Đang tải thông tin quảng bá...
すれ違う帰路にて
家のリビングには一枚の絵が飾られていた。そこには桜井芽依(さくらい めい)の夫、息子、そして妹の姿が描かれていた。 息子がこう言った。...
Chương (1)
第1章
家のリビングには一枚の絵が飾られていた。そこには桜井芽依(さくらい めい)の夫、息子、そして妹の姿が描かれていた。
息子がこう言った。「もし絵に四人目がいるとしたら、それはおばちゃんとパパの間に生まれた僕の妹だよ!」
芽依はもう未練を断ち切り、最も危険で暗い最前線への潜入捜査を自ら申し出た。
それ以来、芽依は彼らとまったく関係のない存在となっていた。
第1話
緑川市、警備局の建物の奥深くから話し声が漏れていた。
「芽依さん、今回の任務の危険性を十分に理解してほしい。君は潜入捜査官として犯罪組織の中に潜り込む。もしばれたら、死ぬよりも辛い状況になるだろう。
たとえ潜伏に成功したとしても、証拠を集める過程で犯罪者と同じ行動を取らなければならないし、時には味方に銃を向けることもある。精神的な苦痛は計り知れないし、その苦しみが終わる時期も全く見えない。
君には夫と息子がいる。両親もいる。本当に耐えられるのか?」
面談室で上司は厳しい表情を浮かべた。
「私はもう夫と離婚する覚悟を決めています。彼にはいずれ新しい妻ができるでしょうし、息子にもよくしてくれるはずです。両親は実の娘を見つけて一家は円満です。私にはもう失わたくないものはありません」
桜井芽依(さくらい めい)は毅然と立ち上がり、敬礼しながらはっきりと言った。
「私は、敵に刺さる鋭い刃になりたい。母国と何万人もの人々の命を守るために、心臓を捧げます。たとえ任務のために死ぬことになろうとも、後悔はしません!」
上司は口を開けて何か言いかけたが、結局言葉に詰まった。
「私は行かなければなりません。師匠があの組織と関わってから不可解に失踪しました。私は彼を見つけ出し、たとえすでに遺体になっていようとも連れ戻します。この中で誰よりも奴らを知っているのは私です。あの組織を壊滅させるには、私が唯一の適任者です」
上司の目には名残惜しさが浮かんでいた。「潜入捜査官として、君の名前も功績も永遠に世に知られる事はないかもしれない。安定した道を選ぶこともできたはずだ。命がけの道を選ばなくても……
決意が固まっているなら行け!君がこの制服をまた着られる日が来ることを願っている。これから君の名前は名簿から消される。もう、以前の君とは違う存在になるだろう。幸運を祈る!」
上司は震える手で敬礼を返した。
芽依は微笑みながら答えた。「私はいつも運が良いのです」
建物を出ると、芽依はすでに私服に着替えていた。そよ風が服の裾をそっと揺らした。
ちょうど退勤ラッシュの時間帯で、夕日が枝を透かして道に差し込み、車の流れは絶えなかった。皆それぞれの「家」へと向かっていた。道端では屋台の呼び声、蒸気の立ち上る饅頭屋、下校した子どもたちが歩道で追いかけっこをしている――すべてが幸せそうだった。
芽依はぼんやりとその場に立ち尽くした。どこに向かえばいいのか分からず、一歩も踏み出せなかった。
上司は完璧な身分証を偽造するのに七日かかると言った。その間に家に戻って家族とちゃんと別れを告げるようにと。
しかし彼女は知っていた。その家にはもう自分を歓迎する者はいないと。
夫も息子も、ようやく見つけた彼女の妹に夢中になっている。
両親は罪悪感から、その妹を特にかわいがっていた。
そして彼女は……もはや他人と変わらなかった。
突然、スマホにメッセージが届き、開くと一本の動画が送られていた。
背景には彼女が丁寧に整えた小さな家が映っていた。
カメラはまず台所に寄り、端正で穏やかな笑みを浮かべた男性が映った。
「お腹すいたのか、食いしん坊ちゃん?君の大好きな肉じゃが、すぐできるよ」
撮影者は甘えるように言った。「先に一口味見するわ。味が濃すぎないか確認しなきゃ」
男性は仕方なさそうに、でも優しく箸で一切れつまみ、小さく息を吹きかけて、撮影者の口元に運んだ。「熱いから気をつけて」
画面が切り替わり、小さな男の子が跳ねながら叫んだ。「僕も!僕も!パパはおばちゃんばっかり可愛がる!」
撮影者は彼の頭を撫でながら答えた。「そんなことないでしょ?パパの作る唐揚げは智也くんの大好物でしょ?」
映像に映っている男性は芽依の夫、風間圭介(かざま けいすけ)だった。子どもは息子の風間智也(かざま ともや)、撮影者は一年前実家に戻ってきた妹の桜井美咲(さくらい みさき)だった。
映像の最後にちらりと映ったのは、リビングの壁に掛けられた一枚の絵だった。
クレヨン画で、ところどころ接着剤の跡が見える。青空と白い雲、草原の上に大人二人と子ども一人が手を繋いで並んでいた。
半月前、芽依は智也がこの絵を描くのを見て、胸が熱くなった。
彼女は息子に尋ねた。「これはパパとママとあなたなの?」
智也は不満そうに顔を上げて睨んだ。「違うよ、パパとおばちゃんと僕だよ!
ママ、まだわかってないの?もし絵に四人目がいるとしても、それはおばちゃんとパパの間に生まれた僕の妹だよ!」
智也の無邪気な返答が、まるでナイフのように芽依の胸をえぐった。
その声が耳に響く中、芽依が目を上げると、美咲は恥ずかしそうに俯き、夫の圭介は笑いながら尋ねた。「智也は妹が欲しいのか?」
その瞬間に芽依は悟った。この家にはもう自分の居場所はないのだと。
動画の後には美咲からの挑発的なメッセージが届いていた。【いつになったら諦めるの、お姉さん?】
自動で一分後に消えるスマホの画面が、無表情な芽依の顔を映し出していた。
すべてがどうでもよくなった。
芽依はスマホをポケットにしまい、心の中でひっそりと返した。「もう諦めてるよ」
第2話
初めて出会ったとき、芽依は仕事を始めたばかりの向こう見ずな新人で、圭介は留学から帰国したばかりの、将来を嘱望される若き天才医師だった。
彼女は手加減という言葉を知らず、犯人を顔が腫れ上がるまで殴り、ついには骨折させてしまった。
救急科で研修中だった圭介が、驚いた顔で問いかけた。「これ、君がやったの?彼氏?浮気でもされた?」
芽依は歯を見せて睨みつけた。「もう一回聞いたら、あんたもベッドに寝かせるわよ」
芽依が病院に顔を出す頻度は、まるで食事の回数並みに多かった。そのたびに圭介と顔を合わせ、軽口を交わすうちに、いつしか距離が縮まっていった。
二人が付き合い始めたとき、芽依の師匠は涙ぐんで言った。「このやんちゃな弟子にも、ようやく手綱を握れる人が現れたか」
圭介がプロポーズしたのは、芽依が怪我でベッドから起きられないときだった。彼は同僚や彼女の仲間たちが見守る中、片膝をつきついて、もっと腕を磨き、彼女をずっと元気でいさせると誓った。
周りの人は皆、苦笑いを浮かべるしかなかった。
年月が流れ、芽依は緑川市警備局の捜査一課で隊長に、圭介は県立病院の副主任医師に史上最年少で昇進した。
息子も生まれ、誰もが羨む「理想の三人家族」になった。
――あの日までは。
一年前、美咲が桜井家の玄関を叩いた。母親と瓜二つの顔が、すべてを物語っていた。
美咲は芽依を、他人の居場所を奪った恥知らずだと非難した。
その日、芽依は初めて知った。自分と美咲が同じ病院の同じ産室で、ほぼ同時に生まれていたことを。
理由はわからないが、おそらく新生児室で取り違えられたのだろう。その瞬間から、二人の人生は丸ごと入れ替わってしまったのだ。
本来、美咲こそが桜井家の一人娘で、芽依は潮風しか吹かない離島で、苦しい生活を送っているはずだった。
桜井家は盛大に美咲を迎え入れ、芽依は自ら身を引き、美咲に席を譲った。
しかし、どれだけ譲っても美咲は満足しなかった。ついには圭介まで手に入れようとした。
芽依は信じていた。たとえ世界中が美咲の味方になっても、
圭介と智也だけは、迷わず自分を選んでくれると。
だが、彼らも変わった。
圭介も智也も、何度も美咲の味方に立った。まるで騎士のように、彼女を守り続けた。
美咲が帰ってきて二ヶ月目。彼らは美咲の誕生日を祝うため、同じ誕生日の芽依を家に残して出かけた。
五ヶ月目には、美咲を連れて一か月の旅行へ。その間、芽依は捜査中に背後から襲われ、生死の境をさまよった。
手術同意書の署名欄に記されていたのは、家族の名ではなく――上司の名だった。
八ヶ月目の大晦日。桜井家と風間家がそろって年越しの食事をしたが、そこに芽依の席はなかった。同僚と交代してまで帰宅した彼女は、冷凍庫から餃子を取り出して茹でたが、食欲が湧かず、箸をつけることなくそのまま職場へ戻った。
そのような出来事は、この一年で数えきれないほどあった。
智也が描いたあの絵と、投げつけられた言葉は、芽依の心を折る最後の一撃にすぎなかった。
堪えてきた感情が爆発し、芽依は絵を奪って引き裂いた。
智也は泣きながら拳で叩いてきた。「ママなんか嫌い!僕の絵を返して!ママなんかいらない!」
圭介は彼女を叱った。「正気か?子ども相手に何してる!職場でのやり方を家に持ち込むな!」
美咲は智也を抱きしめ、表向きはなだめながらも、声に皮肉を滲ませた。「お姉さん、子どもに悪気なんてないの。ただ思ったことを言っただけよ」
銃で撃たれても、刃物で切られても、犯人に押さえつけられて骨を折っても、芽依は一度も泣いたことがなかった。
それなのに、その日は泣きながら家を飛び出した。
背後で圭介の怒鳴り声が響いた。「出ていけ!二度と戻るな!」
――気がつけば、芽依は銀行にいた。これまでの給料を新しい口座に移した。わずか二百四十万円だった。
風間家にとっては取るに足らない額だが、芽依はこれを息子に残そうと思った。
たとえ離婚しても、母として養育費は渡すつもりだった。
行くあてもない。今回の潜入捜査を決意したとき、上司が身分証を回収して破棄の手続きをしていたため、ホテルに泊まることすらできなかった。
仕方なく、あの歓迎されない家へと足を向けた。
途中、道端で猫を売る男がいた。小さな子猫が、ケージの中でか細く鳴いていた。
智也が誕生日に動物を飼いたいと言っていたことを思い出し、芽依は足を止め、一匹選んだ。
――これを智也への最後の贈り物にしよう。この猫が、自分の代わりに息子のそばで成長見守ってくればいい。
もう二度と、彼の人生に自分が現れることはないのだから。
第3話
ドアが開くと、楽しげな雰囲気が芽依の耳に飛び込んできた。
圭介はピアノを弾き、美咲はその前で踊っていた。
智也はソファに座り、手を叩いて声を上げる。「おばちゃん、きれいだね!」
三人家族は仲睦まじく、和やかな時間を過ごしていた。
ところが突然、美咲の足元がふらつき、まるで舞うように美しい姿勢のまま床に倒れた。
倒れる瞬間、ピアノからは乱れた音が響き、圭介は慌てて立ち上がり、彼女を抱きかかえてソファに座らせた。
智也も駆け寄り、「おばちゃん、どうしたの!」と声をかける。
美咲は圭介の袖をつかんだ。「圭介、足が痛いの……」
圭介は片膝をついて、彼女の言葉を聞くとすぐにうつむき、捻った足首を確かめた。
「大丈夫、そんなにひどくない。智也、寝室のナイトテーブルの引き出しにある捻挫用のオイルを持ってきて」
「うん!」
智也は素早く寝室へ走り、すぐにリビングへ戻った。
圭介は心配そうな表情で、美咲の足を自分の太ももに乗せさせた。掌でオイルを温め、丁寧にマッサージを施した。
優しくも、どこか諦めたような眼差しで、彼女が痛みにうめくたびに力を少し緩める。
智也も隣にしゃがみ込み、「ふーってしてごらん、おばちゃん。きっと痛くなくなるよ」と慰めた。
そのとき、芽依はふと、ずっと昔に圭介が同じように自分にオイルを塗り、マッサージしてくれたことを思い出した。
職業柄、体に打撲や傷を負うことが避けられず、あのオイルはまさに彼女のために用意されたものだったのだ。
抱えている小さな子猫の鳴き声に、三人はようやく玄関の方を見上げた。
圭介と智也はほとんど同時に口を開く。「どうして帰ってきたんだ?」
芽依の瞳に、どこか自嘲の色が浮かんだ。問いにどう答えていいかわからなかった。
「お姉さん、誤解しないでね」
美咲はそう言いながらも、足を引こうとする気配はまったくなかった。
圭介は頭も上げず、マッサージを続ける。「遅かったね。もうご飯は食べたよ。冷蔵庫に残り物があるから、自分で温めて食べて」
ほんの数分しか経っていないのに、芽依はまるで何日もそこに立ち尽くしていたかのように、硬くなった足を少しずつ動かして智也の方へ歩いた。「ペットが欲しいんでしょ?ママが子猫を買ってきたよ」
芽依は腰をかがめ、抱えた子猫を彼に見せた。
智也は一瞥し、まっすぐに芽依を見つめた。「でもおばちゃんがこの前、オウムを買ってくれたばっかだよ。僕の言葉を覚えるんだ。子猫は覚えない、ただニャーニャー鳴くだけでうるさいんだよ」
かつては揺るぎないと思っていた心にも、ほんのわずかな痛みが走った。
芽依は目を上げ、バルコニーの鳥かごを見る。色鮮やかなオウムは、誰かに見られているのを察したのか、声を張り上げた。「ママ、嫌い!」
「ママ、嫌い!」
芽依は、みんなが自分の表情を観察しているのを感じたが、どんな顔をすればいいのかわからなかった。
彼女が何も言わないうちに、圭介が口を開いた。「ただの鳥だ。いちいち気にすることないだろ?」
芽依は、圭介があの絵に対する自分の態度を皮肉っているのだと気づいた。
二人の冷たい視線が交わる。芽依は唇を曲げて微笑む。「気にしてない」
もう、何を気にする必要があるだろうか。いくら気にしても、風間家の父子には面倒事にしか映らない。それに、もうすぐ自分はここを離れるのだから。
芽依の落ち着いた様子に、圭介は一瞬戸惑った。
美咲が痛がる声を上げる。「圭介……ちょっと痛いかも……」
圭介はすぐに謝り、優しい声で彼女を慰めた。
立ち上がった芽依は、すでにキッチンに向かっていた。
温かな照明の下で、智也の栄養補給用のヤギミルクを取り出し、子猫に半杯分を用意する。
子猫にミルクを与えていると、スマホが鳴った。
「芽依隊長!どういうことですか?来週の報告会、なぜ俺が行くんですか?隊長が出席すべきじゃないですか?上司に聞いたんですけど、緑川市を離れて勉強に行くって……そんなに優秀なのに、まだ勉強するんですか?」
芽依が離れることは極秘で、誰にも話せなかった。信頼する部下ですら話せず、ましてやおしゃべりなこの部下になど。
「指示に従って、落ち着いて。捜査一課のことは、これからあなたに任せる」
芽依は少し物思いにふけった。しかし電話の向こうで部下はのんきに笑って言った。「まるで戻らないような言い種はよしてくださいよ。娘の百日祝い、せっかくだから隊長にも一言お願いしたいんです」
背後から圭介の声が突然聞こえた。
「誰が戻らないって?」
第4話
芽依は電話を切り、適当に言い繕った。「別に。同僚が他の市に異動することになっただけよ」
圭介は芽依をじっと見つめ、彼女の言葉が本当か確かめるようにしてから口を開いた。
「ごめん、あの日はちょっとイラついてたんだ。俺たち二人とも悪かった。智也はもう君を許してる。だから、君も俺を許してくれ」
そう言うと、圭介は再び医学雑誌に目を落とした。謝罪の言葉が、まるで形式だけのものに思えるようだった。
芽依は何も聞かなかったふりをし、子猫がほとんど食事を終えたのを確認すると、部屋で休ませようと思った。この時間に連れて行く場所もないし、明日でいいだろう。
立ち上がったそのとき、美咲がいなくなっていることに気づいた。
いつの間に出て行ったのだろう?圭介は足をくじいた美咲をひとりで帰らせるはずがない。
芽依は不思議に思いながら、主寝室へ向かって歩いた。
「待って!」
「ダメ!」
背後から、圭介と智也が同時に声を上げた。
どういうこと?今、家にいる資格すらないの?
芽依が振り返ると、圭介は困った表情で、どう切り出せばいいかわからない様子だった。
しかし智也は遠慮なく言った。「おばちゃんが中で休んでるんだ、邪魔しちゃダメ!」
寝室の扉が開き、美咲がパジャマ姿で現れた。
「お姉さん、ごめんね。両親が旅行に行く前に圭介に私の世話を頼んでたの。もうここで十日も寝てるの。今日帰ってくるって知らなかったんだ。もし知ってたら、あらかじめ片付けて場所を空けたのに」
美咲は最後に頭を下げ、声を詰まらせた。大したことではないのに、まるでとんでもない仕打ちを受けたかのように見えた。
「もうこんな時間だし、何を騒いでるの?どこでも寝られるでしょ。足をくじいたんだから、さっさと横になりな」
圭介は考えずに答えた。
美咲はうなずき、振り返ろうとしたが、うまく立てずに圭介に倒れかかった。
圭介は慌てて彼女を抱き上げ、ベッドに寝かせた。
「ありがとう、圭介」
圭介は芽依がまだ扉の外に立っているのを見て、今の姿勢がまずかったことに気づき、すぐに言い訳した。「芽依、気にしないで。もうこんな時間だし、彼女も足をくじいたんだから、無理させなくていい。何より美咲は君の妹だし、小さいころからいろいろ苦労してるんだから、俺たち夫婦も少しは思いやるべきだろう」
芽依は無意識に子猫に手を伸ばした。
気にすることなんてある?
自分は夫も息子も要らないのに、ましてや部屋一つなんて。
「私、客間で寝るからいいよ」
圭介は説得の言葉を用意していたが、芽依のあっさりとした一言に遮られた。
まだ今日の芽依が素直な理由がわからぬうちに、彼女はすでに背を向け去っていった。
智也もママの様子がどこかおかしいと感じたが、まだ小さく、複雑なことは理解できず、圭介の手を引いて寝かしつけてもらおうとした。
芽依は枕を子猫の寝床にして、簡単に身支度を整えた後、ベッドに横になった。
美咲から挑発めいたメッセージが届いた。
【パジャマは私のもの、男も私のもの】
ほどなく、圭介が扉を開けて入ってきた。
芽依は彼を見つめた。「何しに来たの?」
圭介はパジャマに着替えていて、少し不思議そうに答えた。「当然、寝るためだよ。俺たち夫婦なんだから、同じ寝室にいるのは当然だろ」
芽依は口元に悪意を含んだ笑みを浮かべた。「やっと私たちが夫婦だって認めたのね。てっきり美咲と主寝室で寝るかと思った」
長年、家ではさんざん良い妻、良い母として過ごし、捜査課の隊長としての制約もあって、芽依はかつての自分の性格の悪さを忘れかけていた。
もし感情に縛られていなければ、美咲に好き放題されることなど我慢しなかっただろう。
今はもう我慢したくない。あと七日で完全に離れるのだし、今後の生死さえもわからない。何を我慢する必要がある?
圭介の顔色が変わり、怒りが目に噴き出した。「何を言ってるんだ!どうしてそんなにあっさり美咲を主寝室に寝かせたんだと思ったら、俺と喧嘩するつもりだったのか!いつからそんな風になったんだ!」
芽依は冷笑した。結局、変わったのは誰なのか。
メッセージを見せようとしたそのとき、突然の悲鳴が二人の緊張の空気を破った。
「圭介!」
隣の主寝室からだった。
圭介は振り向き、急いで飛び出していった。服を着る暇もないほどだった。
ちょうど寝たばかりの智也も目を覚まし、口を開いた。「おばちゃん、どうしたの?」
芽依は立ち上がって扉を閉め、ちょうど美咲の声を耳にした。
「圭介、窓際のあれ、人影じゃないよね?怖いよ!」
続いて数歩の足音が聞こえた。圭介が確認に行ったのだろう。
「枝だよ、誰もいない」
声は優しく、甘やかすように笑っていた。芽依は圭介の表情を容易に想像できた。
「おばちゃん、怖がりだね」
芽依は扉を閉め、主寝室の笑い声を完全に遮断した。
振り返ると、床に立てかけた鏡に映る自分の目と目が合った。芽依は視線を逸らし、目に浮かぶ苦笑と皮肉めいた表情を見ないようにした。
どれだけ時間が経ったか分からない。扉の外で圭介の低い声が聞こえた。「智也は美咲と一緒に寝る。俺は彼の部屋で寝る」
しばらくして、また声がした。
「芽依、信じようが信じまいが、俺のやってることは全部君のためだ」
芽依は目を閉じ、聞こえなかったことにした。
何度も妥協させられ、何度も傷つけられ、子どもや他人に親しませるよう教えられた。
最後にすべては自分のためだと?
どうして今まで圭介がこんなにも厚かましいことに気づかなかったのだろう。
十数分後、ようやく外から足音が遠ざかっていった。
一夜、夢も見ず、目を開けるともう九時だった。
家の中は誰もおらず、静まり返っていた。
第5話
芽依は簡単に身支度を整え、家を出た。今日は圭介の母と会う約束をしていた。
店員が礼儀正しく近づいてきて尋ねた。「お飲み物はいかがなさいますか?」
「レモンティーを願いします」
圭介の母は鼻で冷たく笑いながら呟いた。「一体、うちの息子があなたのどこを見て惚れたのかしら?ピアノに絵画、オペラも得意だというのに、あなたはどう?まるで趣味も品もないじゃない。あなたたちには共通の話題ってものがあるのかしら?」
芽依は圭介の母を見つめ、彼女が自分を今まで一度も認めていなかったことを知っていた。
「もう、そんなことはどうでもいいです」
圭介の母はその冷淡さに驚き、昔は何かと自分に媚びていた芽依が、今や冷静に応じているのに気づいた。どんなに冷たくあしらっても、いつも笑顔で応えていた芽依が、今や少し反抗的になっているようだ。
芽依は圭介の母がどう思うかに興味もなく、銀行カードをテーブルの上に置いた。
「お義母さんやお義父さんが私を気に入っていないことを知っています。風間家は学問を大切にしているから、私の職業や性格、学歴が気に入らないんでしょう。圭介にふさわしくないって思ってるんでしょう?なら、美咲はどうですか?それとも他にいい人がいます?例えいても全く構いません」
圭介の母は驚いて言葉を失った。
しばらく無言で芽依を見つめた後、怒りを込めて言った。「芽依、あなたおかしくなったの?あなた、最初からあの隊長だか何だかになりたくて、家にも帰らず、子供のことも放ったらかしにして。事件があると、何日も帰らなかったじゃない。
私たちが一般事務に替わるよう勧めても、嫌だと言ったのはあなたでしょ?それを今、私たちがあなたと圭介を引き離そうとしてるみたいに言うなんて、どういうこと?」
芽依は否定しなかった。確かに、圭介の母が言っていることは間違いではない。
カードを圭介の母の方向に少し押し出しながら言った。「これが私が今、出せるすべての貯金です。二百四十万円、子供を育てるにはお金がかかりますから、これで少しでも役立てばと思います。
それに、圭介が再婚したら、きっと子供ができ、智也はだんだん置き去りにされ、家での居場所もなくなるでしょう。あなたたちが智也をとても可愛がっているのはわかりますし、もし必要なら、どうか彼を引き取って育ててください」
圭介の母は一歩後ろに引いて、芽依をじっと見つめながら言った。「まるで遺言を残すかのようね。何を企んでいるの?」
芽依はもう悪意に耳を貸す気もなかった。「とにかく、あなたの息子はすぐに自由になりますよ」
「俺が自由だって?」
圭介の声が聞こえた。
芽依と圭介の母は同時に顔を上げると、美咲が圭介の腕を絡めて立っているのが見えた。
圭介の母が言いかけたその瞬間、芽依が先に言った。「何でもないよ。この時間、病院にいなきゃいけないんじゃない?」
圭介は横にいる美咲をちらっと見て、少しだけ甘い口調で言った。「今日は手術の予定がないんだ。美咲がこの店のケーキを食べたがっていたから、連れてきたんだよ」
芽依の目には、はっきりとした嘲笑が浮かんだ。「つまり、彼女も『明星』が好きだってことか」
このカフェは風間家の経営する店で、「明星」は圭介が結婚一周年の時に、芽依のためにデザインして作ったオリジナルケーキだった。
外には売らず、以前は家族三人だけが食べていたが、今もまた家族三人できている。しかし、それはもう芽依には関係ない。
芽依の確信に満ちた言葉は、まるで圭介の顔に平手打ちを食らわせたかのようだった。彼は視線をそらした。
美咲はとっくに圭介の母の元に歩み寄り、甘えるように話をしていた。彼女の言葉が、まるで一言一句漏らさず美咲の耳に届いた。
美咲は笑いを抑えながら、可哀想そうに言った。「お姉さん、私、小さいころ島で大変な生活してて。お姉さんみたいに、いろんなもの食べたことなかったの。圭介が『明星』の味のこと話してくれて、どうしても食べたくなっちゃったの。食べてみたら本当においしくて、だから何度も圭介にお願いして連れてきてもらったの。怒らないでね?」
美咲の言葉の中の挑発を、芽依はすぐに感じ取った。彼女はにっこりと笑いながら言った。「彼にもう一度、あなただけのケーキをデザインさせるのが本当の腕だよね」
圭介が芽依の隣に座ろうとしたが、この言葉を聞いて急に顔色を変えた。「芽依!『明星』が何を意味するか、忘れたのか?」
「明星」――それは「芽依がいつまでも星のように輝き続けますように」と圭介が彼女に誓った言葉だ。
「忘れたのは、あなたの方よ」
冷静に言い終わると、芽依は立ち上がった。「もう用事はないから、先に帰るわ」
圭介は無意識に芽依の手を引こうとした。「君も、ずっと『明星』を食べてないだろう?」
芽依は手を振り払った。「結構よ。お義母さんは、まだ帰らないんですか?」
圭介の母も美咲のわざとらしい言葉を聞くのが嫌で、芽依以上に不快感を覚えていた。だから立ち上がり、言った。「帰ろう」
芽依よりも、圭介の母は美咲のことを気に入らなかった。
店を出ると、芽依は圭介の母に言った。「お義母さん、圭介と智也のためにも、今日の話は絶対に彼らに言わないでください」
彼女はあの父子が自分の離婚を知ったところで後悔するとは思っていなかった。たとえ自分の死を知ったとしても悲しむことはなく、美咲を迎え入れて喜ぶに違いないと考えていた。
ただ、残り少ない日々に余計な問題を起こしたくなかっただけだった。
第6話
絨毯の上で毛づくろいをしていた子猫が、芽依の帰宅に気づくと、勢いよく駆け寄ってきて身体をすり寄せてきた。
胸の奥がふっと温かくなり、芽依はふいに思い出した。智也がまだ歩きもおぼつかない頃、彼女が帰ってくるたびに、よちよち歩きで、あるいは這うようにして駆け寄り、幼い舌足らずな声で「抱っこ」とせがんできた日のことを。
やがて智也が少し大きくなり、物心がつくと、彼女の姿を見るなり「怪我してない?」と気遣い、さらに人前では誇らしげにこう言った――「うちのママは悪い人を捕まえるんだ、ヒーローなんだぞ!」
――なのに、今は?
芽依は小さく首を振り、それ以上考えるのをやめた。そして子猫を抱き上げ、ぽつりとつぶやいた。「残念だけど、もう行かなきゃ。この家にはね、あなたを可愛がってくれる人はいないの……早く新しい飼い主を探さないとね」
そう決めると、すぐに子猫を抱えて家を出た。近くのペットショップを片っ端から回ったが、どこも首を横に振るばかりだった。
「うちは商売でやってますから、引き取りはできません。公益の動物保護団体をあたってみては?」
そこで芽依は、警備局の総務担当である田中さんが猫を飼っていることを思い出した。連絡を取り、芽依は子猫を彼の家に届けた。
田中の家を出るとすぐに、圭介から電話がかかってきた。
「今日は村上院長の七十歳の誕生日だ。時間あるか?」
村上院長は、圭介の医学の道をほぼ一から見守ってきた恩師であり、二人の結婚式で証人も務めてくれた人物だった。そんな人の祝い事を断る理由などなかった。
寿宴は盛大に催されていた。
芽依が着いたとき、圭介父子と美咲はすでに入口で待っていた。三人は色合いをそろえた服を着て、まるで本当の家族のように並んでおり、その中で芽依だけが他人のように見えた。
村上院長の挨拶が終わると、宴席が始まり、皆が箸を進めた。
ただ一人、圭介だけはほとんど口にせず、ひたすら美咲の世話に心を砕いていた。
料理を取り分け、魚の骨を抜き、海老の殻を剥く……
智也までが、小さな手で飲み物を注ぎ、紙ナプキンを差し出していた。
向かいに座っていた若い女性が、うらやましそうに声を上げた。「圭介先輩も息子さんも、奥さんを本当に大事にしてますね!私も将来、先輩みたいにこんなふうに気遣ってくれる夫を見つけたいです!」
一瞬、空気が凍りついた。
若い女性の隣にいた人が、慌てて笑いながら口を挟んだ。「圭介の右隣にいるのが本当の奥さんだよ。芽依さん、こちらは後輩の美月。まだ入って二ヶ月で、会ったことなかったんだって。気にしないでね」
「大丈夫です、気にしてませんから」
芽依が微笑んでそう答えた瞬間、圭介の手が海老を剥く動きを止めた。胸の奥に、じわりと怒りが湧く――美咲を自分の妻と勘違いしているのに、彼女は「大丈夫」だと?
圭介が顔を向けると、芽依は冷たく彼を見つめていた。何か言おうと口を開きかけたが、芽依はすでに視線を外していた。まるで先ほどのあの目線が幻だったかのように。
本来、美咲の皿に置くはずだった海老を、圭介はわざわざ芽依の皿に入れた。
芽依は海老が好きだが、自分で殻を剥くのは嫌いだった。以前は、圭介が剥いた海老を差し出すと、彼女は心から嬉しそうに笑い、ぱくぱくと平らげていた。
そんな記憶を胸に、圭介は期待を込めて芽依を見た。だが返ってきたのは「ありがとう」という一言と、皿の上から海老を取り除き、卓上に置く冷たい仕草だった。
圭介が何か言いかけたところで、隣の美咲が箸を置き、場を和ませるように口を開いた。「私は芽依の妹の美咲です。圭介とも家族なんですよ」
その一言で、かえって場は重くなった。周囲の視線には、圭介と美咲への軽蔑がにじむ。
「なんだ、ただの義妹か。あまりにも親しげだからてっきり……」
美月が言いかけたところで、口に唐揚げを押し込まれた。他の人たちはすかさずグラスを手に取る。「ほらほら、料理にばっか手をつけてないで、乾杯しましょう」
お酒が入ると、再び場はにぎやかになった。普段はお酒を口にしない圭介も何杯か飲まされ、芽依も断りきれずに一杯だけ口にした。
二人ともお酒を飲んでいたし、美咲はもともと運転できない。
そこで、ちょうど知り合いが車で来ていたので、一緒に乗せてもらうことになった。
芽依は気を利かせて助手席に座り、後ろの席を圭介父子と美咲に譲った。
圭介はお酒で頭がぼんやりしていたが、それでも違和感を覚えていた。芽依が、意図的に距離を置こうとしているのを感じ取ったからだ。
問いかけようとした瞬間――大きな衝撃音とともに車が横転した。天地が逆さまになり、圭介は咄嗟に真ん中にいた智也を抱きかかえた。
どれほど時間が経ったのか分からない。腕の激痛で、芽依はうっすらと意識を取り戻した。
ぐしゃりと潰れた車内に閉じ込められたまま、彼女は自分と同じ側に座っていた美咲もまた身動きが取れないのを見た。
圭介は必死に車を持ち上げようとしたが、びくともしなかった。智也は美咲のそばにしゃがみ込み、泣きながら彼女に声をかけ、運転していた中島看護師も何とか助けようと手を尽くしていた。
芽依が目を開けたのに気づくと、圭介はほっとした表情で声を張り上げた。「芽依、落ち着け!もうすぐ救援が来るからな!」
その言葉通り、救助隊はすぐに到着し、続いて救急車もやって来た。
専門の道具で車体が切り開かれ、芽依と美咲は引きずり出された。
しかし、医療スタッフは困った表情で告げた。「救急車が足りなくて、今来ているのは一台だけです。もう一台は手配中です。圭介先生、どちらを先に病院に運びますか?」
「おばちゃんが先!」
智也が叫んだが、子どもの言葉に誰も耳を貸さず、全員の視線が圭介に集まった。
圭介は血の気の引いた芽依を見て、胸を締め付けられる思いがした。「もちろん救うのは……」
その時、美咲が泣き叫んだ。「圭介、怖いよ……頭が痛い……私、死んじゃうの?
まだ死にたくない、まだこんなに若いのに!
やっと少し幸せになれたのに……」
圭介の視線が、芽依と美咲の間を揺れ動く。芽依の腕は血を流し続けており、早く止血しなければ危険だ。だが、美咲が訴える頭痛は、もしや脳内出血かもしれない……
同乗していた医師も判断に迷っていた。どちらを優先すべきか、見た目だけでは分からなかった。
「圭介先生、早く決めてください!今は時間との勝負です!」
圭介は、今回迷わず口を開いた。
「美咲を先に!」
その瞬間、周囲の知り合いたちは驚きの表情を浮かべた。まさか彼が妻を置いて義妹を優先するとは、誰も予想していなかったのだ。
ただ一人、智也だけが「よかった!」と声を上げ、美咲のもとへ駆け寄った。
芽依は驚きもしなかった。圭介が美咲を優先するのは、これが初めてではない。積もり積もった失望の果てに、もはや驚く余地はなかった。
圭介は「君たちは美咲を病院へ。俺は芽依の止血をする」と言い、救急車から消毒液とガーゼを取り出した。
だが、美咲は担架の上から圭介の腕をつかんだ。「圭介……怖い……一緒に来てくれる?」
圭介は眉をひそめたが、やがて消毒液とガーゼを中島看護師に渡し、芽依を振り返った。「芽依、君は姉なんだから妹に譲ってやれ。美咲は小さい頃から君の代わりに苦労してきた。体だって君より弱いんだ。もう少しだけ我慢してくれ。救急車はすぐ来る。腕の怪我は中島看護師が手当てしてくれる。
「これで最後だ。これからは二人でちゃんと暮らそう」
――この「姉なんだから譲れ」という言葉ほど、芽依が嫌うものはなかった。
この言葉のせいで、彼女の大切なもののほとんどを奪われたのだ。
しかも、美咲とは血のつながりすらないのに。
芽依はかすかに唇を上げ、震える声で告げた。「圭介……もう『これから』なんてないわ」
彼女の声は、美咲のさらに大きな叫び声にかき消されてしまった。圭介はただ振り返って芽依を見つめ、その目には「今、何て言ったの?」というような疑問が浮かんでいた。
視界が暗く揺れ、血の気が引いていく。芽依が最後に見た光景は、圭介と智也が順に救急車へ乗り込む後ろ姿だった。