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花びらの向こう、君の姿は見えなくて
椎名かれん(しいな かれん)はICUの病室で98日間、昏睡状態にあった。 その間、藤原瑛司(ふじわら えいじ)は98人の女を病室に連れ込み、長い時...
Chương (1)
第1章
椎名かれん(しいな かれん)はICUの病室で98日間、昏睡状態にあった。
その間、藤原瑛司(ふじわら えいじ)は98人の女を病室に連れ込み、長い時間を欲望で紛らわせていた。
99日目、かれんは突然目を覚ました。一瞬目に飛び込んできたのは、ベッドの足元で密着している二人の姿。
全身が震え、怒りで息が詰まるのに、声は出なかった。
やがてその女は、瑛司に腰を抱かれて病室を出ていった。
満足げな表情で振り返った瑛司の視線は、不意にかれんの絶望に満ちた瞳とぶつかった。
心臓が大きく揺さぶられ、呼吸が止まる。
「かれん……お前、目を……」
第1話
椎名かれん(しいな かれん)はICUの病室で98日間、昏睡状態にあった。
その間、藤原瑛司(ふじわら えいじ)は98人の女を病室に連れ込み、長い時間を欲望で紛らわせていた。
99日目、かれんは突然目を覚ました。一瞬目に飛び込んできたのは、ベッドの足元で密着している二人の姿。
全身が震え、怒りで息が詰まるのに、声は出なかった。
やがてその女は、瑛司に腰を抱かれて病室を出ていった。
満足げな表情で振り返った瑛司の視線は、不意にかれんの絶望に満ちた瞳とぶつかった。
心臓が大きく揺さぶられ、呼吸が止まる。
「かれん……お前、目を……
違うんだ!そうじゃない!誓う、俺の心にいるのはお前だけだ!」
瑛司はよろけながらベッドに駆け寄り、かれんを抱きしめた。
けれどかれんは、全身を氷で覆われたようで、骨の髄まで冷え切っていた。
涙が頬を濡らし、胸の奥に空いた穴は鋭く痛む。
その後どれだけ瑛司が頭を下げ、必死になだめても、かれんは彼を見ようとしなかった。
やがて京央市に大雨が降った夜。瑛司は病院の玄関で三日三晩、雨に打たれたまま立ち続け、高熱を出し肺炎になっても動かなかった。
藤原家の当主が自ら頼みに来た。憔悴した母の顔を見て、かれんはついに心を許した。
その後、かれんは彼に付き添って注射や薬を受けさせ、瑛司は彼女のリハビリを支えた。
二人は表面上、以前と変わらぬ姿を取り戻したように見えた。
だが、その平穏は退院前夜に崩れる。
かれんの携帯に、知らない番号からメッセージが届いた。
【庭に来て。サプライズがある】
瑛司が仕掛けたサプライズだと思い、まだ完全には治らない足を引きずって庭に向かった。
そこで目にしたのは、瑛司が女を抱きしめ、唇を重ねている姿。
その女は、99日目に病室で見たあの女――篠原真美(しのはら まみ)だった。
心臓が強く締めつけられ、息ができなくなる。
かれんはよろめきながら外へ走り出した。
「かれん!違う、聞いてくれ!」瑛司が追いかけてきて、彼女を強く抱きとめる。
「瑛司……私たちは終わりよ!」
かれんは必死に抵抗しながら叫んだ。
言い争いの最中、背後でタイヤが急ブレーキをかける音が響いた。
振り返ると、一台の暴走車がまっすぐに迫ってくる。
次の瞬間、瑛司はかれんを突き飛ばし、自らはドンという衝撃音とともに車にはね飛ばされた。
「いや!」
かれんは地面に倒れ、全身血まみれで横たわる瑛司を呆然と見つめた。
医師と看護師が駆け寄り応急処置を始めたが、瑛司はかれんを必死に見つめ、治療に従おうとしなかった。
「お前が離れるなら、俺は死ぬ」
心電図モニターがけたたましい警報音を鳴らし、医師も看護師も一斉にかれんに視線を向けた。
血に染まりながらも異様な執念を宿した瑛司の目を見て、かれんは理解した。これは命を賭けた脅しだと。
けれど彼女はもっとよく分かっていた。自分はもう決して彼を許せない。
それでも、命を救ってくれたばかりの男を、見捨てることもできなかった。
指先が掌に食い込み、かれんは全身の力を振り絞って言った。
「……行かない。そばにいる」
その言葉に、瑛司の口元に微かな笑みが浮かんだ。
手術室の灯は丸一日消えず、かれんは叱られた子どものように、外で丸一日立ち続けていた。
やがて医師は告げた。「命は助かりました」
その後、瑛司はかれんを片時も離さなかった。
彼は京央市の上流社会に向かって宣言した。かれんは、自分にとって唯一の妻だと。
彼は数千億円規模の契約を投げ捨て、結婚式の準備に没頭し、ウェディングプランナーと夜通し案を練り直した。
長年仕えてきたボディーガードでさえ、今回ばかりは瑛司が本気でかれんを何よりも大切にしていると、ひそかに囁いていた。
かれんは笑って受け流した。
彼女が待っているのは、ただ一つ。
彼にきちんと別れを告げる機会だった。
退院の日。かれんは手続きを終え、一歩遅れて屋敷に戻った。
玄関の扉に手をかけた瞬間、室内から聞こえてきた会話に血の気が引いた。
「さすが瑛司だな、かれんさんを手玉に取ったもんだ!」
「本当だよ。前に病院で、お前に車突っ込ませてって言われたときは、正気を疑ったぞ!
血だって見るからに怪しい色の輸血パック使ったし、医者も看護師も全部エキストラだったし、バレやしないかヒヤヒヤしたけど、かれんさんは完全にびびってて、まったく気づかなかったな」
「そういえば救急室のあれはどうだった?お前と真美、やること派手すぎて手術台壊したって噂だぞ」
一斉に笑い声が上がる中、瑛司はソファにだらしなく身を預け、白いシャツの襟元を二つ外し、覗く鎖骨にシャンデリアの光が落ちていた。
まるで神様のような端正な顔立ちなのに、口を開けばその言葉は毒を含んでいる。
「この話をかれんに一言でも漏らしたら、お前らどうなるかわかってるな」
「わかってるって。お前がかれんさんを大事にしてるのは誰だって知ってるさ」
誰かが冗談めかして言う。「でもさ、一度ならまだしも、どうして真美をそばに置いてるんだ?かれんさんにバレたら本気で終わるぞ?」
瑛司は手首の数珠を指で弄び、数秒沈黙したあと、低く呟く。
「怖いさ。でも、真美にしか埋められないものがある。
それに十日後のあの結婚式で、十分に償える」
誰かが舌打ちする。「瑛司、それ本気でバレたら、今度こそ車に轢かれてもかれんさんは振り返らないぜ」
「彼女には絶対に知られるわけがない」
瑛司は立ち上がり、冷ややかな視線で全員を見渡した。「もし誰かがかれんに漏らしたら、そのときは覚悟しろ」
扉の向こうで、かれんの指がドアノブをきつく握り締める。
信じられない思いで微笑み、ずっと堪えていた涙がついに頬を伝った。
まさかここまで自分が弄ばれるとは思ってもいなかった。
二人は世間的には政略結婚だが、実際は幼なじみで、十年も一緒に過ごしてきた。
十周年の記念日、かれんが「アフリカの星空が見たい」と言えば、瑛司はすぐにプライベートジェットを手配して連れて行ってくれた。
その旅先で大規模な土砂災害に巻き込まれ、濁流と一緒に石が押し寄せてきたとき、瑛司はかれんを岸へ押し上げ、自分は全身傷だらけになった。
彼がベッドで傷だらけで寝ている間、かれんの白いドレスはほとんど汚れていなかった。
誰もが瑛司はかれんに夢中だと言っていた。
でも――かれんだって、彼を心から愛していた。
半年前、藤原家で権力争いが起きたときも、かれんは決定的な瞬間に瑛司をかばい、命を落としかけた。
ICUで99日間昏睡し、生死の淵からやっと帰ってきたのに――
彼女が目覚めて最初に見たのは、自分の病室で替え玉と抱き合う瑛司、繰り返される裏切りと嘘だった。
かれんは冷たく鼻で笑い、勢いよく涙を拭った。
「くだらない誇りも、瑛司も、もうどうでもいい。あんたの茶番には、もう付き合いきれないから」
あの数千億円もの結婚式なんて、かれんには全く価値がない。
いや、それどころか、彼に何倍もの大きな贈り物を返してやるつもりだった。
高いヒールを鳴らして背を向け、かれんはその足で三つの行動を起こす――
第2話
かれんはまず、自分名義の二百億円相当のウェディングドレスとセットのダイヤの指輪を梱包し、真美に送りつけた。添えられていたメッセージには、ただ結婚式場の場所が書かれているだけだった。
二つ目は、専門チームに連絡してフルセットの「死亡偽装」サービスを予約した。十日後の結婚式当日、棺桶が現場にきっちり届くよう手配した。
三つ目、かれんはずっと準備していた資料を持って、国内の自分のすべての身分証明を抹消した。この世に、もう「椎名かれん」はいなくなった。
十日後、瑛司がどこを探し回ったって、もう二度とかれんを見つけることはできない。
すべてを片付けてから家に戻ると、すでに深夜になっていた。
かつて上流社会の頂点に立っていた瑛司が、いまはエプロン姿でオープンキッチンに立ち、ひたすらお粥を作っている。
扉の開く音に、瑛司は思わず振り返り、すぐさま駆け寄ってかれんを抱きしめた。
「かれん、どこに行ってたんだ?あと少し帰りが遅かったら、京央中の人間総動員してでも探し出すところだった」
彼の胸からは激しい鼓動が伝わり、その音で耳が痛くなるほどだった。
かれんはその場で動けなくなり、胸が苦しくてたまらなかった。
ふと、大学時代のことを思い出す。瑛司が藤原グループの代表として世界的なビジネスフォーラムで講演していたとき、全世界に中継されている舞台の上、かれんが十分だけ電話に出なかっただけで、彼は講演を中断し、プライベートジェットをチャーターして夜中に帰国していた。
ただ彼女が無事かどうか、自分の目で確かめるためだけに。
あの頃の瑛司は、本当に心からかれんを愛していた。
それなのに、どうして今は他の女がいるの?
喉の奥にしょっぱいものがこみ上げ、かれんは唇をきつく噛みしめ、今にもこぼれそうな嗚咽を無理やり飲み込んだ。
しばらくしてから、冷たい声で答える。「ちょっと展覧会を見に行ってて、言うの忘れてた。ごめん」
瑛司は明らかにほっとした顔で、かれんを抱いたまま思わず笑みを浮かべた。
「バカだな、夫に謝る必要なんてないよ。心配してただけ。さあ手を洗ってきて、夜食の支度ができてるよ。かれんの大好物の甘酒も、ちょうど温めてある」
そう言うと、彼は優しくかれんの髪を撫でてから、キッチンへ戻っていった。
かれんはダイニングテーブルに寄りかかり、黙って彼の後ろ姿を見つめていた。
もともと彼女は胃腸が弱くて、ちょっとでも食べ過ぎると冷や汗をかくほど腹痛に苦しんだ。
だから、家事なんて無縁だったはずの財閥の御曹司が、わざわざ栄養士についてスープ作りを学び、指がやけどで赤くなってもまったく気にしなかった。
事故の前は、毎日必ずかれんにスープを飲ませていた。
何年もそれを続けるうちに、かれんの慢性胃炎はほとんど完治していた。
あの頃の瑛司は、顔をほころばせて言ってくれた。「かれん、これからは毎日俺が作ってやる。一生作り続けてやるからな」
本当に、あのときの瑛司は彼女を何よりも大事にしていた。
事故から目覚めた今も、彼は毎日欠かさずスープを作ってくれる。
でも次の瞬間、置いてあったスマホが突然震えだした。
瑛司は携帯を手に取り、さっきまでの優しさが消え、目が一気に暗くなる。
鍋のお粥を急いでよそい、そばにあった上着をつかみ取った。
「かれん、会社で急用だ。おとなしくお粥を食べて待ってて」
かれんが返事をする前に、彼はもう玄関まで駆け出し、ドアがバタンと音を立てて閉まった。
完全にいなくなってから、かれんはぼんやりとテーブルについて、スプーンでお粥をすくって口に入れた。
けれど、米粒の芯はまだ残ったままだった。
昔は、どんなに大事な仕事があっても、かれんがそばにいれば、瑛司は絶対に目を離すことなんてなかった。
今は、お粥が煮えきっていなくても、仕事のほうが大事になった。
胸の奥がまた締めつけられ、かれんは自嘲気味に笑った。お粥を流しに捨てようとしたとき、携帯が鳴り、見知らぬ番号からのメッセージが表示された。
たった二分前のメッセージのスクリーンショットだ。
写真の中では、真美が湯気の立つバスタブに身を沈め、指で唇をなぞりながら色っぽい目でカメラを見つめていた。
テキストには【小犬が溺れてる。ご主人様、助けに来て】と書かれている。
その下には、瑛司の短い返信がある。
【すぐ行く】
かれんはしばらく画面を見つめ、目がどんどん冷たくなっていく。
これだけ大胆に振る舞えるのも、真美が瑛司に思いきり甘やかされているからだろう。そうでなければ、こんなふうに堂々と見せつけるはずがない。
心の中の痛みを押し殺し、かれんはふっと口元をゆがめ、その画像を京央中のマスコミすべてに転送した。
露出趣味なら、見せ場を作ってやればいい。
その夜、かれんのスマホは30分ごとに通知が鳴った。
【瑛司さん、こうされるの大好きなんだよ】
【今日はもう歩けないかも、瑛司さんて本当に初めてみたい……かれんさんもこんなこと、あった?】
ひたすら下品な写真と言葉が次々に送られてくる。
かれんは吐き気をこらえ、何度も画面を見続けた。
自分で自分に痛みを与え、すべての感覚を麻痺させるため。
これを繰り返せば、いつかは本当に何も感じなくなる日が来るかもしれない。
深夜四時、ついにその番号から最後の動画が届いた――
第3話
瑛司は自ら、紫檀の数珠を真美の赤い痕だらけの足首にはめた。
「これは京央の寺の住職が生前ただ一度だけ開眼した数珠だ。一生お前を守ってくれる」
彼は珠を指でなぞり、甘い声で言う。「好きなんだろ?なら大事に身につけろ。これからは俺きついって文句を言うな」
真美はしゃくり上げながら、甘えるように彼に抱きついた。
「ふん、それって人を痛めつけたお詫びでしょ。こんなダサい数珠、誰が欲しいの」
そう言って足を上げて蹴ろうとしたが、瑛司にベッドへ押し倒され、影が重なった。
動画は曖昧なもつれの途中でぷつりと途切れた。
かれんの全身の血が瞬時に凍りつき、胸が激しく起伏し、目の前のお粥を払いのけた。
あの数珠は、彼女の父の遺品だ。
父が亡くなった年、彼女は些細なことで父と意地を張り、国外に3か月も身を隠していた。
ある日ニュースで訃報を見て、彼女は狂ったようにチャーター機で帰国した。
伯父は目を赤くして伝えた。父は目を閉じる前、最後の瞬間までこう呟いていた。「かれんはまだ帰ってこないのか?お父さんが悪かった。もう二度とかれんを怒らせない……」
それはかれんが初めて自分のわがままの代償を払った日で、心が砕け落ちて気を失いそうになった。
父は生涯信仰深く、最期に遺品はすべて焼却しろと遺言した。ただこの数珠だけは残して「かれんを守ってくれ」と言い残した。
それから彼女は昼も夜も身につけ、一度も外さなかった。そして瑛司が土砂災害から彼女をかばったあの日、その数珠を彼の手首に着けた。
彼が目を覚ますと、彼女を必死に探し回り、手首の数珠を見つけると涙で誓った。「かれん。この数珠は一生外さない」
それから数年、彼はそれを宝物のように扱い、他人に触れさせることすら許さなかった。
なのに今、彼は父が託した想いを、別の女の足首に自分の手ではめたのだ。
かれんの心の奥が、止めどなくきりきりと縮む。
彼女は憎んだ。どうしてこんな仕打ちができるのかと。
彼にすぐ説明させようと、彼女は車の鍵を掴んで飛び出した。
だが河沿いの高層マンションに着くと、エンジンを唸らせたままブレーキを踏み抜き、もう一歩も動けなくなった。
19階のフルハイトの窓の前で、重なる二つの影が目に刺さるように見えた。
突然スマホが震えた。差出人は瑛司。
「かれん。今夜は会社が忙しい。先に寝てて。帰ったら、たっぷり可愛がってやる」
かれんはスマホを握る手を震わせ、車外に出て道端にしゃがみ込み、吐いた。
心の中に残った最後の気持ちも、嘔吐と一緒に空っぽになった。
涙で赤くなった目で、吐き捨てるように呟いた。どうせあと8日で完全に離れるのだ。自分から恥をかきに行く必要はない。
別荘に戻ると、かれんは黙って荷造りを始めた。
マイナンバーカード、ビザ、パスポート、銀行カード……
自分を証明するすべての書類を、彼女はスーツケースに詰め込んだ。
瑛司が帰ってきたとき、彼が見たのは、ドアに背を向け、フルハイトの窓から京央市の夜景を見下ろす彼女の姿だった。
胸がどくりと跳ね、瑛司は大股で窓を閉め、彼女を抱き締めた。声には張り詰めた響きがある。
「かれん、どうした?
教えてくれ。なぜ泣いてるんだ?」
自分は泣いているのか。
かれんはきょとんとして、それから頬に触れ、気づけば涙が頬を伝っていた。
彼女は口角を引き、体をひねって彼の腕から抜け出し、ハイヒールが大理石に甲高く響いた。
「風が強くて目に入っただけよ。もう忙しくないの?」
瑛司は涙痕の残る顔を見つめ、心がわずかに震え、彼女を逃がさず抱き寄せた。
「どれだけ忙しくても、俺のかれんより大事なものはない。このところ会社のことが多くて、昨夜は帰れなかった。ずっと自分を責めてたんだ。もう怒らないで、いい子だ」
かれんは皮肉な笑みを浮かべ、何か言いかけたが、彼に手を引かれ、期待を宿した目で見つめられる。
「来てくれ。サプライズを用意した」
返事を待たず、そのまま車へ引っぱり込まれた。
30分後、車は光に包まれた豪華クルーズ船の前で止まった。
瑛司に手を引かれて甲板へ上がると、周囲には顔なじみの親族や財界の名士がずらりと並んでいた。
「藤原さんは本当にかれんさんを溺愛してるよな。数千億円のクルーズ船をぽんと贈るなんて。しかも婚前の贈り物だって」
「この船は太平洋を7日間周遊して、最後はそのまま結婚式会場に入るらしいぞ」
「小声で、小声で。かれんさんにはまだ内緒みたいだ。藤原さんって本当にロマンチストだよな」
羨望の囁きが次々と湧き起こる中、かれんは豪華な大広間の中央に立ち、視線の先には愛情深い瑛司の目、耳元には彼を讃える喝采が次々と響いてくる。
それでも彼女の心は、鈍い刃で何度も削がれるように、痛みで震えた。
世界は皆、彼が彼女を何より愛していると思い、世界は皆、彼を最もロマンチックな男だと褒めそやす。
けれど誰も知らない。いま彼女に数千億円のサプライズを用意したこの男が、ついさっきまで別の女のベッドから降りてきたことを。
第4話
スタッフが皆を甲板へ案内し、足元のバラの花びらが夕風に巻かれて渦を描いていた。
瑛司は手すりにもたれるかれんを背後から抱き寄せ、顎を頭にのせて、やわらかく囁いた。「気に入ったか?」
かれんは伏し目のまま黙っていたが、首元のネックレスがふいに切れ、トップが一瞬で深い海へ落ちていった。
かれんがわずかに眉を寄せると、瑛司はその一瞬の惜しさをすぐに察した。
「俺が贈ったやつか?」
彼女は唇を噛んで小さくうなずいた。
巨大なクルーズ船は海面に張り出し、底は底知れぬ濃紺。どこかでサメの低い唸りが聞こえる気がした。
瑛司はジャケットを脱ぐ暇もなく、手すりを乗り越えて飛び込もうと身を乗り出す。
「心配するな。俺が取ってくる」
かれんは彼の腕をつかんで引き止めた。「いい。もういいの。
たかがネックレスだよ。そこまでしなくていい」
かれんの瞳に広がる、氷のような冷たさを見て、瑛司の胸が不意に詰まった。
あれは、かつて彼女が宝物みたいに大事にしていたものなのに。
ふたりが18歳のとき、彼は3か月分の小遣いを貯め、自分で磨き上げたシルバーのチェーンに、ふたりのイニシャルを刻んだトップを下げた。彼女が十数年つけてきた、ふたりの証。
なのに、どうして今は、いらないと言えてしまうんだ。
手の中からこぼれ落ちていく感覚に、瑛司は理由もなく苛立ち、振り返って怒鳴った。「突っ立ってるな。探せ!今すぐ潜って探せ!」
ボディーガードたちはその剣幕に青ざめ、慌てて潜水装備を用意した。
待つ間、瑛司は直接ジュエラーに電話をかけ、埋め合わせに、すぐ新しい約100億円相当のブルーグレイスネックレスをオーダーした。
やがてヘリコプターが轟音を立ててジュエリーボックスを甲板に下ろすと、船内の人々が一斉に息を呑み、驚きの声がわっと広がった。
瑛司が彼女の首に慎重にネックレスをかけ、留め具がカチリと合った瞬間、背後からおずおずとした声がした。
「瑛司さん、ネックレス……見つかりました」
その手がびくりと止まり、ふたり同時に振り向く。濡れた瞳の真美と目が合った。
真美は全身ずぶ濡れで、裾から水を滴らせ、切れたシルバーのチェーンを両手で抱えて、真っ青な顔をしていた。
瑛司の周囲の空気が一気に冷え、声にも怒りが混じる。「誰が海に入れと言った?藤原家のボディーガードは死んだのか?」
真美は怯えたうさぎみたいに裾を握り、震える声で言った。
「怒らないで……私が勝手に入ったの。
学費を援助していただいたのに、ずっとお返しもできなくて。ちょうどかれんさんのネックレスが落ちるのを見て、お役に立てるかと……」
そう言って、シルバーのチェーンを両手で差し出す。「海、サメが多くて……頑張って守ったけど、ちょっと傷、ついちゃって……ごめんなさい……」
瑛司は差し出された手を見てもまぶたひとつ動かさず、かれんだけに向けて言った。
「かれん、ここで待ってて。修理に出してくる。すぐ戻るから」
「うん」
足音が遠ざかる。かれんは遠くの波を眺め、口元にごく薄い皮肉を乗せて、そっと目を閉じた。
5分も経たないうちに、見知らぬ番号からリンクが届いた。
開くと、映ったのはクルーズの最上階スイート。
瑛司が真美を壁に押しつけ、乱暴に、深くキスしていた。
真美の甘い息がスピーカー越しに漏れる。「瑛司さん、だめ……かれんさんが待ってるのに……」
「黙って」
怒りを含んだ瑛司の声。彼は彼女を抱き上げてベッドに投げ、覆いかぶさる。「誰が勝手に海へ飛び込めと言った?死ぬ気か?」
「あのネックレス、大事なのかなって……」
真美のまつ毛に涙が溜まり、今にもこぼれそうで、可哀想な顔で見上げる。「それに……かれんさんが惜しくないなら、私が惜しいの」
瑛司の顔は影に沈み、もう何も言わない。布の擦れる音だけが響いた。
真美は色っぽく目を流し、隠しカメラの方へちらりと視線を送り、切れたシルバーのチェーンを指先でつまむと、ゆっくり自分の胸元へと滑り込ませた。
「瑛司さん、こっちのほうが、もっと楽しいよね……」
甲板のかれんは夕風の中に立ち、握った指の関節が白くなるほど強く力を込めた。
ふいに思い出す。18歳のあの日、沈みゆく夕陽の中で瑛司がそのネックレスを両手で差し出し、真っ赤な耳をしてしゃがみ込んだことを。
「かれん、お前は何も足りないものなんてないのは知ってる。でも、これは俺が自分で作ったんだ……気に入らなかったら、作り直す。
願いはひとつだけ」彼が顔を上げたとき、瞳は夕陽より明るかった。「お前にずっと笑っていてほしい。世界でいちばん幸せな子でいてほしい」
真心だけを抱えた少年は、安物のシルバーのチェーンで、彼女の十数年を縛りとめた。
かれんは苦く笑い、胸の鋭い痛みを押し下げて、身分抹消の機関に電話をかけた。
「手続き、どこまで進んでる?今すぐここから離れたい」
言い終えた途端、背後から瑛司の低い声が落ちた。
「何を抹消するって?かれん、どこへ行く気?」
第5話
海の上で突然、雷鳴が轟いた。かれんの瞳孔がきゅっと縮み、胸のざわめきを押さえつけて、ゆっくり振り向いた。
けれど視線の先にあったのは責める目じゃない。十段のシュガーケーキを押して近づく瑛司だった。蝋燭の灯りが、その目にやわらかく揺れている。
「もう仕事はやめにしよう。結婚前のラスト3日、独身最後のバカ騒ぎしよう」
彼は髪をくしゃりとなで、甘い声で囁く。「3日後には、お前は俺の妻だ」
大柄な彼がケーキの横に立ち、熱のこもった視線をまっすぐ彼女に注ぐ。歓声が上がり、紙吹雪が舞った。
少女のころのかれんは、こんな場面を何度も夢見てきた。
ただ、その男が3分前まで別の女と口づけしていたなんて、あのころの彼女は知るよしもない。
かれんのまつ毛が震え、言葉を探す前に、隣のパティシエが涙目で言った。
「かれんさん、このケーキ、藤原さんが自分で作ったんです。
お好きな甘さに合わせるために何十回も試作して、オーブンの火傷で手が水ぶくれだらけになってました。
一番上のシュガープリンセスは、藤原さんが10日かけて彫ったんです。12歳のときにあなたが描いた絵と同じに、って」
「かれんのためなら、たいしたことじゃない」
瑛司は笑ってジャケットを肩に掛けた。「風が出てきた。ケーキを切ったら部屋に戻ろう。俺のお姫様が冷えるから」
「金持ちなのに自分でケーキ作るなんて、藤原さんどれだけ一途なんだ」
「『お姫様』だって!何この神カップル」
歓声が渦を巻く中、ただひとり、真美だけが人混みの端でケーキを睨みつけ、その目に一瞬だけ毒の色を走らせた。
かれんは口角を引きかけた、そのとき。
稲妻が海面を裂き、甲板を青白く照らした。
巨大な波でクルーズ船が大きく傾き、客たちは悲鳴を上げて手すりにしがみつく。
その瞬間、真美はタイミングを狙ってケーキに体当たりした。
「ざばっ」
十段のケーキが轟音とともに崩れ落ち、クリームと果物が床一面に飛び散った。
悲鳴に包まれ、甲板は一気に混乱する。
「やめろ!」
瑛司の顔色が変わったが、もう遅い。
手すりのそばにいたかれんと真美は、崩れたケーキの勢いに引っ張られ、足元のクリームで滑って、そのまま手すりの外へ倒れ込んだ。
次の瞬間、瑛司は真美をつかんで抱き寄せ、傾いた甲板を転がるように避難した。
かれんは短い悲鳴を上げたきり、真っ黒な海へ真っ直ぐ落ちていった。
ザブン!
凍える海水が鼻に一気に流れ込み、呼吸が奪われた。
意識が遠のく直前、甲板から瑛司の叫びが聞こえた。「かれん!」
でも分かっている。いま彼が腕に抱いているのは、真美だ。
海の底は真っ暗で、音もない。かれんは痛みに力が抜け、もうもがくことすらできない。
もう、疲れた。このまま沈んで、少し眠れたら、それでもいい。
目を閉じかけた瞬間、記憶の欠片が一気にあふれ出した。
12歳の瑛司。沈みゆく夕陽の中、壊れたぬいぐるみを不器用に縫い直してくれた。針目は曲がって、額には汗。
16歳の瑛司。世界的なビジネスフォーラムの講演をキャンセルし、深夜便で12時間飛んで帰国して、誕生日当日に手作りのケーキを差し出した。
20歳の瑛司。土砂災害の濁流の中、歯を食いしばって彼女を高い所へ押し上げ、自分は流れにのまれて見えなくなった。
真っ暗闇で涙が止まらず、無意識にその名前を繰り返した。
「瑛司……瑛司……怖い……」
でも、彼には届かない。
彼はかれんを深みに落としたまま、背を向けて別の誰かを抱きしめている。
胸がぎゅっと縮み、かれんははっと目を開け、涙があふれた。
その痛みから息を整える間もなく、次の瞬間、女の湿った吐息が、耳元をかすめた。
第6話
かれんの体はその場で固まり、指先が氷みたいに冷たくなった。
まだ自分は海の底に沈んでいるのだと思った。けれど次の瞬間、聞き慣れた声が毒針みたいに耳に刺さった。
「瑛司さん、私たちの最初って、今とちょっと似てるよね。
まだ……覚えてる?」
瑛司は答えず、部屋には衣擦れの音だけがした。さっきより速く、激しく。
女がまた口を開くと、泣き声が混じっていた。
「全部、私のせい……私がうっかりケーキを倒さなきゃ、かれんさんも手すりから滑らなかったのに……
私、世界一バカな小うさぎだよ。罰して、ね。思いきり……」
瑛司は苦笑しながらも、彼女を抱き上げて、フルハイトの窓の前へ運んだ。
「しゃべるな。罰だけ受けてろ」
ふたりの気配は窓際からソファへ、最後はバスルームへ消えた。
赤い目の瑛司が、ウサ耳のカチューシャをつけた女を見下ろし、低く言う。
「明日はかれんとの結婚式だ。南区に別荘を用意した。これからは月に1日、必ず会いに行く」
真美の視線がわずかに揺れ、底に小さな影が走ったが、すぐに消えた。
この男のそばに残るには、従順でいるしかない――彼女はそれをよく分かっている。
「うん。瑛司さんのそばにいられるだけで、十分しあわせ」
そう言って、彼の胸元へさらに身を寄せた。
瑛司はその従順さに満足したのか、もう何も言わなかった。
病室のもう一方で、かれんはベッドに横たわり、胸が岩みたいに重く、息をするだけで痛んだ。
涙は夕陽に乾いて、もう出ない。残ったのは、胃の奥をかき回されるような吐き気だけ。
半開きのバスルームの中からくぐもった声がして、かれんは堪えきれず、手を伸ばして点滴スタンドを倒した。
ガシャーン!
部屋が一瞬で静まり返る。
瑛司が真美の口を塞いだのだろう、音は途切れた。
しばらくして、服を整えた瑛司が、何事もなかった顔でバスルームから出てきた。目には作りものの心配が宿っている。
「かれん、起きたの?具合はどう?どこか痛むか?」
少し間を置いて、悔やんでいるふうの表情に切り替える。「悪かった。あの日は甲板がめちゃくちゃで、うまくお前を掴めなかった……」
かれんは皮肉に目を閉じ、その穴だらけの嘘を暴こうとはしなかった。
ただ顔をそむけ、静かに訊く。「真美さんは?」
瑛司の表情がわずかに曇り、声は無意識に冷たくなっている。「船が揺れてたんだ。彼女もわざとじゃない。責めるな。
安心しろ。お前を傷つけた連中は、もう罰した」
ここまで露骨に庇われると、もう言葉は出なかった。
さっき目の前で見せつけられた、あの行為を思い出す。かれんは笑って、一言だけ吐いた。
「うん」
その静けさに、瑛司はわけもなく胸騒ぎを覚えた。
何か言い足そうとしたとき、クルーズの執事が扉をノックした。「藤原様、かれん様。本日のキャンドルディナー、予定どおりでよろしいですか?」
かれんは黙ったままで、瑛司が答える。
「予定どおりで」
彼はベッドのそばへ来て、声をやわらげた。
「いい子だ。お前は2日も昏睡してた。少し外の空気を吸おう。
明日は俺たちの結婚式だ。プレゼントを用意したんだ。きっと気に入るはず」
かれんは天井を見上げて、ふっと笑った。
本気の贈り物なのか、罪滅ぼしの償いなのか――誰よりも本人が知っている。
でも、もうどうでもいい。
この男は、もう二度とかれんを傷つけられない。
だって、彼女はすべてを手放したから。
もう完全に、愛していない。
第7話
キャンドルディナーは豪華なクルーズの宴会場で開かれた。
瑛司が用意した高級ジュエリーが小山みたいにかれんの前に積まれ、きらめきが強すぎて目を開けていられない。
彼はホールの中央に立ち、燃えるような目でかれんを見つめ、言葉の一つひとつに想いを込めて告白する。周りでは称賛の声が次々と上がった。
「かれんさんは世界でいちばん幸せな女の人だよ」
「そうだよ。藤原さんにここまで愛されるなんて、羨ましい」
かれんは人混みの中で、どれだけ歓声が飛んできても、ずっと俯いたまま黙っていた。
瑛司は胸のあたりが妙に重くなり、ついに堪えきれず、彼女を強く抱き寄せた。
「かれん、どうしてそんな目をするんだ?まだ怒ってるのか?
誓うよ。あの日は本当に人違いだった。ねえ、俺を許してくれないか?
なあ、許してくれるなら、何でもする」
かれんはようやく顔を上げ、二歩下がって、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ、命で払って。
真美さんを消して。そうしたら許してあげる」
軽い冗談みたいな口ぶりなのに、瑛司の目は一瞬で暗く沈んだ。
すぐに自分の態度に気づいたのか、半ば強引に彼女を抱き戻し、なだめるように言う。
「あの子、まだ大学も出てない。相手にするだけ無駄だ。
こうしよう。彼女にここで土下座させる。どう?」
かれんが笑って言い返そうとした瞬間、瑛司の携帯が鳴り、勝手に動画が流れ出した。
画面の中で、真美が黒服の男二人に床へ押さえつけられ、泣き叫んでいる。「瑛司さん、助けて!誰かが!」
三秒後、動画はぶつりと切れた。
瑛司の握る指がみしりと鳴り、画面にひびが走る。
彼は顔を上げ、怒りを押し殺した声でかれんを見る。「かれん。お前が真美に手を出したのか?」
かれんは眉をひそめて彼を見た。
「何の話?私がそんなことするわけないでしょ」
「ああいうの、手を汚すのも嫌」
言い終わるや、瑛司はテーブルのキャンドルディナーを乱暴に払い落とした。
「ああいうのって何だ?彼女はまだ20歳だぞ。お前はあの子の一生を台無しにする気か?」
かれんは信じられない思いで彼を見つめた。
知り合ってから何十年、他の女のためにここまで怒鳴る彼を見るのは初めてだ。
取り乱している自分に気づいたのか、瑛司は声を落とした。
「かれん、分かってる。あの子がケーキを倒して、お前が落ちたのを恨んでるんだろ?
でも俺に任せろ。居場所を教えてくれたら、彼女にお前の前で土下座させる。いいな」
目の前の焦った男を見て、胸の奥がずきずき痛む。
かれんは自分の前のテーブルを同じように払い飛ばし、瑛司を真っ直ぐに見据えて、一語ずつ区切って言った。
「知 ら な い」
言い終えると、瑛司は瞬時に逆上した。
「かれん。俺はチャンスをやった。怒らせたのはお前だ」
彼は何かメッセージを送ると、かれんの腕を乱暴に引き、後ろのデッキへ連れていく。
手すりの外には、かれんの母、椎名美佐子(しいな みさこ)が吊り下げられていた。
足元では海が渦を巻き、サメの白い牙がちらりと見える。
かれんの瞳孔が縮み、反射的に瑛司の頬を叩き、全身が震える。「瑛司、このクズ。あれは私のお母さんよ」
瑛司はゆっくりと顔をそむけ、親指で口端の血を拭った。
「カウントは5秒。言わないなら、父親の時みたいに、母親もお前のせいで死ぬ。
5、4……」
その言葉は毒の刃みたいに、かれんのいちばん深いところに突き刺さった。
彼女は急に動きを止める。
かつて愛した人間は、どこに刃を入れれば一番痛むか、いつだって知っている。
信じられないものを見るように、かれんはかすれ声で言う。「自分で何を言ってるか、分かってるの?」
熱い涙が瑛司の腕に落ち、彼の体がびくりと震えた。ほんの少しだけ我に返る。
生まれてから今まで、彼はかれんがここまで絶望した顔を見たことがない。
胸が刺されるみたいに痛み、怒りに頭を乗っ取られていたと気づく。口を開くが、謝罪の言葉は喉でつかえた。
そのとき、携帯がまた震え、写真が一枚届いた。
そこには、服を乱され、全身に鞭のような赤い痕が残る真美の姿。
瑛司の目が一気に血走り、さっき芽生えた罪悪感は、怒りに支配された。
彼はかれんの腕を乱暴に振り払い、苛立ったまま背を向けて歩き出す。
ガン!
かれんは手すりに叩きつけられ、額に鮮血がにじみ、頬を伝って落ちた。
後ろのボディーガードが息を呑み、叫ぶ。「藤原さん、かれんさんが出血してます」
瑛司の足は一瞬だけ止まったが、振り返りもしない。「血が出たなら医者を呼べ。
それと、まだ突っ立ってるのか?
真美を見つけられないなら、お前ら全員道連れだ」
第8話
かれんは手すりを支えに立ち上がり、こめかみの血が顔中を伝ったが、何も感じないようだった。
愛が極まれば痛む。憎しみが心に残れば、それだけで痛い。
けれど今の彼女にとって、愛も憎しみも刃の鈍ったナイフ。もう心は波立たない。
もう何も要らない。何も気にしない。
かれんは震える足で母のそばへ行き、手すりの外にぶら下がる美佐子を全力で引き上げた。
「かれん、瑛司さんがサプライズがあるって言うから、来たの」
美佐子はまだ息が荒く、娘の手をつかんで震えている。「いったい何があったの?あのクズ、あんたを脅すのに私を使うなんて」
美佐子の真っ赤な目と向き合い、かれんは小さく首を振った。「お母さん、何も聞かないで、何もしないで。一緒に行こう。
いい?」
美佐子は娘の目に宿る死んだような静けさを見て、歯を食いしばり、やがて頷いた。
二人は支え合って部屋へ戻り、かれんは素早く荷物をまとめ、身分抹消の機関に電話をかけた。
「椎名様、ヘリは30分後に到着します。お客様の全情報は同時に完全消去されます」
通話を切って、かれんは精一杯の笑顔を作り、美佐子を見た。「あと30分で、全部終わる」
美佐子は痛ましげに彼女の青白い頬を撫で、言葉を探したが、その瞬間、ドアが弾け飛び、黒服の一団がなだれ込んできた。
母娘が抗う間もなく、口と鼻を塞がれ、意識が闇に落ちた。
目を覚ますと、二人は同じ麻袋の中で縛られ、口には布切れが押し込まれていた。
外から雑な足音が近づき、ボディーガードの報告が混じって聞こえた。「藤原さん、真美さん。真美さんを連れ去った連中を見つけました。この麻袋の中です」
死んだような静けさのあと、瑛司の冷たい声が麻袋を突き抜けた。
「鉄パイプを持ってこい」
かれんの瞳孔が一気に縮む。母と二人、麻袋の中でもがく。だが次の瞬間、革靴が正確に彼女の頭を踏みつけた。
「俺の人間に手を出すとは、命がいくつあっても足りないな」
言い終えるより早く、ドンという鈍い音とともに、美佐子の頭に重い一撃が叩き込まれた。
血が一気に麻袋を染み通り、かれんの顔をべっとり濡らす。
信じられず目を見開き、喉から嗚咽が漏れるのに、まともな悲鳴は一つも出てこない。
耳鳴りが渦巻き、心臓が見えない手でねじ切られるように締めつけられ、口の中に鉄の味が広がった。
美佐子は最後の力で口の布を吐き出したが、言葉になる前に、もう一撃が落ちた。
かれんは、母が数度痙攣し、完全に動かなくなるのを、目の前で見た。
血と涙が麻袋の中に溜まり、心は生きたまま裂かれて粉々になった。
あと30分待てば、離れられたはずなのに。なんで、こんなことに……
かれんは絶望的にもがき、口の布をようやく押し出した。だが声を上げるより早く、無数の拳と蹴りが雪崩れ込んだ。
釘のついた棒が皮膚を裂き、鈍い拳が肋骨を折り、尖った骨が内臓に食い込む。
最後の一撃が落ちたとき、気道は温かい血でふさがれ、息をすることさえ叶わなかった。
外から、泣きまねの混じった真美の声がした。「瑛司さん、やめて。死んじゃう」
彼女は前に出て「止めるふり」をし、麻袋の前で泣き崩れた。けれど身を屈めたとき、二人にしか聞こえない声で笑う。「かれんさん、母親と一緒に死になさい」
「藤原家の妻の座は、私のもの」
瑛司は真美を抱き上げ、振り返ることなく歩き出した。「麻袋の中のゴミは、サメの餌にしろ」
かれんには、もう誰の声か分からない。意識の底から、ただいくつかの音を絞り出す。
「ふ…じ…わら…えい…じ…」
かすかな声だったが、それが彼女の最後の力だった。
瑛司の体がびくりと固まり、足が止まる。震える声で振り返り、周囲を見回す。
「かれん?どこだ?」
麻袋がかすかに揺れ、抱かれていた真美が突然叫んだ。「あっ、お腹が痛い……
瑛司さん、私……妊娠したかも」
一瞬よぎった疑念は、たちまち吹き飛んだ。瑛司の顔に驚きと焦りが走る。
「妊娠?医者を呼べ!」
彼は真美を抱いたまま大股で立ち去り、二度と振り返らなかった。
かれんと母の麻袋は、深い海へ投げ込まれた。
冷たい海水で縄が緩み、二人の体はゆっくり海面へ浮かび上がる。
瑛司がほんの一度でも振り返れば、これまで大事にしてきた女が、いま静かに浮かんでいるのが見えたはずだ。
けれど彼は振り返らない。彼の目にあるのは、腕の中の愛人だけ。
身分抹消の機関のヘリが轟音とともに現れ、海面のかれんを拾い上げて運び去った。
意識を手放す直前、かれんは首のネックレスを力いっぱい引きちぎり、深い海へ投げ捨てた。
「藤原瑛司。もう一生会いたくない」