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花咲の響き、何処とも知らず
「院長先生、この前おっしゃっていたヨーロッパ留学の件については、決めました。私、行きます」 月岡花咲(つきおか はなお)は虚ろな目で鏡...
Chương (1)
第1章
「院長先生、この前おっしゃっていたヨーロッパ留学の件については、決めました。私、行きます」
月岡花咲(つきおか はなお)は虚ろな目で鏡を見つめた。そこに映っているのは、青ざめた顔に赤く腫れた目、そしてどこかやつれた自分の姿だった。
電話の向こうで、院長の弾んだ声がすぐに返ってきた。
「やっと決心してくれたのね、それでいい。このチャンスは一度きりよ。ただし、ご主人とちゃんと話しておきなさいね。行ったら三年間は戻れないし、手続きもあるから、遅くとも来週には出発しないと」
花咲は深く息を吸い込んだ。
「大丈夫です。ちゃんと折り合いをつけます」
話しを終えるや否や、彼女は慌ただしく電話を切った。
少しでも遅れれば、泣き声を抑えられなくなりそうだったからだ。
花咲は先週、立て続けに七件の再建手術をこなした。
最後の女の子の患者は、特に強く印象に残っている。
透き通るような白い肌、細い足、あどけない可愛らしさを残す顔立ち。
そして、何よりも驚いたのは、その女の子が自分とどこかよく似ていることだった。
第1話
「院長先生、この前おっしゃっていたヨーロッパ留学の件については、決めました。私、行きます」
月岡花咲(つきおか はなお)は虚ろな目で鏡を見つめた。そこに映っているのは、青ざめた顔に赤く腫れた目、そしてどこかやつれた自分の姿だった。
電話の向こうで、院長の弾んだ声がすぐに返ってきた。
「やっと決心してくれたのね、それでいい。このチャンスは一度きりよ。ただし、ご主人とちゃんと話しておきなさいね。行ったら三年間は戻れないし、手続きもあるから、遅くとも来週には出発しないと」
花咲は深く息を吸い込んだ。
「大丈夫です。ちゃんと折り合いをつけます」
話しを終えるや否や、彼女は慌ただしく電話を切った。
少しでも遅れれば、泣き声を抑えられなくなりそうだったからだ。
花咲は先週、立て続けに七件の再建手術をこなした。
最後の女の子の患者は、特に強く印象に残っている。
透き通るような白い肌、細い足、あどけない可愛らしさを残す顔立ち。
こんなにも清楚で純粋そうな少女が、再建手術を受けに来ること自体、滅多にない。
そして、何よりも驚いたのは、その女の子が自分とどこかよく似ていることだった。
だが、今回救急から運ばれてきたのは、まさにその女の子だった。
つい先日、修復手術を終えたばかりの子が、今度は重傷で搬送されてきたのだ。
女の子はまるで虐げられ、踏みにじられたかのような様子で、それが花咲の胸に怒りを灯した。
不安が一気に心の中に広がり、花咲は思わず両手をぎゅっと握りしめる。必死に声色を落ち着けながら、問いかけた。
「こんなにひどい怪我……通報してあげしましょうか」
通報という二文字が出た途端、女の子は途方に暮れたように慌てだした。
「いいえ……いいんです。私の彼氏が……私が可愛いから、つい我慢できなかったって。もう二度と、こんなことはしないって……約束してくれたんです」
花咲は眉をひそめ、視線の端に少女の手首が映った。そこには、見覚えのありすぎる銀色のブレスレットが光っている。
身をかがめ、そっと近づけて嗅いでみた。やはり、微かにあの椿の香りが漂ってきた。
女の子は頬を真っ赤に染め、恥じらいを隠せない様子で、花咲がじっと自分のブレスレットを見つめているのに気づくと、まるで証明するかのように手首を高く掲げ、言葉を添えた。
「先生、ほら見て、これも彼がくれたんです。世界にたったひとつだけなんですよ。彼は本当に私を愛してくれてます……私は彼を責めようなんて思っていません」
世界に一つだけのブレスレット。そんな説明を聞くまでもない。花咲は知っている。
それは、結城遼(ゆうき りょう)が自分のためにデザインしたものだった。
意気盛んな若きデザイナーだった彼は、かつて胸を張って、花咲にふさわしい世界でただ一つのブレスレットを作り、彼女をこの世界で一番幸せな女性にすると約束していた。
二人は幼なじみだった。婚外子として家に迎え入れられ、周囲から冷たい視線を浴び続けてきた遼は、いくらいじめられてもやり返すことができなかった。そして、一度ひどく殴られたことがあり、そのとき彼を救ったのは花咲だった。
それ以来、遼はありったけの心を込めて花咲に尽くした。彼女が病気のときには細やかに看病し、彼女が留学で海外にいる間も、年に何度も飛行機に乗って会いに行き、ただ手料理を作ってあげて、少しでも寂しさを紛らわせようとした。
十年もの付き添いと愛は、やがて花咲の心を動かした。
遼が花咲にプロポーズしたあの日、花咲は初めて堪えきれないほど泣き崩れた。
長い間、遼を待たせてしまったことが、申し訳なく思った。
あのブレスレットは、その結婚祝いだった。
けれど今、そのブレスレットは、別の女の手首に輝いている。
手術が終わり、看護師が差し出したカルテには、はっきりと遼の携帯番号が記されていた。
花咲の頭の中で、ぶわっと何かが弾ける音がした。考えはその瞬間、ふっと途切れた。顔から血の気が一気に引いていく。押し寄せてきたのは、めまいと吐き気。
複雑で苦しい感情が一瞬にして理性を押し流した。
花咲はもう胸の奥の嫌悪感を抑えきれなかった。胃の奥の胆汁まで込み上げてきそうだった。
吐き終えると、力が抜けて、花咲は壁に背を預け、そのまま崩れ落ちた。手の甲で目を覆っても、涙は止まらなかった。
一時間ほどかけてようやく呼吸を整え、院長にあの電話をかけた。
看護師は心配そうに、花咲の体調を気遣いながら声を掛けた。夫に迎えにきてもらうのはどうかと聞いた。
この病院の誰もが知っている。花咲には、彼女を命よりも大切にするデザイナーの夫がいることを。
しかし、誰も知らない。その愛妻家の夫が、別の女とベッドで戯れ、挙句、遊びすぎてその女を病院送りにしたなんて。
第2話
花咲は、乱れた自分の姿を手早く整え、いつも通りの笑みを浮かべた。
「彼には知らせなくていいです。私は大丈夫です」
その時、デスクの上に置かれたスマホがメッセージの通知音を立てた。
画面には二件の不在着信と、一通のメッセージ。
【ご飯食べた?なんで電話に出ないの?今日は患者さん多かったか?出前で夜食を頼んでおいたから、もうすぐ届くよ。明日の朝帰ったら何が食べたい?作ってあげる】
スマホを握る指に、ぐっと力がこもる。抑えていた涙が、再びこみ上げてきそうになった。花咲はふと、今朝のことを思い返した。家を出る前、遼がそっと唇を重ねて別れを告げてくれた。そして、生理中の彼女を気遣い、体を温める甘いスープをわざわざ用意して、保温ポットに詰めて持たせてくれた。
初めて、花咲は遼のメッセージに返信をしなかった。スマホの画面を消した。
ドアの向こうからノックの音が響き、看護師の声が届いた。
「月岡主任、さっき手術を終えた患者さんが、傷口がとても痛いと言っています。診ていただけますか」
花咲は病室に入ると、目に飛び込んできたのは、シーツを強く握りしめ、痛みに耐えるように身をよじらせている女の子だった。
――小林由奈(こばやし ゆな)。
さっきカルテで見た名前が頭によみがえた。
「先生、すごく痛いんです。また血が出てますか……怖いです」由奈の目尻には涙が滲み、どうしていいかわからないといった様子で、頼りなく可哀そうに訴えてくる。
傷口に新たな異常が起きないよう、花咲はもう一度彼女の診察を行った。
その時、由奈は頬をほんのり染め、花咲に聞いた。
「先生、実は……傷の痛みよりも、もっと気になってることがあって……手術のあとって、どれくらい経ったら、彼とそういうこと、しても大丈夫なんでしょうか」
花咲はちらりと由奈に視線を向けた。
由奈はさらに頬を染め、言い訳のように続けた。
「私、そんなにしたいわけじゃないんです。でも、彼がすごく欲が強くて」
さらにどこか誇らしげに言った。
「だからちゃんと応えてあげたくて……先生、一番早くてどのくらいでできますか?」
花咲は淡々と由奈の傷口を確認すると、手袋を外し、告げた。
「セックスは、早くても一か月は控えてください」
その声色は業務的だったが、言葉を口にするだけで精一杯だった。
由奈は小さく「あ……」と漏らし、肩を落とした。
「そんなに長いんですか。きっと彼はがっかりしちゃいますね。でも大丈夫、彼はいつも私を大事にしてくれています。きっと我慢してくれるはずです」
言葉の端々から、恋人同士の甘い空気が伝わってくる。
花咲はそれ以上耳にしたくなくて、その息苦しい病室を後にした。
ほどなくして、遼が頼んた夜食が届いた。油分も塩分も控えめで、身体を労わる品ばかりだ。彼はずっと、花咲が生理中で体調が優れないことを気にかけていた。
デスクの上に積まれた弁当箱を見ても、花咲の胃は少しも動かなかった。それらを看護師たちに分けようと手を伸ばしたそのとき、遼から電話がかかってきた。
電話の向こうで、遼の声には焦りと気遣いがにじんでいた。
「また忙しすぎて水も飲んでないんじゃないだろうな。だったら、今すぐ病院まで行って、その場で飲ませるぞ」
そんなこと、彼は本当に以前にもやったことがある。花咲が一日中仕事に追われ、食事を取る暇もなかったあの日、彼は怒り半分、心配半分で、自ら料理を作り、病院まで届けてくれた。そして、彼女が食べ終えるまでずっと見届けてから、ようやく帰っていったのだ。
その時、病院の看護師たちはこぞって羨ましい眼差しを向け、花咲をからかう声があちこちから飛んできた。
「月岡先生の旦那さん、どこで捕まえたんですか?私も欲しいですよ。条件は贅沢言いません、月岡先生の旦那さんの半分くらい優しければ十分です」
「見ました?あのスイーツの袋。市内中心の五つ星ホテルのやつですよ。あそこ、何時間も並ばないと買えないって聞きました。もう、まるで夢みたいな恋愛じゃないですか。羨ましすぎて死にそう」
「月岡先生の旦那さんって、本当に理想の夫そのものですよね。今の時代にぴったりの、家庭を支える模範的な旦那さんですね。月岡先生、幸せすぎますよ」
第3話
花咲はここまで思い至ると、鼻の奥がつんと痛み、思わず自嘲気味に口元をゆがめた。
「大丈夫。あとで飲むから」
「今すぐ飲め。さもないと、すぐ車を飛ばして病院に行くぞ」遼はきっぱりと言った。
花咲の胸の奥が、どうしようもなく切なく締めつけられた。
遼の愛は、あの頃から何ひとつ変わっていないように見える。もし、由奈の体にあの確かな証拠を見てしまわなければ、花咲は、遼の愛はこの先もずっと揺らがないと信じていただろう。
翌朝、同僚と引き継ぎを済ませた花咲は家へ戻った。そこにはすでに遼が食事を整え、彼女の帰りを待っていた。
「明後日は君の誕生日だから、他の予定は全部取りやめた。コンサートのチケットも取った。一緒に行こう」
遼は言いながら、花咲の茶碗に次々と料理を取り分けた。どれも彼女の好物ばかりだ。
花咲が二口も口にしていないうちに、遼はやや落ち着かない様子で立ち上がった。
「食べ終わったらゆっくり休んでて。会社で急ぎの用があって、もう何度も急かされているんだ。君はしっかり休んで、夜には甘いものを買って帰るから」
そう言って花咲のそばに歩み寄り、額に軽くキスを落とした。
花咲は表情を崩さず、ふと光った画面に目を落とした。表示された登録名は「小林部長」、だが、その番号はカルテに記されていたあの番号と同じだった。
遼が家を出る音が完全に消えるまで待ち、花咲は箸を置き、洗面所に入った。額を何度もこすり洗い、赤くなるまで手を止めなかった。
洗面所を出ると、そのまま二人の寝室に戻り、クローゼットから自分のスーツケースを取り出して荷物をまとめ始めた。
荷物は驚くほど多かった。ほとんどが遼が買い与えたものだ。
これまで、花咲が何かをほんの一瞬でも目に留めれば、遼はためらうことなく買い与えてくれた。
こうして積み上がったアクセサリーや服の数々は、かつての花咲にとって幸福の象徴だった。
だが今では、ただの重荷にしか見えなかった。
花咲は自分で買った服を数着だけ残し、引っ越し業者を呼び寄せた。残りの荷物を箱ごと運び出してもらった。
引っ越し業者のスタッフが、花咲にいくつかの高価な宝石のオーダーメイドジュエリーをどう処分するのか尋ねてきた。
花咲は遼が自らデザインしたアクセサリーの詰まった箱を見つめた。それはかつて、何よりも大切にしてきた宝物だった。だが今は、視線を落とすたびに、由奈がそのブレスレットを身につけ、遼と肌を重ねている光景が否応なく浮かんでくる。
本当に吐き気がこみ上げるだけだ。
花咲は口の端をわずかに引き上げ、麻痺したような冷ややかな笑みを浮かべた。
「寄付して。もう、何もいらないから」
業者を見送った直後、今度は介護施設から電話が入った。
祖父の容態が急変し、医師の診立てではもう移動はできず、最期のときが迫っているという。
最後の別れをするようにと告げられた。
花咲は、自分がどれだけ信号を無視して走ったのかもわからないまま、必死に施設へと駆けつけた。
彼女は顔色を失い、よろめく足取りで祖父のベッド脇へたどり着く。そこには骨と皮ばかりにやせ細り、かすかに息をしている老人が横たわっていた。こらえきれず、花咲はその場に膝をついた。
数年前、両親が交通事故で同時で亡くなり、立派な月岡家には彼女と祖父の二人だけが残された。
あまりにも深い悲しみに、花咲は一時、重いうつ状態にまで陥った。
その暗闇から引き上げてくれたのは、祖父と遼だった。
言ってみれば、花咲にとって、祖父と遼は、この世界で最後の心の支えだった。
けれど今、遼はすでに彼女を裏切った。
さらに祖父までもがこの世を去ろうとしている。その現実を受け入れるには、あまりにも重すぎた。
耐えきれず、祖父の細くなった手を握りしめ、花咲は子どものように泣きじゃくった。
「おじいちゃん、行かないで…お願いだから」
花咲は、遼のことを祖父に打ち明ける勇気がなかった。
旅立つまでにも、自分のことを案じさせたくなかったからだ。
祖父は、苦しげに、ゆっくりとまぶたを開いた。そこに宿るまなざしは、昔と変わらず深い慈しみに満ちている。
頭に手を伸ばし、花咲の髪を撫でてやり、無理をせず体を大事にしろと伝えたかったけれど、その力さえもう残っていなかった。
最後に、かすれるような声で言葉を紡いだ。
「花咲……もう泣くな。遼って子が、おまえの面倒を見てくれる。私は安心だ」
花咲は何も答えず、声にならない嗚咽を繰り返すだけだった。胸の奥に溜め込んだ屈辱と悔しさが、静かにこぼれ落ちていく。
祖父はあんなこととは知らず、かすかな光を宿した目で続けた。
「花咲、遼を呼んできてくれないか?来られないなら、電話でもいい。
私はこの耳で、あの子が一生おまえを守ると誓うのを聞きたいんだ。
そうでなければ、目を閉じても安心できないんだ」
第4話
唇を噛みすぎて、ほとんど血がにじみそうだった。花咲は笑顔を作ろうとしたが、それは泣き顔よりもずっと歪んで見えた。
「わかったよ、おじいちゃん。すぐに電話する」
花咲はすぐさま、遼に電話を掛けた。
彼の口からあの偽りの約束を聞きたいわけじゃない。
ただ、祖父に未練を残したまま逝ってほしくないだけだった。
けど、続けて三度電話をかけたが、応答はなく、あるいはすぐに切られた。
こんなことは今まで一度もなかった。
花咲は何かに気づいたようで、怒りに震えが全身へと広がっていった。
彼女は必死に感情を押し殺し、込み上げる苛立ちを呑み込みながら、四度目の発信ボタンを押した。
今度で、ようやく繋がった。花咲の目がぱっと輝き、すぐに口を開いた。
「りょ……」
しかし、その先の言葉は口に出る前に、電話の向こうから次々と響く甘ったるい声に遮られた。
花咲はいち早くも反応し、ほとんど反射的に音量を最小にし、スマホを握りしめて一歩後ずさった。
それでも、漏れ聞こえた耐えがたい声は、はっきりと耳に届く。
あまりにも鮮明で、遼の息の乱れた声まで聞き取れてしまうほどだ。
心地よい低い声に、今はあからさまな情欲の色が混じっていた。
「……由奈、お前は本当に小悪魔だな」
由奈は艶めいた声で小さく甘く鼻を鳴らし、「じゃ、遼……教えてよ。私と、月岡花咲、どっちが好き?」
遼はまさに昂ぶりの最中にあり、由奈を叱ることもせず、少し苛立った声で言った。
「……花咲のことを言うな」
由奈は吐息まじりの甘い声で、遼をさらに欲望の深みへと引きずり込む。
そして、わざと花咲に聞かせるように声を張り上げた。
「だって遼、あなたが言ったんじゃない?彼女、全然色気がないって」
「……花咲」
祖父の弱々しい声が、花咲を取り乱しそうな淵から引き戻した。
容体はすでに極限まで悪化しているはずなのに、花咲の顔色を気にして、無理を押して病床から身を起こそうとした。
「まさか遼のやつ、出ないのか。
電話よこせ。私が説教してやる」
花咲は胸を切り裂かれるような痛みを押し込み、素早く通話を切った。そして、笑顔を作った。
「大丈夫だよ、おじいちゃん。遼は忙しいだけ。一生、私を守るって言ってくれたから」
ようやく安心したように、祖父は再び身を横たえた。
最期の時が近づいてもなお、花咲の手を離そうとせず、かすかな声で言葉を繰り返し続けた。
「花咲、幸せになれ」
「じゃないと、安心して目を閉じられん」
「泣くな。会いたくなったら、夜に星を見ろ。空から見守ってる」
その声はだんだんと薄れていく。
花咲はただ、祖父の胸がもう二度と上下しないのを呆然と見つめた。
涙は、もうほとんど尽き果てていた。
花咲は冷たくなった祖父の年老いた手に頬をそっと押し当て、小さくささやく。
「ごめんなさい、おじいちゃん。わたし、嘘をついてたの。
遼が一生、私を守ることなんてない。
でも大丈夫。これからは、彼のいない人生でも幸せに生きるから」
ヨーロッパ行きの日が、もう目の前に迫っていた。
祖父の葬儀は、花咲は最も早い段取りで終わらせるしかなかった。
押し寄せる深い悲しみを抱えたまま、二日二晩を費やして全てを終えた。
疲れきった体を引きずって家に戻ったものの、そこに遼の姿はやはりなかった。
それは、もう珍しいことではなかった。
年が明けてから、花咲の勤める病院は一層忙しくなり、二人で過ごす時間は目に見えて減っていった。
そのうち遼は、会社の仕事が立て込んでいると理由をつけ、一週間まるごと家に戻らないことも珍しくなくなった。
それでも、以前の遼はあまりにも彼女に優しすぎた。
その優しさを疑うことなどなく、花咲はむしろ、自分が忙しさにかまけて遼のそばにいられないことを申し訳なく感じていた。
まさか。
彼が本当に忙しかったのは確かだが、その場所がほかの女のベッドの上だったとは。
スマホを取り出して時間を確認したとき、花咲は何気なく遼とのチャット画面を開いた。そこで気づいた。二人が最後に会話をしたのは、もう四日前のことだった。
乾いてひび割れた唇の内側を、花咲はそっと噛んだ。その鋭い痛みで、胸の奥に広がる痛みを紛らわせようとする。
長いまつ毛がかすかに震え、彼女は遼の連絡先をブロックした。
もう、未練に値するものなんて、何ひとつ残ってはいなかった。
第5話
由奈は今回、遼をすっかり夢中にさせた。
彼が気づいて、家へ引き返したのは、すでに四日後のことだった。
花咲に盛大な誕生日パーティーを開くと、固く誓ったあの約束さえも、気づけばすっかり頭から抜け落ちていた。
家へ向かう途中、遼も友人から、花咲の祖父が亡くなったとのことを受け取った。
彼は少しうろたえ、不安を覚えた。
花咲はきっと怒っているだろう。
怒られるのは構わない。ただ、疑われるのが怖い。
なぜなら、スマホの通話履歴に、花咲からの着信が一件残っていたからだ。通話時間はおよそ一分。だが遼には、その記憶がまったくなかった。
由奈もまた、強い口調で言い切った。少なくとも二人がベッドにいたとき、花咲からの着信はなかったと。
きっとどこかの拍子に、遼が誤って応答してしまったのだろう。
それでも遼の胸の奥には不安が残った。だが同時に、あの高慢な花咲の性格を思えば、本当に何かに気づいていたのなら、こんなふうに静まり返っているはずがない、とも感じていた。
そんなふうに自分に言い聞かせながらも、足は自然と急いでいた。
車を降りると同時に彼は別荘へ駆け込み、息が切れるほど走って、普段の端正で気品ある姿はどこにもなかった。
遼はリビングルームへ駆け込みながら、大声で花咲の名を呼んだ。
「花咲!花咲」
そして、書斎で丸くなって眠っている彼女を見つけた。
胸の奥にのしかかっていた重石が、ようやく音を立てて落ちた。
黒いドレスに、ふわりとした長い巻き髪。その髪に、小さな白い花がひとつ。
彼女は前よりもずっと痩せて、やつれていた。
固く閉じられた瞼、青白い肌、花咲はしおれた花のように脆く見える。
頬には乾ききらぬ涙の跡、抱きしめているのは一冊のアルバムだった。
遼の胸がちくりと痛み、目尻も赤くなった。そっと抱き上げようと膝をつくが、起こしてしまいそうで、ただ優しい声で呼びかけた。
「花咲、ただいま。
ごめん、このところ忙しくて、おじいちゃんのお葬式も逃してしまった。
大丈夫。おじいちゃんがいなくても、俺がいる。これからもずっとそばにいるから」
花咲は、祖父と再会する夢の真っ中だった。その夢に、耳元で犬が吠えるような声が割り込んでくきた。
ゆっくりと瞼を開け、遼を見た瞬間、瞳の奥にほんの一瞬だけ嫌悪の色が走った。
だが、すぐにそれを隠し、ただ身を起こして口を開いた。
「帰ってきたのね」
泣きも怒りもせず、何事もなかったかのような彼女の様子に、遼はすっかり安心してベッドの縁に腰を下ろし、そのまま抱きしめた。
「花咲、まだつらいよな。
大丈夫、今日はどこにも行かない。ずっと君のそばにいるから……いいよな」
遼が身を寄せてきたとき、同時にふわりと漂ってきたのは、甘くてむせ返るような女物の香水の香りだった。
花咲はそんな香りを一度もつけたことがない。
一瞬、鼻を突くその匂いに吐き気がこみ上げ、思わずえずいてしまった。
手も反射的に、遼を押しのけようとしていた。
遼はたちまち慌てふためいた。
「どうした、花咲?体の具合が悪いのか?
行こう、病院で診てもらおう」
花咲は胸を軽く叩きながら息を整え、本当のことは言わず、口実をひとつ選んだ。
「なんでもないわ。この数日つらくて、ちゃんと食べられなかったから、胃が少し痛むだけ」
遼はほっと息をつき、いつものように甘えた仕草で彼女の鼻先を軽くつつく。
「まったく……俺がいないと、ちゃんとご飯も食べられないのか?
何が食べたい?作ってあげる」
花咲は表情を変えぬまま、さりげなく身をかわし、ベッドに身を横たえてくぐもった声で答えた。
「なんでも」
遼は階下のキッチンへ向かおうとした。
だが、ドア口に差しかかったところでふいに足を止め、ベッドの上の花咲を振り返った。
「花咲、この前は忙しすぎて誕生日パーティーを忘れてしまった。明後日、改めて開こう。いいよな」
花咲は変わらぬ冷ややかな声で答えた。
「好きにして」
その返事に、遼の端正な顔にようやく笑みが戻った。
彼女のどこか普段と違う様子については、深く考えもしなかった。
彼の中では、それもすべて花咲が祖父を失った悲しみのせいだと片づけられていた。
第6話
遼は、このとき想像もしていなかった。自分が部屋を出ていった直後、花咲が明後日の夜にヨーロッパ行きの航空券を手配していたなんて。
誕生日パーティーの日、遼は共通の友人たちを大勢招いていた。
花咲を喜ばせようと、遼は持てる限りの心尽くしをした。
誕生日パーティーのあちこちに、遼の巧みな仕掛けが光っていた。
来客は皆、その細やかな心遣いに感嘆の声を上げずにはいられなかった。
花咲は遼の隣に立ち、相変わらず気高く美しかったが、心の中では夜にヨーロッパへ到着したあとの予定を思い描いていた。
「花咲……」
不意に、どこか取り乱した遼の声が耳元に落ち、思考が引き戻された。
遼は緊張した面持ちで問いかけた。
「あの箱はどこだ?
ほら、俺がデザインしたアクセサリーを詰めた箱。どうして箱ごとなくなってるんだ?」
毎年、花咲の誕生日には、遼が自ら手作りしたアクセサリーを贈ってくれた。
さまざまなデザインのものだ。
それは彼なりの、濃やかな愛情の証だった。
花咲はいつも、その箱を宝物のように大切にしてきた。
今年も遼は例年通り、ブルーサファイアのネックレスをデザインして贈っていた。
ただ、花咲がすでにネックレスを身につけていたため、遼はひとまず箱にしまっておこうと考えた。
ところが、二人の寝室に戻ってみると――金庫の中の箱はすっかり姿を消していた。
泥棒が入ったのかと、遼は息をのんだ。
花咲が何よりも大事にしていたものだからこそ、遼はこれほどまでに慌てたのだ。
花咲はまあまあ落ち着いた様子で、穏やかに笑いながら答えた。
「この前ね、少し古くなってきたと思って、職人に預けて専門の修理工房に送ったの。きっと数日もすれば戻ってくるわ」
遼はその言葉にようやく安堵の息を漏らした。だが、花咲を見つめるその眼差しには、まだどこか探るような色が残っていた。
「さっき、少し家の中を見回したら、君の持ち物がずいぶん減っているように見えたんだ。花咲……」
彼は花咲の手を握り、子供のように不安げな声を漏らした。
「家の中から君の気配がなくなるのは、怖い」
花咲の視線は相変わらず波ひとつ立たず、「何でもないわ。ずっと着ていなかった服があって、汚れていたから捨てただけよ」と淡々と答えた。
遼はようやく笑みを浮かべ、甘えるように彼女の鼻先をつついた。
「汚れていたならもういらないな。今度もっといいのを買いに行こう」
花咲は軽くうなずき、彼の言葉を意味ありげに繰り返した。
「ええ、そうね。汚れてしまったら、もう、いらないわ」
やがて、共通の友人が遼を誘って酒を飲みに連れ出した。
花咲はそこでようやく息をつくことができた。
なぜだかわからないが、花咲はふと、自分を追いかけるような得体の知れない視線を感じた。その視線は、彼女にどうしようもない不快感をもたらす。
すると、やや痩せた体つきで、帽子を深くかぶり顔の大半を隠したスタッフが近づいてきた。
露わになった滑らかで精緻な顎のラインを目にし、花咲は手にしたグラスをぎゅっと握りしめた。
認めたくはなかった。
だが、目の前にいるのは間違いなく由奈だ。
遼の裏切りに苦しみ、眠れぬ夜を過ごしていたあの日々――花咲は何度も由奈の写真を取り出しては眺めた。
自分とどこか顔立ちは似ていながら、漂わせる雰囲気はまったく異なる女。
花咲は、最初は理解できなかった。なぜ遼は由奈を選んだのか。
自分に飽きたから?
だが、飽きたというのなら、なぜ似た顔を選ぶのか?
そのうち、花咲は悟った。
本当は理由を突き止める必要なんてなかったのだ。
人間は、腐ってしまえばそれまで。それは、彼女のせいではない。
胸の奥で荒れ狂う波を巧みに押し隠しながら、花咲は、由奈がこうして苦労して会場に入り込み、何を仕掛けようとしているのかを静かに見極めようとしていた。
思い返せば、夜中に彼女が病院に現れ、婦人科の執刀医に花咲を指名したことも、手首のブレスレットも、全部偶然ではなかったのだ。
これは、またもう我慢できなくなったのだろうか。
やはり。由奈は花咲の目の前まで歩み寄ると、ぱっと顔を上げ、挑発的な笑みを浮かべた。
「奇遇ですね。月岡先生、またお会いしましたね」
第7話
由奈はわざと服のボタンを二つ多く外し、白い首筋に残る生々しい赤い痕をあらわにした。
花咲は背筋をすっと伸ばし、白鳥のように気高く優雅な姿勢を崩さないまま、落ち着き払った声で短く問いかけた。
「何かご用?」
由奈の瞳に、ふっと嫉妬の影が走った。
彼女は花咲にぐっと近づき、二人だけに聞こえる声で囁いた。
「ねえ、この前……私と遼の声、良かったか?」
少し丸みを帯びた切れ長の瞳に宿るのは、作り物の無垢さと、底の見えない悪意。
花咲のグラスを握る手に、さらに力がこもった。指先はうっすらと白くなっていた。
由奈はさらに距離を詰め、美しいはずの顔を歪めて言葉を突き刺す。
「遼はね、いちばん愛してるのは私だって言ったの。なのに、あなたは私たちの関係に気づいていながら、どうして席を譲らないの?そんなに厚かましいの?まあ、いいわ」
由奈は突然、口元を歪めて笑った。その笑みはどこか不気味だった。
「じゃあ、遼に選ばせようよ。あなたか、私か」
そう言うや否や、由奈は急に表情を荒らげ、花咲の手をつかんで右へと強く引き倒した。
花咲が振り払う間もなく、二人はもつれるように倒れ込んだ。
右側には、花咲のために遼が用意した巨大な二十段のバースデーケーキ。
その中には、硬くて鋭い支え棒が隠されている。
反射的な生存本能で、花咲は由奈を突き飛ばした。
だが、避けきれず、脚が支え棒で裂かれた。
ドレスもケーキで汚れた。
由奈は短く悲鳴を上げ、転がった拍子にケーキが揺れ、最後には彼女の上に崩れ落ちた。
その光景に、場の空気が凍りついた。
やがて人混みの中から、悲鳴とざわめきが広がった。
遼が異変に気づくやいなや駆け寄り、真っ先に花咲のもとへ向かった。
だが、歩み寄る直前、周囲の声が耳に入った。
「ねえ、あの女の子、誰? なんだかすごく可哀そう。あんなにひどい怪我をして」
「え、花咲にそっくり」
その瞬間、遼の足はまるで凍りついたかのようにぴたりと止まった。もう花咲の方へ一歩も近づくこともなかった。
花咲は、なおも血が流れ続ける脚を押さえながら、悔しげに遼を見つめた。
これが、彼が自分に約束した盛大な誕生日パーティーなのに。
もう離れる覚悟は決めていた。
それでも、花咲は自分の誕生日に、人前で惨めな姿をさらすつもりはなかった。
「遼……」と花咲が口を開いたその瞬間、遼は首を横に振りながら後ずさった。
瞳には、罪悪感と複雑な色が入り混じっていた。
「……花咲、ごめん」
そう言い残すと、遼はくるりと背を向け、由奈のもとへ駆け寄った。覆いかぶさるケーキの支え棒を荒々しく払いのけ、彼女を抱き上げた。そして、体裁も顧みず、出口へ向かって突進しながら、声を張り上げた。
「救急車を呼べ」
一瞬にして、場にいた全員の視線が、みじめな姿の花咲へと一斉に注がれた。
探るような目、訝しむ目、哀れむ目、そして薄く笑う目。
それらはまるで彼女の仮面を剥ぎ取り、その尊厳を踏みにじっていくかのようだった。
耳鳴りのような轟音の中、花咲はふらつきながら立ち上がり、差し伸べられた手を避けた。
もはや涙を流す力さえ残っていなかった。血が止まらない脚の痛みも構わず、足を引きずりながら出口へ向かう。そしてふいに、誰ともなく声をかけた。
「今、何時?」
「午後三時です」と誰かが答えた。
花咲はふっと笑みをこぼした。
そこにはほろ苦さと、どこか解き放たれたような安堵が入り混じっていた。
思っていたより、少しだけ終わりは早く訪れた。
少なくとも、まだ時間がある。飛行機が飛び立つ前に、祖父が遺してくれた生前の功績を手に、遼との離婚を取り付けるだけの時間は残されている。
遼の家を後にし、やわらかな日差しの中に立った瞬間、花咲の唇にふっと笑みが浮かんだ。
そして、自分に告げた。
花咲――誕生日おめでとう。
自由を手にして、おめでとう。