気づかせないまま離婚届に署名させる

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気づかせないまま離婚届に署名させる

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私は九条航介(くじょう こうすけ)と結婚して三年になる。 彼はフォーブス世界長者番付のトップ十に名を連ねる大富豪でありながら、私は誰に...

Chương (1)

第1章

私は九条航介(くじょう こうすけ)と結婚して三年になる。 彼はフォーブス世界長者番付のトップ十に名を連ねる大富豪でありながら、私は誰にも知られることのない、彼の「隠された妻」である同時に、大学を卒業間近の、ただの女子大生だ。 「九条家の妻」という肩書きなど重要ではない、と私は自分に言い聞かせてきた。 彼が私を愛してくれるのなら、世間に公表されようがされまいが構わないのだと。 けれど――彼の幼なじみが帰国したそのとき、私はようやく気づいてしまった。 私たちの婚姻を繋ぎとめているのは、ただ一枚の戸籍謄本だけ。 情と呼べるものは、もしかすると私の一方的な思い込みだったのかもしれない。 だから私は、離婚届を用意した。 それを学校の提出書類に見せかけ、彼は何も知らずに署名をさせた。 彼が無造作にペンを走らせたその瞬間、私たちの婚姻関係は終わりを告げたのだ。 書類に対して彼が払った無関心――それはそのまま、私たちの三年間の結婚生活を映し出していた。 心がこもらない、形だけの関係。 愛がないのなら、私は自分の自由を取り戻す。 離婚届が受理されたそのとき、私は解き放たれた。 ただの自由だけではない。私の中には、まだ生まれていない命――航介の子どもが宿っていたのだ。 しかし、私がすべてを置いて、彼の手が届かない場所へと消え去ったあとで、ようやく彼は気づく。 自分が失ったものの大きさに――愛する人と、自らの血を継ぐ後継者を。 そして再び私を見つけ出した彼は、復縁を懇願する。 けれどそのときの私は、もうかつての私ではなかった。 恋だけを生きる未熟な少女ではなく、自分自身の仕事を持つ自立した女性へと生まれ変わっていたのだから。 彼は願う。私の愛を、私の振り向きを――祈るように。 第1話 私は離婚届を手に持ち、法律事務所に足を踏み入れた。 正面に座る弁護士は、私を一瞥しただけで、依頼者とも思っていないような無関心な表情を浮かべている。 彼はオーダーメイドのスーツを着こなし、磨き上げられた革靴を履いている。 一方の私は、ただの膝丈スカートにニットの上着という平凡な格好。おそらく学生か何かに見えたのだろう。 「離婚届はこのままの状態で提出可能ですか?その後に夫が署名すれば、提出できるんでしょうか?」 弁護士は少し眉をひそめた。まさか私が既婚者だとは思っていなかったようだ。彼はうつむくと、私が差し出した書類をじっくりと確認し始めた。 「……この離婚届なら問題ありません」 その言葉を聞いて、私はふうっと安堵の息を漏らした。 九条航介(くじょう こうすけ)――私たちの結婚は、こうして静かに幕を閉じるのだ。 書類を手に九条家へ戻ると、ゲート前の警備員はいつもと変わらず私を透明人間のように扱った。 無理もない。彼らは一度たりとも航介から「妻」の存在を告げられたことはないのだろう。 きっと、私のことをただの「援助を受けている貧しい学生」くらいに思っている。 この別荘の中で、私を女主人と見なすのは航介以外に一人もいない。 いや、航介自身でさえ――私を妻と思っていないのかもしれない。 カチャ…… 書斎の扉を押し開けると、そこには白鳥凪紗(しらとり なぎさ)の姿がある。 彼女はソファに腰掛け、航介がキャビアを乗せた小さなビスケットを、彼女の口元に差し出している。 凪紗はそれを素直に口に含み、二人で目を合わせて笑みを交わす。 キャビア。それは航介が昔から嫌っていた食べ物。 彼は「家にキャビアを持ち込むな」と厳しく言った。ましてや彼の聖域とも言える書斎に、飲食物を置くなど絶対に許されないはずだった。 それは結婚当初、彼が私に求めたルールだった。 けれど今凪紗は、彼が最も嫌う食べ物を、彼の書斎という聖域で口にしている。それが意味するものは明白だ。 航介にとって、凪紗は私よりずっと特別な存在なのだ。 その事実は一ヶ月前から知っていた。けれど改めて目の前で思い知らされると、やはり心は静かに痛んだ。 私は心の中の苦しみを抑え、何もなかったかのように、平静を装う。 「航介、これは学校の健康診断の同意書。署名をお願い」 まっすぐに机に歩み寄り、健康診断の書類を上に、そしてその下に離婚届をほんの少し角が覗くように重ねて差し出した。 凪紗は私に気づき、にこやかに立ち上がって、熱心に声を掛けてくる。 「寧々、帰ってきたのね?私と航介、今夜の食事の相談をしていたの。一緒にどう?」 笑みを浮かべ、さりげなく航介の腕に手を回す。その仕草は、私への挑発のようにも見える。 航介は一度、机上の書類に目を落とし、取り上げようとした。だが凪紗が何気ない笑みを浮かべて言った。 「ただの健康診断の書類でしょ?そんなの大して見る必要もないわ。 航介って寧々にすごく厳しいじゃない?まるで旦那様というより、お兄さんみたい。厳しい保護者って感じ!」 その言葉に、航介は書類を置くと、さっと署名を入れた。「そうか?俺はそんなに堅い人間じゃないと思うけどな」 ペンを置いた瞬間、私の心臓は激しく跳ね上がった。興奮を必死で押さえながら、すぐに書類を畳み、かばんへ押し込む。 「……ありがとう」 小さな声でそう言い残し、彼を振り返ることなく急ぎ足で書斎を出た。 指先は震え、胸は高鳴る。――ついに、彼が署名した。 これで私は自由になれる。航介から、そしてこの婚姻から解き放たれる。 私と航介の結婚は、最初から過ちだった。 私の父は九条家の先代当主の運転手であり、ライバルの策略から彼を庇って命を落とした。その縁で、私は九条家に引き取られたのだ。 十年前に先代が亡くなってからは、航介と共に暮らしてきた。 彼は私より十歳年上。普段は冷徹で笑顔を見せない、商談の場では常に決断力が強くて、知り合いが誰も彼の頭脳に屈服する。 私は彼を兄のように思い、密かに憧れ、誰にも言えない恋心を胸に秘めていた。 けれど交わりはほとんどなかった。すべてが変わったのは、ある家族の宴の夜。 酔った航介が、私の部屋に入り込んできて――そして私たちは結ばれた。 責任を取ると言い、彼は私と結婚した。 その時、私は信じていた。これが幸せの始まりなのだと。 だがあとに気づいた。それは、束の間の幸せの幻に過ぎなかった。 凪紗が帰国したその日から、航介の私への態度は、日を追うごとに冷たくなっていった。 ――だから今、ようやくこの婚姻を終わらせ、自分の自由を取り戻す時が来た。 私は固く握りしめた。その署名済みの離婚届は、まるで自由への鍵のようだ。 第2話 凪紗は「自分のマンションが改装中だから」という理由で、しばらく九条家のゲストルームに滞在することになっている。 そして航介もあっさり承諾した。 「白鳥家とは長年のビジネスパートナーだから、粗略に扱うわけにはいかない」もっともらしい理由を並べ立てて。 私の意見など一度も尋ねない。まるで、私は透明な存在であるかのように。 こうして凪紗は堂々と九条家に住みつき、屋敷の中を好き勝手に歩き回った。 それはまるで、彼女こそがこの家の女主人であるかのように。 彼女はしばしば、セクシーな部屋着のままリビングを歩き、さらに私と航介の会話にいきなり口を挟み、私たちの話をぶった切る。 航介はそれを嫌がるどころか、むしろ彼女の親しさを楽しげに受け入れている。 ある日、私は書斎の前を通りかかり、扉の隙間から凪紗の笑い声を耳にした。 中では、彼女が航介の隣に座り、二人で一枚の書類を覗き込んでいた。互いの距離はとても近かった。 凪紗の紅い唇が、航介の耳朶に触れんばかりに近づく。 「航介、覚えてる?昔、あなたが私の数学の宿題を手伝ってくれたこと」 彼女は甘えたような笑い声をあげた。 航介も穏やかに笑い返した。 「忘れるわけがないだろう。お前の数学の出来は散々だったからな。仕方なく手伝ってやったんだ」 その声は、私が一度も聞いたことのないほど柔らかい。 胸がずしんと沈み、足が止まる。 部屋に入る気力が失せ、踵を返そうとしたが、もう遅かった。航介が私に気づいた。 「寧々、ちょうどいい。凪紗が庭にブランコを置こうって提案していてな。形をどうするか一緒に考えよう。お前はどんなのがいい?」 彼が手招きする。 私は引きつった笑みを浮かべ、無理に歩み寄った。 「えっと……なんでもいいわ。私、卒論の仕上げがまだ残っているから。二人で決めてちょうだい」 私は頭をかきながらそう言った。もうすぐここを離れるのだ、ブランコの形なんてどうだっていい。だってそれは、私の為にあるものじゃないんだから。 凪紗はわざとらしく唇を尖らせた。 「卒論?なんだそれ?ああ、思い出した。私も大学を卒業するときに書いたわね。もっとも、その時は航介が手伝ってくれたけど。 あなたも航介に頼めば?彼なら完璧に仕上げてくれるわよ」 航介がちらりと私を見た。その視線は、私の口から「助けて」と言わせたいかのようだ。 だが私は助けなんかいらない、一人でも完成できるし。 「いいわ。自分でできるから」 下を向いたまま早足で部屋を出る。胸の奥に鉛のような塊が沈み込み、息が詰まりそうだ。 その夜、航介が寝室に戻ってきたのは深夜だ。 彼の体からは、あの凪紗がよく使う香水の匂いが微かに漂っている。 私はベッドに横たわり、目を閉じて眠ったふりをしている。 彼が隣に身を横たえ、片腕をそっと私の腰に回し、唇が首筋をかすめた。 私は全身を硬直させた。胸の奥から得体の知れない感情が押し寄せる。 突き放したいのに、体は意志に反して逆らえず、自然と彼に寄り添っていった。 三年という年月の中で、私は彼の温もりに慣れてしまった。彼の触れ合いも、吐息も。 なのに、今夜は突然吐き気がして、喉の奥まで込み上げてきた。 「……どうした?」航介が異変を感じ取り、心配そうな声をかけてきた。 「……なんでもない。食べたものがちょっと悪かったのかも」私は背を向けて、低い声でそう答えた。 彼はそれ以上追及せず、背中を軽く撫でた。 耳のすぐそばで聞こえる彼の呼吸音に、私は闇の中で彷徨うように心を見失った。 その時、階下から物音が響き、続いて凪紗の悲鳴が聞こえた。 「航介!急に電気が消えて……誰かが部屋に入ったみたい!」 航介は思わずベッドから起きて、上着を掴んで慌てて階下へ駆け降りていった。 三十分後、彼は戻ってきた。何事も起きていなかった。 ただの電球のショートで、そこへちょうど野良猫が一匹、部屋に迷い込んだだけだった。 なのに、あんなにも焦り、真っ先に駆けつける。まるで凪紗こそが彼にとって一番大切な人であるかのように。 翌朝。私は人より早く起き、研究室へ行く支度をした。 航介はまだ眠っており、凪紗の姿もない。少しだけ、胸が軽くなる。 けれどリビングに着いた瞬間、思い出した。かばんを部屋に置き忘れたのだ。 中には署名済みの離婚届と、ノルウェーにおける現地研究申請書が入っている。 取りに戻ろうとした時、背後から航介の声が響いた。「寧々、何か忘れ物か?」 振り返ると、航介が私の書類を手にしている。 血の気が一気に引く。 「そ、それは私の……」口ごもりながら説明しようとする。 「これは……ノルウェーにおける現地研究申請書?」 航介は書類に一瞥し、表情が急に変わった。 「お前、ノルウェーへ行くつもりなのか?いつだ?俺は許さない」 「ち、違うの。これは友達の代わりに受け取っただけで……」私は必死に嘘をついた。 「ノルウェーか……お前は寒い気候が嫌いだったはずだ」彼は全く気にしないように、淡々と呟いた。 けれどその言葉が刃みたいに、私の胸に力強く突き刺さる。 私たちはかつてノルウェーに新婚旅行で行った。あの時、私は「この環境が好き」と彼に伝えた。 でも今、彼はもう覚えていないのか。それとも――最初から私の言葉など心に留めていなかったのか。 「それより、お前が研究を続けたいなら」航介が急に言い始めた。「九条医療センターが新しく立ち上げる研究室で主任研究員を任せたい。卒業証書を手にしたら、すぐに来い」 私は一瞬言葉を失ったが、すぐに首を振った。 「必要ないわ。自分の道は、自分で決めるから」 研究者としての実力は、指導教授たちも認めている。私はもう、彼の庇護や施しの中で生きるつもりはない。 第3話 学校の指導教授から、私のノルウェーにおける四年間の現地研究申請がすぐに承認された。 たぶん、航介と凪紗から離れてこそ、私は本当の自分を取り戻せるのだろう。 実は、航介と凪紗の関係を知った時、私はどうにかして繋ぎ止めようともがいた。 「きっと思い過ごしだ」「ただ仲が良いだけ」――そう自分に言い聞かせて。 けれど、彼らが並んで笑い合う姿を目にするたび、親密な会話を耳にするたび、胸が裂けるように痛んだ。 私は気付いた、もう自分を欺けないと。 航介が凪紗と一緒にいる時の、あの心から楽しそうな表情は――偽れるものじゃない。 私と一緒にいる時には、一度も見せたことがない顔だった。 だから、ノルウェーからの現地研究招へいが来た時、最初は拒んだものの……今度こそこの場所から離れようと思った。 離れることを決意した朝、私は早く起きて荷造りを始めた。 服、書籍、化粧品をスーツケースに詰め込み、リビングに行くと、飾られた写真や小物を整理し始める。 目に留まったのは、水晶のフレームに収められた写真。そこに入っているのは、私と航介のツーショットだ。 それは結婚式の日に撮った写真。私たちはまるで世界の幸せをすべて掴んだかのように、輝くような笑顔を浮かべていた。 けれど今、すべてが変わってしまった。 私は深く息を吐き、そのフレームをゴミ箱に放り込んだ。 三年の結婚生活――それで終わりだ。 その後の一週間、私は論文と実験に追われ、航介ともほとんど連絡していない。 離婚届の受理を待ちながら、むしろ心は軽くなっていった。 そんなある日、研究室を出た私に、航介から電話が突然入った。 「寧々、終わったか?迎えに行く」その声は低く柔らかく、まるで何もなかったかのようだ。 私は一瞬戸惑ったが、「……うん」と答えた。 三十分後、彼の車が校舎の前に停まる。私はドアを開けて乗り込み、彼はちらりと私を見て言った。 「最近、忙しいのか?」 「ええ、実験のスケジュールが詰まってるの」私は淡々と返した。 どうせもうすぐ去るのだ。やり残しはないようにしなくてはならない。 少し間を置き、航介が口を開いた。 「そうだ、言っておくけど。 凪紗な……来月、家を出るそうだ。お前に気を遣って、これ以上邪魔をしたくないって」 私は一瞬驚いたが、すぐに視線を落とした。 「そうか…… 彼女に伝えて。私は別に気にしてないから」 予想外の返答なのか、航介がこちらを見た。驚きと、言いかけて飲み込んだ言葉が、その目に揺れている。 私は気づかないふりをして、目を閉じ、眠ったふりをした。 翌日。体調が優れず、生理も遅れていたため、私は病院に行くことにした。 検査を終え、医師がエコー検査の結果を見ながら眼鏡を押し上げた。 「妊娠二ヶ月半ですね」 私は絶句した。 ……この子は、凪紗が帰国する前。航介と私が最後に結ばれた夜に宿ったのだろう。 病院を出ると、私は航介に電話をかけた。 繋がる前に、正面の扉から彼が現れるのを見てしまった。 彼の隣には、航介のコートを羽織った凪紗。 医師が彼女に説明している声が耳に入った。 「妊娠したばかりですから、激しい運動は控えてくださいね」 ……凪紗も、妊娠している? 全身から血の気が引いていく。驚きすぎて呼吸ができない。 航介が顔を上げ、私に気づく。一瞬、動きを止め、それから慌ててこちらに駆け寄ってきた。 「寧々?どうしてここに?」 私は彼を見つめ、胸が張り裂けそうに痛む。 「……私……」口を開けたが、声にならない。 今ここで「私も妊娠している」と告げるべきなのか。 でも……私と凪紗が同時に妊娠するとしたら、彼は私を選んでくれるだろうか? 選んでくれないなら、なぜ告げるの? 「寧々、どうして病院に来た?」彼は私が黙り込むのを見て、さらに問い詰めるように言った。その瞳には、かすかな憂いが浮かんでいる。 「……大丈夫。ただ、少し頭痛がして」私は俯いたまま答える。 航介が手を差し伸べてきた。だが私はそれを払いのけ、しっかり握りしめているエコー検査の結果を、かばんの奥に押し込んだ。 「用事があるから、先に行くわ」 彼が追ってくる。「寧々、待ってくれ!聞いてくれ、説明する!」 「触らないで!」私は低い声で叫んで、駆け出した。 その瞬間、凪紗が航介の腕をぎゅっと掴んだ。 「航介!約束したでしょ……?誰にも、このことは言わないって……」 彼の足が止まる。まるで電流が走ったように動きを失い、手が力なく垂れ下がった。 私は二人を振り返らなかった。ただ前を向き、冷たい風に顔を打たれながら歩き続けた。 その冷たさは、まるで刃のように私の頬を切り裂いている。 第4話 翌日の午後、航介の助手・佐々木大和(ささき やまと)が研究室を訪ねてきた。 「奥様、九条社長が今夜、モンスーンレストランでお会いしたいと仰っています」 私は一瞬、息を呑んだ。 モンスーンレストラン。 そこは私にとって、一生忘れられない場所。 結婚記念日に彼が仕事の会議を優先して現れず、私はひとりで一晩中待ち続けた、あの場所。 長い沈黙の末、私は小さく頷いた。 ――夕刻。私はモンスーンレストランへと足を運んだ。 航介はすでに窓際の席に座っている。濃紺のスーツに身を包み、髪はきちんと後ろに撫でつけられ、鼻筋には見慣れた金縁の眼鏡がかかっている。 彼は顔を上げ、私を見つけると、すこし微笑みを浮かべた。まるで、何事もなかったかのように。 「寧々」低く優しい声で、私の名を呼んだ。 私が彼を見つめ、胸が激しく波打った。 そうだ、たとえ私はこの愛を手放す決意をしたとしても、長年積み重なった想いは簡単に消え去るものではない。 心臓は彼を前にしていまだ乱れ、照れくささで頬が赤らんでしまう。 席に着くと、彼は昔と変わらず、椅子を引いて私をエスコートした。 航介はじっと私を見つめ、どこか複雑な眼差しを向けてきた。「寧々、お前と話がしたい」 「何を言いたいの?」 彼は視線を落とし、言いにくそうに口を開いた。「最近、お前を放ってしまっていたのは分かってる。でも俺と凪紗のことは――」 その瞬間、彼のスマホが鳴り響いた。発信者は大和。 「社長、白鳥様が……手首を切られました」 「何だと!?」航介は椅子を倒さんばかりに立ち上がった。 彼の激しい反応を目の当たりにし、私はまるで冷水を浴びせかけられたかのようだ。彼に抱いていた最後のわずかな希望までが、完全に消し飛んでしまった。 私はずっと、彼から真実を聞きたかった。誤解だと言ってほしかった。 けれど、あの女の名が出た途端、彼は相変わらず彼女のことを心配している。 これが、彼の「説明」。これが、彼の「話がしたい」という意味。 「航介、行けばいいわ」私は頭を上げ、精一杯、平静を装って言った。 彼は一瞬、痛みを帯びたように目を細め、私を見た。 「寧々……すまない。すぐ戻る」 そう言い残し、背を向けて駆け去っていった。 その背中を見送った瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走り、視界がぐらりと揺れた。 ――そして、意識を失った。 目を覚ますと、私はすでに病院のベッドの上だ。 傍らでは医師が大和と何かを話している。私の目が開くと、彼は少し驚いたように振り返った。 「奥様、目が覚めましたね」 私は小さく頷いたが、心の中は不安でいっぱいだ。 ――まさか、私の妊娠のことを彼に伝えてしまうのでは? 医師は表情を引き締め、私を見た。 「体がかなり弱っています。しばらくは安静が必要です。 それと……あなたは妊――」 私は思わず冷や汗をかいた。 だがその時、大和のスマホが鳴った。 「失礼、九条社長からです」彼はすぐさま電話を出て、廊下へ出ていった。 私はほっと息をつき、慌てて医師に頼み込む。 「……お願いです。妊娠のことは、誰にも言わないでください」 医師は静かに頷いた。「分かりました。これは患者さんのプライバシーです」 数分後、大和が戻ってきた。「奥様、社長は急用がありまして。先に戻らなければなりません」 そう言ったあと、彼は一枚のクレジットカードを置いた。 「社長からのご指示です。必要なものは何でも、医者に言ってください」 そう告げると、彼は忙しそうに去っていった。 私はベッドに横たわり、天井を見つめながら胸が締めつけられるのを感じた。 入院している間、看護師たちの噂話が何度も耳に入ってきた。 「白鳥さんは本当にラッキーね、九条社長みたいな素敵な人が旦那様なんて」 「そうよ、九条社長は本当にやさしい。毎日欠かさず見舞いに来て、手作りのスープまで持ってきてるんだって」 「もうすぐ九条家の跡取りを産むらしいわよ」 「三か月目に入ったそうじゃない?」 ――その言葉のひとつひとつが、胸に刃を突き立てた。 「奥様」と呼ばれるべき人は私なのに。私は、存在そのものが消し去られたかのように扱われ、誰一人として私のことを知ろうとしない。 数日後、ようやく退院の日を迎えた私は、真っ先に区役所へ向かった。 すでに更新された戸籍謄本を、手渡しで受け取るために。 その紙見て、私は深く息を吸い込み、心を落ち着けようとした。 知っている。――これでもう、後戻りはできない。 けれど、私にとって、これこそが唯一の解放。 スマホで宅配業者へ連絡し、配送手続きを行った。 ただし、発送日をわざと先送りして、三日後に設定した。 私がノルウェーへ旅立った後でなければ、航介がこの戸籍謄本を受け取らないように手配する。 もう彼の顔を見るのも、声を聞くのも、耐えられないからだ。 第5話 ノルウェーへ出発の日、私は指導教授に一通のメールを送った。 その中で、自分が妊娠していることを正直に伝えた。 ほどなくして返事が届いた。 「なんてこと!伊吹さん!本当におめでとう!これは素晴らしい知らせだよ。 住む場所から検診まで全部用意するよ。あなたが空港に着いたらすぐに新居へ案内できるよう、スタッフを待たせておくから安心してね」 画面に並んだ文字を見た瞬間、鼻の奥がツンと熱くなり、涙が溢れそうになった。 本当は、妊娠が知られたら現地研究の計画を見直されるんじゃないかと不安だった。 けれど返ってきたのは、これほどまでに温かい言葉。この状況で、私にとって何より大きな支えとなった。 その日、私はゆったりとした服を選び、膨らみ始めたお腹を隠した。空港に到着すると、一人の若い男性が手を振ってきた。 「伊吹寧々(いぶき ねね)さん!」 整った顔立ちに、穏やかな笑みを浮かべた彼は自己紹介した。 「はじめまして、藍原時弓(あいはら ときゆみ)です」 彼は自然に私の荷物を受け取り、柔らかく微笑んだ。 「伊吹さんのお名前はずっと伺っていました。今日こうして会えて光栄です」 私は笑顔を返しつつも、心の中では不安を抱えている。 初めての海外、それも子を身ごもったまま。 だが、時弓の気遣いや落ち着いた態度に触れるうちに、心が少しずつ和らいでいった。 彼は私に代わって搭乗手続きを済ませると、保安検査場まで付き添ってくれた。 「伊吹さん、大丈夫です。向こうに着いたらすべて手配してありますから、安心してください」彼はそっと私の手を軽くたたき、力強い口調で言った。 私はこくんと頷くと、心中にありがたさがじんわりと滲んだ。 ――そのとき。近くから聞き覚えのある声が響いた。 「凪紗、足元気をつけろ」 心臓が跳ね上がった。 航介だ。どうしてここに? 私は思わず顔を伏せた。見つかってはいけない。 幸い、すぐに凪紗の声が響いた。「航介、あそこの新しいカフェ行ってみたいな。一緒に行こ?」 航介は一瞬ためらった様子で言った。「……少し待ってくれ。今、寧々の名前が聞こえた気がして。電話してみようか」 彼の視線がこちらに向いた。私は慌てて頭を下げ、荷物を整えるふりをして顔を隠した。 冷や汗が背中を伝う。 しかし凪紗が彼の手をとめた。「やめて、今の時間ならきっと研究室にいるわ。電話したら迷惑よ。 それに、取引先との打ち合わせが迫ってるんでしょ?カフェに行けるのは今しかないじゃない」 航介は結局頷き、彼女に連れられて別の方向へ歩いて行った。 私はほっとした。けれどその背中を見送った瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。 離婚届に署名する時、凪紗が横槍を入れさえしなければ、彼はあんなにすんなりと署名しなかったはず。 今だって、凪紗が話題をそらしてくれなければ、私はバレていたかもしれない。 私の「別れ」を成り立たせているのは、凪紗だ。 「伊吹さん、そろそろ保安検査に行きませんと」 時弓の声で現実に引き戻される。 私は感情を抑え、彼と共に検査場へ向かった。 保安検査の列に並んでいると、時弓が一枚のポストカードを差し出してきた。「このポストカード、よろしければどうぞ。 向こうに着いたら家族に郵送してください。無事を知らせるのにもなれますし」 受け取ると、ポストカードに描かれていたのは壮大な氷河の風景。神秘的で美しい。 だが、私は首を振り、そのままゴミ箱に落とした。 「いえ、送る相手なんていませんから」 もう、過去に縛られるつもりはなかった。 飛行機に乗り込み、座席に腰を下ろした。 何もかも手配してくれた時弓は、最後まで気を配ってくれた。 「伊吹さん、研究室には新しい設備を揃えておきました。勤務時間も調整済みです。安心して赤ちゃんを育てながら研究を進められる環境になっていますよ」 用意周到な彼の配慮を聞いているうちに、私は胸が熱くなった。 ――これほどまでに気遣われたこと、航介との三年間では一度もなかった。 私は深く息を吸い込み、必死に気持ちを落ち着けようとした。 離陸の時間が迫り、私は最後にもう一度、虚偽と孤独に満ちたこの街を振り返った。 航介。これで本当に、すべてが終わりだ。