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千葉夕子(ちば ゆうこ)には、鹿野景祐(しかの けいすけ)を何回許したかを記録するノートがある。 半年前、景祐は夕子の誕生日に、彼女を置...

Chương (1)

第1章

千葉夕子(ちば ゆうこ)には、鹿野景祐(しかの けいすけ)を何回許したかを記録するノートがある。 半年前、景祐は夕子の誕生日に、彼女を置き去りにして白石遥(しらいし はるか)に会いに行った。夕子が彼を許したのは今回93回目だ。 三ヶ月前、遥の「猫アレルギーがある」の一言だけで、景祐は夕子が長年飼っていた猫を他人に譲った。夕子は94回目の許しを彼に与えた。 一ヶ月前、景祐は酔っ払って、遥と一緒のベッドで目を覚ましたにもかかわらず、「何も起こらなかった」と言い張り、逆に夕子の心が汚いからそんなことが思いつくと言い放った。これで夕子が彼を許すのは95回目となった。 第1話 千葉夕子(ちば ゆうこ)には、鹿野景祐(しかの けいすけ)を何回許したかを記録するノートがある。 半年前、景祐は夕子の誕生日に、彼女を置き去りにして白石遥(しらいし はるか)に会いに行った。夕子が彼を許すのは今回93回目だ。 三ヶ月前、遥の「猫アレルギーがある」の一言だけで、景祐は夕子が長年飼っていた猫を他人に譲った。夕子は94回目の許しを彼に与えた。 一ヶ月前、景祐は酔っ払って、遥と一緒のベッドで目を覚ましたにもかかわらず、「何も起こらなかった」と言い張り、逆に夕子の心が汚いからそんなことが思いつくと言い放った。これで彼を許すのは95回目だ。 そして今日、夕子は病院のベッドに横たわり、遥に轢かれて負傷した右足を見つめながら、事故の瞬間に真っ先に遥のもとへ駆け寄った景祐の姿を思い出し、再びノートを開いてこう書いた。 【96回目 景祐を許す】 このノートは99ページしかない。まるで彼女が心で決めたように、景祐を許せるのは99回までだ。 99回目に達したら、それは彼女が去る時だ。 夕子は深く息を吸い、そっとノートを閉じた。 ちょうどノートをしまおうとしたその時、隣のソファで眠っていた景祐が目を覚まし、夕子の動きに気づいて目を擦りながら掠れた声で聞いた。 「何を隠してるんだ?」 「別に、仕事のメモよ」 夕子は話題を逸らして、ごまかした。 景祐はそれ以上追及せず、近寄って夕子の点滴を確認した。 交通事故に遭ってから今まで、景祐は不眠不休で夕子の世話を一日中してきて、ほんの二十分前にようやくソファで、束の間の眠りについたのだった。 夕子は彼の赤くなった目を見て、ついに我慢できずに口を開いた。 「お医者さんも大したことないって言ってたから、先に戻って休んでいてよ」 「そんなことできるわけないだろ?」 景祐は思わず否定した。 「お前は病人だ。そんなお前を一分たりとも一人きりにしておくなんて、不安でできない」 そう言いながら、景祐は立ち上がって夕子の布団をかけ直し、背もたれの角度を整えた。細心の気配りが全身からにじみ出ているようだ。 目の前の男の、情深く痛々しい様子を見て、夕子の脳裏に二日前の遥が傲然と彼女を見つめる表情がよみがえった。 「夕子、三年前、景祐のために自分のお兄さんと喧嘩して、縁を切ってまで景祐と一緒に西京に来ることを選んだって聞いた。景祐もその原因であんたを命がけで愛してるよね。 でもさ、もし私たちが同時に事故に遭ったら、景祐は真っ先にどちらに駆け寄ると思う?」 遥はそう言い終えると、夕子に反応する間も与えず、アクセルを踏み込んで突っ込んできた。 不意を突かれ、車がぶつかってきた瞬間に夕子は片足が挟まれ、血まみれになった。 少し離れた場所にいた景祐も音を聞いて駆けつけたが、彼が真っ先に向かったのは夕子ではなく、遥の方だった。 この瞬間、夕子がずっと自分に言い聞かせてきた「景祐はまだ自分を愛している」という甘い夢は、完全に打ち砕かれた。 人間の最初の反応は、偽れないものだ。 生死がかかったその瞬間、景祐が選んだのは、別の人だった。 そんなことを思い出しながら、夕子が彼に戻って休んでと声をかけようとしたその時、景祐の携帯が鳴った。彼は番号を一瞥して、少しためらいながら夕子を見た。 「会社からの電話だ。ちょっと出てくる」 そう言って、彼は背を向けて出て行った。 数秒も経たないうちに、看護師が回診に訪れ、ちょうど病室のドアを開けた。すると、入り口に立つ景祐の電話の声がはっきりと聞こえてきた── 「景祐、どうしよう、また悪夢を見た……ずっと夕子に轢き殺される気がするの……早く来て……」 この言葉を聞いた途端、景祐の表情が一変し、瞳の奥に痛々しい色が浮かんだ。 彼は声をひそめて優しくなだめた。 「遥、怖がらないで。すぐ行くから」 数分後、景祐が再び戻ってきて夕子の額にキスをした。 「ごめん、ハニー。会社にちょっと急用ができて、すぐ戻らなきゃ。あとでまた来る」 そう言って、夕子の返事も待たずに慌ただしく病室を後にした。 しばらくすると、若い看護師が、ニヤニヤと笑いを浮かべながら部屋に駆け込んで来て、小声でゴシップを囁いた。 「さっきこの病室から出ていった男の人、すっごくイケメンね。イケメンなだけじゃなくて、すごく優しくて、電話でずっと『ハニー、ハニー』って呼んでたの。きっと彼女をなだめてたんでしょうね。あんなに彼女思いの彼氏がいるなんて、超羨ましい……」 病室には夕子と景祐の関係を知っている年配の看護師がいて、彼女を軽く肘で突いた。それでようやくまずいことに気づき、彼女はすぐに口を閉じて病室を出ていった。 夕子はそれを聞くと唇を噛みしめ、しまったばかりのノートを再び取り出して、改めて書き記した。 【96回目景祐を許す。私だけを『ハニー』と呼ぶって約束したのに、嘘だった】 第2話 病院で一週間過ごした後、夕子はようやく退院した。 景祐は迎えに来ると約束していたが、急な用事が入り、代わりにドライバーを手配してくれた。 夕子は何も言わず車に乗り込み、スマホを取り出してインスタを開くと、ちょうど遥の最新投稿が表示されていた。 【西京郊外の温泉は本当に最高!浸かったら身体の痕跡が全部消えた!これで誰かには絶対バレないね~】 写真はビキニ姿の自撮りで、横に男性の腕が写り込んでいた。 夕子はすぐにそれが景祐の腕だとわかり、彼の言う「急用」の事実も理解した。 彼女はその投稿に「いいね」を押した。 景祐が家に戻ったのは夜の10時を過ぎていた。ドアを開けると、すぐに夕子に抱きついて詫びた。 「夕子、すまない。今日は仕事が忙しくて、迎えに行けなかった」 夕子はさりげなく彼の動作をかわした。 「大丈夫よ、仕事の方が大事だから」 夕子の平静な様子を見て、景祐はほっとしたように、再び優しく言った。 「まだ夕食食べてないだろう?お前の好きなインド料理をアシスタントに先に買ってもらってるから、少しだけ食べておいて。 夜、風呂に入る時は傷口が水に濡れないように防水バンドを貼ってあげる。 それと寝る時も気をつけて、傷を悪化させないように」 夕子は彼の心配する言葉を聞きながら、胸が張り裂けそうな思いだった。 「……うん」 不思議なものだ。見た目は何も変わっていないのに、全てが変わってしまったような気がする。 目の前の人はまだここにいるのに、かつての愛情はもうどこにも見えない。 景祐が立ち上がって浴室に向かった。夕子は再び思いに沈んだ。 ちょうどその時、携帯が鳴った。ラインを見ると、遥からのメッセージが届いている。 【昨夜、私たち4回もやったわ。最高だった】 【彼、最後にあなたとやったのはいつだっけ?なんでだか、気にならないの?】 【答えが知りたかったら、彼の服のポケットを覗いてみなよ。きっと驚くわ】 既読された途端、遥はすべてのメッセージを取り消した。 隠せば隠す程、かえって目立つ。 夕子は、遥がわざと自分に嫌がらせしようとしていると分かっているが、それでも景祐が脱ぎ捨てた上着に手を伸ばさずにはいられなかった。 ポケットの中にはTバックが入っている。 レースの蝶リボンがついた、セクシーで露骨な下着だ。 夕子が呆然としていると、景祐が浴室から出てきて、Tバックを奪い取ると、慌てた口調で言った。 「絶対に達也(たつや)たちの悪戯だ!夕子、誤解しないでくれ、俺は……俺は……」 夕子は彼の言い訳を聞いているうちに突然強い吐き気に襲われ、洗面所に駆け込むと、嘔吐を繰り返し、胆汁まで吐き出しそうになった。すぐそばにいた景祐は慌てて水を差し出し、彼女を抱き寄せて背中をさすった。 しばらくして、景祐がふと口を開いた。 「夕子、まさか妊娠してるのか?」 その言葉に夕子は一瞬硬直した。すぐに青白い顔を上げて作り笑いを浮かべた。 「景祐、最後に私に触ったのがいつだったか、覚えてる?」 「私一人で、どうやって妊娠できるっていうの?」 第3話 夕子は物心がついた時から、景祐のことを知っていた。 当時、千葉グループと鹿野グループは連携関係にあり、兄の千葉伸之(ちば のぶゆき)と景祐も親友同士だった。三人はいつも一緒に行動していた。 あの頃の夕子はこれ以上ないほど幸せで、兄に溺愛され、景祐という幼馴染にも恵まれていた。 十七歳の時、景祐は彼女に告白した。 少年の瞳の奥には、恥じらいと深い想い、そして彼女と共に人生を歩んでいくという強い決意が秘められていた。 そうして五年が過ぎた。これも夕子にとって、最も幸せな五年間だった。 その後、鹿野グループと千葉グループはあるプロジェクトを同時に巡って競争することになり、千葉グループがわずかな優勢でプロジェクトを勝ち取った。 一方、景祐の父は過大な投資が実らず、巨大な損失を被り、心臓発作で急逝した。鹿野グループもその後、すぐに破産した。 景祐はこのことで千葉家を深く恨み、全面決裂した。彼は大勢の前で夕子にこう宣言した。 「千葉家と俺、二者択一だ」 夕子は景祐を深く愛していたこと、そして景祐の父親の死に幾分かの後めたい思いもあったため、心を鬼にして兄の伸之と縁を切り、景祐と共に西京へ渡り、起業し始めた。 最初の一年、景祐は確かに心から感動していた。伸之を心底憎んではいたものの、夕子の前ではそれを表に出さず、むしろ意図的に仕事の話題を避けていた。 だが二年目になると、景祐の仕事が軌道に乗り始め、遥が秘書として加わった。 二人の間には、次第に微妙な変化が生じ始める。 景祐は帰宅しない夜も増え、たまに家に戻っても、仕事を理由にゲストルームで寝るようになった。 遥と二人きりで過ごすこともますます頻繁になった。 遥も最初の慌ててごまかす様子から、今では故意に挑発してくるようになっている。 夕子はこれらが全部気のせいだと自分に言い聞かせ続けてきたが、今回の交通事故ですべてが崩れた。 彼女はようやく現実に目を覚ました。 景祐は、もう彼女を愛していない。 残酷なことだが、これが現実だ。 夕子のその言葉を聞くなり、景祐はドアをバタンと閉めて出て行ったきり、一度も戻って来ていない。 突然、運転手から電話がかかってきた。 「千葉さん、鹿野社長が酔っていて、ずっとあなたのお名前を呼んでおります。迎えに来ていただけませんでしょうか」 「秘書に連絡してください」 夕子は電話を切った。 だが運転手は諦めず、何度もかけてきた。 四度目の電話に、夕子は仕方なく身を起こし、会員制クラブまで迎えに行った。 個室の前に来て初めて気づいた。景祐は一人ではなかったのだ。彼は遥を抱きしめ、激しくキスをしながら、まるで彼女を自分の体に溶け込ませようとするかのように貪っていた。 周りの友達は皆やじっており、明らかにこういう光景にはもう慣れっこだった。 事態を収めようとせず、むしろ面白がって大声で野次る者もいた。 「景祐、元カノと比べて、どっちが床上手で気に入ってるんだ?」 景祐は傲慢に笑いながら言った。「新しい女がいると、元カノと寝る奴がどこにいるっていうんだ」 皆は再び歓声を上げた。 「景祐、さすがだ!」 つまり景祐の心の中では、彼女は単なる元カノでしかない。 新しい女には及ばず、彼がもう触れようともしない元カノに過ぎない。 夕子の胸は締め付けられるように痛んだ。両手を強く握りしめ、壁に寄りかかってようやく倒れずに踏みとどまった。 個室から遥の計算された甘え声が再び響く。 「それなら、どうして夕子と別れないの?」 「俺は絶対に夕子とは別れない」 景祐の声は冷たくて残酷だった。 「あの女が側にいるだけで、俺は父親がどんなに惨めに死んだかをいつも思い知らされる。千葉グループに俺が何をされたかも、忘れずにいられるんだ」 夕子はまるで氷の穴に落とされたような気分だった。 なんと、ここ何年もの間、景祐はここまで彼女を恨んでいたのか。 第4話 夕子は自分がどのくらいの間、入り口に立ち尽くしていたのかわからなかった。 個室の中から聞こえる、自分を蔑むようなからかいの声や、遥が手慣れた様子で景祐とイチャつく物音を聞いているうちに、全身の力が抜けていくのを感じた。 よろめきながら立ち去ろうとした時、景祐たちが部屋から出てきた。 遥が先頭を走っていたが、振り向いた拍子に夕子にぶつかる。 夕子は全く備えていなかったため、その衝撃で前方によろめいた。とっさに手をついた先は消火栓で、手のひらからはたちまち血が流れ出した。 「あっ――私の服!」 遥は服が汚れたのを見て鋭い声を上げ、次の瞬間、夕子の頬にビンタを浴びせた。 「このバカ!私の服を汚して、弁償できるの?」 夕子はその一撃で呆然となり、片側の頬は瞬く間に赤く腫れ上がった。乱れた髪が、その姿を一層みじめに見せている。 一方、景祐はその流れで遥を抱き寄せ、怪我はないかと慌てて尋ねた。 周りの連中はすぐに夕子に詰め寄った。 「どこのホステスだよ?景祐の女にぶつかるなんて、死にたいのか?」 「すぐに土下座して謝れ!景祐の大事な女に危害を加えたんだからな!」 夕子はその言葉を聞き、心が完全に冷え切った。 これだけの人間が遥の特別扱いを知っているなら、景祐が普段からいかに彼女を大切にしているかは明白だ。 彼女は目を閉じて、これ以上もう関わりたくないと、そう思ってくるりと背を向けて去ろうとした。 すると、景祐の冷たい声が響いた。 「待て!」 その口調は威圧的だった。 「謝れ!」 たった二文字の言葉だが、夕子はその中に明確な怒りを感じ取った。 まるで彼らが付き合い始めた頃に戻ったようだった。あの時も、チンピラに絡まれていた夕子のため、景祐は同じように陰険な目つきで謝るよう要求した。だがそのチンピラは謝るどころか、さらに口汚く罵倒し続けたのだ。 景祐は激怒して前に進み出ると、チンピラを掴み、窒息させるほど殴りつけた。結局、二人は揃って警察署に連行された。 警察から釈放された後、景祐は泣き腫らした目をした夕子を見つめ、胸が締め付けられるような思いで彼女を抱きしめた。 「怖がるな、夕子。俺がいる限り、これから誰にもいじめさせない」 あの明確な誓いの声がまだ耳元に残っているのに、今、景祐が守っているのは夕子ではない。 そう思うと、夕子はゆっくりと赤く腫れた顔を上げ、もつれあった前髪の奥から、まるで流血するかのような目を現し、喉を潰したかのような笑い声を零した。 「鹿野社長、私にどう謝罪してほしいのですか?」 「ゆ……夕子!」 景祐は夕子の顔を見て驚愕し、慌てて駆け寄ると彼女の手を掴んだ。 「なぜここに?どこを怪我した?さっきの手は――」 傍らにいた遥はその様子を見て表情を曇らせ、景祐の焦る様子に、目の奥に嫉妬と憎しみが浮かんだ。 夕子は手を引っ込め、再びうつむいた。 「運転手からあなたが酔ったと連絡があって、迎えに来ただけ。側にいてくれる人がいるなら、私は帰る」 そう言うと彼女は踵を返して立ち去ろうとしたが、目の前が突然真っ暗になり、足元が崩れて、意識を失った。 「夕子――」 景祐は即座に駆け寄って夕子を抱き上げ、叫び出した。 「車を手配しろ!急いで病院へ!」 一同が慌てて駆け寄る中、遥だけはその場に立ち尽くし、拳を握りしめ、瞳に激しい嫉妬と憎しみが燃え上がっていた。 第5話 夕子はどうやって病院に着いたのか覚えていなかった。意識が戻ったときには、既に翌日だった。 景祐が病室にいることに気づくと、彼女はわざと眠ったふりを続けた。 景祐に顔を合わせるのも、下手な言い訳を聞かされるのも耐えられないからだ。 医者が出て行くと、景祐は再びベッドの傍らに座り、夕子に布団を掛け直した。その動作は、最も大切な宝物を扱うかのように優しかった。 しかし、彼が前にやったことは、まるでゴミを扱うようだった。 突然、ドアが再び開く音がして、きつい香水の香りが漂ってきた。 遥だ。 彼女は景祐の胸に飛び込むと、悔しそうに、そして甘えた声で言った。 「景祐、どうして私を無視するの?責めてるの?会いたかったよ……」 景祐もびっくりして振り返り、夕子を一瞥すると声を潜めた。 「どうしてここ来たんだ?責めてなんかいない。早く出て行け、夕子に気づかれるな」 「彼女はまだ麻酔が覚めていないのに、気づくわけないでしょう?景祐、私に会いたくなかったの?」 遥はそう言いながらコートを脱ぎ、中から興奮させるようなセクシーな下着を露わにした。景祐は一瞬硬直した。 遥は彼の反応を見て、来た甲斐があったと確信した。 彼女は病床で寝ている夕子を一瞥し、既に意識を取り戻していることに気付くと、たちまち大胆な考えが頭をよぎった。 動作はさらに大胆になり、コートを脱ぎ捨てると、露骨な動きで景祐を傍らの付添いベッドに押し倒し、慣れた手つきでその首にキスをした。 「前にこの下着、気に入るって言ったじゃない?あなたのためにわざわざノーブラで来てあげたんだよ……道中、たくさんの人に盗み見られちゃって……」 景祐の息遣いは荒くなったが、理性はまだ残っていた。 「ふざけるな。先に帰れ。夜、会いに行く」 「嫌だよ。会いたかったんだもん、景祐。あなたも欲しがってるでしょ……」 遥は男の心をよく理解しており、こうした方面にも長けている。 たちまち景祐の原始的な欲望を掻き立て、拒む態度も次第に緩んでいった。 遥は彼の変化を読み取り、さらに大胆に動作をエスカレートさせる。手を伸ばして景祐のベルトを解き、わざと夕子の方へ向き直って嬌声をあげる――聞こえないかと心配するほどだった。 病床に横たわる夕子は、これが遥の仕組んだことだとよく分かっていた。一瞬、全身の血液が凍り付き、完全に氷のように冷たくなるのを感じた。 愛する者からの裏切りは、ただ痛いだけでなく、これほどまでに屈辱的で残酷なものなのか。 あのかつて彼女を心底愛していた男は、とっくに心を別の人に移していたのだ。 二人の欲望が頂点に達したその時、景祐は震える声で言った。 「隣の病室に行こう」 景祐は床に落ちていたコートを拾い、遥に覆いかけると、彼女を抱き上げて素早く隣の病室へ向かった。 すぐに、男女の喘ぎ声が聞こえてきた。 わざと耐えようとしたが、夕子にははっきりと聞こえていた。 この瞬間、彼女の涙が雨のように溢れ落ちた。 ゆっくりと病床から起き上がると、夕子は再び自分のノートを取り出し、後ろから3ページ目を開き、震える手で書き記した。 【97回目景祐を許す。彼は他の女と寝た。私の目の前で】 第6話 隣の部屋の音が徐々に静まり、夕子は病床に呆然と座っていた。 ちょうどその時、会社の上司から電話がかかってきた。 「千葉さん、半月前に提出した異動願いが承認されたよ。勤務地は海崎に変更、半月後に着任だ」 「わかりました。時間通りに海崎に向かいます」 夕子は電話を切った。 その瞬間、遥が部屋に入ってきた。 口紅は擦れ落ち、メイクも乱れていたが、表情は挑発に満ちていた。 「誰が海崎に行くの?あなた?また家出するつもり?」 夕子はこの声を聞くだけで吐き気がした。「出て行け!あなたの顔も見たくない」 「ふざけないで、夕子。さっきから起きてたでしょ?私と景祐のことも見たでしょ? あなたはわかってるはず。彼はもうあなたを愛してない。別れないのは両家の因縁があるから。だったらさっさと身を引いたら? 私と景祐が結婚して子供を作り、幸せな暮らしをするまで粘るつもり?」 夕子は遥の傲慢で甘えた様子を見上げた。愛されている者は確かに自信に満ちている。 かつての夕子もそうだった。景祐に愛されていると確信していたから。 だが今、彼女に残されたのは涙と惨めな姿だけだ。 その時、ドアの外から景祐の声が聞こえた。 遥は目をきょろきょろさせると、素早くベッドの枕をいくつか拾い上げ、自分の足元に投げつけた。そしてその場に立ち、手で顔を覆って役者みたいにすすり泣き始めた。 景祐が入って来てこの光景を見ると、表情を変えて遥を睨みつけた。 「何をしている?出て行け!」 「景祐、夕子に呼ばれたの。何も言ってないのに、『恥知らず』だの『景祐を誘惑した』だの怒鳴られて、枕まで投げつけられたの。ウッ……」 遥はいつものように事実をねじ曲げ、あっという間に自分が被害者みたいに振舞った。 景祐はすぐに夕子の方を見た。 「夕子、何度も言ってるだろう?遥はただの秘書だ。彼女に執拗に絡むな!」 秘書? いつでもベッドに付き添える、そして下着一枚で病院まで送り届けるような秘書? それとも「新しい女」と呼ばれ、自分を挑発させる秘書? 夕子は自嘲的に笑った。これらの質問はもう口に出す価値もない。 どうせもう離れるのに、争う必要などあるの? 「出て行ってくれる?休みたいの」 夕子は布団をかぶり、何事もなかったように静かに横になった。 遥は呆然とした。夕子が景祐の裏切りを目の当たりにした後、これほど冷静でいられるとは思ってもみなかった。まるで予期していたかのように。 景祐も同じく違和感を覚えた。夕子は変わってしまった。彼と普通に会話はするものの、その瞳にはかつての愛おしさや深い情熱のかけらもなく、ただ冷たい静水が広がっているだけだ。 この変化に景祐は胸を搔きむしられるような不安を覚え、即座に遥を室外に押し出すと、夕子の元へ駆け寄り、低い声で誓うように言った。 「夕子、個室じゃよく見えなくて、お前に謝らせてしまった。俺は間違っていた」 「そう、分かったわ」 夕子は彼と目を合わせようとせず、横向きに寝た。 頭の中には再び遥の傲慢な姿が浮かんだ。 景祐はこのように冷淡な夕子を見て、突然心底、ぞっとするような寒さを感じた。なぜか、彼は自分が夕子を失いかけていると感じた。 そしてそれは徹底的に失うということだ。 この発見は彼を震えさせ、混乱させた。思考が混乱する中、彼は一歩前へ出て、ずっと言いたかった言葉を口にした。 「夕子、結婚しよう」 第7話 景祐がなぜ突然こんなことを言い出したのか、自分でもわからなかった。 ただ、夕子が確実に自分から離れようとしている強い焦りを感じて、たとえ結婚という形であっても、彼女を引き留めなければならないと思ったのだ。 夕子はその言葉を聞いて、一瞬体が硬直した。彼女はまだ景祐に背を向けたまま、数秒間沈黙した後、静かに尋ねた。 「……どうして?」 これまで何度もプロポーズする機会はあったのに、彼は一度も真剣に考えた様子もなかった。なのに、なぜ今、こんなにも露骨に裏切った後に、結婚を口にするのか? 景祐は夕子が承諾したものと勘違いし、笑顔で近づいてきた。 「どうしても何もないよ。俺たちは長年付き合ってるんだから、いつかは結婚するはずだ。今がちょうどいいタイミングだ」 夕子はその言葉を聞いても、心が少しも動かなかった。ただ、淡々と答えた。 「……そう」 景祐は夕子の拍子抜けするほど冷静な反応に面喰らい、自分がおざなりな態度を取っていると誤解されたのだと思った。 そこで、すぐにまた口を開いた。 「夕子、安心しろ。お前が必要なものは、何一つとして欠かさない」 その後、夕子が再び何か言う前に、彼は病室を出ていった。 夕子はうとうとと眠りに落ち、目を覚ますとすでに夜になっていた。 会社から連絡が入り、西京を離れる飛行機のチケットについて確認してきた。ちょうど2週間後だ。 情報を確認した後、医者に会いに行くと、1週間もすれば退院できると言われた。 夕子はようやく安堵の息をつき、病室に戻ろうとした。 しかし、廊下の曲がり角に着いた瞬間、突然バラの花を持った人々が現れ、彼女を取り囲んで歓声を上げた。 「千葉さん、おめでとうございます!」 夕子は一瞬呆然としたが、その中心でスーツを着てダイヤモンドの指輪を持っている男が景祐だと気づいた。 彼女は思わずくしゃみを連発し、鼻を押さえた。 しかし、景祐は我を忘れてその場の空気に浸ったまま、片膝をついて指輪を高く掲げた。 「夕子、結婚してくれ!」 夕子は眉をひそめた。花の香りが強すぎて、鼻がむずむずする。 彼女は手を上げて景祐に立ち上がるよう促そうとしたが、景祐はすぐに指輪を彼女の指にはめ、興奮して叫んだ。 「夕子、やっと俺のプロポーズを受け入れてくれた! これで俺たちは――」 「……ゴホッ。景祐」 夕子はすでに呼吸が苦しくなり、ようやく言葉を絞り出した。 「早く……この人たちを……どかして……私は……花粉アレルギー……」 景祐はようやく事態を理解し、慌てて周囲の人々に退くよう叫んだ。人々は慌ててその場から離れていった。 しかし、夕子は我慢できず、気を失った。 意識を完全に失う直前、彼女の脳裏に浮かんだのは、初めて花粉アレルギーを起こした時のことだった。 あの時も景祐が彼女を背負い、1階から17階まで、治療を遅らせまいと、一息もつかずに駆け上がってくれた。 なのに今、彼はすっかり彼女の花粉アレルギーのことを忘れていた。 ……皮肉なものだ。 夕子はまたどれくらい眠ったのかわからなかった。 朦朧としながら目を覚ますと、すでに翌日になっていた。 病室には誰もいない。お腹が空いたので、看護師に食事を頼もうとドアを開けた。 すると、ちょうど廊下の向こうから遥が近づいてくるのが見えた。彼女は手に豪華な弁当箱を持ち、夕子に差し出した。 「夕子、これは景祐からの朝食」 夕子は彼女の顔を見るのも嫌で、目を伏せた。 「そこに置いて。さっさと帰って」 遥はそれを見て、勝ち誇ったように笑い、突然夕子の右手をつかんだ。 「これが昨日、景祐がプロポーズした指輪か。きれいね!でも、私のと比べると……ちょっと見劣りするんじゃない?」 そう言いながら、遥は自分の手を上げた。薬指には、夕子のより2倍も大きいダイヤの指輪が光っている。 第8話 夕子の視線がダイヤの指輪に落ちると、突然呼吸が苦しくなった。 まるで、また花粉アレルギーの発作に襲われたかのように。 遥はその様子を見てさらに得意げになり、わざと半步下がって自分のお腹をさすりながら言った。 「夕子、本当にあなたの忍耐力には感心するわ。こんなに露骨に浮気されても、まだ結婚を考えてるなんて! たとえ『鹿野夫人』の肩書きを手に入れたって、何の意味があるの? 昨日、景祐が私の妊娠を知って、どれだけ喜んだかあなたにはわからないでしょうね!」 まさか景祐が昨日ずっと姿を見せなかったのは、遥と親になった祝いをしていたからだったのか。 夕子は目の前のその厚かましい女を見て、唇をわずかに歪ませた。 「それは、本当におめでとう」 そう言い終えると、彼女は振り向いて立ち去ろうとした。しかし、その瞬間、景祐が駆けつけてきた。彼は夕子を背後に守り、冷たい目で遥を睨んだ。 「お前、ここで何をしている?さっさと帰れ!」 遥は景祐の態度を見るなり、すぐに涙ぐんだ表情を作り、小さな声で訴えた。 「景祐、私……ちょっと体調が悪くて、病院に検査に来たの……お腹がずっとチクチク痛くて、怖くて……」 彼女の目に浮かべたその芝居がかりはあまりに明らかで、誰が見ても即座に「演技」と見抜けるほどだった。 だが、景祐は抑えきれない心配を覚え、眉をひそめて言った。 「だったら早く医者に診てもらえ! なぜここでぐずぐずしている!」 遥はさらに涙をぽろぽろと流し始めた。 「でも一人じゃ怖いの……だって私、初めてで……初めて……」 もう少しで「妊娠」という言葉が出そうになった。 景祐は思わず前に出ようとしたが、振り返って青ざめた夕子の顔を見て、ぐっと踏みとどまった。 「自分で医者に行け。検査くらい、何が怖いんだ」 そう言うと、夕子を抱きかかえるようにして病室に戻った。 しかし、病室に入った景祐はますます落ち着きを失い、心はすでに遥のもとへ飛んでいるようだ。 彼は何度も病室の外を見やり、携帯をチェックしてはメッセージを待つ。明らかに気が気でない様子だ。 夕子はそんな景祐を見て、西京に来たばかりの頃を思い出した。気候になじめず何度も熱を出した彼女を、景祐は心配そうにずっと見つめていた。 今、その心配はもう別の人に向けられている。 「夕子、ちょっと出かけてくる。すぐ戻る」 そう言うと、景祐は立ち上がり、急いで病室を出ていった。 夕子はしばらくドアを見つめた後、ゆっくりと昨日景祐が無理やりはめた指輪を外し、傍らに置いた。 そして再びノートを取り出し、静かに書きつけた。 【98回目景祐を許す。彼は他の女を妊娠させた。私にプロポーズしたその日に】 書き終えると、彼女はその文字をじっと見つめた。大粒の涙がノートに落ち、インクを滲ませた。 かすれていく文字は、これまでと同じだった。 ノートを閉じると、彼女の心の決意はさらに固まった。 第9話 景祐はその後1週間、病院に来なかった。夕子は回復すると、自分で退院手続きを済ませた。 二人のアパートに戻ると、彼女は自分のものをすべて整理し、いらないものは清掃員に捨てさせた。 必要なものは宅配便で海崎に送った。西京に来る前から海崎に自分の家があったので、戻っても荷物の置き場所に困ることはない。 その後、夕子はアパート内で二人で買ったものをすべて捨てた。以前使っていたペアのコーヒーカップやペアのパジャマも含めて。 もう自分はいなくなるのだから、これらの痕跡もきれいに消すべきだ。 景祐の新しい恋人のために、場所を空けてあげるべきだ。 すべてを片付けた後、夕子は携帯で飛行機のチケットを確認しようとしたが、その時、遥のインスタ投稿が表示された。 【産検に付き添ってくれる人がいるって最高。赤ちゃんも大人しいし、パパもとっても優しい】 添付された写真には、2つの大きな手が握り合っていた。 その手のほくろの位置は、まさに景祐のものだった。 夕子は遥のプロフィールを開き、この1週間で彼女がこんなにも多くの投稿をしていたことに気づいた。 【お腹に新しい命が宿っている。感動で泣いちゃった……】 【どれだけ愛されてれば、子供を産むことを許されるのか。ある人には一生わからないでしょうね】 【どんなにしがみついたって、彼の心も体も私のものよ】 どの写真にも、遥を世話する景祐の姿が写っていた。 顔は写っていなかったが、写り込んだ腕時計や服装から、夕子にはすぐにそれが景祐だとわかった。 夕子はそれらの写真をじっと見続け、気づけば夜になっていた。 ドアが開き、明かりが灯った瞬間、景祐は夕子の姿に驚いた。 「夕子! 退院したのか? いつ帰ったんだ?」 夕子は携帯をしまい、淡々と答えた。 「今朝」 「ならなんで連絡してこなかったんだ? ごめん、この1週間本当に忙しくて、会社の仕事が——」 景祐はいそいそと言い訳を並べたが、途中で気づいた。夕子は一度も自分を見ようとしていなかった。 まるで、彼がどこに行き、何をしていたか、全く気にしていないかのように。 「シャワーを浴びてくる」と言って、夕子は寝室に入った。 景祐の不安は少しずつ膨らんでいった。その後数日、彼は仕事が終わるとすぐに帰宅し、夕子も家にいた。 しかし、それでも彼の不安は消えなかった。 ある日、彼は結婚の話を切り出そうとした。 「今日、秘書に結婚に必要なものをいくつか送らせた。届いたか?」 夕子は本を読みながら、顔も上げずに答えた。 「リビングに置いてある」 「じゃあ、一緒に開けて、準備を——」 景祐がベッドに近づくと、夕子はさっとベッドから降りた。 「シャワーを浴びてくる。あなた自身でやって」 景祐は思わず手を伸ばしたが、つかめたのは夕子のパジャマの裾だけで、それはするりとすぐにすり抜けた。 彼の不安はさらに膨らみ、リビングに歩み寄ると、秘書が送ってきた荷物の山を見て、ますます違和感を覚える。 家には新しいものが増えていると言うのに、なぜか却って全体が空っぽになっているような気がする。 彼はなんだかそわそわしていたので、パジャマに着替えてさっさとお風呂に入ろうと思った。しかし、いつも着ているパジャマが見つからない。 「夕子、お前がくれたあの黒のペアのパジャマ、どこにやったんだ?」 「捨てた」 夕子の答えはあっさりしていた。 景祐は少し驚いた。 「なんで捨てた? あれ、結構気に入ってたけど」 「別に。ただ捨てただけ」 夕子はさっさとバッグを持って玄関に向かった。今日が西京にいる最後の日で、銀行口座や携帯電話の解約を済ませるつもりだ。 もう二度と戻ってこないのだから。 景祐は眉をひそめ、近寄った。 「じゃあ、新しいのを買ってくれ。あっ、待て——どこに行くんだ?」 彼は玄関まで追いかけ、エレベーター前の夕子に声をかけた。 夕子は淡々と答えた。 「用事がある」 景祐は何の用事か聞きたかったが、エレベーターが到着し、夕子はそのまま乗り込んで降りていった。 なぜか、夕子の姿を見ていると、景祐はますます不安になり、何かが起こりそうな予感がした。 家に戻り、携帯を取り出すと、彼は我慢できずに夕子にメッセージを送った。 【明日、婚姻届を出しに行く。忘れるな】 夕子は返信しなかった。しばらくして、彼は「?」とだけ送った。 数時間後、ようやく夕子から返信があった。 「わかった」 景祐はこの4文字を長い間見つめていたが、その時、遥から「気分が悪い」と泣きながら電話がかかってきた。 彼は顔を曇らせ、携帯を閉じると、遥のもとへ向かった。 第10話 予約したフライトの日は、景祐が婚姻届を提出すると言った日でもあった。 夕子は早々に身支度を整え、このアパートに残した最後のバッグを手に取り、玄関で4年間住んだ部屋を振り返り、何も言わずに立ち去った。 彼女は景祐と婚姻届を出すつもりはなかったが、かつて愛し合ったことへの区切りとして、自分自身に答えを出したかった。 彼女は朝早くから役所の婚姻届の受付に座り、景祐を待っていた。 8時、彼からラインが届く。 【ごめん夕子、渋滞で遅れる】 9時、遥がインスタに投稿。 【ごめんね、赤ちゃん。パパとママがちゃんとした家庭を作れないなら、産まない方がいいよね……】 中絶手術の予約票の写真付き。 10時、夕子が景祐に電話をかけたが切られ、運転手に連絡すると、言葉を濁しながら「社長は病院に……」と答えた。 11時、SNSに動画が拡散されている。 タイトル:【上場企業社長、妊娠中の恋人を優しく介抱】 動画の中の景祐は、遥のお腹を手で護りながら「階段気をつけて、ゆっくり降りて、いい子だね……」と囁いていた。 その傍らで遥は満面の笑みを浮かべていた。 12時、遥からラインが届いた。景祐が彼女を抱きしめた写真だ。 【まだ役所で待ってるの?ふふ、じゃあ一人で永遠に待ってなさい!】 永遠には待てない。 夕子の飛行機は午後2時。もう空港に向かわないと間に合わない。 そう思い、彼女はノートを取り出し、最後の空白ページに書き込んだ。 【99回目景祐を許す。私を愛していないことを許す】 少し考えて、さらに一行を追加した。 【チャンスは全部使い切った。もう二度と景祐を許さない】 書き終えるとノートを閉じ、以前の指輪と一緒に置いた。 近くの職員が一人でいる彼女に声をかける。 「お嬢さん、婚姻届のお手続きですか?ご主人様は何か……」 「そうかもしれませんね」 夕子は薄く笑い、職員を見上げた。 「すみません、このノートと指輪を『景祐』という人に渡してもらえませんか?」 「ご主人様ですか?」 「いいえ、見知らぬ人です」 そう言うと、彼女は躊躇いなく立ち上がり、外へ出た。 西京はいつも雨で、今日も例外ではなかった。 夕子はしとしと降る雨の中、顔を上げて歩き、すぐに人混みに消えていった。 さよなら、西京。 この街とは、これからもう何の関わりもないだろう……