彼にとっての億分の一

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彼にとっての億分の一

GoodNovel Hoàn thành

初恋を手放した先に、人生のパートナーを見つけた。

Chương (1)

第1章

初恋を手放した先に、人生のパートナーを見つけた。 第1話 「佐藤先生、海外での手術日程を手配していただけますか?」 水島結衣(みずしま ゆい)はひとり暗がりに座り、窓の外を見やりながら静かに言った。 「わかりました。二週間後ならちょうど時間が取れます。もし急ぎでなければ一か月後でも……」 結衣はそこで彼の言葉を遮る。 「いいえ、二週間後でお願いします」 電話の向こうで、医師の佐藤直樹(さとう なおき)は一瞬、言葉を失った。彼には腑に落ちない。結衣が乳がんと診断されて以来、彼は幾度となく海外での専門治療を勧めてきたのに、結衣は、篠原晃(しのはら あきら)のそばにいたい一心で手術を拒み、薬で抑えるだけにしてきたのだ。 「佐藤先生、このことは晃には言わないでください」 直樹はすぐに応じた。 「わかっています。篠原さんに心配をかけたくないんですよね。手術が終われば、すぐ帰国して静養できますよ」 結衣はそれ以上何も言わず、手術の細かな日程を確認すると電話を切った。 月明かりに目を慣らし、部屋をぐるりと見渡す。ここに自分の物はほとんどない。二週間あれば、この家に刻んだ五年分の痕跡だって消せる。 もうすぐ去るのだと思うと、結衣の胸は大きな手で締めつけられたように痛み、息が詰まった。 ――カチッ、と音を立てて、酔いの覚めた晃がリビングの灯りをつけた。 晃はくらむこめかみを押さえながら結衣に気づき、わずかに眉をひそめて、何気ない調子で問いかけた。 「どうして灯りもつけずにここにいるんだ?」 結衣は、五年間の夜ごとに何度も指先でなぞってきたその顔を見つめ、胸の奥がふと揺らいだ。もしかしたら、今度こそ彼は気にかけてくれるのかもしれない。 唇がかすかに動いた。胸いっぱいの期待を込めて結衣は声を発した。 「晃、この前、私は病院で検査を受けて……」 その言葉は、唐突な着信音にかき消された。晃がスマホの画面をのぞき込んだ途端、さっきまでの険しい表情が一気にやわらぐ。 「莉子、どうした?」 「お兄ちゃん、家の電気が急に消えちゃって……どうしたらいいの、こわいよ、うう……」 甘ったるい声が受話口から流れてくる。その声が月本莉子(つきもと りこ)のものだと気づいた瞬間、結衣の鼓動は激しく跳ね上がった。彼女は晃の表情を食い入るように見つめる。そこに浮かんだ緊張の色を目にしたとたん、さきほど揺らいだ心は再び固く定まった。 晃は養子で、莉子は彼の養父母の実の娘。箱入りで育ち、のちに留学したが、半年前にその両親が亡くなり、弔いのために帰国していた。 「莉子、落ち着いて。すぐ行くから」 晃は二、三言なだめると電話を切り、コートをつかんで玄関へ飛び出そうとした。 結衣が淡々と声をかける。 「待ってるから……戻ってくるよね?」 出ることに気を取られた晃は、いつもと違う声音に気づかなかった。 彼は気のない返事だけを残した。 「うん」 扉が閉まり、部屋はまた静けさに沈む。 結衣は動かず、夜明けまでそのまま座り続けた。空が白み、陽の光が肩に落ちても、彼は戻らなかった。 スマホの画面がふっと明るむ。通知は、優先通知に設定している莉子からだ。 彼女のSNSには、晃が彼女の膝に頭を預けて眠る横顔の写真が上がっていた。添えられた言葉は【神さまのめぐみに感謝。世界には、私を愛してくれる人がまだいる】 間を置かず、今度は晃の返信の通知が届く。 【いつだってそばにいるよ】 結衣は無表情のまま視線を落とし、胸の奥に残っていた最後の未練が音もなく消えていくのを感じた。 彼女は冷静に二人をブロックし、こわばった体を引きずりながら壁際のカレンダーに向かった。出ていく日に、静かに丸をつける。 結衣は心の中で思いめぐらせた。残された二週間で、せめてすべてにけじめをつけてから、この場所を去ろうと。 晃のことは、もう二度と追いかけない。結衣はそう心に決めた。本当に、もう疲れ果ててしまったのだ。 第2話 結衣は病院へ向かった。医師から自分の診療記録を受け取り、直樹に送って所見を仰ぐつもりだった。 エレベーターが三階で止まり、扉が開いた。そこには、莉子が力なく晃の胸にもたれかかっていた。 視線がぶつかった瞬間、三人とも固まった。腫瘍内科は五階にあるが、結衣は病気のことを晃に知られたくなくて、そのまま一歩踏み出し、エレベーターを降りた。 降りてから気づいたが、三階は産婦人科だった。結衣は信じられない思いで振り返り、晃と莉子を見つめる。 晃が何か言いかけたところで、莉子が先に声をあげる。 「結衣、どうして産婦人科に?もしかして、妊娠したの?どうりで下腹が少しふくらんできたと思ったわ。三か月くらいかしら。お兄ちゃん、おめでとう。でも……赤ちゃんができても、私のことは見捨てないでね」 赤く泣きはらした目のまま、莉子は晃の上着の裾をそっとつまみ、か細く続ける。 「私には、もうお兄ちゃんしか家族がいないの」 晃の顔色がみるみる沈んだ。半年前に莉子が帰国してから、仕事に追われ、莉子の相手もし、結衣には半年触れていなかった。それなのに、妊娠?誰の子だ。 「説明してくれ」 細めた目、歯の隙間から冷たくこぼれる短い言葉。晃はまるで犯人を取り調べるかのように、鋭い視線で結衣を射抜いた。 結衣の胸はひりつくように痛み、心の中で自分の不甲斐なさを罵った。二年ものあいだ晃を追いかけ続けて、ようやく彼が自分との交際を受け入れてくれたというのに。 あの日の浮き立つ気持ちは、永遠に忘れられないのだ。彼の首に腕を回して跳ねるように抱きつき、結衣は胸を弾ませながら叫んだ。 「ずっと一緒にいる、ずっと」 それからの結衣は、晃のあとを追いかける子どものようになった。年収一千万円を超える仕事を辞め、彼の会社に入り、ごく普通の一社員として一からやり直した。 晃は特別に抜擢しようとしたが、結衣は言った。 「晃、私は自分の力で、あなたの隣に立ちたい。あなたを困らせたくないの」 結衣は一年もかからず実力だけで下積みから彼の専属秘書にまで昇りつめた。けれど二人が付き合っていることを知る者は誰ひとりいない。 晃の養父母が事故で亡くなり、彼はその事業をすべて引き継いだ。私情を持ち込んでいると言われないよう、養父母の遺したものを汚さぬように、二人の関係は秘められたままだった。 そのころ結衣は思っていた。晃は自分を愛している。たとえ誰も自分が彼の恋人だと知らなくても、自分だけが知っていれば、それでいいのだと。 莉子が現れてはじめて、結衣は気づいた。自分がただの笑いものだったのだと。 彼女が帰国するなり、晃の時間も心も、まるごとさらっていった。 結衣はそっと視線を伏せ、こみ上げる痛みを隠す。もう一度顔を上げたとき、その瞳には一片の温もりもなかった。 「昨夜、帰ってこなかったわね」 晃は眉間に深い皺を寄せた。結衣のこの態度が気に入らない。まるで、彼が何を言おうと意に介していないように見えるからだ。 けれど結衣が裏切るはずもない。自分が疑いすぎなのだろう。晃は表情を和らげ、説明しようと口を開きかける。 莉子の涙が、ぷつりと糸の切れたようにこぼれ、晃の手の甲を打った。 「結衣、ごめんなさい。全部、私が悪いの。お兄ちゃんを呼んだりなんかして、私なんて厄介者よね。パパとママが死んで、ほんとは海外に隠れていればよかったのに……私が悪かった。だから、お兄ちゃんを責めないで」 和らぎかけた晃の表情が、再び厳しく引き締まる。彼はそっと手を伸ばし、莉子の涙をぬぐった。その仕草はまるで宝物を扱うようだった。 「莉子、お前のせいじゃない。これはお前の問題じゃない。俺は言っただろう、いつだってお前を守るって」 そう言ってから、晃は結衣に顔を向け、非難の色を宿した目で射抜いた。 「莉子は俺の妹だ。彼女に口出しする資格は、お前にはない」 第3話 結衣は馬鹿げて笑えるとしか思えなかった。最初から最後まで、莉子に視線すら向けていないのに、どうして晃は、自分が彼女を敵視しているなどと思うのだろう。 結衣が心から気にかけ、大切にしてきたのは、いつだって晃ひとりだ。 けれど今は、その晃さえ、もういらないと彼女は決めた。 もう二人のくだらない言い合いを聞く気もなければ、産婦人科に何の用があるのかも気にしない。結衣は背を向け、その場を立ち去ろうとした。 晃は理由のない胸騒ぎに襲われ、このまま何もしなければ結衣を失う――そんな予感に突き動かされて、彼女の手首をぐっとつかんだ。 「どこか、具合が悪いのか?」と訝しむように問いかける。 晃の腕に抱かれた莉子が、結衣を鋭くにらみつける。結衣は口の端をわずかに上げ、晃を見返した。 「じゃあ、私と行くの?」 晃の体が硬直した。腕に抱えた莉子を見下ろし、思い悩んでどうすればいいのか分からなくなる。そのとき、莉子が突然、苦しげな声をあげた。 「お兄ちゃん、お腹、すごく痛い……死んじゃいそう。私、このままパパとママのところへ行っちゃうのかな。うう……いやだ。お兄ちゃん、あなたを置いてなんていけない……」 晃はたちまち慌てふためき、結衣の手首を放すと、莉子を横抱きにして足早にエレベーターへと向かった。 「馬鹿なことを言うな。まずは医者の言うとおり、エコー検査を受けよう」と、彼は低く優しくなだめた。 エレベーターの扉がゆっくり閉まりゆくその瞬間になって、晃はようやく外に残された結衣のことを思い出す。狭い隙間から見えたのは、嘲りの色を浮かべた彼女の顔だった。 結衣は扉の外に立ち尽くし、二人が去っていくのを見送った。やがて背を向け、階段へと足を踏み入れる。言葉もなく、静かに五階へと歩を進めていった。 涙は音もなくこぼれ落ちる。捧げた五年の青春は、結局、すべて無駄だったのだ。 結衣は、五年間すべてを懸けて晃を愛し抜いた自分が、あまりに不憫だと感じた。 ――夜。結衣はテーブルに座り、納豆ご飯をかき込んでいた。珍しく晃が早く帰ってきた。 玄関を開けた瞬間、納豆の匂いが部屋に充満し、晃は思わず顔をしかめ、吐き気を覚えるほどだった。彼は昔から納豆が苦手で、匂いをかぐだけで耐えられないのだ。 けれど結衣は知らぬ顔で、両手で茶碗を抱えたままカーペットに座り、バラエティ番組を見ながら納豆ご飯を口に運んでいた。 結衣はバラエティ番組に夢中で、声をあげて笑っていた。先ほどまで怒り心頭だった晃も、その無邪気な光景に気勢を削がれ、肩の力が抜ける。 彼は結衣の背後のソファに腰を下ろし、両脚で彼女を囲い込むようにして捕らえると、首筋に顔をうずめ、くぐもった声を漏らした。 「どうして急にこんなものを?もう食べないって言ってなかったか」 晃は昔から匂いの強い食べ物が苦手だった。けれど結衣は本当は大好きで、それでも晃のために、彼が嫌うものはすべて断ってきたのだ。 もう、結衣は自分を抑えるのはやめた。わざと大きく納豆ご飯をかき込み、茶碗を晃の鼻先へぐいと近づける。 「食べてみる?本当においしいんだから」 匂いに耐えきれず、晃は結衣から身を離し、ソファの背もたれに凭れると、苛立ちを隠さず問いただす。 「お前、いったいどうしたんだ?何を拗ねてる?」 結衣は視線を落とし、黙ったまま納豆ご飯を口に運び続けた。返事はしない。 晃はしばし黙り込み、それから口を開いた。 「莉子の検査結果が出た。大したことはなかったよ。どうやら食あたりみたいだ。それで、お前はどうして病院に?」 結衣は口の中の納豆ご飯を飲み込み、ようやく答えた。 「生理の調子を整えに行ったの」 晃はどこか疑わしげに尋ねる。 「今日がその日だったか? 俺の記憶だと違うような……」 結衣は気のない調子で返す。 「あなたの勘違いよ」 晃はそれ以上問いただせなかった。莉子の生理は覚えているのに、結衣のことは忘れていた――そう気づくと後ろめたさが込み上げ、口をつぐむしかない。だからこそ、今回は結衣に歩み寄ろうと思った。 「……なら、俺にも一膳、よそってくれないか?」 第4話 結衣は軽く眉を上げ、茶碗の底までさらうと、口を開く。 「あなた、食べないんじゃなかったの?」 「急に、食べてみたくなった」 結衣は立ち上がり、晃の「囲い」からするりと抜け出す。声は淡々としていた。 「もういいの。あなたが自分を変える必要はないって、今日ようやく分かった。無理に結びつけた縁は甘くならない。今のままでいい」 得体の知れない不安がまた晃の胸に押し寄せる。彼は立ち上がって結衣の前に回り込み、顔を傾けてまっすぐその瞳をのぞき込んだ。 「昨夜、何を言おうとしてた?」 結衣の脳裏に、昨夜の光景がよぎった。彼女は晃の約束を信じて一晩中待ち続けたのに、返ってきたのは彼と莉子の親しげな投稿だった。結衣は口元だけで笑った。 「何でもないわ。体調を整えることよ」 晃は、五年を共にしてきた結衣を目の前にしながらも、なぜか遠くへ隔てられているように感じていた。確かにそこに立っているのに、今にも自分の手の中からこぼれ落ちてしまいそうだった。 衝動に駆られた晃は、思わず大きな腕で結衣を強く抱き寄せる。自分をなだめるように、そして彼女に約束するかのように、低く囁く。 「結衣、両親が急に亡くなって、莉子には支えが必要なんだ。余計なことは考えるな。彼女の気持ちが落ち着いたら、俺たちは公表する」 以前の結衣なら、この言葉に胸を震わせただろう。けれど今は、ただ離れたい。 だから、これまでのように汲み取って飲み込むのではなく、彼女はまっすぐ切り込む。 「莉子はいつ落ち着くの?一生落ち着かないなら、私たちは一生、公表しないの?」 晃の腕が緩み、眉間に深い皺が刻まれる。険しい目つきで結衣をにらみつけ、苛立ちを隠さず吐き捨てた。 「お前、いったいどうしたんだ。莉子が帰ってきてから、お前は変わった。俺はもう手一杯なんだ。これ以上、掻き乱すな」 結衣はそっと彼を押し離し、食器を流しで洗い、棚に戻してから、短く応じた。 「分かった。もう掻き乱さないわ」 晃の眉間の皺がふっと緩んだ。 「やっぱりな。お前は一番分かってくれると思ってた。すべて片づいたら、必ずお前に……」 そこへ、また莉子からの助けを求める電話が入った。晃は再び呼び出された。 だが今度の結衣は何も言わなかった。ただ静かに上着を手渡し、玄関まで送り出した。彼の訝しむ視線を受けて、ただ一言。 「晃、私は何も変わってないよ」 その異様な落ち着きに晃は面食らい、引き返して話そうとした矢先、再びスマホが鳴り響く。 莉子に本当にもしものことがあっては、と不安を押さえ込めず、晃は胸のざわめきを押し殺し、足早に地下駐車場へ向かった。 結衣は、家の中で自分の荷物をまとめ始めた。 翌日、会社へ行くと、秘書の席には、すでに莉子が座っていた。 結衣が姿を見せると、莉子は挑発的な表情を浮かべた。 「お兄ちゃんが言ったの。これからは私が秘書なんだって。結衣、怒らないよね?」 ちょうどそのとき、晃がオフィスから出てきた。結衣の姿を目にすると、ごく自然な口ぶりで命じる。 「莉子は帰国しても気に入った仕事が見つからなかった。だから見習いの秘書として置く。お前が教えてやってくれ」 莉子は小走りで晃に寄り、艶やかに体を寄せてその腕に抱きつく。左右に揺らしながら甘えた声をあげる。 「お兄ちゃん、私この席が好き。日当たりがいいんだもん。ここに座ってていい?」 晃は仕方なさそうに莉子の鼻先を指で軽くつつき、甘やかすように言う。 「ほんと、お前には敵わないな。結衣、お前は外の席に移ってくれ。午後に新しい席を用意するから」 結衣は、最初から最後まで一言の反論も口にしなかった。すべてを黙って受け入れた。その態度が、かえって晃の胸に、拭えない違和感を募らせた。 第5話 莉子が帰国したとき、晃は結衣を連れて空港へ迎えに行った。その場で結衣が自分の恋人だとはっきり紹介した。 そのときの莉子は一瞬だけ驚いたものの、すぐに受け入れて、「これからは仲よくしようね」と口にした。 だが、莉子の厄介な振る舞いは止まらなかった。結衣は何度も飲み込み、こらえ続けたが、ついに限界を迎え、晃と繰り返し激しく言い争うようになった。 やがて、莉子に関わることがあれば、そのたびに結衣は晃に言葉をぶつけずにはいられなくなった。 そんな結衣が、急に態度を変えた。その変化に、晃はすぐには馴染めなかった。 だが、彼女がようやく吹っ切れて、もう細かいことにこだわらなくなったのだと彼は思い込み、それ以上深くは考えなかった。 莉子はぱちぱちと瞬きをし、無邪気そうな顔で言う。 「結衣、黙ってるってことは怒ってるの?怒ってるなら、私ここには座らないよ。ただ、知らない場所で一人だとこわくて、お兄ちゃんの近くにいたいだけなの」 手放すと決めた結衣は、もう莉子を甘やかすつもりはない。 「私が不機嫌なのを分かってて、どうしてそこに居座るの?」 満面の笑みだった莉子の顔が、ぴたりと固まった。結衣がこんなふうに言い返したのは初めてだった。これまではどれほど挑発しても、結衣はいつも穏やかで優しかったからこそ、莉子はますます図に乗っていたのだ。 けれど莉子はすぐに思い直した。むしろ好都合じゃないか。これでお兄ちゃんに、結衣の本性をはっきり見せられる。 莉子の目からはたちまち涙があふれ、二筋の雫が頬をつたう。悲しげな声で言う。 「私が悪かったの。ここにいるべきじゃなかった。結衣、安心して。すぐにまた海外に行くから、だから怒らないで、ね?」 晃は鼻を鳴らし、低い声に不快の色をにじませた。 「莉子を呼んだのは俺だ。文句があるなら俺に言え。彼女を責めるな」 結衣は拳を固く握りしめ、爪が掌に食い込み、鋭い痛みがじわじわ広がっていった。胸の痛みがほんの少し和らぐのを感じながら、冷えた視線を晃に突きつける。 「社長、会議の時間です」 不意を突かれたその一言に、晃の怒りは喉に詰まり、吐き出すことも飲み込むこともできなくなった。結局、莉子を連れて会議室へ向かうしかなかった。 出ていく間際、振り返りざまに結衣へ言いつける。 「アイスアメリカーノを一杯買ってきて、会議室に持ってきてくれ。莉子はそれしか飲まない」 結衣がそれを届けに会議室へ入ると、莉子は晃の隣に座り、こっくりこっくりと舟をこいでいた。 今にも机に額をぶつけそうになった瞬間、本来なら会議に集中しているはずの晃が、すっと手を伸ばし、正確に彼女の頭を支えた。 会議室はたちまち静まり返り、誰もが息をひそめて、席の先頭にいる二人へと視線を注いだ。 結衣が歩み寄り、アイスアメリカーノを莉子の前に置く。すると彼女はゆっくりと目を覚まし、きょとんと周囲を見回した。少しして、何かに気づいたように、晃へと謝った。 「お兄ちゃん、ごめんなさい。昨日の夜すごく疲れてて、つい寝ちゃったの。だって昨日はお兄ちゃんが夜更かしさせるから」 その場にいた者は皆、一斉に息をのんだ。晃の顔にも一瞬だけぎこちなさがよぎったが、わざわざ弁解する気はなかった。軽く咳払いをして、スクリーンの前で固まっている部長に視線を向けた。 「続けろ」 ようやく自分の言葉に気づいたのか、莉子の顔から首筋まで真っ赤に染まった。恥ずかしさのあまり机に伏せたまま、晃がどれほど小声でなだめても、顔を上げようとはしない。 やっと会議が終わると、莉子はようやく顔を上げた。周囲の株主たちはにこにこと笑いながら彼女を冷やかす。 「莉子もすっかり大人になったな。どんな相手が好みなんだい?」 第6話 莉子の頬にようやく引いた赤みが、またたちまち戻った。彼女は晃をちらりと見てから、気恥ずかしそうに身をもじもじさせ、口を開く。 「田中さん、からかわないでください。そんなこと、私にはまだ早いです」 田中俊弘(たなか としひろ)取締役はからからと笑い、いかにも意味ありげに言う。 「分かってるさ。莉子、もう心に決めた相手がいるんだな。なら余計なお節介はしないでおこう。篠原社長、祝言はいつだ?身内同士なら、これ以上ない良縁じゃないか」 先ほどまで満足げだった晃の表情が、はっと曇る。彼は険しい顔つきになり、きっぱりと言う。 「田中取締役、その手の軽口は控えてください。莉子は俺の妹です」 莉子の頬から羞恥の色がすっと消え、無理に笑みを貼りつけてうなずく。 「お兄ちゃんの言うとおりです。田中さん、まだ何も決まっていませんから」 俊弘は晃の言葉にたじろぎ、思わず自分が失言したのではと身構えた。だが、莉子の口ぶりを聞くうちに、「兄妹」という立場がある以上、軽々しく触れてはならないと感じつつも、どこか腑に落ちないまま、探るように晃へ問う。 「篠原社長には、もうお付き合いしている方がいらっしゃるのですか?」 晃は振り返り、結衣にちらりと視線を送り、うなずこうとする。だがその瞬間、隣の莉子が割り込むように声を上げる。 「お兄ちゃんは会社のことに追われていて、恋人を作る暇なんてないんです。もしできたら、私が真っ先に田中さんに報告します。ねえ、お兄ちゃん?」 晃は眉をわずかにひそめた。莉子は結衣が自分の恋人だと知っているはずだ。事情が片づけば公表する、と自分の口から伝えてもある。なのに、なぜこんなことを言うのか、晃には理解できなかった。 だが、頼りなげで哀れな表情を浮かべる莉子を目にすると、まだ両親を亡くした悲しみから立ち直れず、彼の慰めを求めているのだろうと考え、晃はそっとうなずいた。 これまで「恋人はいるのか」と問われても、晃は決して答えなかった。今回が初めての返答だったが、それは、結衣が五年間捧げてきた想いを真っ向から否定するものだった。 晃は振り返ることができなかった。だからこそ、彼のその仕草によって、結衣の瞳にかすかに残っていた愛が静かに消えていくのを目にすることもなかった。 やがて会社には噂が立つ。晃は長年、身を慎んでいた。それは莉子の帰国を待っていたからで、彼女にすでに深く心を寄せているのだ、と。 結衣はそれを耳にしても、ただ微笑んだ。すでに見切りをつけ、去ると決めた今となっては、晃が誰と噂になろうとも、心が揺れることはない。 手元の未了案件さえなければ、とっくに彼のもとから離れていただろう。 「最近、会社で妙な噂が立っていて、お前……」 晃が結衣を見つけて説明しようとしたとき、彼女は淡い笑みを浮かべてその言葉を遮った。 「篠原社長、説明しなくてもいいですよ。もう分かっていますから」 晃の説明の言葉は喉の奥でつかえたまま出てこなかった。まるで他人事のように振る舞う結衣の姿を前に、どうしようもない怒りが胸の奥からせり上がってくる。 分かっている?いったい何を分かっているというんだ。自分が彼女の中で占める位置は、それほどまでに軽いのか。ほかの女と噂になっても、一言の問いただしすらしないなんて。 昔の彼女はこんなんじゃなかった。いつから、こんなふうに変わってしまったんだ? 晃の表情は苛立ちに駆られたが、何に怒っているのか自分でも分からない。どこが噛み合っていないのかも掴めない。結衣の淡々とした受け流しに胸がさらに重くなり、用意していた弁明の言葉は跡形もなく消えた。 冷たくこわばり、晃は無意識のうちに拳を握りしめていた。声はますます氷のように冷え込んでいく。 「最近、対外の案件で不備が出ている。お前には資料の準備だけを頼むつもりだ。何を勘違いしている?自分を何様だと思っている?お前にそんな資格あるか?」 第7話 晃は胸のつかえをそのまま言葉に乗せ、わざと棘のある言い方で結衣を刺した。 だが、事の成りゆきは彼の予想を大きく外れていく。いつもなら結衣はきっと目を赤く潤ませて、「私、何か間違えた?」と不安げに問い、さらに晃の手を握りしめて「怒らないで」と必死に縋りついてきただろう。 けれど今の結衣は、声一つ震わせなかった。かつて晃が何より好んだやわらかな声色が、今はひどく耳障りに響く。 「あなたの言うとおりです。私にはそんな資格がありません。すぐに資料をまとめます。篠原社長、お先にどうぞ。あとでお持ちします」 結衣は伏し目がちに視線を落とし、滲む涙を必死に飲み込んだ。五年の想いと歩みの末に返ってきたのは――「お前にそんな資格あるか」の一言だった。 晃はその態度に胸の鼓動を荒立てられ、今すぐにでも「お前はいったいどうしたんだ」問いただしたいが、周囲の視線がじわじわと集まってくる。勤務中に私事を持ち込むつもりはない。結局、結衣を鋭くにらみつけただけで、踵を返してその場を離れた。 晃が去ると、結衣は黙々と資料をまとめはじめた。すると耳元で、押し殺したような嘲りの声が響く。 「これが分不相応な夢を見る女の末路よ。自分の立場もわきまえず、私と張り合おうだなんて」 顔を上げると、莉子が得意げにデスク脇へ立っていた。手には白いマグカップを抱え、ゆったりとコーヒーを口にしている。 それは結衣が買ったペアのマグカップだ。黒い方は晃のデスクに置かれ、彼はずっと愛用している。結衣の白い方は、周囲に気づかれぬよう自分の机の引き出しにしまい、仕事中にそっと眺めては力をもらっていたのだ。 目ざとい噂好きの同僚がすぐに気づき、信じられないといった声を上げた。 「莉子、そのマグカップ、社長のデスクにあるのとそっくりじゃないか?」 莉子はわざとらしく慌てたふりをして、瞳をぱちぱちさせながら甘えた声で言う。 「やだ、変なこと言わないで。私、今日カップを持ってくるの忘れちゃって、お兄ちゃんが私に使えって、くれたの」 言い終えると、莉子はわざとらしく挑むように一度結衣を見やった。結衣の背筋が、すっと冷たくなる。 自分が心を込めて選んだ贈り物は、あっさりと莉子の手へ。その瞬間、結衣はようやく悟った。晃の心に自分の居場所など、初めからなかったのだと。すべては、彼女の思い込みにすぎなかったのだと。 結衣の口の中にひどい苦味が広がり、手にした資料は鉛のように重く感じられた。周囲では、分かったようなひやかしが一斉に弾けた。 誰もが二人の仲を持ち上げ、莉子は頬を赤くし、もじもじと結衣へ向き直る。 「結衣、ごめんなさい。お兄ちゃんの代わりに謝るわ。怒らないでね。帰ったら、私がちゃんとお兄ちゃんを叱っておくから」 結衣は怒りで胃がひっくり返るような感覚に襲われた。身をかわし、莉子を避けた。資料だけでも届けてそのまま早退しようとする。 ところが、結衣が動こうとしたその瞬間、莉子がわざとらしく体を傾けて倒れかかってきた。結衣は反射的に手を伸ばして支えようとしたが、その拍子に莉子の手にあったマグカップが真っ逆さまに床へ落ちた。 マグカップは床に落ちた瞬間、粉々に砕け、破片が四方に飛び散った。結衣のすねに鋭い痛みが走り、見下ろせば、切り傷から赤い血がつっと流れ落ちている。 「きゃっ」莉子は短く叫ぶと、結衣を押しのけてしゃがみ込み、破片を拾いはじめた。声は今にも泣き出しそうに震える。 「結衣、あなたはお兄ちゃんのことで私を嫌ってるって分かってる。でも、これはお兄ちゃんがくれたプレゼントなのに、どうしてあなたが壊しちゃうの?ううっ……」 結衣は冷ややかに言い返す。 「私はマグカップに触っていない。倒れてきたのはあなたよ……」 そのとき、莉子の耳が聞き慣れた足音を拾う。彼女は結衣の言葉をさえぎり、涙で濡れた瞳を結衣に向け、唇を噛みしめながら震える声で言う。 「ごめんなさい、結衣。私がぶつかったの。私なんか、ここにいてあなたの邪魔をするべきじゃなかった」 結衣の胸の内は苦さと悔しさでかき乱され、周囲の空気が変わっていくことにも気づかなかった。莉子の謝罪に耳を貸す余裕もない。だが、気持ちを整える間もなく、耳元で晃の怒声が弾けた。 「水島結衣!」 第8話 周りで野次馬的に見ていた同僚たちは、晃の姿が現れるや否や、烈火のごとき上司の怒りに巻き込まれるのを恐れて、すっとその場を離れた。 結衣が顔を上げると、すでに莉子は晃の胸にすがりつき、いかにも心細げに身を寄せていた。晃は彼女の手を握りしめ、痛ましげに眉を寄せながら、その血を優しく拭ってやっている。そして非難のこもった視線を結衣に突きつけ、怒気をはらんだ声で言い放った。 「お前に、彼女にこんなことをする資格があるのか!」 結衣は床一面に散った破片を指し、晃の目をまっすぐ見返した。 「これ、あなたが贈ったの?」 晃は床一面に散らばったガラスの破片を見て、胸がぎゅっと締めつけられた。思わず弁解の言葉が喉まで出かかった。 だが結衣の冷ややかな視線がこちらに向けられたとき、晃はただ一瞥しただけで、取り合う様子もなく言う。 「問い詰めているのか?たかがマグカップ一つだろう。莉子にやったって、別にどうということはない。お前がそこまで莉子に敵意を向ける必要があるのか?」 結衣は何かに気づいたように小さくうなずき、独り言のように呟く。 「たしかに、もう必要ない」 晃は結衣の表情を目にした瞬間、胸の奥がどきりと鳴った。思わず莉子を放し、結衣に歩み寄って何か言おうとしてしまう。 けれど莉子は勢いよく晃の腰にしがみつき、顔を彼の胸に埋めて甘えるように言う。 「お兄ちゃん、結衣を怒らないで。悪いのは全部私なの。私のせいで、結衣ががあなたに怒ったんだわ」 晃は腕の中で顔を涙でぐしゃぐしゃにした莉子を見て、はっと我に返った。ためらうようにそっと抱き返し、背中を軽く叩いて宥める。 「莉子、お前のせいじゃない。全部、結衣のせいなんだ」 結衣は目の前でべったり寄り添う二人を冷ややかに見据え、晃の手に資料を押しつけようとした。 「篠原社長、これがご所望の資料です」 「結衣、莉子に謝れ。今回はもう庇わない」 結衣は少しもひるまない、踏み出して莉子を晃から引きはがすと、その隙に書類を二人の間へぐいと押し込んだ。 「謝るのは私ではありません。それに、今ケガをしました。午後は休ませていただきます。許可しないなら、解雇で結構です」 言い終えると、晃の怒りに歪んだ顔を見ようともせず、二人の横を抜けてオフィスを後にした。 晃は結衣の去っていく背中を食い入るように見つめ、その脚の傷に気づいた途端、無意識のうちに握る手に力を込めていた。莉子の肩は晃の指に痛いほど締めつけられたが、晃の注意が結衣に向かうのを恐れて声を上げられない。 莉子はこっそり自分の太ももをつねり、小さく甘い声を上げて晃の胸に身を預けた。 「お兄ちゃん、頭がくらくらするの」 晃の意識は結衣から引き戻され、蒼白な顔で今にも倒れそうな莉子の姿に目を奪われる。もう結衣のことを気にする余裕もなく、彼は慌てて彼女を横抱きにすると、そのまま扉の外へと向かった。 晃は莉子を抱えたまま足早に去り、先にその場を離れていた結衣は、いつの間にか追い抜かれて後ろに回った。結衣が扉を出たときには、外の同僚たちは晃の背中を見送りながらひそひそと噂していた。 軽蔑の色を隠そうともしない視線が、ためらいなく結衣へ注がれ、そのひそひそ声も、結衣の耳に届くほどにはっきり聞こえてきた。 第9話 「ほんと図々しい人っているわよね。わざとらしく取り繕って、晃を誘惑しようとしてさ。残念だけど、晃はそんなに甘くないわよ」 「聞いた? 彼女が異動になったの、篠原社長に下心を見透かされて嫌われたからなんだって」 「私なら、とっくに会社にいられないわ。よく平気でいられるわね。どれだけ厚かましいのよ。自分の分、わきまえなさいよ」 皮肉混じりの言葉は矢のように結衣の全身に突き刺さった。けれど彼女は一言も返さず、ただ静かに胸に刻み込む。そうでもしなければ、何度でも自分に言い聞かせられない――二度と振り返ってはならないのだと。 会社を出た結衣はそのまま病院へ向かった。胸の痛みはまるで形あるもののように押し寄せ、息もできないほどだった。病状が悪化したのではないかとさえ疑うほどに。 だが結果は異常なし。そこでようやく気づく。痛んでいるのは、打ち砕かれた自分の心なのだと。 帰り道、タクシーの後部座席で、窓の外の景色が後ろへ流れていくのを見つめる。涙はどれだけ拭っても乾かない。ならば、と結衣はもう拭うのをやめた。 スーツケースのファスナーを閉め、引きずって出ようとしたとき、玄関の扉が晃に開けられた。 入ってきた晃はその光景を目にすると、収まりきらなかった怒りがまた込み上げ、結衣の手首を乱暴に掴むと、憎々しげに言い放つ。 「結衣、無茶にも限りがある!」 結衣は必死に振りほどこうとしたが、かなわない。やがて抵抗をやめ、落ち着いた声で口を開く。 「晃、あなたと一緒にいたこの五年こそ、私の無茶だったわ」 晃の体がこわばり、視線が揺れたあと、鋭い眼差しで結衣を射抜くように睨みつけた。歯ぎしりするように言葉を吐き出す。 「お前、自分が何を言っているかわかっているのか」 結衣はうなずき、一語ずつ区切って告げる。 「莉子が戻ってきた。私たちも、もう終わりにすべきよ」 晃の目元はさらに冷え、声には警告めいた響きがにじむ。 「どういう意味だ」 結衣はふいに手を伸ばし、晃の寄った眉間をそっと撫でてならした。やわらかな声で言う。 「そんなに眉を寄せないで」 晃はほっと息をつき、張りつめていた体の力を緩めた。だが結衣は痛みも顧みず、渾身の力で一気に手首を晃の手から振りほどいた。 不意を突かれて掴み直そうとしたとき、結衣は二歩さがり、赤く腫れた手首を掲げて晃の目の前に突きつけた。声は淡々として、まるで自分とは無関係な出来事でも語るかのようだった。 「見て。あなたはいつだってそう。機嫌がいいときは子犬をあやすみたいに、二言三言でなだめて終わり。でも機嫌が悪ければ、私がどんなに傷ついていようと気にも留めず、ただ自分の思いどおりにしようとする」 晃の動きが止まる。胸の中の狼狽は膨れ上がり、ついには怒りさえ押し流してしまう。彼はあわてて口を開く。 「違うんだ、俺は……」 ――カチャリ。 ドアノブが回り、扉が開く。莉子が立っていた。肩には晃のジャケットを羽織っている。 結衣を見て、彼女はぎくりとしたように肩をすくめ、おずおずと頭を下げた。晃の姿を目にすると、まるで救いを見つけたかのように小走りで駆け寄り、その背後に身を隠す。そしておそるおそる声をかける。 「結衣、まだ私のこと怒ってる?」 結衣の視線は、莉子の手の中の鍵に止まる。思わず、ふっと笑いが漏れた。 ここに引っ越してきたとき、晃は言っていた。これは養父母が用意してくれた結婚の新居で、ここの鍵を持てるのはこの家の奥さんだけだ、と。 結衣がその鍵を手にするまで三年かかった。けれど莉子は、何の苦労もなく鍵を手に入れている。 もはや滑稽としか思えない。晃と言葉を交わす気も失せ、結衣は身を翻し、スーツケースを引いて出ていく。追いかけようと一歩踏み出した晃の裾を、莉子がぎゅっと掴み、心細げに言う。 「お兄ちゃん、置いていかないで。ひとりじゃ怖いの」