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ライトの下の光と影
「今年の最優秀主演女優賞は誰の手に渡るのでしょうか?さあ、発表します……」 客席の最前列に座る時野星璃(ときの せいり) はドレスの裾を...
Chương (1)
第1章
「今年の最優秀主演女優賞は誰の手に渡るのでしょうか?さあ、発表します……」
客席の最前列に座る時野星璃(ときの せいり) はドレスの裾を整え、立ち上がる準備をしていた。隣に座る人々も、すでに先走って彼女に祝福の言葉をかけ始めている。
「――春川美々(はるかわ みみ)さんです!おめでとうございます!」
司会者の声が響いた。
半ば立ち上がったところで、星璃の顔色は一瞬にして真っ白になった。
割れんばかりの拍手とざわめきの中、彼女はぎこちなく、気まずそうに席に着いた。爪先は深く掌に食い込み、痛みを覚えるほどだった。
ゆっくりと振り返った彼女の視線は、観客席の奥へと向かう。
一番隅の暗がりに、ひときわ存在感のある男が身を潜めていた。星璃には、その姿が一目で分かった。
彼女の婚約者――篠宮承司(しのみや しょうじ)。
しかし、彼がここにいるのは彼女のためではなく、舞台の上の美々のためだった。
第1話
「今年の最優秀主演女優賞は誰の手に渡るのでしょうか?さあ、発表します……」
客席の最前列に座る時野星璃(ときの せいり) はドレスの裾を整え、立ち上がる準備をしていた。隣に座る人々も、すでに先走って彼女に祝福の言葉をかけ始めている。
「――春川美々(はるかわ みみ)さんです!おめでとうございます!」
司会者の声が響いた。
半ば立ち上がったところで、星璃の顔色は一瞬にして真っ白になった。
割れんばかりの拍手とざわめきの中、彼女はぎこちなく、気まずそうに席に着いた。爪先は深く掌に食い込み、痛みを覚えるほどだった。
ゆっくりと振り返った彼女の視線は、観客席の奥へと向かう。
一番隅の暗がりに、ひときわ存在感のある男が身を潜めていた。星璃には、その姿が一目で分かった。
彼女の婚約者――篠宮承司(しのみや しょうじ)。
しかし、彼がここにいるのは彼女のためではなく、舞台の上の美々のためだった。
耳元には、あちこちから不満げな声が飛び込んでくる。
「ちょっと待って、この春川美々ってどこの無名新人?なんで最優秀賞なんか取れるの?」
「本来なら時野星璃さんに決まってただろ!今回の受賞は誰もが納得するはずだったのに!」
「一体どうなってんの?」
……理由を知らない者も多い。
だが星璃には分かっていた。これは承司の仕業だ。
なぜなら、彼は授賞式の最大スポンサーであり、そして美々は、彼の義姉であり、かつての初恋相手だったからだ。
昔、誤解がもとで二人は別れ、再会した時には彼女はすでに彼の兄と結婚していた。
その兄が三か月前に病で亡くなり、承司は義姉を守ることを当然の責務のように引き受けていた。
昨日、美々は彼に何気なく言った。
「この賞が取れたらいいなあ。なんかすごそうじゃない?」
そして今日、承司は彼女の願いを叶えた。
星璃が七年間も努力して手にできなかった賞を、デビューしたばかりの美々があっさりと持ち去ったのだ。
これほど皮肉なことがあろうか。
授賞式が終わり、星璃は魂の抜けたように控え室へ戻った。しばらく立ち直ることもできなかった。
そんな彼女に、すらりとした長身の男が近づいてくる。
星璃は顔を上げ、承司を見つめ、理解できない気持ちをぶつけた。
「どうしてこんなことをしたの?」
だが承司は平然と、罪悪感など微塵もなく答えた。
「君はもう散々賞を取ってきただろ。ひとつくらい譲っても問題ない。美々に渡したっていいじゃないか?
兄は生前、彼女に申し訳ないことをたくさんした。もう、埋め合わせをする時間も残されていない。だから、弟である俺が、代わりにやってあげるのは当然だ」
その口ぶりはあくまで淡々とし、当然の理屈のように聞こえた。
しかし、星璃の心は真逆だった。彼女の瞳は一瞬で潤み、ほとんど叫び声のような声で問い詰めた。
「お兄さんが彼女に負い目があるからって、どうして私のものを犠牲にして償うのよ!
この賞が私にとってどれほど大事か分かってる?どれだけ努力してきたか知ってるの? どうして……どうして勝手に……」
どうして、他人のために勝手に内定するなんてことができるの?
星璃は嗚咽で、言葉を紡ぐことができない。
承司は、彼女が本気でここまでこだわっていると気づいたとき、珍しく表情をわずかに変えた。
数秒のためらいの後、手を伸ばして涙を拭い取り、声を少し柔らかくした。
「もういい。たかがトロフィーひとつで泣くなんて。来年は、必ず君の手に渡るようにしてやるから。それでいいだろ?」
だが星璃は「パチン」と彼の手をはねのけた。
「私を侮辱しないで!」
ここまで上り詰めた彼女が持っている全ての賞は、男の施しではなく、自分の実力で勝ち取ったものだ。
そのとき承司の顔に険しさが浮かんだ。だがその直後、別の影が勢いよく彼の胸に飛び込んできた。
「承司!私、本当に賞を取っちゃったよ!」
美々がトロフィーを掲げ、彼の前で嬉しそうに振ってみせた。
「デビューして間もないのに最優秀賞だなんて、私ってすごくない?ね、そうでしょ?」
承司は思わず笑い、惜しみない賛辞を口にした。
「すごいよ。努力が報われたんだ。これは、君がもらうべき賞だよ」
もらうべき賞……?
なんて馬鹿げているのだろう。
美々はほんの数か月前に業界に入ったばかり。出演作はマイナーな文芸映画一本だけで、公開後もほとんど話題にならなかった。それが「もらうべき賞」だと言うのか?
それでは、星璃のように何年も全身全霊で努力してきた俳優はどこに置けばいいのだ。
もう聞いていられず、星璃は背を向けてその場を後にした。
第2話
星璃が家に戻ったときには、すでに全身が疲労に覆われていた。
玄関を開けると、家の中の至るところに美々の物が置かれているのが目に入り、胸の奥が言いようのない重苦しさで塞がれる。
美々が住み始めてから、すべてが変わってしまった。
美々が欲しいと言えば、承司はすぐに何でも与えた。
女優になりたいと言えば、脚本を買ってあげる。
歌いたいと言えば、曲を用意する。
美々に対する承司の甘やかしは、もはや底なしだった。
今日の主演女優賞が美々に渡ったことを思うと、星璃の胸には言葉にできない苦しさが込み上げてくる。
気を紛らわせようと、無理にでも意識をそらした。
スマホを手に取り、SNSを開いた瞬間、美々の新しい投稿が目に飛び込んできた。
【やったね!新しい家と車ゲット!彼がサプライズでプレゼントしてくれたの。今日は本当に幸せ。彼のこと、大好き!ずっとこのままでいられたらいいな!】
美々が投稿に添えた画像は三枚。
一枚は豪邸、もう一枚は高級スポーツカー。
どちらも目のくらむような値段の品だ。
そして最後の一枚には、承司の背中。
半分しか写っていないが、星璃にとって見間違えるはずもない。
彼と三年も一緒にいて、誕生日にはただ口座に金を振り込まれるだけ。プレゼントを用意することすらなく、「女の子が何を欲しがるのか分からない」――それが彼の口癖だった。
なのにどうして美々に贈るものは、こんなにも的確に分かるのか。
胸の奥が鋭く刺されるように痛んだ。
さらにスクロールすると、承司の会社の幹部社員の投稿が目に入った。
【やばい!今日、社長に何があったの?いきなり全社員にボーナス大放出!もしかして、奥さんとの間に何かいいことがあったのか?】
その投稿には、承司の「いいね」がついていた。
星璃の指先は強ばり、画面を閉じた。
一粒の涙がスマホの端に落ちた。
――奥さん。
承司と美々は、深夜になってようやく帰宅した。
二人とも酒に酔っていて、体からはアルコールの匂いが漂っていた。
承司はソファに身を投げ出し、気怠げに言い放った。
「星璃、水を。俺と美々に一杯ずつ持ってきて」
星璃は動かなかった。
美々が指を差し、声を荒げる。
「ねえ、聞こえないの?人の言葉が分からないわけ?」
酔っ払うと、本性がむき出しになる。
酔っ払い相手に口論する気もなく、星璃は立ち上がって台所へ向かった。
だが背後では、美々が承司の胸に潜り込む声が聞こえた。
「ダーリン、大好きよ」
星璃は、その場で凍りついた。
振り返ると、承司が慣れた手つきで彼女を抱き寄せ、誘い込むように尋ねている。
「美々、俺が誰か分かるか?」
「あなたは……私の旦那さん」
「名前で呼んで」
「ん……あなたは……承司」
彼女は一字一句、はっきりとその名を呼んだ。決して、彼を亡き夫と間違えたわけではない。誰なのか、はっきりと分かっていたのだ。
次の瞬間、承司は抑えきれずに彼女に口づけを落とした。
星璃の瞳が大きく見開かれた。信じられず、後ずさりした拍子にテーブル脇のグラスを倒してしまった。
その音に我に返った承司は、立ち上がり、額を押さえながら彼女に向き直った。
「星璃……俺、酔ってて……彼女を君と間違えただけだ」
近づこうとする彼の足音に、星璃は吐き気を覚えるほどの嫌悪感を抱いた。
「触らないで!」
差し伸べられた手を振り払った。
赤く潤んだ瞳を見て、承司は一瞬だけ動きを止めた。
そのとき、背後で美々がごみ箱に顔を埋めて吐き出し、苦しげに名を呼んだ。
「承司……気持ち悪い……」
承司はすぐに振り返り、彼女に駆け寄った。口元を拭き、水を飲ませ、背を優しく撫でながら抱き寄せた。
かつて星璃にも、同じようにしてくれたことがあった。
だが美々が戻ってきてからというもの、彼の目にはもう誰も映らない。
この瞬間、星璃は認めざるを得なかった。
二人の関係は、もう戻らない。承司は本当に、別の女を好きになったのだ。
星璃は静かに涙をぬぐい、背を向けて階段を上がった。
そしてマネージャーに電話をかけた。
「今、私のスケジュールってどれくらい残ってる?」
寝ぼけ声でマネージャーが答えた。
「あと少しだよ。どうしたの?」
星璃は目を閉じ、はっきりと言った。
「残ってる分を片付けたら、新しい仕事は受けないで……芸能人をやめて、海外に行って勉強するつもり」
疲れ果ててしまった。
もうあの二人を見続けることには耐えられなかった。
第3話
本来星璃が手にするはずだった最優秀賞を、無名の新人女優が受賞したという出来事は、ネット上で大騒ぎとなった。
罵倒にせよ称賛にせよ、あるいはその背後にいる大物を詮索するにせよ――春川美々の名は一夜にして大ブレイクを果たした。
翌朝、星璃が目を覚ますと、スマホのニュースアプリは美々の記事で埋め尽くされていた。
星璃はちらりと見ただけで、荷造りを始めた。その時、ドアがノックされ、そこに立っていたのは承司だった。
「何を片づけてる?」と彼は眉をひそめて尋ねた。
星璃は表情を動かさずに答えた。
「何って、仕事に行くに決まってるでしょ」
その答えを聞いた承司は、どこか安堵したように息を吐いた。
「ちょうどいい。美々はいま注目を浴びてるが、この業界にはまだ慣れてない。君が一緒に連れて行け」
星璃の手が止まった。
「どうして私が?」
問いかけた途端、承司の表情は険しくなった。
「君はどうしてそんなに心が狭いんだ。彼女は俺の義姉だ。君にとってもそうだろう。気を配るのは当然じゃない」
「義姉?」
星璃は冷ややかに鼻で笑った。
「義姉を抱きしめてキスする人なんて、私は見たことないけど」
承司の顔が暗くなった。
「もう説明したはずだ。酔って君と勘違いしたんだ。これ以上くだらないことを言うな。
美々を見習って、少しは素直になれないのか?」
その言葉に続くように、美々が眠そうな目をこすりながら現れ、当然のように承司の傍へ寄り添った。
「星璃、バラエティ番組に出るんだって?私にもさっきマネージャーから連絡があって、同じ番組に出ることになったの。
すごく緊張するの。一緒に行って教えてね」
星璃は視線を上げ、美々を一瞥した。
認めざるを得ない。演技には向いている。表裏の顔をこれほど使い分けられるのだから。
承司がいない時の彼女は、決してこんな殊勝な態度ではなかった。
星璃は相手にせず、無言で歩き出した。
美々は厚かましくも当然のように同行した。
番組の控室に二人が並んで入ってくると、周囲のスタッフや共演者はざわつき、さまざまな憶測が飛び交った。
美々は殊更に芝居がかった仕草で星璃の腕を取り、仲睦まじいふりをした。
星璃はいくら振り払おうとしても逃れられなかった。
やがて収録が始まった。
企画の一つに「二人一組でのロープブリッジ渡り」があり、運悪く星璃と美々が同じ組となった。
「私が先に行く!」と美々は自ら名乗り出た。
だが橋の中ほどに差しかかると足がすくみ、叫び声を上げて震えだした。
星璃は何度も振り落とされそうになりながら、必死に声をかけた。
「ちょっと、動かないで!前に進みなさいよ、これじゃ負けちゃう!」
次の瞬間、美々の足が滑った。
彼女は落下した。
危機一髪で、彼女は星璃の腕を掴み、無理やり一緒に引きずり落とした。
不運なことに星璃のワイヤーが緩んでおり、五メートルぐらい下の薄いマットに激しく叩きつけられた。
衝撃で呼吸が詰まり、その衝撃で、痛みで身動きが取れない。
意識が朦朧とする中、どこからともなく現れた影が美々を抱きとめるのが見えた。
美々を無傷で抱きしめた承司は烈火の如く怒鳴り散らした。
「この企画は誰が組んだ!今すぐ出て来い!」
番組の監督もプロデューサーたちが、一斉に彼に謝罪し始めた。
「大変申し訳ございません、篠宮社長、この件は必ず調べ上げ、責任を明らかにいたします!」
彼らが平身低頭する姿を見て、星璃はすぐに理解した。承司が、この番組に莫大な資金を投じているのだろう。
彼が美々を売り出そうと、どれほど心血を注いでいるかがわかる。
美々は彼の腕の中で子鹿のように怯えて、泣きじゃくっていた。
一方、巻き添えを食った星璃は地面に倒れたまま、身動きすらできなかった。
承司は彼女に一瞥すらくれず、胸を締めつけるような痛みに星璃は息を呑んだ。
現場に駆けつけた医療スタッフが診察し、驚きの声を上げた。
「救急車を!肋骨が折れてるかもしれません!」
この時になってようやく、承司は星璃に視線を向けた。
しかし、その表情はほんの少し、眉をひそめただけだった。
星璃のアシスタントは涙目になり、堪らず美々に詰め寄った。
「時野さんが落ちるはずがないのに、どうして彼女を引っ張ったんですか!?」
美々は承司の腕の中で身を縮め、弱々しい声を絞り出した。
「星璃、私を急かしすぎたんだもん。急かさなかったら、落ちなかったはずなのに。すごく焦っちゃって、どうしようもなかったのよ」
口を開けば、すべてが星璃のせいになった。
アシスタントが言い返そうとした瞬間、承司の冷たい視線が突き刺さった。
「痛いなら病院に行け。問題が起きるたびに美々に責任を押しつけるとは。星璃、君のアシスタントは本当にいい人だな!」
星璃は、何も言い返すことができなかった。全身が震えるほどの痛みに、言葉を発することができなかった。
彼女は仰向けに倒れ、天井のライトを見つめる。
溢れ出す涙が、こらえきれず頬を伝った。
第4話
【#篠宮承司と春川美々、なんて尊いの】
このハッシュタグがトレンドを独占した。
承司が美々を救った場面が動画でネットに投稿され、ようやく人々は美々の背後にどれほどの存在がいるのかを知ったのだ。
【うそ、篠宮承司ってあの超大物!?こんなの小説の展開じゃん!】
【他のことは置いといて、この二人、本当に最高!推しカップルだわ!】
【でも春川さんって、なんで落ちちゃったの?】
【どうやら、あの時野星璃がずっと急かしたから、彼女がプレッシャーに耐えきれなくなったみたい。マジありえない。時野星璃って、どれだけ負けず嫌いなのよ。こういう人って、実力と人気が伴ってないってことよね】
……
そのコメントが投稿されるやいなや、一斉に星璃への非難が始まった。
「権力を笠に着る」「性格が悪すぎる」と罵声が飛び交い、ネット中が彼女を叩き始めた。
一方で美々には一つの悪評すら見当たらない。仮にあっても、すぐに削除されてしまう。
星璃は病院のベッドに横たわり、それを見つめていた。
胸の奥には苦さが広がる。だが、口元には笑みが浮かぶ。
篠宮承司、あなたという人は、美々を売り出すために、私を踏み台にし、私を犠牲にしなければならないの?
あなたの心は、一体何でできているの?
入院して五日。承司は一度も顔を見せなかった。代わりに美々と共に恋愛バラエティへ出演、ゲストとして仲睦まじい姿を披露していた。
番組内で誰かが訊いた。
「お二人はいつからお付き合いを?」
美々は恥じらいを滲ませ、熱っぽい眼差しで承司を見つめた。
彼はその視線に応え、堂々と答えた。
「俺たちは何年も前から知り合いで、今日まで一度も忘れたことはない」
――星璃と三年間付き合っても、彼は関係を公表しようとはしなかった。カメラの前に立つことも拒んだ。
彼女が「年寄りの愛人だ」と中傷され、ネット中から叩かれた時も、彼は決して庇わなかった。
ただ冷酷に突き放すだけだった。
「この業界にいる以上、世論や重圧は自分で背負うしかない。誰もずっと君の盾にはなれない」
けれど今はどうだ。美々が芸能界に入ったばかりだというのに、彼はすぐに彼女を守ろうと、急いで前に出てきた。
まるで小さな傷さえつけさせまいとするかのように。
まったく気にしていないと言えば嘘になる。
星璃は病院を出る決心をした。
まもなく出席予定のレッドカーペットイベントに備えるためだ。
こうしたイベントで彼女が着るのは、いつも華やかなオートクチュールドレスだ。
控え室で待機していると、美々と承司に鉢合わせた。二人は肌身離さず一緒にいた。
美々は星璃のドレスを見ると、すぐに目を輝かせ、羨望の眼差しを向けた。
「すっごく綺麗なドレス……私もこんなの着られたらなあ」
承司の視線が星璃に向けられた。
そして、彼は歩み寄り、彼女の手首を掴んで引き寄せた。
「そのドレスを脱いで美々に渡せ。彼女は初めてのレッドカーペットだ。好きなドレスを着てこそ自信を持てる」
「……正気なの?」
星璃は彼の手を振り払った。彼女は、承司という人間がだんだん分からなくなっていく。
「これはブランドから貸与されたオートクチュールよ。彼女の格じゃ、正直言って全然釣り合わない!」
その一言に、承司は冷笑を浮かべた。
「誰が釣り合わないって?」
彼は携帯を取り出し、素早く電話をかけた。
戻ってくると、彼女を見下ろして言い放った。
「一億六千万円。このドレスを買い取った。美々に贈る。これで彼女に釣り合わないと言えるか?
脱いでくれ。釣り合わないのは、今は君の方だ」
人目が絶えず行き交う中、ここで脱げと命じた。
星璃は拳を握り締め、その場に立ち尽くした。
承司の表情は苛立ちを増していく。
「二度言わせるな。無理やり脱がせるような真似はしたくないんだ」
――それは、強制と何が違うのか。
屈辱に胸が灼ける。
集まる視線が突き刺さる中、星璃は奥歯を噛みしめ、背中のファスナーを下ろした。
下には下着しか身に着けていない。
急いでドレスを脱ぎ捨て、それを彼の顔に投げつけた。絶望に満ちた声で言った。
「思い通りになって満足か?」
周囲ではすでにスマホを構える者がいた。
一人の下品な男が、ほとんど彼女の肌や下着が見える部分にスマホを向けた時、承司は彼を思いっきり蹴り飛ばした。
「俺が撮影を許可したか?」
冷え切った声が響き、場の空気が凍った。
そう言うと、彼は自分の上着を脱ぎ、星璃の肩に無造作にかけた。そして、何でもないことのように言い放った。
「次はこんなにケチになるな。君は既に多くを持っている。美々は何も持っていない。譲ってやるくらい、大したことではないだろう」
その夜、星璃は冴えないドレスで登場し、落ちぶれたと嘲笑された。
一方の、美々は豪奢なオートクチュールに身を包み、華々しく輝いた。
どうやってそのドレスを借りたのかと尋ねられると、美々は少し恥ずかしそうに微笑んで言った。
「借りたんじゃないんです。彼が買って、プレゼントしてくれたんです」
一攫千金という話題は、再びトレンドを駆け上がった。
誰もが知ることとなった。承司の美々への寵愛には、限度がないのだとのこと。
第5話
美々は本格的に芸能界へと進出し始めた。
星璃がいる場所には、必ず彼女がいた。
星璃が出演中の映画の最後のシーンを撮影している時、美々も突然、途中から強引に出演をねじ込んできた。
その結果、一晩のうちに星璃の出演シーンは半分以上削られ、見せ場となる場面はすべて美々に割り振られてしまった。
「監督、このシーン、私ちょっと上手くできなくて……教えていただけますか?」
撮影前、美々は台本を手に監督に近づいた。
「この場面か……これは簡単だよ。彼女を平手で叩けばいい。感情を強めに出して、できれば少し強めにね」
監督はそう指導した。
遠くで聞いていた星璃は思わず固まった。
台本に平手打ちの場面など、あっただろうか?
脚本家を問い詰めると、彼は歯切れが悪く、曖昧な返事をした。
「それは……要望があって書き直しただけで、僕のせいじゃないんだ……」
誰の要望かなんて、考えるまでもない。
美々が戻ってくると、星璃に向かって楽しそうに笑った。
「星璃、観客が感情移入しやすいように、本気で叩いても大丈夫よね?
あなたならきっと承諾してくれると思ってた。ね?」
挑発するように眉を上げた。
星璃が横目で見ると、少し離れたところに帽子をかぶった承司の姿があった。
美々の撮影に、彼はわざわざ付き添っているのか。
他の選択肢はなく、星璃はすべての不満を飲み込み、小さく頷いた。
「ええ」
それから、彼女の予想通り、何十回にもわたる「叩くシーン」のNGが繰り返された。
美々は他のシーンでは問題なく演じられるのに、顔を叩く場面だけは、何度も失敗を繰り返す。
セリフを忘れたり、感情が込められていなかったり。
三十分も経たないうちに、星璃の両頬は赤く腫れ上がった。見かねた監督が声をかけた。
「一旦休憩にしよう」
顔に焼けつくような痛みが広がる。
彼女のアシスタントは泣きながら訴えた。
「あの春川美々って、絶対わざとです!本当にひどい!」
星璃も苦しかったが、アシスタントの涙を拭い取り、かすかに笑んだ。
「大丈夫よ」
そのとき、承司が氷嚢を持って近づいてきた。
「顔、まだ痛むか?」と珍しく声をかけた。
星璃は問い返した。
「どう思うの?」
しかし承司は気にする様子もなく言った。
「美々は新人だから、演技がうまくいかないこともある。君が少しは包容してやれ。どうしても駄目なら、何度か撮り直せばいい」
星璃は笑いたくなった。
「主演女優賞を取ったばかりなのに、私に大目に見てやれと?
じゃあ、あなたが代わりに叩かれてみる?何十発も食らって、それでも平気かどうか」
承司は眉をひそめ、冷たく言い放った。
「それが俳優の仕事だろう。この世界で生きていくなら、叩かれるのも受け入れるべきだ。文句を言う資格はない」
説教を終えると、彼は氷嚢を差し出した。
「ほら、早く冷やして。またすぐ撮影に戻れ。美々は後で食事に行くんだ、胃が弱いから空腹にさせるわけにはいかない」
星璃の胃も弱いことを、彼はすっかり忘れていたのだろう。
彼女は苦笑がもれた。
氷嚢を受け取ろうとしたその瞬間、美々がやって来た。
彼女は承司のそばに寄り、両手を差し出し、甘えたように言った。
「承司、私の手がすごく痛いの。このシーン、何度も叩いたから疲れちゃった」
すると、差し出されかけていた氷嚢は、承司の手元に戻り、彼女の手に渡された。
「そんなに疲れたなら、今日はもう撮らなくていい。明日また続きを撮ろう。な?」
承司の声は驚くほど優しかった。
その言葉を聞いて、美々はすぐさま星璃の前にやって来て、わざとらしく首を傾げた。
「ねえ星璃、明日にしてもいい?あなたも賛成でしょ?」
承司の死角で、美々は嘲笑を浮かべていた。その瞳に、無邪気な様子など微塵もなかった。
星璃は彼女を真っ直ぐに見据え、言葉を絞り出した。
「だ、め」
美々は、まだ無邪気なふりを続けている。
「どうしてだめなの?ねえ見て、星璃、私の手、真っ赤になってるのよ」
そう言いながら、美々は手を差し出した。
挑発以外の何物でもない。
星璃はもう耐えられなかった。手を振り上げ、力強く頬を打ち返した。
「美々、あんた、本当に卑しいわね」
予想外の一撃に、美々は目を丸くし、頬を押さえたまま呆然とした。
そして次の瞬間、泣きそうな顔で承司のもとへ駆け寄り、訴え始めた。
第6話
美々は、涙をポロポロとこぼしながら言った。
「承司、顔がすごく痛いの。このまま跡が残ったらどうしよう……
うう、ごめんなさい。台本通りとはいえ、星璃を叩くべきじゃなかったわ。彼女が怒るのも当然よね。でも、やっぱり痛いのよ、承司……」
承司は彼女を抱きしめた。
彼の表情は、かつてないほど険しいものだった。
本当に怒ると、彼は感情を爆発させることはない。ただ、顔色が極限まで暗くなるだけだ。
承司は顔を上げ、星璃を睨みつけた。
「もしこれ以上、俺の限界に挑むつもりなら、後悔がどういうものか教えてやる」
その眼差しは、背筋を凍らせるほどだった。
しかし、星璃は微塵も怯えなかった。
そして、承司の言葉が何を意味するのかを、すぐに思い知ることになった。星璃は出演予定だった映画のキャストから外され、さらに、承司は業界内で手段を講じ、彼女の一切の活動を禁止したのだ。
禁止期間は五年間。
まさに絶頂期にいた星璃にとって、五年間の活動停止は、キャリアを完全に断つことを意味していた。
元々引退するつもりだったとはいえ、この非情な仕打ちに、彼女は心が冷えていくのを感じた。
長年積み重ねてきた二人の絆は、本当に何の意味もなかったというのだろうか?
星璃は、すべてが虚しくて馬鹿らしいと思った。
その日の夜、彼女は家に戻り、荷物をまとめ始めた。
持っていけるものは持ち出し、そうでないものはすべて捨てる。
あっという間に、承司と三年も暮らした家は、半分が空っぽになった。
がらんとした部屋に立ち、ふと、二人がこの家に引っ越してきた日のことを思い出した。
あの頃の承司は、彼女のことを気にかけてくれていた。疲れている時は足をマッサージしてくれ、不機嫌な時はご馳走に連れ出してくれた。何でもない平凡な日でも、出勤前に彼女の唇にキスしてくれた。
それは、星璃にとって最も幸せな時間だった。
美々が彼の人生に戻ってくるまでは。
すべてが、もう元には戻らない。
思い出から覚めた星璃は、家を出ようとした。だが、ドアにたどり着いた時、突然めまいがして、下腹部に激しい痛みが走る。
気を失う直前、彼女は最後の力を振り絞り、一本の電話をかけた。不意に承司に繋がってしまった。
しかし、呼び出し音が一度鳴っただけで、向こうから切られてしまった。
星璃は、冷たい床に長い間横たわっていた。意識が少し戻ってきてから、自力で救急車を呼んだ。
検査の結果、彼女は妊娠していた。
この子は、完全に予期せぬものだった。
最初に頭に浮かんだのは、中絶すること。だが、医者は彼女の体調があまり良くないと言い、もし中絶すれば、今後妊娠するのが難しくなるかもしれないと告げた。
星璃は、どうすべきか悩んだ。
彼女の経済力があれば、この子を育てることはできる。だが、この子は……承司の子でもあった。
病院の廊下でぼんやりとたたずんでいると、背後から意地の悪い声が聞こえた。
「何しに病院に来たの?まさか、不治の病にでもかかったんじゃないね?」
振り返ると、高飛車な態度を取る美々が立っていた。
「あなたには関係ないでしょ」
これ以上彼女と関わりたくない星璃は、背を向けて病室に入ろうとするが、彼女に腕を掴まれた。
「私には関係ないわ。でも、あなたが早く死んでくれたら、承司が完全に私のものになるから、嬉しいけどね」
美々は星璃の耳元で、冷酷な声で囁いた。
星璃は冷笑した。
「ご心配なく。あなたと男を取り合う趣味はないから」
そう言って、美々を振り払った。
大した力は込めていないのに、美々は勢いよく後ろに倒れ込み、「ドスン」という音を立てて床に腹ばいになった。
次の瞬間、曲がり角から承司が現れた。
彼は、ちょうどこの光景を目撃していた。
彼は素早く歩み寄り、星璃を力任せに後ろに突き飛ばした。彼女は背中を壁に強く打ちつけ、ずるずると床に座り込んだ時、下腹部に激痛が走る。
彼女の向かいでは、美々が悲しげに泣いていた。
「承司、星璃が病院に来てるって聞いて、心配で様子を見に来ただけなのに……私、そんなに嫌われる人間かな?」
承司は、丁寧に美々の涙を拭った。
星璃を見る彼の目は、氷のように冷たかった。
「どうして、何度も美々を標的にするんだ?五年では足りなかったようだな。なら十年だ。これからの十年、二度と画面に映ることはないと思え!」
そう言い放ち、彼は美々を抱き上げた。
その時、彼は立ち上がろうとした星璃の両足の間に、血の染みがあるのをぼんやりと見た。
承司の足が、微かに止まった。
星璃は、激痛で汗をかきながら、お腹を押さえていた。それでも、かすかに笑みを浮かべて言った。
「承司、もし私が、妊娠して……」
「承司、お腹がすごく痛いの。生理なんて大嫌い。もう一度、お医者さんに見てもらいに行こうよ」
美々が承司にしがみつき、星璃の言葉を遮った。
結局、承司は星璃の言葉を最後まで聞こうとしなかった。
美々を抱きかかえ、迷うことなくその場を去っていった。
第7話
星璃のお腹にいた赤ちゃんは、無事だった。
まだ三ヶ月の小さな命は、彼女の想像以上に強かった。だから、彼女は産むことを決意した。
だが、入院して安静している間にも、彼女に対する世間の評価は、ネット上で大きく覆されていた。
原因は、あの時、美々を叩いた瞬間を誰かに撮影され、動画がネットにアップされたからだ。
彼女は、大物ぶっているだとか、新人いじめをしているだとかと非難された。
さらに、不倫相手だと汚名を着せられた。
ある情報提供者が、彼女と承司が写った「決定的証拠」と称する十数枚の写真を公開した。
【私は時野星璃を一年か二年ほど撮り続けていますが、この期間、彼女がある男と親密にしているのをよく見かけました。
そして今日、その男が篠宮承司さんだと確信できました。時野星璃って、本当に見かけによらないわ。他人の彼氏を誘惑するなんて、もう不倫相手以外の何者でもないでしょ?】
この投稿が公開されると、ネット上では星璃に対する「討伐」が相次いだ。
【本当に吐き気がする。何年も好きだった女優が、まさか不倫相手だったなんて】
【この前、彼女の雑誌を買ったばかりなのに。マジありえない。今から燃やしてやる。本当に縁起でもない】
……
一部には、少数ながらも疑う人もいた。
彼らは、二人が付き合っているのではないかと推測したが、彼らが彼女を擁護しようとすれば、一緒になって非難された。
【不倫女の味方する奴は消えろ】
【篠宮さんが春川さんをどれだけ溺愛してるか、誰もが知ってることだろ。それに、二人が何年も前から知ってたって、本人が言ってたじゃないか。まだ時野星璃を擁護する気?】
ネットでの非難が最も激しい時、美々は承司とネット上でやりとりをしていた。 彼女が、指を絡ませて握手している写真を投稿すると、承司が「いいね」を押した。
これは、いわば「返答」だった。
人々は、星璃こそが承司を誘惑し、二人の関係を壊そうとしている者だと、さらに確信するようになった。
退院する日、星璃は記者たちに取り囲まれた。
無数のカメラが彼女に向けられ、なぜ他人の関係を壊すような者になったのかと問った。
星璃はただ一言だけ言った。
「私は、不倫相手ではありません」
だが次の瞬間、腐った生卵が彼女の額に投げつけられた。彼女のアンチファンだった。
彼らは、ようやく見つけた好機とばかりに、群衆の中に隠れて彼女に暴力を振るい始めた。
星璃は抵抗できなかった。ただ、必死でお腹を守り、汚いものが次々と投げつけられるのを、ただ耐えるしかなかった。
あっという間に、彼女はボロボロになった。
その時、周囲が再びざわめき始める。承司と美々が、偶然にも同じ病院から出てきたのだ。
星璃の前にいた人々の大半が、すぐにそちらへと移動した。 ようやく息をついた彼女は、その隙に逃げ出した。
走りながら二度、振り返って見た。人々の隙間から、まるで宝物を守るかのように、美々をしっかりと抱きしめる承司の姿が見えた。彼女に、一切の傷も負わせないように。
星璃は、お腹に置いた指を握りしめた。
彼女は、何かを悟ったように笑みを浮かべ、その場を去っていった。
家に帰り、荷物をまとめ、出発しようとした時、一つだけ取り忘れたものがあることに気づいた。それは、まだ承司の家にあった。
仕方なく、彼女はもう一度家に戻った。
家に承司はいないと思っていた。だが、ドアを開けた途端、彼と目が合った。
承司はソファに座り、眉をひそめて冷たい声で言った。
「メッセージを送ったのに、どうして返事がないんだ。家の物をどこにやった?」
星璃は淡々と答えた。
「全部、私の物よ」
「もうここに住みたくないのか?」
承司は尋ねた。
星璃が答える前に、彼は勝手に言葉を続けた。
「それもいい。君がまた美々を不機嫌にさせることもなくなるからな。彼女は今、体調が悪いから、静養が必要だ。君は郊外のあの別荘に行って住んでくれ。掃除はさせておく」
星璃は何も答えず、部屋に物を取りに行った。
それは、彼女が七年前にデビューした時にもらったトロフィーだ。小さくて、決して豪華ではないが、彼女にとってはかけがえのないものだった。
それをバッグに入れようとした時、手が滑ってバッグが床に落ちた。中から一枚の紙が滑り落ちる。 入り口に立っていた承司がそれを拾い上げた。
「診断書?」
彼が読んだ途端、星璃は紙をひったくり返した。
承司は彼女に近づいた。
「何の病気なんだ?」
その時、ようやく彼は星璃の顔色がひどくやつれていることに気づいた。
承司は星璃の顔を四、五秒見つめ、ゆっくりと言った。
「ちょうどいい。しばらく仕事をしなくてもいいだろう。ゆっくり休め。毎月、生活費は振り込んでやる」
「いいわ」
星璃は彼を見上げ、その目に平静さをたたえて言った。
「自分でやっていけるから。あなたのお金は必要ない」
そう言うと、彼女は彼を押しのけて外に出ようとした。
彼とすれ違った瞬間、診断書は再び承司に奪われた。彼の目には、珍しく真剣な光が宿っていた。
彼が内容を読み取ろうとした時、一つの悲鳴が上がった。
声は、美々の部屋から聞こえてきた。
彼女は裸足で部屋から出てきて、泣きながら言った。
「承司、悪夢を見たの。怖かったわ。今夜は一緒にいてくれる?」
今回、承司は紙の内容を見る気はなかった。
彼は自らその紙を星璃に返し、慌てて言った。
「大した病気ではないだろう。自分で気をつけてくれ」
そして、足早に美々の元へと向かった。
星璃は、彼の背中を見つめた。手の中の紙を握りしめ、そして、背を向けて去っていった。
彼女の足取りはしっかりとしており、振り返ることはなかった。
飛行機が離陸する直前、彼女は「証拠」をすべてネットに公開した。
私は不倫相手ではない。承司とは、真剣な交際関係だった。
そして、美々は承司の義姉であり、二人の関係こそが不適切なものだ。
さらに、彼女は引退も発表した。
「道は遠く険しいけれど、縁があればまた会いましょう」
すべてを投稿し終えると、彼女はスマホのSIMカードを抜いた。
そして、新しい人生へと向かっていった。