彼女は星河とともに輝く

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彼女は星河とともに輝く

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親友の弟と4年間、ひそかに恋をしていた。 かつては両想いだと思っていたが、まさかそれは彼女の妄想に過ぎなかった。

Chương (1)

第1章

親友の弟と4年間、ひそかに恋をしていた。 かつては両想いだと思っていたが、まさかそれは彼女の妄想に過ぎなかった。 第1話 「清花、大ニュース!うちの無口な弟、なんと私に隠れてこっそり恋愛してたのよ!」 その言葉を聞いた瞬間、神原清花(かんばら きよか)は思わずスマホを握る手を止めた。 なぜなら親友の口にした恋愛相手こそ彼女であり、しかも彼女は親友の弟とすでに4年間も密かに恋をしていたからだ。 最初は親友との関係もあって言い出せなかったし、付き合い始めた頃は東山優吾(ひがしやま ゆうご)がまだ高校を卒業したばかりだったから、ずっと隠していた。 まさか彼が大学を出たばかりで関係を公にするなんて思ってもみなかった。 そう考えた清花は、無意識に微笑んで口にした。 「彼、知佳に話したの?」 「そんなわけないでしょ」東山知佳(ひがしやま ちか)は興奮した声で続けた。 「優吾の彼女さん、どうやら今日ちょうど帰国したみたい。彼はクラブで歓迎パーティーを開いてるの……」 清花は遮った。 「それ、間違いじゃない?」 「間違いないって。優吾って、普段は誰に対しても冷たいでしょ。 なのに、今夜はその子のためにお酒を引き受けたり、プレゼント渡したり、ずっとその子から目を離さなかったのよ。 あの眼差し、優しすぎて鳥肌立ったわ……」 知佳はまだ喋り続けていたが、清花の耳にはもう何も入ってこなかった。 清花は聞き間違えたんじゃないかとさえ思った。 我に返った彼女は、震える声を押し殺し、平静を装って尋ねた。 「二人、どれくらい付き合ってたの?」 「それは知らないけど、聞いた話だと、ずいぶん前から優吾がその子を追ってたみたいよ。 それがね、結構一途なの。高校の頃からその子を追いかけてて、本来ならトップ校に行ける成績だったのに、彼女のために志望を変えたんだって。でもね、結果どうなったと思う? その子にはもう好きな人がいて、憧れの男を追って留学しちゃったの。優吾、それでだいぶ落ち込んでたわ。 後で、その子が海外でトラブルにあったと聞くと、すぐに飛んで行ったの。この数年、往復の航空券だけで束になるくらいよ…… これも母さんから聞いた話なんだけど、ずっと私はその子がどんな人なのか気になってたの。 だってあの高嶺の花と呼ばれる優吾が、何年も忘れられないなんて!で、今日ついに本人を見たの。さて、どんな発見があったと思う?」 数秒の沈黙の後、清花は喉からやっと搾り出すように「知らない」と答えた。 「その子、あなたにそっくりだったの!特に目元なんて。最初見たとき私も混乱したくらい。まさか本当に失踪した妹とかいないよね……」 その一言一句が雷鳴のように清花の耳に響き渡り、頭の中で轟音を立てた。 胸の奥に恐ろしい予感が広がっていく。 清花は全身の血液が凍るようで、手足が骨の髄まで冷え切ったと感じた。 そして彼女はふいに、優吾が高校を卒業した日、カラオケで泥酔し、旅行中の知佳に代わって自分が迎えに行ったことを思い出した。 彼女はやっとの思いで優吾を家まで連れて帰ったが、玄関を入った瞬間、キスされた。 彼の仕草は強引で荒々しく、逃れるすべはなかった。 少年特有の清々しい酒の香りが彼女を包み込んだ。 彼女はだんだんと、その酔いに頭がくらみ、立っていられないほどになった。 しかし優吾は、彼女のぎこちない反応に気づくと、気だるげに笑った。 「清花さん、キスしたことないの?」 その一言で清花は一気に正気に戻り、勢いよく彼を突き放した。 「優吾、よく見なさい。私は誰だと思ってるの」 優吾は気にも留めず、にやりと笑いながら再び近づき、熱を帯びた身体を彼女にぴったりと押し当てた。 「わかってるよ。清花さんは、俺のことが好きなんだ」 確信に満ちた声だ。 まるで心の奥を暴かれたようで、清花は恥ずかしさに視線を落とした。 「ち、違う……」 「否定するのはまだ早いよ」 優吾は無造作に彼女の顎を持ち上げ、視線を絡める。 その黒い瞳の奥に、まるで星空のような輝きが映っていた。 「清花さんの瞳は、嘘をつけない。チャンスをあげる。俺を押しのけて……」 体にまとわりつくアルコールの匂いが、彼女の頭の中のわずかに残った冷静さを刺激している。 不思議と、暴れていた鼓動が急に静まり、彼女は大胆にも少年の視線を真正面から受け止めた。 すると唇に、ふいに柔らかい感触が落ちた。 少年は理屈も抜きに彼女の後頭部を掴み、押さえつけるようにして軽くキスをした。 やがて彼女はその優しくも熱い口づけに沈み込み、抜け出せなくなっていった。 その夜が彼女の初めてだった。優吾はまるで飽くことなく、ひと晩中彼女を抱き続けた。 最中、彼は身を屈めて彼女の瞼に口づけ、低く甘い声で囁いた。 「いい子だ。目を開けて俺を見て。お前の目……本当にきれいだ」 しかし実際に、彼は「きれい」ではなく「彼女に似てる」と言っていたのだ。 彼が泥酔していたのは、愛してやまない思い人が他の男を追って海外へ行ってしまったから。 彼女と一緒にいたのは、ただの八つ当たりだった。 情を交わす最中に、彼女の瞳を見つめていたのも、彼女を替え玉にしていたから! ずっと堪えてきた涙が、ついに溢れ出した。 清花は嗚咽を必死にこらえ、電話を切った。 そのとき、玄関のドアがノックされた。 気持ちを整え、彼女はドアを開けた。 「清花さん、優吾が飲みすぎちゃって。まあ、送ってきたけど」 清花は礼を言い、優吾を受け取った。 珍しく素直に、優吾は頭を彼女の肩に埋め、かすかに呟いた。 「行かないで……薫乃(ゆきの)」 その言葉が出た瞬間、部屋の空気は凍りついた。 「えっと……清花さん、誤解しないで。今日は友達の誕生日だ。優吾が楽しさのあまり酔っ払っちゃって、みんなを帰したがらなかっただけさ」 清花は無表情でうなずいた。 その平静な顔に安心した鈴木聡真(すずき そうま)は、急いで優吾をベッドに運ぶと、逃げるように去っていった。 清花はベッドの縁に腰を下ろし、ふとした衝動で枕元のテーブルに置かれたスマホに目をやった。 4年付き合って、彼女は一度も彼のスマホを覗いたことはなかった。 だが今はただ一つだけ、確かめたいことがあった。 知佳の言ったことが、本当かどうかを。 第2話 ロック画面を開いた瞬間、最後の望みは打ち砕かれた。 清花は、優吾のスマホの壁紙を見つめ、長い間動けなかった。 壁紙は粗い画質の拡大写真で、卒業の集合写真を切り抜いたものらしい。ポニーテールの少女が明るく笑っていて、その瞳は清花とよく似ていた。 似ていないわけがない。 なぜなら、その少女は清花と母を同じくする異父妹だから! 清花は指先を震わせながら、電源を落とそうとしたその時、ラインの通知が飛び込んできた。 【みんな、さっき優吾が清花さんを抱きしめて、薫乃って呼んでたんだ。もう死ぬかとと思ったよ。とっさに場を繕ったけど。 でも、優吾が薫乃の鬱憤を晴らすためにわざと清花さんと付き合ってるさ。 もし清花さんがそんなことを知ったら、大騒ぎするんじゃね?】 【やっぱ優吾は情け深いよな。薫乃のためなら、気持ち悪くても年上女と寝れるんだから。でも優吾、いつまで遊ぶつもり?最初は遊んだら捨てるって言ってなかったっけ?】 【てか清花さん、歳はいってるけど、スタイルも顔もいいよな。もし優吾が飽きたら、俺が追ってもいい?】 その後もグループチャットは彼女をネタに汚い言葉で盛り上がっていた。 清花の体は制御できないほど震え始めた。 彼女は震える手でチャット画面を閉じようとした。 一枚のセンシティブな写真が投稿され、続けて音声が流れた。 「あなたたち、そんなに彼女の身体に興味あるなら、軽く一枚送ってあげるよ」 グループチャットは一気に沸き立った。 【やべぇ、これマジでやべぇ。どうせ送るならモザイクなしにしろよ!】 【そうだよ!原画頼む!でも正直、清花さんって普段は清楚ぶってるくせに、ベッドじゃこんなに激しいなんて、そりゃ優吾が4年も手放せないわけだな!この表情、セクシーだな】 【もっと見たきゃ自分で優吾からもらいなさい。これ、彼が私を怒らせた時に渡してきたの。モザイクは私の目を守るためだとね】 【優吾ほんとに最高だぜ。薫乃、早く優吾と正式に付き合いなよ。これだけ愛されてるのに、まだ試すつもり? あの時、お前のためじゃなかったら、優吾は清花さんに見向きもしなかっただろ】 議論は盛り上がり続けたが、清花の頭の中は「ブン」と鳴り、何も見えず、何も聞こえなくなってしまった。 清花は、優吾がただ彼女を代役として扱っていただけだと思っていた。 だが真実は、木村薫乃(きむら ゆきの)のために彼女を徹底的に壊そうとしていたのだ。 いつの間にか撮られていた彼女の写真や動画が、彼によって薫乃を喜ばせる道具にされていた。 どうして? 母親は重体の父親を嫌ったから、夫と娘を見捨て、他の男と再婚したのだ。 そして、薫乃こそが母親の不倫によって生まれた子供だ。 それなのに、どうしてみんなが薫乃の味方で、清花を罵るの? 彼女は何も間違っていないのに! 胸を刺すような痛みに襲われ、涙が頬をつたった。 清花は慌てて拭いながら、自分のスマホで画面録画を始めた。 チャットの履歴を遡ると、ほとんどが清花を陥れる相談ばかりだった。 深夜に彼女を優吾を迎えに行かせ、彼らが仕組んだ不良にからかわせた。 わざと彼女の生理中に優吾に酒を飲ませ、彼女が痛みに耐えながら彼の代わりに酒を飲む姿を見るためだった。 …… 一つ一つの仕打ちが、刃のように清花の心に突き刺さった。 涙で視界がにじみ、彼女は嗚咽が漏れそうになるのを必死に噛み殺した。 チャットを閉じたその時、鮮やかなピン留めマークが目に映った。 「未来の妻」と名付けられた。 その下に並ぶ、彼女との会話欄には通知オフの表示マークがあった。 だがもう確かめる気力もなく、清花はただ盗撮された写真や動画を削除したかった。 しかし、彼女は見つけられる限りの保存アプリを探したが、何も見つからなかった。せめてもの慰めとして、彼はあの1枚しか撮っていないのかもしれないと考えるしかなかった。 清花はスマホを元の場所に戻し、心の中はひどく寒々しかった。 二人の関係が落ち着いていた後に、彼女が知佳に打ち明けようとしたとき、彼が何度も言い訳して公にしたがらなかったわけだ。 どうやら、彼女が恋愛だと思っていたものは、実はただの代役としての一方的な思い込みにすぎなかったようだ。 スマホの着信音が、静かな夜に響いた。 清花はほとんど反射的にスマホのスピーカーを押さえ、スマホを手にしてリビングのベランダへ向かった。 電話に出ると、すぐにスマホから上司の声が聞こえてきた。 「神原、前回話した件、どう考えたか?支社の方はちょうど人手が足りない時期だ。 事業を立ち上げたばかりだから、最初は少し大変かもしれない。 だが、君の能力ならマネージャーとしてしっかり任せられると思う……」 「ありがとうございます、会長。私、転勤します。引き継ぎに2週間ほどいただけますか」 第3話 「いいぞ。若い人は挑戦する気持ちが大事だ。神原、会社も君に期待してる。頑張れ」 清花は簡単に返事をして通話を切った。 それから慣れた手つきで別の番号をかけると、すぐに相手が出た。 「清花、どうして急に電話を?」 懐かしい声を耳にした瞬間、清花の喉は思わず詰まった。 長い沈黙に、清花の父である神原健雄(かんばら たけお)は慌てて何度も呼びかけてくる。 やっと声を落ち着かせて、彼女は軽く笑うように言った。 「なんでもないの。ただ、昇進して南市に行くことになったって伝えたくて。お父さんも一緒に来ない?」 健雄はほっと息をつき、笑い声を交えた。 「俺の体じゃ、もう遠出は無理だ。新しい町はお金もかかるし、君は自分を大事にしな。俺の病気は、一日生きられたらそれで儲けだ……」 「お父さん!」 清花は遮った。 「一番苦しい時期は乗り越えたの。今は私が稼げるようになったんだから、腎臓のドナーさえ見つかれば必ず良くなる。 だってまだ私の結婚式、見てもらわなきゃいけないんだから」 数秒の沈黙の後、健雄はため息を漏らした。 「清花……その彼氏、いつ会わせてくれるんだ?」 彼は、娘の結婚の日を自分が迎えられないのではないかと、そして娘が誤った相手に嫁ぐのではないかと恐れた。しかし、彼は何も言えなかった。 なぜなら、清花は彼という重荷を抱え、すでに多くの辛さを背負いながら生きてきたのだから。 「わかった」清花は微笑んだ。「今週末、連れて行くよ」 健雄は何度も頷き、喜びのあまり声に笑みがにじんでいた。 電話を切ったあと、清花は別の部屋に移り、夜明け前にようやく眠りに落ちた。 どのくらい眠っていたのか分からぬまま、ぼんやりしていると、額にひんやりと湿った感触を覚えた。 彼女ははっと目を覚ました。 目を開けると、目の前には見慣れた顎と喉仏があり、鼻先にはほのかな入浴の香りが漂っていた。 彼女が目を覚ますと、優吾は思い切って身をかがめ、低く笑いながら彼女の唇にキスをしようとした。 清花は反射的に顔をそらして避けた。 彼は一瞬驚き、すぐに冗談めかして笑った。 「どうした?恥ずかしい?」 清花は咄嗟に彼を押しのけ、慌てて言葉を適当に並べた。 「お腹すいてる?」 彼女の話題転換に、優吾は追及せず、片肘をつきながら眉を上げて答えた。 「すいてる」 風呂上がったばかりのせいか、その声はかすかに掠れて響いた。 「じゃあご飯作るね」 そう言いながら、清花は慌てて立ち上がり、ただ現場から逃げ出したかったが、腰を抱き寄せられて再びベッドに押し戻された。 「まずはお前を味わいたい」 彼女が言葉を発する間もなく、唇を塞がれた。熱を帯びた息が唇からゆるやかに下り、首筋で淫らに這うように伝わっていく。 清花は唇を固く噛みしめた。 彼女は思わず、彼と薫乃もベッドで同じようなことをしているのだろうかと考え始めた。その瞬間、言いようのない嫌悪感が込み上げてきた。 清花は勢いよく彼を押しのけ、洗面所へ駆け込んで吐き出した。 鏡の中で、優吾は複雑な表情で彼女を見つめていた。 「前回、生理はいつだった?」 清花は一瞬ぽかんとした後、腰をかがめて冷たい水で顔を洗った。 「最近は胃腸の調子が悪いだけ」 優吾のきつく引き締まった眉と目元が、思わず少し緩んだ。 「なら食後に一緒に検査に行こう」 清花はうなずき、数秒ためらった後、ようやく言葉を選びながら口を開いた。 「今日の午後、お父さんに会いに行ってくれる?」 優吾はドア枠にもたれ、スマホを眺めながら気のない返事をした。 「うん」 意外にも彼がこんなにあっさりと承諾したことで、清花の心に思わず少し異様な感情が湧き上がった。 本心か、嘘かは分からない。だが、父を安心させるために、少なくとも今の彼女は打ち明けられない。 清花はキッチンに向かった。 やがて麺を茹でて持ってくると、彼はすでに服を整え、玄関へ向かっていた。 「急用ができた。病院は一人で行って。何かあったら電話してくれ」 「じゃあ午後は……」 「俺のスマホに場所を送っとけ」 次の瞬間、ドアの閉まる音が、清花が今まさに口にしようとした言葉を遮った。 彼女はもう何も言わず、テーブルに座って、麺を二口ほどすすっただけで、食欲がなくなった。 清花は箸を置き、薬局へ妊娠検査薬を買いに行った。 そして赤い二本線が浮かび上がった瞬間、顔色は蒼白に変わった。 第4話 彼女は我に返ると、スマホの着信音が鳴っていた。 妊娠検査薬を洗面台の上に置き、彼女は立ち上がって電話に出た。 「お父さん?」 「清花、朝からたくさん買い物してきたぞ。君たちはそのまま来ればいい。余計なものは買うなよ」 清花は眉をひそめた。 「約束したじゃない、私が帰ってから準備するって。昨日透析したばかりなんだから、ちゃんと休まないと」 健雄は抑えきれない嬉しさをにじませた。 「婿さんが初めて家に来るんだぞ。礼を尽くさないと。それに、嬉しいんだ」 清花はそれ以上言わず、ただ「じゃあ帰ったら一緒に作ろう」と慌てて言った後、電話を切った。 父娘は午後いっぱいかけてごちそうを準備した。だが料理が冷めても、優吾は現れなかった。 途中で、清花は彼に送ったメッセージも、すべて返ってこなかった。 健雄の顔色が陰ったのを見ると、清花は必死に場を取り繕い、ベランダに出て再び彼に電話をかけた。 今回は、電話の呼び出し音が最後まで鳴り続け、ようやく繋がった。 「もう来てる?父はずっと待ってるの」 その言葉に、相手は何かを思い出したかのように、はっとした口調になった。 「ああ、すまない。会社の研修で忙しくて、時間を忘れてた……」 すると急に、スマホから騒がしい声が割り込んできた。 「うるさいわね。彼女の父親なんて病気なだけで、死んだわけじゃないでしょ?その会食、行かないとダメなのかよ!」 言い終えると、向こう側から大笑いが起こり、誰かが茶化した。 「薫乃、これ嫉妬か?」 「だ、誰が嫉妬よ!」 「はいはい、意地を張るね。ま、優吾が我慢できるから、精々騒ぎ立てればいいさ。ハハハ!」 …… 笑い声が遠ざかっていく。 優吾はは片手でスマホを押さえながらベランダへ出た。 手すりにもたれながらタバコを取り出して、火をつけた。その声はかすれていた。 「清花、俺まだ新入社員だろ。特権を濫用するわけにいかない。上司が帰すなって言うんだ。改めておじさんに詫びに行くから、それでいいか?」 上司? 清花は思わず冷笑した。 ――まあ、薫乃も上司のようなものだ。何せよ、彼は薫乃の忠犬なのだから。 清花は無意識にスマホを握りしめ、口を開こうとしたが、スマホの向こうからせかす声が遠くに聞こえてきた。 「優吾、まだ?次はお前の番だぞ!」 清花の唇は皮肉に歪んだ。 「わかった」 優吾は煙草を揉み消し、笑みを含んだ声で言った。 「いい子だな。やっぱりお前は一番理解がある。今夜、帰ったらちゃんと埋め合わせしてやる」 電話を切ると、清花は食卓に戻り、できるだけ明るく言った。 「お父さん、彼が会社で急用ができて来られないって。二人で食べよ。私、温め直してくる」 健雄は彼女の手を軽く叩き、座らせた。 「清花、俺は生きてる間に君が家庭を持つのを見たい。でも俺を安心させるために妥協する必要はない。結婚が幸せの上に成り立たないなら、しなくていいんだ。 俺の娘は、いつだってやり直せる力を持ってる」 清花はの鼻の先が少しツンとした。 彼女はうつむき、健雄に赤くなった目を見られたくなかった。しばらくして、ようやく顔を上げて微笑んだ。 「わかってる。珍しく褒められると、なんだか気恥ずかしいね」 健雄は、清花が負けず嫌いで、どんなことも自分ひとりで抱え込み、人前で弱さを見せるのを好まない性格だと知っていた。 だから彼も、それを暴かず、冗談めかしてその場をやり過ごした。 ほどなく二人は食事を終えた。清花は食器を片付けてから、健雄としばらく話をした。出かける直前、健雄はたくさんのパックを清花の手に押し込んだ。 彼女には、中身が自分の好物ばかりであることがわかっていた。 家に戻ると、清花はパックを食卓に置き、二階で荷物をまとめ始めた。 彼女がスーツケースを持って階下に降りてくると、優吾はいつの間にか戻っており、キッチンからコップを手に出てきた。 目が合った瞬間、優吾は気だるそうに眉をぴくりと動かした。 すぐに彼の視線は、彼女の手にあるスーツケースに向けられた。 第5話 「どうした?また出張か?」 優吾は、彼女に話す間も与えず、勢いよく一歩前に踏み出すと、腰をかがめ、長い腕で彼女を肩に担ぎ上げた。 清花は反射的に驚きの声をあげた。 目まぐるしく回る中で、彼女の体は柔らかいソファに投げ込まれ、衝撃で頭がぼんやりした。 彼女がまだ正気を取り戻す前に、優吾は身を乗り出し、彼女の上に覆いかぶさった。 男の声はだるそうで魅力的な声が、酒の匂いを帯びて耳に落ちた。 「じゃあ、時間を無駄にしないで楽しむか?」 温かな吐息と清々しい香りが、彼女の震える睫毛を撫でた。 清花は本能的に身をよじって抵抗した。 その拒絶を察したのか、優吾は彼女の腕を握る力を急に強めた。そして、もう一方の手で落ち着かないように動く腰を押さえながら、膝を彼女のこわばった両足に押し当てて、完全に逃げ道を塞いだ。 そして彼はすぐに顔を下げ、清花の唇を塞ぐと、指先で慣れたように彼女の情欲を呼び覚ます。 彼は彼女の感情に気づいていなかったわけではなく、ただ、いつもこうして争いを鎮めるのに慣れていただけだ。 4年間の付き合いで、揉め事が起きても優吾は一度も折れたことがなかった。 4つ年上の清花は、多くのことをできるだけ譲ってきた。度を越さなければ、彼の好きにさせていた。 しかし、今回は違う。 最初から彼は彼女を騙していたのだから! 清花は混乱の中から正気を取り戻し、必死に彼を押しのけた。 「優吾、私たち、別れよう!」 虚を突かれた彼は、勢いよくソファから押し出された。 その言葉を聞くと、彼は瞬間的に表情が冷たくなった。 「たかが一食のことだろう?そんな小さな事で騒ぐな。もうすぐ30なんだぞ。まだ子供みたいに駄々こねるのか?いい加減にしろよ」 清花は黙々とシャツのボタンを留め、平静に返した。 「私、いつあなたに駄々をこねた?」 まさか今回は彼女がこれほどしつこく食い下がるとは思わず、優吾のもともと少ない忍耐も尽きてしまった。 彼は苛立ちながら冷たい目で彼女を睨んだ。 「もう譲歩してやったぞ。このチャンスを逃すと、もう後がない」 清花は静かに彼を見つめ、目には何の波もなく、感情の揺れもなかった。 「別れるって言ったの」 「別れる?」 優吾はだるそうな口調で彼女の言葉をざっと繰り返し、そして気の抜けたような笑みを浮かべた。 「お前、本気で俺たちが恋人だと思ってたのか?」 清花はぽかんとした。 「どういう意味?」 優吾はあざ笑い、目にわずかに、からかう色を宿した。 「ただのセフレだろ。飽きたら勝手に出て行けばいい」 清花は全身がこわばり、心の準備はしていたものの、胸は思わず痛んだ。 どうやら彼にとって、二人の関係はまともな恋愛ですらなかったらしい。 彼の目には、彼女はただのセフレに過ぎなかった。 「清花」 彼は腰をかがめて彼女と目線を合わせ、意地の悪い笑みを浮かべた。 「最初に言ったはずだ、嫌なら俺を押しのけていいって。でもさ、お前自身が喜んで、俺に抱かれたんだろ?もしかして、ずっと恋人だと思ってた?」 清花は雷にうたれたかのような衝撃に襲われ、全身がひやりとした。 「たしかに見た目は悪くない。けど俺が年上の女と結婚すると思うか?俺がいいって言っても、家族も許さないさ。 なにより、お前は姉さんの友達だ。別れたら友達ですらなくなる。セフレの方がよっぽど気楽だろ? 清花もよく理解していて、俺たちの関係を黙認してると思ってたけど。 何せ、年齢差は事実だ。お前が老け込む頃、俺はまだ若い。まさか結婚なんて夢見てないよな?」 清花は手のひらに爪を食い込ませ、必死に涙をこらえた。 「大丈夫、縋ったりしない。少しだけ時間をちょうだい。荷物をまとめてすぐ出て行く」 そう言い終えると、清花は突然体を背け、涙が一気にこぼれ落ちた。 彼女は思わず、自分のことを情けないと責めた。 分かっていたはずなのに、なぜこんなに心が痛いのか。 彼女は弱さを見せたくなくて、ただうつむいて荷物を片付けるしかなかった。 二人とも黙ったままで、リビングには妙な静寂が漂った。 優吾は指先にタバコを挟んでいたが、一口も吸わず、視線はずっと清花の姿を追っていた。 清花がカップルグッズの自分の分をためらうことなくゴミ箱に捨てた。 それを見た彼の心には、理由もなく苛立ちが湧いた。 ついに、彼女がスーツケースのファスナーを閉め、外に出ようとしたそのとき、優吾はようやく低い声で言い放った。 「今日出て行ったら、帰りたいなど、二度と泣きつくなよ」 清花は玄関まで歩いたが、足を止めて引き返した。 優吾の笑みはまだ広がりきらないうちに、彼女が腰をかがめてゴミ箱から一つのパックを拾い上げるのが見えた。 それは彼が戻ってきたとき、食卓で見かけたものだった。 彼は清花が残したテイクアウトの容器だと思い、考えることもなくそのままゴミ箱に捨ててしまった。 しかし、彼女が大事そうに抱える様子を見て、彼も事態に気づいた。 ちょうど説明しようとしたその時、彼女の声が、波風の立たない水面のように冷静に響いた。 「東山優吾、人の気持ちを踏みにじって、楽しい?」 第6話 清花は自嘲するように笑った。 家事ひとつしたことのない御曹司に、どうして分かるだろう。 これらのものを作るために、健雄は朝6時に起き、数百円の交通費を節約するために5キロ歩いて朝市に行き、最新の食材を買う。 そこれらの些細で日常的なことは、彼の目には全く取るに足らないことなのだ。 だからこそ、彼女はわざわざ口に出して、彼に嘲笑される必要などない。 優吾の目が一瞬揺れた。 だが、言葉を返す前に、突然のドアの音で遮られてしまった。 彼は一瞬呆然としたが、すぐに怒り混じりの笑みを浮かべた。 ――いいだろう。清花がこうして真正面から突っぱねるのは珍しい。 なら今回は、彼女が何日持つか見ものだ。 清花は会社の寮に戻った。 ここ数日は仕事の引き継ぎで慌ただしく、何度か誘ってきた知佳とも会えずにいた。 ついには知佳が直接会社の下まで迎えに来た。 「もうすぐ行っちゃうんでしょ?これからはそう簡単に会えなくなるんだから、今日は何があっても付き合ってよ」 清花は肯定も否定もしなかった。 「じゃあ私が奢る。送別会だと思って。何食べたい?」 「そうね!あの新しくできた鍋屋、ずっと行きたかったの!」 清花が車のドアを開けて乗り込むと、知佳はタッチパネルで曲を探しながら、何気なく問いかけた。 「佐原博史(さはら ひろし)が帰国したみたいよ。知ってた?」 清花の指先が一瞬止まった。 そして、彼女は首を振った。 「高校卒業以来、連絡取ってない」 知佳は唇を尖らせ、それ以上は追及しなかった。 車は一軒の鍋屋の前で停まった。 店内は大勢の客で賑わっており、二人は適当に窓際のテーブルを見つけて座った。 清花は終始黙々と食べ続け、汗をかきながら箸を進めるうちに、ここ数日の暗い気持ちがようやく薄れていった。 以前、彼女は鍋が大好きだった。しかし、優吾は食後に全身に鍋の匂いがつくのが嫌いだった。 そのため、一緒に過ごした4年間で、彼女は鍋の味をほとんど忘れかけていた。 清花が熱々の具材をつまんで知佳のお碗に入れると、その視線はちょうど鍋屋に入ってきた優吾と合った。 彼は右手で薫乃の肩に腕を回し、無頓着で軽い様子を見せた。しかも、彼女が見た瞬間には挑発するかのように眉をひょいと上げた。 知佳は見慣れた姿を見つけ、嬉しそうに手を振った。 「おお、ついに彼氏として認められたの?早く紹介しなさいよ」 優吾は薫乃の様子をうかがってから、彼女を連れて席に着いた。 本当に想う相手には、彼がこんなにも気を遣い、優しくできるのか。 清花と一緒にいるとき、彼は決して折れなかった。いつも彼女が彼を宥め、譲歩してきた。 彼が嫌えば、彼女の好きなものさえもやめざるを得なかった。 「優吾、よく隠してたね。学生の頃、あんなに女子にモテてたのに、ずっと独り身だったなんて」 知佳が冗談めかして笑った。 「聞いた話じゃ、わざわざ海外まで追って行ったって?なかなか一途じゃない」 優吾は椅子に身を預け、笑みだけを浮かべて答えなかった。 代わりに薫乃が、少し恥ずかしそうに口を開いた。 「からかわないでください、知佳さん」 そして瞳を瞬かせ、ふっと笑った。 「でも、本当に意外だったんです。普段は近寄りがたい雰囲気なのに、こんなに細やかな一面があるなんて。 海外にいる間、彼には本当にたくさん世話になったんです。 生理の時はわざわざ休みを取って飛んできてくれて、ホットココアやカイロも準備してくれました。 私に故郷の料理を作るため、半年もかけて、シェフに料理を習ってくれたんですよ。 もう、私は彼に甘やかされすぎてダメになりそうです……」 二人の甘い思い出話を聞きながら、もう動じないと思っていた心が、再び鋭く締め付けられた。 清花は、生理痛に苦しむ夜のたびに優吾がリビングでゲームに熱中していたことを思い出さずにはいられなかった。 あるとき、彼女は腹部の痙攣でトイレで気を失ったが、優吾はそれに全く気づかなかった。 目を覚ました彼女は痛みをこらえながらベッドに戻り、鎮痛薬を一粒飲んでようやく眠りについた。 しかし、ほんの少しだけ目を閉じたところで、優吾に起こされてしまった。彼はお腹が空いたと言い、彼女の手作りの味噌ラーメンを食べたいと言った。 しかし、彼女は痛みでどうしても起き上がれなかった。 そのとき彼は、苛立ちを隠せない表情で彼女を見つめ、口にした言葉はすべて嘲るようなものだった。 「もういい歳なんだからさ。生理くらいで大げさに騒ぐなよ。ちょっと血が出ただけだろ?何がそんなに痛いんだ?」 彼女はただ、彼の性格が冷たいだけで、人を気遣えないのだと自分に言い聞かせてきた。 だが違った。 彼が思いやれないわけではない。ただ、思いやる対象が、彼女ではなかっただけだ。 「これ、本当に私の弟?清花、優吾って誰かと魂が入れ替わったんじゃない?」 清花は会話に集中しておらず、知佳が突然話を振ったことにはまったく気づかなかった。 周囲の沈黙に気づき、清花はふと我に返ると、思わず優吾の視線にぶつかってしまった。 「清花さん、何をぼーっとしてる?まだうちの彼女と話してないよね……薫乃に何か不満でもある?」 彼は唇の端を持ち上げ、わざとらしく軽い口調で続けた。 「清花さん、俺はずっとあなたを姉として慕ってきたんだ。そんな冷たい態度だと、俺も困るんだけど?」 あのチャットの内容を思い出し、目の前で何事もなかったかのように振る舞う彼を見ると、清花の胸にあった悲しみは次第に薄れ、代わりに説明のつかない怒りがふつふつと湧き上がった。 彼女は箸を置き、勢いよく立ち上がった。 「東山優吾、芝居がしたいなら友達呼んで好きにやればいい。私は付き合ってられない」 その言葉に、優吾の顔色が一瞬で冷たく変わった。 「まあまあ、そんな怒らないでください。彼、ただ身内を庇いたいだけで、悪気はないんです」 薫乃はわざと仲裁するふりをして、清花に続いて立ち上がった。 隣のテーブルが鍋を片付けているそのとき、薫乃が立ち上がった瞬間、熱い鍋を持っていた店員の腕にぶつかり、熱々の油が一気にこぼれてしまった。 反応する間もなく、強い衝撃に押され、清花は床に倒れ込んだ。 右腕に焼けつくような激痛が走り、彼女は思わず叫び声をあげた。 その声に優吾が反射的に振り返った時、薫乃は彼の腕にしがみつき、弱々しく訴えた。 「優吾、痛いよ」 彼はすべてを振り切るように、薫乃を横抱きにし、そのまま店を飛び出していった。 知佳は慌てふためき、つい小声で毒づいた。 「くそっ!どうせ病院行くなら、一緒に連れていきなさいよ!こんなに恋人を優先して友人を軽んじる人、見たことないわ! 優吾のやつ、薫乃を守ろうとして清花を突き飛ばしたから、清花が火傷したのよ!」 皮膚を焼く痛みが神経を容赦なく突き刺し、清花の視界は何度もかすんだ。 意識が遠のく中、彼女の身体が突然、ふわりと宙に浮かんだ。 誰かが、彼女を横抱きにしていた。 第7話 再び意識が戻ると、清花は重いまぶたをようやく開いた。 病室はがらんとしてとても静かで、清花には廊下で知佳が話す声まで聞こえてきた。 「清花、そろそろ起きるんじゃない?見に行かない?」 「いや、来たことは内緒にしておいてくれ」 知佳は鼻で笑った。 「いつまでお人好しでいるつもり?なんで教えないのよ……」 知佳の声が、突然鳴ったスマホの呼び出し音で遮られた。 男性は電話を受け終えると、エレベーターに向かって歩き出した。 「しばらく出張に行く。何かあったら電話してくれ」 知佳は思わず、その男のすらりとした広い背中に向かって白目を剥き、くるりと身を翻して病室に入っていった。 ベッドに横たわり、止血用のスポンジで腕を包んだ清花を見たとき、彼女の目は罪悪感から涙で赤くなっていた。 「ごめんね清花。無理やり鍋屋に連れていくんじゃなかったの。退院したら美容医療に連れて行くから、絶対に跡を残させない」 清花は突然目を開け、思わず笑みを漏らした。 「もうこんなことになってるのに、まだ笑えるんだね。あの木村薫乃ってやつ、絶対わざとだよ。避けられたのにわざとぶつかっていったし、火傷なんてしてないくせに演技してるし。なんだかあなたを狙ってる気がする……」 清花は笑みを引き締め、数秒間沈黙の後、静かに告げた。 「彼女は、私の妹」 知佳は目を見開き、声をあげた。 「え、あの異父妹なの? じゃあ、清花のお母さんは、木村夫人ってこと?ちょっと、こんな大ニュースを私にまで隠してたの?よそよそしいよ」 仕方なく、清花は大まかに事情を話したが、優吾との過去は伏せた。 彼女を思って怒る知佳の姿に、清花は心が温かくなった。 「もう過ぎたことだし、今はちゃんと自分の生活を送れてる」 誰にも頼らず、ここまでやってきた。 入院中も、彼女は手元の仕事を放さず、ただ早く引き継ぎを終えてここを離れたいと思っていた。 この間、優吾は一度だけ面会に来た。しかし、そのときも不愉快なまま終わり、それ以降は姿を現さなかった。 そして、清花が妊娠検査の結果を手にして出てきたとき、偶然にも優吾は薫乃を支えながら産婦人科から出てくるところだった。 視線が合うと、優吾の目に一瞬慌てが走り、薫乃の腰に回していた手を無意識に緩めた。 その動きを見て、薫乃は内心穏やかでない気持ちが湧くが、表情には出さず、平然と口を開いた。 「もうすぐお母さんの誕生日会があるの。お姉さんも来てね。お母さんはずっとあなたのことを思ってるし、来てくれたら喜ぶと思う」 清花は無言で背を向け、立ち去ろうとするが、手首を強く掴まれた。 「何の検査をしに来た?」 清花は手を振って抵抗すると、優吾は彼女の手首を掴む力を突然強めた。 「答えろ」 「ただの生理痛よ。もう年だし、耐えられないだけ」 彼女の言葉に言い返せず、優吾の胸に理由のわからない苛立ちが渦巻く。その奥底には、かすかな喪失感もひそんでいた。 彼はなぜか、清花を前にすると感情を制御できない。 それは、彼女の棘のある態度に慣れないからかもしれない。 むしろ、彼は彼女がいつも笑顔で彼の目を見ていた頃が懐かしくなった。 清花は手首を少し振った。 「放してくれる?」 彼女の抗う表情を見ると、優吾の細長い指が、彼女の柔らかな肌に食い込み、まるで鷹が獲物を掴むように離さない。 「焦らす芝居はいつまで続けるつもりだ?やりすぎると、面白くないぞ」 清花は思わず軽く笑った。 「あなた、私を手放せないのは、まだ未練があるから?」 第8話 言い終えると、優吾はまるで夢から目覚めたかのように、突然手を放した。 清花は手首をさすりながら、未練なく背を向けて立ち去った。 「どうしたの?本気で愛しちゃったの?なら、その恋を成就してあげるよ。 子どもだって、あなたが責任を取らなくていいの。本来、偶然の産物だし、私だって器量が大きいよ」 薫乃は冷ややかに笑った。 優吾は俯き、微笑んだ。 「嫉妬か?」 薫乃は彼の足を蹴り、エレベーターに向かって歩き去った。 優吾は数歩で追いつき、背後から彼女を抱き寄せながら、珍しく真剣な口調で言った。 「どうすれば信じてくれる?最初から最後まで、俺が愛してるのは、お前だけだ」 その言葉を聞くと、薫乃の唇には笑みが浮かぶが、心からものではなかった。 予定より1週間早く仕事の引き継ぎを終えた清花は、辞意を告げるために、上司の部屋のドアを叩いた。 しかし、上司は急遽新しい任務を与えてきた。 「木村夫人の誕生日会の招待状が届いた。君の出席を指名されてる。今行かないと言うわけにはいかないだろう……」 清花は、ビジネス上の付き合いも仕事の一部だと理解しており、断る理由はなく、承諾するしかなかった。 「この宴会が終わったら、先に南市へ行って環境に慣れておくつもりです」 「いいだろう。2週間って言ったけど、早めに仕事の引き継ぎを終えたなら、残りの日は休暇扱いにして、ゆっくり休め」 清花は頷き、階下へ向かった。 簡単に身支度を整え、彼女は水色のロングドレスを纏って宴会場に入った。 会場には名士が集まり、多くは会社と関わりのある顔見知りだ。 清花は慣れた足取りで各協力先と挨拶を交わす。 ウェイターに促されて脇の間へ案内されると、ソファに座る木村夫人である木村金子(きむら かねこ)の姿が目に入った。 清花は一歩距離を保ち、礼儀正しく挨拶した。 金子は彼女の疎外感を気にせず、家族の世間話を始めた。 清花はほとんど口を開かなかった。 彼女は遅れる感情の補償など、もう必要ない。 ましてや、その補償は金子自身の罪悪感を薄めるためだけのものだった。 壇上で式辞を述べる番が来ると、金子は清花を握っていた手をそっと放した。 舞台の中央で優雅で華やかな金子が輝いているのを目にしたとき、清花は病床でやせ衰えて横たわる父の姿を思い出した。 ぼんやりとした気持ちでいると、突然周囲がざわつき始めた。 我に返った清花は、会場の全員が自分を異様な目で見つめていることに気づく。 彼女は無意識に舞台上の金子の方を見た。 金子の背後にある大きなスクリーンには、清花の裸写真が次々と映し出されており、胸元の赤いほくろまでも鮮明に見えるほど高画質だ。 一瞬にして、清花は全身の血が逆流するように感じ、手足が骨の髄まで凍りつくほど冷たくなった。 彼女は動画を消そうと突っ走りたい気持ちでいっぱいだったが、足は鉛を詰められたかのように重くなり、その場で身動きできずに釘付けになった。 次の瞬間、スピーカーから途切れ途切れの音が流れ始めた。 ホール内の驚きの声とざわめきは次第に大きくなり、清花は周囲のささやきに押し潰されるような感覚に陥った。 彼女は唇を噛み締め、口の中に血の味を感じながら、かろうじて理性を取り戻した。 清花はよろめきながら前に二歩踏み出したが、恥ずかしいほどの低いうめき声は、この瞬間、ぴたりと止まった。 彼女が目を上げると、かすんだ視界の中で、スクリーンのケーブルが誰かによって抜かれていた。 優吾がスクリーンの前に立っている。その目には、清花には読み取れない感情が宿っている。 清花はどうやって宴会場を出たのか分からなかったが、通る先々で投げかけられる視線は、軽蔑と嘲笑に満ちていた。 彼女は朦朧としたまま寮に戻り、布団にくるまった。 真夏なのに、彼女は寒さで震えが止まらなかった。 涙が枯れるまで泣き続け、ようやく少し正気を取り戻した彼女は、スマホを取り出して番号を押した。 「もしもし、私、通報します」 第9話 電話を切ると、清花はスマホを閉じると、ベッドに倒れ込み、朦朧としたまま眠りに落ちた。 ドアベルの音で目を覚ましたとき、彼女は外がすでに暗くなっていたことに気づく。 清花は頭がぼんやりしたままドアを開けに行った。 ドアはわずかに開いた瞬間、外側から勢いよく押し開けられた。 続けざまに、ビシッという音と共に平手打ちが彼女の顔を打ち付けた。 「あんたは妹を壊したいの!」 右頬にひしひしと痛みが広がり、清花は顔を押さえながら、冷然と来訪者を見つめた。 「彼女が先に私を中傷したんだ」 「恥知らずにこんな下品なことをしておいて、妹まで巻き込もうというの? 薫乃はまだ若いのに、前科でもついたらどうやって生きていくんだ?さっさと訴えを取り下げなさい!」 その言葉に、清花は突然嗤った。 「木村夫人、まず私は木村という苗字ではないし、妹なんかもいない。 そして、恋人同士だから、そんなことをしても何の問題もないと思ってる。 問題なのは、他人を傷つけるために盗撮したり、それを拡散したことよ。 最後に、訴えは取り下げないわ」 金子は、清花の頑なな態度に怒り、首をひたすら振った。 「以前はあなたが賢くて優しい子だと思い、木村家に迎えて直接教えようと考えてた。 でも、やはり、その父親と同じで、下品で礼儀を知らないのね。しかも、妹にまで嫉妬して、破廉恥だわ…… そうだよね。庶民が出世するなんて、妄想してはならないね……」 「黙れ!あんたには、お父さんのことを口にする資格はない!」 清花は必死に手のひらを握りしめ、涙をこらえた。 「我々のような庶民には、木村夫人のような貴婦人は合わない。出て行ってください」 金子はまだ何か言いかけたが、清花はドアを押し閉め、相手を外に追い出した。 次の瞬間、ドアはバンバンと叩かれ、罵声が混ざって響いた。 周囲の同僚たちは耳を立てて聞いている。 清花は仕方なく警備員を呼び、金子を連れ出してもらった。 空気は沈黙に包まれたが、周囲のささやき声だけは彼女の耳にはっきりと届いた。 「清花さんって、ポジション得るために枕営業したって本当?」 「寝た時の写真や動画が流出してるんだから、嘘じゃないでしょ。現場で撮った写真もあるし、確かにセクシーね」 「今や上流階級中で広まってる。清花さんが利益のためならいくらでも体を売るんだって」 …… 清花はドアにもたれ、力なく膝をついた。 スマホの着信音が鳴ったり切れたりを繰り返している。 彼女はそれを無視し、灯りもつけず、暗闇に沈んだまま動けなかった。 やがて、スマホにあるメッセージが入った。 【電話に出るか、俺が上がるか、どっちにする?】 続けて、同じ番号から電話がかかってきた。 数秒迷った後、清花は電話を取った。 「大丈夫?」 それを聞くと、清花は思わず冷笑した。 「どうした?懐柔作戦でも使うつもり?言ったでしょ。私は訴えを取り下げないよ」 優吾は珍しく反論せず、誠実な口調で答えた。 「すまなかった」 その態度に、清花は一瞬戸惑った。 「本当に私に申し訳ないと思うのなら、事実をはっきりさせなさい。外で広まってる噂、あなたも知らないはずはないでしょう?」 沈黙のあと、優吾は低い声で言った。 「今はもうお前を傷つけてしまった。たとえ事実をはっきりしても、何も変わらない。 ただ、薫乃を矢面に立たせるだけだ。影響を大きくするより、被害を最小に抑える方がいい……」 清花は彼の言葉を遮った。 「つまり、私がすべての被害を背負えばいいってこと?木村薫乃に傷つけなければ、裸写真もデマもどうでもいいってこと?」 「違うよ、清花。この期間を過ぎれば、事態は人々の目から薄れていく。お前は少し耐えればいい。 しかし、もし薫乃を訴えれば、彼女の評判にどれほどの影響が出るか分かるだろう。薫乃はまだ若い……」 「東山優吾!」 清花は突然、声を上げて笑ったが、涙は不意にこぼれ落ち、頬を伝った。 「夢でも見てなさい!」 第10話 彼女が拒否するだろうと予想していたが、優吾は彼女に対して特に反応を示さなかった。 彼は沈黙のまま指先のタバコを消し、再び7階の部屋を見上げると、その黒い瞳は沈んだ。 「清花、お前自ら訴えを取り下げるか、或いは取り下げさせるか、俺はどちらかしか選べない。 確かなら、お前の父がいる病院は東山グループの系列だろう。転院する権利は当然あるが、他の病院が受け入れるかどうかは別問題だ」 スマホ越しに、歯ぎしりする女性の声が突然響き、まるで彼を噛み砕きたいかのようだった。 優吾は気にせず、落ち着かせるように言った。 「この件、薫乃は確かにやり過ぎた。しかし写真を撮ったのは俺だ。何があっても俺に向けてくれ。お前への借り、俺自身で返す。何せ、彼女はお前の実の妹だろう……」 吐き気が込み上げ、清花は慌てて電話を切ると、トイレに駆け込み吐き出した。 鼻水と涙で顔はぐちゃぐちゃになり、彼女は狼狽えてその場に座り込んだが、結局嗚咽を止められず泣き崩れた。 彼女は賭ける勇気はなかった。 そして、賭けることもできなかった。 だから、彼女は妥協した。 訴訟取り下げの合意が下りると、薫乃は得意げに眉を上げた。 「神原清花、全世界に軽蔑される気分はどう?これで、母さんもあなたが破廉恥な女だと知ったでしょう。苗字を木村に変えることも、難しくなるわね。 あなたは私の父を父さんと呼ぶ資格もないわ。あの病弱な父親だから、こんな貧相な娘を産めるんだ。大事に守ってよ、死なないようにね」 パシッ! 清花は手を上げて、彼女に平手打ちを食らわせた。 まさか清花が手を出すとは思っていなかったのか、薫乃の目に驚きが浮かんだ。 我に返った彼女は、やり返そうとしたが、清花に手首を握られた。 清花が次の動作を起こす前に、薫乃はドサッと跪き、恐怖に震える声で告げた。 「お姉さん、私が悪かったの。お願いだから、もうやめて。お腹に赤ちゃんがいるの……」 清花は反射的に手を離したが、後ろから誰かに腕を強く引かれた。 後頭部のシャーククリップが壁にぶつかり、彼女の頭皮が痺れた。 優吾は高みから彼女を睨みつけ、怒りを帯びた表情を浮かべていた。 「何かあっても俺にぶつかれと言ったのに、なぜ彼女に手を出した?」 「こいつは口が悪いから……」 言葉が終わらぬうちに、鋭い平手打ちが清花の頬を激しく打ちつけた。右の頬は瞬く間に痺れ、濃い血が唇の端からにじみ出た。 「お前こそ、口が悪いんだ!」 優吾は眉をひそめ、清花をさらに冷たい目で見つめた。 「俺は女を叩かないが、お前が俺の女を苛めるのを傍観できるわけではない。ましてや、彼女は妊娠してる。 今日のこの平手、返したければ、俺のところに来い」 そう言うと、優吾は薫乃を抱き上げ、振り返らずに外へ去った。 清花は唇の血を拭い、突然低く笑った。 ――安心しなさい。これから先、もうあんたなんて会わない。 出発前夜、清花は健雄と食事を共にし、辞行の挨拶をした。 彼女は夜通し荷物を整理し、翌朝早い便で南市行きの飛行機を予約した。 空が薄明かりに変わる頃、清花は荷物を押して空港へ向かった。 飛行機が雲を抜ける直前、清花はためらうことなく優吾の連絡先を削除した。 これから先、彼から遠く離れて生きるのだ。