Đang tải thông tin quảng bá...
過ぎゆく日々に背を向けず
林恵(はやし めぐみ)は三年間付き合ってきた恋人に裏切られた。 彼がひざまずいて、差し出した婚約指輪の相手は、よりによって彼女の実の姉...
Chương (1)
第1章
林恵(はやし めぐみ)は三年間付き合ってきた恋人に裏切られた。
彼がひざまずいて、差し出した婚約指輪の相手は、よりによって彼女の実の姉――
その日、恋人はレストランを丸ごと貸し切り、姉のためにサプライズのプロポーズを準備していた。
その光景を恵は偶然目撃してしまった。
普通なら、心を引き裂かれ、涙を堪えてその場を逃げ出すところだろう。
だが――「私を裏切ったのは彼。恥じるべきは、裏切ったあの男のほうよ!」
そう心に決めた恵は、屈辱を呑み込む代わりに真っ向から立ち向かう決意をした。
逃げるのではなく、堂々とその場に踏み込み、裏切りを白日の下にさらすために――
第1話
「君の病気をこれ以上放っておいたら、本当に手遅れになる。
たかが男のために命まで投げ出すなんて、絶対にだめだ」
「病院も実力トップの医師も全部手配したし、来てくれさえすれば、すぐにでも入院できる」
車がひっきりなしに行き交う街角で、林恵(はやし めぐみ)は携帯を握りしめ、視線を西洋レストランの窓辺に注いだ。
そこには、一組の男女が仲睦まじく寄り添っている。
「恵!
お願いだから恋に溺れるのはやめて、自分のことを第一に考えてくれ――」
「わかってる。
一週間だけ時間をちょうだい。
一週間後には必ず治療を受けに行く」
受話器の向こうで、佐野真也(さの しんや)は息を呑むように絶句した。
「ほ、本当か......?」
「ええ、ようやく気づいたの。
あんなくだらない男のために、身体を壊すわけにはいかないって」
出国の日程を確認すると、恵はそれ以上言葉を交わす気になれず、電話を切った。
窓の中、あの二人はまだふざけ合っていた。
ステーキを口に運び合い、同じストローを使っては笑い合っていた。
そこにいたのは、三年間付き合い、結婚の話まで出ていた恋人――千葉明(ちば あきら)。
そして、幼い頃から何でも話してきた実の姉――林華(はやし はな)。
今日は恵の二十四歳の誕生日。
だがその恋人は、姉のために一方的に彼女との関係を終わらせたのだ。
滑稽なことに、ほんの半月前には彼女を抱き寄せ、「結婚してくれるか?誕生日にプロポーズしてもいい?」と甘い声で尋ねていた。
すでに婚約指輪も用意し、自分がうなずけば明日にでも式を挙げられる、とまで言っていたのに。
その男は今や「ただ一人を愛す」と口にしていた言葉を裏切り、別の女を抱きしめて優しい言葉をささやいている。
SNSを開けば、華の最新の投稿が目に飛び込んだ。
そこにはダイヤの指輪の写真。
【やっと一生を託せる人に出会えました。祝福していただけたら嬉しいです】
余計な飾りもない簡潔な文面。
つまり、明は華にプロポーズしたのだ。
恵の誕生日に。
彼女が白血病を宣告された、わずか一か月後だった。
スマホの通知音が鳴り、ラインに新しいメッセージが届いた。
送り主は華。
十二秒の音声。
再生ボタンを押し、耳に当てると、周囲のクラクションの音さえ遠のいていった。
聞こえてきたのは、恋人の声だった。
「華、愛してる。
一生大切にするから」
一日中繋がらなかった電話で嫌な予感はしていた。
けれど、裏切りの相手がよりによって姉だったことで、心の中の何かが音を立てて崩れ落ちた。
それでも恵は不思議と冷静だった。
激しい痛みはなく、ただ凍りついたように立ち尽くしていた。
けれど三年の歳月にけじめをつけるため、彼女は歩を進め、店のドアを押し開けた。
「申し訳ありません、本日は貸切となっておりまして......」
「食事じゃないわ。
人を探してるの」
恵は窓際を指さした。
「ほら、あの二人」
薔薇の花びらでハート型が描かれ、壁には赤い風船で「marry me」の文字。
クラシカルな店内に不釣り合いな装飾は、華やかさよりも滑稽さを際立たせていた。
思わず、恵の口元に笑みが浮かぶ。
入口のざわめきに気づいたのか、二人が同時に顔を上げた。
恵の姿を確認した瞬間――
「め、恵......どうしてここに」
明の視線は泳いでいた。浮気現場を押さえられた男そのものであった。
一方の華は、一瞬だけ狼狽したが、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
恵は二人の反応を見ながら歩み寄り、椅子を引いて腰を下ろした。
口元に冷たい笑みを浮かべて言い放つ。
「なるほどね。
私の誕生日を祝うはずだった恋人と姉が、私抜きでずいぶん楽しそうにしてるじゃない」
第2話
そう吐き捨てると、恵は二人の返事も待たず、まるで何事もなかったかのように、テーブルの上に置かれた婚約ケーキを取り上げ、自分で切って口に運んだ。
「ちょうど注文を終えたところでね、これから君に電話しようとしてたんだ、はは......」
明は慌てて言い繕い、同時に視線でウェイターに合図し、派手すぎる飾り付けを片づけさせようとした。
その態度に華の怒りは爆発した。
もともと甲高い声が、怒気を含んで耳をつんざく。
「明!
何を怖がるの?
もうプロポーズまで済ませたのに、隠す必要なんてないでしょう!」
言い終わるや否や、華は明の手を堂々と取り、薬指に光るダイヤをこれ見よがしに突き出した。
「恵、SNSは見たでしょ?
私が送った音声も聞いたはず。
そうよ、私と明はもう一緒になったの。
結婚式だって一週間後に決まってるのよ!」
――一週間後?
奇遇なことに、それは恵が海外へ旅立つ日だった。
ちょうどいい、二人の晴れ舞台を見なくて済む。
胸糞悪い光景に目を汚されることもない。
「まあ、おめでとう。
子宝にも恵まれますように」
淡々と口にしながら、恵はケーキを一口、さらにもう一口と口に運ぶ。
もともと体が強くないうえ、白血病の診断を受けてからは、低血糖の発作にたびたび襲われていた。
今日も誕生日祝いのディナーを彼と一緒に食べるため、ほとんど食事を摂らずに待っていた。
今、ここで腹に入れておかねば、本当に倒れかねない――そしてそんな姿を、この裏切り者たちに笑いものにされ、挙句「当たり屋だ」と通報されるのが関の山だ。
恵が取り乱す気配を見せないことに、明は眉を寄せ、何か言いかけては飲み込み、代わりにウェイターを呼んでカトラリーとフルーツサラダを注文し、彼女の前に置いた。
「恵、ゆっくり食べな」
その声は、かつてと変わらぬ甘さを帯びていた。
恵は危うく口の中のケーキを吹き出しそうになり、思わず皮肉を言いかけた。
だがその声を、華が上書きする。
「明!
どういう態度なの?
忘れないで、今のあなたの婚約者は私よ!」
「それにあんた!
何を食べてるの!
これは私と明の婚約ケーキよ!
よくものうのうと口にできるわね!」
言い終えると華は手を振り上げ、テーブルのケーキも、ウェイターが持ってきたばかりのサラダも、まとめて床に叩き落とした。
散らばる食べ物を見つめ、恵はほんのわずかに惜しむ色を浮かべ、次いで口元をナプキンで拭った。
「裏切りの現場も確認できたし、食事も終わったわ。
ご馳走さま」
そう言ってバッグから二千円を取り出し、テーブルに置いた。
「これは食事代。
家にある荷物は早めに片づける。
あなたたちの結婚式の前には必ず出て行くから、心配しないで」
席を立とうとした瞬間、明に手首を強く掴まれた。
「恵、俺は......」
胸の奥にかすかな期待が芽生える。
――もしかして、この男にもまだ良心が残っているのか。
しかし次に口をついた言葉が、その希望を無残に打ち砕いた。
「俺と華は婚約した。
だから結婚前に一緒に暮らして、もっと絆を深めたい。
でも君を追い出すつもりはないんだ。
この期間、三人で暮らせばいい。
どうかな?」
恵は勢いよく手を振り払うと、二人を見やり、口元に皮肉な弧を描いた。
「ええ、家族なんだから、構わないわよ」
――華とは十八年、同じ屋根の下で暮らしてきた。
明とは一年以上、同棲してきた。
今度は三人暮らしになるだけのこと。
大した違いはない。
心の中で自分に言い聞かせる。
六日間我慢すればいい。
何も見なかったふりをして、やり過ごせばいい。
だが予想以上に華は厚顔無恥だった。
翌朝にはさっさと荷物を運び込むばかりか、寝ている恵を布団から引きずり出し、手伝いを強要した。
「恵、荷物が多すぎてね。
明ひとりじゃ大変なの。
下に降りて手伝って」
寝癖だらけの髪、眠気でぼんやりする頭で、恵はしばし相手の顔を見つめ、ようやく華だと気づいた。
夢かと確かめようと腕を強くつねると――
「きゃあ!
恵、何するの!
頭おかしいんじゃないの!」
甲高い悲鳴が一気に眠気を吹き飛ばす。
騒ぎを聞きつけて明が慌てて駆け上がり、真っ先に華をかばいながら恵を睨みつける。
「恵、華に何をしたんだ!」
かつては自分を守ってくれたその姿が、今は姉に向けられている。
その光景に、恵の胸は冷え、失望が押し寄せた。
「私の許可もなく部屋に入り込んで眠りを邪魔しておいて、よくも問い詰められる立場だと思えるわね」
「恵、家族なんだから、私の引っ越しを手伝うのは当然でしょう?
それに、まさか平日の午前十時まで寝ている人がいるなんて、思わなかったわ」
無理やり叩き起こされ、ふらつく頭。
華の小言は耳障りで、明が横から口を添えるたび、頭痛が鋭さを増す。
「出ていって!」
こめかみを押さえながら、恵は声を張り上げた。
「恵!
なんて言い草なの!
礼儀知らず!
やっぱり親が親なら子も子ね。
人攫いに育てられたんだから、まともな人間になるはずがない!」
――親のことまで持ち出した。
その瞬間、恵の怒りは頂点に達した。
枕元の花瓶を掴み、華に向かって投げつける。
明がとっさに手を伸ばし、直撃は避けたものの、砕け散った破片が華の脚を裂いた。
「恵!
君は何をしているんだ!」
怒声が響く。
だが恵は何も聞いていないかのように、真っ赤に血走った目で華を射抜いた。
「華!
私の両親は人攫いなんかじゃない!
あんたを拾って救ってあげたから、あんたは生き延びられたんじゃないの!
感謝もできないのは勝手よ。
でも恩を仇で返すなんて許せない。
もし両親があんたの今の姿を見たら、あの時助けたことを必ず後悔するわ!」
第3話
恵が六歳のとき、両親は全身傷だらけの十歳の少女を家に連れ帰った。
その子が華だった。
その頃の華は傷口の炎症で高熱を出し、熱が下がった後も自分の名前さえ思い出せなかった。
もちろん実の両親のことなど知る由もない。
恵の両親は、彼女を医者に診せながら、あらゆる手段を尽くして身寄りを探した。
だが手がかりは得られないまま――。
やがて学校に通わせるため、両親は養子縁組の手続きを整え、華を正式に家族として迎えた。
そして外には「田舎に預けていた長女だ」と言い続けてきた。
本当の事情を知っているのは、恵だけだった。
両親が仕事帰りの道で、暴行されている彼女を見つけ、通報すると脅して加害者を退かせ、保護したことを。
警察に届け出はしたものの、人攫いは結局捕まらず、華はそのまま恵の「姉」の身分を背負い続けることになったこと。
――それが一年前、すべてが壊れる。
両親が亡くなって二年目、華はどこからか「自分は養子だ」と知り、言い放った。
「私は買われてきた。
あんな人たちがいたから、人攫いがはびこるのよ。
あの人たちも人攫いと同じくらい卑劣よ」
その瞬間から、二人の姉妹関係は完全に決裂した。
華はあらゆる場面で恵に対立するようになった。
「華、胸に手を当てて思い出して。
私の両親があなたに冷たかったことが、一度でもあった?
二人が亡くなった後に、よくもそんなことが言えるわね。
良心は痛まないの?」
四人で過ごした、かつての穏やかな家庭の情景。
両親が華をどれほど気遣っていたか。
その思い出と今の彼女の冷酷な態度が胸を引き裂き、恵の目からは涙が止めどなくこぼれ落ちた。
華は視線を逸らして答えない。
代わりに明がティッシュを取り、しゃがみ込んで華の脚の血を拭いながら、冷ややかに言った。
「恵、君の両親がどんなに彼女を大事にしたところで、それは元をたどれば華を親から引き離された傷を埋め合わせるためだったんだ。
もしあの人たちがいなければ、華は人攫いに遭うこともなかった」
そう言うと、華を抱き上げ、失望を浮かべた視線を恵に投げる。
「両親にあんな目に遭わされても、華はなお君を姉妹だと思っているのに。
君はその仕打ちか。本当に見損なったよ」
去り際に残されたのは「見損なった」というひと言。
恵はただ呆然と、言葉を失ったままベッドに腰を下ろした。
どうすればここまで事実を歪められるのか、理解できなかった。
長い沈黙ののち、ようやく込み上げる怒りを抑え込むと、頬に走る痛みに気づいた。
洗面所に行き鏡を覗くと、頬には細長い傷が走っている。
先ほどの花瓶の破片で切ったものだろう。
きちんと処置をしなければ、顔に痕が残るかもしれない。
ため息をつき、棚から救急箱を取り出して消毒を始めた。
綿棒を動かしているうちに、またも涙が溢れ落ちる。
もし両親が生きていたら――この傷を見て大慌てで病院に連れて行き、医師にしつこいほど質問し、傷跡が残らない薬を探してくれただろう。
昔の華なら、心配そうに薬を塗ってくれただろう。
口ではあなたの不注意だと叱りながら、手つきは驚くほど優しく。
半年前の明なら、慌ててネットで処置法を調べ、消毒しながら息を吹きかけ、涙を浮かべながら「大丈夫か」と気遣ってくれただろう。
ほんの小さな傷でも、彼らはみな、過剰なほど心配してくれた。
だが今はもう違う。
綿棒を置き、鏡に映る自分の顔を見つめる。
外見は何も変わらないはずなのに――
なぜこれほどまでに、親しい人たちが一瞬で敵に変わってしまうのか。
両親は事故で亡くなり。
姉は両親を人攫い呼ばわりし、彼女を裏切った。
自らは白血病を告げられ、そして誕生日に恋人が自分の姉にプロポーズするのを、目の当たりにした。
積み重なった出来事が、恵の心をすっかり硬く閉ざしてしまった。
それでも彼女は人間だ。
痛みを覚えるし、過去の幸せを懐かしむ。
恵は洗面所の隅に身を縮め、最初は声もなく涙を流し、やがて嗚咽が止められなくなった。
喉の奥から迸る叫びを抑え込み、裏切った者たちに弱さを晒すまいと必死に堪える。
そのとき、外から足音が近づいた。慌てて顔を拭き、涙の跡を隠す。
「恵、いるのか?」
明の声だ。
「恵、中にいるだろう?
下の救急箱にはもう消毒用のアルコールがない。
華の傷は深いから、消毒しないと感染する。
家に予備があるだろう、それを......」
――やはり、華のためだ。
鏡に映る自分の顔には、涙で濡れ白っぽくなった傷痕。
恵は再びアルコールを含ませた綿棒で消毒を済ませ、救急箱を手渡すために扉を開けた。
「持っていって。
返さなくていいから」
泣いたばかりで赤く腫れた目。
そのままの顔が、明の視線に映り込む。
「恵......泣いていたのか?」
第4話
明の声は、わずかに震えているようにも聞こえたが、それは恵の錯覚だったかもしれない。
彼女は冷たい顔で、鬱陶しげに救急箱を押しつける。
「泣いてなんかないわ。
くだらない連中に呆れただけ。
持っていって、さっさと消えて」
そう言って明を部屋から押し出し、ドアを乱暴に閉めた。
視線も、偽りの心配も、それで遮断する。
強烈な頭痛と感情の揺さぶりで、体が鉛のように重くなっていく。
壁にすがりつきながらベッドへ戻り、携帯を取り出して真也に電話をかけた。
「恵、どうした?
また具合が悪いのか?」
心配する声に、恵の目尻が熱を帯びる。
こみ上げる涙を必死に押し殺し、平静を装った。
「違うの、真也。
当日、たぶん夜中の三時に到着するから。
空港まで迎えに来てくれる?」
「もちろんだ!
君が一言言えば、今すぐにでも飛行機に乗って迎えに行く」
その言葉に、胸の奥が温かく満たされる。
恵は微笑みながら首を振った。
「それじゃ大げさよ。
そこまでさせられない」
「恵、病院にはもう骨髄の適合者を探すよう依頼した。
すぐ見つかるはずだ。
移植を受ければ体はきっと良くなる。
君は若くて優秀なんだから、病気さえ治れば未来はいくらでも広がる。
明なんか、君には全然釣り合わない!」
あまりに真っ直ぐな慰めに、恵は一瞬黙り、やがて小さく笑った。
「ふふ......その未来に出会う誰かの中に、真也も入ってる?」
受話器の向こうで、一瞬だけ呼吸が止まった気配がする。
掠れた声が答えた。
「......入ってるさ」
恵は確信を得て、柔らかく笑い、話題を変えて昔話を少しだけした。
やがて通話を切る。
階下から、明と華が「病院へ行こう」と話す声が聞こえた。
二人が出かけたのを確認し、恵はサッと麺を茹でて食べ、部屋に戻るとすぐに眠りに落ちた。
――次に目を覚ましたのは深夜。
鼻先を刺す生臭い血の匂い。
頬にまとわりつく湿った感覚。
灯りをつけると、枕に大きな血の染みが広がっていた。
また鼻血だ。
慣れた手つきで洗面所へ行き、顔を洗い、ティッシュを詰める。
止血剤を取ろうと下へ降りると――
ソファには明と華。
二人は抱き合いながらホラー映画を見て、華が甘ったるい悲鳴をあげるたび、明は優しく抱き寄せた。
恵は視線を逸らし、二人を空気のように無視して、冷蔵庫から薬を取り出した。
階段を上がろうとしたそのとき、嘔吐するような音が響いた。
――またいちゃつきすぎて気持ち悪くなったのかしら?
そう思った瞬間、華の甲高い声がわざとらしく響く。
「明、先生が言ってたでしょ。
これ、正常なつわりなんだって。
赤ちゃんが元気な証拠よ」
恵は息を呑み、振り返る。
「......赤ちゃん?」
目が鋭く光る。
「一か月前から関係を持ってたの?」
――まさか。
裏切りは最近始まったことだと思っていた。
けれど一か月前、明はまだ「愛してるのは君だけ」と囁き、彼女の手を握り、甘い未来を語っていたはずだ。
吐き気が込み上げる。
顔色は真っ青になり、胃の奥から胃酸が逆流してくる。
鼻血とめまいに構う余裕もなく、恵は駆け足で階段を上り、主寝室のバスルームへ駆け込んだ。
「おえっ......ごほ、ごほ、ごほっ!」
便器にしがみつき、吐き続ける。
食べたばかりの麺を吐き出し、それでも収まらず、緑色の胆汁までこみ上げた。
喉を焼くような刺激に咳が止まらず、顔は真っ赤に充血し、目からは勝手に涙があふれ出た。
流れる鼻血は吐瀉物に混ざり、さらに嗅覚を刺激する。
どれほど吐いたかわからない。
ようやく水を流し、膝を震わせながら洗面台にしがみつく。
止血剤を打ち、床に座り込む。
耳の奥に、華の言葉が何度も木霊する。
――お腹に赤ちゃんがいる。
意識が朦朧とする中、恵は両親の幻を見た。
「恵、どうして床に座ってるの。
冷たいわ、早く立ちなさい」
「お母さん......力が入らないの。
手を貸して」
「さあ、恵、今日はお前の大好きな酢豚を作った。
食べにおいで」
「お父さん......今行くから」
温かな幻に包まれながら、彼女は――もしここで両親に会えるのなら、それも悪くないとさえ思った。
再び目を開けたとき、彼女はまだ洗面所の床にいた。
二時間以上も気を失っていたらしい。
立ち上がると、洗面台に赤い痕が点々と散っている。
生来きれい好きな恵は、無性に掃除をしたくなる衝動に駆られた。
だが熱のこもる額が、それを許さなかった。
明らかな発熱――
冷たい床で長く倒れていたせいだ。
「......まずは体を大事にしないと」
そう呟き、解熱剤を飲み、なんとかベッドに潜り込む。
眠りにつく直前まで、華の言葉が耳から離れなかった。
ようやく浅い眠りに落ちたとき、空は白み始めていた。
しかし安息は束の間――
「恵!
起きなさい、お腹が減ったわ。
さっさと朝ごはん作りなさい!」
激しいドアの蹴り音とともに、華の怒声が響いた。
第5話
華の耳障りな声が、布団をかぶってもなお恵の頭の中に突き刺さる。
「恵!
呼んでるのに聞こえないの?
私は妊婦なのよ、お腹には赤ちゃんがいるの。
さっさと起きて朝ごはんを作りなさい!
嫌なら明に言いつけるわよ、そのとき後悔しても遅いから!」
理不尽で筋の通らない言葉を矢継ぎ早に浴びせられ、恵は堪らず布団を放り投げ、ドアを乱暴に開け放った。
「妊娠したからって、私に何の関係があるの?
どうして私がご飯を作らなきゃならないの?
それに明に言いつけるって?
ここは私もお金を出して買った家よ。
恋人を横取りしたうえに、今度は私に尽くせって?
華、頭でも打ったの?
恥知らずって言葉を辞書で引いてみたら?」
「恥知らず?笑わせないで!恥を知らないのはあんたのほうでしょ!ここは私と明の新居なの。
私はあんたがしばらく住むのを我慢してやってるんだから食事作りと家賃を払うくらい当然じゃない!私に仕えるのは栄誉なことよ。
それにお腹の子はあんたにとっても血縁になるんだから!
生まれたらおばさんって呼ばれるのよ?」
言葉の刃が胸に突き刺さる。
反論もできず、息苦しさに喉が詰まる。
――恥知らずな人間は見てきた。
だが、ここまで堂々と、理屈をこじつけてまで開き直る相手は初めてだった。
怒りの極みに達し、ふと恵は静かに笑った。
「......華、私が間違ってた」
「え?」
思いがけない謝罪に、華は目を瞬かせ、しばらく言葉を失う。
続きを待つようにじっと恵を見た。
恵は深く息を吸い込み、その瞳から感情の色を消し去った。
「私の過ち――それはまだあなたを姉だと思っていたこと。
あなたと明に、ほんの少しでも期待を抱いていたこと」
「二人が一緒になったと知ったとき、私に無数の考えが巡った。
何か事情があるのかもしれない、わざと私に見せているのかもしれない、と」
「あなたか明のどちらかが不治の病を抱えていて、私を遠ざけるために憎ませようとしているのかもしれない......そんなふうにさえ考えていたわ」
「でも昨日、あなたが両親を侮辱したとき――」
両親のことを口にした瞬間、視界の端に明の姿が映る。
こちらに歩み寄ってくる。
「そして明。
あなたが彼女をかばい、私を無視したとき」
恵の言葉に、明の足が一瞬止まった。
だが次の瞬間には華の腰を抱き寄せ、その隣に立っていた。
「......すぐに荷物をまとめて出て行く。
家は不動産屋に査定を頼むから、売却したら折半で返してもらうわ」
冷ややかにそう言い放ち、恵は二人を置き去りにして部屋へ戻り、スーツケースを引き出して荷造りを始めた。
その真剣な様子に、明が慌てて飛び込み、彼女の手を押さえた。
複雑な感情を湛えた瞳が、彼女を捕らえる。
恵は顔を上げ、氷のような眼差しで言い放った。
「放して」
「嫌だ!
出て行くのは勝手だが、その前に華のために朝食を作れ!」
空気が凍りついた。
互いの瞳が間近に交錯し、相手の瞳孔に自分の姿が映るほどの距離。
――そのとき、恵の鼻から熱い血が溢れた。
「恵!
どうしたんだ、鼻血が......!」
顔色を変えた明が慌てて叫ぶ。
華も駆け寄る。
だが二人の作り物めいた心配顔に、恵は吐き気を覚えた。
必死に振り払おうとしたが、明の腕は鉄のように固い。
「動くな!
出血がひどすぎる、まず止血しないと......華、水を汲んできて!」
華は従順に洗面所へ走り――次の瞬間、甲高い悲鳴を上げた。
血の海のまま、片づけを忘れていた洗面所を見てしまったのだ。
「どうした!」
明が恵を放して駆け込む。
扉の隙間から、互いを気遣い合う二人の姿が映る。
恵は視線を逸らし、スマホを手に廊下へ出た。
「どうしてこんなに血が......?」
「大丈夫、あなたは外で休んで。
私が片づけるわ」
声が背後から聞こえる。
近くなり、遠ざかる。
恵は一歩、また一歩と階段を下りていく。
滴り落ちる血が、段差を赤く染めていった。
――そして視界が闇に沈む。
次の瞬間、体が力を失い、階段から転げ落ちた。
轟音が響き、明と華が駆け寄ってきた。
床に横たわる恵は、顔中を血で濡らし、動かない。
「恵!」
明の叫びが、虚しく響いた。