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春風と雪は時期が違う
「時田さん、一週間後、本当に偽装死サービスをご利用になるのですね?」 「はい」 「その際、時田さんのすべての身分情報は抹消されます。新...
Chương (1)
第1章
「時田さん、一週間後、本当に偽装死サービスをご利用になるのですね?」
「はい」
「その際、時田さんのすべての身分情報は抹消されます。新しい身分で、新たな生活を再スタートされることになります……」
「分かりました。お願いします!」
時田年乃(ときた としの)は三条成那(さんじょう せいな)と結婚して三年。その三年間、彼にすっかり振り回され、尽くしてきた。
しかし、彼の初恋が帰国したことで、彼に対する愛情はとうに尽きていた。
年乃は偽装死によって彼のそばから逃げ出すことを選んだ。
だが、成那は決して彼女を手放すつもりはなかった。
彼女が逃げれば、彼は必ず追いかける。
「年乃、お願いだ……行かないでくれ!」
「三条、私はもう、チャンスを与えたのよ……」
第1話
「時田さん、一週間後、本当に偽装死サービスをご利用になるのですね?
その時点で、あなたの身分情報はすべて抹消されます。そして新しい身分を得て、まったく別の人生を歩むことになるのです……」
時田年乃(ときた としの)は迷いなく契約書にサインして、偽装死サービス会社をあとにした。
心の中が三条成那(さんじょう せいな)で満ちあふれていたあの日から、すっかり冷え切るまでにかかった時間は、わずか三年だった。
三年前、年乃は成那に一目惚れした。
しかしその頃の彼女は、一介のインターンにすぎなかった。
周囲は彼女のことを笑った――「恋愛脳だ」と。
堂々たる京桜市一の富豪である三条家が、彼女のような普通の女を相手にするはずがない、と。
だが当時の年乃は恋に溺れ、どんな忠告も耳に入らなかった。執着のまま、彼を追い続けた。
生意気にも恐れ知らずに成那の後をつけ回し、しつこく追いかけていった。
やがて成那の「初恋」である秦野紗月(はたの さつき)が、SNSに別の男との親密な写真を投稿した。
成那は怒り、紗月への当てつけとして年乃と慌ただしく結婚した。
彼女の一途な想いが実を結んだものの、その結末は滑稽だった。
今、紗月が帰国した。
そして年乃は成那の心に入り込むことはできなかった。
この結婚は、年乃が望んで始めたもの。ならば終わらせるのも、彼女自身の手で。
別れという贈り物なら、成那も満足するだろう。
彼もまた、望む相手を取り戻せたいから。
年乃が別荘に戻ったとき、前方の車のドアが突然開き、年乃は成那に腕をつかまれて車内に押し込まれた。
「乗れ。おばあさんが危篤だ!」
道中、成那は一言も発さず、険しい顔で黙り込んでいた。
窓の外を見ているうちに、車はすぐに三条家の旧宅へと着いた。
ようやく成那が口を開いた。
「これからおばあさんに会ったら、余計なことは言うな。俺の言う通りにしろ……」
年乃が理由を問うように顔を向けると、成那はなおも不安げに言葉を継いだ。
「医者の話では、おばあさんは少し意識が混濁していて、人を見分けられないらしい。その時は俺の指示に従え!」
年乃が三条家の旧宅を訪れたことは数えるほど。必要がない限り、戻ることはなかった。
三条家の人々が、彼女を歓迎しないことを知っていたからだ。
二人は手をつないで屋敷へ入った。
成那と年乃の姿に気づいた祖母が、先に声をかけてきた。
「成那、来たね。紗月も来てくれたよね……」
紗月?
その名を耳にした瞬間、年乃の足が止まり、そして何かで心を締め付けられるような感覚を覚えた。
やはり……
三条家にとって、本当の孫嫁は紗月なのだ。
落胆のあまりに、成那を見上げた。そうすると、彼は視線を避けるように背を向けた。
しばし沈黙の後、彼は声を張った。
「おばあさん、紗月とお見舞いに来ましたよ!体をしっかり治して、孫の顔を待っていてくださいね!」
紗月と?
祖母の目に映るべきは、本来なら成那と紗月の姿。
つまり、年乃はただの替え玉に過ぎない。
いや、初めから分かっていた。すべては彼女ひとりの思い込みにすぎなかったのだ。
「よしよし、楽しみにしてるよ。紗月、こっちおいで、おばあさんによく見せて……」
年乃が苛立って身を引こうとしたその時、成那が彼女の肩をつかみ、無理やり祖母のもとへと連れて行った。
耳元で低く囁く。
「言う通りにしろ。おばあさんを不快にさせるな!」
ベッドに横たわる祖母は、年乃の顔に手を伸ばし、朦朧とした声で「紗月」と呼んだ。
ひととおり「家族ごっこ」が終わり、年乃は成那の車に乗って旧宅をあとにした。
「三条成那、私は時田年乃よ。人違いしないで!」
堪えてきた感情がついに溢れ、年乃は険しい顔のまま声を張り上げた。
成那はその意味を理解していた。だが誤魔化すように返した。
「お前は俺と結婚したんだ。おばあさんが病床にある今、孫嫁として喜ばせるのは当然だろう?」
以前なら、年乃は飛び上がるほど喜んだに違いない――ようやく成那に連れられ、家族に会えたのだから。
だが今の年乃は、ただ微笑んだ。
どうでもよかった。どうせ一週間後には、すべてを捨てて去るのだから。
第2話
二人は言葉を失い、沈黙が落ちた。
成那が無理に話題を探す。
「そうだ、この前誕生日の埋め合わせをすると約束したな?今日ちょうど時間が空いたから、レストランを予約しておいたんだが……」
その時、突然彼の携帯が鳴った。
「成那、出てこいよ。一杯やろうぜ!」
成那の視線が年乃の上をさまよい、しばし間を置いて電話に答えた。
「いや、今日は無理だ。もっと大事な用がある」
年乃は相変わらず窓の外を見ていた。だが心の揺れは隠せなかった。
電話の向こうはしつこく食い下がる。
「本当にいいのか?今夜、誰が帰ってきたか知りたくないの?」
「興味ない!」
「紗月さんが帰ってきても、興味ないのか?」
その一言で成那は瞬間的に座り直し、目を輝かせた。
年乃が一度も見たことのない喜びが、その顔に広がる。
彼は慌てて電話を切り、すぐに年乃に言った。
「降りて、先に家に帰れ。俺は用事を済ませたらすぐ戻る。誕生日の埋め合わせは、後で迎えに来るから……」
年乃は冷笑し、静けさの奥にある怒りを隠さなかった。
「他の女のために、真夜中にこんな寂れた郊外に捨てていくの?あなたって……」
「うるせぇ。助手に電話して迎えに来させる。俺には用事がある……」
成那は一度も彼女を見ず、苛立ちを隠さず言い捨てた。
年乃の目に涙が溢れた。次の瞬間、成那はアクセルを踏み込み、闇に消えた。
泣きながら、年乃は笑った――やはり、期待すべきではなかったのだ。
ここは人里離れた辺鄙な所で、成那は結局、年乃の身の安全など考えもしなかった。
秋の風が吹き抜け、上着をしっかりと纏っても、全身が刺すように冷たく感じた。
成那と結婚した時、業界の皆ほとんど誰も彼女の存在を知らなかった。
それでも彼のそばにいられるなら、どんなことでも受け入れた。
結婚写真もなく、結婚式もなく、贈り物もなく、サプライズもなく、どんな儀式感もなかった……
今思えば、二人は初めから別れの結末を決められていたのかもしれない。
成那の別荘までは、ここからまだ数キロ。
深夜の郊外は車も人もまばらだ。
年乃は十センチのヒールで一歩ずつ歩いた。歩を進めるごとに、心は不思議と静かになっていく。
家にたどり着いたのは、もうかなり遅い時刻だった。
翌日。
成那は帰らなかった。きっと彼の「初恋」――紗月が戻ってきたから。もう、年乃も身を引く時が来たのだろう。
そして夜。ようやく成那が帰ってきた。
年乃は背後のベッドがゆっくり沈んでいくのを感じた。
彼は彼女を強く抱き寄せたが、年乃は平然とその腕から抜け出し、身を翻した。
成那が再び手を伸ばすも、彼女は避けた。
かすれた声が闇に落ちる。
「どうした?」
年乃は淡々と答えた。
「眠いの」
彼女は距離を置こうとした。
成那は苛立ち、彼女の体を強引にこちらへ向け、声を荒げた。
「昨日のことを怒ってるのか?」
年乃は黙った。もう言い争う気もなかった。どうせ、いずれ去るのだから。
「俺は助手に迎えに行かせただろ?」
その言葉に、年乃は一瞬口を開きかけたが、結局やめた。
意味はない。
彼女はベッドから降り、新しい布団を持ってきて、自分と彼の間に仕切りを作った。
近頃の年乃が、以前のように彼にまとわりつかないのを感じて、成那の心は少し不快だった。声を荒げる。
「時田年乃!あの時、お前がしつこく追いかけて結婚したんだろ!今さらそんな態度を見せて、何のつもりだ」
第3話
布団の中で、年乃の体が一瞬強張った。
そうだ。しつこく彼以外と結婚しないと言い張ったのは、彼女だ。
かつて誇りに思っていたことが、今は刃のように彼女の心に突き刺さってくる。
しばらくして、成那は言い過ぎたと思ったのか、再び彼女を抱き寄せ、両手で彼女の腰を強く掴んだ。
もういい。
年乃はそれ以上抵抗しなかった。
だが成那の手は落ち着かず、年乃の腰のあたりをさまよい始める。
彼が部屋に入った時から、濃い酒の匂いが漂っていた。
やがてその手は彼女の服の中に差し込まれ、口からうわ言のように名前が漏れる。
「紗月……紗月……」
その一声が、年乃の心を鋭く抉った。
必死で彼の手を振り払った瞬間、触れられるすべての所が汚されるように感じた。
年乃はついに我慢できずに目を赤らめた。
――三条成那、三年も経った!今すぐ秦野紗月に席を譲る!
どうかお二人が末永くお幸せに!
彼女に突き放されると同時に、成那はそのまま眠りに落ちた。
それでも口からは「紗月……」という声が止まらない。
洗面所で水音が響く。
年乃は必死で成那に触れられた場所を洗い続け、皮膚が赤くなり血がにじむまでこすり、ようやく手を止めた。
結婚生活の数々が脳裏によみがえた。
かつて、彼女は成那の腕に抱かれて眠るのが大好きだった。
そうすることでしか、彼女も彼に愛されていると感じられなかったのだ。
罪悪感からか、それとも別の理由からか――成那もそれを拒むことはなかった。
年乃の望みが無茶でなければ、彼はたいてい応えてくれた。
年乃が北町の「ローズクッキー」を食べたければ、真夜中でも街を横切って買いに行ってくれた。
花や木を植えるのが好きだと言えば、農園を一つ買い与えてくれた。
料理を研究すれば、心から褒めて親指を立ててくれた。
だが――つい先日、年乃は気づいてしまった。
成那が唯一与えてくれなかったもの。
それは、彼女が求めてやまない唯一無二の「愛」だった。
年乃の愛はあまりに卑屈で、成那の友人たちにまでからかわれたことがある。
半月前――紗月が帰国したその日、年乃は大勢の前で大恥をかかされた。
「ナイトバーへ来い、成那が酔いつぶれてるぞ!」
電話を受けた時、年乃は着替える暇もなく慌てて駆けつけた。
「あっ!」
個室に入った瞬間、頭から冷水を浴びせられる。
秋の夜、急いで出てきた彼女は白いルームウェア姿。
濡れた布は肌に張り付き、全身を覆い尽くした。
成那は反射的に立ち上がったが、隣の人に袖を掴まれた。
彼は席に座りながら、口を開いた。
「やりすぎるな……」
だがその言葉は、成那の友人たちにとって何の抑止にもならなかった。
成那はいつも彼らの前で年乃を貶していた。だから皆、彼女を笑いものにするのが当たり前になっていたのだ。
「ははは、成那、言ったろ?こいつは成那の飼い犬のようだな。名前を出せば、地獄の底までついて来るんだからな!」
別の男が声を上げる。
「そうそう。お前さ、紗月さんに振られたからって、やけくそでこいつと結婚するなんて、お前らしくないぜ!」
「まったくだ!」
笑い声と軽口が飛び交い、誰一人として、ずぶ濡れの年乃を気にかける者はいなかった。
慌ただしく駆けつけた彼女の足元は、まだウサギのスリッパ、それさえもびしょ濡れになっていた。
成那の目は冷ややかで、その奥に潜む感情は彼女には読み取れない。
瞳は暗く沈み、さらに陰を落としていた。
そしてその時、彼の隣に一人の女が座っていることに気づいたのだった……
第4話
紗月は口元に笑みを浮かべて言った。
「あなたたち、ちょっとやりすぎじゃない?なんだかんだ言っても、彼女は三条さんの奥さんよ。これはさすがにどうかと思うわ!」
紗月は成那の手にある指輪を弄びながら話していた。
その指輪を年乃はよく知っている。成那が宝物のように大切にしていたものだ。
今それを身につけているのは、きっとこの女の前で忠誠心を示すためだろう。
成那の友人である千葉凱斗(ちば かいと)が横から茶化すように声を上げる。
「紗月さん、知らないだろ?こいつな、成那を追いかけるために死ぬ気で追いかけてたんだ。だから今日みたいなことがあっても、絶対に離れないさ!」
紗月の視線が年乃に向けられる。そこには憎しみと嘲りが混じっていた。
「そうなの?三条奥さん!」
「三条奥さん」を、彼女はことさら強調して言った。
凱斗がさらに火に油を注いだ。
「でも安心しろよ。紗月さんさえ戻れば、成那の一言でこいつなんてすぐ席を譲るからな!」
「私、何も言ってないわ。ただ……あんまり女の子をいじめすぎるのもよくないわ」
そう言いながら、紗月は成那の肩にもたれかかり、その視線は挑発そのものだった。
成那の目は一度も年乃には向けられない。
彼は腕の中の女を見つめ、その手を軽く叩いていた。
「紗月さん、さすがだな。三年経っても成那はお前を忘れてない。お前がいると聞いた途端、すぐに駆けつけたんだから、ははは!」
「ほんとだな。俺に言わせてもらえば、この三条奥さんの席は紗月さんのもんだ!」
笑い声が響き渡り、年乃は入口に立ち尽くし、まるで負け犬のようだった。
だが彼らは知らない。年乃はもうとうに気にしてなどいなかった。
離れると決めたその瞬間から、彼女はいつでも立ち去る覚悟をしていたのだ。
年乃は顔を上げ、冷え切った目で成那を見つめ、唇を噛みながら額の水滴を拭った。
その刹那、成那の表情に一瞬の狼狽が走ったのを、彼女は見逃さなかった。
「もうやめろ!」
暗い照明の下、彼の指と紗月の指はしっかりと絡み合っている。
その光景を見つめる年乃の目尻から、静かに涙がこぼれ落ちた。
成那がそれを見たのか、見なかったのかは分からない。
ただ複雑な表情を浮かべながらも、依然として紗月と手をつないだまま言った。
「年乃、先に帰れ……」
……
年乃は背を向け、逃げるように立ち去った。
――三条成那、あなたが言わなくても、私は自分から去る。
「奥様、社長は……」
「運転して。彼は用事があるみたいだから、後で戻るから……」
車が海を渡る橋に差しかかった頃。
「止めて。あなたは先に帰って。私は少し風に当たりたいの」
秋の深夜の風は、骨まで冷たく突き刺さった。
しばらくして、年乃は服をしっかり纏い、タクシーを拾った。
「近江通り1丁目-2-8まで」
帰宅したのはすでに深夜。
年乃は荷物を整理し、持ち出せないものはまとめて梱包した。
不用品回収業者に連絡を入れ、引き取りの時間を決めた。
空が白み始める頃、彼女はようやく横になった。
久々に体を動かしたせいで疲れ果て、深い眠りに落ちた。
だがすぐに電話の音で目を覚ます。
業者のトラックが到着したのと同時に、成那もちょうど帰宅した。
「何をしてるんだ?」
年乃はソファに座り、ブランケットに身を包みながらコーヒーをかき混ぜて答える。
「いらない古着ばかりよ。寄付しようと思って」
成那は疑いもせず、彼女を避けるように階段を上がっていった。
その背中を見送りながら、年乃は心の中で繰り返す。
――あと三日。やっぱり、この選択は正しい。
しばらくして、成那が階下に戻ってきた。
「支度しろ。おばあさんの意識が戻った。今夜俺と一緒に戻れ。父さんも母さんもいる」
「……うん」
年乃の声は淡々としていた。
あまりに彼女の様子が以前と違いすぎるせいか、成那は言い訳を続けた。
「誤解するな。紗月とはただの友達だ。お前の考えてるような関係じゃない」
「……うん」
「年乃、もう拗ねるのはやめてくれないか」
年乃は背筋を伸ばし、コーヒーを口にしながら冷ややかな目を向けていた。
そこには何の感情も浮かんでいない。
――成那の目には、今の私が「拗ねる」と映るのだろうか。
今のように構わず問わずでは、彼にっとてむしろ嬉しことじゃないか?
成那はふと思い出したように口を開いた。
「昨日は、凱斗たちがふざけただけだ。気にするな。友達同士の冗談なんだから……」
――冗談、ね。
彼の中では、あれがただの「冗談」だったか。
第5話
年乃は冷たい笑みを浮かべ、それ以上成那に良い顔を見せず、くるりと背を向けて階段を上がった。
「少し疲れた。行くときに声をかけて」
背後から成那の怒鳴り声が追ってくる。
「年乃、お前、どうしてもこんなふうになったんだ!」
――そう、今の年乃は前とは違った。あの頃は、成那を愛して、どうしようもなく縋っていた。
でも今は……
階段の踊り場で年乃は立ち止まり、振り返らずに言った。
「三条成那、人は変わるのよ。あなただけじゃない、私だって同じ……」
その言葉に、成那の目は驚きと信じられない色で満ちた。
「もうやめろよ。子供みたいに駄々をこねる時じゃないだろ!」
年乃は返事をせず、ウサギのスリッパを履いたまま寝室に戻っていった。
彼女が三条家の旧宅に行くことはめったになかった。
もともと身分が釣り合わず、三条家の人間は彼女を軽蔑していたからだ。
案の定、今夜も旧宅での食事は気まずいまま終わった。
だが、いつもと違って年乃の心は何一つ揺れなかった。
夕食を済ませ、年乃は成那と一緒に近江通りへ戻ろうとすると、紗月は自ら口を開いた。
「成那、今夜あなたのところに泊めてもらっていい?帰国したばかりで家は片付いてないし、昨日はホテルに泊まったけど、一人だと怖くて眠れなかったの」
「いいよ。書斎の隣の部屋を使え」
「よかった!」
車中、年乃は一言も発さず、目を閉じて休んでいた。
書斎の隣の部屋――長い間閉ざされていたその部屋。
年乃はずっと気になっていた。やはり、そういうことだったのか。
ようやく点と点が繋がった。
車を降りると、彼女は何も言わず真っ直ぐ二階の寝室へ。
その姿に成那の表情は曇ったが、もはや彼の気持ちなど、年乃には関わりのないことだった。
……
「成那、パジャマ一を持ってきてくれない?」
「成那、タオルはどこ?」
「成那……」
……
寝室のベッドに横たわる年乃の耳に、外から響くその声が届く。
眠れるはずもなかった。
しばらくして――「カチャ」と音を立ててドアが開く。
年乃は成那に抱き寄せられ、逞しい胸板が背中に押し当てられる。
それはいつもと違う感覚だった。
「年乃、明日は俺たちの結婚三周年だ。連れて行きたい場所がある」
三年間の結婚生活で、記念日を祝ったことなど一度もなかった。
きっと今さら思い出したのは、罪悪感からだろう。
「……」
「もう意地を張るな、な?」
「……」
「今夜だって、俺はしっかりお前の味方をしただろ?それでも不満か?」
「もういいの。これからは、私の味方でいる必要なんてない」
そう言って、彼女は布団を握りしめ、背を向けた。
……
「俺の腕の中で眠るのが一番好きだったろ?」
「もういらない。一人でも眠れるから」
――いつから私は、彼と距離を取り始めたのだろう?
年乃自身もはっきりとは分からなかった。
たぶん紗月が現れ、成那が夜ごと帰らなくなった、その頃からだろう。
「年乃、大人しくしていれば、お金のことは一生心配させない」
年乃は窓の外に輝く月を見つめ、ふっと笑った。
――三条成那!あなたと私に「一生」なんてない!
第6話
年乃が自分と距離を置くと、成那もこれ以上こだわらなくなった。
そのとき、急なノックの音が響く。
「成那、ネズミだ!怖い!」
彼は素早く身を起こした。その勢いでマットレスが何度か弾んだ。
ドアが閉まるまで、前後合わせてわずか三秒ほど。
――別荘にネズミなんて、ありえない!なんて可笑しいことだろう!
下手な演技なのに、なぜか成那は信じてしまった。
昔なら、年乃は怒り心頭で飛び出して、成那を引き戻し、言い争っただろう。
だが今は、むしろほっとして、静かに余裕を得た。
やっとぐっすり眠れたと思ったのに、目を覚ますとまた面倒くさいことばかり。
年乃は寝返りを打ち、ベッドの端に座る彼に近づき、瞬時に目を覚ました。
「これ、何のこと?」
何のことだって?年乃は疑問顔で彼の視線を辿ると、机の上に堂々と置かれたルビーネックレスが目に飛び込んだ。
頭が瞬時に冴えた。
昨晩、成那の祖母が失くしたネックレスが、まさか彼女のバッグにこんなに鮮やかに入っている――考えるまでもなく、誰かに陥れられたのだと分かった。
年乃は落ち着いて立ち上がる。
「私に何を言えっていうの?」
成那は怒りを滲ませ、彼女の肩を掴み、強引に目を合わせさせる。
「なぜお前のバッグにあるんだ!」
「こっちも知りたいわよ!旧宅を出るとき、バッグは秦野に隅々まで調べられたし、戻ってくる間も一度も触れてない……」
年乃の淡々とした様子に、成那は明らかに動揺していた。
「お前……」
年乃は彼の目を真っ直ぐ見返す。
「三条成那、こんな下劣なこと、私にはできない!
それに、自分が金がないこと、ただの普通の女だということは自覚している。でも礼節や恥は知ってる……」
そう言い放つと、年乃はそのまま階段を下りた。
階下では紗月が朝食を用意していた。
彼女は驚いたようで、どこか申し訳なさげに振る舞う。
「年乃さん、ごめんね。何が好きか分からなくて、うまく作れるか心配で、お口に合わないかと思って、それで……」
だが目には嘲笑が浮かんでいた。
少し前に年乃に腹を立てたせいか、成那が怒りを滲ませながら階下に降りてきた。
「何が食べたいなら自分で作ろ!紗月は家政婦じゃない!」
成那が階下に降りると、紗月はすぐに絡みつく。
だが年乃は彼に目もくれず、そのまま離れていった。
あと二日で、彼女は去るのだ。
年乃は京桜市の街を歩いた。ここは二十年以上過ごした街。
「平気で離れられる」とは言うが、嘘だろう。青春のすべてがここに刻まれている。
この一つ一つの建物や道が、彼女の成長と過去を見守ってきたのだ。
年乃が帰宅したのは昼過ぎ。
別荘には、成那も紗月もすでに姿はなかった。
昨日の夜、成那が「記念日」と言っていたことを思い出し、年乃は笑った。
成那は口だけで大きな約束をするのが得意だ、特に彼女には。
以前はそれに惑わされて、何でも信じていた。
たとえそれが空約束でも、嬉しくて飛び上がるほどだった。
昔の年乃はよく、成那の何気ない言葉で長く幸せを感じていた。
かつての愛は本物だが、今は失望もまた本物だ。
第7話
食卓の上に、一枚のメモが置いてある。
「年乃さん、成那がいいところに連れて行ってくれるって。今夜は戻らないよ!」
その後、年乃の携帯に成那から写真が送られてきた。
写真の中で、紗月は彼の首に腕を回し、成那は紗月の腰を抱いている。
年乃の感情は、もはや成那のことで揺れなかった。
年乃は写真に留まることはなかった。
どうやら年乃が無反応だと分かると、相手はさらに数十枚もの親密な写真を連続で送ってきた。
年乃は興味もなく、見る気にもならない。
恐らく、紗月が成那の携帯を借りて挑発のために送ってきたのだろう。
すぐに「おやすみモード」を起動した。
その時、メッセージが届く。
【時田さん、予約された偽装死サービスは既に有効となり、取消不可となりました。明後日正午12時に、担当者よりご連絡いたします。必ず電話を通じるようにしてください】
以前の年乃は、毎晩食事を用意して成那の帰宅を待ち、彼が食べるのを見守り、それから風呂の準備を整え、ベッドで大人しく彼を待っていた。
帰宅が遅れる日があれば、ずっと待ち、彼が戻るまで眠らなかった。
あるいは一晩中戻らず、年乃は眠れぬ夜を過ごしたのだ。
しかし今の年乃は、成那の一切も気にしなかった。
空虚ではあるが、かえって自由を感じていた。
彼女の心を弄んでいた人々が一掃された後、慣れるまでには時間が必要だろう。
年乃は携帯を置き、ベッドに横たわる。やがて眠気にまぶたが重くなる。
その時、成那から電話がかかってきた。
「年乃さん、成那がケガをしちゃった!私……」
電話の向こうから、紗月の甘ったるい声が聞こえる。
年乃は冷たく携帯を遠ざけ、言った。
「ケガなら病院に行けばいい……」
「でも、成那が……」
相手が言い終わる前に、年乃は冷淡に返す。
「彼には助手がいる。そんなことは私の出る幕じゃない」
電話を切った。
昔なら、成那が怪我したと聞けば、電話が鳴った瞬間に駆けつけたはずだ。
あの頃は、成那をあまりにも気にしすぎて、彼の友人たちに何度も騙されても、年乃は気にしなかった。
あの時もこうだった。
「ナイトバーだ、年乃さん、成那が人を殺した……早く来て!」
深夜、年乃は見知らぬ電話で目を覚まし、そんな知らせを聞いた。
運転できないため、すぐに運転手に連絡し、成那のもとへ向かった。
現場に着くと、成那は険しい表情で座っていた。
年乃が入ると、床に誰かが倒れていた。
「成那は人を殺した……どうしよう?」
凱斗は横で泣きそうな顔をしながら言った。
年乃は慌てて床の人をまたぎ、よろめきながら成那のもとへ駆け寄り、傷がないか確かめる。
彼は淡々と言った。
「俺は大丈夫だ」
隣の凱斗が諦め顔で言う。
「成那は三条家の一人息子だ。もし捕まったら成那は終わりだ、三条家も完全におしまいだ!」
その言葉に、年乃は一瞬で立ち尽くし、どうすればいいか分からなかった。
彼女には権力も勢力もない。成那に何かあったら、どうすればいいのか……
その時、隣の誰かが提案した。
「年乃、代わりに刑務所に入ることはどうだ?この件は俺たちだけの秘密だし、言わなきゃ誰も知らない。ここに監視カメラもない……」
成那を救える方法を聞き、年乃は迷わず承諾した。
「成那、私が行く!あなたが無事なら、私が代わりに刑務所に入ることもできる……」
言い終えると、皆は大笑いし、床に横たわっていた「死体」も立ち上がり、袖を払った。
第8話
「成那、まさかね、こいつは本当にお前のことを愛し抜いてるなんて、でも残念だね!」
彼は成那を見てから年乃を見やり、まるで時年を気の毒に思うかのように言った。
「ただの予備だな!」
年乃はさっき起こったことを理解しきれず、その場でしばらく呆然としていた。
やがてようやく我に返る。
あの頃、年乃は成那に全てを注いでいた。ただ成那に何もなかったことを幸いに思うばかりだった。
今振り返ると、この上ない愚かで無様なことだった、と心の底で苦笑した。
翌日、年乃は病院から電話を受ける。
「三条奥さんでしょうか?こちらは聖安病院です」
年乃は無言で聞いていると、相手は話し続けた。
「三条社長の膝関節手術には、ご家族の署名が必要でして……」
一時間後、年乃はゆっくり病院に到着し、署名を終えると成那は手術室へ運ばれた。
手術が終わるのを待ちながら、紗月は楽しそうに成那の友人たち冗談を言い合っていた。
「紗月さん、さすがだよ!戻ってきたら成那も随分明るくなった!
でも、お前たちやりすぎよ。野外プレイはともかく、怪我までしてるなんて!」
凱斗にからかわれた紗月は、頬を赤くして俯いた。
「ところで紗月さん、いつ結婚するの?俺たちはお前の結婚式を待ってるんだぜ!」
「そうそう!」
紗月は誇らしげに年乃を見やり、口元を上げる。
「もうすぐよ!」
年乃は待合室に無造作に座り、皆は彼女の表情を見て面白がっていた。
凱斗はこれらの中の中心人物で、真っ先に年乃に言い放つ。
「時田、そもそもお前と成那の結婚って、有名無実じゃないか。さっさと紗月さんに席を譲った方がいいんじゃない?
もしかしたら、成那は優しいから、お前に大金の慰謝料をくれるかもな!ははは!」
こういう言葉に、年乃はもう慣れっこで、無視するだけだった。
ただ……
「時田、この三年間、成那のお世話をしてくれてありがとう!今、私が戻ってきたから……」
紗月は歩み寄り、成那が隣にいないと、彼女はもはや無邪気な少女ではなく、顔つきを一変させた。
年乃はうつむき、笑った。
「それじゃ、あなたの願いが早く叶うように祈るわね」
紗月は言葉に詰まり、その場で足を踏み鳴らした。
三時間後、成那は手術室から出され、病室に運び込まれた。
年乃はベッド脇に立ち、成那を見つめる目は平静で冷淡だった。
普段の喜怒哀楽は全く見られない。
しばらくして、彼女は立ち上がり、隣に立つ紗月を見た後、視線を再び成那に戻す。
「三条、私は秦野に席を譲るよ。でも……あなた、堂々たる三条社長なんだから、もっといい女を選べばいいじゃない!」
紗月は怒りで顔を真っ赤にし、成那に甘えるように言った。
「年乃さん、それってどういう意味……成那、私……」
成那は自分の初恋が他人に侮辱されるのを見過ごせず、すぐに顔をしかめて言った。
「年乃、謝れ!」
年乃は無視して振り向き、まっすぐ出口へ向かう。
ドアの前で一瞬立ち止まり、背を向けたまま言う。
「そうだ、結婚おめでとう!あなたたちへの新婚祝いは、後で届くわ。きっと気に入るはずよ!」
第9話
そして、年乃は病院をゆっくり後にした。
帰宅の途中、わざわざ遠回りして「そが製菓」の栗菓子を買いに行った。
この店の栗菓子は、年乃が何年もの間、唯一変わらず愛してきたものだった。
もう二度と食べられないかもしれないという思いが、わずかに胸をよぎる。
日も暮れ、年乃が栗菓子を手に家に戻ると、彼女のすでに整理した荷物が外に投げ出されていた。
スーツケースは完全に壊れ、真っ二つに裂け、中の下着類はむき出しのまま床に散乱している。
さらに上にはいくつもの足跡が鮮明に残っていた。
紗月は腕を組み、得意げに年乃を見下ろす。
「あら、帰ってきたのね?もう行っちゃったかと思ったわ。結局、どんなに頑張っても、所詮は下衆女だってことだね!」
「秦野、どういう意味?」
「席を譲るって言ったでしょ?ただ荷物を下ろしてあげただけよ。あなたの手間も省けて良かったでしょ?感謝すべきじゃない?」
そう言うと、後ろから凱斗たちが家の中から出てきた。
「時田、まだ居座るってわけじゃないよね?今は本当の三条奥さんが戻ったんだ、図々しくするな!
成那は面倒だから口に出さないだけで、出てこないのはお前に体裁を保たせてやりたいからだ……」
「そうだよ……」
紗月は胸を張り、上から目線で言った。
年乃の怒りは一気に噴き上がった。
本来なら静かに去るつもりだったが、今や我慢の限界だった。
「秦野、拾え!」
「酔ってるんじゃない?何をでたらめ言ってるの!」
紗月は手で口を押さえ笑いながら、嫌悪の目で見つめる。
「秦野、最後に言う、拾え……」
「何度言っても同じよ、拒否する!」
紗月の背後には凱斗たちが支えていて、みんなはまるで負け犬を見るように年乃を見て、面白がっている様子だった。
パシッ!
年乃は迷わず歩み寄り、手を上げて一発の平手打ちを食らわせた!
紗月は反撃しようとしたが、年乃に彼女の腕をしっかり押さえられた。
紗月はお嬢様で、確かに力などほとんどない。
「秦野、私は三条成那と離婚しない限り、あなたがどれだけ高貴でも、みっともない愛人に過ぎないわ!」
「何をしてるんだ?」
成那が背後から現れ、押されながらも目を上げる。
年乃が紗月をいじめている様子が見えた。
紗月の頬は腫れ、髪も乱れていおり、彼は胸を痛めた。
「時田、俺が甘やかしすぎたから、お前は自分が何者か忘れたのか?」
年乃は無視し、手を上げて再び紗月に平手打ちを浴びせた。
瞬く間に紗月の両頬は腫れ上がった。
見かねた凱斗が一歩踏み出し、年乃に蹴りを入れる。
年乃は反射的に避けるが、腹に一撃を受けて倒れ込む。
男女の力の差は歴然だから、彼の一蹴りで、年乃は瞬間的に地面に倒れ込んだ。
元々生理中で腰が痛く、激しい痛みが走る。
年乃は力を失い、床で痛みにのたうち回る……
「時田、これからは俺の物には手を出すな!」
これは成那の警告だった。紗月は彼のものだ!
「紗月、甘くなりすぎるな。他人に何されても、取り返すべきだ!」
彼は車椅子に座っているが、生まれ持った威厳で年乃を震えさせる。
その指示のもと、凱斗が年乃の腕を押さえ、紗月の平手が彼女の頬に叩き込まれる。
紗月は成那に背を向け、悔しげに口を開いた。平手打ちを、歯を食いしばるほど全力で年乃に浴びせた。
「年乃さん、私が悪いのよ、だってあなたこそ成那の奥さん、あなたの言う通り、私はみっともない愛人に過ぎない!」
年乃は痛みに耐えられず、もう抵抗できずに手を許すしかなかった。
初恋がそう言ったのを聞き、成那は再び厳しく言った。
「お前が素直に従えば、離婚しても金を与えて一生困らないようにしてやったのに、何で彼女を挑発するんだ?」
年乃の口から血の混じった味がした。
「三条、あなたたち本当に卑劣ね!」
「感謝すべきだ、もし俺じゃなければ、お前は何度も酷い目にあっていただろう。俺は慈悲で救ってやったんだ!」
その時、突然暴風雨に見舞われた。
後ろで車椅子を押していた成那の助手が年乃を支えて中に入れようとしたが、成那に叱りつけられた。
「構うな、教訓としてやるだけだ。死にはしない!」
成那の瞳は漆黒で、紗月は年乃の前に立ち、見下ろしながら微笑む。
「しかも……死んだとしても、ただの卑しい命だけよ、大したものじゃないわ……」
紗月は取り巻きと共に去っていった……
暴風雨の中、年乃は芝生の上で丸くなり、何かが消えていくのを感じた……
二日後、彼女は病院で目を覚ました。
スマホを手に取り、電池が切れていることに気づく。
電源を入れると、すぐに着信音が鳴った。
「時田さん、後ほど担当者が迎えに参ります!」
年乃は自分の着ている患者衣を見下ろし、「服も一着持ってきてください」とお願いした。
助手が入ってきて、年乃が起き上がるのを見ると話した。
「奥様、秦野さんが気を失われました。社長が付き添っています……」
年乃はゆっくり答えた。
「病院に連れて来てくれてありがとう」
年乃の心は波立たず、ただ今日が偽装死して去る日であることを思うだけだった。
外では女子たちの声が聞こえる。
「三条社長かっこいい!三条奥さんを連れて病院まで……」
「そうよ、ちょっとの生理痛なのに、三条社長が病院まで付き添ったなんて……」
年乃は耳を傾けながらも、まるで他人事のように聞き流す。
看護師が薬を替え終えると、助手の制止も振り切り、自ら退院手続きを行った。
十五分後、偽装死会社の担当者と合流する。
「時田さん、車に乗ってください!今から空港に向かいます!
これがあなたの新しいマイナンバーカードです。これで『時田年乃』という存在は消えます。新しい人生を始めてください!」
飛行機に乗る直前、年乃は最後に澄んだ青空を見上げる。
これで京桜市に、もう時田年乃はいない。
二十年以上暮らしたこの街に、さよならを告げる日が来たのだ。
「当機はまもなく離陸態勢に入ります。今一度、シートベルトが締まっているかご確認下さい……」
ゴミ箱に捨てられたSIMカードを見つめながら、彼女は新しい人生へ歩み出した。
――三条成那、私たちはもう一生会うことはない!