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愛はそよ風のごとく
火事が起きたとき、夫と息子は別の女性を守りながら避難した。 彼らは私をつまらないと軽蔑し、何度も私を置き去りにした。 それで、私は手術...
Chương (1)
第1章
火事が起きたとき、夫と息子は別の女性を守りながら避難した。
彼らは私をつまらないと軽蔑し、何度も私を置き去りにした。
それで、私は手術を受けることにした。すべてを忘れ、家を離れて新しい生活を始めた。
しかし彼らは後悔し、ずっと私を探し続けた。
だが、私はすでに彼らを愛しておらず、新しい家族ができていた。
第1話
「今井さん、本当に修正型電気けいれん療法を予約するつもりですか?それはあなたの心にある苦しい記憶を消すことができますが、愛してきた人も忘れてしまいます」
今井美雨(いまい みう)はスマホを握る指の関節が白くなるほど力を入れたが、声は異様に毅然としていた。「はい、立川先生。忘れることが私にとって一番いい方法です」
電話を切ったあと、美雨は水を飲もうと手を伸ばしたが、枕元のテーブルが空っぽなことに気づいた。
隣の病室から楽しげな笑い声が響いてきて、その声の主は彼女の夫と五歳の息子だ。
そして二人が深く愛している神原茜(かんばら あかね)もそこにいた。
看護師が薬を替えに入ってきて、世間話のように言った。「隣の病床の女性は本当に良い男と結婚しましたね。ご主人も子どもも一日中ずっとそばに付き添ってますよ」
美雨は苦笑を浮かべ、ゆっくりと口を開いた。「そうですね。たとえ私こそがあの男の妻で、子どもの母親でも、私がここに運ばれて点滴を始めてから、一度も見舞いに来てくれたことはありません」
若い看護師は自分の失言に気づき、複雑な表情で部屋を出て行った。
美雨は顔を上げて点滴バッグを見つめ、頭の中では昨夜の商業施設での出来事が何度も何度も繰り返されていた。
夫の月村冬真(つきむら とうま)と息子の月村晃宇(つきむら あきたか)は、茜の誕生日を祝うために伊勢海老を食べに行きたがっていた。
美雨もただの引き立て役として一緒に出かけた。
彼女が立ち上がり、トイレに向かったわずか数分後、ショッピングモールで火災が発生した。
誰もが必死に外へと逃げ出した。
慌てて冬真と晃宇を探しに戻ると、彼女の目に入ったのは三人が寄り添い合う姿だった。
冬真は怯えて震える茜をお姫様抱っこし、手でその頭をしっかり守っていた。
晃宇は両手で茜のハイヒールを抱え、体は小柄だったが、それでもなお漢らしく彼女を守っていた。
少し離れたところから、茜は挑発的な目を美雨に投げかけ、わざとらしく慌てた声を出した。「美雨さんはまだトイレから出てきてないわ。待たなくていいの?」
冬真は冷たい顔をしながらも、声だけは優しく答えた。「美雨も大人だ。火事を見れば自分で逃げられる」
晃宇もすぐに口を添えた。「そうだよ。ママは何をするにも遅いんだから、少しは懲りるべきだ!茜おばさん、早く出ようよ。煙にやられたら大変だ。ママのことは気にしないで。僕とパパであなたを守るから」
こうして美雨は二階の隅で、自分が一番愛していた二人の男が、別の女を守って必死に逃げていくのを見ていた。彼女は一人その場に取り残され、誰からも顧みられなかった。
その瞬間、彼女は全身が凍りつくような寒気に襲われ、足がまるで鉛のように重く、動かなくなった。
しばらく呆然としていたが、最後には人波に押されて外へ出された。
ショッピングモールからは黒煙が渦を巻いて立ちのぼっている。外の広場には命拾いした人々が集まっていた。
彼女を見つけた冬真と晃宇の目には、心配の色はなく、口から出るのは責め言葉ばかりだった。
「トイレに行くだけでどれだけ時間かけるんだ。もし茜に何かあって、これからの仕事に影響が出たらどうするつもり?」
「ママ、また僕を失望させたね。茜おばさんはママのことをかばってくれたのに。ママは本当にダメな母親だよ」
横にいた茜は口を開かなかったが、その嘲るような視線は美雨を打ちのめした。
美雨は口を動かしたが、一言も出なかった。
やがて全員が救急車で病院に運ばれた。茜は軽い風邪程度で、冬真と晃宇は一晩中彼女に付き添っていた。
一方、煙を吸いすぎて昏睡に陥った美雨のもとには、夫も子どもも一度も顔を見せなかった。
過去を振り返った瞬間、美雨の頬を涙がつたった。
冬真とは十五年前に出会い、四年間の遠距離恋愛のあと、二年間の海外生活を経て結婚した。ようやく安定した生活を手に入れた。
子どもが成長すると、彼女は少しずつ専業主婦となり、毎日家事に追われる日々だった。
そこへ、冬真の幼馴染だった茜が帰国し、父子の心を再び奪っていった。
美雨はふと悟った。この家庭も、夫も、息子も、もう求める価値はないのだ。
七回の修正型電気けいれん療法を終え、彼女の記憶を消し去れば、あの過去はもう彼女とは関係のないものになる。
冬真と離婚し、彼女を愛さない夫と息子のもとを離れる。その後、自分を愛する人生を歩む。
美雨はその未来に心を躍らせ始めていた。
第2話
夕暮れ時、美雨は七階に上がり、専門医の指導のもとで初めての修正型電気けいれん療法を受けた。
施術中の痛みはほとんどなく、違和感もまったくなかった。
終わったあと、体の中の何かが消えたような感覚があったが、彼女はうまく説明できない。ただ、それは悪くない気持ちだった。
医師は、何度か受けてこそ効果がはっきりすると伝えた。彼女はしっかりと胸に刻んだ。
病室へ戻る途中、茜の部屋の前で、彼女は思わず足が止まった。
ドア越しに見ると、冬真が茜におかゆを食べさせていた。
一口ごとに息を吹きかけて冷ましてから、茜の口元へ運ぶ。その丁寧さは、正妻である彼女に一度も見せたことがなかったものだった。
彼は世話ができない人ではなく、世話をしたいと思う相手にしか世話をしない人なのだと悟った。
晃宇は薬を持ちながら、大人びた口調で茜をあやしていた。「茜おばさん、お薬の時間だよ。苦くても大丈夫。僕がキャンディを用意したから、飲んだら一緒に食べよう」
「晃宇、あなたが私の子どもじゃないなんて、本当に残念わ」
「そんなことないよ。僕は茜おばさんにママになってほしいんだ。パパも僕もあなたが好き!僕のママはつまらない人で、全然あなたみたいに楽しいことや美味しいものをくれないんだ」
冬真はただ優しく微笑みながら、そのやり取りを眺め、反論することはなかった。
美雨は、これほど心をえぐる言葉にはもう耐性があると思っていた。しかし、再びその言葉が耳に入った瞬間、胸の奥に細かく刺さる痛みが蘇った。
病室の三人はまるで幸せそうな家族だが、彼女はただドアの外に立ち、立場も発言権もない存在だった。
見物に飽きたのか、茜は笑みを消し、驚いたふりをした。「美雨さん、来てたのね。私が体が弱いせいで、冬真と晃宇が心配してずっとそばにいてくれたの。だから、あなたのところへ行けなかったの。ごめんなさいね」
その言葉を聞くと、冬真はドアのほうを見やった。
その恨みを帯びた目は、まるで、彼女が相変わらず空気を読まず、わざわざ三人の楽しい雰囲気をぶち壊すつもりかと語っているようだ。
美雨は部屋に入ると、淡々とした声で告げた。「退院の手続きをしようと思う」
冬真は一瞬驚いたが、冷たい声で答えた。「急ぐことはない。少し様子を見てからでもいい」
晃宇は横から口を挟み、命令口調で言った。「退院したいなら、スープを作って持ってきてよ。茜おばさんが食べたいって言ってたから」
目の前の幼い子を見つめたとき、美雨の胸には深い失望が込み上げた。
彼は母親の体調を気遣うこともなく、開口一番に、他の女のために料理を作れと言ったのだ。
冬真が否定もしないのを見て、美雨は思わず冷笑した。「じゃあ、あなたたちはここで彼女を看病して。私はひとりで帰る」
眉をひそめた冬真は、数秒彼女を見つめてから、仕方なさそうに手を振った。「いいさ。お前は昔から勝手だからな」
「私の体調も良くないから、スープを作らないよ。あなたたちは外の店で買って。
冬真、あなたの女は、あなた自身が面倒を見なさい」
「あなたの女」という言葉に、冬真は一瞬ぽかんとして、無言のまま、心に不安を覚えた。
彼は、今日の美雨がいつもと少し違うと感じたが、具体的に何がどう違うのかは言葉にできなかった。
美雨は病室を出て、退院の手続きへ向かった。
その背に、晃宇の歓喜の声が聞こえた。「やった!ママがやっと帰ったよ!僕はパパと茜おばさんと一緒にいられるのが一番好き!」
足を止めずに進む美雨の後を、珍しく冬真が追いかけ、彼女の手首を掴んだ。
「昨夜、大丈夫だったか?茜が熱を出して付き添わなきゃいけなかった。今夜にでもお前を見に行こうと思ってたんだ……」
美雨は遮った。「私は大丈夫。ほら、元気でしょ。あなたは彼女を見てあげて。退院の手続きが終わったら、私は帰るから」
冬真の瞳は氷のように冷たく、用意していた言葉はすべて彼女に遮られた。
しばらく間を置いてから、彼は口を開いた。「わかった」
美雨の分別ある態度に、彼の心には疑念があった。しかし結局のところ、茜への気遣いが、その疑念を押さえ込んでいた。
美雨はその背を見送り、病院を後にした。
彼女がこの二人を完全に忘れてしまえば、彼らは望み通り、つまらなく、古めかしい女から解放される。
彼らが幸せになれる。彼女はもっと幸せになれるのだ。
第3話
家に戻った美雨は、まず新しい住まいを探し始めた。
離婚したあと、もう二度とあの二人に会いたくはなかったから、当然引っ越すつもりだ。
都会の中心部のせわしない生活にも疲れ、彼女は郊外に家を買うことを決めた。
彼女にとって、最低限のインフラさえ整っていれば、普通の生活が送れるだけで十分だ。
彼女の貯金も少なくなく、一人で暮らすには困らない額を持っていた。
彼女はだいたい目星をつけて帰宅すると、ちょうど冬真が晃宇を連れて戻ってきた。
それだけでなく、見知らぬ二人の男がカメラを抱えて家に入ってきた。
彼らは一枚の写真を取り出し、来意を説明した。
写真には数日前の火災現場で、冬真と晃宇が茜を守りながら脱出する姿が映っていた。
彼らは雑誌社の記者で、この光景があまりに美しいと感じ、家族三人に関する取材記事を掲載したいと思った。
そのうち一人が言った。「たまたまシャッターを切ったらこの瞬間が撮れたんです。とても感心しました。
男性が体で妻を守り、幼い息子が母親のハイヒールを抱いて、なんて愛に満ちた家族でしょう。
こうした感動的な出来事は、ぜひニュースで取り上げられ、多くの人に知ってもらいたいです」
美雨がソファに腰を下ろすと、二人の記者は彼女の顔を丁寧に確認し、写真の女性ではないと気づいた。
「この方は、写真の女性のお姉さんですか?妹さんは本当に幸せですね。夫も息子も愛してくれて」
美雨は淡々と笑みを浮かべて言った。「いいえ、私は写真に写っている男性の妻で、子どもの母親です」
晴天の霹靂のように放たれたその一言で、リビングは瞬く間に静まり返った。
針の落ちる音さえ聞こえるほどの静寂が、その場を包んだ。
いち早く顔を曇らせた冬真は、彼女の腕をぐいと引き、寝室へと連れ込むと、二人きりで言葉を交わした。
「美雨、考えてからものを言えないのか?相手は記者だぞ。もししつこく追及されたら、茜のモデルのキャリアが台無しになるんだぞ!」
彼女は何も言わず、ただ怒りを帯びた彼を見つめた。悲しみも喜びもなかった。
彼女の言葉はすべて事実だ。茜は彼女の家庭を壊したのに、なぜ堂々と認めようとしない?
自分の口調がきつすぎたと気づいた冬真は、表情を和らげた。
「ごめん。あんな言い方するべきじゃなかった。お前が嫌なら、取材は断るよ」
美雨は彼に抱き寄せられても、一片の愛情を感じることはなかった。時の一瞬ごとが、胸を焼き尽くすような苦痛となって押し寄せた。
彼は彼女を気遣っているのではない。ただ譲歩するふりをして、結局彼女に妥協を迫っているだけだ。彼女はもうその手を見飽きていた。
そのとき、晃宇が怒りながら駆け込んできた。「ママ、勝手すぎるよ!僕はパパと茜おばさんと一緒に取材を受けたいんだ。テレビに出られるんだよ!」
「晃宇、ママに大声を出すな!」冬真が厳しく叱った。
「だってそうじゃん!茜おばさんと昨日から会ってないんだ。僕はすごく会いたい!パパだってそうでしょ?絶対そうだ!取材を受ければ、一緒におばさんの家に行けるんだから!」
美雨は動揺する冬真の腕の中から、ごく自然に身を引いた。
「私は断ってないわ。いいことだと思う。あなたたちは取材を受ければいい」
それを聞くなり、晃宇は飛び跳ねるようにして茜にメッセージを送った。
冬真はじっと美雨を見つめ、その目はまるで彼女を突き刺すようだ。
彼は説得のための言葉をいくつも用意していたのに、出す間もなく済んでしまった。
美雨は、以前のように彼と大喧嘩することはなかった。
昔なら、茜の名前が出るだけで、彼女の怒りはすぐに爆発し、二人は不満を抱えたまま喧嘩を終えていたものだ。
だが、今の彼女はすんなりと承諾してしまった。それがかえって彼の胸を締めつけた。
彼は深く考えずに尋ねた。「美雨、怒ってないのか?」
美雨は柔らかく笑った。「何を怒るの?早く準備して行きましょう。記者さんを待たせないように」
冬真は、彼女が最近、自分への信頼をより深めたのだと受け取り、晃宇を連れて記者と共に茜の家へと足を運んだ。
彼らが出ていくと、美雨は印刷屋に立ち寄り、離婚協議書をプリントしてから、自分の名前を書き入れた。
彼女の自由は、もう目の前にある。
第4話
もしかすると、彼女が茜との公開インタビューを許したからか、帰宅後の冬真は美雨に細やかな気遣いを見せ、まるで恋愛初期のように甘やかしてくれた。
いつもは好き嫌いの激しい晃宇も、食卓では大人しく食べ、彼女の料理に文句をつけることはなかった。
だが美雨は、そんな状況を喜ぶこともなく、ただ静かに受け入れていた。
彼女の気乗りのなさに気づいた冬真に、彼女はただ生理痛を理由にやんわり誤魔化した。
冬真は無駄口を叩かずに彼女を介抱し、横たわらせて世話をしながら傍らで見守った。わずかな物音にもすぐに駆け寄り、優しい声で彼女の様子を確かめた。
美雨は心の中で思った。きっと彼はかつて彼女を深く愛したこともあったのだろう。ただ、その愛を別の女性とも分け合っているだけなのだ。
会社でトラブルがあり、休暇中だった冬真も急きょ出社することになった。
その日、美雨は修正型電気けいれん療法を受けたあと、いつものように昼食を届けに行った。
受付の新しいインターンは、美雨が社長の妻だとは知らなかった。
ちょうど昼休みの混雑時で、美雨が専用エレベーターを使いたいと伝えると、その人は彼女を見下し、皮肉を言った。「あなたに専用エレベーターを使う資格がありますか?いつも茜さんが社長に会いに来るときだけ案内するんですけど」
美雨は一瞬ぽかんとした。
どうやら、茜が会社に冬真を訪ねるのは、すでに日常の光景になっていたのだ。
そして、社員たちは当然のように茜が社長夫人だと思っているらしい。
黙っている彼女に、そのインターンはさらに皮肉な言葉を重ねた。「その老けてる顔、自分でも見てくださいよ。茜さんは色白でスタイルもいいし、うちの社長とお似合いなんです。身の程知らずも大概にしたら?」
古参社員が袖を引いて止める者もいれば、同調する者もいた。
「社長はよく茜さんを連れて会社に来るし、食事も一緒。もう美雨さんと離婚してるんじゃない?いずれは茜さんが奥さんになるでしょ」
「社長の息子も茜さんのこと、ママって呼んでるくらいだし。父子そろって認めてるんだから、私なら早めに身を引くね」
美雨は社員たちにあれこれ中傷され、心に初めて寒々しい感覚が芽生えた。
この会社がここまで発展したのは、彼女の功績が少なくとも半分はあると言って差し支えないだろう。
それなのに今では、彼女はただ上階へ行くことすら許されない。
美雨は持ってきた弁当を受付に置いた。「では、このお弁当を冬真に届けてください」
彼女が背を向けた瞬間、弁当がゴミ箱に投げ入れられる音がはっきりと響いた。
ちょうどそのとき、エレベーターから冬真が姿を現し、背筋を硬くした彼女を目にした。
受付の数人は面白がって事の成り行きを見ようとしたが、彼の反応は期待とは違った。
口の軽い者が前後の経緯をすべて話してしまった。
それを聞いた冬真は、周囲をゾッとさせるオーラを放った。
彼はすぐに駆け寄り、優しい仕草で美雨を抱き寄せると、申し訳なさそうに見つめた。「すまない、社員の管理を怠ってた」
美雨は特に気にしていなかったが、彼は激怒した。
「美雨はこの会社の創業者であり、俺の妻だ。この事実は絶対に変わらない!彼女にそんな態度を取るなんて、いい度胸だ。しかも、持ってきてくれた弁当も捨てるなんて言語道断だ!」
一瞬で彼女たちは恐怖で足元がおぼつかず、何度も腰をかがめて泣きながら謝った。
冬真は断固たる口調で告げた。「監視カメラを確認しろ。関わった者全員解雇だ。さらに、業界の取引先にも知らせて、二度と奴らを雇わないようにな!」
美雨は終始口を開かなかった。冬真はその数人を厳しく罰した後、皆散っていった。
彼女はしびれた肩を少し動かした。冬真は腰をかがめて、ゴミ箱の中の弁当の箱を拾った後、彼女を連れて階上へ向かった。
彼は弁当を広げ、がっつくように食べながら、甘い言葉を口にした。「美雨が弁当を届けてくれなかったら、今日は一日中お腹を空かせる羽目になりそうだ。店の料理なんて、お前の料理と比べ物にならない。お前の料理なしでは、俺は生きていけないな」
美雨は彼にかまう気もなく、ただ淡々とうなずいた。
彼は社員たちを厳しく罰したが、茜のことは一言も悪く言わなかった。
彼は人前でも必ずあらゆる手段で茜の顔と名誉を守る。それだけ彼女を大切に思っているのだろう。
しかし美雨は、もうそれを悲しいとは思わなかった。
今の彼女は感情への感受性が鈍くなっていて、それがむしろ良いことだと感じていた。
第5話
車で帰る途中、冬真に茜から電話がかかってきた。
泣き声は人の心を揺さぶるほど哀れだ。
ヤラカシに追い詰められたから助けに来てほしいと、冬真に頼んでいる。
冬真は辛うじて口を開いた。「美雨、茜はうちの会社の広告塔でもあるんだ。俺が行かないのはちょっとまずい」
今の冬真がどれほど焦っているかを知っているのは、美雨だけだ。彼のハンドルを握る指の関節は、きつく縮こまっているからだ。
彼女はさっとドアを開けて車を降りた。「行ってあげて。私はタクシーで帰るから」
何度も彼女が怒っていないか確かめたあと、冬真はアクセルを踏み込み、走り去った。
美雨が家に戻ると、出迎えたのは落胆した顔の晃宇だった。
「ママ、パパはまだ帰ってこないの?パパが約束してくれたじゃん。僕がちゃんとご飯食べたら茜おばさんを家に連れてきて一緒に遊んでくれるって!」
美雨の言葉が詰まった。
彼女はカバンから離婚協議書を取り出し、晃宇の前に置いた。
「晃宇、パパの字を真似してサインできる?」
「なんでパパの名前を書くの?」
美雨の胸が締めつけられた。「サインしたらね、茜おばさんといつでも遊べるし、もうこそこそ会わなくてもいいの」
晃宇の目は一気に輝き、嬉しそうに頷いた。
美雨は諦めきれず、もう一度尋ねた。「晃宇、本当に茜おばさんのことが好きなの?どうしてママは好きじゃないの?」
「好きだよ!パパも茜おばさんが好きだから、僕はもっと好き!きれいだし、幼稚園まで迎えに来てくれるとみんなが羨ましがるんだ!
ママは宿題やれとか、スマホやパソコンするなとか、うるさいことばっかり。ママがお母さんなんてイヤだ。茜おばさんならそんなこと言わない!」
その瞳は茜の話になると輝き、彼女の話になると嫌悪と軽蔑に曇っていた。
それに気づいた美雨はそっと涙を拭い、ペンを差し出した。「じゃあ書いて。お父さんも喜ぶし、茜おばさんと晃宇も幸せになれる。みんなにとって一番いいことよ」
「なんでこんないいこと早く言わなかったの!書く!」
かつて美雨はずっと理解できなかった。長い間晃宇に教えてきたのに、彼は彼女の名前さえ書けず、漢字の画数が多すぎて書くのが大変だと、言い訳を言うのだ。
だが月村冬真の四文字はその父親そっくりの筆跡で書ける。
そしていつの間にか、神原茜の名前まで覚え、すべすべと書けるようになっていた。
その時、美雨は理解した。
晃宇は冬真と同じだ。好きな人は茜で、嫌いな人はもちろん彼女だ。
思い出に沈んでいる間に、晃宇はもうサインを終えていた。
内容を理解していない彼は、ただ茜と一緒にいられると誇らしげに笑っている。
それが両親の離婚協議書だとも知らなかった。
美雨は晃宇に、茜に会いたいなら絶対に口外しないよう念を押した。彼は快くそれを約束した。
その時、茜から薄暗い写真が送られてきた。美雨は、それが車の中で撮られたものだとすぐにわかった。
冬真のジャケットは脱ぎ捨てられた。茜の服は乱れ、目が色っぽく光っていた。
車の中でどれほど激しいひとときが繰り広げられたのか、想像に難くなかった。
【美雨さん、冬真は今夜帰らないって。帰った方がいいって説得してみたけど、聞いてくれなかったの】
美雨はスマホを閉じ、全身鏡の前に立って自分の姿をじっくりと見つめた。
彼女の体型はやや崩れ気味で、身に着けている服も一昨年に買ったもので、何度も着ているようだ。
結婚前に一度染めただけの彼女の髪は、今では黄ばんでみすぼらしい。
しかし、料理や子どもの世話をしやすくするために、彼女はいつも髪を適当にまとめて済ませていた。
美雨は倹約して家庭を守れば幸せになれると信じていた。
だが結局、彼女は何も求めなかったから、何一つ手に入らなかった。
ひどい結婚生活の中で自分を犠牲にしても、得られたのは夫の意図的な裏切りと、息子の際限のない嫌悪だけだった。
彼女は大きな間違いをしたと悟った。今こそ損切りをしなければならない。
第6話
大体で二週間ほどが過ぎ、美雨は七回目の修正型電気けいれん療法を終えた。
最近の彼女は多くの人や出来事を忘れてしまった。冬真がわざわざ言わなければ、目の前の人物が自分の夫や息子だとすら思い出せない。
新しく買った家もほとんど片付き、すぐに住める状態になっていた。
彼女はけじめをつけるつもりで、今夜は最後に彼らと一度だけ食事をして、すべてを終わらせることにした。
しかし意外にも、冬真と晃宇は今夜、彼女のためにご馳走を作ると言い出した。
彼女が茫然とした表情をしているのを見て、冬真は愛情に満ちた眼差しで彼女の額にキスをした。「いつもお前ばかり疲れているんだから、たまには俺たち父子で頑張らないとね」
そう言うと、二人でキッチンに立った。
三時間かけて完成した料理は、すべて彼女の好物ばかりだ。
食卓では父子が代わる代わる皿から料理を取り分け、碗に入りきらないほど盛ってくれる。
彼女はただ茫然とその光景を眺めた。
「何か言いたいことがあるんでしょ?」
冬真は気まずく言葉に詰まり、晃宇が待ちきれずに口を開いた。「ママ!僕とパパ、茜おばさんと一緒に山にキャンプ行きたいの!一晩泊まって星を見るの!ママならきっと許してくれるよね?」
なるほど、今夜のご機嫌取りの理由はこれか。
最後の食事は思ったほど楽しいものにはならなかった。
冬真は彼女の手を握り、柔らかい声で言った。「一緒に行こうよ」
美雨は笑わず、さりげなく手を引いた。「家でテレビ見たいの。あなたたち三人で行ってきて」
冬真が何か言いかける前に、彼女は先に続けた。「もし気が咎めるなら、お金を少しちょうだい。バッグを買いたいから」
これからの生活のために、彼女は金が必要だ。
冬真はあっさりと承諾し、一千万円のカードを渡した。
美雨はそれを受け取った。
彼女が同行しないことに、冬真と晃宇はむしろ安堵したようだ。
おそらく罪悪感からだろう。その後、冬真は絶えず彼女に気を遣い、過去のあれこれを一緒に振り返ってみせた。
「遠距離恋愛の頃、節約するため、毎日カップ麵と漬物だけ食べてた。そして、切符を買って、お前に会いに行ったな。あの切符、積み重ねたら、晃宇の背丈くらいあったんだ。
それに、冬のころ、美雨が俺のセーターを編むために、手があかぎれだらけになってたよね。あのセーターは、誰に会っても自慢して見せていたんだ。もちろん、正月以外は大事にしまってたんだよ」
美雨は聞きながら、頬に手をついてそのまま眠ってしまった。
冬真は突然言葉を止め、緊張した様子で彼女に尋ねた。「どこか具合が悪い?なんでこんなに眠そうなんだ?」
美雨は正直に答えた。「ただ退屈なだけ。私と関係ない話を延々聞いてたら眠くなったの」
冬真は一瞬、どんな表情をすればいいかわからず、やがて声に責めるような響きを混ぜ始めた。「どうして忘れるんだ?あんなに幸せだったのよ。俺は全部覚えてるのに、お前は思い出せないのか?」
彼の焦燥は、まるで火山が噴き出す前のざわめきのようだ。
なぜ彼女は、二人が愛し合った証拠を忘れてしまったのだろう?
彼女は淡々と立ち上がった。「年のせいかも。忘れたならそれでいいでしょ。先に休むわ」
彼女が部屋に入ると、冬真は晃宇にテレビの音を小さくするよう言った。
彼女が最近疲れていたせいで、忘れたのかもしれないと彼は思った。
明後日のキャンプから戻ったら、彼はちゃんと話を聞き、彼女を連れ出して気分転換させてやろう。
だが彼は知らない。
その頃、ベッドに横たわった美雨は、すでに明日荷物を運び出す車を手配していた。
二人が出かけたら、彼女は離婚協議書を置いて、家を去るつもりだ。
彼女はもう過去に未練はない。
彼女の心は、一人きりの新生活に向いていた。
そして翌日、キャンプへ向かう車の中で、冬真はどうにも落ち着かない。
心臓の鼓動が乱れ、不吉な予感が全身を包んでいた。