雾の彼方に愛を葬りて

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雾の彼方に愛を葬りて

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「お前は露店のチャーハン女で、あの狂った黎斗が落ちぶれていた三年間、ずっと支えてきた女だってことは、誰もが知ってる。あいつはお前を命...

Chương (1)

第1章

「お前は露店のチャーハン女で、あの狂った黎斗が落ちぶれていた三年間、ずっと支えてきた女だってことは、誰もが知ってる。あいつはお前を命より大事にしてる。 偽装死させてあいつから離すことはできるが、リスクが大きすぎる。お前は俺に何を差し出せる?」 十鳥黎斗(じゅうとり くろと)の宿敵・鮫島朔也(さめじま さくや)はブランデーを口に含み、鶴谷桐乃(つるや きりの)を見つめる眼差しに嘲弄を浮かべた。 「鮫島さんがずっと欲しがっていたもの、私名義の十鳥グループ株の三割」 桐乃はかすれた声で静かに言った。 まるでスーパーの特売を口にするみたいに淡々と。 「条件はひとつ。出発前に、中絶手術を一度手配してほしい」 その一言に朔也は思わず息を呑み、嘲笑の色は瞬時に消え、驚愕だけが残った。 「正気か?!最近の黎斗のそばには愛人がついてるだろ、元婚約者だった女だ。家が没落して水商売に流れたって。 そもそも、上流社会の男に愛人や囲いがいるなんて珍しくもない。あの女が十鳥奥様の座を脅かすわけでもないんだろ?なぜ気にする?」 第1話 「お前は露店のチャーハン女で、あの狂った黎斗が落ちぶれていた三年間、ずっと支えてきた女だってことは、誰もが知ってる。あいつはお前を命より大事にしてる。 偽装死させてあいつから離すことはできるが、リスクが大きすぎる。お前は俺に何を差し出せる?」 十鳥黎斗(じゅうとり くろと)の宿敵・鮫島朔也(さめじま さくや)はブランデーを口に含み、鶴谷桐乃(つるや きりの)を見つめる眼差しに嘲弄を浮かべた。 「鮫島さんがずっと欲しがっていたもの、私名義の十鳥グループ株の三割」 桐乃はかすれた声で静かに言った。 まるでスーパーの特売を口にするみたいに淡々と。 「条件はひとつ。出発前に、中絶手術を一度手配してほしい」 その一言に朔也は思わず息を呑み、嘲笑の色は瞬時に消え、驚愕だけが残った。 「正気か?!最近の黎斗のそばには愛人がついてるだろ、元婚約者だった女だ。家が没落して水商売に流れたって。 そもそも、上流社会の男に愛人や囲いがいるなんて珍しくもない。あの女が十鳥奥様の座を脅かすわけでもないんだろ?なぜ気にする?」 なぜ気にする? 桐乃のまつ毛がわずかに震えた。 脳裏に母が昨夜、手術台で大出血を起こし、痛みに耐えきれず息絶えた惨状がよみがえる。 心臓が刃で裂かれるように痛んだ。 「嫌なら、別の人を頼むけど」 冷気を纏ったように身を翻し、立ち上がって歩き出す。 慌てて朔也は言葉を変え、株の譲渡契約書を差し出した。 「一兆億円だ!すぐに口座に振り込ませる。偽装死も計画してやるよ。だが、中絶手術については……」 桐乃は迷いなく署名し、そのまま出口へ向かった。 ドアノブに手をかけた瞬間、朔也が胸の奥の疑問を投げかける。 「いくら何でもお前の子供だろう、本当にいいのか?」 その言葉は重い鉄槌のように彼女の心臓を打ち砕いた。 顔色は苦痛に白く染まり、動きを止める。 だが結局、何も言わずにドアを押し開け、去って行った。 エレベーターの扉が閉じた瞬間、張りつめた冷静は音を立てて崩れ落ちた。 五年前。 十鳥家は破産し、黎斗の両親は悲惨な死を遂げ、黎斗自身も仇敵に襲われ瀕死の重傷を負って貧民街に逃げ込んだ。 その時、声を失った母を抱え屋台でチャーハンを作っていた桐乃が、彼を救ったのだ。 その後、十鳥グループが再上場を果たしたパーティーで。 ある令嬢が「この女からはチャーハン臭が消えない」と嘲笑した瞬間、黎斗はその場で彼女の鼻を切り落とした。 桐乃が結婚を恐れていると知ると、彼は九十九回もプロポーズを繰り返し、少しずつ彼女の不安を溶かしていった。 ついには桐乃の母までが感涙し、手話で桐乃に結婚を勧めた。 結婚して二年、彼女は黎斗にお姫様のように甘やかされ続けた。 仲間たちが冗談半分に言うほどだった。 「桐乃さんが星に興味ないのは本当によかった。でなきゃ黎斗さんは今は宇宙飛行士になってたかもしれないぜ!」 桐乃は、この幸せがずっと続くと思っていた。 半年前までは。 会所で、黎斗と元婚約者・卯月千梨(うづき せんり)が唇を重ねている現場を偶然見てしまったのだ。 問いただすと、彼の整った顔立ちは影に沈み、低く艶のある声が悠然と響いた。 「桐乃、上流社会の人間は、たまには味を変える必要があるんだ」 涙が止まらない。 「離婚しよう」 だが彼は、可笑しそうに笑みを歪め、執着の色を隠さず囁いた。 「だめだ。俺は同意しない。桐乃は俺の女だ、これからもずっと」 それでも桐乃は三度、離婚協議書を突きつけた。 一度目―― 酔った彼に別荘の寝室へ閉じ込められ、五日四晩、ラブローション十本を使い切るまで。 二度目―― 十鳥グループの圧力で市中の弁護士は誰一人、彼女の依頼を受けなかった。 三度目―― 自ら書いた協議書を持って向かう途中、交通事故に遭った。 目を覚ますと、医師が告げた。 妊娠三週。 腹を撫でながら、ついに妥協した。 その時から黎斗は再び一途な夫に戻り、千梨の影は姿を消した。 「あの女なんか、取るに足らない小者だ」 黎斗はブドウの皮をむき、桐乃に食べさせながら、冷たく吐き捨てた。 けれど、桐乃の母の心臓手術の日。 彼はその「小者」のために、街中の医師を呼び寄せ、桐乃の母を死なせたのだ。 桐乃は崩れ落ち、彼を探して病室へ駆け込むと、そこで魂を打ち砕かれる真実を聞いてしまった。 「黎斗さん、ただの生理痛なんだから、大げさだよ。今日は桐乃さんのお母さんの心臓手術の日でしょ?桐乃さんも妊娠してるんだし……」 千梨の声は次第に小さくなり、潤んだ瞳が揺れていた。 「桐乃さんのお腹の子も、私の初めての赤ちゃんだから……」 頭が真っ白に爆ぜる。 黎斗の冷ややかな眼差しには愛情しかなく、千梨を抱きしめ優しく囁いた。 「桐乃が妊娠しにくいせいで、千梨に卵子を提供してもらい、試験管で子を作るしかなかった。十鳥家は、君に大きな恩を負っている。 彼女の母には最高の医師をつけた。心配するな。今日の俺は千梨のためにここにいる」 千梨は嬉しそうに彼に飛びついた。 病室の外で聞いていた桐乃は、氷の底に落ちたように震えた。 四ヶ月間大事に守ってきた命が、実は黎斗と千梨の子? 彼が引き留めた理由は、血の繋がらない子を産ませるため!? 黎斗、なんて酷い男だ! 心臓が裂けるように痛み、桐乃はふらつきながらその場を離れた。 白布をかけられた母の遺体を霊安室へ運ぶ途中、千梨と耳打ちして笑う黎斗とすれ違った。 千梨が無意識に視線をこちらに向けかけたが、黎斗は頭を動かさず、ただ彼女の目を覆い隠し、冷淡に吐き捨てた。 「死人だ、汚らわしい」 心臓を鋭く刺す。 桐乃には問い詰める力すら残っていなかった。 真実を知った瞬間、彼女の心臓はもう止まっていたのだ。 もう、二度と黎斗を愛したくない。 エレベーターが一階に到着し、スマホに一兆億円の入金通知が届く。 涙を拭い、外へ歩き出す。 だがその瞬間、冷たい銃口が後頭部に押し当てられた。 黎斗の低く掠れた声が響く。 「桐乃、俺が一番嫌う相手のところへこっそり行ったと聞いてる。説明は?」 桐乃は瞳を伏せ、胸に込み上げるのは酸っぱく苦い憤怒と虚しさ。 黎斗も、裏切られるのを嫌っていたのか。 だが彼は知ってるはずなのに。 高校三年、千梨の兄が酔って桐乃の父を轢き殺し、卯月家の権力で無罪になったことを。 千梨は学園で「桐乃が客を取っている」との噂をばらまき、桐乃の母をも殺すと脅したことを。 それで桐乃は優秀な成績を捨てて退学に追い込まれたことを。 それでも、彼は千梨と絡み続けた。 怒りの後に残るのは、どうしようもない無力感。 顔を上げ、空虚な声で答えた。 「説明なんて、ないわ」 黎斗は一瞬、虚を突かれたように目を見張る。 その瞳に、蒼白な彼女の顔と赤く潤んだ目が映っていた。 そしてふっと目を和らげ、銃を傍らのボディーガードに投げ渡した。 「ただの冗談だよ」 彼女を抱き寄せ、甘く囁く。 「桐乃が俺を一番愛してるって分かってる。お義母さんの手術の日なのに、俺は桐乃のそばにいなかったから、わざと鮫島のところに行ったんだろ? ごめんな。罪滅ぼしに、お義母さんのため盛大な葬儀を手配した。今から一緒に行こう」 首筋に刻まれた愛の痕に、桐乃は心の中で冷笑する。 この男に償う資格なんてない。 そう吐き捨てたかったが、涙も叫びもせず、黙って車に乗った。 せめて母を静かに見送りたい。 黎斗という男とは、もう関わりたくない。 第2話 葬儀の会場には、すでに多くの弔問客が集まっていた。 人だかりの中心で、千梨は黒い花を頭に挿し、暗い色のワンピースを身にまとい、懐に桐乃の母の遺影を抱えていた。 目は真っ赤に腫れている。 歯の根が合わずに震える音が自分から漏れるのを聞きながら、桐乃は一歩踏み出し、その遺影を力づくで奪い取った。 「今すぐ出て行って」 千梨は肩をすくめ、怯えたように口を開いた。 「桐乃さん……私、昔のことをおばさんと桐乃さんにもう一度謝りたくて……」 涙ぐんだ声で言いながらも、その瞳の奥には嘲りが浮かんでいた。 「おばさんは一生貧乏で、幸せも知らないまま亡くなって……本当にかわいそう」 桐乃の声は冷たかった。「本当にそう思うなら、彼女に跪いて九十九回頭を打ちなさい」 千梨の顔が強張り、唇を噛んで黎斗に頼った。「黎斗さん……」 しかし聞こえてきたのは冷えきった声だった。 「桐乃の言葉が聞こえなかったか?さっさと出ていけ」 口調こそ嫌悪を滲ませていたが、桐乃の要求は完全に無視していた。 千梨の瞳は喜びで煌めき、桐乃を見返すその視線には挑発が込められている。 桐乃は怒り混じりに笑った。 「黎斗、言ったはずよ。跪いて九十九回頭を打ちなさいって!贖罪したいでしょう?そのチャンスを与えてるだけよ!」 まっすぐ黎斗を見据える声には決意があった。 黎斗は伏し目がちに彼女を見つめ、眼差しには苛立ちと諦めが混じっている。 「あまり追い詰めるな。母の葬儀で揉めたいのか?」 千梨のために、自分を脅している…… 桐乃の心臓は大きな手で締め上げられたように苦しく、喉にこみ上げた痛みを無理やり飲み込んだ。 「……わかった」 彼女が折れると、黎斗は眉をひそめ、急いで秘書に千梨を連れ出させた。 事情を知らない周囲の人々は口々に感嘆する。 「十鳥さんは妻を深く愛している」と。 その一言一言が、桐乃の胸を鋭く抉りつけた。 式の間、彼女は黎斗に一言も話しかけなかった。 終わってからの帰り道も、あえて同じ車に乗らないよう避けた。 だが、思いもよらず黎斗の方が後を追ってきた。 彼は運転手に下がるよう指示し、自らハンドルを握った。 「そういえば昔、夜中の三時に屋台を片付けてから、よく川辺をドライブしたよな」 夕陽が彼の端正な横顔を縁取って輝かせる。 桐乃の心臓が跳ね、思い出が一気に押し寄せた。 あの頃、二人は何も持たなかったが、それでも十分に幸せだった。 ある夜、大雨の中で屋台のワゴン車が故障した。 生理中で疲れ果てた桐乃は助手席で眠ってしまった。 黎斗は彼女を起こさず、腹にカイロを貼り、雨具で体をすっぽり覆ってから、彼女を背負って四時間歩いて帰った。 翌朝、熱で頬を赤くした彼を見て桐乃は怒鳴った。 「車に傘があったじゃない!先に帰ればよかったのに!」 それでも彼の瞳は子犬のように澄み切っていた。 「でも俺は、桐乃を置いていったりはしない」 急ブレーキの轟音が、まどろみから桐乃を引き戻した。 目を開ける間もなく、車体は大きく右に流れ、助手席が突っ込んできたトラックに激しくぶつかった。 衝撃で額が裂け、血が溢れる。 視界の端に捉えたのは、決して自分を置き去りにしないと誓った男の姿。 彼は一瞥すらくれず、慌ただしく運転席を飛び出すと、前方で気を失った千梨を抱き上げ、駆け去っていった。 死んだように沈んでいた心臓が再び引き裂かれる。 桐乃は腹の激痛に耐えながら、変形した助手席を避け、よろよろと運転席側から這い出た。 トラックの運転手は怒鳴り声を上げかけて、血まみれの彼女を見て青ざめた。 「大丈夫ですか!?」 見知らぬ人でさえ気遣ってくれるのに、夫は自分を忘れ去っている。 遠ざかっていく黎斗の背中を見つめ、桐乃の声は乾ききった絶望に沈んだ。 「……救急車、呼んでください」 その一言を残し、力尽きた身体は崩れ落ち、意識は闇に沈んだ。 第3話 桐乃が目を覚ました時、包帯で覆われた額がまだ鈍く痛んでいた。 彼女は視線を落とし、わずかに膨らんだ下腹に手を当てると、点滴の針を乱暴に引き抜き、立ち上がって病室を出た。 階段を通りかかった時だった。 副院長を務める黎斗の親友が、声を潜めて彼を諫めているのが耳に入った。 「黎斗さん、卯月は今日ただ低血糖で倒れただけだ。でも桐乃さんはあと三十分遅れていたら、お腹の子は助からなかったんだ。 本当に卯月に心を奪われてるのか?鶴谷家は卯月家に潰されたんだぞ。桐乃さんにそんなことして、本当にいいのか?」 高い背を影に潜めた黎斗の指先には煙草が挟まれ、その火が明滅するたびに細長い双眸がより一層深く暗く見えた。 「千梨を手放すつもりはない。彼女こそが子供の本当の母親だからだ」 冷ややかで背筋を凍らせるほど静かな声で言い放つ。 「俺は桐乃を愛してる。でも千梨も八年間ずっと俺を愛してきた。あの頃は確かに若さに任せて過ちを犯した。だが今や卯月家は破産し、代償は十分に払った。 それに千梨は桐乃と争おうなんて考えたこともない。俺は桐乃に十鳥家の正妻としての地位と権勢を与え、千梨の子を俺の後継ぎにする。これでお互いに公平だ」 親友は言葉を失い、かろうじて絞り出す。 「だから桐乃さんに体外受精させる前に、わざと医者に命じて五度も掻爬させたのか?!一度流産すれば大出血で子宮すら失うことになるのに」 「そうすれば彼女が後で真相を知っても、中絶なんてできなくなる」 「だが考えなかったのか?真実を知った日、桐乃さんはもう二度と子供を授かれなくても、必ずあんたのもとを去るってことを!」 新たな真実が、桐乃のすでに傷だらけの心臓を容赦なく叩き潰した。 その場に硬直し、脳内は真っ白になる。 まさか黎斗が、自分の最後の逃げ道まで塞いでいたとは。 怒りで全身が震える。 詰め寄ろうとした足が、次の言葉を聞いて止まった。 「桐乃は俺を離れない」 黎斗は唇の端をゆるめ、偏執的な自信を滲ませる。 「彼女の母親はもう死んだ。俺こそがこの世界で最後の家族だ。俺が死なない限り、絶対に手放さない!」 足元から頭の先まで一気に冷えが駆け上がり、桐乃は悟った。 黎斗は本物の狂人だ。 知らないふりをして、この場を抜け出さなくては。 彼女は必死で病室へ戻ると、ちょうど看護師が薬を替えに来たところだった。 「傷の出血は止まってますが、こちらで再検査が必要です」 桐乃は疑いもせず、そのまま看護師についてMRI室へ向かった。 だが横たわった瞬間、共振台に拘束され、口に布を押し込まれる。 そのまま狭く閉ざされた機械の内部へ押し込まれ、看護師は勝手に出て行った。 胸の奥が沈み込み、異常を悟る。 必死にもがいて助けを求めたが、外から「この部屋は修理中なので、離れてください」と鍵をかける音がした。 広く暗い室内に、取り残されたのは桐乃ただひとり。 死のような静寂と圧迫感が全身を締め上げ、骨に染みついた恐怖で震えが止まらない。 まるで高校三年のあの日に戻ったかのようだった。 千梨が率いるグループに裸にされ、汚れた残飯を浴びせられた上で、学校の地下三階にある生物解剖室の鉄製の棺桶に閉じ込められた。 三日三晩も。 あの日以来、彼女は重度の閉所恐怖症を抱えることになった。 四年前、黎斗が半年分の貯金をはたいて心理医を受診させ、ようやく学生時代の心の傷を乗り越えられたのに。 今また狭い棺桶に逆戻りしたかのように、息苦しい呼吸と濡れた汗が彼女を窒息させる。 さらに腹部の鈍痛と、無視できない切実な尿意が絶望感を増していった。 …… 閉じ込められて十七時間後、異変に気づいた当直医がようやく扉を開き、彼女を救い出した。 第4話 眩しい照明の下、水分不足でふらつく桐乃の視界は揺れ、腰から下の神経が麻痺して立っているのもやっとで、必死に壁にすがりついた。 耳元ではざわめきが渦巻き、その中で誰かが笑い声をあげる。 「やだ、失禁したよ。汚いわ!」 聞き慣れた鋭い女の声が、まるで平手打ちのように桐乃の意識を叩き起こした。 顔を上げると、そこには得意げな千梨の視線。 完璧に整えた化粧と髪、そして毒々しいほど鮮やかな笑みを浮かべていた。 「犬みたいに泣き叫んで助けを求めていた時、黎斗さんはずっと私と一緒にいたよ」 その一言で、全てが彼女の仕業だと悟った。 屈辱と怒りがないまぜになり、桐乃の目は真っ赤に染まる。 彼女は顔をそむけ、野次馬の医師や看護師に鋭く言い放った。 「私はこの病院の最大株主である十鳥グループの社長奥様よ。今すぐ警察を呼びなさい!昨夜の職務怠慢を徹底的に追及するわ!」 その言葉に、得意満面だった千梨の顔が一瞬で蒼ざめる。 だがその時、黎斗がボディーガードを連れて現れると、あっという間に周囲は静まり返った。 黎斗は千梨を庇い、その背後に立たせたまま、ボディーガードに押さえつけられ車椅子に座らされた桐乃を見下ろした。 眉間には怒気が滲むも、吐き出された声はどこか諦めを含んでいた。 「子供のいたずらみたいなもんだ。大げさにする必要はない」 すでに彼に失望していたはずなのに、その言葉は桐乃の心を再び深く傷つけた。 笑いながら、気づけば目尻が赤く濡れていた。 「黎斗、私と彼女……どっちか一人を選んで」 五年の愛の中で、彼女がこんな絶望的に色褪せた表情を見せたのは初めてだった。 この世にもう何一つ未練がないような顔。 黎斗の瞳がわずかに揺れる。 だが口をついて出たのは冷たい響き。 「わがままを言うな。俺がいる限り、この件を引き受ける警察なんてない」 その一言で、桐乃の最後の希望が粉々に砕け散った。 怒りに笑いが混じる。 「もし今日、私がどうしても答えを求めたら?」 黎斗の深い双眸に諦めの色がかすかに浮かぶ。 「君には無理だ」 そう言った瞬間、背後のボディーガードが窓辺に歩み寄り、胸に抱えていた黒布をめくった。 現れたのは、彼女の母の骨壺。 桐乃の指先が掌に食い込み、痛みが魂にまで震えを走らせた。 「私の母を人質にするつもり!?」 黎斗の眼差しは陰鬱に沈む。 だが彼女に近づき、膝掛けをそっと掛ける仕草だけは限りなく優しかった。 「触らないで!」 桐乃は彼の頬を力いっぱい叩きつけ、血のにじむ声で叫んだ。 「あの時あんたを助けなければよかった。好きにならなきゃよかった!」 頬を打たれた黎斗は怒りも見せず、膝掛けを整える手を止めなかった。 ただ、その言葉を聞いた瞬間、彼の眉目には濃墨のような陰が広がり、身を包む寒気は凍りつくほどだった。 「桐乃、大人しく十鳥家の奥様を務めてくれ。永遠に俺から離れるな」 耳元で愛おしげに囁く。 「罰として、これから一週間は外出禁止だ。別荘で身体を休めろ。 奥様を家に送れ!」 第5話 桐乃はすべての電子機器を取り上げられた。 一日24時間、常にボディーガードが付き添い、随時、黎斗と千梨の行動を報告してきた。 まるで彼女を刺激するかのように、この七日間、黎斗と千梨は恋人がすることをやり尽くした。 千梨がバラを好きだと知ると、黎斗は世界中からバラを集めて、彼女のためだけの「バラの城」を作り上げた。 十鳥家の家訓で刺青は禁止されているのに、千梨が一枚の刺青デザインに「いいね」を押しただけで、黎斗はその模様を胸元に刻ませた。 二人は世界の果ての海岸でキスをした。 熱帯雨林で生まれたばかりの子象の命名権を買い取り、「黎千」と名付けた…… ボディーガードがこうした報告をしている間、桐乃は別荘の物を次々と壊していた。 一日目、黎斗が数十億をかけて仕立てたドレスをすべて外に持ち出して燃やした。 二日目、庭に結ばれていた二人の「縁結び」の木を切り倒し、彼が自ら植えた百合畑を掘り返した。 三日目、これまでの贈り物をすべて粉砕機に投げ込んだ。 その晩、黎斗が別荘へ戻ってきた。 コートを羽織った長身の姿は冷気をまとい、冷え切った瞳のまま、手にしていたダイヤのネックレスを食卓に叩きつけた。 黎斗は嘲るように言った。 「桐乃、俺と千梨はただの遊びだ。遊び飽きればちゃんと家に戻る。どうしてそんなわがままなことをするんだ」 桐乃は、母が生前残してくれた最後の手料理を食べ終え、淡々と口を開いた。 「それ、卯月が嫌いだって言ってたネックレスよね?」 千梨はサブアカウントで彼女をフォローしており、ここ数日の恋愛の細部を、桐乃はボディーガード以上に詳しく知っていた。 つい先日、千梨がSNSに「このネックレス、デザインが古臭くておばさんにしか似合わないね」と投稿していた。 その直後に黎斗が持ち帰り、桐乃へと差し出したのだ。 「それがどうした」 黎斗は鼻で笑い、漆黒の瞳は冷たい深潭のように暗く沈む。 「忘れたのか?君は高校すら卒業できなかったチャーハン売りだろう。今こうして名門の妻として暮らせているのは俺のおかげだ。今更何を気取ってる?」 死んでいた心臓にまた鋭い刃が突き立てられたように、桐乃の顔は真っ青になった。 唇が震え、喉が張りつめて、言葉がひとつも出てこない。 あの頃、上流階級の人たちに身分を嘲られた時、彼は「絶対に気にしない」と誓ってくれた。 だが今、彼の本音が明らかになった。 結局、彼はずっと彼女を見下していた。 彼女はただ、彼に飼われていた一羽の雀にすぎなかったのだ。 その時、電話のベルが二人の間の息苦しい空気を切り裂いた。 画面に映る名前を見た瞬間、黎斗の目は柔らいだ。 「もしもし、千梨?」 電話の向こうから、甘えるように作った千梨の声がはっきりと響いた。 「黎斗さん、膝がまだすごく痛いの……さっき見たら擦りむけて血まで出てて…… あなたのせいよ、スリルを求めて、わざわざ桐乃さんのお母さんのお墓の前でなんて――」 桐乃の脳内で、最後の糸がぷつりと切れた。 全身を震わせ、花瓶を掴んで床に叩きつけた。 「このクズどもが!今すぐ出て行け!!」 母が死んだ後でさえ、生前最もかわいがっていた婿に辱められるのかと思うと、彼女の胸には絶望しか残らなかった。 あの時、あの路地で、助けたりしなければよかった。 「なんであの時、あんた何かを助けた……」 血走った目で呟くと、か細い体はもう立っていられなかった。 次の瞬間、黎斗の愕然とした表情を最後に、桐乃はその場で意識を失った。 第6話 桐乃は単に低血糖と感情の高ぶりで気を失っただけだったが、黎斗は街中の医師を総動員して彼女を診させた。 見覚えのある光景を目にしながらも、桐乃の胸に湧いたのは感動ではなく嫌悪だけだった。 この二日間、黎斗はほとんど片時も離れずに桐乃のそばにいた。 桐乃が無視すると、彼は険しい顔で千梨を呼びつけ、彼女に謝らせた。 「桐乃さん、ごめんなさい。あの日は黎斗さんとふざけ過ぎたの」 千梨の声には不満げな色が滲んでいた。 桐乃は冷ややかに一瞥しただけで、振り返ることなく車に乗り込み、外へ出て行った。 黎斗は止めることができず、仕方なくもう一台の車で後を追った。 桐乃は、これまで記念日に黎斗から贈られた宝飾品をすべて二束三文で中古に売り払った。 朔也は、この後の「偽装死」計画では身分証明に関わる品を一切持って行けないと言った。だから彼女は現金化していた。 桐乃が一つ一つ売るたびに、黎斗は後ろから一つ一つ買い戻していった。 そして、物乞いの手にあの二年前に自らデザインした婚約指輪があるのを見たとき、さすがに異変を察し、彼女の前に立ちはだかった。 「最近そんなに金に困ってるのか?」 桐乃は淡々と答えた。 「ただの慈善活動よ」 残りの人生で、もう二度と黎斗と会えないための。 黎斗はそれを聞いて安堵の息を漏らした。 「ちょうど今夜七時に愛山会館でチャリティーパーティーがあるんだ。本当は断ってたんだが、桐乃の友達も何人か来るらしい。どう?行く?」 断ろうと思ったが、その女性たちは彼女が名門の世界に入ってから数少ない、友好的に接してくれた人たちだった。 去る前に顔を出すべきだろう。 夜、桐乃と黎斗は一緒に車で愛山会館へ向かった。 道中、千梨から彼に百件以上のメッセージが届いたが、彼は桐乃の様子を窺うだけで一度も返信しなかった。 パーティーの最中も、黎斗は終始桐乃のそばを離れず、涙を浮かべてじっと見つめてくる千梨を完全に無視した。 桐乃は気に留めることもなく、友人たちと久しぶりの語らいを楽しんだ。 パーティーが終わる頃には深夜になっていた。 帰り道、黎斗のスマホが鳴った。 会館のスタッフからだった。 「十鳥さん、大変です!卯月さんが酔ってプールに落ちました!」 その一言で黎斗の顔色が一変した。「すぐに行く!」 通話を切ると、彼は桐乃に向かって言った。 「桐乃、もう一人の運転手を呼んである。ここで待っていろ」 そう言って彼女を車から降ろそうとする。 「私一人くらい、乗せられないの?」 桐乃が冷ややかに問い返す。 黎斗の深い眉目に一瞬の狼狽が走ったが、なおも言い張った。 「前から千梨を嫌ってるだろう。酔っ払った彼女が車内で吐いたら、桐乃が不快になる。もう一台五分で来るから、先に帰って休んでてくれ」 そう言って彼は無理やり桐乃を車から引きずり出し、ドアを閉めて走り去った。 残された桐乃の目には、ただ冷笑が浮かんでいた。 彼は自分が上手く隠せていると思っていたが、三十分前に千梨がサブアカウントで彼女に送ってきた挑発的なメッセージを知らなかったのだ。 【黎斗さんは私をあなたから守ってくれようとしてるから、そういう芝居してたの。で、今夜はスタッフと通じてわざとあなたを置き去りにして、戻って私と一周年を祝うの】 挑発の言葉に添えられていたのは、彼と千梨が濃厚に絡み合う何十枚もの写真。 【この数日、黎斗さんはいつもあなたが眠った後に私のところへ来てるの。時にはあなたが睡眠薬を飲んで眠ってる横で……ベッドの上のあなたはいつも死んだ魚みたいだから、私が代わりに彼を夢中にさせてたんだよ】 それを読んでも、桐乃の胸に湧いたのは冷笑と軽蔑だけだった。 だがその瞬間。 彼女は突然、仮面をつけた大柄な男に口と鼻を塞がれ、近くの背丈ほどの茂みに引きずり込まれた。 男の手は容赦なく、叫ぶ間も与えず、手にしたハンマーを彼女の大きくなった腹部めがけて振り下ろした。 一撃で声を奪われ、熱い流れが脚を濡らす。 それでも男は止まらず、次々と打ち下ろした。 十三回も。 最後には腹部がほとんど陥没し、折れた肋骨が皮膚を突き破った。 男はようやく満足し、瞳孔の散った桐乃の耳元で狂ったように笑った。 「お前の親父を車で轢き殺して、今度はお前の腹のガキを潰せた。ホント最高だな、あははは! 命は取らない。だがよく覚えておけ。その安っぽい人生、名門の妻なんて無理だし、俺の妹と男を争う資格もない。十鳥家の後継者は、妹の腹からしか出せねえんだよ!」 …… 意識が遠のく中、桐乃の耳に遠ざかる喧騒とサイレンの音が混じり合った。 誰かに救われ、病院へ運ばれたらしい。 医師の声は聞き取れず、ただ黎斗の絶望的な叫びだけが耳に残った。 「……子供も大人も、両方助けろ!!」 その顔には狼狽しかなく、整えられた髪も汗で乱れていた。 桐乃は久しく彼のこんな姿を見ていなかった。 彼女が彼を見ていることに気づくと、黎斗は赤くなった目で近づこうとした。 だが駆けつけたボディーガードが遮った。 「大変です十鳥さん!卯月さんは奥様の事故を知って罪悪感から自殺を……!」 その一言で黎斗の顔色が再び変わり、桐乃を顧みることなく、迷いもせずに背を向けて走り去った。 彼が去った後、桐乃は必死に医師の白衣を掴み、意識が闇に沈む前に最後の力を振り絞って訴えた。 「……もう要らない……子供も、子宮も……全部要らない……」 …… 第7話 桐乃が痛みで目を覚ましたとき、黎斗の親友、副院長である葛城昴(かつらぎ すばる)が、ちょうど彼女の傷口のガーゼを交換し終えたところだった。 視線が淡々と平らな腹部をかすめ、そこに残る30センチもの醜い傷跡に触れた瞬間、桐乃はかすれた声で口を開いた。 「黎斗はこれを知ってるの?」 昴は目に動揺を浮かべ、言い訳を探すように唇を開きかけたが、彼女の澄んだ瞳に射抜かれ、結局は気まずそうに首を横に振った。 「……卯月が睡眠薬を丸ごと一本飲んで、自殺未遂で運ばれてきたんだ。助かったけど、泣き続けていて……黎斗さんはまた何かしでかすんじゃないかって心配で、そばを離れられなかった。それで……君のところに来られなかったんだ」 来られなくても、問いかけることさえできないの? 桐乃は可笑しくなったが、もう追及する気もなかった。 「子供のことは……明後日、彼に伝えてくれる?」 ちょうど、朔也から連絡が届いていた。 偽装死の予定時刻は明日の真夜中だ。 昴は深く考えずに頷き、そのまま病室を出ていった。 ほどなくして、黎斗が息を切らしながら駆け込んできて、勢いよく桐乃を抱きしめた。 「桐乃!桐乃を失うかと思ったよ」 興奮に震える声が、喜びに満ちていた。 「よかった……君も、赤ん坊も無事で……」 そう言って、彼は手を伸ばし、病衣をめくろうとしたが、桐乃に押し返された。 彼は彼女がまだ怒っているのだと思い、気を抑えて説明する。 「このところ確かに桐乃を放ってしまった。だからこれから一ヶ月の予定は全部キャンセルしたんだ。桐乃の体を休めるため、一緒に旅行に行こう。どこか、行きたい場所は?」 桐乃は、朔也が提示した「偽装死」の候補地を思い浮かべ、ふと心が動いた。 「新婚旅行で乗ったあの豪華客船に、もう一度行きたい」 窓の外を見つめながら、頬に張り付く黒髪を揺らし、小さな声で答えた。 …… 翌日の夕暮れ、黎斗は車椅子の桐乃を押して船に乗り込んだ。 この船はもともと彼女のために特注したもので、乗客は必要最低限のスタッフのほか、桐乃を楽しませるために雇われた千人以上のパフォーマーだけだった。 もうすぐ偽装死でここを去る―― そう思うと、桐乃の心は軽く、舞台で繰り広げられる演目をひとつ残らず真剣に楽しんだ。 彼女の笑顔を見て、黎斗は大盤振る舞いし、出演者一人ひとりに200万円のボーナスを渡した。 たちまち劇場は歓声に包まれる。 夜九時半。 黎斗は桐乃を車椅子に乗せ、最上階のスイートに戻ろうとした。 長い廊下を進む途中、待ち構えていた船長が恭しく一礼する。 「十鳥さん、奥様のためにご用意された海上花火の時間に間に合わせるには、そろそろ出発が必要です」 「行こう」 黎斗が頷いた瞬間、ボディーガードが険しい顔で駆け寄り、耳元でささやいた。 「……卯月さんが行方不明に。犯人の体格は先日奥様を襲った人物に酷似……鮫島家の人間が病院付近をうろついていたのを目撃されています……」 反射的に歩き出した黎斗は、背後の桐乃を思い出し、足を止めた。 「行ってあげて」 桐乃は、久しぶりに眩しい笑みを彼に向けた。 愛し合っていた頃のように。 黎斗の目が赤く染まり、喉仏が上下する。 やがて、静かに約束した。 「これが最後だ。 桐乃の体が回復したら、千梨を国外へ送る。それからは、俺たち二人きりの世界だ」 桐乃は頷いた。 だが、彼が去った瞬間、その笑顔は跡形もなく消える。 黎斗、「これから」なんて、もうないの。 …… 黎斗はほぼ全市の警力を動員し、ついに港から四十キロ離れた森の小屋で、縛られていた千梨を救い出した。 数分後、彼が千梨を姫抱きしてヘリに乗り込む姿が写真に撮られ、瞬く間にネットの検索一位に躍り出た。 …… 出発から十分前。 桐乃は「お腹が空いた」と言ってボディーガードを遠ざけた。 出発から五分前。 妊娠中断の同意書、引き裂かれた婚姻届受理証明書、母の死の真実を収めたUSBを、きちんとテーブルの上に並べた。 出発から三分前。 彼女はスマホに、定時送信される動画を録画した。 出発から一分前。 桐乃は誰もいない甲板に立ち、海風に黒髪をなびかせる。 白いドレスをつまみ、裸足のまま欄干に上がった。 暗く荒れる海面を見下ろしながら、なぜか全身が羽のように軽く感じられた。 真夜中の鐘が鳴り響く。 桐乃はそのまま仰向けに落ちていった。 同時に、夜空いっぱいの花火が炸裂する。 きらめく火花と、落下してゆく彼女の細い影が、遠くから船に駆け寄る黎斗の瞳に映った。 一瞬で、彼の魂は砕け散った。 「桐乃――!」