていた。滑稽なくらいに。 「明日は兄さんの誕生日だし、三人で食事に行こうぜ!」匠真が無邪気に誘ってくる。 「二人で行って。私は仕事があるから」優奈は彼の手を振り払い、「もう寝る」とだけ言って部屋へ向かった。 その背中を見つめながら、圭吾の不安はますます募った。やっぱり、出張の件で怒っているのかもしれない。 安いプレゼントでも渡せば、機嫌は直るはずだ。いつもそうだったから。 翌日美鈴は現場に現れなかった。聞けば、彼氏の誕生日パーティーを準備しているらしい。 昼休み、千夏が気まぐれで「今日はご馳走しよう」とスタッフを五つ星ホテルへ連れていった。 ところが、入口で「本日は貸し切りです」と断られる。 帰ろうとしたその時、十数台のベンツやベントレーが横付けされ、黒服の警備員が一斉に整列した。降りてきたのは、きらびやかな若者たちだった。その中心に、圭吾と美鈴の姿があった。他の人は圭吾の友達みたいだ。「三年越しの初恋相手が戻ってきたんだ。今日の誕生日、最高だろ?」 「ほんとだな。あの三年間は寂しくて、代わりを連れてただけだもんな」 その言葉に、圭吾の目が一瞬鋭く光った。口を滑らせた友人はすぐに顔を伏せる。 張り詰めた空気を破ったのは、美鈴の笑い声だった。「いいのよ。この三年間、私はそばにいなかったんだから。彼が暇つぶしを見つけてたって、不思議じゃないわ」 人混みの中から、優奈は圭吾をじっと見つめていた。お願い、何か言って。私はただの遊びじゃない、正式な恋人だって。そう言ってほしかった。 だが、彼は美鈴の鼻先を指で軽くつつき、優しく微笑んだ。「そうさ。ただの暇つぶしだ。君が気にしないなら、それでいい」 「おおー!さすが奥さん、大人だ!」仲間たちは大声で盛り上がり、笑いが響き渡った。 その喧噪の中で、優奈は人目につかない片隅に身を寄せ、泣き笑いを繰り返していた。 第4話 午後、美鈴がスタジオにやって来て、撮影は再開された。 ところが途中で、会社の会長の息子が現れる。彼は美鈴の熱狂的なファンで、美鈴がここにいると聞いてすぐに駆けつけてきたらしい。 撮影は中断され、スタッフ全員が彼と美鈴のツーショットを待つはめになった。 その間、優奈が椅子に腰かけていると、またもや圭吾が姿を現した。マスクで顔を隠し、こっそり中へ入り込み、子どもみたいに不満をこぼす。「今日は俺の誕生日だぞ。おめでとうの一言もないのか?プレゼントもなし?」 優奈の視線は、彼の腕時計に落ちた。 圭吾は時計が好きだった。毎年、借金返済や姉の医療費で生活が苦しくても、彼女はなんとかお金を工面して百万円の時計を買い、誕生日に贈ってきた。圭吾が生まれてきた日が、優奈にとっては特別な意味を持っていたからだ。その日があったからこそ、二十六年後に彼と出会えたのだ、と。 けれど、彼はその時計を一度も身につけたことがない。「高価すぎて使えない」と言ってしまい込んでいた。 今になってようやく分かる。本当は、安物だと見下していただけだったのだ。 「忙しいの」優奈は淡々と答えた。 「今は暇だろ?」圭吾は真剣に彼女を見つめる。「最近おかしいぞ。なんでそんなに冷たい?一緒にいるのに飽きたのか?」 優奈は彼をじっと見つめ、胸の奥で知らない人を見ているような気がした。 三年間ともに暮らしたはずなのに、どうして平気で自分を遊び相手として扱いながら、こんなにも愛してるように演じられるのだろう。 それとも、そうやって弄ぶほうが面白いとでも思っているのか。 声を荒げようと立ち上がったその時。「何するの!」美鈴の悲鳴が響いた。 彼女はスカートの裾を握りしめ、恐怖と怒りの入り混じった目で会長の息子を睨んでいる。 圭吾の顔色が変わった。すぐさま駆け寄り、美鈴を庇う。彼女は泣きながら彼に飛び込み、訴えた。「圭吾くん!あの人、私の足に触ったの!」 次の瞬間、圭吾の拳が相手に叩き込まれた。 「何様のつもりだ!俺に口出しできると思ってんのか!」会長の息子が怒鳴る。 圭吾は冷たく笑い、マスクを外した。「俺が何様かって?よく見ろ」 「な……中村さん……!」男は顔を青ざめさせ、その場に崩れ落ちた。震えながら謝り続ける。「すみません!清水さんとの関係を知らなくて……目が曇ってました!」 自分の頬を何度も叩きながら。 だが圭吾は一瞥すら与えず、美鈴を抱きかかえて必死にあやす。そしてようやく落ち着いた頃、優奈の存在を思い出して顔を上げた。 が、そこには誰もいなかった。いつ出たのか分からなかった。 彼は慌てて探し回り、電話をかける。幸いすぐに繋がった。 「どこにいるんだ!今のこと、誤解だ。説明させてくれ!」 「マンゴーミルクティーを頼んでたの。今、取りに行ってるだけ。でも、さっきのことって何を説明するの?」優奈の声は淡々としていた。 見てなかったのか。圭吾は胸を撫で下ろし、「なんでもない」と言って電話を切った。 通話を終え、優奈は自嘲の笑みを浮かべる。彼はいつまで経っても、自分がマンゴーアレルギーだということすら覚えていない。 思い返した。付き合って一年目の大晦日、二人で買い出しに行った時、飲酒運転の車に巻き込まれ右腕を骨折した。 その時も、圭吾は冷静に加害者と話し合いを始め、怒りを見せることはなかった。 正月休みに呼び出され、飲み会で上司に体を触られたこともあった。泣きながら訴えた時、彼はただ頭を撫で、穏やかに慰めるだけだった。 彼は怒らない人だ。冷たくなることはあっても、激情に駆られることはない。ずっとそう信じてきた。 けれど今日、美鈴が触られた途端、彼は迷わず拳を振るった。忘れていたのか、自分が言った「暴力は一番最低で無意味な行為だ」という言葉を。 このときになってようやく優奈は気づいた。彼は美鈴のためなら迷わず怒りを見せる。ただ、自分のためには一度も。 それだけのことだった。 深く息を吸い、撮影に戻る。今日中に片付けてしまいたかった。 帰り道、同僚たちの会話が耳に入ってきた。「いや、清水さんの彼氏、めっちゃ男前だったな!あのクズをぶん殴ったときの迫力!」 「ほんと、二人並ぶとお似合いすぎる!」 優奈は何も聞かなかったふりをした。心が痛みを通り越すと、麻痺して何も感じなくなる。 その日は深夜まで撮影が続いた。 帰る前、千夏に「早く帰りなさいよ、最近連続殺人犯が逃げてるから」と注意を受ける。 データを整理して会社を出ると、もう夜更け。駐車場で車のタイヤがパンクしているのを見つけ、仕方なく配車アプリで車を呼んだ。 乗り込み、住所を伝えると、優奈は少しうとうとした。 街のネオンがフロントのミラーを照らすたび、運転手の視線が怪しく後部座席を盗み見るのが映り込む。 鋭く、冷たい目。 優奈は背筋を凍らせた。あのニュースを思い出す。千夏が見せてくれた連続殺人犯の顔写真。 気づけば、車は家とは全然違う郊外の道を走っていた。 恐怖で胸が押しつぶされる。しかも、車内の芳香剤に何か仕込まれているのか、瞼がどんどん重くなる。 意識が落ちる直前、必死に携帯を取り出し、圭吾に「助けて」とだけ打って送った。 その頃、圭吾は病院に向かおうとしていた。美鈴が泣きながら電話してきたのだ。「事故に遭って脚を骨折した。手術が怖い」と。 出かける寸前、携帯が光った。優奈からのメッセージだった。 だが慌ただしい中でろくに見もせず、心の中で切り捨てた。 どうせ大したことじゃない。 優奈からの連絡にはいつもすぐ返しているし、一度くらい遅れても問題ないだろう。 そう言い聞かせて、彼は迷わず病院へ向かった。 第5話 優奈がどれくらい気を失っていたのか、自分でも分からなかった。けれど「生きたい」という本能だけが、彼女を無理やり覚醒させた。 車はすでに郊外へ差しかかろうとしていた。スマホの画面には、彼女が最後に打った「助けて」という文字がそのまま残っている。 けれど圭吾からは返信も着信もなかった。 胸の奥に絶望が広がる。目は覚めても、身体は鉛のように重く、指一本まともに動かない。もうSOSを打つ力すらなかった。 それでも必死に画面を叩いた数秒後、再び闇に落ちていく。瞼が閉じる最後の瞬間、心の中で叫んでいた。 助けて。死にたくない。 次に目を開けたとき、そこは病院のベッドだった。 「起きた?どこか痛むところはない?」耳に飛び込んできたのは律人の声だった。ベッドのそばに座って、じっと彼女を見守っていた。 優奈はしばらくぼんやりしてから、自分の鼓動を確かめるように胸に手を当てる。「……私、生きてるの?」 「当たり前だろ、バカ」彼は軽く額を指で弾いた。「でもよくやったな。気を失う前に、俺にメッセージを送ってきたんだ」 「……私、メッセージ?何を?」 「文字化けみたいなやつ」律人は大きく息をついた。「今思い出しても背筋が寒くなる。ちょうど寝る前で起きていたから気づけたんだ。普段そんなことをしてこない優奈が意味不明なものを送ってくるなんて、酒に酔ってるか、事件に巻き込まれたかのどっちかだ」 彼はすぐ警察に連絡し、さらに西川家の力を借りた。十五分後、郊外でそのタクシーを止めたのだ。 運転していたのは、指名手配中の連続殺人犯だった。あと数分遅れていたら……考えるだけで背筋が凍った。 「ありがとう。本当に、命を救ってくれて」優奈が震える声で言うと、律人は笑って耳元に顔を近づけた。「忘れたのか?俺たち、今は夫婦だぞ。夫が妻を守るのは当然だ……だから礼なんかいらない」 その言い方があまりに含みを帯びていて、契約結婚だと分かっているはずの彼女の頬が一瞬で赤く染まる。 彼はそれを見て満足そうに笑い、腰を伸ばした。「会社に戻らなきゃ。急ぎの仕事があるんだ。何かあったら電話しろ」 彼が出て行ったあと、病室の空気がやけに重く感じられた。優奈は少し歩きたくなり、下の芝生広場へ向かった。 そこで目にしたのは車椅子に乗った美鈴と、それを押す圭吾だった。「脚、まだギプスしたばっかりだろ。無理してないか?」 「大丈夫。あなた、昨夜ずっとついててくれたんだし、もう休んで」美鈴は心配そうに笑いかけている。 影に立ったままの優奈は、その光景を静かに見つめた。 冷たい風が吹き抜けた瞬間、不思議と胸の奥がすっと軽くなった。 自分が生死の境にいたとき、彼はここで初恋相手のそばにいた。警察に電話一本すらしなかった。 自分の命よりも、彼女の脚のほうが大事。 そんな人間に、未練を持つ価値があるのだろうか。 優奈は小さく笑い、病室へと戻った。 廊下で、豪華な服装の女性とすれ違う。なぜか初めて会った気がしない、不思議な親近感を覚えた。 女性は立ち止まり、サングラスを外すと冷たい視線を向ける。「あなた、森下さんね」 そう言うや否や、彼女の顔にカードを叩きつけてきた。 「うちの長男とあなたのことは全部知ってるわ。外に女のひとりやふたり作るのなんて大したことじゃない。でも、もう美鈴が戻ってきた。清水家と中村家の結びつきこそがふさわしい。来週には婚約させるつもりよ。だからこれを渡すわ。1億円。分かるわよね?身を引きなさい」 鼻に赤い跡がつくほどの衝撃だ。優奈は深く息を吸い、背を向けようとした相手を呼び止めた。 「……足りない」 「は?」女性――中村里穂(なかむら りほ)が振り返る。 「足りないと言ったの。あなたの息子は破産を装い、三年間も私と付き合っていた。その間、彼の借金返済に1億2千万円。生活費も弟の分まで、全部私が払いました。計算すれば二億円が妥当です」 里穂は言葉を失ったあと、バッグから数枚のカードを引き抜き、床に投げつけた。「4億円。いい?余りは慰謝料よ。さっさと消えて」 優奈はしゃがみ、カードを拾い上げた。「ありがとうございます。さようなら。もう二度と現れません」 病室に戻ると、六時間かけて昨日の写真を仕上げ、千夏に送る。さらに一億円を振り込み、これまでの支えに心から感謝を伝えた。 そして、律人に電話をかける。「もう片付いた。今夜、私と姉を海外に送ってもらえる?」 「もちろん」 その頃、病院の庭で美鈴と魚に餌をやっていた圭吾のもとに、匠真から慌ただしい電話が入る。 「兄さん!優奈が一日中帰ってないんだ!電話も繋がらない。そっちに連絡あった?」 「そんなのいつものことだろ。仕事が立て込むと会社に泊まり込むし、電源切ってることも多い」圭吾は軽く笑った。 匠真は黙り込み、胸の奥に怒りを溜め込む。 自分たちは母・里穂の実子ではない。養子だ。里穂には娘がいたが、生まれて一か月で行方不明になった。 母親が彼らを引き取ったのは愛情からじゃなく、会社を任せる後継ぎが必要だったからだ。 子どもの頃からずっと、どんなことでも完璧にやり遂げたときだけ、母親はご褒美みたいに笑顔を見せて、ほんの一瞬だけ優しくしてくれた。彼らが与えられた温もりは、すべて条件つきのものだった。 けれど兄はラッキーだ。彼には優奈がいた。無条件に愛してくれる存在が。 それなのに、全然大切にしてなかった。 「兄さん、いい加減にしろ。三年間も優奈を騙して、今は美鈴と一緒?来週には婚約まで決めて?それでまだ優奈を縛り続けるつもりか。兄さんなんか、彼女に相応しくない!」匠真は深呼吸して吐き捨てた。「会社も探した。昨夜のうちに帰ったらしい。兄さんは初恋相手とでも戯れてろ。俺は優奈を探しに行く!」 匠真は怒って電話を切った。 圭吾は呆然と立ち尽くした。すごく不安だった。ふと、昨夜届いていた未読メッセージを思い出した。 慌てて開くと、画面に浮かび上がったのは「助けて」という文字だった。 送信時刻、午前一時半。時計を見ると、すでに夕方六時。 圭吾の呼吸が止まった。全身の血が一気に冷え、足元から凍りついていく。