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シャンゼリゼの雪が止む日まで
葵(あおい)は想像もしていなかった。翻訳資格を取って最初に回ってきた仕事が、夫の加賀涼(かが りょう)がかつての初恋相手に送った、九十...
Chương (1)
第1章
葵(あおい)は想像もしていなかった。翻訳資格を取って最初に回ってきた仕事が、夫の加賀涼(かが りょう)がかつての初恋相手に送った、九十九通のラブレターを訳すことだなんて。
パソコンの画面には、感情があふれたフランス語が並んでいる。たった数枚の手紙なのに、その重さに、葵は手を持ち上げることさえできなかった。
涙がキーボードに落ちるたび、あの言葉が胸の奥でもう一度、焼けるように突き刺さった。
【優衣、どれだけ遠くにいても、夜空の月みたいにずっとお前を見守っていたい。
パリに初雪が降る日は、お前と歩いたシャンゼリゼ通りを思い出す。それだけで胸が熱くなる。
三年経ったら、絶対に帰ってきて。ずっと待ってるから】
今日は本当なら、涼と葵の結婚三周年の記念日だった。
そして、涼が莫大な費用をかけて招き入れた「チーフデザイナー」の正体は、 まさにあの荒木優衣(あらき ゆい)だった。
かつて、葵から海外留学のチャンスを奪い取った、あの女――
第1話
葵(あおい)は想像もしていなかった。翻訳資格を取って最初に回ってきた仕事が、夫の加賀涼(かが りょう)がかつての初恋相手に送った、九十九通のラブレターを訳すことだなんて。
パソコンの画面には、感情があふれたフランス語が並んでいる。それを読んでいるだけで、胸の奥がじんじん痛くなる。
涙がキーボードに落ちるたび、あの言葉が胸の奥でもう一度、焼けるように突き刺さった。
【優衣、どれだけ遠くにいても、夜空の月みたいにずっとお前を見守っていたい。
パリに初雪が降る日は、お前と歩いたシャンゼリゼ通りを思い出す。それだけで胸が熱くなる。
三年経ったら、絶対に帰ってきて。ずっと待ってるから】
今日は本当なら、涼と葵の結婚三周年の記念日だった。
だけど今、彼の心にいるのは大学時代、留学のチャンスも大切な人も全部奪った、因縁の女、荒木優衣(あらき ゆい)。
……
葵は胸の奥がぎゅっと締めつけられて、しばらく動けなかった。そのとき、錦戸遥(にしきど はるか)からビデオ通話がかかってきた。
「ねえ葵、加賀社長、最近ちょっと変わったんじゃない?」
遥の声はいつもみたいに明るかった。「空港で偶然会ったんだ。あんたが好きなケーキまで持ってたよ。
あれ?しかも花束まで。あの冷たい男が、ついにロマンチックなことするなんて。
今日、結婚三周年でしょ?ついに幸せ掴んだって感じじゃん!」
葵はぎこちなく笑うしかなかった。
遥は違和感に気づいたみたいで、何か言いかけたけど、突然画面の向こうで声が跳ね上がる。
「葵、見て!」
画面の向こうで、涼が優衣をしっかりと抱きしめていた。
普段ならネクタイが少しでも曲がっていればすぐに直すあの男が、今は高級スーツが女性の手でしっかり握られて皺ができても、全く気にしていなかった。
優衣の頬は、まるでバラの花束よりも鮮やかに染まっていた。
二人が離れるまで、まるで時間が止まったみたいだった。
遥は元々短気な性格。そのまま突っ込んでいき、涼の背中をパシッと叩いた。
「あら、加賀社長、偶然だね。浮気相手をそんなに堂々と抱いてて、葵の気持ち考えたことある?」
涼はゆっくり振り向いて、冷たい目で遥を見たが、全く動じていない。
そのまま優衣をしっかり守るように腕を回してた。「俺と葵のことに、他人が口を出すな。
優衣はこれから加賀グループのチーフデザイナーになる。
昔のことははっきりしてないんだから、勝手に決めつけるな」
「はっきりしてない?」遥は呆れたように笑って、スマホを涼の目の前に突き出す。「じゃあ加賀社長は、新人とそんなにベタベタしてて大丈夫なの?周りから見たら……」
遥は優衣をチラッと見て、鼻で笑う。「どう見ても浮気相手じゃん」
その言葉に、涼の表情が一気に険しくなった。
周囲からもざわめきが起きる。
涼は泣きそうな優衣を強く抱いて、立ち去る前にきっぱり言い捨てた。
「遥さん、今日の暴言のツケをきっちり払ってもらう」
遥は追いかけようとしたけれど、葵が小さな声で「やめて、遥」と制した。
画面越しに葵の目が赤くなっているのを見て、遥は焦って足をバタバタさせた。「葵、加賀涼なんて最低!あんた、本当ならあの留学のチャンスだってもらえてたのに、あいつがプロポーズしたから…全部狂ったじゃん!優衣のことも『ちゃんと片付ける』って言ってたくせに、これが処分?笑わせるよね!」
その言葉に、葵の胸がまたズキンと痛んだ。でも、逆に優しい声で答える。「大丈夫だよ、遥。自分でなんとかするから、心配しないで」
遥はそんな葵の様子に、ますます怒りと心配が入り混じった声になる。「学生の時から思ってたけど、あの二人絶対なんかあるって!涼と結婚してからも冷たかったくせに、今さら優衣が戻ってきたら、ますます怪しいでしょ。あんたもちゃんと見張ってなきゃダメだよ!」
葵は小さく「うん」とだけ返し、何度も「大丈夫」と繰り返したあと、ようやく遥はしぶしぶ通話を切った。
ソファに座り込んだまま、テーブルに広げたラブレターが、胸にじんじんと刺さるようだった。
三年かけて守ってきた結婚生活は、全部自分だけの思い込みだったのかもしれない。
思い返せば、翻訳資格を取ったのも、涼が「フランスから新しいデザイナーが来る」と言ったからだ。
役に立ちたくて、半年もフランス語を勉強した。
でも、やってきたのは――優衣。
葵はソファで小さく丸くなって、もう結婚記念日を祝う気持ちなんてどこかに消えてしまっていた。
大学を卒業する時、優衣は葵のデザイン案を盗み、フランス留学の留学枠まで奪っていった。
本当は、正々堂々と戦って、自分を証明したかった。でも、ずっと片想いだった涼が突然プロポーズしてきて、彼女のデザインまで製品にして「ちゃんと取り返してやる。優衣のことは絶対に許さない」なんて約束してくれた。
そのときは、夢みたいに嬉しくて、もう優衣のことを深く追及しようなんて気持ちは消えてしまった。
だけど、涼の「罰」っていうのは、優衣を一流のデザイン学院に入れて、熱いラブレターを九十九通も送る「三年契約」だった。
それって、誰を罰してたんだろう。
この瞬間、葵はもう自分に嘘をつけなかった。涼は最初から自分を愛していなかった。
あの日のプロポーズは、ただ優衣の問題を先延ばしにするためのものだった。
涙で視界がにじむ中、玄関のチャイムが鳴る。
ぼんやり立ち上がると、そこには高級家具の配達員が立っていた。
「奥さま、加賀様のご依頼で、古い家具をすべて入れ替えに参りました」
道を開けると、結婚のときに自分で選んだベージュのソファが運び出され、代わりに優衣が好きなピンク色のソファが運び込まれてきた。
さらには、ピンク色の特注スタインウェイのピアノまで。
思い出した。ラブレターの中に【お前が戻ってきたら、リビングにスタインウェイを置いて「愛の夢」を弾く】って書かれていた。
胸の奥がギュッと痛くなる。
涼は家の中の家具を全部取り替えて、壁の絵まで新しくしていた。
葵は思わず苦笑いを漏らした。
きっと、涼が本当に一番取り替えたかったのは、この「妻」という存在なんでしょう。
配達員が会計を済ませようとしたとき、葵は涼からもらったブラックカードを差し出した。
けれど、配達員は困ったような顔でカードを返してきた。「奥さま、このカードはもう無効になっています。加賀様はすでに国内の戸籍を抜けて、新しい名義でカードを作られて、古い権限はすべて解除されているようですが……そのこと、お聞きになってませんでしたか?」
葵は、頭が真っ白になって、その場に立っているのもやっとだった。
どうして……涼は、わざわざ戸籍まで抜いてしまったんだろう。
直感的に、きっと優衣が関係していると思った。
今までにないほどの疲れが全身を覆う。
見慣れたはずの家が、急によそよそしく感じて、もう、これ以上こんな愛のない結婚を守るのは無理だと悟った。
記念日のために用意していた食材を配達員に渡して、震える手で先輩にメッセージを送る。
【先輩、星野グループの海外常駐翻訳の仕事、引き受けます】
そのあと、もう一人に電話をかけた。
「直人(なおと)、離婚協議書を作ってほしい。それと、人をひとり調べてほしい」
第2話
電話の向こうからは、明らかに宴席のざわめきが聞こえた。しばらくして、宗谷直人(そうや なおと)の低い声がかすかに届く。
「離婚するのか?……本当に、それでいいのか?
お前はあいつのためにあれだけ尽くしてきたのに、いまだにあの『ホテルの件』を根に持ってるなんて……」
葵は口元を引きつらせ、苦笑いを浮かべた。
涼の頭の中は最初から優衣のことでいっぱいだ。葵と直人の間に流れた、ただの噂なんて、彼にとってはどうでもいいのだ。
「離婚協議書だけ作ってくれればいい。それから、あの約束は忘れないで。ずっと胸の内にしまっておいて。
あと、涼のこと、調べてほしい」
葵は目を上げてリビングを見渡す。ピンク色のソファが目に痛いほど派手で、思わず目を閉じて言った。
「本当に戸籍を抜いたかどうか、確かめて」
重い沈黙のあと、「分かった」と直人が短く返事をした。
電話を切ると、ちょうど先輩からメッセージが届いた。
【了解、半月後に入社だ】
返信を終えてから、葵は二階へ上がり荷物をまとめはじめた。
結婚して三年、涼は私に「加賀家の妻」としての立場だけは守らせてくれた。それだけで、この結婚が本当に永遠に続くような気がしていた。
でも、今なら分かる。あれはただのごまかしで、罪悪感からの気休めだったのだ。
やっと抑え込んだはずの痛みが、またじわじわと胸に広がっていく。
ジュエリーや高級ドレスを全部まとめて箱に詰めて、フリマアプリに出そうと決める。
大きな箱を抱えて一階に降りたとき、リビングの光景に足が止まった。
優衣が、あの派手なピンク色のソファに悠々と座り、葵の新しいシルクのスリッパを片足で踏みつけながら、切り分けたケーキをつまんでいる。
その目の前で涼が膝をついて、優衣の擦りむいた足首に優しく薬を塗っていた。
「動かないで。痛い?」
涼のその一言を聞いた瞬間、葵の目に涙がにじむ。
慌てて顔を伏せて、その感情をごまかすしかなかった。
かつて二人にも、こういう穏やかな日々があった。
涼がまだ加賀家の跡取りなんて呼ばれていなかった頃、彼はいつも孤独と敵意にさらされていた。
他人には近づくなという顔つきだったけれど、葵が児童養護施設の男性職員に隅に追い詰められた時は、顔を真っ赤にして助けてくれた。手を引いて寒い廊下を一緒に駆け抜けてくれた。
涼の母が残したボロアパートで、二人きりで三年間、肩を寄せ合って生きてきた。
涼はよく、自分のBluetoothイヤホンを片方だけ分けてくれた。一緒に心をかき乱すような失恋ソングを聴きながら、ただじっと夜を越えた。
大学の研究室で火事があったときも、背中を焼かれる危険を顧みず、パニックの葵をおぶって外に運んでくれた。
そして、初めて唇に落としたキスのあと、涼は耳まで真っ赤になりながら、まっすぐに誓った。
「葵、ずっと二人でいような」
でも、優衣が現れてから、すべてが変わってしまった。
優衣は荒木家に決まっていた養子縁組を横取りしただけでなく、今度は涼まで奪おうと動き出した。
涼が不良グループと喧嘩しているとき、決まって女神みたいに飛び込んで、「やめて!警察呼ぶよ!」と叫ぶのはいつも優衣だった。
先生が涼を「隠し子」と軽蔑し、スピーチ大会の出場資格を奪ったときも、「先生、それは不公平です」と堂々と抗議した。
まるでドラマのヒロインみたいに、救いの手を差し伸べては、どんどん涼の世界に入り込んでいった。
そして、涼が加賀家に迎えられる直前、優衣は突然、葵と直人がホテルから出てくる写真を持ち出してきた。
撮り方があまりにも悪意に満ちていて、まるで二人が親密に見えるように仕組まれていた。
涼はそれを見るなり、冷たく鼻で笑い、ポケットに隠していたプロポーズ用の指輪をポイッと放り投げ、優衣の隣へ歩いていった。
その後、葵は自分の目で優衣が不良グループのリーダーと親しげにしているのを見かけて、心配して涼に伝えた。
けれど涼は、冷ややかに言い放つ。
「葵、優衣はお前とは違う。お前の嫉妬心で人を疑うな」
その一言で、優衣はますます強気になった。
児童養護施設時代の手口を、そのまま大人の世界にも持ち込んでくる。
せっかくできた葵の友達を横取りし、母が残してくれた形見のペンダントまで盗んでいった。
涼はそのことも、まるでどうでもいいことのように言った。
「ただのペンダントだろ。優衣が欲しいならやればいいじゃないか。
三年も……お前の面倒をみた分の対価だと思えばいいじゃないか」
その冷たくて意地悪な言葉は、何度も葵のプライドを切り刻んだ。
もしかしたら涼は、もうあの頃の純粋な気持ちなんて忘れてしまったのかもしれない。
でも、こんな結婚という形で、彼女を三年間も縛りつけられてきた。
涼からプロポーズされたあの日、全部罠だと分かっていても、結局、断りきれなかった自分が悔しい。
「あら、葵、降りてきたんだ」
優衣の甘ったるい声が、葵を現実に引き戻す。
涼は冷たい目を向けて一言。
「友達に俺をつけ回させるのはやめろ。次は許さないからな」
心臓がドクンと跳ねる。
遥のことを「つけ回し」だと思い込んでるんだ。
「今回は軽く済ませてやったけど、次はないと思え」
言い終わるや否や、スマホが一斉に鳴り始めた。
画面を開くと、血の気が引いた。
SNSのタイムラインに、遥のプライベートな写真が拡散されている。
【おお、錦戸さんは、性格だけじゃなくてスタイルも最高だな。今夜どう?】
【遥ちゃん、深夜にサービスありがとう】
目を背けたくなるようなコメントが次々とついていく。
怒りで体が震える。「涼、遥は仕事で出張してただけ。空港で偶然会っただけなんだから!
私たちのことで、彼女を巻き込まないで。今すぐ写真を消して!」
涼は何事もないように立ち上がり、優衣の隣に座ると眉をひそめた。「本当につけ回してないなら、どうして空港のことを知ってたんだ?」
優衣はケーキを小さく切って涼に差し出し、甘えた声を出す。「ねえ、涼、見て。葵が泣きそうになってるよ。
彼女、友達いないから、やっとできた友達が遥だけなんだし、それなら……
謝ってもらえば、写真くらい消してあげてもいいけど……」
葵は拳を握りしめて、強い口調で言った。「優衣、遥は何も悪くない」
優衣はすぐに胸に手を当てて、涼の胸元に身を投げかける。涙ぐんだふりをしながら。
「涼、葵はまだ三年前のこと根に持ってるの?もう十分罰は受けたはずだよ」
涼は優衣の肩を抱いたまま、苛立ちを隠そうともしないまなざしで葵を見つめる。
「優衣は三年も海外にいたんだ。それで十分だろう」
その理不尽さに、葵は思わず笑ってしまう。
ぐっとこらえて、静かに尋ねる。「……で?写真を消してもらうには、どうすればいいの?」
優衣がすぐに口を挟む。「それは葵次第よ。涼が私に主寝室を用意してくれたんだけど、潔癖症だからベッドまわり全部きれいにしてほしいの」
優衣が新品のピンク色の寝具を指さし、挑戦的な笑みを浮かべる。
葵は涼の顔を見たが、男はいつものように優衣に甘い。
自分でも呆れるほど苦笑いを浮かべて、彼女は掃除道具を手に取ると、そのまま階段を上がっていった。
下の階から時折止まりながらも続くピアノの音が聞こえてくる。「愛の夢」だった。
葵はそっと目を閉じ、旋律が心を切り裂くまま身を委ねる。
どれだけ痛くても、もう自分の手で涼を心から切り離そうと決めていた。
掃除を終えてリビングに降りると、ちょうど涼が優衣を抱き上げて階段を上っていくところだった。
彼は、抱いている人を起こさないように声をひそめた。「優衣は疲れてる。話があるなら、目が覚めてからにしてくれ」
葵は深く息を吸い、涼のワイシャツについた口紅の跡を見ないふりをして言う。
「写真を消して。じゃなきゃ、今すぐ警察に通報する」
第3話
涼の目が鋭くなり、冷たい視線が葵に突き刺さる。
「やってみれば?」
その無情な言葉に、葵の心は一気に冷え込んだ。
「遥があんなことを言ったのは私のせい。罰でも何でも、全部私にぶつけて」
涼は葵の腫れた目元に気づき、ほんの一瞬だけ睫毛が震える。少しだけ声が柔らかくなる。
「優衣の評判は会社の利益にも関わる。俺たちにやましいことはないし、優衣は心臓の手術をしたばかりだ。余計なストレスを与えないでくれ。
写真は明日の朝には消す。ただし、お前の友達がこれ以上優衣の悪口を言うのは許さない」
その言葉が終わらないうちに、涼の腕の中で眠っていたはずの優衣が甘えるように呟いた。「ねえ、あなた、眠い……」
涼は眉をひそめる。
葵は皮肉っぽく口元で笑った。「涼、私たち、離婚しましょう」
涼が返事をする前に、優衣が突然身を起こし、手をパチンと合わせて喜びを隠そうともしない。「ね、涼!やっぱり私の言った通りだったでしょ?涼が私を連れて帰れば、葵は絶対離婚を言い出すって。
これで私の勝ち。約束通り、同窓会に一緒に行ってね!」
涼は素直に彼女とハイタッチし、優しく前髪を整えてやる。「分かったよ」
涼は、今日が自分と葵の結婚三周年だということさえ、すっかり忘れていた。
葵はそのまま背を向けて歩き出した時、涼の冷たい声が背中を刺す。「葵、俺がサインしない限り、お前は永遠に俺の妻だ。
くだらない書類なんか持ってきても無駄だ。俺は騙されない。
大人しく俺の妻をやってろ。もうこれ以上騒ぐな」
胸の奥を針で刺されたような痛みが走る。
「私は騒いでなんかない」
そう言い返す気力もなく、葵はただ部屋に入った。
スマホが震え、遥からメッセージが届く。
【葵、私の体ならどう見られても平気だよ。絶対負けるな】
親友の強気な一言に、つい涙がこぼれて画面を濡らす。
大丈夫、もうすぐこの家とも、涼ともお別れできる。
これからは、誰にも自分の大切な人を傷つけさせない。
半分眠りかけていると、ふとベッドが沈む気配がした。誰かの大きくて温かい手が、優しく葵の頬の涙をぬぐっていく。
そんなはずはない。
あの冷たい涼が、もう自分の隣で眠ることなんて何年もなかった。
朝になれば、案の定、隣には誰もいない。
枕元には、静かに一枚のハンカチが置かれていた。紺色で、その色合いは涼がよく締めていたネクタイとそっくりだった。
葵は、どうしてここにこのハンカチがあるのか思い出せなかったが、もうどうでもいいとばかりに、手を伸ばして遠くへ放り投げた。
昨夜のことが気になり、すぐにスマホを開くと、遥の写真はきれいに消えていた。
支度を済ませて下の階に降りると、涼がキッチンから焼きたての目玉焼きを運んでいるところだった。
優衣は明るく手を振る。「葵、見て!涼が作った目玉焼き、すっごくきれい!
でもね、10個も失敗してやっと私の理想の形にしてくれたの。涼って本当に不器用だよね。
葵のためにも、こうやって朝ごはん作ってあげてたの?」
料理なんて一度もしたことがない涼は、火傷した手の甲を何気ないふりで隠しながら、軽く笑った。
「今までは家政婦が全部やってくれてたからな。本当に、お前みたいなワガママは手がかかるよ。葵はこんなにうるさくなかったのに」
こんなに穏やかな涼の姿、もうどれだけ見ていなかっただろう。
葵は下を向き、強く手のひらを握りしめて気持ちを押し込める。
優衣の皿には完璧なハート型の目玉焼き。自分の皿には失敗して焦げたもの。
急に食欲がなくなって、席を立とうとすると、優衣が呼び止めた。「葵、今日の同窓会、一緒に行かない?」
すぐに断ろうとした瞬間、優衣の目がキラリと光って、わざと付け加える。「直人も来るんだって」
葵は一瞬だけ動きを止める。
それならちょうどいい。これで、彼女が欲しかったものが手に入る。
その刹那、涼の顔がみるみる暗くなり、冷たい声が響いた。
「これからは、もう優衣のことを断ったりしないでほしい」
そう言って、涼は優衣に熱いミルクを手渡し、声を和らげる。
「優衣、前から学校にもう一度行きたいって言ってただろ?俺が一緒に行ってやるよ」
やっぱり、全部優衣のためだった。
また自分だけが勝手に期待していたのか、と葵は苦い笑みを浮かべた。てっきり直人のことを気にして、涼が焼きもちを妬いてくれているのかと思っていたのに。
そのとき、スマホが鳴った。
相手は直人だった。
ちょうど立ち上がった涼が画面を見て、不機嫌そうに椅子に座り直す。
椅子の脚が床にこすれて、不穏な音が響いた。
葵は気にせず、階段を上がりながら電話を取る。「もしもし、直人……」
言い終える前に、突然、何かが頭上をかすめた。
真っ白なマグカップが葵の頬をかすめて、床で激しく砕ける。
飛び散ったガラス片が足に刺さり、じわりと血がにじんでくる。
呆然として振り向くと、涼はカップを投げた姿勢のまま立ち尽くしていた。
葵の足元の血を見て、一瞬だけ動きを止めたが、すぐに顔を背けて言い捨てた。「優衣の食事を邪魔するな。うるさいんだよ」
葵はゆっくり前を向き、心がバラバラになるのを必死にこらえながら、血のにじむ足を引きずって、一歩一歩、階段を上がっていった。
背後から二人の声が聞こえてくる。
「涼、葵血が出てるかも……」
「気にするな。それぐらいで死にやしない」
ついに涙がこぼれた。
そっとスマホを耳に当てると、直人の焦った声が響いた。「葵、大丈夫か?
もう離婚協議書はいらない。俺、調べたんだけど……」
第4話
「涼は一年前に国内の戸籍を抜いて、フランスの戸籍で優衣と向こうで籍を入れてたらしい。
それで国内に戸籍がないから、俺が代わりに離婚を申請しておいた。七日後には正式に離婚が成立する。
ただ、最近また国内の戸籍を再発行してるみたいだから、手続きが止まると自動的に婚姻が元通りになってしまう」
パキン――
手が滑ってスマホを床に落とすと、画面に細かいヒビが一気に広がった。まるで今の葵の心が、そのまま形になったみたいだった。
葵は壁にもたれかかり、そのままゆっくり床に座り込んだ。周囲のすべての音が消え去ったようで、ただ茫然と目を開けていた。
全身を覆い尽くすような痛みで、息をするたびに胸がズキズキと痛んだ。
涼が戸籍まで抜けたのは、優衣と堂々と再婚するためだったんだ。
なんて、バカみたい。
つい昨日まで、自分は台所で不器用に三周年の記念ディナーを作っていたのに。
思えば、家具を全部入れ替えたのもそのせいだったんだ。自分が選んだソファも、壁に飾った手描きの絵も、全部、あっさり消されていた。
結局、この家で余計なのは自分だったんだ。
涼が自分をここまで徹底的に裏切っていたなんて。
しばらくして、葵はゆっくりと立ち上がった。
足の甲に残る血の跡は、すっかり乾いて暗い赤に変わっていた。それはまるで、二人で歩いてきた八年の月日みたいに、最後には、何も残らない荒れ野のようだった。
スマホを手に取ると、SNSに涼が写真を投稿しているのが目に入った。
普段めったにSNSを更新しない涼が、まさかの九枚も投稿していた。
そこには、優衣と一緒に母校近くの屋台で食事をしている写真が映っている。
普段ならレストランの照明がちょっと明るすぎるだけで眉をひそめる涼が、今は優衣のために、顔をほころばせながら小皿のエビを一匹ずつ丁寧に殻をむいていた。
高級スーツの彼と、油じみたテーブルクロス。まるで世界が違うはずなのに、隣で笑う優衣がいるだけで、路地裏の大衆食堂もどこか温かな場所に見えた。
葵は指先が真っ白になるほど手に力が入るのを感じた。
思い返せば、何度も涼に「もう一度、学生時代みたいに学校の近くの屋台に行きたい」って話したことがあった。
「屋台の焼きそばは、辛さを二倍にしてもらわないと物足りない」なんて、何度もねだってみた。
でも、あの頃の涼は書類の山から顔を上げて、うんざりしたようにこう言ったものだ。
「そんなところ、何が楽しいんだ?今のお前は加賀家の奥さんなんだぞ。あんな場所、似合うと思うか?」
今なら、やっと分かる。
彼が一緒に思い出を重ねたい相手は、最初から自分じゃなかった。
葵は、そっとその写真に【いいね】を押した。
夜になっても、涼と優衣はまだ帰ってこなかった。それなのに、二人の名前はすでに話題ランキングを賑わせていた。
【加賀グループの社長、車内で新恋人とキス――そのままホテルへ】
【浮気相手は謎のARタトゥー美女】
画像はぼやけているが、涼の隣で彼に抱きつく女性の鎖骨にはっきりと「AR」のタトゥー。
誰が見ても優衣だと分かる。
胸の奥がちくりと痛むが、葵は画面を静かに閉じた。
バンッ――
突然、ドアが激しく開く音。
考える暇もなく、涼に手首を掴まれた。その力は骨がきしむほどで、痛みに思わず叫ぶ。
「何するのよ!?涼!離して!」
涼は無表情のまま、一言も発しなかった。
葵が必死に抵抗すると、涼は黙って彼女を抱き上げて、そのまま外に停めてあった送迎車へと押し込んだ。
車内でも、彼はなおも葵を強く抱きしめ、まるで自分の一部にしてしまいたいかのように、絶対に手を離そうとしなかった。
葵は、強く目を閉じた。もう、この別人のような男の顔なんて、見たくなかった。
そのとき、涼が突然彼女の顎を掴み、黒い瞳でじっと睨みつけてくる。「葵、お前、自分がどんな立場か分かってるのか?
こんなことになってるのに、一言ぐらい何か言えないのか?本当に、俺のことなんてどうでもいいのか?」
葵は、意地でも涼の視線を受け止め、唇をきつく結んだまま、一言も返さなかった。
でも、心の中では冷たく笑っていた。
何を聞けっていうの?「優衣とホテルに行ったの?」って?
「そのタトゥーは、二人の愛の証なの?」って?
そんなの、答えなんてもう分かってる。
葵はもう、二人が幸せになるなら、それでいいと思ったのに。それでもまだ、何が不満なんだろう。
ぼんやりしていると、涼の喉から微かなため息が漏れるのが聞こえた気がした。
車はやがて、高級そうなタトゥーショップの前で止まった。
涼に強く腕を引かれて店内に入ると、葵の目にまず飛び込んできたのは、優衣が椅子に座り、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、鎖骨のタトゥーを必死に消している姿だった。
痛みに体を震わせている優衣を見た瞬間、葵の胸には強烈な不安がこみ上げてくる。
思わず涼の手を振りほどき、そのまま外へ駆け出した。
けれど、ちょうど出口にさしかかったところで、黒服のボディーガードたちに行く手をふさがれてしまう。
そのとき、背後から涼の冷たい声が響いた。
「……連れてこい」
両脇を抑えられて椅子に縛り付けられ、逃げることもできない。
涼はタトゥーアーティストに命じる。
「同じ場所に、同じイニシャルを、彼女にも入れてくれ」
そう言うと、葵の髪をそっと耳にかけて、なぜか優しささえ感じる声で囁く。
「大丈夫、すぐ終わるから」
葵は涼をにらみつけて叫んだ。「涼、私は身を引くから!優衣を加賀家の奥さんにすればいいじゃない。だから、お願い、私を放して!」
どの言葉が彼の怒りを買ったのか、涼は突然、氷のような声で吐き捨てた。
「そんなこと、絶対にさせるものか!」
そう言うと、涼はくるりと背を向けて優衣のもとへ向かい、そっとハンカチを取り出して彼女の額の汗をぬぐってやる。「タトゥーなんて二度と入れるなよ。見てるだけでこっちまで痛くなる」
タトゥーの針が鋭く肌に突き刺さった瞬間、葵は絶望のあまり、そっと目を閉じた。
生理的に涙がこらえきれず、頬を伝って流れ落ちていく。
涼、どうしてこんなことを――
涼と優衣の「愛の証」みたいなアルファベットを、自分の身体に無理やり刻みつけるなんて。
屈辱、怒り、悔しさ……ありとあらゆる感情が、鋭い刃物のように心をズタズタに切り裂いていく。
そして、その瞬間、涼への最後の未練も、かすかな想いも、全部がぷつりと途切れ、心の中は静まり返った。
あの火事の中で私を背負って逃げ出した少年も、「一生一緒にいる」って言ってくれたあの人も、もうとっくに時の流れに消えてしまったんだ。
でも――まさか、涼がさらに酷いことをするなんて、思いもしなかった。
第5話
記者会見場で、涼の腕にしっかり抱き寄せられたまま、葵はまるで操り人形のようだった。
隣には高級ドレスを纏った優衣。完璧なメイクで微笑んでいる。
涼はマイクを受け取ると、余裕のある笑みで話し始めた。「この機会を借りて、ネット上の噂についてきちんと説明させていただきます」
カメラのフラッシュが一斉に光り、眩しさに目を細める。
その視線の中、葵の鎖骨に刻まれた「AR」のタトゥーがはっきりと映り込んでいた。
ネットに出回った写真とまったく同じ図柄。
もう、疑いの余地すら残っていない。
涼の手が腰に沿って滑り、次の瞬間、ぐっと力強く抱き寄せられる。
胃の奥がムカムカするほど嫌悪感がこみ上げてきて、必死に耐えてその腕を振り払わないままグッとこらえた。
「先日、あれは妻と自分の間に起きた誤解で……感情を抑えきれなかっただけです。どうか無実の人を責めないでください」
そう言いながら涼は優衣の方を見やり、さりげなく紹介する。
「こちらが加賀グループの新しいチーフデザイナー、荒木優衣さんです。
新たな仲間が加わり、加賀グループはさらに発展します。これからも期待してください」
拍手の中で、涼は巧みに浮気疑惑を企業アピールの場へすり替えてしまう。すべてが計算通り。
やがて記者から質問が飛ぶ。
「奥さま、そのタトゥーには特別な意味がありますか?ご夫婦のラブラブなエピソードをぜひ!」
葵は奥歯をぎゅっと噛みしめ、口元に浮かびそうになった冷たい笑いを必死でこらえた。
その隣で、涼はいかにも仲の良い夫婦を演じるように葵の肩を引き寄せ、カメラに向かって甘い笑顔を見せる。
「これは、俺たちだけの秘密です。
ラブラブな思い出ですか……」
涼は少し身をかがめ、葵の鎖骨のタトゥーにそっとキスを落とす。顔を上げると、記者たちにいたずらっぽく笑いかけた。「これなんか、どうですか?」
葵の顔は一瞬で真っ青になり、生理的な嫌悪が全身を駆け抜けた。
一体、涼は今誰にキスしてるつもりなの!?
フラッシュの嵐の中で、自分の人生が全部さらけ出されていく気がした。
その日のうちに、【加賀涼が妻のタトゥーにキス】という写真が芸能ニュースを独占した。どの見出しも愛妻家だの、一途な男だの――笑うしかない。
洗面所で一人、扉越しに記者たちの笑い声が聞こえる。
「正妻、忍耐強すぎでしょ。あの写真の女、髪の長さも全然違うのに」
「金持ちの家ってみんなそうだよね。見てみろよ、正妻は顔色悪いし、デザイナーの方は幸せオーラ全開。誰がどう見ても答え出てるじゃん」
葵は手のひらをきつく握りしめた。
でも、もう少しの辛抱だ。もうすぐ全部終わる。
会見のあと、涼は夫婦円満アピールのため、彼女をジュエリーのオークションに連れて行った。
どのジュエリーを見ても、葵が一瞬でも目を止めると、涼は「1億」と手を上げる。
あらかじめ手配されていたマスコミ各社は、すぐさま記事をアップした。【加賀グループの社長、超一流の愛のサプライズ――言葉にしなくても、すべてが愛だった】
帰りの車で、涼は自分の上着をそっとかけ、鎖骨のタトゥーを指先でなぞった。
「葵、このままずっと俺の妻でいてくれ。他の誰にも、その座は譲らせない」
葵は涼の手をそっと避けて、窓を少しだけ開け、冷たい風で強い香水の匂いを吹き飛ばした。
見事な芝居だ。
全部、別の女の「お膳立て」だったくせに。
夜の同窓会、葵は遥と隅っこの席に座った。
変わらず明るい遥の顔を見ていると、少しだけ罪悪感が和らいだ。
「遥、ごめ……」
「ダメ!」遥が素早く口をふさぐ。「謝るの禁止。あの二人にまた会ったら、私、絶対に叩きのめすから!」
葵はやっと笑顔を返し、そっと耳元で離婚の経緯とこれからの計画を打ち明けた。
遥はその話を聞いた途端、手にしていたグラスを思い切り床に叩きつけて割ってしまった。怒りのまなざしで、優衣をかばいながら酒を断っている涼を睨みつけると、勢いよく葵をぎゅっと抱きしめた。
「おめでとう、やっと地獄から解放だね!」
ふたりでしばらくお酒を飲み、そのあと葵はトイレに立った。
ちょうど焼き台の炭を交換するところに出くわした。
アルバイトの店員がトングをうまく使えず、真っ赤な炭を思いきり葵の方に落としてしまう。
「葵!」
涼の叫び声には、これまで聞いたことのないほどの焦りが滲んでいた。
だが彼が立ち上がるより早く、優衣が素早く手を伸ばし、力任せに葵を突き飛ばした。
体ごとシャンパンタワーに倒れ込み、ガラスが粉々に砕け散る音。
熱々の炭が優衣の足に直撃し、瞬く間に水ぶくれができる。
葵の腕も切れて、血がどんどん流れ出す。
それでも何とか立ち上がると、視界の先に直人の顔が見えた。
彼は驚きと怒りが入り混じった顔で駆け寄ろうとする。
「優衣!」
涼の冷たい声が会場に響き、全てを遮った。
彼は葵を見向きもせず、苦しむ優衣だけを抱き上げてそのまま会場を出ていく。
残された同級生たちは、誰もが哀れみや同情、そしてちょっとした好奇心の目を向けてくる。
葵は自分の腕を見下ろし、真っ赤な血が流れるのをただぼんやりと眺めていた。
この痛みを、ずっと忘れないようにしよう。
もう二度と、涼を愛したりしない。
遥が駆け寄ってきて、倒れそうな葵を支えながら叫ぶ。
「どう見ても、優衣はわざとだと!人助けするって言いながらシャンパンタワーに突き飛ばすなんてありえない。
こういうの、何て言うんだっけ?……ああ、『自作自演』ってやつ!
涼の頭、どこに置いてきたの?あんな分かりやすい『あざと女』すら見抜けないなんて!」
葵の心は、逆に静かだった。
航空券ももう手配した。あとはこの一週間が、早く終わってくれればそれでいい。
病院で傷口の処置を終え、家に帰る。
ゲストルームのドアを開けると、そこには涼の使っていたノートパソコンが置かれていた。
その横を通りかかった瞬間、画面が突然明るくなった。
涼のLINEの同期通知が、画面いっぱいに表示されていた。
その内容を目にした瞬間、葵の世界はまた大きく揺れ始めた。
第6話
パソコンの画面に表示されたのは、涼の幼なじみの相馬健(そうま たける)とのLINEだった。
相馬家は雲城市で顔が利く医薬業界の名家。
【涼、お前もやるなあ。送ってきた綿棒のサンプル、星野家と照合したら本当に葵さんが星野家の二十五年前に失踪した娘だったよ。
星野グループの本当の令嬢か。お前のこの一手、さすがだよ。
優衣さんのために、葵さんが本当の家族と再会する機会を手放したなんて、俺も思わず感心したよ。ほんとに大した色男だな】
涼はすぐ返信した。
【このことは絶対、第三者に知られるな。葵は俺の妻で十分だし、優衣には星野家のお嬢様って肩書きが必要だ。
それに、優衣が葵のネックレスをつけていなければ、星野家に気付かれることもなかった。葵はそのままずっと、本当の家族と出会えなかったはずだ】
葵は心臓が氷の中に閉じ込められたみたいに、ひとつひとつの鼓動がズキズキと痛んだ。
思い出すのは、優衣が戻ってくる前夜のこと。いつも自分を遠ざけていた涼が、その夜だけはなぜか急に優しかった。
強く、激しくキスされて、最後には唇を噛まれた。
そのあと、何度も「ごめん」と言いながら、消毒液をつけた綿棒で口元の血を拭ってくれた。
あのときは、久しぶりの優しさに希望を持ちかけていた自分がいた。
けれど今なら分かる。あれは、葵のDNAサンプルを手に入れるための演技だったのだ。
涼は自分を愛してなんかなかった。だったら、せめてきれいに別れて、自分の人生を取り戻そうと思っていたのに。
今や、心の奥からわき上がる憎しみが、自分でも抑えきれないほど大きくなっていく。
さらにLINEのやりとりは続く。
【それにしても、お前は一度戸籍を抜いて、優衣と婚姻届を出したけど、星野家にバレたらどうするつもりだ?本物の娘が既婚だと知ったら、葵さんと別れさせられるかもよ?】
【優衣と籍を入れたのは、彼女が心臓の手術で家族のサインが必要だったからだ。
優衣とは離婚することになってる。あと一週間で元通りになる予定だ。この間、葵が離婚申請を出さなければ自動的に婚姻は復活する】
【……涼、お前、いったい誰を本当に愛してるんだ?】
【結婚してる相手を愛してるに決まってるだろ】
【?】
その瞬間、パソコンの画面が暗くなった。
涼は知らない。葵がすでに離婚申請を提出していた。
本当の家族に再会できる、そのチャンスを――
どうして彼は、「加賀家の妻」という名ばかりの肩書きさえあれば、葵が本当の家族を探すことを諦めるって、思い込んでいたんだろう?
どうして優衣は、何度も何度も、自分のものを奪っていくの?
今度はとうとう、自分の「本当の家族」まで奪おうとしているなんて。
もう、これ以上は黙って見ているつもりはなかった。
葵はすぐに伝手を頼って、星野家と連絡を取った。
事情を説明すると、先方はすぐに動いてくれて、DNA鑑定のためのサンプルも引き取りに来てくれた。三日以内に結果が出ると約束してくれた。
その頃、優衣のSNSには新しい投稿があがった。
載っていたのはモザイクがかかったDNA鑑定書の写真と、泣き顔や手を合わせるスタンプ。
【二十五年ぶりに家族が見つかったこの感動……
児童養護施設育ちから、ついに本物のお嬢様になれた。まさに人生の逆転だよね】
コメント欄の一番上には、涼のコメントが表示されていた。【おめでとう】
そのたった一言に、葵の心臓は何度も小さく裂かれた。
もしあのLINEを見ていなかったら、一生だまされたまま、家族を見つけるチャンスすら奪われていたかもしれない。
夢にまで見た本当の家族。今はきっと、優衣のことを娘として大切に抱きしめているかもしれない。そのことを考えたら、自然と目頭が熱くなった。
でも、星野家の人が電話口で言ったあの言葉「もし優衣が偽物なら、必ず責任を取らせます」それを思い出して、気持ちを落ち着かせる。
何度も私のものを奪ってきた優衣。
今度は、思い知らせてあげる。
この二日間、涼は一度も家に帰ってこなかった。
一方で優衣は、SNSに涼が自分の足に薬を塗ってくれる写真ばかり投稿していた。
【この人さえいれば、何だって乗り越えられる】
そんなコメントも添えられていたが、葵の心は何も動かなかった。
午後、葵は区役所で離婚届の受理証明を受け取った。胸の奥に重くのしかかっていたものが、ようやく消えた気がした。
家の前まで戻ると、まだ暗証番号も押していないのにドアが開いた。
そこにいたのは涼。
彼は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに目を逸らし、包帯が巻かれた葵の腕と、手に持った書類に視線を落とす。
彼の瞳が一瞬で鋭くなった。「その手に持ってるのは、何だ?」
第7話
まだ葵が口を開く前に、優衣が小走りで駆け寄ってきて、彼女の腕をぎゅっと抱きしめた。
「葵、ねえ祝福してよ!私、ついに本当の両親が見つかったの!」
優衣の長い爪がちょうど葵の傷口を押さえつけ、思わず手を引っ込めてしまう。
その様子を見て、優衣は目元を赤く潤ませた。
「葵、もしかしてこの前私が突き飛ばしたの、まだ怒ってるの?あれ、本当にわざとじゃないんだよ。あのとき、葵が火傷しないように必死で……」
その一言で、涼の視線が手元の書類から優衣に移る。
涼は眉をひそめて言った。「葵、しばらく優衣のこと頼む。俺、ちょっと出かけてくる」
優衣は葵の手を握ったまま、わざと親しげに声を潜める。
「ねえ葵、気にしないでね?実は生理が来ちゃって……涼に買い物頼んだの」
その手をそっと振りほどき、葵は冷ややかに口元を歪めた。
「もういいよ。誰も見てないんだから、そういうのやめなよ」
優衣の顔から作り物の笑顔が消え、代わりに冷たい皮肉の笑みが浮かぶ。「葵、旦那を取られて悔しいんだ?」
葵は無言で離婚届の受理証明を軽く振ってみせる。
「好きにしたら?」
そう言って階段を上ろうとした瞬間、優衣が素早く追いかけてきて、声に毒をにじませる。
「タトゥー、痛かったでしょ?あれ、本当はシールでごまかせばよかったのに、涼が『本物じゃないとネット民にバレるから』って、わざわざ本物を入れさせたんだよ。
デザイン大賞のためにね、徹底してるでしょ?」
心が締め付けられるような痛みが走る。葵は手のひらに爪を立てて、必死に自分を落ち着かせた。
その顔を見て、優衣は満足げに薄ら笑いを浮かべる。
「そうそう、言い忘れてたけど……私の本当の両親、雲城市一の大富豪の星野家なんだよね。ねえ、もし星野家に昔、児童養護施設で葵が私のごはん奪った、いじめられてたなんて話したら、どうなると思う?」
きっと星野家の人たちが葵を嫌う場面を想像したのだろう。優衣はすっかり興奮して、目を異様なほど輝かせていた。
「ねえ葵、どうしてこんなにダメなの?
荒木家が児童養護施設に来たとき、選ばれたのは私。涼と最初に出会ったのもあんただけど、私が手招きすれば、あの人はすぐこっちに来る。
そうだ、もうひとつ教えてあげる。葵と直人のあの噂、広めたのも私だから」
パチン――
乾いた音が響いた。
葵はただ黙って、優衣が自分の顔をビンタした瞬間を見つめていた。
さっきまでの攻撃的な表情が、途端に泣き顔に変わる。そのままふらりと倒れこみ、ちょうど戻ってきた涼の胸に倒れ込んだ。
「葵、ごめんね……私、直人の話なんて出すべきじゃなかったよね……」
「直人」の名前が出た瞬間、涼の顔が一気に険しくなった。
涼は手に持っていた買い物袋を、容赦なく葵の体に叩きつけた。その目は氷のように冷たく光っていた。
そして、優衣を大事そうに抱き上げると、後ろも振り返らずにボディーガードたちに命じる。
「別荘のドアを全部ロックしろ。葵には中でしっかり反省させておけ」
葵は無表情のまま、黙って二階へと上がった。
その後、ボディーガードたちが屋敷の中の食料も水も全て持ち去り、外部との通信も一切遮断してしまった。最後に残されたのは、衛星電話と一台のモニターだけだった。
「奥さま、社長から考え直したくなったらL520に電話をとのことです」
淡々と報告し、ボディーガードは退出した。
モニターが自動で起動し、画面には涼と優衣がフランス各地で仲睦まじく過ごす写真が延々と流れ続ける。
二人はエッフェル塔の下でハートマークを作り、プロヴァンスのラベンダー畑で寄り添い合い、セーヌ川のほとりでは、夕陽を見ながら肩を並べていた――
葵はじっとそれを見つめながら、心の中の「少年の涼」の面影が、少しずつ消えていくのを感じていた。
一日目、何も食べず、飲まず。
二日目も、ただじっと耐えた。
三日目の夕方、突然、家のドアが開いた。
数人の黒服に両脇をつかまれ、そのまま車に押し込まれる。
辿り着いたのは、夜の海に浮かぶ豪華なクルーザー。
今日は優衣の誕生日パーティーらしく、甲板では盛大な花火が打ち上げられていた。
パーティー会場の真ん中で、高級ドレスに身を包んだ優衣と、パートナーのように寄り添う涼。誰がどう見ても、おとぎ話の王子様とお姫様だった。
葵は無理やりクルーザーの下の船室に連れ込まれ、薄暗い部屋に閉じ込められた。
かすかな月明かりの中、ベッドの上に倒れているのは――直人だった。
次の瞬間、部屋の灯りが強く照らされる。
直人は顔を赤くして荒い息をつき、明らかに薬を盛られていた。
葵が驚いて近寄ろうとしたその瞬間、後ろから思い切り突き飛ばされてベッドに倒れ込む。
「カシャカシャッ――」
室内に、シャッター音が響き渡った。
誰?
この人たちは、いったい何をするつもり――
第8話
直人は意識がもうろうとしていて、体が火照りきっていた。
どうにもならない――そう悟った瞬間、葵の体も限界に近づいていた。
ここで本当に何かが起きてしまったら……その後のことを考えるだけで、葵は恐怖で手が震えた。
唯一、頼れる相手は、甲板にいる涼しかいない。
ポケットからスマホを取り出そうとするも、バッテリーはとうに切れていた。
今まで感じたことのない絶望感が襲ってくる。
仕方なく、直人の上着を探り、ようやくスマホを見つける。
葵は、慌てて涼の番号を押した。受話器の向こうからは、何度も長い呼び出し音だけが響いてくる。もうダメかもしれない、と諦めかけたその瞬間、ようやく電話がつながった。
「……直人か?」涼の声が聞こえてきた。酔っているのか、声は重く、冷たく響く。「お前へのサプライズ、しっかり楽しんでくれよ。
言っとくが、葵は絶対に俺のものだ。お前なんかに渡すもんか。
たとえ葵が俺を愛していなくても、彼女は生涯俺のものなんだよ」
電話の向こうの涼は、明らかに泥酔していた。ひとりで勝手にしゃべっていて、葵の助けを求める声なんて、まるで耳に入っていない。
そのうえ、酔っぱらいの口から出ることなんて、どこまで本気か分かったもんじゃない。
葵は焦りで声を震わせながら、必死に訴えた。
「涼、お願いだからしっかりして!私は……」
そのとき、受話器の向こうから「ドサッ」と何か重いものが落ちるような音が響き、涼の声がぷつりと途切れた。
葵は携帯を握りしめたまま、必死に名前を呼び続ける。「涼!聞こえてる?私、今クルーザーにいるの!お願い、助けて!」
しばらくして、電話越しに女の笑い声が混じる。
「葵、私の未来のために、死んでもらうしかないの」優衣だった。
その時やっと、優衣が自分の居場所を守るため、葵をこの世から消そうとしているのだと悟る。
「優衣!涼に全部バレたらどうするつもり?あんたがやったこと、全部明らかになるんだよ!」
電話の向こうで、優衣はあざけるように冷たく笑った。「怖いよ。でも、あんたはもうすぐ死ぬんだから、涼に伝わるはずがない。
私の台本じゃ、あんたが別荘のドアをぶち破って、薬を盛られた直人を助けに行ったことになる。私には何の関係もないんだよ。これからはちゃんと涼のそばにいるつもりなの。いつか彼も、私のことを好きになってくれるはず。
あんたなんか、地獄に落ちればいい!」
電話の向こうから涼の声が再び聞こえてきた。「優衣、俺のスマホ見なかったか?誰と話してる?」
「さあ?あなたがスマホを床に落としたから、拾ってあげただけだよ」
涼の声は次第に遠のき、残ったのは優衣の低いささやきだけだった。
「葵の声が聞こえるわけないじゃない。彼女はまだ、別荘の中なんだから……」
葵はまだ助けを呼ぼうとしたが、通話は一方的に切られてしまった。
バン――
個室のドアが勢いよく蹴破られる。
黒服の男たちが押し入り、葵と直人の口を無理やり塞いで、そのまま二人を乱暴に引きずり出す。
葵の抵抗など全く無視して、そのまま二人を海へ投げ込んだ。
氷のような海水が全身を締めつけ、呼吸さえ奪っていく。
葵は目をぎゅっと閉じた。
――なんて、馬鹿げた結末なんだろう。
涼のあの馬鹿げた嫉妬心のせいで、優衣に留学枠を奪われ、家族を奪われ、そして今は、自分の命まで奪われかけている。
もしあの酔ったときの言葉が本音だとしたら、あんな愛、怖すぎる。
後悔している。涼のために、直人とあの秘密保持契約にサインしたことも、涼と結婚したことも。
でも、もう愛してなんかいない。
幸い、星野家の人たちが来てくれた。
助け出された瞬間、葵は直人を病院に搬送するよう指示し、自分はそのまま別荘へ戻った。
そして、離婚届の受理証明と九十九通のラブレターを目立つ場所に残し、自分がここにいた痕跡をすべて消し去ると、迷いなく空港へ向かった。
星野家のプライベートジェットの中、洗練された顔立ちの男が、胸に手を当てて丁寧に頭を下げる。
「星野家の暗部統括の星野瑛士(ほしの えいじ)です。お嬢様、お帰りなさいませ」
専属ドクターが身体をチェックする間、葵は窓の外に昇る朝日を眺めながら、そっと微笑んだ。
涼、優衣――きっとまた会う日が来る。
かつての葵はもう死んだ。これからは、新しい人生が始まる。