降りしきる雨に、君の心を問わず

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降りしきる雨に、君の心を問わず

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椎名司(しいな つかさ)がこの世を去ってから三年、瀬戸汐梨(せと しおり)はまだ彼を心から消し去ることができずにいる。 再び、彼女は別荘...

Chương (1)

第1章

椎名司(しいな つかさ)がこの世を去ってから三年、瀬戸汐梨(せと しおり)はまだ彼を心から消し去ることができずにいる。 再び、彼女は別荘の暗室に身を潜めた。ここは二人が初めて出会った場所であり、ここにいるときだけ、少しだけ息をつけるのだ。 「司くん、いつ帰ってくるの?来月には結婚式なのに……」 扉の隙間から嬌声が忍び込んできた。その声は、まるで毒を仕込んだ針のように、予期せぬ瞬間に耳を刺した。 汐梨は全身が硬直し、血の気が一瞬で凍りついたかのような感覚に襲われた。 彼女は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。暗室の細い隙間から、外の様子を覗き込む。 家政婦の娘、青木美雪(あおき みゆき)がソファにもたれかかりながら電話をしている。指先で電話のコードをくるくると巻き取り、笑顔を隠そうとしても、楽しげな表情が自然と浮かんでしまう。 「結婚式、本当にCホテルでやるの?もし汐梨に知られたら、怒鳴り込まれたらどうしよう……」 電話の向こうが一瞬静まり返ったかと思うと、次の瞬間、十三年もの間、骨の髄まで刻み込まれたあの声が響いた。 「大丈夫、『記憶喪失になった』って言うから」 第1話 椎名司(しいな つかさ)がこの世を去ってから三年、瀬戸汐梨(せと しおり)はまだ彼を心から消し去ることができずにいる。 再び、彼女は別荘の暗室に身を潜めた。ここは二人が初めて出会った場所。 ここにいるときだけ、三年間ずっと続いていた胸の締め付けるような痛みを、和らげることができる。 汐梨が手のひらのプロポーズ指輪をこすって輝かせ、涙が情けなくもまたあふれてきた。 「司くん、いつ帰ってくるの?来月には結婚式なのに……」 扉の隙間から嬌声が忍び込んできた。その声は、まるで毒を仕込んだ針のように、予期せぬ瞬間に耳を刺した。 汐梨は全身が硬直し、血の気が一瞬で凍りついたかのような感覚に襲われた。 彼女は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。暗室の細い隙間から、外の様子を覗き込む。 家政婦の娘、青木美雪(あおき みゆき)がソファにもたれかかりながら電話をしている。指先で電話のコードをくるくると巻き取り、笑顔を隠そうとしても、楽しげな表情が自然と浮かんでしまう。 「結婚式、本当にCホテルでやるの?もし汐梨に知られたら、怒鳴り込まれたらどうしよう……」 電話の向こうが一瞬静まり返ったかと思うと、次の瞬間、その声が響き始めた。 低くかすれた、少し無頓着な優しさを帯びた声は、汐梨が十三年間も聞き続け、骨の髄まで刻み込んだものだった。 「大丈夫、『記憶喪失になった』って言うから」 ――バタッ。 汐梨の視界が一気に暗転し、背中が壁に強くぶつかった。 胸の奥は痛くて、見えない手が心臓を掴んで激しく捻り潰すようで、彼女は口を大きく開けても、空気を一口も吸い込むことができない。 壁について長い時間をかけて呼吸を整えたが、指先は震え、扉を掴むことすらままならない。 再び隙間から覗くと、美雪が受話器に向かって甘え声を洩らしている。 「でも私、堂々とあなたのお嫁さんになりたいの……」 「なるさ」男の声は甘やかで絡みつき、細かな針のように耳を刺した。彼女の瞳が潤み始める。「お前は俺が一番愛する女だから、当然最高のものを与える」 一番愛する女? 汐梨はふっと笑った。けれど、涙の方が先に頬を伝った。 十歳のあの日の光景が、唐突に脳裏に押し寄せる。 彼女がこの暗室に飛び込んだとき、司は背を向けて荒い息をつき、手にしたナイフからはまだ血が滴っていた。 汐梨は刃についた血を見ず、ただ彼の腕の傷口に目を奪われ、ポケットからピンクの絆創膏を取り出して、そこに貼りつけた。 「おじさん、これならもう痛くないよ」 ――その後、殺しをためらわぬこの男は、彼女のボディーガードとなった。 十八歳の誕生日パーティーの夜、汐梨はわざと他の男の腕を取って歩いた。司の拳がきつく握られ、血管が浮き出たのが見えた。 司はその男を叩きのめして地面に倒し、自分の額から血を流しながらも、汐梨の顔を両手で大切そうに包み込み、荒々しく、必死に唇を重ねた。 「汐梨、俺を追い詰めるな」 その夜、彼は彼女を抱きしめ、顎を彼女の頭に押し当てて震えながら囁いた。 「汐梨……もしお前を裏切ったら、俺に天罰が下ってもいい」 ――彼女は信じていた。 だからこそ、彼がプロポーズした翌日、仇敵に殺され、海に投げ捨てられたと聞いた瞬間、彼女はリビングで気を失ったのだ。 K町の人々は口々に言った。彼女は薄幸で、愛する人の墓さえも空っぽだと。 その通りだ。彼女は確かに不幸だった。 彼の「死」を知らされてから最初の一年間で、彼女は六回も海に飛び込み命を絶とうとした。救い上げられたときには、半ば息も絶えかけていた。 やがて、神仏を信じていなかった彼女が、町中の神社を巡り歩き、ただ夢の中で一度でも彼に会えるよう祈り続けた。 けれど今―― 彼女が日々思い焦がれた人は、「記憶喪失」を言い訳に、別の女と結婚しようとしているのだ。 第2話 美雪の声が、まだ暗室の中に差し込んできた。 「それでダイヤの指輪は?汐梨のより大きくなきゃダメよ」 「彼女のは偽物だ。大した価値もない」 男の軽い笑い声と、気にも留めないような口ぶりが、汐梨が三年間大切に守ってきた最後の拠り所を、無惨に踏み砕いた。 汐梨は俯き、掌の中の指輪を見つめた。 「世の中に二つとない」と言われたこのダイヤの指輪。彼女は毎晩それを握りしめて眠り、彼が残した最後の想いだと信じてきた。 眠れぬ夜の数々も、それに縋って、かろうじて崩れ落ちずにいられた。 けれど、ああ――結局は彼自身と同じ、全部偽物だったのだ。 外から、美雪が遠ざかっていく足音が聞こえる。汐梨はゆっくりと立ち上がり、一歩一歩、洗面所へと向かった。 ――ガチャン。 彼女は指輪を便器に叩きつけた。 水流に巻かれ、きらりと光るそれが何度も渦を描き、消えていく瞬間を見届けると、今にも溢れそうだった涙は、不意にすっと引いていった。 冷たい水を顔に浴びせ、鏡の中に映る青ざめた自分を見つめながら、汐梨は宿敵である高江寿樹(たかえ ひさき)に電話をかけた。 「汐梨……今スイスは深夜の三時だ」 向こうの声は眠気を含み、苛立ちすら滲んでいる。「よほどの用じゃなきゃ許さねえぞ?信じないなら今すぐK町に飛んで、お前を絞め殺してやろうか?」 汐梨は深く息を吸い込み、泣き声を必死で抑えて言った。「お願いがあるの」 寿樹は彼女の声の異変に気づき、語気が一気に和らぐ。「どうした?またあのジジイのことで死にたいのか?俺が戻ろうか?」 「いいえ」汐梨は即座に否定した。「記憶喪失の診断書を手に入れてほしいの」 「……はあ?」寿樹は聞き違えたように声を上げた。「そんなもん何に使うんだ?」 「余計なことは聞かないで」彼女は唇を噛みしめた。「できるかどうかだけ答えて」 寿樹は二秒ほど黙り、きっぱりと答えた。「できる」 「それと……」 汐梨は一拍置き、深く息を吸った。「私たち、付き合おう。電撃結婚しよう」 「……はあ?!」 相手が驚きから立ち直る間も与えず、汐梨は強い調子で言葉を継いだ。「一か月後、私がスイスに行く」 そう言い切ると、彼女はそのまま電話を切った。 三日後、記憶喪失の診断書が汐梨の手に届けられた。彼女が宅配便を開けている時、父・瀬戸俊夫(せと としお)から電話がかかってきた。 「汐梨、Cホテルに来なさい。大事な話がある」 汐梨の胸がどんと沈み、得体の知れぬ不安が広がる。 彼女はホテルへ向かい、個室の扉を押し開けた。そこには俊夫と、家政婦の青木雅美(あおき まさみ)、そして美雪がいる。 室内の空気は重苦しく、胸を圧迫する。汐梨は直截に切り出した。「何の用?」 俊夫はシガーをくゆらせ、煙の向こうでしばらく沈黙し、それからようやく口を開いた。 「汐梨、お前ももう大きくなった。そろそろ話しておかねばならないことがある。 実は、美雪は俺と雅美の間に生まれた子なんだ。お前の異母妹だ」 汐梨の目が見開かれ、拳が瞬時に握り締められた。冷たい視線が真っ直ぐ美雪に突き刺さる。 どうりで母・瀬戸敦美(せと あつみ)が、彼女が十歳のときに俊夫と離婚し、あれほど決然と家を去ったのだ。 裏にはこんな汚らしい事情が隠されていたとは。 胸の奥で火の玉のような怒りが燃え上がり、指先まで震えた。 美雪は全身を震わせ、怯えたように声を出した。「お姉ちゃん、私のこと……嫌いにならないよね?」 汐梨は口角を引きつらせ、冷たく笑った。「くだらないこと言わないで。嫌いにならない?そんなの聖人でもあるまいし、ありえないでしょ?」 美雪の目がぱちぱちと瞬き、次の瞬間、涙が糸の切れた珠のようにぽろぽろとこぼれ落ちた。 「私は本当にお姉ちゃんが大好きなの。だから、嫌いにならないで……」 汐梨は少し前へ踏み出し、雅美と美雪に鋭い視線を走らせたのち、俊夫に向き直った。 「どういうつもり?雅美さんと結婚するってこと?」 俊夫は隠すことなく、うなずいた。「そうだ。年も取ったし、やはり女房は必要だ」 汐梨は冷笑を浮かべた。「いいわよ。でも条件があるわ。もし呑まないなら、あなたの不倫をマスコミにばらしてやる」 「お前……」俊夫は想定していなかったのだ。これまで素直で従順だった汐梨が、こんな反抗的な言葉を口にするとは。手にしたシガーを、危うく取り落としそうになった。 第3話 汐梨は気怠そうに寝椅子に身を沈め、ゆっくりとした口調で言った。 「母さんが家を去ったときは、財産を一切持たずに出ていったわ。いま再婚するというのなら、私もこの家にはもういられない。 だから、瀬戸家の財産の半分――総額で二百億円。一円たりとも欠けてはダメよ。 お金を渡してくれるなら、すぐにでも荷物をまとめて海外に行くわ。一生、あなたの目の前に現れることはない」 空気が一瞬止まり、俊夫は衝撃でしばらく言葉を失った。 美雪が慌てて立ち上がり、叫ぶ。「お姉ちゃん、そんな無茶なこと言っちゃダメ!」 汐梨はまぶたを上げ、ヒールを鳴らして立ち上がり、見下ろすように睨みつけた。 「私が何を要求しようと、日陰者の私生児に口を出す権利はないでしょう?」 彼女はもともと美雪よりすこし背が高い。そのうえ顎をわずかに上げた姿は、床に落ちる影にまで威圧感を帯びている。 美雪は目を赤くして、突然、予兆もなく床に崩れ落ちた。頭が「ゴン」と机の角に当たり、額を押さえて悲鳴を上げる。「お姉ちゃん、どうして私を突き飛ばしたの?」 汐梨はまぶたすら動かさず、淡々と口を開いた。「私は指一本触れてないわ。どうしても芝居を打ちたいなら、監視カメラを確認しましょう。この個室のカメラは、360度撮影できるよ」 俊夫が身をかがめて、美雪を助け起こそうとしたそのとき―― 「バン!」と勢いよく個室の扉が開き、大きな人影が飛び込んできた。 男は美雪を抱き起こし、声が溢れんばかりの焦りを帯びている。「美雪、大丈夫か?」 その姿を、汐梨は生涯忘れることはない。 ――司。 彼女が三年もの間、思い焦がれ、海に身を投げてまであとを追おうとした男。 生きていると知ってはいた。けれど今こうして目の前に立ち、抱いているのは他の女だという現実に、汐梨の全身の血は一気に冷えきった。 体が崩れそうになった彼女を、俊夫が素早く支え、早口で言った。「汐梨!落ち着いて聞け。ずっと黙っていたが……司は死んでいない。ただ記憶喪失になっただけなんだ! 美雪に偶然救われて……二人はもう結婚の準備をしている。だから落ち着け、どうか取り乱すな!」 その言葉のあいだに、汐梨が目を上げ、司の視線とぶつかった。 顔はあの頃のまま。だが、その瞳には、かつての愛情の欠片すらなく、ただ冷たく、よそよそしい光だけが宿っている。 司は眉を深くひそめ、冷ややかな声で腕の中の女を庇った。「汐梨。正統なお嬢様だからといって、人をこんなふうに傷つけていいわけがない」 汐梨は細めた瞳で、不意に笑った。「美雪。新しいボディーガードを雇ったの?芝居が上手ね」 その言葉に、その場の全員が凍りついた。 誰もが知っている。司は汐梨の命そのものだった。彼がまだ生きていると知った今、彼女が平静でいられるはずがないだろう。 司でさえも一瞬戸惑い、目の奥にわずかな困惑がよぎった。 汐梨は部屋にいる全員の様々な表情を見渡し、挑発的に笑った。「なによ?みんな、お化けでも見たみたいな顔して」 「汐梨……あなた、司のことがわからないのか?」とうとう雅美が声を震わせて尋ねた。 汐梨は、きょとんとした表情を作った。「誰?司って誰?美雪の新しいボディーガードの人?」 「もしかして、昔は知っていたのかもね」彼女は思い出したようにかばんから一枚の紙を取り出し、ひらひらと揺らして見せた。 「でも、私は記憶喪失になったの」 診断書にはっきりと記されている。 ――彼女は強い衝撃を受け、記憶の一部を喪失した、と。 そう言いながら、汐梨は司にすこし近づいた。顔には完璧な礼儀正しさを装った微笑みを浮かべ、手を差し出す。 「初めまして。私は瀬戸家の長女、汐梨。よろしく」 司は黙って彼女を見つめ、二秒ほどの沈黙の後、ようやくその手を取った。「椎名司だ。よろしく」 ――この形式ばった自己紹介は、まるで十歳のあの日、初めて彼に出会った時と同じ。 掌が触れ合った瞬間、胸を灼くような熱が走り、汐梨は奥歯を噛みしめて声を平静に保った。 素早く手を引き抜き、俊夫の方を振り返る。口調は再び冷たくなっていた。 「二百億円。十日以内に振り込んで。一か月後、私はスイスへ行く」 第4話 俊夫は記憶喪失の診断書を握りしめ、指先が震え、しばらくしてからようやくかすれた声で言った。「……それでいい。過去のことは……過去のままにしておこう。お前の言った条件は、ちゃんと考える」 汐梨の唇には、かすかな笑みが浮かんだ。「じゃあ、私はもう行くわ。みんな、どうぞごゆっくり」 彼女の背中が遠ざかっていくのを見つめながら、司の心はふと揺れ動いた。 三年ぶりに会った彼女は、ずいぶん痩せて、背も一層すらりと伸び、眉目にはいっそう冷ややかな美しさが加わっている。 彼は何度も再会の場面を思い描いてきた。きっと彼女は泣き叫びながら飛びついてきて、どんなにみっともなくても決してやめようとはしないだろうと。 だが彼女は忘れていた。あまりにも徹底的に。 さきほどの瞳が自分を見たとき、その静けさはまるで見知らぬ人を見るかのようだった。 胸の奥が急に締めつけられ、鋭い痛みが血管を伝って広がった。 どうしてそんなことがあり得る? 十三年の付き合い、十歳から二十三歳まで。汐梨が、どうして忘れるなんてことができる? 彼はふいに、やるせない思いを覚えた。 「司……」 腕の中の女は泣き声を含んで、肩を小さく震わせた。「私、すごく悔しい。どうして汐梨があんなふうに好き勝手に私をいじめられるの?」 司は冷たい声で言った。「大丈夫、俺がちゃんとお前のために取り返してやる」 この三年間、彼が姿を消していた間、美雪とずっと裏で関係を続けていた。 汐梨が泣きすぎて息ができない夜、彼はその頃、一階の使用人部屋で美雪を抱きしめながら眠っていた。 彼は顔を下げ、美雪の背中を撫でながら慰めた。「安心しろ。これからはお前こそが瀬戸家の正真正銘のお嬢様だ。あいつなんて、ただの頼るものもない私生児にすぎない」 彼の言ったとおり、俊夫の再婚以来、瀬戸家は確かに天と地がひっくり返ったように変わった。 美雪は名前を瀬戸美雪に変え、使用人部屋から三階の主寝室に移り、雅美は瀬戸夫人となり、汐梨の母・敦美がかつて住んでいた部屋に入り込んだ。 誰もが汐梨の笑いものになる姿を待っている。だが彼女は何事もなかったように、家の変化を淡々と見ている。 どうせもうすぐ出ていくのだ。今の彼女にとって唯一気にかけるのは、金だけだ。 深夜。汐梨はベッドの上で身を丸め、しくしく痛む胃を押さえている。 これは三年前から続いている持病だ。 突然、ドアを叩く音が響いた。彼女は体を起こし、やっとの思いで扉を開けた。 扉の外に立っているのは、笑みを浮かべた司。 この数日、汐梨は彼を透明人間のように扱うか、あるいは部屋に鍵をかけて会おうとしなかった。 だが彼はまるで心に決めたかのように、いつでもどこでも彼女の前に現れた。 「何の用?」彼女の声は淡々としている。 「美雪が牛骨スープを煮てね、俺に聞いてこいって。汐梨、飲むかどうか」 司の声には、感情がこもっていない。 汐梨はもっともらしい理由を口にした。「ごめんね。私、モデルの仕事をしてるから、いいスタイルを維持するために夜は何も食べないの」 司はふっと低く笑い、その眼差しには何とも言えない感情が潜んでいる。「汐梨、それはお前の勝手にはならない」 言葉が終わるや否や、彼は彼女の手首をがしっと掴み、強引に台所へと引きずっていった。 台所では、美雪がラー油のたくさん入っている牛骨スープを手にして待っていた。二人が入ってくると、彼女はすぐに目を細め、笑顔を浮かべた。 「お姉ちゃん、これは私が新しく考えた料理なんだよ。あなたが味見してくれないと、私の気持ちを無駄にすることになるじゃない」 汐梨は差し込むような胃の痛みを押さえ、必死に顔を背けた。「いらない!」 司は余計なことを言わず、スプーンを手に取ると汐梨の口をこじ開け、容赦なく熱くて辛いスープを流し込んだ。 「――あっ!」 灼熱の液体が喉を滑り落ち、胃の中を炎のように焼き尽くす。激痛が瞬時に全身を駆け巡った。汐梨の顔は紙のように真っ白になり、そのまま力なく床に倒れ込んだ。 美雪は鼻で笑った。 「何を大げさに。せっかくいいものを食べさせてやったのに、倒れるなんて。ほんと、ついてない卑しい女だ」 第5話 汐梨は痛みに耐えきれず床にうずくまり、額には冷や汗が滲んでいる。 司は眉をひそめ、この光景を見つめながら、感情の読めない声で言った。 「美雪、これは少しやりすぎじゃないか」 美雪の顔色は一瞬で冷たくなり、「どうしたの、あなた……まさか心配してるの?」 司は首を振った。「ただ……瀬戸社長に知られたら、あまり良くないと思って」 それを聞いた美雪はようやく口を尖らせ、軽い調子で言った。「わかったわよ、部屋に戻しておけばいいでしょ。大したことないじゃない、少し水を飲んで休めば済むことよ」 汐梨が今にも気を失いそうなほど苦しんでいる姿を見て、司は美雪に向き直り、声にいくらか「諭すような」響きを加えた。 「余計なことはしない方がいい。美雪、瀬戸社長にいい印象を残さないと。 病院に送ろう。ただし、持病が再発したことにして」 結局、彼は救急車を呼び、汐梨を病院へ運んだ。 汐梨が再び目を開けた時には、すでに病院のベッドに横たわっている。 看護師が検査結果を手に入ってきて、少し責めるような口調で言った。 「あなたの胃の病気はもうかなり悪化しています。このまま薬をきちんと使わず放置すれば、胃穿孔になりかねませんよ。 ご家族は?どうしてこんなに無関心なんですか?」 その言葉を聞いて、汐梨は一瞬呆然とした。 家族……?彼女にはもう、とっくに家族などいなかった。 入院から退院し、薬を受け取って家へ戻るまで、瀬戸家からは誰一人として気にかける者はいなかった。 扉を開けると、家族は食卓を囲んで夕飯を楽しんでいるところだ。 司は手慣れた様子で美雪のためにエビの殻を剥き、その眼差しは溢れんばかりの慈しみに満ちていて、美雪は幸せそうに目を細めている。 汐梨の姿に、食卓の空気は一瞬止まった。だがすぐに、誰もが何事もなかったかのように黙って食事を続けた。 まるで彼女など、ただの空気のようだ。 汐梨は真っ先に沈黙を破り、淡々とした声で言った。「約束の二百億円、用意はできている?」 俊夫は箸を置き、曖昧に答えた。「もう少し時間が必要だ」 「いいわ」汐梨はそう返事をし、無意識にじんわりと疼く腹部へ手を添えた。「私がスイスへ行く前に、必ず準備して」 そう言って部屋へ戻ろうとした時、俊夫が背後から声をかけた。「お前……スイスへ行くのは、高江寿樹を探すためか?」 汐梨は一瞬立ち止まり、無表情のまま振り返った。 「そう。彼に会いに行くの。そして結婚するの」 その言葉に、食卓のそばにいる人々は一斉に驚きの表情を浮かべた。 瀬戸家と高江家は古くからの付き合いがあり、汐梨と一歳年下の寿樹は、生まれた時から喧嘩ばかりの腐れ縁だった。 十八歳の時、汐梨が司と付き合い始め、寿樹は怒りで海外へ飛び出した。 そしてその時になって初めて、汐梨は気づいたのだ。あの毒舌で素直じゃない幼なじみが、ずっと自分を想ってくれていたことに。 司が他の女を抱きしめられるのなら、彼女だって――自分を大切にする人と結婚して何が悪い? 「バキッ!」司の手にあった箸が、真っ二つに折れた。 彼は寿樹の青臭いガキじみた態度を一番見下していた。汐梨があいつと結婚するなどと考えるだけで、心臓を鷲掴みにされたように苦しくなる。 その隣で美雪が皮肉たっぷりに口を開いた。「お姉ちゃんも結婚のことを急いでるのね。さっきまで記憶喪失って言ってたのに、もう他の男と結婚するんだ? これじゃあ、K町の人たちみんなに『高江寿樹はただの予備に過ぎない』って知られちゃうんじゃない?」 汐梨の顔色が一気に険しくなる。「口を慎みなさい!あなたに言う資格はない!」 その言葉が終わるか終わらないうちに――乾いた音が響いた。 彼女の頬に、鋭い痛みと共に真っ赤な手形が浮かぶ。 汐梨は燃えるように痛む頬を押さえ、顔を上げた。そこにあったのは、氷のように冷たい司の眼差しだ。 「悪いな、汐梨。美雪は俺の婚約者だ。俺は何があっても彼女を守る」 かつてこの男は、汐梨を強く抱きしめ、「一生、何があっても守る」と誓った。 「……そう」 汐梨は喉の奥から込み上げる嗚咽を必死に押し殺した。 俊夫も、雅美も終始沈黙したまま。美雪は愉快そうにそばで眺めている。 父に裏切られ、愛した人に背かれ――今や誰もが彼女を踏みつけ、嘲笑う。 けれど、汐梨はこれ以上揉め事を起こそうとは思わない。あと一か月で、彼女はここを去り、この男と永遠に縁を切るのだから。 その時――司の胸に、不意に奇妙な衝撃が走った。汐梨の瞳の奥に、初めてはっきりと憎しみを見たのだ。 それはむき出しで、隠そうともしない、鋭い恨みの光。 思わず手を伸ばし、赤く腫れた頬に触れようとした。だが汐梨は、顔をそむけてその手を避けた…… 第6話 「触らないで!」 汐梨は冷たく鼻で笑いながら言った、「自分の婚約者をちゃんと見張りなさい。あなたたち二人とも、私から離れて」 そして彼女はくるりと背を向け、そのまま立ち去った。 連日の疲労が一気に押し寄せ、倒れ込むように眠りにつき、次に目を開けたときにはもう翌日の午後になっている。 スマホの画面が光り、寿樹から六時間前に送られたメッセージが表示されている。 【どうもお前の様子がおかしい。今夜八時に空港に着く、迎えに来てくれ】 時計を見上げると、すでに六時を過ぎていた。 汐梨は慌てて身支度を整え、家を出るときには瀬戸家は空っぽで、誰一人いない。 車を走らせて空港へ向かう途中、突然、別の交差点から黒い車が飛び出してきて、彼女の車に激しく衝突した。 すべてはあまりに一瞬のことだった。汐梨は天地がひっくり返るように感じ、車ごと何メートルも吹き飛ばされた。飛び散るガラスの破片が彼女の腕を切り裂き、血が指先から滴り落ちた。 彼女は歯を食いしばってドアを押し開け、顔を上げた瞬間――司の陰鬱な瞳とぶつかった。 「あなた……」 汐梨は胸が締め付けられるのを感じ、その場で悟った。 これは事故なんかじゃない。 司は冷ややかに言い放った。「連れて行け!」 数人の黒服のボディーガードがすぐさま駆け寄り、彼女を力強く押さえつけ、太い縄でがっちりと縛り上げ、そのまま司の車に放り込んだ。 どれほど時間が経ったのかも分からないまま、汐梨は廃工場へ連れて来られた。 彼女は椅子に縛り付けられ、身動きがまったく取れない。 司は手に持った革の鞭を弄びながら、ゆっくりと彼女の前に歩み寄った。 「言え。美雪をどこに隠した?」 根拠のない問いかけに、汐梨はただ呆れた。「私が彼女に何をできるっていうの?さっき起きたばかりで、一日中顔も見てないわ」 司は冷たく鼻を鳴らし、鞭を地面に叩きつけた。耳をつんざくような音が響く。 「じゃあなぜ彼女が誘拐された?K町中で、あれほど強い恨みを抱いているのはお前以外に誰がいる?」 汐梨は思わず笑った。「彼女が誘拐されたのなら、犯人を探しに行くべきじゃないの?私を捕まえてどうするつもり?」 「まだ嘘をつくか!」 司の首に青筋を立て、怒声が響いた。「瀬戸汐梨、お前の言うことを俺がまだ信じると思うか?」 「ないものはないって言ってるの!」汐梨もついに声を荒げ、目に涙を浮かべながらも決して怯まなかった。 「いいだろう。どこまで意地を張れるか見てやる!」 振り上げられた鞭が、思い切り振り下ろされた。司は全身の力を使い尽くした。 汐梨の背中に走った激痛は、魂までえぐり取られるようで、全身が切り裂かれるかと思うほどだ。 その一撃で彼女の力は尽き、頬を伝う大粒の涙が氷のように冷たい床に次々と落ちた。 彼女はもう、この男に心を砕かれることなどないと思っていた。だが、こうして残酷に扱われると、肉体だけでなく心までも痛みに震えた。 体の痛みなら耐えられる。けれど心の痛みは、押し寄せる波のように彼女を何度も呑み込んでいく。 司は鞭を握る手をわずかに震わせ、彼女の目尻を伝う涙を見て、二度目の一撃をどうしても振るえなかった。 彼は鞭を地面に叩きつけ、大きく息を吸い込み、抑えきれない怒りをにじませて言った。 「いいだろう。なら答えろ。どこへ行くつもりだった?空港に行くんだろ?急いで寿樹に会いに行くためか?」 汐梨は苦笑し、怒りを帯びた彼の顔を見上げた。「司、あなたは寿樹のことをまったく知らないのね? あなたは美雪の婚約者。私とあなたはただの他人。私が誰と結婚しようと、あなたに何の関係があるの?」 その言葉は司に大きな衝撃を与えた。 彼は突然身をかがめ、汐梨の襟首を乱暴に掴み、そのまま強引に唇を重ねた。 自分がどれほど気まぐれでも、どれほど遊び人でも、どれほど女に溺れていても構わない。 彼はいくらでも遊べる。好き勝手できる。だが、汐梨が他の男と結婚することだけは許せない。 彼女が自分たち十三年の過去を忘れることだけは絶対に容認できない。 汐梨は顔を横に逸らし、力いっぱい彼の唇に噛みついた。 唇の間に濃い血の味が広がり、痛みに耐えかねて司はようやく彼女を放した。 彼女は冷たい声で言い放った。「――義弟さん、あなたは一線を越えたわ」 第7話 「義弟さん――」 その呼び方は、まるで毒針のように司の心臓を深く刺した。 彼は突然、汐梨の顎を掴み、無理やり顔を上げて自分と視線を合わせさせた。目の奥には、抑えきれない怒りが渦巻いている。 「汐梨、もう一度言ってみろ。俺に関して、全く記憶がないだと?信じられない!」 汐梨の下顎は痛みに耐えかねて震え、声も止まらず震えている。 「義弟さん……あなたと知り合ってから、まだ三日も経ってない……」 そう言いながらも、頭の中にはまるで再生ボタンが押されたかのように、十三年分の記憶の断片が洪水のように押し寄せた。 十歳の時、汐梨をいじめた子を追い払った際に見せた、彼の不器用な笑顔。 十五歳の時、雨に濡れて熱を出した汐梨の傍で、目を赤くして「バカ!」と叱った彼の姿。 二十歳の大晦日、彼は花火の下で汐梨を抱き、真剣に願い事をした様子…… ほとんど汐梨の人生の三分の二にあたる時間だった。 司は、彼女がまだ油断しない態度を崩さないのを見て、手をゆるめることにした。 「いいだろう、好きに装え」彼は冷く鼻を鳴らしたが、声の端には少しだけ柔らかさが混じる。「だが、美雪はどこにいるのか、必ず教えろ」 汐梨は彼を横目で睨みつけた。 「美雪がどこにいるかなんて知らないわ。ここで時間を無駄にするより、通報した方が早いんじゃない?」 司は拳を握り締め、指の関節が鳴った。「俺にどうしろって命令する資格が、お前にあんのか?」 彼は体を前に倒し、汐梨の顔の前で息を吹きかける。力強い圧迫感が伝わる。 「もう一度聞く。夜遅くに空港へ行くのは、寿樹に会いに行くためじゃないのか?そんなに急いでスイスに行くのは、やましいことでもなければあり得ないだろうが」 「私が何をしようが、あんたに関係ない!」 汐梨は負けじと視線を上げ、目には強い意志が宿っている。 司は突然笑みを浮かべた。その笑みには軽蔑の色が混じる。「やはりな、逃げる力なんてお前にはない」 彼の心の中では、十年以上の共に過ごした日々が骨身に刻まれており、汐梨が離れたら生きていけないと確信している。 「だが今のその強情な態度、少しも服従する気配がないな」 そう言い、彼は隣の部下に合図を送った。 数人がすぐに前に出て、汐梨を椅子から降ろし、再び車の中に縛り付けようとした。 その時、司のスマホが鳴った。彼は画面を確認し、緊張していた横顔が一瞬で柔らかくなる。 「美雪、今どこにいる? この二日間、どこにいたの?心配してたんだよ、今大丈夫?」 電話の向こうから、美雪の気だるそうな声が届く。少し意図的に甘く響かせている。 「大丈夫だよ。ただちょっと試したくて。もし私が誘拐されたって言ったら、どれだけ焦るか見てみたくて」 司は安堵の息を吐き、無力そうに笑い、愛情たっぷりの口調で言った。 「よし、満足したか?次からはこんな冗談はやめろ、俺は本気にするぞ」 「じゃあ、ビデオ通話してよ」美雪はさらに甘えて言った。「今どこにいて、誰と一緒にいるのか見たいの」 司の視線が一瞬で汐梨に向き、その目に悪戯な色が浮かぶ。 彼はスマホを揺らし、受話器に向かって笑いかける。「美雪、嫌いな人がみっともない姿を見たら、嬉しいと思わないか?」 汐梨が反応する前に、司は彼女の肩を掴んだ。 その力は骨を砕くかと思うほど強く、彼女を椅子から引き倒し、床に伏せさせて背中をさらした。 そこには、鞭の跡は深くえぐられ、もはや血肉の区別もつかない。おぞましい傷痕が、暗闇の中で凄惨にむきだしになっていた。 「美雪、見てごらん、これは誰だ?」彼はスマホを近づけ、カメラを汐梨の背中に向けたまま固定する。 汐梨は極めて屈辱的な姿勢で冷たいコンクリートの床に押さえつけられ、顎は小さな石にぶつかり、血が滲む。 目の前は暗くなり、耳には美雪の茶目っ気たっぷりの声が鮮明に聞こえる。 「まあ、汐梨を捕まえてきたの?しかも殴ったの?まぁ、手加減なしね。 ざまあみろ、子供の頃から私をいじめてきたんだから。父親は同じなのに、どうしてあの子がお嬢様で、私は家政婦の娘なの?」 司はさらに美雪に向かって自慢げに言う。「俺、上手くやっただろ?満足か?」 「満足、満足」美雪の声は甘くて耳にくる。「早く帰ってきて、ちゃんとご褒美あげるから」 汐梨は、目の前がますます暗くなるのを感じた。 冷静に考えれば、彼女はこれまで一度も美雪をいじめたことはない。 幼い頃、美雪が他の子に「家政婦の娘」と嘲笑されると、背後に守ってあげた。 美雪がこっそり汐梨のドレスを着て雅美に叱られた時も、汐梨が「私が貸してあげた」と弁護した。 彼女はこのいわゆる「妹」を、共に育った大切な友人として扱っていたのだ。 しかし今、彼女の自尊心は、自分と共に育ったこの二人によって、まるでゴミのように地面に踏みにじられている。 絶望が潮のように押し寄せ、彼女はもがこうとするが、指一本すら動かせず、視界は徐々に闇に沈んでいった。 意識が消える最後の瞬間、彼女は司の部下の慌てた声を聞いた。 「ボス、彼女……血がたくさん出ています……どうやら気を失ったようです!」 第8話 再び目を開けると、汐梨は自分が別荘の寝室に横たわっていることに気づいた。 背中の傷は簡単に処置されていたが、それでも骨に染みるような痛みが走る。 喉はカラカラに渇き、水を求めて起き上がろうとするが、扉までたどり着いた瞬間、扉が施錠されていることに気づく。 汐梨は心臓が一瞬止まったようになり、スマホを取り出すも、すでに電源は切れていた。 この瞬間、彼女は自分が軟禁されていることを悟った。 「司!司!私を出して!」彼女が必死に扉を叩く。 力尽きそうになったそのとき、ようやく扉が開かれた。 だが、そこに立っていたのは美雪で、十二月の寒気のように冷たい目をして、一歩一歩彼女に近づいてきた。 「おや、起きた?」美雪は嗤い、突然手を伸ばして汐梨の長い髪を掴む。「さっき、扉に向かって誰を呼んでたの?司?どうしたの、忘れたの?彼、今は私の婚約者なんだよ?」 頭皮を引っ張られ、痛みに耐えながらも汐梨は歯を食いしばり、声を出さず目を見開いて睨み返した。 「あなたの婚約者にこんなことされて、閉じ込められているのに、私が叫んだら何が悪いの?」 「閉じ込められてる?」美雪はさらに得意げに笑い、力を増す。「お嬢様の口は本当に辛辣ね。ここは瀬戸家の別荘、あなたの寝室、閉じ込められたなんて言えないでしょ?」 言い終わるや否や、美雪は汐梨の髪を強く引っ張り、汐梨は不意を突かれて床に倒れ込む。 冷たい床が背中の傷に食い込み、痛みで目の前が暗くなる。 「記憶喪失なんて、演技でしょ?」美雪は高みから睨みつけ、その目はまるで毒に塗れたようだ。「どうしてわざわざ司がいる時を狙うの?汐梨、まだ彼のこと気にしてるんじゃないの?」 「誰が気にしてるって言った!」汐梨は首を伸ばして叫ぶ。「彼が勝手に手を出したんだ!美雪、あんた自分の男を見守れないくせに、何で私を苛めるの?」 その言葉は美雪の急所を直撃した。彼女の顔は真っ赤になり、目の中の憎悪が溢れ出そうとしている。 「今なんて言った?もう一度言ってみろ!」 司はもともと汐梨の手から奪ったものだ。これは美雪が心の奥に隠していた最も痛い傷で、誰が触れようものなら、決して許さない。 怒りに任せ、美雪は汐梨の髪を引きずって机の方へ移動させ、ついでに棚からハサミを取り出す。冷たい刃先が汐梨の顔に向けられる。 「お嬢様、この長い髪を一番大切にしているじゃない?」美雪は不敵な笑みを浮かべ、ハサミの先で一筋の黒髪を摘み上げる。「あなた、私の婚約者を誘惑したでしょ。この髪を私の卒業制作に使うくらい、別にいいでしょ?」 「やめて!」汐梨は目を見開く。 腰まである長い髪は、幼い頃から大事にしてきたものだ。 どこからか力が湧き、彼女は突然美雪の拘束から逃れ、爪で相手の腕に数本の傷を刻んだ。 美雪は痛みに叫ぶが、手の中のハサミは止まらない。 カチッ、一握りの髪が床に落ちた。 汐梨は完全に目を赤くし、手を伸ばして美雪の腕を掴み、爪を深くに食い込ませる。 美雪は痛みに手を緩め、ハサミは「ガシャン」と床に落ち、ちょうど彼女の足の甲に当たる。 「うっ──」 美雪は痛みによろめき、壁に手をついて大きく息を吸う。白い足の甲は真っ赤になり、涙が溢れ出る。 汐梨は慌てふためきながら床から這い上がり、真っ先にハサミを拾って胸の前で構える。そしてハサミを強く握りしめ、怒鳴った。 「美雪、ここは瀬戸家だ!あんたの好き勝手をする場所じゃない!」 その言葉を放った瞬間、背中に激痛が走り、よろめいて倒れそうになる。 振り返ると、司の目がぎらつき、まるで人を喰らうかのように凶悪だ。 「瀬戸家だと?」彼は冷笑する。「信じるか?今すぐこの家から出て行かせてやろうか?」 司は一瞥すると、負傷した美雪を助けに駆け寄った。 「美雪、大丈夫か?怪我はひどくないか?」 美雪は頼れる相手が来たことで、すぐに泣き出し、彼の胸にすがる。「司、汐梨がハサミで突いてきたの……殺されるかと思った……」 司は彼女を抱きしめ、視線は刃物のように汐梨を見つめ、厳しい口調で命じる。「出て行け!」 汐梨は彼が美雪を庇う姿を見て、思わず笑った。涙があふれそうになる。 出て行け? この、すでに占拠されてしまった家、もはや家でない場所から? むしろ、願ったり叶ったりだ。 汐梨はほとんど逃げるように荷物をまとめ始めた。 瀬戸家で二十六年間、よちよち歩きの頃から大人になるまで、成長の跡がこの家の隅々に刻み込まれていた。 だが、離れるとなると、持っていくのは小さなスーツケース一つだけだ。 スーツケースを引きずりながら扉の前に立ち、彼女が思わず振り返る。 リビングの暖色の灯の下で、美雪は足を組んでソファに座り、司はカーペットに跪き、頭を下げて彼女の傷を丁寧に処置している。 なぜか、汐梨は十歳の時を思い出す。彼女も同じように、この男の傷を慎重に手当てしていた。 胸がギュッと痛む。何かに刺されたような感覚だ。 汐梨は目を強く閉じ、無理やり視線を戻す。 もう、すべて終わった。 扉の向こうに消える背中を見送りながら、美雪は司にすり寄る。 「司、汐梨は数日で戻ってくると思う?」その言葉に計算が潜んでいる。 司は顔を上げ、彼女の頬をつまみながら笑みを浮かべる。目には甘やかな色が宿る。 「安心しろ、仮に哀願して戻ってきても、俺は絶対に入れさせない」 だが、心の中では密かに賭けをしている。 汐梨は一週間も持たず、長くても七日で泣きながら戻り、彼の脚にすがって謝り、瀬戸家に留まることを懇願すると。 しかし今回は、汐梨が本当に振り返ることはないと、彼はまだ知らなかった。