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君に捧げた一生、背負うは千行の涙
川村紗奈(かわむら さな)は、福井隼翔(ふくい はやと)にとって留学中四年間ずっと心の支えだった。 四年もの歳月が過ぎ、彼の愛はもうすっ...
Chương (1)
第1章
川村紗奈(かわむら さな)は、福井隼翔(ふくい はやと)にとって留学中四年間ずっと心の支えだった。
四年もの歳月が過ぎ、彼の愛はもうすっかり消え去ってしまっただろうと、彼女は思っていた。
しかし、彼が帰国するやいなや、大々的にプロポーズしてきたのだ。
誰もが紗奈のことを、隼翔が最も愛する女性だと口にした。
紗奈は感動し、ついに勇気を出して隼翔を受け入れた。
しかし、彼女は見てしまった。隼翔が、自分に隠れて、腹違いの妹である川村真奈(かわむら まな)と結婚しているところを。
紗奈は狂ったように理由を問い詰めた。
だが、隼翔は何事もないように答える。
「四年前、お前が何も言わずに消えた時、ずっとそばにいたのは真奈だったんだ。彼女はいま余命わずかで、結婚だけが唯一の願いなんだ。だから俺は、それを叶えてやるしかなかった」
その言葉に、紗奈はただ静かに微笑んだ。
彼が知らないのは、四年前、紗奈が彼のもとを去った理由も、彼女が不治の病を患っていたからだということ。
その後、紗奈の病気が再発し、隼翔に関するすべての記憶を失った。
しかし、隼翔はまるで狂ったように、何度も何度も彼女の部屋のドアを叩き続けた。
第1話
福井隼翔(ふくい はやと)が盛装して、腹違いの妹川村真奈(かわむら まな)との結婚式に現れたのを見て、川村紗奈(かわむら さな)は呆然とした。
ほんの30分前、真奈から隼翔との結婚披露宴に招待されたばかりだったのだ。
紗奈は胸が締め付けられる思いで、真奈から送られてきた住所へ車を走らせた。
案内されて控え室に入ると、隼翔が真奈のウェディングドレスの裾を、とても大切そうに整えているところだった。
結婚式を控えた二人の姿。そして部屋いっぱいに飾られた、自分の婚約者と妹が写るウェディングフォト。
その光景に耐えきれず、紗奈は涙を滲ませて声を上げた。
「隼翔、今週は実家に帰るって言ってたのに、ここで何してるの!」
紗奈の声に、隼翔はぴたりと動きを止め、笑みを浮かべていた唇から血の気が引いた。
「紗奈、どうしてここへ?」
彼は、無意識に真奈をかばうように前に立ち、紗奈を見る目は警戒心に満ちていた。
その目に傷つけられた紗奈は、悔しそうに口を開いた。
「私の婚約者が他の女と結婚するのに、私は何も知らされない……なのに、どうしてここにいるのかってあなたに聞かれなきゃいけないの!」
感情が高ぶって、紗奈はよろめきそうになった。
隼翔は真奈をさらにしっかりと背後に隠した。
彼が紗奈に向ける視線は冷たく、そして淡々としていて、紗奈がまるで理不尽にわめくヒステリックな女に見えた。
ドアの外から司会者が急かす声が聞こえ、隼翔は真奈の手を掴むと、振り返って静かに言った。
「あの時、お前が何も告げずに姿を消した。その間、ずっと真奈がそばにいてくれた。今の彼女は不治の病を抱えていて、唯一の願いが俺と結婚することなんだ。だからその望みを叶えてやるのは当然だろ。
ここは引いてくれ。披露宴が終わったら、すぐに戻る」
その言葉を聞き、紗奈は二人が繋いだ手を見つめながら、苦笑を浮かべるしかなかった。
視線を隼翔の背後へ移すと、得意げに微笑む真奈の姿があった。
四年前、彼女に諭されて隼翔の元を去った時の言葉が、耳元に蘇る。
紗奈は母から先天性の心臓病を受け継いでいて、治る確率は限りなく低い。
それでも隼翔のそばにいたいと願い続けた。
けれど、その頃の隼翔は会社のトラブル続きで忙殺されていた。
そこへ真奈が現れ、取引を持ちかけた。
「もしあんたが彼のもとを去るなら、お母さんに頼んで隼翔を助けてあげる。よく考えなさい。
どうせ今ここに残ったって、彼に余計な負担をかけるだけでしょ」
そう言われ、苦渋の末に身を引いた自分。
だが今、真奈はその隙を突いて隼翔を奪い取り、自分は隼翔にとって裏切り者にされてしまった。
第2話
「隼翔、前のことには事情があったの。説明するから、ね、一緒に来てくれない?」
紗奈は心の奥に渦巻く悔しさを必死に押し殺し、もう一度縋るように声をかけた。
どうしても隼翔との長年の絆を、こんな形で終わらせたくはなかった。
幼い頃からの付き合いと十数年にわたる想い――隼翔はもう、彼女にとって切り離せない存在になっていたのだ。
もしかしたら、昔のように隼翔が自分を信じてくれるかもしれない。紗奈には、そんな最後の希望がまだ残っていた。
けれど、その時の隼翔の声色には、これまでにない苛立ちがにじんでいた。
「昔のことを責めるつもりはないし、お前を恨むつもりもない。
だけど真奈は、お前の実の妹だろ。あんなに弱ってるんだから、少しは思いやってやれよ!」
信じられないものを見るように、紗奈は目の前で怒りをあらわにした隼翔を見つめた。
目尻からは止めどなく涙が溢れ出した。
紗奈と真奈――二人の関係はずっと犬猿の仲だった。
当時、真奈の母親は不倫をしており、何度も紗奈と母親の前に現れては挑発した。
そのせいで母親は病を発症し、病院に運ばれたが、命を救うことはできなかった。
わずか8歳だった紗奈は、こうして唯一心から愛してくれた母親を失った。
その事実を、幼馴染の隼翔は全て知っているはずだった。
そして当時の隼翔は、紗奈の手を握りしめ、一緒に戦うと誓ってくれたのだ。
だが、年月が流れるにつれて、紗奈は憎しみを心に抱えたままでは生きていけないと理解するようになり、なんとか表面上は平穏を装うようになった。
まさか今になって、隼翔が自分に「真奈は実の妹だから大目に見ろ」などと言うとは思ってもみなかった。しかも、真奈と自分の結婚を受け入れろ、と迫る言葉で。
その言葉を聞いた瞬間、紗奈はもう隼翔を待つ必要はないと感じた。
母が病床で息も絶え絶えになっていた時、彼女は誓ったのだ――二度と同じ過ちは繰り返さない、と。
まして、真奈と同じ男を奪い合うような未来など、絶対に選ばない。
「分かった……じゃあもう邪魔しないわ。
ご結婚おめでとう」
紗奈は笑みを浮かべると、そのまま背を向けた。
その言葉に、隼翔の表情がかすかに歪み、視線を逸らさずに彼女を見つめる。
「待って」
先に声を上げたのは真奈だった。口元には残酷な笑みが浮かんでいた。
「お姉ちゃん、今日は私の結婚式なのに、お姉ちゃんの祝福がなかったら未完成でしょ?
だから一緒に入場してよ。ね、いいでしょ?」
爪が食い込み指先が真っ白になるほど、紗奈の拳は固く握られていた。痛みと吐き気で心臓が締め付けられる。
「体調が悪いから……ごめんなさい」
隼翔が止めてくれると一瞬思った。だが彼は、まるで腹を立てた子供のように黙ったまま立ち尽くしているだけだった。
彼の無反応を確認した真奈は、さらに図々しく言い募った。
「大丈夫、私のかかりつけの医者がいるから、お姉ちゃん、心配しなくてもいいわ。
それでも来ないと言うなら、もしかして、お姉ちゃんは私たちの結婚を望んでいないの?私の夢を叶えさせてあげたくないの?」
紗奈は唇の端をわずかに持ち上げた。何年経っても、妹の小細工は幼稚なものだと失笑してしまう。
「じゃあ決めて、隼翔。あなたは私に、二人の結婚式を見届けてほしいの?」
最後の機会を与えるつもりで、紗奈は彼に選択を委ねた。
しかし、真奈が彼の腕にしがみつき、蒼ざめた顔を上げているのを見ると……隼翔の心はまた揺らいでしまった。
「真奈がそう望んでるんだ、来てやってくれ。どうせ演技なんだから。
俺はここ数年、真奈にあまりにも多くの借りができた。だからお前は大人になれ……分かってくれるよな?」
最後の希望が音を立てて砕け散り、紗奈は短い沈黙ののち、ゆっくりと頷いた。
「分かった。じゃあ一緒に行く」
これはきっと、かつて自分が何も言わずに消えてしまったことへの罰なのだ。
今日が終わったら、彼女は海外に戻り、隼翔とは完全に縁を切るつもりだった。
第3話
彼らと一緒に会場に入った紗奈は、見覚えのある顔をいくつも見つけた。
それは彼女と隼翔の共通の友人たちだった。
一瞬にして、場の空気が気まずくなる。
「紗奈、怒らないで、真奈の病気は本当に待ったなしなんだ」
「そうだよ、俺たちも今日の結婚式がただの形式だと知っているから、気にしないで」
隼翔が真奈と結婚することは、彼ら全員知っていた。
けれど誰一人として紗奈に知らせてはくれなかったのだ。
むしろ今は逆に、紗奈に理解を求めてくる始末だった。
紗奈は無表情のまま小さくうなずく。
「分かってる」
離れていた四年間で、自分の周りの人間は皆、真奈の味方になったらしい。
紗奈は冷たさと皮肉が胸の奥から込み上げてきた。
やがて式が始まり、真奈と隼翔は司会者の指示に従い、互いに見つめ合いながら淡々と儀式を進めていく。
隼翔はポケットからゆっくりとダイヤモンドリングを取り出し、真奈の指に嵌めた。
その光景を見た瞬間、紗奈の胸が抑えきれずに痛んだ。
その指輪は人生でたった一人にしか贈れない。隼翔がその意味を知らないはずはない。
彼の表情は揺るぎなく、演技とは思えなかった。
要するに、隼翔の心はもうとっくに決まっていたのだ。
では、なぜ自分が帰国した後に、あえて近づいてきたのか。
紗奈はどうにか感情を抑え、ただ一刻も早く式が終わることだけを願っていた。
誓いの言葉が終わると、司会者は場を盛り上げるように二人へ「キスを」と促した。
隼翔は思わず紗奈の方を見てしまう。
だが紗奈は一瞥もせず、黙ってスマホをいじっていた。
隼翔の胸に得体の知れない苛立ちが込み上げる。
――どうしてこんなに平然としていられるんだ?
昔の紗奈なら、ちょっと他の女と話すだけで拗ねていたはずだ。
それなのに、今では自分が妹と結婚するというのに……こんなに冷静でいられるなんて。
わけの分からない不安が、隼翔の心にじわじわと染みていった。
真奈に腕を引かれて、ようやく現実に戻る。
けれどそんな隼翔の心境には気づかず、紗奈は必死に航空券を予約していた。
だが数日は便がなく、紗奈は苛立ちを隠せない。ここに長居すればするほど、心が擦り減ってしまうからだ。
医者に「食生活に気を付け、心を穏やかに保つこと」と言われていた。そうでなければ、後遺症を招く恐れがある。
その頃、参列者の催促に押され、隼翔は歯を食いしばり、真奈を抱いて唇を重ねた。
ちょうどその瞬間、紗奈は顔を上げて、その一部始終を目に焼き付けてしまう。
心は激しく締め付けられたが、それもほんの一瞬のことだった。
紗奈はバッグを手に取り、そっと席を立とうとした。
ところが舞台上の真奈に呼び止められる。
「お姉ちゃん、最後に祝福の言葉をお願いしたいの。
これで式もおしまいなんだから、お姉ちゃんも協力してくれるよね?」
昔なら紗奈は怒りで震えて、いっそ真奈を叩きつぶしたかっただろう。
だが今の紗奈は、ただ観念したようにバッグを置き、一歩ずつ壇上へと上がった。
「分かったわ。祝福するよ
真奈と隼翔が、末永く幸せで、早く子宝に恵まれますように。
これでいい?」
その言葉に、隼翔の顔が一気に険しくなる。
周囲も気にせず、紗奈の前に突っ込むようにして手を掴んだ。
「どういう意味だ!もういい加減にしろよ。何度言えば分かるんだ?これはただの幻みたいな式だ。終わったら俺のすべてはお前のものだ。それじゃ不満なのか?」
司会者は舞台の三人を呆然と見つめ、状況が理解できずにいた。
紗奈は隼翔の手を振り払い、二歩下がって冷たい目で睨みつけた。
「隼翔、なんで私が結婚した男を、また受け入れると思うの?
あなたはこれから私の義理の弟になるのよ。もっと分をわきまえなさい」
第4話
隼翔は怒りで胸がいっぱいになっていたが、大勢の人がいるこの場ではさすがに感情をぶつけるわけにもいかなかった。
真奈がその隙を突いて口を開いた。
「お姉ちゃん、もう隼翔と喧嘩しないであげて。彼だってすごく大変なんだから。
お姉ちゃんがいなかった数年、彼はよく眠れなくなるくらいあなたのことを想ってたんだよ……」
言葉の途中で、隼翔が遮った。
彼は真奈の手を取って、司会へ合図した。
「やめろ。式を続けて」
紗奈はその様子を見て、隼翔が怒っているのをすぐに見抜いた。
けれども、もうそれを宥める気力は残っていなかった。
彼女は会場を背に振り返り、そのまま隼翔と暮らしていた家へ戻った。
紗奈の父はここ数年体調がどんどん悪化していて、川村家はすっかり継母の掌の中にあった。
だから紗奈も帰国したあと、川村家には一度も戻るつもりはなかった。
もともと彼女は自分で部屋を借りていたが、それを知った隼翔に強引に連れられ、彼の家に住まわされていた。
紗奈は荷物をまとめながら、本当に面倒なことになったと頭を抱えた。
最初から隼翔に関わらなければよかった、と。
帰国してもう一ヶ月以上、この家で揃えた物も少なくない。
結局、荷造りがすべて終わるまで三時間かかった。
新しい住居に移り、ベッドに倒れると、紗奈は疲れ果ててそのまま眠りに落ちた。
夢の中で、彼女は大学時代に隼翔と過ごした日々に戻っていた。
二人は別々の大学だったため、隼翔は毎週末わざわざ地下鉄に乗って会いに来てくれた。
卒業する頃には溜まった領収書が本一冊ほどの厚みにまでなっていた。
その頃、紗奈が一番楽しみにしていたのは、隼翔がからかってくれる声を聞くことだった。
異国で一人きりで病気を患ったとき、何度もその記憶だけを頼りに耐えしのいだこともある。
やがて偶然の縁で宮田直人(みやた なおと)という友人と出会い、彼の家の力添えで病を治すことができた。
それでも日々、隼翔と一緒に過ごした日々が頭に浮かんだ。
直人が熱心に紗奈へ尽くしてくれるたび、彼女は戸惑い、どう応えればいいのか分からなかった。
結局のところ、自分は妥協して生きる気はなかった。
だから、若い頃の心のときめきを信じ、第六回目の告白を断ったあと、思い切って帰国を選んだのだ。
そのとき直人は傷ついた表情で言った。
「最後にもう一度だけ待つよ。もしその人に大事にされなかったり、もう別の相手ができていたなら……俺のところに戻って、一度だけ試してみない?」
直人は裕福な家の出で、容姿も良く、言い寄ってくる人は数え切れないほどいた。
なのに、彼はひたすら自分にこだわり続けた。
紗奈はため息をつき、内心で思った。
そういう意味では、自分と直人は同じ種類の人間で、同じように頑固なのだと。
そんなことを思いながら、紗奈は目を覚ました。
顔は涙で濡れていた。夢の中で泣いてしまっていたのだ。
彼女は涙を拭い、何か食べようとベッドから降りかけた。
だが、そのとき外から妙な物音が聞こえてきた。
胸がぞくりとする。
このマンションは適当に選んだだけで、防犯設備がろくに整っていない。
もしかして泥棒か?
紗奈は咄嗟にスマホを開き、隼翔へ助けを求めるメッセージを送った。
しかし返ってきたのは冷たい一言だった。
「そんな理由で俺を騙すことも覚えたのか?今は真奈と一緒なんだ。これ以上騒ぐな」
胸の奥がひどく締め付けられる。
こんなふざけた嘘を今までに言ったことがあるだろうか。
きっと、ただ彼は来たくないだけなのだ。
紗奈は隼翔を通知オフにして、警察へ通報しようとした。
その矢先、ドアの外から気怠そうな声が響いた。
「……紗奈、起きたか?」
第5話
直人だった。
紗奈はようやく肩の力を抜いた。
「どうしてここに?私、住んでる場所なんて教えてなかったでしょう」
直人は声を上げて笑った。
「俺が知りたいことなら、君が教えてくれなくても分かるさ
来なきゃ、君は誰かにいじめられて倒れてたかもしれないな」
直人と紗奈は偶然にも同じA市の出身だった。
宮田家はA市でもっとも裕福な一族で、政界に顔を利かせる年長者も多く、複雑な人脈を持っていた。直人が本気で調べようと思えば、情報を掘り出すのは難しくなかった。
紗奈は唇を結び、簡単に片づけをしてから外に出た。
けれど待っていたのは、エプロンをつけて料理を運んでくる直人の姿だった。
ピンクのウサギ柄エプロンと直人の組み合わせはどう考えても似合わなくて、紗奈の沈んでいた気持ちもつい笑いとともにほぐれていった。
「私の好きなチャーシュー、ある?おなかペコペコ」
彼女は自然にテーブルにつき、海外で一度味わった直人の料理を思い出した。
初めて彼が作ったチャーシューを口にした時には、あまりの美味しさに涙が出そうになったほどだ。
「箱入り息子のくせに、なんでこんなに美味しいごはん作れるの?」
直人はウィンクしてみせた。
「君のために特別に勉強したって言ったら、感動する?」
その当時の紗奈は本気にしなかった。ただの冗談だと思ったのだ。
けれど後に、直人が本当にネットでレシピを調べ、一つ一つ試しながら新しい料理を作ってくれる姿を見て、彼女はどうしようもなく胸を打たれた。
「まだ買えてないから、とりあえずこれで我慢して」
紗奈は小さく頷き、少し残念そうに目の前のご飯をガツガツ食べ始めた。
直人は横に座り、ひたすらその様子を見守っていた。たった一ヶ月離れていただけで、この食いしん坊はすっかり痩せ、そして少し疲れ切った顔になっている。
心の底から彼女を哀れに思う直人は、同時に紗奈が思い続けていた隼翔への不満も募らせていた。
ここ数日で起きたことは、すでに彼が手を回した手下から事前に報告を受けていたのだ。
真奈のあまりにも稚拙な手口――それにすら気づかず、むしろ紗奈を傷つける隼翔。
その知らせを聞いた直人はもう居ても立ってもいられず、すべてを放り出してA市に駆け戻ってきた。
馬鹿な子だと直人は思った。帰国する前までは、何とかして隼翔に投資してくれと遠回しに頼もうとしていたのだ。
だが直人はすでに徹底的に調べていた。福井家の会社は確かに外面ではまだ華やかだが、内実は崩壊寸前の衰退期に入っていた。
「直人……まだ足りない」
紗奈の唇には炊き込みご飯のかけらが残っていて、直人は微笑みながらそれをぬぐった。
その仕草に紗奈が一瞬呆然となる。すぐに我に返って言い放った。
「いいよ、自分で拭くから」
もう隼翔への想いは完全に失せていた。だがそれでも、すぐに直人と親しげな関係になるのは違う気がしていた。
それではまるで直人を都合のいい代わりに扱っているようで、彼女はそんなのを好きになれなかった。
しかし直人はくじけない。立ち上がってさらに料理を作ろうと台所へ向かおうとした。
その時、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「紗奈、なんで引っ越すって一言も言わないんだ?何に腹を立ててるんだよ、俺のどこが気に入らなかったんだ?
四年前だって黙っていなくなったろ。今度もその手か?俺だって人間だ、少しは俺の気持ちも考えてくれよ!」
隼翔は自分こそが被害者だと感じていた。ただ真奈の夢を叶えてやっただけじゃないか。紗奈がそこまで怒る必要はあるのか、と。
勢いできつい言葉を投げつけてしまったが、メッセージを送った後にはすぐに帰宅し、本当に何かあったのかと確かめに行った。
しかし待っていたのはがらんとした部屋と、机の上に残された一枚の紙切れだけ――
「さよなら」
隼翔は悪態をつき、すぐに車で紗奈を追いかけたのだ。
第6話
紗奈は眉をひそめたが、口を開くより早く、直人が先にドアを開けた。
「お前は誰だ?」
開いたドアの向こうに見知らぬ男を見た瞬間、隼翔の表情は一気に険しくなった。
「俺は紗奈の彼氏だ。何か文句あるのか?」
隼翔は一瞬呆然とし、そのあと顔を真っ赤にして怒りを噴き出した。
「彼氏?何をでたらめ言ってんだ!紗奈、出てきてはっきり説明しろ!」
紗奈は直人の言葉を聞いて、彼が自分を庇っているとすぐに分かった。
「直人、やめて」
「やめない」
直人は後ろを振り返り、紗奈を見据える。その眼差しは揺るぎなかった。
隼翔の顔はさらに引きつる。
「紗奈、説明してくれ。これはどういうことだ?」
紗奈は口を開いたが、言葉は喉で止まってしまう。
隼翔に誤解されたくはなかったが、直人の立場を悪くするのも嫌だった。
「説明する必要なんてあるか?」直人は鼻で笑った。
「見りゃ分かるだろ。何年も追いかけてきた俺に、ようやく彼女が応えてくれたってことだ」
隼翔は拳を握り締め、額に血管が浮き出る。
「もう一度言ってみろ?」
「ん?聞こえなかったか?」
直人は顎を突き上げ、挑発するように言った。
「紗奈は今、俺の彼女だ。もう彼女に付きまとうのはやめてくれ」
「てめぇ!」
隼翔がとうとう堪え切れずに拳を振り上げた。
だが直人は軽く身をかわし、逆に反撃の拳を隼翔の顔面に叩き込んだ。
隼翔は大きくよろめき、数歩後退する。
顔を押さえながら、憤怒の目で直人を睨みつけた。
「よくも殴ったな!」
「殴って当然だろう」直人は一歩も引かない。
「紗奈をいじめた罰だ」
二人が殴り合いを始めたのを見て、紗奈は慌てて隼翔の前に立ちふさがった。
「やめて!もうやめて!」
紗奈が隼翔を庇うのを見て、直人の目が一瞬翳る。動きも止まった。
紗奈はそのことにすぐ気付き、慌てて直人を振り返った。
「直人、違うの、誤解しないで、私は……」
「もういい」直人は冷たく遮った。
「分かってる」
彼は部屋に戻って上着を掴むと、そのまま背を向けて出て行った。
残された紗奈は、自分の軽率さに胸を締め付けられた。
あれはただの反射的な行動だった。考える暇なんてなかった。
「直人!」紗奈は追いかける。
「ちゃんと説明させて!」
直人は立ち止まったが、振り返らなかった。
「もういい。君の心に誰がいるか、分かってるから」
その背中は遠ざかり、紗奈の良心を深く抉った。
隼翔は戸口に立ち、紗奈の表情を見て心がざわついた。
「紗奈、お前……」
「帰って」
冷たい声が彼の言葉を遮った。
「帰れ。もう二度と来ないで」
隼翔は呆然とした。
「何を言って……?」
「聞こえただろ。帰って。私の前から消えて」
紗奈の目は氷のように冷たい。
「紗奈……そんな言い方しなくても……」
「消えろって言ってるの!」紗奈の心がついに爆発し、叫びが響き渡った。
「まだ分からないの!?早く出てって!」
隼翔はその激しい拒絶に怯む。
彼はこんな紗奈を見たことがなかった。
「消えて!」紗奈の視界が涙で滲む。
「もう二度と顔も見たくない!」
その一言に突き刺され、隼翔は押しつぶされるように痛みを感じた。
彼は紗奈を一瞥すると、黙って背を向けていった。
残された紗奈の目から、ついに涙が溢れ出る。
部屋に戻ってソファに倒れ込むと、涙は止まらなかった。
直人が自分にどれだけ優しいか、彼女は知っている。
けれど、胸の奥にはまだ隼翔が残っている。
それが直人に対してどれほど不公平か、理解しているのに。
それでも自分の感情を抑えられなかった。
紗奈が悲嘆に沈んでいると、突然インターホンが鳴った。
隼翔が戻ってきたのではと考え、胸が一気に苛立ちで満たされる。
「誰?」紗奈は不機嫌に叫んだ。
「俺だ」扉の外から聞こえたのは直人の声だった。
紗奈は驚き、慌てて涙を拭き取り、ドアを開けた。
「直人、あなた……」
直人は穏やかな目で、紗奈の言葉を遮った。
「さっきは取り乱した。悪かった」
紗奈は胸が締め付けられるほどの罪悪感に襲われた。
「謝るべきなのは私の方よ……直人には本当に申し訳ないことをした」
「紗奈」直人は真っ直ぐ彼女を見つめる。その瞳には揺るぎがなかった。
「俺は君が好きだ。ずっと、ずっと前から」
「答えを急がなくていい。時間をあげるから」
その言葉に紗奈の胸は温かさで満たされる。
直人の想いが偽りないことを、誰よりも分かっていた。
「直人」紗奈は彼をしっかりと見た。
「ちゃんと考える」
直人は微笑んだ。
「分かった。俺は待つ」
第7話
紗奈がスマホを開くと、隼翔からびっしりとメッセージが届いていた。
彼女は返信せず、無言ですべての履歴を削除した。
一度隼翔を諦めると決めた以上、その一歩を踏み出さなくてはならない。
夜、直人と一緒に街を歩いていた紗奈は、共通の友人から電話を受けた。
「紗奈、隼翔が何かに刺激されたみたいで、飲みすぎて全然起きないんだ。ちょっと来てくれないか?」
紗奈は言葉に詰まり、断ろうとした。
だが直人が彼女の手を押さえ、目で「行っていいよ」と合図を送ってきた。
直人が何を企んでいるのか分からず、紗奈はしぶしぶと居場所を聞いた。
一方、電話の向こうで不安げに結果を待っていた隼翔は、口元に笑みが浮かんだ。
彼女が自分の元に来ると承諾した――それはまだ自分を気にしている証拠なのではないか?
隼翔は、午後に紗奈が直人のために自分に強く当たったことを思い出し、後でしっかり酔ったふりをして、彼女を少し懲らしめてやろうと決めた。
「隼翔、これで満足だろ?言った通りだ、紗奈の心にはお前しかいない。お前以外に彼女が他の誰かを好きになるなんて考えられない!」
隼翔は心の中で頷いた。確かにその通りだった。
大学の頃も、多くの金持ちの子息が紗奈に言い寄っていたが、彼女は決して流されず、彼に嫉妬させるようなことは一度もなかった。
だがなぜか隼翔の脳裏には、今朝の真奈がウェディングドレスに身を包む姿がよみがえってしまう。
慌てて頭を振り、その光景を追い払った。
あれはただ夢を叶えるためのもの、決して自分の心が揺らいだわけじゃない。
今日のことで紗奈をひどく傷つけたのは分かっている。だが、彼は真奈に心を奪われてなどいない。
ただ、彼女に手を差し伸べたかっただけだし、妹に対する憐れみの気持ちがあっただけだ。
真奈の母が二人の結婚を望んでいることは知っていたが、自分はそれに同意するはずがない。
その頃、直人に手を引かれて車に乗り込んだ紗奈は、不安げに口を開いた。
「また隼翔を殴りに行くつもりじゃないでしょうね?直人、やっぱり行かない方がいいと思う」
直人はドアをロックし、紗奈の顔にぐっと近づいて悪戯っぽく微笑んだ。
「その通りだ。あいつを殴ってスッキリしてくる」
紗奈は彼の頬をつつき、呆れたように言った。
「ふざけないでよ。じゃあ、どうしても私に迎えに行かせたい理由は何なの?」
「決まってるだろ。あの野郎の本性を君に見せてあげるんだよ。それで完全に諦めてもらう」
直人は軽く答え、そのまま車を走らせてバーへと向かった。
第8話
バーに着いた紗奈の胸は少し緊張で締めつけられていた。
さっき直人が言った言葉で心の準備は多少できた。もしかしたら、彼はまたもや先に気付いていて、隼翔が仮病してまで自分に会いに来ようとしていると察していたのかもしれない。
だが、個室に入った瞬間――
耳に飛び込んできたのは、形容しがたい声。
艶っぽい女の声と荒い吐息、それだけで中で何が起きているのか外に伝わってしまう。
紗奈の顔は瞬く間に蒼白になり、ドアを押し開けると、目に映ったのは隼翔に押し倒され、深く口づけされている真奈だった。
「紗奈……」
隼翔は明らかに意識が朦朧としていた。それでも口の中で紗奈の名前をはっきりしない舌で繰り返している。
一方、真奈は紗奈を目にした途端、むき出しの挑発的な笑みを浮かべた。
「お姉ちゃん、どうして来たの?隼翔が酔っぱらったから、迎えに来てって呼ばれたのよ。誤解しないでね」
直人は眉を上げた。そのメッセージを真奈に送ったのは他ならぬ自分だ。
すべては隼翔の正体を暴くため。
ただ、今の隼翔の様子からすると、何か薬を盛られた可能性が高い。
紗奈の表情を伺いながら、直人は胸の奥に不安を覚えた。
だが紗奈は何の反応も見せない。
ただ一度だけ隼翔に目をやると、それ以上視線を向けることはなかった。
「いいわ、続けてちょうだい」
深く息を吸い込むと、紗奈は直人の腕を引いて踵を返す。
背後からは、真奈の媚びる声がまたもや響いてきた。
「隼翔、もっと優しくして……」
紗奈は吐き気を抑えきれず、足を早め、外に出るなり直人に身を預けて前かがみに嘔吐いてしまった。
顔を上げたときには、すでに涙が頬を濡らし、ぐしゃぐしゃになっていた。
直人はそれを見て胸が締めつけられる。
だがこうするしかない。
紗奈が完全に諦め、隼翔の本性をはっきり見抜くために。
その頃、紗奈の携帯に真奈からの新しいメッセージが届く。
【お姉ちゃん、うちの母さんが隼翔のお父さんを説得して、縁談を進めるって。あんまり騒ぎ立てたくないでしょ?当分の間は隼翔の前に顔を出さないこと、わかった?】
それを見て、紗奈は真奈の番号を通知オフに設定した。
まるでそうすれば、全部の厄介ごとが自分から遠ざかっていくかのように。
十数年の付き合い。幼い日の想い。
すべてが、この瞬間、紗奈の人生から剥がれ落ちていく。
数歩ふらついた後、耐えられずにその場で意識を失った。
目の前に閃く白い光。制服姿の十七歳の隼翔が歩み寄ってくる。
「紗奈……」
「紗奈!」
しかしその声は直人のものへと変わる。
紗奈は必死に目を開けようとするが、力が入らない。
ただただ、終わりのない闇の中に沈んでいくしかなかった。
一方その頃。
目を覚ました隼翔が見たのは――真奈と自分が川村家のベッドで横たわっている光景だった。
目を見開き叫ぶ。
「な、なんで君が……紗奈はどこだ?!」
真奈は少し泣きそうな表情で言う。
「隼翔、そんなに彼女がいいの?昨夜、彼女は迎えなんて来なかったわ。逆に私に電話して、行かなければバーで放置するとまで言ったのよ。
それで、私が駆けつけたら……あなたが抱きついてきて……」
「もうやめろ!」隼翔は慌てて飛び起き、服を探して着替えようとする。
頭の中にはただ一つの考え。
自分は汚れてしまった。紗奈はきっと二度と許してくれない。
真奈は焦り、裸足のまま隼翔に取りすがって抱きついた。
「私もあなたのことが好きなのよ!どうして振り向いてくれないの?」
隼翔の体が凍り付く。
「いい加減にしろよ……君もわかってるはずだ、俺と君は絶対あり得ない!」
その瞬間、外からドアが開き、真奈の母が入ってきた。
鋭い目で隼翔を見下ろす。
「隼翔、この書類を見てから喋ったらどう?」
福井グループが絶対に手放せないプロジェクトの資料と、今朝こっそり撮られた、病院で直人が紗奈を看病している写真。
彼女はそれらを机に置くと、冷笑を浮かべた。
「真奈がいなければ、福井グループなんてとっくに潰れてるわ。
感謝するどころか、あなたを捨てた女のところに行くつもり?
真奈と病室の紗奈、選べるのは一人だけ。
紗奈を選ぶなら、福井グループを捨てることになる。どうするかは、あんた次第よ!」