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離脱ヒロインと、狂ったアイツ
「宿主様、全てのポイントを消費して、この世界から離脱しますか? ここに指印を押してください。確認後、半月以内に強制送還が実行されます」...
Chương (1)
第1章
「宿主様、全てのポイントを消費して、この世界から離脱しますか?
ここに指印を押してください。確認後、半月以内に強制送還が実行されます」
初芽(はつめ)はためらうことなく、指印を押した……
第1話
「宿主様、全てのポイントを消費して、この世界から離脱しますか?
ここに指印を押してください。確認後、半月以内に強制送還が実行されます」
白石初芽(しらいし はつめ)はためらうことなく、指印を押した。
テレビでは、橘玲司(たちばな れいじ)がマイクを握り、カメラに向かって彼女に愛を告げていた。
「初芽、愛してる。ずっと一緒にいよう」
画面の中の彼は、心から愛しているような真剣な眼差しをしていた。
あまりに美しい場面に、記者たちはシャッターを切りながら口々に羨ましがった。
「なんて素敵なんだ。こんな大勢の前で公開プロポーズするなんて」
「分かってないな。あれは彼女を安心させたいからだよ。俺たちは見守ってりゃいい」
「聞いた話だとさ、橘さんがまだ路上で寝てた駆け出しの頃に手を差し伸べたのが初芽さんだったんだって。それからずっと支えてきて、橘さんが成功したあと、毎年欠かさず特別な贈り物をしてきたらしい。十八歳には一点物のプラチナリング、十九歳には世界でひとつだけのトルマリンのネックレス、二十歳には最高級エメラルドのブレスレット!しかも、以前初芽さんが窃盗の濡れ衣を着せられたときも、橘さんは業界追放を覚悟で彼女の潔白を証明したんだ」
――これが真実の愛でなくて、何だというのだ。
初芽はもう見たくなかった。テレビを消し、心に残ったのは冷ややかな笑いだけ。
否定はしない。玲司は確かに彼女を愛していた。命を懸けるほどに。それでも、彼は別の女を愛していた。三年も別の女を囲っていた事実は消えない。
彼女が約束を破られ、窮地にひとりで立たされたとき、玲司は別の女を連れて酒の席に通い、仕事を取っていた。
――男というものは皆そうなのだろうか。口では「愛してる」と言いながら、心も体も別の女に向かう。
彼女がシステムと繋がり、案内されるままに路地裏で玲司を見つけ出した、あの日。
最初は苦戦を覚悟していた。けれど、玲司の彼女への好感は思いのほか一気に高まった。
冬の暖かいミルクティー、体調に合わせた気遣い、酔った夜には胃に優しいスープ。食事もすべて彼女の好みに合わせた。
初芽は思った。これが「家」というものなのだと。
攻略が成功した後、システムは何度も離脱を促したが、初芽は首を振った。
「玲司は私にプロポーズしようとしている。ここで逃げるなんて、私にはできない」
彼女の意思が揺るがないと知ったシステムは、それ以上止めることができなかった。
プロポーズの日。玲司は大勢の前で片膝をつき、宝物のように彼女の手を握り、誓った。
「橘玲司は、この先も初芽だけを愛する。
お前がいなくなったら、俺は狂ってしまう。
初芽、俺と結婚してくれるか?」
初芽は頷いた。もし裏切られた時は、この世界を去ればいい。二度と彼に見つけられないように。
――その時、ドアを叩く音。玲司が帰ってきた。
扉を開けると、酒の匂いが押し寄せた。「どうしてこんなに飲んだの?」
玲司は肩に倒れかかり、しばらくして花束を差し出した。「初芽、ずっと愛してるよ。お前だけを」
真っ赤なバラ。花は受け取らず、彼を支えて寝室へ連れていった。
彼は忘れている。赤いバラが好きなのは紗耶香(さやか)で、自分はジャスミンが好きだということを。
初芽は玲司に酔い覚ましのスープを持っていったあと、お風呂に入った。全身にまとわりつく酒の匂いで、頭がぼんやりしていた。
出てくると、玲司はバラを花瓶に活けていた。初芽に気づくとすぐに駆け寄り、顔いっぱいに心配を浮かべて言った。
「また裸足で歩いてる。風邪ひいたらどうするんだ?
お手伝いさんがここ数日いないんだから、もっと気をつけろよ。万が一ガラスか何かで足を切ったら、大変だぞ」
初芽は答えもせず、抵抗もしなかった。
玲司の心にはいったい誰がいるのか、彼女には分からなくなることが多かった。こんな彼を見ていると、とても浮気なんてするようには思えない。けれど、携帯に残された写真や挑発的な言葉は、紛れもなく現実だった。
玲司は何も気づかず、初芽の手を取って花瓶の前に立たせた。
「見てくれ、俺の活け花、上達しただろ?」
……そういえば、紗耶香はバラの活け花で番組に出て話題になっていた。
「綺麗ね。でも、どうしてジャスミンはないの?」
せめて「売り切れてた」とでも言ってくれるかと思ったが、彼の答えは冷たかった。「ジャスミンなんて地味だろ?花は小さいし、年寄りくさい。バラの方がいい。太陽みたいに華やかで情熱的だ」
その瞬間、初芽の胸はきゅっと締めつけられた。ぼんやりと、過去の面影がよみがえる。
男がジャスミンを手に、満面の笑みで彼女を見つめていた。「この花はお前みたいだ。清らかで上品だ」
――だが今や、清らかさよりも情熱のバラの方が上なのだ。
ぼんやりしていると、玲司がスマホを差し出してきた。「ほら、みんな俺たちの結婚式の話をしてる。
全員を招いて、盛大な結婚式にしたい。街中の大物を集めるんだ。どうだ?」
結婚式?
画面にはコメントが溢れていた。
【まだ結婚式してないの?絶対、盛大なのを準備してるんでしょうね】
【橘さんの愛だもん、どれだけ豪華になるか楽しみすぎる】
【末長くお幸せに!】
どうして人は、愛し合っていれば永遠に続くと思えるのだろう。
玲司は期待に満ちた瞳で問う。「どうだ?世間が注目する結婚式だ」
初芽は小さく頷いた。もう何も期待していない。ただ彼に最後の夢を見せるだけだ。
翌朝、玲司は張り切って彼女を連れ、ジュエリーショップへ向かった。
指はすでに指輪でいっぱいなのに。
「私たちには、もう指輪があるけど」
玲司は自分の指輪を選びつつ、何気なく言った。「新婚だし、新しい指輪を用意するもんだ。どれがいい?」
初芽はふと気づいた。玲司が見ているのは18号ばかり。けれど、自分の指は16号。明らかに合っていなかった。
店員が声をかける。「奥様は16号ですよ。これでは大きすぎます」
玲司は笑って流した。「大丈夫、デザインを見てるだけだから」
店員はそれ以上何も言えなかった。
だが初芽には分かっていた。これは紗耶香に贈る指輪だと。
以前、紗耶香がバラエティ番組に出たとき、指輪のサイズを聞かれて「18号」と答えていた。
その瞬間、玲司がスマホを抱えて甘く笑っていた姿を、初芽は思い出す。あんな笑顔を見たのは、付き合い始めの頃以来だった。きっとあの時から、彼は別の女に指輪を贈ることを考えていたのだ。
なら、なぜ別れてくれなかったのだろう。すでに他の女がいるのに、どうして自分を繋ぎ止めたのか。まさか二人の女に同時に指輪を渡すつもりなのか。
そのとき、玲司のスマホが鳴った。彼は画面を見てから指輪を置き、申し訳なさそうに初芽の頭を撫でた。「悪い。今日は会社の用事が多すぎて、指輪選びはここまでだ」
そう言うと、玲司は店員の方へ視線を移した。「さっき彼女が見ていた指輪を、全部まとめて家に送ってくれ」
今度は甘い視線を初芽に向け、優しく言った。「ごめんな、初芽。次は必ず邪魔させない。今日は我慢してくれ。カードを渡すから、欲しい物は好きに買っていいから。買い物が終わったら、運転手に迎えに来させて」
そう言い残すと、彼は急ぎ足で立ち去った。
店員はおそるおそる初芽の顔色をうかがいながら声をかけた。「お客様、指輪はどうなさいますか?」
初芽は淡々と答えた。「全部、捨てて」
花嫁は自分じゃない。本当の花嫁が来たときに、選べばいい。
第2話
車に乗り込んでから、初芽はようやく紗耶香からのメッセージを開いた。【まさか本気で、玲司さんがあなたのために指輪を選んでるなんて思ってないわよね?】
【私が一言言えば、彼はすぐ飛んでくるのよ】
続いて送られてきたのは、二人のチャットのスクリーンショットだった。
【ご主人様、こんな子猫ちゃんがいたら何時に帰ってくる?】
写真の中の女は、セクシーなキャットコスチュームに身を包み、猫耳カチューシャをつけ、ベッドの上に跪いて誘惑的な視線をカメラに向けていた。
【待ってろ、すぐ行く。
この小悪魔、今日は覚悟してろ】
その下には住所が記されていた。
初芽は運転手にその住所を告げ、確かめに行くことにした。
去る覚悟はできていたはずなのに。玲司が自分を置き去りにし、別の女の元へ行ったと知ると、心がざわついた。
あと数日で、すべてが終わる。時間が経てば、この感情もきっと消えていく。
車を降りると、そこにはすでに紗耶香が待っていた。露わになった肌には無数の赤い痕が残っていた。
かつて初芽は、この世界に来てから安心できずにいた。システムに突然呼び戻されるかもしれない。もしその時、子どもを身ごもっていたらどうするのか。そんな不安に苛まれていた。
そのたびに玲司は耳元で囁いた。
「初芽、俺を愛してないのか?
愛してるなら、どうして子どもを産んでくれないんだ?」
初芽は歯を食いしばり、何も答えず、ただ黙ってすべてを受け入れるしかなかった。
やがて二人の関係は次第に減っていき、玲司は何度も言った。「初芽、お前は保守的すぎる。何を怖がってるんだ?教えてくれよ、絶対に傷つけないから……」
けれど現実は、傷つけられることばかりだった。
初芽が黙り込むと、紗耶香はそれを恐れていると勘違いし、わざと玄関の奥を見せつけてきた。
床一面に散らばった避妊具。目に刺さるような光景だった。
紗耶香は挑発的に笑った。「どうしたの?呆気にとられた?
あなた知らないでしょ。彼、私のところに来た瞬間に飛びついてきたのよ。まるで女に飢えてたみたいに。あなたと一緒の時は、どんな惨めな生活だったのかしらね。
それとも、あなたには興味がないだけ?」
初芽の胸は、鋭い針で何度も突き刺されるように痛んだ。
部屋の奥からシャワーの音が響いた。紗耶香は一切隠そうともせず、さらに嘲るように言った。「どうする?直接、あなたの婚約者に問い詰めてみる?」
初芽は泣きもせず、玲司を待つこともしなかった。背を向けながら、ただ一言だけ残した。「あなたは私が捨てたゴミを拾うしかできない女よ」
家に戻ると、涙が途切れることなく頬を伝った。テーブルの上のツーショット写真を床に叩きつける。ガラスが砕け散り、写真は真っ二つに裂けた。笑顔の自分の顔が、粉々に裂けていた。
玲司が扉を開けて入ってきた。初芽を抱き上げ、心配そうに脚を確かめる。「傷はないか?
良かった、切ってはいないな。次は気をつけろよ。どうして泣いてるんだ?」
涙を拭い取りながら、申し訳なさそうに言葉を続けた。「初芽、怒ってるのか?俺が一緒に指輪を選ばなかったからか?
ごめん、全部俺のせいだ。次は絶対に会社なんて行かない。お前のそばにいるから」
彼の深い愛情も心配も嘘には見えなかった。だが、至近距離で漂う香水の匂いに、初芽は思わず吐き気を催した。
「……うっ」
吐き気を堪えきれずに嘔吐した初芽を見て、玲司は慌てて言い訳をした。「今日、女性の取引先に会ったんだ。その香りが移ってしまって、気にしないよな?」
初芽は首を振り、感情を押し殺した。「大丈夫。わかってる」
初芽はいつも通り静かで、従順で、聞き分けが良かった。玲司はほっと息をついた。だが、不思議なことに、彼女が何も言わなくなると逆に落ち着かなかった。
それでも彼は気にせず、初芽の額に口づけた。「今夜は友人たちと集まりがあるんだ。一緒に来てくれるか?」
初芽は玲司の友人たちが自分を見下しているのを知っていた。自分も彼らが嫌いだった。だからこれまで、ほとんど顔を合わせたことがない。
玲司は言ってから後悔した。「やっぱりいい。お前が嫌なら……」
「いいよ」初芽はあっさりと頷いた。どうせもうすぐ去る。なら最後に見ておこう。
かつて初芽と彼の友人たちの関係はうまくいかず、玲司はいつも板挟みになっていた。だからこそ、今回初芽が会うと言ったのに、玲司は素直に喜べなかった。どこかがおかしい気がしたのだ。
だが初芽は以前と変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。その姿に、玲司はようやく安心した。「じゃあ一緒に行こう」
個室の中には玲司の友人たちが集まっていた。テーブルに並んだのは、初芽の好物ばかり。
玲司は皆の前で、わざとらしくケーキを差し出した。「ほら、初芽。ケーキだぞ」
ケーキの上には可愛らしい二つの苺が乗っていた。だがそれは、初芽の好みではなかった。
彼女が好きなのはマンゴー味。けれど、紗耶香は番組で「マンゴーアレルギー」と言っていた。だからテーブルにマンゴーはひとつもない。
滑稽だ。彼女はここにいないのに、玲司は彼女の言葉を覚えている。そして本物の妻の好みは、何ひとつ記憶していない。
もう少しで終わる。あと数日で、この世界から解放される。
一口ケーキを食べた瞬間、甘さはどこにもなく、代わりに塩辛さが広がった。涙がぽろぽろとこぼれ落ち、ケーキに混じっていたのだ。
「初芽、どうした?俺、また何か間違えたか?」
玲司の顔は心配でいっぱいだった。裏切りの罪悪感は一切見えない。初芽は首を横に振った。
「煙が目に入っただけ」
玲司はすぐに周囲に怒鳴った。「誰だ?ここでタバコ吸ってる奴は!俺はもうやめたって言っただろ!全部消せ!」
慌てて火を消す友人たち。だがその中のひとりが皮肉を言った。「玲司、奥さんに甘すぎるんじゃないですか?タバコがダメなら、これから酒もダメかもな」
「そうそう。前に飲みに来なくなったのも、奥さんが止めたからだろ」
「やっぱり紗耶香の方が気楽でいいよな。あの子はノリがいいし……」
空気が一瞬で凍りついた。
玲司は初芽の表情を伺いながら、必死に弁解した。「紗耶香はただの友達だ。遊び好きなだけだよ。初芽、気にしないでくれ。俺が本当に好きなのはお前なんだから」
その時、扉が開いた。シャネルのワンピースに身を包み、完璧に着飾った紗耶香が現れた。「ちょうど私の話をしてたみたいだけど?」
皆がにやにやと笑い、慌てて席を空ける。
残ったのは玲司の隣だけ。
紗耶香はバッグを片手に、その席へ当然のように座った。
「遅れてごめんなさい。みんな、私のこと恋しかった?……とくにあなた、玲司さん」紗耶香の声には、挑発めいた響きがあった。
第3話
玲司の顔には穏やかな笑みが浮かんでいたが、その視線は初芽の方に向けられていた。
初芽は表情ひとつ変えずに、そっと視線を逸らす。
その場の空気が微妙に緊張したのを感じた誰かが、慌てて話題を変える。「ああ、遅刻だな!さあ、罰として三杯一気だ!」
紗耶香は初芽に挑発的な視線を送りながら、ワイングラスをくるりと回し、玲司のグラスと軽く当てて一気に飲み干した。
けれど、その細い脚は、そっと玲司のスーツ越しの長い脚に絡めるように擦り寄せていた。
この一幕を目の当たりにして、初芽の胃はきゅっと痛み、思わず吐き気を覚えた。
二人の視線が交わる。紗耶香の目はどこか意味ありげで、玲司はただ鋭く彼女を睨みつけた。その視線には、密かなメッセージが込められていた。
紗耶香はしぶしぶ足を引っ込める。
玲司は再び初芽に目を向け、紗耶香からさりげなく距離を取りつつ、優しく彼女の髪を撫でた。「初芽、みんな友達なんだ。そんなに怒らないでくれよ」
「ええ、わかってる。『友達』でしょ」
初芽はその二文字に力を込めて言うが、玲司には届かない。
「ちょっとトイレ行ってくる。なんだか目がしみるから」
玲司は「わかった。待ってるよ」とだけ答えた。
初芽がドアを押し開けたとき、その顔には皮肉めいた笑みが浮かんでいた。以前なら、彼女が「具合が悪い」と一言でも口にすれば、玲司は誰よりも心配してくれたのに、今では男の返事はただの「待ってるよ」という、冷たいひと言だけだった。
本気の愛がそこにあれば、こんなに冷たくなることなんてないはずなのに。
数分ほど、廊下で深呼吸をしてから、そっと個室に戻ろうとしたその時、中から冗談めいた声が聞こえてきた。
「玲司、そろそろ紗耶香のこと、公表しないのか?」
「そうだよ。紗耶香ちゃんみたいにいい子、玲司とお似合いだよ。大事にしなきゃ」
開けかけのドアの隙間から、初芽は玲司の顔を見た。
玲司の笑顔がぴたりと止まり、真剣な表情に変わる。「冗談はよせよ。俺は初芽を心から愛してる。紗耶香には、必要なものは全部与える。でも、妻にはできない」
「やっぱり遊び上手だな、玲司は」
「いやいや、そんなふうに言うなよ。玲司みたいな立場なら、女のひとりやふたり遊んだって当たり前だろ?家の奥さんさえ安泰なら、外でどれだけ女を抱えてようが問題なしってやつさ」男たちはそれぞれ腕の中の女を抱き寄せながら、馬鹿みたいに笑い合った。
「ははは……それもそうだな。さあ、もう一杯いこうぜ」
玲司は低い声で「とにかく、このことは絶対初芽には言うな」と釘を刺す。
初芽の胸の奥に、鋭い針が突き刺さる。
玲司は、このままずっと自分を騙し続けるつもりなのか。
その時、紗耶香が玲司の腕に体を寄せ、甘えるように背中をさすった。「みんな、そんなに玲司さんを責めないであげて。
私、玲司さんのこと一番分かってるつもりなの。今は全部を捨てろって言ったって無理だよね。
玲司さんと一緒にいられるだけで幸せ。欲張ったりしない」
玲司と紗耶香。身体はすでに全部、彼女のもの。心だって、きっと時間の問題。
紗耶香の微笑みはあまりにも優しく、その優しさに心を揺さぶられるかのように、彼女の髪をそっと撫でる。
その仕草は、さっきまで初芽だけにしていたものと同じだった。
男たちの笑い声が一層大きくなり、空気は熱を帯びていく。
ドアの外で立ち尽くす初芽の体は、冷たい氷水の中に沈められたように、痺れて動けなくなった。
裏切りは分かっていたはずなのに。けれど、こうして現場を見せつけられる痛みは、想像以上だった。
玲司は「愛してる」と言いながら、平気で彼女を裏切る。
口では誠実さを装いながら、やっていることは裏切りばかり。こんなに分かりやすくクズな真似をして、家の中では彼女を都合よく利用し、家の外では自分の欲望を好きなだけ満たして――
私のことを何だと思ってるんだろう。本当に馬鹿みたい。
昔は、そんな彼に何も気づかなかった自分が愚かだった。
今は、とにかく一刻も早くここを離れたい、それだけだった。
初芽は深く息を吸い、ドアを押し開ける。その瞬間、部屋の中の笑い声はぴたりと止んだ。
玲司は一瞬だけ顔を強張らせ、慌てて紗耶香を自分から離し、元の距離に戻る。
「おかえり」
玲司はすぐさま初芽の肩を抱こうとしたが、初芽はさりげなくその手を払いのけ、バッグを取ると立ち上がった。「少し体調が悪いから、今日は先に帰る」
玲司は心配そうに覗き込む。「どうした?病院まで送ろうか?」
「いいの。あなたは友達と楽しんで」
初芽は微笑みを崩さずにそう言い、玲司の手を再び振り払った。「みんなとゆっくりしてて。本当に平気だから」
その笑顔に玲司も安心したようで、「わかった。気をつけて帰るんだよ」とだけ言った。
外に出ると、真夏なのに、初芽の肌には鳥肌が立ったままだった。
さっきの光景が脳裏に焼き付いて離れない。
思い返せば、昔はどんなに小さな怪我でも、玲司は必ず心配して病院まで連れて行ってくれた。
大雨の日も、雪の日も、どんな時もそばにいてくれた。
あの頃、玲司にはほとんどお金なんてなかったのに、それでも持っているわずかな現金を全部使って、タクシーで自分を病院まで連れていってくれた。
けれど、今の彼には、もうその面影はどこにもない。
本当に、人の心は変わるものなんだ。
車が走り去り、窓の外の景色が流れていく。
初芽の目には、そのすべてが色褪せて映った。
……
この世界から離脱するまで、あと一日。
最後に、親友に別れを告げておこうと思った。
彼女の家を出て、帰り道を歩いていると、前方に見覚えのある黒いベンツが停まっている。
それは玲司のベンツだった。かつて「お前へのプレゼントだ」と言ってくれた車だ。
「私、運転あまり好きじゃないから、この車もらうのはもったいないよ」と笑ったとき、「だったら、これからはどこへ行くにも俺が連れていくよ。この助手席は、ずっとお前のために空けておくから」そう言ってくれたことを思い出す。
その車が大きく揺れている。まるで車の中で何か見てはいけないことが起きているかのようだった。
初芽は息を詰まらせ、体が硬直したまま、ゆっくり車のそばへ近づいた。そして、耳に飛び込んできたのは、信じたくもない卑猥な声だった。
第4話
「玲司さん、気持ちいい?」紗耶香の甘ったるい声が車内に響く。
「ん……小悪魔め。お前のせいで、死にそうだ……」玲司も息を荒げながら応える。
その光景に、初芽は心をえぐられるような衝撃を受け、思わず後ずさりした。
胃の中がぐちゃぐちゃにかき乱されるみたいで、涙がにじむ。
彼女は道端の植え込みにしゃがみ込むと、込み上げてくる吐き気をどうすることもできずに吐いた。
胃の奥からこみあげてくる酸っぱさと、心の中を焼き尽くすような苦しさ。
その両方が一気に襲いかかり、初芽の目からは勝手に涙がこぼれ落ちた。
その音に気づいたのか、車の中の二人が動揺する気配がした。
玲司は、まだ唇を離さない紗耶香を慌てて押しのけて、急いでシャツのボタンを留め、ズボンのファスナーを上げた。「ほら、早く片付けて」
「やだよ、もっと……」紗耶香はまだ余韻を楽しんでいる。
玲司は車の窓を下げ、ルームミラー越しに外を見た。そこで初芽の姿を見つけて、一瞬で顔色が変わる。
「ふざけないで、初芽が帰ってきた」
玲司の声は、妙に焦っていた。ドアを開けて外に出ると、紗耶香には「早く服を着て」と小声で指示をした。
「初芽、大丈夫?帰るなら電話一本くれればよかったのに。運転手に家の前まで送らせたのに」
初芽は吐ききったはずなのに、玲司が近づいてくるのを見た瞬間、また胃の奥が気持ち悪くなった。けれど、もう何も出てこなくて、ただ何度もえずくだけだった。
「どうしてこんなになるまで我慢してるんだ。やっぱり病院に連れていくよ。無理するな」玲司はそっと初芽の目元の涙を指で拭いながら、優しい顔でそう言った。
初芽はゆっくり立ち上がり、作り笑いでごまかす。「大丈夫。ただ、ちょっと胃の調子が悪いだけだから」
初芽の表情があまりにもよそよそしくて、玲司は一瞬ギクリとした。さっきの車の中を見られたんじゃないかと焦ったように、顔を青ざめさせて言い訳を始める。「初芽、誤解しないで。さっきは紗耶香のリップが落ちちゃって、それを拾ってあげてただけなんだ。
本当に、俺たちの関係なんて兄妹みたいなもんだし、いつもみんなでふざけ合ってるだけで……」
「そうなの?」
初芽は後部座席の広いスペースに目をやった。紗耶香は乱れた髪を整えながら、わざと車のライトに照らされる位置で首筋のキスマークを見せている。
小さくて薄いピンク色の跡が、いくつも連なっている。
彼女の唇もほんのり腫れていて、初芽の視線に気づくと、にっこりと微笑んだ。「初芽さん、誤解しないで。私と玲司さんは、ほんとに何もないんだから」
玲司は、紗耶香の首筋に残る痕を見て一瞬ぎくりとした様子を見せる。それでも、慌てて初芽の前に立ちふさがった。「そうだ。道で紗耶香が困ってたから、ちょうど送ってあげただけなんだ。ほら、仲のいい友達だし」
玲司って、私のことをバカにしてるんだろうか。
初芽は心の中で苦笑した。
「私、お邪魔だった?」
紗耶香は車から降りてきて、初芽に近づいてくる。香水の強い香りや、衣服の隙間からちらりと見えるキスマークまで、まるで自慢げに見せびらかしているようだった。
「私は先に帰るね」初芽は感情を見せずにそう言った。
その態度に玲司は安堵したように小さく息を吐く。
「初芽さんが来たし、私はタクシーで帰るね。ここからそんなに遠くないし、玲司さんに迷惑かけたくないから」
紗耶香はそう言いながら、ふと思い出したように車に戻り、「ちょっとバッグを取ってくる」とドアを開けて中に入った。
彼女がかがんで荷物を探していると、破れた黒いストッキング越しに太ももの付け根がちらっと見えた。そして、次に姿を現したとき、手にはオレンジ色のエルメスのレアなバッグを持っていた。
「初芽さん、玲司さん、では」
その時、初芽はようやくそのバッグに気がついた。ついこの間、自分がほしいと言っていたブランドのバッグだ。
少し前に、玲司がネットで注文していたのを見かけて、てっきり自分へのプレゼントだと思い込んでいた。
まさか、紗耶香の手元にあるなんて――
初芽は無意識に首元のスカーフを指でなぞった。それは数日前、玲司からもらったもの。端っこには、紗耶香のバッグと全く同じロゴの番号がついている。
玲司からのプレゼントに、一瞬だけ気持ちが揺らいだこともあったけど、今となっては全部ただのおまけだったんだ。
玲司、あなたは私を何だと思っているの……?
初芽は心の底から冷たくなっていくのを感じた。
「もう遅いから、玲司に送ってもらいなよ」
初芽は紗耶香の下心を見抜いていたけど、どうでもよくなっていた。もうすぐ全部終わる。
振り返りざま、初芽は一度だけ玲司の方を見た。彼は服が乱れたまま、焦ったような顔で、それでもどこか優しそうにこっちを見ている。
どうしても聞いてみたくなった。「玲司、あなたはどっちを送って帰るの?」
紗耶香がすぐさま答えた。「玲司さん、初芽さんを先に送ってあげて。私はタクシーで大丈夫だから」
でも「送らなくていい」と言いながら、その場に立ったまま色っぽく髪をかき上げたり、ストッキングを直したりして、どこか小動物みたいに玲司を見上げている。
玲司の気持ちは一瞬でそっちに引き寄せられた。
「ここから家まで近いし、初芽は早く帰って休んでて。俺、すぐ戻るから」玲司は少しだけ迷ったあと、結局紗耶香を選んだ。
初芽は二人に背を向けて、ゆっくりと目を閉じてからまた開ける。声は落ち着いていた。「……そう」
「玲司、さようなら」
そう言い残して、初芽は家に向かって歩き出した。心の中には、迷いも未練もなかった。
玲司は初芽の背中を見つめながら、どうしようもない焦燥感に駆られていた。でも紗耶香がすぐに彼の腕を掴む。
「ねぇ、玲司さん、もう私のこと見てくれないの?」
紗耶香は、蛇みたいに玲司に絡みつき、彼の手を自分の胸元へと導く。
玲司はすっかり初芽のことを忘れたように、紗耶香を車の中に押し込んだ。「今日は絶対に帰さないからな、この小悪魔」
再び車が揺れ始める。
初芽はひとりで家に戻った。部屋の中は前と同じで、何も変わっていないはずなのに、もう心は微動だにしなかった。
彼女は小さな声でシステムを呼び出す。「システム、もうそろそろだよね。どうせなら全部燃やして、この世界から消えたい」
「本当にいいんですか?このやり方は、すごく苦しいですよ」
初芽は静かにうなずく。「うん」
それくらい痛みを感じていないと、きっとこの出来事を一生忘れられない。もう二度と振り返らず、前だけを向いて進めるように。
「分かりました。今から世界からの離脱準備を始めます」
初芽は、わずかに残った洋服をいくつか取り出して、火をつけた。あっという間に炎が広がり、部屋中がまぶしい光に包まれる。
その炎の中で、彼女はふと、ずっと昔の玲司の姿を思い出す。まだ若かった玲司は、毎日のように仕事帰りにジャスミンの花を買ってきては、「いつかこの家をジャスミンの花でいっぱいにするから」そう言って、初芽に無邪気な笑顔を向けていた。
でも今の玲司は、熱烈なバラを選び、ジャスミンはいつのまにか色あせてしまった。
初芽は炎が部屋中に広がっていくのをそのまま見つめながら、床に座り込んでつぶやいた。「玲司、もう二度と会うことはない。
これから先、生きていても死んでも、絶対にもう会うことはない」