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さよならの後の永遠
6年前、私は田村グループのお嬢様だった。石田竜也(いしだ たつや)は、私が学費援助という名目で自分のそばに置いていた貧しい学生にすぎなか...
Chương (1)
第1章
6年前、私は田村グループのお嬢様だった。石田竜也(いしだ たつや)は、私が学費援助という名目で自分のそばに置いていた貧しい学生にすぎなかった。
しかし今や彼は名の知れた弁護士となり、私はたった1000万円をめぐって姑と泥沼の争いをしている。
「石田先生、この女はうちの息子と結婚する前から子どもを妊娠していました。息子を騙して結婚したんです!彼女がお金を払わないなら、払うまで彼女の娘をうちにいてもらいます!」
頭の中はぐちゃぐちゃで、痩せ細った手ではペンを握る力さえ失われそうだった。
「結婚前から誠にはきちんと話していました。子どもに父親がいる家庭を作ってあげるためで、名ばかりの結婚だと。それに、一定額のお金も渡しました……」
「息子が死んだのをいいことに、この老婆を侮辱する気か!石田先生、この女は、かつて京市で悪名高かった田村グループの娘なんですよ!」
「もうこれ以上はお話しになりません」
調停委員は聞くに堪えない言葉に姑を退席させ、竜也にすべてを委ねた。
静まり返った空気の中、私と竜也だけが向かい合って座っていた。
第1話
偽装結婚の夫・山本誠(やまもと まこと)が亡くなった後、田村理恵(たむら りえ)は娘の親権をめぐって訴えられた。
しかし、彼女は末期癌を患っており、これ以上事を荒立てたくないと思い、調停に応じることにした。
調停室に現れた理恵は、相手の代理弁護士が、なんと数年前に別れた恋人、石田竜也(いしだ たつや)であることに気づいた。
「理恵、この尻軽女!恥を知りなさい!うちの息子はあんなにあんたを大事にしていたのに、陰でほかの男とつるんでいたとは……許せない!
あんたの娘、あの元もない子をうちの息子に5年間も育てさせたんだ。その間の養育費を弁償しなさい!1000万円、一円たりともまけないわよ!」
誠の母、山本翠(やまもと みどり)は興奮のあまり、理恵の頬を思い切り平手打ちした。
その時、竜也は彼女の向かいに座っていた。
理恵は見慣れた顔を前にして唇を噛みしめ、ただ耐えた。
「ここは調停の場です。これ以上騒ぐなら代理人を変えていただくしかありません」
竜也の表情からは何の感情も読み取れなかった。6年の歳月は、彼を落ち着いた理知的な男に変え、かつての感情的な面影を消し去っていた。
6年前、竜也は理恵に復縁を迫り、酒に溺れ、命を落としかけたことがあったなんて、誰も知るはずがない。
しかし今、彼は慣れた手つきで書類カバンを開き、書類を取り出し、署名欄を理恵に向けた。
落ち着き払って、冷徹な表情で。
まるで、彼女を初めて会ったかのようだった。
11年前、理恵がまだお嬢様だった頃、竜也に高額な学費援助の契約書を突きつけ、交際を迫ったことがあった。
そして6年前、彼女は契約書を破り捨て、まるでしつこい虫を追い払うかのように、彼を侮辱した。
理恵はこみ上げる感情を抑え、うつむいたまま彼と目を合わせようとはしなかった。
「石田先生、この女はうちの息子と結婚する前から子どもを妊娠していました。息子を騙して結婚したんです!彼女がお金を払わないなら、払うまで彼女の娘をうちにいてもらいます!」
理恵の頭は混乱し、痩せ細った手で、ペンを握るのもやっとだった。
「結婚前から誠にはきちんと話していました。子どもに父親がいる家庭を作ってあげるためで、名ばかりの結婚だと。それに、一定額のお金も渡しました……」
「この尻軽女!息子が死んだのをいいことに、この老婆を侮辱する気か!石田先生、この女は、かつて京市で悪名高かった田村グループの娘なんですよ!」
「もうこれ以上はお話しになりません」
調停委員は聞くに堪えない言葉に姑を退席させ、竜也にすべてを委ねた。
静まり返った空気の中、理恵と竜也だけが向かい合って座っていた。
理恵は不安そうに両手を握りしめ、顔を赤く火照らせていた。
6年ぶりの再会。立場は逆転し、今度は彼が見下ろす番だった。
「理恵、1000万円で事を収めることなんて、かつて大富豪のお嬢様にとっては簡単なことだろう」
理恵は顔を上げられなかった。竜也が冷静に目の前に座っていること自体が、彼女にとって最大の復讐だった。
6年前の別れの夜、理恵は自らの財と地位を振りかざし、二人の間に残っていた最後の可能性を断ち切ったのだ。
「竜也、田村家があなたを4年間も援助したからと言って、まさか私があなたと結婚すると思ってたわけ?バカみたい。
ちょっと見た目がよかったから遊んだだけ。私が本気にでもなったなんて思わないよね?」
あの夜、竜也はK大の門の前で、打ちひしがれたように立ち尽くしていた。
6年前の意気消沈していた竜也と、目の前の冷徹な男の顔が重なり、理恵は思わず涙がこみ上げてきた。
「私と娘は山本家とは血のつながりはない。しかも、今は働くこともできない。それに、もうすぐ……」
言葉が遮られ、理恵は目頭を熱くした。
「理恵、涙で同情を買うな。金をどうやって稼ぐかは自分で考えるべきだ」
竜也はファイルの署名欄を指で指した。
理恵は涙を流しながら、突然笑い出した。「竜也、調停はしない。裁判にしましょう」
自分がその時まで生きていられるかは、分からなかった。
しかし、娘をどこかへ預けることはできるかもしれない。
「弁護士になってから一度も負けたことはない。理恵、裁判で負ければすべてを失う。1000万円くらい、いずれ稼げるだろう。今ここで意地を張っても君のためにはならない」
理恵はかすかに微笑み、首を横に振った。
彼女にはもう時間がなかった。6年前、田村グループが倒産した時にはすでにがんで死の宣告を受けていたのだ。
テーブルの上に置かれた竜也のスマホの画面が突然明るくなった。
「佳奈に昼ご飯食べるように」というリマインドのメッセージが現れた。
待ち受け画面には竜也と別の女性のウェディングフォトが映っていた。
理恵は突然、息苦しさを覚えた。
彼は結婚していたのだ。
もう、彼のことを思うことも、夢の中で見ることさえ許されない気がした。
目の前の男と過ごした記憶が、理恵の生きる支えとなっていた。しかし、ふとした瞬間、彼のスマホ待ち受け画面に映る別の女性の顔が、まるで記憶の中の自分の顔とすり替わったかのように感じられた。
遠い過去の記憶が、時を超えて心臓を突き刺すナイフのように思えた。
理恵は痛みで身が震え、慌てた気持ちを隠すため、バッグの中を探るふりをした。
立ち上がった竜也は、不意に動きを止めた。
「君の娘は、一体誰の子だ?」
理恵のバッグが床に落ち、中の薬が散らばった。
第2話
理恵は慌てて薬を拾い、背中に隠した。唇は震えて止まらなかった。
「石田先生、これは本件と関係ないでしょう」
竜也は、わずかに眉をひそめた後、無表情のまま立ち去った。
理恵が出ると、彼女の叔母が眠っている理恵の娘・田村結衣(たむら ゆい)を抱いて待っていた。
「あの女ったら、ほんとにひどいわ。あなたが身寄りのない女手一つだと思って、生きていく道を奪おうって言うんだから!そもそも、亡くなった彼女の息子さんが、あなたと同じ病気で苦しんでいるのを放っておけなかったから、一緒になることを決めたんじゃない? 私たちも、弁護士を雇って、きちんと訴えてもらうようにしよう!」
理恵は首を横に振った。
「相手側の弁護士は竜也よ。私には勝ち目がないわ」
叔母は一瞬、呆然とした。「4年も一緒にいて、田村家も4年間彼を支えたのに、どうしてこんなに冷酷なの?どうして他の人と一緒になってあなたを陥れるの?
昔、彼があなたに会うために警察に3回も捕まったのよ。とてもあなたを忘れられるとは思えないけど」
理恵の胸に鋭い痛みが走った。あの時、田村家は倒産し、一夜にして両親を失い、会社も破産した。債権者に刃物を突きつけられて脅され、竜也を巻き込むわけにはいかなかったのだ。
あの時、彼女は1か月間監禁され、虐待を受けた後、何とか逃げ出した。
そして、竜也も必死で1か月間彼女を探した。
「竜也に真実を話そう。結衣ちゃんが彼の娘だと知ったら、きっとあなたを追い詰めたりしないわ!」
理恵は叔母の言葉を遮った。「叔母さん、竜也は結婚したのよ。
彼は私を恨んでいるわ。私の娘に優しくするはずがない……それに、彼には子供が出来るでしょ。私が死んだ後、彼の妻に元カノの子供を優しくしろなんて、頼めるはずがないわ。
結衣は、私の罪を背負って生きていくべきじゃないの」
そう言うと、理恵は胃から血がこみ上げてきた。
彼女は床に倒れ込み、再び目を開けると、病院にいた。
「目を覚まして!娘さんがいじめられてますよ!
十数人に囲まれて、大変なことになっているみたいです」
理恵は息を詰め、体に力を入れながら、ゆっくりと身を起こした。その時、ようやく倒れた際に床で強く擦ったのであろう股関節に激痛が走り、血が止まらず、白いワンピースがドロドロに染まっていることに気づいたのだ。
ぎこちない手つきで服を着ると、彼女は慌てて部屋を飛び出した。
人だかりの中心に、結衣が囲まれて、大声で泣いていた。
「まったく、育ちが悪い!妊婦にぶつかっておいて、よくも平気で嘘がつけるわね。親はどこにいるの?」
理恵は人だかりをかき分け、やっとの思いで娘を抱きしめた。
彼女が到着するのとほぼ同時に、竜也も駆けつけた。
妊婦は泣きながら竜也の胸に寄りかかった。「竜也、赤ちゃんがダメになるかと思ったわ」
理恵は竜也を見上げた。彼は眉間にしわを寄せ、妊婦の涙を優しく拭っていた。
「ママ、あの人には触ってない。
ママの薬を取ろうとして、転んじゃったの」
理恵は娘を強く抱きしめ、優しく言った。「ママは結衣を信じてるよ」
竜也はその声に顔を向け、理恵を見た。その瞳には、嫌悪と恨みが入り混じり、僅かにだが、驚愕の色も浮かんでいた。
その女の子の目は、自分にそっくりだった。
理恵は警戒しながら、娘を自分の胸に抱き寄せた。
「石田先生、娘は奥さんに触れていないと言っている。うちの娘は嘘をつかない。何か問題があれば、病院の監視カメラを確認してください」
妊婦は眉をひそめ、一瞬驚いた表情を見せた。
「田村さん?生きてたの?」
理恵はその女の顔を見つめ、ようやく思い出した。彼女は、かつて田村グループの原材料に毒物が入っていると告発した前田家の娘、前田佳奈(まえだ かな)だった。
「毒入り材料を使った悪徳業者の田村グループの娘、田村理恵ってやつか!田村グループのせいで京市で何人も死んだんだぞ!マジで許せない!」
「今日、娘を利用して前田さんを傷つけるなんて、やっぱり田村家はろくなもんじゃない!」
「こっそり国外に送られたんじゃなかったのか?どうして病院にいるんだ?しかも娘連れで?」
周りの人たちは、あれこれと言い始めた。
理恵は結衣の耳を塞ぎ、何も聞かせまいとした。
佳奈は涙を流し、みるみるうちに唇から血の気が失せていった。
「田村さん、私に復讐するために帰ってきたのね?」
第3話
竜也はずっと黙っていた。
理恵の白いワンピースに滲む血痕を、じっと見つめていた。
しかし、佳奈の言葉を聞くと、嫌悪感を露わにして理恵の顔を睨みつけ、反射的に佳奈を背中に隠した。
大学時代の4年間、理恵が正しかろうが間違っていようが、竜也は常に理恵を守ろうとしていた。
しかし今は、彼が守っているのは佳奈だった。
「田村さん、あの時は田村グループが毒入り材料を使ってお菓子を作ったせいで、私の父と叔父が亡くなったのよ。うちは仕方なく、告発したのよ!」
佳奈は竜也の手首を強く握りしめ、全身が震えているようだった。
「それに……」
彼女は竜也をちらりと見て、わざと悲しげな表情をした。
「あの時、あなたは竜也に学費を出してあげて、彼と付き合うように仕向けた。でも、それはお嬢様気取りで、彼を辱めていたんじゃないの?もう結婚して子供もいるのに、どうして彼の前に現れて、彼を傷つけるの?
それに……子供を甘やかして、私の赤ちゃんに八つ当たりさせるなんて!」
竜也は一瞬驚いたが、すぐに無表情に戻った。
竜也は頭がいい。これが言いがかりだと分かっているはずだ。
それでも、彼は言った。「理恵、相変わらず卑怯だな」
二人の関係のように、最初から歪んでいて、卑怯なものだった。
竜也は佳奈を支えながらエレベーターに乗り込み、周りの人々も理恵に罵声を浴びせながら散っていった。
理恵の心は凍りついた。
耳を塞がれていた結衣は泣きじゃくり、理恵の指を握りしめながら、何度も謝った。
「ママ、ごめんなさい。私が悪かったの」
「結衣、いいのよ。結衣のせいじゃない。結衣は、ママの大切な宝物よ」
結衣は顔を上げ、泣き腫らした目で理恵を見つめた。「あの人、パパだよね?」
理恵の胸に、重く、鈍い痛みが走った。
言葉が出ず、ただ涙が溢れ出た。
「パパが欲しい。でも、パパには他の子供ができたんだよね」
ー
理恵は結衣を寝かしつけ、一人で検査に行った。
「田村さん、もう手術を先延ばしにするのは危険です。今の薬はあと5日分しかありません。5日以内に手術しないと、助かりませんよ。
こんなに可愛い娘さんと、もっと一緒にいたいと思いませんか?
手術費用は全部で1000万円です。何とか工面できるはずでしょう」
医者は真剣な口調で言った。
理恵はスマホで残高と訴状を見ながら、しばらく悩んでいた。
全財産は、たった1000万円だった。
「伊藤先生、もう少し考えさせてください」
病院を出ると、一台の高級車が理恵の行く手を遮った。
竜也はスーツのジャケットを脱ぎ、シャツ姿で車の前に立ち、静かにタバコに火をつけた。
「理恵、話がある」
竜也は助手席のドアを開けたが、理恵は軽く会釈して後部座席に座った。
彼は少し驚いた様子だったが、それ以上何も言わなかった。
ダッシュボードには竜也と佳奈の大きな写真が飾られ、後部座席のクッションにも、キスをしている二人の写真がプリントされていた。
理恵は昔、こっそり竜也の財布に二人の写真を入れたことを思い出した。しかし、竜也はその写真を取り出し、ゴミ箱に捨てたのだ。
彼はツーショット写真が嫌いだと言った。まるで誰かの所有物であるかのようなレッテルを貼られているみたいで、嫌だと。
なのに今は、佳奈のために、見えるところに二人の写真が飾られている。
「佳奈は妊娠中で、感情的にも不安定なところがあるんだ。田村家のせいで彼女のお父さんと叔父さんが死んだこと、やっぱり、まだ根に持ってる」
「だから?」理恵は胸騒ぎを覚えた。
竜也は冷たく言った。
「理屈で言えば、君の両親の代わりに佳奈に謝るべきだ。これは君が彼女に負っていることだ」
理恵は6年前のあの夜を思い出した。田村家が提出した証拠は次々と握りつぶされ、父は再起を諦めて自殺した。そして母は、父の遺体の前で後を追った。
田村家の罪は、全て他人が決めたことだ。どうして、両親の罪を認めなければならない?
そして自分は、癌の初期に妊娠した体で荷物を運び、棚から落ちて、母子共に危ないところだった。
誰が守ってくれた?誰が自分のことを考えてくれた?
「あの事件で、私の両親も命を落とした。誰が彼らに謝罪してくれたの?
竜也、あなたには申し訳ないと思っている。でも、あの女には何も負っていない!」
車内は恐ろしいほど静まり返った。
「理恵、君の元夫の件、娘まで失うのが怖くないのか?この裁判で、昔の君と同じように卑怯な手を使うこともできるんだ」
理恵は息を呑んだ。
まさか、正義感の強い弁護士が、愛のためにここまで原則を曲げるとは。
確かに、彼と争う力はなかった。「竜也、誰にも娘を脅させない。誠のお母さんへの1000万円は払う。でも、娘は絶対に渡さない!」
竜也は息を吐き出し、絞り出すように言った。
「君の娘は今年5歳。俺たちが別れて6年。年齢も目の下のほくろも一致する。彼女は俺の子供なのか?」
理恵の喉に、再び生臭い味がこみ上げてきた。
彼女は驚き、胸元を抑え、目に涙が浮かんだ。「竜也、娘のことなんて、あなたに知る資格はない!
あの子の父親が、卑劣な人間であるはずがない」
理恵は慌てて逃げ出し、路地の角に身を隠した。
竜也に見つからない場所に隠れてから、彼女はついに血を吐いた。
竜也に娘を奪われることが、怖くてたまらなかった。
第4話
理恵は、竜也に弱みを握られたくなかった。
生き残ることと娘を守ることの間で、理恵は後者を選んだ。
ー
翠は庭に座り込み、ふっかけてきた。「考え直したの?この前、1000万円を要求した時に払わなかったよね。2日経った今、1200万円払ってもらうわ!」
理恵は痩せ細った指先でキャッシュカードをテーブルに置いた。頬のこけ方は数日前よりひどくなっていた。
「私はもうすぐ死ぬのです。今月もつかどうかも分かりません。それでも私たち親子を追い詰めるっていうなら、私の死後、1200万円どころか120円たりとも渡しません。
このカードには992万160円入っています。誠との約束です。彼と結婚した以上、代わりにあなたの面倒を見ます」
理恵はウィッグを外し、まばらな頭頂部を露わにした。
そして口紅を拭き取ると、唇は紙のように白くなった。
病院の診断書を広げ、翠の前に突きつけた。
翠は口元を歪めた。「ふん!短命な女。あの疫病神みたいな娘なんか、くれてもいらないわ。この金は、私への孝行料ってところね!」
翠との一件を済ませた後、理恵は両親の墓地を訪れた。
墓石の前に跪き、埃をかぶった写真を何度も拭った。
「お父さん、お母さん、もうすぐそちらへ行くわ。
ただ一つ心残りなのは、結衣のこと。あの時、医者はこの子を諦めるように言った。それでも私は産むことにした。自分がこんな体で、人の命を粗末にするなんて考えられなかった。あの子は健康な子。私みたいなダメな母親より、もっと幸せに生きてほしい。
生きてさえいれば、どんな困難も乗り越えられるはず。お父さん、お母さん……どうしてあの時、もう少し頑張れなかったの……」
理恵は声を上げて泣いた。
「竜也と前田は結婚した。あんなに私を愛してくれた人を、この手で他の女のところへ追いやった。
でも、自分を責めるつもりもないし、竜也を責めるつもりもない。あの状況で、もしお父さんとお母さんが生きていたら、きっと私が彼の足手まといになることを望まなかったはず」
理恵は帰る途中、裁判所から電話を受けた。翠が訴えを取り下げたという。
そして次の電話は病院からだった。
「田村さん、あなたの娘さんが遊園地で喧嘩をして、病院に搬送されました!」
病院の手術室前にはたくさんの人が集まっていた。
理恵が息を切らせながら顔を上げると、石田家の両親が目の前に立っていた。
大きなお腹の佳奈は、脇に座って涙を拭っていた。
竜也の母親の石田南(いしだ みなみ)は手を振り上げて理恵を平手打ちした。痩せ細った理恵の体は、まるで骨と皮だけで、よろめいて倒れそうになった。
「いい格好するんじゃないわよ!
竜也の将来を潰した上に、娘を使って私の孫を傷つけるなんて!あんたの娘の命は、私の孫の指一本にも及ばない!
まさに子は親に似るっていうことね。あんたが根性悪いから、娘も生まれつき悪い子なんだ!」
理恵は重要なことに気づいた。竜也にはすでに子供がいる。佳奈が妊娠しているのは二人目だ。
目が熱くなり、頭は何かで殴られたようにずきずきと痛んだ。
二人の子供の年齢は同じ。別れてすぐに竜也は佳奈と一緒になったんだ……
南が再び振り上げた手を、理恵は掴んだ。
「うちの娘はいい子です。あなたの孫が、彼女に何をしたのか教えてほしいですね!」
そこに、駆けつけた竜也が現れた。
「何をするつもりだ!」
竜也は理恵の腕を掴んで振りほどこうとした。しかし、彼女はあまりにも軽かった。
そのまま床に倒れ、なかなか起き上がれない。
理恵が顔を上げると、右頬の赤い掌の跡が目に入った。竜也はとっさにうろたえた。
佳奈は泣き腫らした目で、「お願いだから、私の子供を助けて」と、突然土下座をした。
佳奈は泣き腫らした目で、どさりとひざまずいた。
「田村家を告発したことを恨んでるのね。私に何をしてもいいから、竜也と子供たちだけは許して。お願い!」
竜也は佳奈を立たせ、「佳奈、これはお前のせいじゃない。田村家は自業自得だ!
土下座すべきは、あっちだ!」
理恵の体は震えた。父は心から竜也を気に入り、実の息子のように思っていたことを思い出した。
なのに竜也は、父の死は当然の報いで、田村家の没落は自業自得だと言った。
「あの事件で、みんな被害者だった。でも、あなたたちはまだ生きて復讐できる。私の両親は、汚名を着せられたまま死んでいったのよ!
前田、本当の被害者は私かあなたか、まだわからないわ!」
竜也は眉をひそめた。半信半疑ながらも理恵を心配し、思わず近づこうとしたが、佳奈が腕を掴んで泣きじゃくった。
手術室のドアが突然開いた。
「田村結衣さんの保護者の方はいらっしゃいますか?」
理恵は床から立ち上がり、「私です!」
医師は厳しい口調で言った。
「今はピーナッツアレルギーでショック状態です。腕の骨折とアレルギーの治療を同時に行わなければなりません。まずは、費用をお支払いください!」
そばに立っていた竜也はハッとした。竜也もピーナッツアレルギーだったのだ。
第5話
理恵は支払いを済ませると、非常口を通り過ぎようとしたところで、竜也に腕を掴まれた。
竜也は彼女を壁に押し付け、どこか狂気じみた目で睨みつけた。
薄暗い階段の照明が、異様で、どこか曖昧な雰囲気を醸し出していた。
かつて、大学時代の廊下で、こうしてこっそりキスをしたこともあった。
しかし今、彼は冷酷な声で問い詰めた。「理恵、あの子は俺の子なのか?」
男はすぐ近くに顔を寄せ、佳奈がよく使うフルーティな香りと、かすかなウッディな香りが混ざり合っていた。
彼の匂いは、もう以前と同じではなかった。
理恵は嘲るように笑った。「石田先生、そんなに父親になりたいの?もう二人も子供がいるのに、他人の娘まで欲しがるなんて。貧乏学生だったあなたが京市で有名な弁護士になるなんて知っていたら、子供を作っておくべきだったわね」
竜也は、まんまと挑発に乗ってしまった。
彼は壁に思い切り拳を叩きつけ、理恵の腕を掴んだ。「理恵!
結衣の本当の父親を俺が突き止められないとでも思っているのか?彼女は京市で生まれたんだ。
君が海外に行ったと思っている間も、ずっと京市に隠れていたんだろ。
水商売で体を売って……そんな母親に親権を持つ資格があると思うのか?」
理恵は全身が硬直し、彼を突き飛ばした。
「母親の愛情の深さは変わらないでしょう。石田先生、沢山の裁判を扱ってきた弁護士なのに、どうしてそんな狭い了見なの」
竜也のスマホが鳴り、画面には佳奈の名前が表示された。
彼は非常口を出て行った。振り返れば、壁にもたれかかり、ゆっくりと崩れ落ちていく理恵の姿が見えたはずだ。
しかし、彼は足早に、そして冷酷にも去っていった。
理恵は大量の血を吐き、震える手でティッシュで拭い、口紅を塗り直した。
病室。
結衣のベッドの脇に、可愛らしい人形が置かれていた。
「ママ、今日はわざとケンカしたんじゃないの。英樹くんが先に悪口を言ったの……殺人犯の孫だって。前田さんがおもちゃをくれたの、英樹くんの代わりに謝るって」
理恵は結衣のふっくらとした頬を撫でた。「前田さんは他に何か言ってた?」
「パパはどこにいるのかって聞かれた」
理恵の胸はドキッと鳴り、緊張が走った。
「結衣はどう答えたの?」
結衣は寂しげな目でドアの隙間を見つめた。「パパは遠くで仕事をしているって言った。
あの人は英樹くんのパパだから、もう私のパパじゃないって分かってる。
ママ、ここから出て行こう」
理恵は泣きながら娘を抱きしめた。「結衣、いい子ね。ママとかくれんぼしようか?
おばあちゃんと一緒に海外に隠れるのよ。誰にも見つからないようにね。ママは仕事が終わったら迎えに行くわ。負けた方が、ぶたさんになるのよ」
結衣の幼い顔に笑みが広がった。「うん!ママを待ってる。
でも、ママ……」
彼女は言いかけて言葉を止め、涙で潤んだ瞳で訴えかけるように見つめた。
「パパに、もう一回会いたい」
理恵の指先は震え、胸の奥に抑え込んだ葛藤を物語っているようだった。
「じゃあ、最後に一回だけね」
―
薬が切れそうになった頃、理恵は体調の良い日を見計らって結衣を連れて階下へ降りた。
結衣はスケッチブックを持ち、透明なガラスのドアに張り付き、ドア一枚隔てた距離で、竜也と男の子が親密に接する様子をじっと見つめていた。
竜也は優しく男の子をおんぶしたり、鼻をくすぐったりしていた。
男の子が甘えて足にしがみついてくると、嬉しそうに抱き上げて、くるくる回してあげている。
理恵は結衣を連れて帰りたかったが、結衣はそこに立ち尽くし、まるで彫像のようだった。
本当は自分のものであったはずの幸せを覗き見て、理恵を悲しませたくない一心で、涙をこらえていた。
「結衣、もう行こう」
結衣は珍しく意志を曲げず、潤んだ瞳で理恵を見つめた。
「パパの顔を、もっとはっきり覚えておきたいの」
そう言って、結衣は地面に座り込み、怪我をしていない方の手でクレヨンを握った。
数分後、男性の後ろ姿が紙の上に浮かび上がり、手には女の子の手が握られていた。
「ママ、私が海外に行ったら、この絵をパパに渡して」
理恵は、こくりと頷いた。
家に帰る頃、親友の上田花梨(うえだ かりん)から電話がかかってきた。
「理恵!竜也が、あなたが昔出産した病院を探し当てたわ!あなたの出産記録を調べているみたい!」
第6話
理恵はため息をついた。彼の仕事の手際の良さは昔から知っていたが、まさかここまでとは。
「もう30近いんでしょ。そんな昔の恋なんて、覚えてるわけないでしょ?
結衣の父親が誰なのか気になるのも当然だわ。調べるのも当たり前だから……まあ、彼は結婚してるけどね」
結婚したってことは、もう完全に他人だ。
ガラスドア一枚隔てた、別の世界の人間なんだ。
あの頃の思い出は、美しい夢だったと思うことにしよう。
過去に生きるのも、悪くない。
「理恵……つらいでしょ?」
理恵が長い間沈黙していると、電話の向こうから話題を変える声が聞こえた。
「でも安心して。彼に渡した情報は偽物」
理恵が電話を切ると、竜也が男の子を連れて目の前に現れた。
男の子は竜也の右手を握りしめ、彼女たちを睨みつけていた。
「泥棒!手に持ってるそれ、僕の絵の具セットだ!
パパ見て、これ、パパが買ってくれたやつ。幼稚園に持って行ったら無くなっちゃったの。結衣が盗んだんだ!」
結衣は小さな声で説明した。
「ママ、盗ってないよ。この絵の具セットは、先生がくれたご褒美なの。
英樹くんの絵の具セットは、彼が壊してゴミ箱に捨てちゃったんだよ」
理恵は結衣を背中に隠し、竜也をじっと見つめた。
竜也は眉間にしわを寄せ、絵の具セットを見た。確かに自分が買ったものと全く同じだった。
「こんな年で嘘まで覚えるとはな。理恵、大したものだ。
絵の具セットくらい、くれてやれ」
英樹は竜也の手を離し、走り寄ると結衣の腕から絵の具セットを叩き落とした。
「嫌だ!これはパパがくれたプレゼントだ!あげない!」
絵の具セットは床に落ちた。
竜也は写真の中の男が小さな女の子の手を引いているのを見て、思わず息を呑んだ。
しかし、よく見る間もなく、英樹に破られて何度も踏みつけられた。
結衣は母の足にしがみつき、大声で泣いた。
「石田先生、息子さんは娘に謝るべきでしょ!」
竜也はキャッシュカードを取り出し、理恵に差し出した。
「200万円あげるから、これで謝らなくてもいいでだろ?くだらない子供の喧嘩に、いい大人がムキになるな。
謝るって言うなら、君が前田家の墓前で土下座して謝るべきだろうが!」
理恵はめまいがしてよろめいた。またあの急激な目眩が襲ってきた。彼女は結衣の手を引いて急いでその場を立ち去った。少しでも異変に気づかれるのが怖かった。
しかし、竜也の目には、田村家が犯した過去の過ちから逃げているように映った。
トイレで、理恵は最後の薬を飲み込んだ。
もう時間がない。
トイレの外で、結衣は一人で膝を抱えてうずくまっていた。
彼女は泣いたり騒いだりせず、「ママ、私は泥棒じゃないよ」と言った。
理恵は床に膝をつき、娘を抱きしめた。「結衣は世界一のいい子だよ。
結衣の絵はパパに見てもらえない。それに、ママはもうパパに会いたくない」
理恵はその夜、叔母と娘が京市を離れる飛行機を予約した。
足取りをくらますため、彼女はあえて京市のアパートに残った。
田村家を恨む人間が多すぎる。理恵がいなくなれば、娘と叔母の居場所が追われることになる。
ここにいれば、誰も娘と叔母を追わない。
理恵は一人でがらんとした部屋に座り、写真を何度も何度も拭いた。
ベッドの脇には娘の腕時計、飲みかけのヨーグルトのストローには、娘がつけた歯型が残っていた。
テーブルの上には髪の毛が三本と、ピンクのヘアゴムが落ちていた。
「もう、ママは結衣の髪を結ってあげられないんだね」
理恵は虚空に向かって話しかけた。深い静寂が彼女を包み込んだ。
この人生で、竜也には申し訳ないことをした。卑怯な手段で手に入れ、そしてあっさり捨てた。
竜也も冷酷だった。たった一人の娘に執着し、娘を手放すしかなくさせた。
その時、花梨から電話がかかってきて、沈黙が破られた。
「理恵!竜也がまた来た!今度は、どこからか詳しい資料を手に入れたらしい。
明日、きっと結衣ちゃんを奪いに来るでしょ。どうするつもり?」
理恵は息を吐き出した。「明日、私がまだ生きていたら、彼に真実を話す」
そう言うと、彼女は激痛に襲われ、床に倒れて気を失った。
「理恵、どうしたの?!」
第7話
意識がもうろうとする中、理恵は夢を見ていた。
夢の中では暖かい日差しが差し込み、両親がリビングで夕食の献立について言い争っていた。
娘は駄々をこねながら手を引っ張り、泣き始めた。
「ママ、嘘つき!かくれんぼするって言ったのに、私が隠れたら、ママは二度と来なかった……」
理恵は娘の両手を掴もうとするが、何度も空振りに終わった。
そして、初々しい頃の竜也が、大学のキャンパスでからかわれて顔を赤らめている夢を見た。
しかし、次の瞬間、大人の男になった竜也が彼女の首を締め上げ、問い詰めていた。
「理恵、惚れさせて捨てていくゲーム、楽しかったか?」
理恵は説明しようとするが、喉に何かが詰まったように声が出ない。泣き叫んでも、竜也は振り返ることなく去っていった。
病院では、花梨が救急室の外で心配そうに待っていた。
医師がドアを開けて出てきて、どうしようもなく首を横に振った。
「お金はいくらでも払います。どうか、もう一度考えてください!彼女の娘はまだ5歳で、彼女もまだ30にもなっていないんです……」
医師は額に汗を浮かべていた。
「もう手遅れです。どうすることもできません。これ以上手術をするよりも、安らかに逝かせてあげた方がいいでしょう……」
花梨は、足元がふらつき、壁にもたれかかった。
病室では、彼女は理恵の痩せ細った手を握りしめていた。
何度も何度も竜也に電話をかけた。10回以上かけたが、10回以上切られた。
最後の電話では、男の周りの騒がしい歓声だけが聞こえた。
「竜也、あの時、理恵があなたと別れたのは……」
竜也はすぐに言葉を遮った。「過去のことなど、もう忘れた。
理恵に伝えろ。佳奈に謝罪するまで許さない。謝罪しないなら、俺が無理やりにでも謝らせると」
ツーツーツー……
理恵は苦しそうに息をしていた。
「もういい……彼を恨んでなんかいない」
ドアの前を、引き出物袋を持った数人の看護師が通り過ぎていく。
「石田先生は奥さんを本当に大事にしてるわね。奥さんが出産したからって、病院中の医者と看護師に引き出物を配ってるのよ」
「ええ、奥さんは大変な出産だったらしいわ。輸血もしたとか……」
花梨は、血の気が引くのを感じた。
竜也はこの病院にいる。もしかしたら、ほんの数階上かもしれないのに、理恵の最期に立ち会おうともしない。
花梨は思わず理恵の耳を塞ごうとしたが、理恵がすでに涙を流していた。
「私たち二人のうち、一人でも幸せになればそれでいい。
石田先生のお祝いのおすそ分けをもらったから、来世は私もきっと幸せになれる」
心電図が突然一本の線になり、理恵の開いていた手からピンク色のヘアゴムが落ちた。
「ご愁傷様です」
病室は泣き声に包まれたが、廊下の外では新しい命の誕生を祝う笑い声が続いていた。
若い看護師が持っていた、竜也の娘の誕生を祝う引き出物の一つが落ち、理恵の病室の前に転がってきた。