青春も愛した人も裏切ってしまった

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青春も愛した人も裏切ってしまった

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生まれ変わった小泉奈月(こいずみ なつき)は、真っ先に離婚協議書を手に青山元治(あおやま もとはる)のもとを訪れ、口を開けば二言だけだっ...

Chương (1)

第1章

生まれ変わった小泉奈月(こいずみ なつき)は、真っ先に離婚協議書を手に青山元治(あおやま もとはる)のもとを訪れ、口を開けば二言だけだった。 「離婚に同意するわ。 子どもを一人、私が連れていく」 元治は協議書をめくる手を止め、視線を上げると、一瞬だけ驚きが過ったが、すぐにいつもの冷淡さで覆い隠した。 「四人の子どもの中で、わざわざあの病弱な子を選ぶのか」 彼は指先で机を軽く叩きながら、探るような口調で言う。「奈月、今度はまた何を企んでいる」 「信じるかどうかは勝手、署名して」 奈月は協議書を彼の前へ押しやった。 元治はペンを握ったまま空中で動きを止め、三十秒ほど経った後、いきなり身を乗り出して署名すると、ペンを机に叩きつけるように置いた。 「言ったことは必ず守れ」 第1話 生まれ変わった小泉奈月(こいずみ なつき)は、真っ先に離婚協議書を手に青山元治(あおやま もとはる)のもとを訪れ、口を開けば二言だけだった。 「離婚に同意するわ。 子どもを一人、私が連れていく」 元治は協議書をめくる手を止め、視線を上げると、一瞬だけ驚きが過ったが、すぐにいつもの冷淡さで覆い隠した。 「四人の子どもの中で、わざわざあの病弱な子を選ぶのか」 彼は指先で机を軽く叩きながら、探るような口調で言う。「奈月、今度はまた何を企んでいる」 「信じるかどうかは勝手、署名して」 奈月は協議書を彼の前へ押しやった。 元治はペンを握ったまま空中で動きを止め、三十秒ほど経った後、いきなり身を乗り出して署名すると、ペンを机に叩きつけるように置いた。 「言ったことは必ず守れ」 …… 「奈月、元治が離婚すると言ってるって本当?」電話口から母の切羽詰まった声が聞こえる。「四人の子どもは……どうするつもりなの?」 「一人連れて行く」 奈月は淡々と答えたが、軽く丸めた指先が心の揺れを隠しきれなかった。 「一人でも連れて帰る方がいいわ」母の声は少し和らぎ、続けて言う。「男の子を連れて戻れば、いずれは小泉家の跡継ぎとして支えてくれる」 「朔真は落ち着いているし、朔矢は賢い。朔斗はやんちゃだけど愛嬌があるし……どの子にするか、もう決めたの?」 「私は朔乃を選ぶ」 電話口が突然沈黙した。 三秒の間を置き、母の声が一気に鋭くなる。 「正気なの?あの子は小さい頃から本家で育って、あなたと親しくもないのよ」 奈月は静かに目を閉じた。 母の懸念が分からないわけではなかった。 青山朔乃(あおやま さくの)は生まれた時わずか1500グラムで、退院したその日から姑に「静養が必要」との理由で抱えられ、先月になってようやく彼女のもとに戻された。 情の深さで言えば、当然ながら自分で育ててきた三人の息子には及ばない。 だが奈月だけは知っていた。この世で唯一、自分に心から寄り添ってくれるのは、この小さな娘だけだと。 前の人生で自分が亡くなった後、墓前で娘は皺だらけの御年玉を握りしめ、しゃくり上げながら泣いていた。 「ママ、お金ぜんぶあげるから、死なないでよ……」 居間の壁に掛けられた家族写真は、陽射しに晒されて少し色褪せていた。 写真の中で元治は三人の息子を抱いて穏やかに笑っている。その傍らで奈月の腕に抱かれた朔乃は、おずおずと母の服の裾を握り、笑顔もなく不安げに写っていた。 奈月はハサミを手に取り、写真を真ん中から切り裂いた。 片方には元治と三人の息子、もう片方には自分と娘。 「私は決めた」 小さな声だったが、確固たる響きを持っていた。 「もう一度よく考えなさい!」 電話の向こうで母は深く溜息をつきながら続ける。「あなたは青山家のために四つ子を産むとき、三日三晩も苦しんで、死にかけたのよ…… これだけの年月の情を、どうしてあっさり捨てられるの?」 奈月は口元を引きつらせ、瞳に涙を浮かべた。 情?かつてはあると思っていた。 幼い頃からの許婚で、幼馴染として共に育った二人。彼の心に佐々木都子(ささき とこ)がいると知りながらも、結婚してしまった。 四つ子を身ごもったとき、腹は大きく、夜には足の痙攣に枕を噛んで眠れない日々。それでも彼は「仕事が忙しい」と書斎にこもり、優しい言葉をひとつかけてはくれなかった。 長男の青山朔真(あおやま さくま)はまだ七歳なのに、眉をひそめて「ママ、パパを困らせないで」と言った。 次男の青山朔矢(あおやま さくや)は都子からもらった数学の問題集を手に、「どうして都子おばさんの方がママより賢いの?」と尋ねてきた。 三男の青山朔斗(あおやま さくと)は特に口が達者で、朔乃のお菓子を奪っては逆に「妹がまた泣いたよ、パパに叱らせるつもりだ」と言った。 ただ一人、末娘の朔乃だけが、兄たちにいじめられても大きな黒い瞳で見上げ、「ママの笑顔が一番好き」と言ってくれた。 前の人生で、四人の子の七歳の誕生日に、元治は離婚協議書を彼女の前に叩きつけた。 奈月は子どもたちを思い、どうしても首を縦に振れなかった。 「もう少し、もう少し待てば、子どもたちが大きくなれば、きっと変わるはず」そう信じて耐えた。 だが待っていたのは、彼が三人の息子を連れて海外へ飛び、都子と盛大なビーチウェディングを挙げる光景だった。 朔乃が密かに知らせてくれなければ、彼女は永遠に知らぬままだった。 慌てて駆けつけた先で目にしたのは、神父の前で熱く口づけを交わす二人。 そして三人の息子が拍手しながら叫んでいた。「パパと都子おばさん、おめでとう!」 「これからは都子おばさんが僕たちのママだ」 さらに胸を張って保証まで加えた。「パパ、安心して。家にいるあの悪いママは僕たちが縛っておく。絶対に邪魔させないから」 五人が陽射しの下で並び立つ姿は、まるで本当の家族のように親しげで、互いの顔立ちに不思議なほど似た面影さえあった。 その瞬間、奈月の世界は完全に崩れ落ちた。 問い質そうと駆け寄った彼女は、疾走する車に撥ね飛ばされた。 宙に舞う刹那、彼女の視界に映ったのは、砂浜の向こうに立つ元治と三人の息子。その目に、微塵の揺らぎもなかった。 後に知ったのは、彼女が死んで半年も経たないうちに、朔乃が母を恋しがるあまり重い病に倒れ、夢の中で「ママ」と叫びながら二度と目を開けなかったこと。 「お母さん、もう説得しないで。私の決意は固いの」 奈月は涙を拭い、声にさらなる強さを込めた。「離婚後、朔乃は唯一の子で、小泉家の唯一の後継ぎよ」 少し間を置いて、言葉を継いだ。「離婚手続きには一か月かかる。それが終わったら、朔乃を連れて雨国へ行くわ」 第2話 電話を切った瞬間、奈月の胸から石が落ちたように、全身がふっと軽くなった。 ギィ…… 部屋の扉がそっと開き、朔乃がぬいぐるみを抱いて立って、柔らかな声には期待がにじんでいた。「ママ、お誕生日パーティー、いつ始まるの?」 「朔乃、いい子ね。ママもすぐ降りるわ」奈月の声は自然と優しくなる。 部屋の隅には贈り物が山のように積まれていた。朔真のための絶版百科事典、朔矢のための限定フィギュア、朔斗が欲しがっていたスターのサイン、そして朔乃が心から望んでいた人形。 それはすべて、前の人生の記憶をもとに用意したものだった。ただ今回は、あの頃のように「ママありがとう」と言われるのを、じっと待つつもりはなかった。 階段の曲がり角に差しかかると、リビングからの会話が耳を突き刺した。 「元治、本当に私のために離婚してくれるの?」 都子の声は泣き声を帯びていた。「朔矢たち、どの子だって私には大事なのに。それに、彼女はあなたを愛しているのよ。もし離婚を拒んだら?」 「拒むものか」元治の声は冷たく硬い。「署名しなければ、君を連れて国外で結婚式を挙げるだけだ」 「都子おばさん、泣かないで!」それは朔矢の声。「僕、あの悪いママなんかと一緒に行かない」 「朔真もだ!」 「ねえ、僕たちが国外に行って、結婚式でフラワーボーイやろうよ!」朔斗が弾む声で言った。 奈月の爪は手のひらに食い込み、痛みで指先が痺れた。 前の人生で一度経験しているとはいえ、裏切りを再び目の当たりにすると、やはり胸が苦しくなる。 彼女は深く息を吸い、冷たい顔のまま角を曲がった。「誕生日パーティーを始めよう」 怯えた都子が慌てて彼女の腕を掴む。「奈月さん、私が歓迎されないのは分かってる。すぐに帰るから……」 すれ違う瞬間、都子は突然足を挫いたふりをして、奈月の腕を思い切り引いて階段へと倒れ込んだ。 「きゃっ!」 奈月の視界に映ったのは、元治と三人の息子の顔が一斉に青ざめる様子。 元治は最初、彼女に手を伸ばしかけた。だが都子の泣き声を耳にした瞬間、その手は無理やり方向を変え、都子を抱きかかえた。 天地が回転し、背中を階段に叩きつけられた激痛が爆ぜる。視界は霞み、薄れていく。 朦朧とした目に映ったのは、都子を抱いて外へ駆け出す元治と、その後を追う三人の息子。誰一人、倒れた奈月に目を向けることはなかった。 ただ一人、朔乃だけがふらつきながら駆け寄り、彼女にしがみついた。「ママ!お願い、起きて……朔乃、怖いよ」 少し離れた場所で、元治の車が走り去っていく。 三人の息子はその場に残され、焦りの色を浮かべて車の行方を見つめていた。 「都子おばさん、手から血が出てた。大丈夫かな?」朔矢が背伸びして覗く。 「僕だって一緒に行きたかったのに、パパが邪魔だって言うんだ!」朔真は不満げに声を上げた。 「あれ?朔乃が泣いてる?」 朔斗がふと角を見やり、三人はようやく地面に倒れる奈月を思い出した。慌てて走り寄り、朔乃を押しのける。 「ママ、大丈夫?僕が病院に連れて行くよ」朔矢が手を伸ばす。 朔真は目を泳がせながら言った。「ごめんママ、さっき焦って間違えただけなんだ……怒らないで」 朔斗は急いで口を挟む。「ママ、運転手に頼んで病院に行こう」 三人は声を揃えて叫ぶ。「そうだ、病院へ」 「お兄ちゃんたち、もう救急車呼んだから」 朔乃は唇を真っ白に噛みしめながら、手首のスマートウォッチを指さした。 三人の表情が一斉に曇った。 「救急車なんて遅すぎる」朔真が慌てて叫ぶ。「僕、運転手さん呼んでくる」 奈月は重いまぶたを持ち上げ、子供たちの瞳に浮かぶ焦りを見た。 胸の奥がすっと冷えた。 心配しているんじゃない。あの子たちは、都子のいる病院に行きたいだけ。 「運転手のおじさん、ママはここだよ」次の瞬間、三人が運転手を引っ張って駆け寄り、「一緒に行く」と口々に叫んだ。 「だめよ」奈月は運転手の手を借りてゆっくりと立ち上がる。「あなたたちは家に残りなさい」 真っ先に反対したのは朔矢だった。「そんなの駄目だよ。ママ、僕たちだって一緒に行って看病したい……」 「子供にできることなんてないの」奈月はうんざりしたように遮った。「行っても邪魔になるだけ」 三人はがっくりとうなだれる。 そのとき、朔乃がそっと近づき、彼女の腕を抱きしめた。「ママ、早く行って。朔乃はうちでいい子に待ってるから」 奈月は朔乃の頭を撫で、運転手を振り返らず、一人で救急車に乗り込んだ。 医師は眉を寄せながら告げる。「複数の軟部組織損傷と軽い脳震盪。二日ほど入院して様子を見ましょう」 だが、その二日のあいだ、元治も三人の息子も、一本の電話すら寄越さなかった。 毎日欠かさずかけてきたのは朔乃だけ。「ママ、痛くない?ごはんちゃんと食べてね」 夕暮れ、開け放した病室の扉から、看護師たちの噂話が流れ込んできた。 「特別病室の青山さんが、佐々木さんにすごく優しいわよね。昔、交通事故のとき佐々木さんが献血して救ったって。一目惚れだったらしいわ」 奈月の目が見開かれる。 あの日、事故現場から元治を必死で引きずり出したのは自分だ。 彼に千ミリリットルの血を捧げて、意識を失いかけたのも自分。 なのに、そのすべての功績が、どうして都子のものにすり替わっている? 彼女は目を閉じ、込み上げる怒りを無理やり押し込めた。 もういい。どうせこの人生では離れると決めた。過去の真実を暴いたところで、何の意味がある。 退院の日、通りかかった特別病室から、聞き覚えのある声が漏れてきた。 隙間から覗いた光景は、胸を抉った。元治がスープを丁寧に冷まし、都子の唇へ運んでいる。その眼差しの優しさは、見ているだけで溺れてしまいそうだった。 そして三人の息子たちがベッドの周りでてんてこ舞いだ。 一人は背中をさすり、一人は物語を読み聞かせ、一人は果物を剥き、差し出す順番を待っている。 「ただのかすり傷なのに、みんな大げさね」 都子はわざとらしく気遣うふりをして言う。「奈月さんも怪我してるんでしょ。そっちを見舞ってあげて」 「自業自得だ」元治はスプーンを止めることなく冷たく言った。「わざと君を突き飛ばしたんだ」 朔真がうなずく。「そうそう。いつも僕らとパパにべったりで、うんざりするんだ」 朔矢が唇を尖らせて吐き捨てる。「家にメイドがいるのに、わざわざ働きたがるなんて。ほんと面倒くさい」 朔斗が得意げに言い切る。「都子おばさんは違うよ!きれいで有名なデザイナーだし、ママなんかよりずっとすごい!」 都子は目の奥に満足を滲ませながらも、口ではやさしく諭す。「そんなこと言っちゃだめよ。傷ついちゃうから」 「君は本当に優しすぎる」 元治は彼女の鼻を軽くつつき、甘やかすように微笑んだ。「少し冷たくして、頭を冷やさせろ。そのうち俺が謝らせてやる」 廊下に立つ奈月の拳は震え、握りしめられていた。 そうか。自分の何年もの苦労は、この人たちにとってただの迷惑だったのだ。使用人以下の存在。 そうね、反省するべきだった。 どうして自分は、この恩知らずの家族たちに尽くしてしまったのだろう。 第3話 家に戻ると、奈月はすぐに荷造りを始めた。 棚いっぱいに詰め込まれていたアクセサリーやブランドバッグは、まとめてリユースショップへ送りつける。 それらはすべて元治が贈ったもの。前世では宝物のように大切にしていたが、今ではただの皮肉にしか見えない。 結婚前の財産はすでに公証済み。持参金と名義の不動産を信託会社に委ねれば、もう何も未練はない。 クローゼットを開けると、整然と並んだ男物と子供服が目に入り、奈月はしばし呆然とした。 ここにある一枚一枚は、彼女が父子それぞれの好みに合わせ、寸法も素材も間違えずに選んできたものばかり。 そして自分の服は、奥の隅に押しやられたほんの数着だけ。まるで自分という存在が、あってもなくてもいいもののように。 奈月は扉を閉め、娘の部屋へ向かった。 朔乃はピアノの前に座り、背筋をぴんと伸ばして練習している。響く旋律には、年齢に似つかわしくない陰りが滲んでいた。 元治が「娘を連れて出かけるのは不便だ」と口癖のように言いながら、毎週欠かさず三人の息子を乗馬に連れて行くのを思い出すと、奈月の胸は痛んだ。 「朔乃、もうやめて。ママと一緒に新しいドレスを買いに行こう」 彼女は娘の冷たい小さな手を握り、海市一番のショッピングモールへ直行した。 パーマ、メイク、衣装替え、スタイリング…… ひと通り終えると、鏡の中の奈月はまるで別人だった。 華やかな化粧が精緻な顔立ちを際立たせ、身体にぴったり合ったワンピースがしなやかなラインを美しく描き出している。 隣でふわふわのドレスを着た朔乃がくるりと回り、頬を赤らめて言った。「ママ、お姫様みたい」 「うちの朔乃こそお姫様よ」奈月はその頬をつまむ。「さ、屋上の回転レストランで美味しいものを食べよう」 二人が店に入ると、見慣れた姿が目に飛び込んできた。 窓際の席に、元治が都子と三人の息子を連れて座っている。 奈月の装いはあまりにも人目を引き、瞬く間に場の視線をさらった。 元治の手が不意に止まり、視線がぶつかると喉仏がごくりと動く。 「ママ?」 息子たちが先に声を上げ、目を丸くした。 元治は無言のまま、彼女から目を離せないように、視線を鎖骨から腰のラインへとすべらせ、慌てて逸らす。 都子は指先を手のひらに食い込ませながら、顔には作り笑いを浮かべた。「奈月さん、どうしてここに?まさか尾行してきたんじゃないね」 「そうだよ」朔真がすぐさま同調し、幼い顔に敵意を浮かべる。 元治は我に返ると、冷たい表情を作りながらも声はどこか乱れていた。「俺たちはもう離婚するんだ。まだ何をしたいんだ」 言ってから強すぎたと気づき、咳払いして付け加える。「まさか……そんな格好をすれば、俺が気持ちを変えるとでも思ったのか?」 奈月は怯える朔乃を抱きしめ、背を撫でて落ち着かせながら顔を上げた。瞳の奥には冷たい光が宿っている。 「尾行って?娘と食事に来ただけ。偶然よ」 そう言って空いている席へ歩こうとし、もう彼らに目を向けることもなかった。 だが元治の視線は彼女に引っかかり、都子に話しかけられても上の空だった。 その様子を見た都子はワイングラスを手に立ち上がり、奈月の席に近づいた。 「奈月さん、先日はうっかり転んで、あなたまで怪我をさせてしまって、本当に申し訳なかったわ。この一杯でお詫びを」 言い終える前に手首をひねり、真紅のワインを奈月のドレスに派手に浴びせかけた。 「ママ」 朔乃が叫んで飛びつく。 「ごめんなさいわざとじゃないの」 慌てて紙ナプキンを掴み、顔を寄せた都子は、二人にしか聞こえない声で低く囁いた。 「今日気づいたけど、娘さんって本当にかわいいわね。元治はもう承諾したのよ。少し大きくなったら、私の実家に連れていって甥の嫁にしてあげるって」 奈月の瞳孔が縮み、全身を冷気が駆け上がる。 考えるより早く、彼女は都子を突き飛ばしていた。 彼女はそれを待っていたかのように、横のワゴンへ倒れ込み、熱々のスープが腕にかかった。 「きゃあっ……痛い!」 都子は悲鳴とともに涙が溢れ出す。 「都子」 元治は駆け寄り、赤く腫れ上がった腕を見るなり彼女を抱き上げた。「すぐ病院に連れて行く!」 「甥の嫁」という言葉に奈月はいまだ打ちのめされたまま、彼が立ち去ろうとするのを見て咄嗟に腕をつかんだ。 「佐々木の言ったことは本当なの?朔乃を佐々木家の嫁に差し出すつもりなの?」 彼は苛立たしげに振り払い、冷たく言い放つ。「朔乃は体が弱い。佐々木家がもらってくれるなら幸運だ」 元治は周囲の視線が集まるのを感じ、眉間の皺を深める。 「こんな人前で騒ぎ立てて、母親の自覚はないのか?少しは分別を持て!」 奈月は唇を噛みしめ、血の味を覚えてようやく力を緩めると、絞り出すように言った。 「私は朔乃の実の母親よ。こんな大事なこと、どうして私に相談しないの」 彼を見上げる瞳から光がひとつひとつ消えていく。「元治、私は絶対に許さない」 その沈んだ暗闇を見て、彼は理由もなく苛立ちを覚えた。 思わず眉を寄せ、声がわずかに和らぐ。「どういう意味だ?」 「離婚したら一人子供を連れて行っていいって、あなたが約束した」奈月は噛みしめるように言い放つ。「だから私は必ず朔乃を連れて行く」 「ママ……じゃあ、僕たちのことはもういらないの?」 三人の息子がそろって声を上げ、今にも泣き出しそうな顔で彼女を見つめる。 第4話 奈月の喉まで出かかった言葉は、目の前の数人に完全に塞がれてしまった。 元治は煩わしそうな表情を浮かべながらも、指先はかすかに身側で縮こまる。「誰を選ぶかは君の自由だ。それに急ぐことでもない」 少し間を置き、わざと腕を高く上げて都子を抱き締め、声に軽蔑を混ぜた。 「ここで拗ねて言うことじゃない。離婚届を出すその日にはっきりする」 彼の目の奥にある「また拗ねているだけだ」という確信めいた色を見て、奈月は全身の力が抜けていくのを感じた。 たとえ心臓を差し出しても、彼にとってはまた注意を引くための芝居でしかないのだ。 彼女が深く息を吸い込み、長い間胸の奥に押し込んでいた問いをついに吐き出した。 「もしあの時、あなたを救ったのが私だったら、同じようにしてくれた?」 「もしもなんてない」元治は振り向きもせず言い捨てた。「俺が愛しているのは都子だ。恩など関係ない。どけ、彼女を病院へ連れて行く」 奈月を押しのけ、彼は都子を抱いたまま大股で去っていく。 その言葉は、奈月が抱いていた最後の望みを完全に踏み砕いた。 その後数日、三人の息子たちはまるで人が変わったように、ありとあらゆる方法で彼女を喜ばせようとした。 朔真が差し出したお粥は、わざとらしく彼女の整理した契約書にこぼれ、朔矢がりんごを剥けば、刃先は危うく彼女の手を切りそうになり、朔斗は彼女のビデオ会議に突入して大声で歌い、頭痛を引き起こす。 奈月は冷ややかに見守った。 前の人生では、こうした「子供の無邪気な過ち」に騙され、彼らはまだ幼い、いつか理解してくれると信じていた。 だが突き落とされてから悟った。根から歪んでいる性質は、決して正されることはない。 離婚の証拠を探そうと、リビングの監視カメラを開いたとき、映った光景に指先がきゅっと縮んだ。 三人の息子はカーペットに集まり、頭を突き合わせてひそひそと話している。幼い顔には計算高さが浮かんでいた。 「ママ、僕たちがわざとだって気づかないかな?」朔矢が眉を寄せる。 「まさか。僕たちは実の息子だよ」朔真が白い目を向ける。「都子おばさんが言ってた。女はみんなこういうのに弱いって」 「都子おばさんの甥っ子は頭が弱いけど、占い師が朔乃なら抑えられるって言ったんだ」朔矢が声を潜める。「朔乃がいなくなれば、ママは僕たちしか選べない」 「でももしママが僕たちの誰かを選んだら?」朔斗は顔をしかめる。「僕、ママと行きたくない」 「バカだな!」 朔真が頭を小突く。「仮に選ばれたって、しばらくしたら、泣きながらパパに言えばいいんだ。ママが叩いたとか、ご飯をくれなかったとか。そうすればパパはすぐ迎えに来る」 「そうすればずっとパパと都子おばさんと一緒にいられる!」 画面の中で三人が嬉しそうにハイタッチするのを見て、奈月は笑い出した。だが笑ううちに、目尻が赤く染まっていく。 やはり、彼らに期待するべきではなかった。 だが今はまだ明かすわけにはいかない。こんな甘やかされた性格なら、逆恨みして朔乃に危害を加えかねない。 やがて三人は満足そうに散り、足音が彼女の部屋に近づいてきた。 奈月は深呼吸して感情を押し殺し、静かに待ち構える。 真っ先に飛び込んできたのは朔真だった。大きな瞳にわざとらしい哀願を浮かべる。「ママ、家にいるのは退屈だよ。僕たちと一緒に乗馬しよう?」 彼は奈月の衣服の裾を引っ張る。「もう長い間、一緒に遊んでくれなかったでしょ」 三人の瞳に隠しきれない切迫を見て、奈月は内心で冷笑した。 母は子を知る。彼らの狙いは乗馬ではなく、馬場でデート中の元治と都子だ。 隣の部屋で人形を抱いて眠る朔乃を見やり、念入りに家政婦に任せてから、奈月は三人の息子を連れて出かけた。 スター乗馬場は子供たちの三歳の誕生日に元治が贈ったもので、普段は一般に開放されていない。 乗馬服に着替えて入ると、遠くに栗毛の馬を引く彼と、その馬にまたがる都子の姿が見える。彼の手は腰に添えるように宙を彷徨っていた。 元治の目がこちらに向き、曇りを帯びる。 彼は歩み寄り、奈月の鞭に結ばれたお守りに気づくと一瞬止まった。 それは奈月がかつて祈って手に入れたもの。彼は「ダサい」と言いながらも、書斎にずっと掛けていた。 「離婚を決めたなら、これ以上邪魔をするな。仮に後悔したとしても……」 「青山さん、勘違いしないで」奈月が冷ややかに遮った。 都子は目を細め、わざと優しく言う。「元治、そんな言い方しないで。奈月さんはあなたに四人も子供を産んでくれたんだから。たとえ……縁が尽きても、情くらい残すべきじゃない?」 その言葉の途中で、三人の息子が一斉に奈月にまとわりつき、口々に叫ぶ。 「ママ、悲しまないで!僕たちがいる!」 「ママを一番大好きだよ、これからずっと守るから」 その小さな顔には心からの心配はなく、誰かに見せるための芝居にしか映らない。 奈月はこの茶番に付き合う気もなく、背を向けた。だが手首を朔真に強くつかまれる。 「ママ、覚えてる?僕に馬術を教えてくれた時、馬術大会で優勝させてくれるって言ったでしょ?」 奈月の胸に鋭い痛みが走った。 あれは去年のこと。彼女は笑って「必ず行く」と約束した。 だが大会当日、高熱で倒れていた彼女を置いて、元治は三人の息子を連れて都子のデザイン展へ行き、電話さえ寄越さなかった。 元治の視線が、掴まれた袖口に落ちる。喉がごくりと鳴り、低く声を響かせた。「もういい」 彼は奈月に視線を向け、張り詰めた気配を滲ませる。「今日わざわざ子供たちを連れてここまで追ってきて、いったい何をするつもりだ」 奈月が答える前に、朔斗が顔を上げて問いかける。 「ママ、本当にパパと離婚するの?本当に……朔乃だけ連れて行くの?」 彼らのあからさまな焦りを見て、奈月の口元がふっと吊り上がった。わざとゆっくりと声を伸ばす。 「もちろん……」 第5話 「もちろん、離婚届を出すその日にならなければ分からない」 奈月はわざと悩ましげにため息をついた。 視線の端で、三人の息子の顔が一斉にしょんぼりと落ち、つられて元治と都子の表情も険しくなる。 この光景に、奈月の胸の奥にひそかな愉悦がわき上がった。 前世の彼女は彼らに結託して騙され、家という牢獄に囚われ、命の最後の火を燃やし尽くした。いま彼らが覚えるわずかな不安など、利息にすぎない。 まもなくスタッフが彼女の愛馬「フロスト」を引いてきた。 純白のアラブ馬は首を高く掲げ尾を振り、陽光を浴びた銀のたてがみが輝く。立ち止まると、奈月の手のひらに甘えるように鼻先をすり寄せた。 都子の瞳が一瞬明るくなり、羨ましげに言う。「本当に綺麗。私にもこんなサラブレッドがあったらいいのに」 そう言うなり、彼女は直接手を伸ばし馬の首に触れようとした。 奈月の目が鋭く細まる。 フロストは父が亡くなる前、国外からわざわざ取り寄せた馬。気性が激しく、彼女と長年世話してきたスタッフ以外が近づけば即座に荒れる。 ヒヒーン―― 案の定、フロストは前脚を大きく上げ、鼻息を荒く噴きかけた。 「都子、危ない」 元治が素早く腕を伸ばし、彼女を抱き寄せて庇う。その顔は硬い。 奈月は急ぎ馬の頭を押さえ、低く宥める。「フロスト、大丈夫よ。落ち着いて、いい子」 馬のいななきは収まったが、前脚で地を掘りながら、都子を鋭く睨み続ける。 都子は恐怖で顔面蒼白になり、元治の胸に飛び込み震えた。 「畜生め、人を傷つけようとするとは!」元治の怒りが弾け、スタッフに手を振る。「この馬を屠畜場に送れ」 「触ってみろ!」 奈月が振り返って、瞳は血走っていた。 震える手で馬鞭を握りしめる。「元治、これは父が残した最後の形見よ!フロストに手を出すなら、まず私を踏み越えていけ」 空気が一瞬で張り詰める。 元治は初めて彼女のこの姿を見て、胸の奥が妙に締めつけられる。 何か言いかけたその時、都子が袖をそっと引く。 「元治、いいの。怪我してない。私のことで夫婦仲を壊さないで」 「夫婦仲?」 元治は鼻で笑い、奈月の固く結んだ唇を見やって冷たく言い放つ。「こいつに語る資格などあるか」 だが、振り上げていた手はそっと下ろされていた。 すぐさま三人の息子が寄ってくる。 朔斗が拳を握りしめ、フロストを睨みつけた。「君のせいだ。都子おばさんを怖がらせて」 奈月はその義憤ぶった姿を見て、ただただ滑稽に思えた。 ほんの数分前は「ママを一生守る」と言っていたのに、今は外の女のために母を敵視する。 「ママ、パパは怒りすぎただけだよ」 朔真がいち早く取り繕い、裾を引きながら媚びた笑顔を浮かべる。 「スタッフを呼んで、フロストを厩舎に戻そうよ?」 その胸中には計画があった。馬さえ片付けば、ママはパパと喧嘩しなくなるし、都子おばさんがまた最新のトランスフォーマーを買ってくれる。 奈月は三人の息子の思惑に満ちた顔を見て、胸の奥が鋭く突き刺された。 自ら産み落とした子なのに、その瞳に潜む打算は、元治の冷酷さ以上に彼女を凍えさせた。 彼女が自らフロストを引こうとした時、都子が行く手を遮った。 「奈月さん、話があるの」 元治に水を取りにやらせると、都子はたちまち弱々しい仮面を剥ぎ捨て、眼中には傲慢な色が滲む。「この馬、気に入ったわ。値段を言いなさい」 「売らない」 奈月の声は揺れない。 「調子に乗らないで」 都子はポケットから鋭い針を取り出し、指先で弄ぶ。 「元治が本当にあなたを気にかけてるとでも?さっき私を庇ったのは、あなたが分別のない女だからよ。 大人しく馬を渡せばいい。でなきゃ、この馬を肉塊にして、そしてどう誤って私を傷つけるか、じっくり見せてあげる」 奈月の心が深く沈む。 先ほどの「こいつに語る資格などあるか」という言葉、そして子供たちが「都子おばさんが一番」とはしゃぐ姿が脳裏に蘇り、全身を寒気が走った。 返す間もなく、都子は奈月の隙を突き、針をフロストの腹に突き立てた。 ヒヒーン! フロストが苦痛に狂い、暴れ出す。 「痛い」 都子が蹴られ、地面に転がり悲鳴を上げた。 暴走する馬が踏みつけようとした瞬間、奈月は反射的に飛び乗り、必死に手綱を握る。「フロスト!落ち着いて」 「奈月、気でも違ったか!」 元治の怒声が轟き、鞭を振り下ろした。「都子を殺す気か」 激しい一撃にフロストは完全に制御を失い、跳ね回る。 奈月は振り落とされそうになりながらも、必死に手綱を離さない。 その危うい姿に、元治の瞳に緊張が走った。 思わず駆け出しかけた彼の足を、都子の泣き声が引き止める。 その時ようやくスタッフが駆け寄り、特製の縄で馬を縛り上げ、麻酔を打ち込んだ。 ドスンと鈍い音を立て、フロストは泡を吹きながら倒れ、痙攣を繰り返す。 奈月は転がるように落馬し、立ち上がった瞬間、耳に飛び込んできたのは都子の泣き声だった。 「元治、奈月さんを責めないで……嫉妬しただけよ、私は気にしないから……」 そう言いながら、都子が首を傾けてそのまま気を失う。 元治は呼吸を確かめて安堵した瞬間、再び怒りを燃やした。 彼女を抱きかかえ、冷たい目で奈月を睨む。「都子はこんな状態でも君を庇ってるんだぞ。いい加減にしろ! 誰か、彼女を反省室に閉じ込めろ。俺の命令があるまで……」 言葉を言い切る前に、馬小屋の方から騒がしい音が響いた。 奈月がそちらを振り返ると、その顔色が一気に変わった。 第6話 馬小屋の方からの騒ぎがどんどん近づいてきた。朔真、朔矢、朔斗が、それぞれ小馬に乗って狂ったように駆け出してくるのが見えた。 「ママ!助けて!」 三人の子供の顔は恐怖に覆われ、奈月の方へ必死に駆けてくる。小さな体は馬の背で揺れ、今にも振り落とされそうな危うさだった。 奈月の心臓が一気に締め付けられ、本能のままに駆け出した。 身ごもって産んだ子供たち。さっきその計算高さを見せつけられたばかりでも、この瞬間は他のことなど考えていられない。 だが、距離が縮まるにつれ、彼女の瞳孔は強く収縮した。 三人の口元に浮かんだ一瞬の得意げな笑みは奈月の視界に突き刺さった。 それは、仕組まれた罠が成功した笑みだった。 もう身を翻すには遅すぎた。 ギシッ―― 朔真が乗る小馬が先に突進し、馬蹄が風を切って彼女の胸を激しく踏み抜いた。 バキッと骨が砕ける音とともに、激痛が爆ぜ、奈月の体は宙に弾かれ、芝生に叩きつけられた。 息をつく間もなく、朔矢と朔斗の馬も次々に突っ込み、無情に馬蹄で彼女の体を踏みつけた。 彼女が芝生に伏せたまま、口から血を吐き、下の草を真っ赤に染めていく。 視界は霞み、耳元の風の音さえ遠のいていった。 朦朧とする意識の中で、元治の声が聞こえた。どこか自分でも気づかぬ焦りを帯びていた。 「君たち、やりすぎだ!奈月は何だかんだ言っても母親だぞ……」 都子がすかさず柔らかく遮る。「子供なんて分かってないのよ。私のために怒ってくれたのは嬉しいけど、もし怪我でもしたら私こそ心配でたまらないわ」 「だって、あの女が都子おばさんをいじめるのが我慢できなかった」 朔真の声には子供らしからぬ憎悪がこもっていた。「罰を与えなきゃ気が済まないんだ」 「都子おばさん、僕たち、前から話し合ってたんだ」 朔矢の声は冷たく、まるで子供とは思えない。「毎日この女の相手をするのは面倒だ。大怪我して入院すれば、目障りじゃなくなるし、しばらく静かになる」 朔斗が続ける。幼い声なのに、妙に確信めいていた。「それにね、僕たち聞いちゃったんだ。パパと都子おばさんの話を。 僕たち三人は、パパと都子おばさんの受精卵を、彼女のお腹に入れたから生まれたんだって。本当の子供は朔乃だけ。 僕たちとパパ、都子おばさんこそが、本当の家族なんだよ」 ブンと奈月の頭が真っ白になる。 これまで分からなかったことが、すべて繋がった。 なぜ夫婦生活は普通なのに、急に体外受精を強いられたのか。 なぜ四つ子の中で朔乃だけが冷遇されたのか。 なぜ元治は平然と朔乃をバカの許婚に差し出せたのか。 なぜ三人の息子が母親である自分を憎み、都子に懐いたのか。 すべての理由はこれだった。自分と朔乃こそ、この家の徹底的な部外者だ。 奈月は必死に立ち上がって問いただそうとするが、重傷の体は指一本動かすこともできない。 全身の激痛と心の底から湧き上がる憎しみが絡み合い、彼女を引き裂こうとする。 ついに視界が闇に閉ざされ、意識は完全に途絶えた。 どれほど時間が経ったのか分からない。激痛に目を覚ますと、自分が全身を包帯でぐるぐる巻きにされ、病院のベッドに横たわっていることに気づいた。 身体を襲う痛みが、あれが夢ではなかったと告げていた。 自分で育て上げた三人の息子が、自分の子ではなかったことも。 その時、病室のドアがそっと開いた。 入ってきたのは三人の息子。顔には「心配そうな」笑みを浮かべている。 「ママ、目が覚めたんだ!よかった」 朔真が一番にベッドへ駆け寄り、小さな体で彼女に飛び込んだ。未だ癒えきらぬ傷口が裂け、耐え難い痛みに汗が噴き出す。 「ごめんね、ママ、僕たちが悪いんだ。僕たちを守ってくれたから、こんなに怪我したんだよね」 朔矢は勝手に手に持った箱を開け、ぜんまい仕掛けのカエルのおもちゃを取り出すと、彼女の胸の上に置いた。ぜんまいを巻くと、カエルは傷口の上でピョンピョン跳ねた。 「ほら、わざわざプレゼント作ってきたんだ。ママへのお詫びだよ」 痛みが胸に広がり、奈月はまた吐血しそうになる。 「ママはゆっくり治してね。僕たちが妹をちゃんと守るから」 朔斗がそう言いながら、彼女のギプスで固められた右手にどすんと腰を下ろした。 骨まで突き刺さる痛みで、視界が真っ暗になる。 彼女は彼らの偽りの優しさを見ながら、嘲笑う気力すらなく、ただその看病という名の拷問を受けるしかなかった。 三人の子供の、心配を装いながらも一歩ずつ追い詰めてくる残酷な仕打ちの中で、奈月は期待通りに再び気を失った。 次に目を覚ましたのは三日後だ。 病室の灯りが眩しく、思わず目を細める。奈月は身を少し動かすだけで、鋭い痛みが全身を駆け巡る。 だがまだ生きている。 生きている限り、希望はある。 ベッドサイドには温かい牛乳と、一枚の絵が置かれていた。 それは朔乃の描いたもので、よれよれの二人の人物が手をつなぎ、その横に「ママ、早く元気になって」と書かれていた。 胸の奥に温もりが芽生えかけたその時、病室のドアが勢いよく開け放たれた。 第7話 都子がハイヒールを鳴らしながら入ってきた。華やかな装いと、全身を包帯で覆われて目だけを覗かせる奈月との対比は、あまりに残酷で眩しかった。 「ふん、しぶといわね。これでまだ死なないなんて」 ベッドの周りを半周し、嘲りを口にする。「医者はね、下半身はもうダメだって言ってたわ。一生立ち上がれないそうよ。 ねえ、この姿を元治が見たら、ますます私の方を大事にすると思わない?」 奈月は目を閉じたまま、何も言わなかった。 「まだ知らないでしょ?」 都子は耳元に顔を寄せ、香水と悪意の匂いをまとわせて囁いた。「あなたが昏睡していた間、元治は毎日、片時も離れず私のそばにいたの。 あなたの息子たちは、毎日交代で私にお話を聞かせてくれたり、ご飯を食べさせてくれたり。本当の母親より、よっぽど優しいのよ」 彼女はくすりと笑い、奈月の包帯に覆われた腕を指で突いた。 「そうそう、フロストって名前の馬、もう二度と見られないわよ。 元治は私が馬肉を食べたことがないって聞いて、その場で馬を殺したんだ。煮込んだ肉が美味しい、残念ね、あなたは味わえないけど」 「ブンッ」奈月の目が弾けるように開いた。 沈黙していた瞳に嵐が巻き起こり、どこから湧いたのか分からぬ力で、彼女は都子を突き飛ばした。 「きゃっ!」 不意を突かれた都子はよろめき、腰を椅子にぶつけて顔を歪める。 「この役立たずが手を出すなんて!」 腰を押さえながら立ち上がり、奈月へ飛びかかる。ハイヒールの先を鋭く彼女の脚へと振り上げた。 「今日こそ殺してやる」 「やめなさい」 駆けつけた看護師は、都子が脚を上げて蹴り込もうとする瞬間を目撃し、鋭く叱責した。「ここは病院です」 都子の足が空中で止まり、次の瞬間には腕を抱えて目に涙を浮かべ、いかにも傷ついたふうに言う。 「わ、私はただ水を飲ませようとしただけなのに、奈月さんが誤解して、私を突き飛ばしたの」 看護師は疑わしげに奈月を見たが、彼女は唇を固く閉ざし、包帯の下の胸が激しく上下するだけだった。 結局、看護師はそれ以上問わず、「病院内では静かにしてください」と注意して、医者を呼びに出て行った。 都子は奈月を一瞥し、スカートを整えて悔しそうに部屋を後にした。 その後、医者が検査に来て、深いため息をついた。「小泉さん、腰椎の損傷は想像以上に深刻です。これから先、立ち上がるのは難しいでしょう」 奈月は天井を見つめ、静かに答えた。「分かりました」 誰も気づかなかった。布団の下で、彼女の手はボディーガードが夜明けに届けてくれたメモを強く握りしめている。 それは彼女がボディーガードに命じて夜を徹して探させた手がかりだ。数年前に引退した名医・野原京介(のはら きょうすけ)の居場所。 前の人生で古い雑誌の記事でその存在を知った。京介は西洋医学でも匙を投げる難病を治すと伝えられる人物だ。 その後の半月、元治は二度だけ姿を見せた。 一度目は、わずかな罪悪感を宿した瞳で保温ポットを手にして来た。「大田(おおだ)さんに頼んで特別にスープを作ってもらった」 奈月が顔を背けると、彼は黙ってスープを置き、数分の沈黙の後に出て行った。 ドアの向こうでボディーガードに言う声が聞こえた。「奥さんをしっかり見張れ。都子を二度と近づけるな」 二度目は、健康食品を山ほど持ってきた時だった。 だが彼が帰るや否や、奈月は冷たくボディーガードに命じた。「捨てて」 彼に捧げてきた想いもろとも、ゴミ箱に投げ捨てた。 退院の日はちょうど、離婚届を出す約束の日だ。 奈月は元治に電話をかけた。「十時、役所で。離婚届を出すわ」 受話器の向こうで三秒の沈黙があり、その後、嘲るような笑いが響いた。「は……安心しろよ。この芝居をしたいなら、最後まで付き合ってやる」 言い終えるか終えないかのうちに、電話は切られた。 こんな時でも、あの男はまだ彼女の離婚を単なる芝居だと思っている。 電話が切れた瞬間、病室の外にざわめきが聞こえた。 「ねえ、ママ、今日本当に離婚届出しに行くのかな?パパが確かめに来いって言ったんでしょ?一緒に行かせるって、本当に朔乃を連れて行くの?」 朔真は困った顔をして、手には都子からもらった最新ゲーム機を弄んでいた。 「絶対に朔乃じゃないわ。女の子だし、体も弱いし、僕たちほど賢くないから」 朔矢の口調は相変わらず老成していた。 「じゃあ、きっと私たちのうちの一人を選ぶんだね」 朔斗が続け、顔には不満が漂う。「都子おばさんが言うには、ママと一緒に行くとディズニーに行けなくなるんだって」 三人は悲しい顔でベッドの前に歩み寄る。 「ママ、退院するのを迎えに来たよ。パパが離婚届を出す場所で待ってるって。僕たちも一緒に行くんだって」 奈月が沈黙していると、朔矢が焦って言った。「ママ、パパに見抜かれたんじゃないの?本当は離婚したいわけじゃないんでしょ?」 「そうだよ」朔真もすぐに口を挟む。「パパ、全然ママのこと好きじゃないと思う。だから離れた方がいいよ」 「どっちを選んでも、僕たちが守るから」 奈月は三人の焦った顔を見て、思わず笑みがこぼれた。 何を根拠に、彼女が都子に洗脳されたこの三人の中から一人を選ぶと思っているのか。 「安心しなさい」奈月の口調は異様に固い。「離婚すると決めたら、絶対に後悔しない」 言わなかったのは、この三人の中から、一人も選ばないということだ。 三人は互いに目を合わせ、肩の力を抜いた。 奈月は先に彼らを役所に送らせ、自分は病室で小泉家の人間を待つ。 しばらくすると、病室の扉が押し開かれ、数十人の黒服のボディーガードが整列して入って、揃って頭を下げる。「お嬢様、奥様が迎えに来いと仰せです」 奈月はボディーガードに支えられ、なんと車椅子からしっかりと立ち上がった。 「行こう」 役所へ向かう途中、奈月は母からのメッセージを受け取った。 【奈月、安心して。朔乃はもう迎えに行ったから。役所の前で待ってるわ。空港まで連れて行くから】 奈月は目を閉じ、再び開いた時、瞳の奥に沈んでいた静寂は消え、鋭い光だけが残った。 役所には、元治が高級スーツに身を包み、白いドレスの都子を親しげに抱き寄せて立っていた。 知らない者が見たら、婚姻届を出しに来た新郎新婦だと思うだろう。 「元治、今日、婚姻届を出すの、本当に大丈夫?」 元治は彼女の額に優しく口づけし、柔らかい声で言った。 「父さんが脅していなければ、奈月と結婚しなかった。長い間待たせたね、そろそろ正式に籍を入れるべき時だ。 早く君と結婚したくてたまらなかった」 都子は彼の腕の中で恥じらうように笑ったが、目の端でしっかりと入り口を睨んでいた。 「どうやら、来たのはちょうど良いタイミングだったようね」 奈月の声が響くと、役所の中は一瞬で静まり返った。 彼女は鮮やかな赤いドレスに身を包み、長い髪をまとめ、優雅な首を見せている。 退院したばかりだというのに、もっと美しくなった。 都子の顔色はみるみる変わり、思わず叫ぶ。「どうして、立てるの?」 元治の視線が奈月に落ち、一瞬目を奪われた。 「元治、離婚届を出すのよ」都子は慌てて彼の袖を引っ張った。 判子が押され、二人の八年に及ぶ結婚生活は終わった。 都子はほっとした表情で、三人の息子を奈月の前に押し出した。「さあ、今度こそ正直に言えるでしょ。どの子を連れて行くの?」 その時、奈月の母が朔乃の手を引き、堂々と入ってきた。 女の子はピンクのプリンセスドレスを着て、奈月を見ると小走りで飛び込んできた。「ママ!」 奈月は膝を曲げて娘を抱きしめた。そして立ち上がり、朔乃の小さな手を握り、口元に微笑を浮かべた。 「最初から最後まで、私が選ぶのは朔乃だけ」