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禁欲系医者ー慎吾、今日も争奪戦!
誰もが知っている、松本光希(まつもと こうき)は妻を溺愛してやまない男だ。 私のために家同士の縁談を断り、三年変わらずに私を甘やかし続...
Chương (1)
第1章
誰もが知っている、松本光希(まつもと こうき)は妻を溺愛してやまない男だ。
私のために家同士の縁談を断り、三年変わらずに私を甘やかし続けた。
なのに、私たちの結婚式前のバチェラーパーティーで、ずっと心に抱き続けてきた女の子が彼に問いかけた。
「もし私が式を壊してでも奪いに来たら、一緒に来てくれる?」
光希は真剣に答えた。
「行く!」
私は涙をこらえて、大富豪の親友にメッセージを送った。
【今すぐここから私を連れ出してくれる?】
七分後、彼女が車で火急に駆けつけた。
「前から言ってるでしょ、あなたの顔と性格なら、さっさと良家に嫁いで幸せになりなよ!
うちの兄貴はイケメン、父もまだまだ色気あるんだよ、好きなほう選びな!」
第1話
結婚が間近に迫り、松本光希(まつもと こうき)の幼なじみが彼のためにバチェラーパーティーを開いた。
彼の仲間内はみんな、光希が私・木村由香(きむらゆか)を溺愛していることを知っている。
私を連れて行かないなら、彼は必ず十時前には家に戻る。
周りが盛り上がっていようがいまいが関係ない。
だから今回も、みんなは私を熱心に誘った。
でも入った瞬間、空気がどこかおかしいと感じた。
みんなは愛想よく挨拶しながら、こっそり光希に合図を送っていた。
私は事情が飲み込めなかった。
全員が席についたころ、ショートカットの女の子がのんびり遅れてやって来た。
「ごめん、渋滞で遅くなった!」
背が高くて細く、声は澄んでいて歯切れがいい。
隣の光希がその場で固まった。
誰かの顔に、鼓動が一拍抜ける表情を見たのはあれが初めてだった。
彼女が勢いよく私に手を差し出した。
「あなたは花嫁だよね?はじめまして、美雪っていうんだ!」
その名前を聞いた瞬間、すべてを悟った。
安藤美雪(あんどうみゆき)は光希が五年も想い続けた女の子だ。
当時の光希は今みたいに落ち着いていなくて、猛烈に彼女を追いかけていたらしい。
ビルの前に何万本ものバラを敷き詰めたこともある。
海辺で百メートルもの高さに届く巨大な花火を打ち上げたこともある。
彼の青春はまるごと彼女で満ちていた。
けれど三年前、彼女は迷いなく別の男の子を追って海外へ留学に行った。
私が光希と出会ったのは、その時期だ。
あの飲み会で、光希はけぶる照明を縫うようにしてこちらへ歩いてきた。
私は半分しか飲んでいないのに、もうぐでんぐでんだった。
慌てて周りの友だちに彼のことを聞き回った。
友だちに背中を押されて彼の前に出たとき、緊張で舌がもつれた。
「私は由香だよ。松本さん、苗字は?」
周りでどっと笑いが起きた。
何か月も寄せていた光希の眉間の皺が、その瞬間ふっとほどけた。
付き合ってからの光希は、ほとんどすべてのやさしさを私に注いだ。
私の好物も苦手も、全部きっちり覚えている。
どれだけ残業が遅くなっても、必ず自分で迎えに来てくれた。
どんな記念日でも、彼は必ず心を込めたプレゼントを用意してくれた。
SNSに私を載せ、親しい仲間みんなに紹介してくれた。
彼の友だちまでやっかみ始めた。
「先人の努力のおかげで楽をしているね。ほんといい時に来たよな!」
「光希は一番落ちない女の子を追い続けて、トップクラスのEQを身につけた。おいしいところは全部、君がもらってる!」
そんな言葉で心が揺れたことはない。
顔つきも性格も、私と彼女はまるで違うと言われていたからだ。
私は誰の代わりでもない。
それ以上に、光希の愛をちゃんと感じていた。
三年の熱愛ののち、彼は迷わず私にプロポーズしてくれた。
この恋はこのまま花開いて実を結ぶと思っていた。
なのにその時、現実が容赦なく殴りつけてきた。
第2話
美雪は堂々と私の隣に腰を下ろし、バッグから香水を取り出して差し出した。
「結婚祝い。すごく上品な香りでね、七八年ずっとこれしか使ってないんだ」
彼女は目を細めて笑った。
正直、立ち居振る舞いは洗練されていて、人柄も憎めない。
結婚祝いも光希ではなく、私にくれるなんて。
私は受け取って礼を言った。
すると彼女はまたスマホを取り出し、私の連絡先を追加した。
「これからもし辛いことがあったら、すぐ私に言いな。光希とは幼なじみだけど、でも私は絶対に彼の味方なんかしない。何かあったら必ずあなたを助けるよ!」
周りの友だちが一斉に拍手した。
「さすが姉貴、やっぱりカッコいい!」
美雪は少し間を置いて、私を越えて隣の光希を見やった。
「ねえ、どうしたの?三年ぶりなのに、ずいぶん口数少なくなったじゃない」
周りは酒を飲んだり、面白がったり。
けれど視線は私たち三人に釘付けで。
一瞬たりとも見逃すまいという目だった。
光希の耳は目に見えて赤くなった。
彼は彼女のほうを振り向くことすらできず、グラスを手に取り、わざとらしく笑ってみせた。
「口数減ったんじゃない。ただ君と疎遠になって、何話せばいいかわからんだけ」
美雪が笑った。
「それって、三年間も私が連絡しなかったせい?」
彼女はグラスを掲げた。
「じゃあ、これからはしょっちゅう連絡しよう?」
光希は一度私を見てから言った。
「俺は完全にカミさんに頭が上がらないタイプなんだよ。これから連絡するなら、まず由香に許可取らないと」
二人はわだかまりが解けたみたいに笑いながら、グラスを合わせた。
言葉の裏も駆け引きもなく、正々堂々。
けれどなぜだろう、私の胸は苦しくてたまらなかった。
三年間一緒にいたから、光希の身体の反応を私は知り尽くしている。
今夜の彼は、あまりに緊張していた。
酒を飲み、歌を歌い、じゃんけんで盛り上がり。
終盤、みんなが酔い始めたころ。
光希が美雪にじゃんけんで負け、真実を答える番になった。
一晩中きちんとしていた美雪が、そこで急にわがままを言った。
首をかしげ、酔いに頬を染めながら、子供みたいに尋ねた。
「もし私が式を壊してでも奪いに来たら、一緒に来てくれる?」
その問いに、みんなの熱気は一気に爆発した。
「おいおい、やっと本音出たじゃん!」
「そうだよ、それが見たかった!」
「早く答えろよ、行くのか行かないのか!」
光希の目尻は酒で赤く染まっていた。
彼は彼女を見つめ、複雑な感情を湛えた瞳で、真剣に答えた。
「行く!」
その瞬間、場が一気に弾けた。
「だよな!」
「ほら見ろ!」
「奪え!奪え!奪え!」
歓声は広がり、周りの視線が一斉にこちらに注がれた。
私は二人の間に座ったまま、息が苦しく、手が小刻みに震えた。
この場にどういればいいのかわからず、トイレを口実にその場を逃げ出した。
涙をこらえながら、親友・渡辺紗英(わたなべ さえ)にメッセージを送った。
【今すぐここから私を連れ出してくれる?】
第3話
紗英からすぐ電話がかかってきた。
「どうしたの、あいつらにいじめられたの?」
「ううん、大丈夫。今は聞かないで、迎えに来てくれる?」
私の涙がこぼれそうでたまらなかった。
紗英は一気に取り乱し、声まで切羽詰まった。
「待ってて、すぐ行くから!十分!いや、七分!」
「そんなに急がなくていいよ、ゆっくり、安全運転して」
「口出すな!」
七分後、紗英がブガッティをぶっ飛ばして突っ込んできた。
彼女の顔を見た瞬間、私は堪えきれず目が熱くなった。
紗英が私の手を握り、怒りを飲み込んだ。
「あんたたち、どうやって彼女をいじめた?光希、死んでるのか?彼女がこんなに傷ついてるのが見えないの?」
紗英は大富豪の令嬢で、性格は豪快、その存在感だけで場の空気を圧する力があった。
彼女が姿を現した瞬間、その場の人間は一気に黙り込んだ。
美雪を見つけた紗英の眼差しが鋭く光っている。
「へえ、ここにいたのか」
美雪は立ち上がって私の腕を取り、親しげに笑った。
「ただゲームしてただけよ、なんでそんなに本気になるの?私、大雑把な性格だからさ。こういう繊細な子と一緒にいるの初めてで、距離感間違えちゃった。悪かったわ」
紗英は私をぐいっと背にかばった。
「誰が彼女に触っていいって言った?大雑把なんかじゃない、しらばっくれてるだけだろ」
その時、光希も酔いが醒め始めていた。
彼は眉間を揉み、立ち上がって言った。
「由香は疲れてる。俺が送っていく」
紗英が鼻で笑った。
「私が来たんだよ。あなたの出番ない。そのまま死んだふりしてろ!」
その場の全員が気まずそうに立ち尽くし、紗英が私の荷物をまとめるのを見ていた。
彼女は片づけながら容赦なく言った。
「前から言ってる。あなたの顔と気質なら、さっさと名家に嫁いで楽してればいいのに、わざわざ成金の家に行って苦労しようとするなんて。ああいう界隈は腹の探り合いと裏表だらけ。あなたみたいに純な子が行く場所じゃない!」
光希の家も純資産は数十億円にのぼる。
資産数十億の成金……なんともレアな表現だ。
けれど紗英が口にすると、誰も反論できなかった。
紗英は荷物をまとめ終え、私のバッグを手に取った。
中に入っていた洒落た香水を見つけると、何も聞かずに取り出して床に投げ捨てた。
「こんな時代遅れ、よく人に渡せたね」
香水の瓶がコロコロ転がり、美雪の足元で止まった。
美雪の顔から笑みが消えた。
紗英は私の手を引き、そのまま連れ出した。
光希が追いかけ、入口で私の腕を掴んだ。
「由香、怒るなよ。あの空気で、いきなりあんなこと言われて、頭が真っ白になったんだ」
私は光希の熱のこもった瞳を見て、力が抜け落ちた。
「つまり本能で答えた?心の底では、彼女と一緒にいたかったってこと?」
「違う。由香、あれはただのゲームだ。行かないなんて言ったら、彼女が友達の前で恥をかくだろ」
「彼女の顔を守るためなら、私の尊厳を踏みにじってもいいの?」
「彼女には体裁の答えを返しただけだ。君に渡してるのは結婚だ!」
私は腕を振りほどき、呆れ笑いを漏らした。
「じゃあ、私のほうが得ってこと?光希、三年も一緒にいて、あなたがそんないい気配りの達人だなんて気づかなかった」
その時、紗英が車を回してきて、クラクションを鳴らしまくった。
光希がまた手を伸ばしてきた。
「やっぱり俺が送る。帰り道でちゃんと話そう」
紗英が眉をひそめた。
「そんな暇あるなら、あなたのポンコツ車で配車でも走って頭冷やしな」
光希は言葉を詰まらせた。
エコカーのベントレーが、初めて彼に屈辱をもたらした。
私はドアを開けて乗り込み、振り返って光希に言った。
「私たちの結婚式はやめよう。二人とも、もう一度ちゃんと考える必要がある」
帰り道、私はSNSをざっと見返した。
美雪が二つ投稿しているのを見つけた。
一つ目。
【彼女はやっぱり私とは一ミリも似てない。ねえ、そのほうがかえって取り繕ってるってバレない?】
二つ目。
【三年かけてあの時の私の判断は間違いだったって証明したいなら、あなたは成功したわ】
第4話
抑えていた感情が一気に崩れ落ちた。
私は声をあげて泣きじゃくった。
三年間の真心がすべて無駄になった気がした。
光希の私への細やかな優しさは、愛ゆえだと思っていた。
まさか、あれは彼女に見せるための演技だったなんて。
私はただ、二人の駆け引きの道具でしかなかった。
紗英はストレートな女だ。
慰めの言葉なんて知らない。
彼女はいつも問題を直接ぶち壊すタイプだった。
「泣くなよ、男なんていくらでもいる。替えればいいだけ。うちの兄貴はイケメン、父もまだまだ色気あるんだよ、好きなほう選びな!」
泣き疲れた私は、思わず笑わされてしまった。
「紗英、私って情けないよね。こんな時、いつもあなたに守ってもらって」
紗英が私の頭を軽く叩いた。
「馬鹿言わないで。人の性格はみんな違うんだ。うちは早くに母親を亡くして、残った三人はみんな性格がちょっとおかしくて、愛情表現なんてまともにできなかった。
私は昔から反抗ばかりで、手に負えないガキだったし、人の役に立つこともほとんどない。
でもあなたは生まれつき心が柔らかくて、一緒にいるだけで春風みたいに心地いい。
しかも、あなたは今でも街で一番注射が痛くない医者だよ。私が入院してた時、もし毎日付き添ってくれて、飽きもせずあやしてくれなかったら、とても乗り越えられなかった!」
私はその言葉に救われた。
崩れ落ちた自尊心が、また少し立ち上がった気がした。
紗英が言った。
「マジでさ、ほんとにうちに嫁ぐ気はないの?」
この話、彼女は何度も口にしている。
私と紗英が知り合ったのは、彼女が病気で入院した時だ。
院長が彼女の主治医を担当していて、私は助手だった。
でも、私の話し方が柔らかくて、注射も痛くないって理由で、紗英がわがままを言い張り、私を主治医に指名した。
そこから、妙に濃い友情が始まった。
当時、私はすでに光希と付き合っていた。
紗英は毎日、悔しそうに大腿を叩いていた。
「なんで私の病気、数か月早くならなかったんだよ!そうすれば、あなたまだ独り身で、うちに嫁に来る可能性あったのに!」
その時、無関係でとばっちりを食らったのが渡辺慎吾(わたなべ しんご)だった。
紗英のためにわざわざ海外から休暇を取って帰国した実の兄だ。
聞かされるうちに、顔がどんどん暗くなっていった。
紗英が執拗に口説き落とそうとするもんだから、私と慎吾の関係は最初から氷点下だった。
ばったり会うたび、私は気まずくてうつむいた。
彼は気まずそうに顔を上げてそっぽを向いた。
互いに見なかったふり。
少し前、慎吾が留学から戻って、うちの病院に入った。
しかも私の隣の部門だ。
この高IQ・禁欲系イケメンが来て、みんなは大騒ぎになった。
女子たちは用がなくても彼の診療室の前を往復する。
休みを取る人まで減った。
私は仕事中ずっとトイレも我慢する。
廊下を何度も歩いて、彼にばったり会うのが怖かったから。
私が黙っているのを見て、紗英が妙にテンションを上げた。
「黙ってるってことは、本気で考えてる?決めた?うちの兄か、うちの父か?」
私は口元を引きつらせた。
「その二択しかないなら……あなたの父のほうで」
紗英はさらに興奮した。
「いいね!実は私もそれ推し!父は歳だし早く死ぬかも、あんたはさっさと遺産を相続、私たち毎日モデル指名放題!兄は無理、生活リズム完璧でヘルシー体質、体力ありすぎて、あんたのほうがもたない」
私「……」
翌日の午後、紗英が時間ぴったりに病院へ迎えに来た。
慎吾の部屋の前を通りかかると、私の手を引いてズカズカ入っていった。
「兄貴、今日は残業?」
第5話
慎吾がパソコンから顔を上げた。
身長は190cm、くっきりした眉骨に通った鼻筋。
目は冷ややかで、なのに妙に惹きつけた。
一目見れば、造物主にえこひいきされたと恨みたくなるほどの美貌だった。
慎吾がこちらを一瞥、目は淡々としている。
「いいえ」
その声に、向かいの医者・平野優斗(ひらの ゆうと)が驚いて顔を上げた。
「慎吾、あなた……」
慎吾が鋭い視線を向けた。
優斗ははっとして、飲み込んだ。
紗英がさらに問いかけた。
「じゃあ外でご飯は?」
慎吾は少し考えて、「いい」
言うが早いか、すっと立ち上がり机の資料を片づけた。
紗英は大喜び。
「よし!じゃあ今夜あなたは外で。私は由香を家に連れてって飯。あなたがいたら彼女も気まずいし」
慎吾の動きが止まった。
ゆっくり顔を上げて紗英を見やる。
その目には、わけのわからない殺気がにじんでいた。
「じゃあ外で食わせればいいだろ。うちの飯、別にうまくない」慎吾は露骨に不機嫌だ。
家の家政婦の田中彩花(たなか あやか)は、もとは庭の世話係だった。
年で土を起こすのがきつくなって、台所に回った。
彼女の料理は、うん、やたら健康的だ。
紗英が背伸びして、耳元でささやいた。
「彼女を家に連れてって、父に紹介するの。へへ、若い継母ができるかも、嬉しい?驚いた?」
慎吾がゆっくりと身を起こし、死体を見るみたいな目で紗英を見た。
数秒後、紗英の襟首をつかんでCT室へ引っ張っていた。
「行くぞ、撮っとけ。前の入院で、脳みそ間違って切られてないか確認だ」
廊下に紗英のじたばたが響いた。
「私の頭は正常!兄貴、若い継母のメリット三つ、整理してやる。一つ目、父さんが結婚したら、私たちの結婚を毎日急かさなくなるだろ。
二つ目、継母に耳打ちしてもらって会社は私に継がせる。あなたは安心して慎吾先生続けられるし、私は念願の会長。みんな幸せ!
三つ目、継母は若くてグラマラス。うまくいけば来年には弟を抱ける。家の血もつながる。あなたは産まなくていいし、いっそパイプカット……あ痛っ!つねるなって、痛い痛い!」
車が病院を出たとき、見覚えのある車が一瞬よぎった。
私は振り返した。
「今のは光希?」
紗英は平然な顔をした。
「違う、見間違い。今ごろどのベッドで本命に甘い言葉囁いてるか分かったもんじゃない。あなたのことなんか構う余裕ない」
私は感情が安定しているほうだ。
別れるならきれいに、と思っていた。
この一言で、一気に「きれいに」がどうでもよくなった。
光希の連絡先を全部ブロックした。
見なければ、心も波立たない。
慎吾も私たちとほぼ同時に家に着いた。
彼は家に着くなり、自分の部屋に籠もって着替えに行った。
ずっと顔は冷えきったまま。
彩花が料理を食卓に並べ終えるまで、慎吾は部屋から出てこなかった。
紗英がその姿を見て、思わずぎょっとする。
「なんだよ!家でそんな格好してどうするつもり?」
第6話
慎吾は食卓に端然と座っていた。
ぴったりしたスーツに身を包み、髪の毛一本乱れていない。
まるで冷徹な御曹司だった。
「俺、普段からこうだろ?」
慎吾が歯を食いしばるように言った。
紗英の口元がぴくぴく動いたが、言葉は出なかった。
ちょうどその時、父・渡辺陽介(わたなべ ようすけ)が帰ってきた。
彼はにこやかに私へ挨拶し、テーブルについた。
慎吾は父のスーツ姿をちらりと見て、言った。
「着替えないのか?普段は帰宅したらすぐアンダーシャツに着替えるだろ。スーツは苦しいって」
陽介は私を見、それからきちんと装った慎吾を見て、嬉しそうに笑った。
「せっかく友だちを連れてきたんだ、体裁は整えないとな」
慎吾の口元もぴくぴくと引きつった。
食事が始まった。
慎吾は半膳のご飯を持ち、誇らしげな顔。
「このすき焼きとトンカツ、下げろ。脂っこすぎる!」
彩花がその通りにした。
慎吾は上品に野菜を食べている。
陽介が怪訝そうに眉を寄せた。
「お前、普段は肉ばかりで、野菜なんて一口も食わんだろ?」
慎吾の手がぴたりと止まった。
視線の先では、陽介が淡々とステーキを切り分けている。
「普段はステーキも箸で食うだろ」
陽介が言葉を失った。
私は慌てて口を挟んだ。
「ナイフやフォークより箸のほうが便利ですよ。私もステーキを箸で食べることあるし」
少しだけ空気が和らいだ。
けれど慎吾は続けた。
「父さんは蒸し魚が一番好きで、骨をテーブルに吐き散らすよな」
「お前今日おかしいだろ!」陽介が歯ぎしりして、箸を叩きつけ、そのまま立ち上がった。
「お前らで食え。俺は怒りで腹いっぱいだ!」
紗英はうつむいて黙々と飯をかきこんだ。
口を出すことも聞くこともできない。
気まずさを破ったのは彩花だった。
「うちの前に車がずっと停まってますね。誰を待ってるのか……たしかあれ、ダイハツっぽいですけど」
慎吾は聞いた瞬間、すぐに立ち上がった。
「お前らは食え。俺が見てくる」
しばらくして、階下から慎吾の声が響いた。
彼は執事の鈴木大輔(すずき だいすけ)にこう言った。
「大輔さん、あの新エネ車をどかせろ。うちで配車を頼んだ覚えはないって伝えろ。ついでに1万円渡して、道端でラーメンでも食わせてやれ。一晩待って大変だったろうからな」
私は紗英に小声でつぶやいた。
「お兄さん、ちょっと変だけど、実は優しいね」
紗英「……」
紗英は光希が家に押しかけて私を困らせるんじゃないかと心配して、しばらく自宅に泊まらせてくれた。
慎吾も何も言わなかった。
むしろ、自分の部屋を譲り、日当たりがいいからと。
自分は父の寝室の隣のゲストルームに移った。
紗英は目を丸くして舌打ちまじりに言った。
「兄貴は女を家に入れるの絶対許さないし、自分の物触られるのもダメ。ちょっと女嫌いなんじゃないかって思ってたくらい。なのに、あなたにはこんなに甘い!これが意味するの、わかる?」
「何を?」私は尋ねた。
階段を下りる慎吾の足音がふっと鈍った。
「つまり、あのクソ二人があなたを馬鹿にしすぎて、兄貴みたいな冷血でもちょっとは同情心が芽生えたってこと!」紗英は憤然として言った。
「余計なこと言うな!」慎吾は恨めしげに吐き捨てた。
そしてわざと大きな音を立てて階段を下りていった。
慎吾の部屋はとても整然としていて、ほのかに木の香りがした。
私は窓を開けて風を入れた。
すると風で本棚のファイルが落ちた。
拾い上げてみると、一枚一枚、三年前に私が紗英に書いた診断書だった。
一番下には慎吾の筆跡。
綺麗な文字でこう記されていた。
【木村由香 雨森病院】
感情など一切ないように見えて、逆に抑え込まれた感情で満ちている気がした。
とんでもない秘密を覗いてしまったような気がして、手を震わせながら元に戻した。
そして恐る恐るベッドに倒れ込み、「余計なことは考えるな、考えるな」と自分に言い聞かせる。
けれど部屋の空気はどこもかしこも慎吾の匂いに満ちていて。
目を閉じると、慎吾の顔が走馬灯のように浮かんだ。
私は情けなくも眠れぬ夜を過ごした。