いつか風になる想い

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いつか風になる想い

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外交官だった父が亡くなったあと、私はその遺志を継ぎ、国の外交に身を捧げることを決意した。 身の回りを片付けるのに私に与えられた時間はわ...

Chương (1)

第1章

外交官だった父が亡くなったあと、私はその遺志を継ぎ、国の外交に身を捧げることを決意した。 身の回りを片付けるのに私に与えられた時間はわずか7日間だった。私はその間夫との離婚を済ませる必要があった。 まず手始めに初日、私は多忙な夫を仄めかして、離婚届にサインをさせた。 そして五日目、私は元の職場に辞表を提出した。 七日目、私は友人たちに別れを告げようと腕によりをかけてご馳走を作った。 しかし、そのお別れの場で、夫の大野裕也(おおの ゆうや)は料理を見て眉をひそめ、なぜ彼の幼馴染が嫌いな料理ばかり作ったのかと私を責めた。 責められた私は腹を立てることもなく、静かに席を立ち、彼の幼馴染にお詫びを言った。 これで、私と裕也もきっぱり分かれたのだから、ここで事を荒立てる必要もないのだ。 それから半月後、公務を終えた裕也は、ようやく新聞で私の消息を目にしたのだった。 京市の街が煌びやかなネオンに溶け込む中、夜の風が目に染みたのか、彼の瞳は赤く潤んでいた。 第1話 父が亡くなって三日経っても、大野裕也(おおの ゆうや)は姿を見せなかった。 「部長、決心がつきました。父の遺志を継ぎ、国の外交にこの身を捧げます」 その言葉に男は一瞬虚を突かれ、諭すように言った。 「本気かね?今の国内外の情勢は依然として厳しく、外交官は危険な仕事だぞ。 それに、一度赴任すればいつ帰れるか分からない。ご主人は納得しているのか?」 その言葉に私は一瞬固まり、父の形見である腕時計に視線を落とした。 これは、父が遺してくれた思い入れの品だった。 「困難は覚悟の上です。七日間だけお時間をください。身辺を全て片付けてまいりますので」 外務省を出た私は、その足で裕也のオフィスへと向かった。 ドアを開ける前に、中から裕也が彼の秘書と話す声が聞こえてきた。 「課長、奥様が出かけられてからもう何日も経ちますが、少しも心配じゃないんですか?」 裕也は顔も上げず、冷ややかに言った。 「彼女はただの外出だけだ。帰ってこないわけでもあるまいし、別に大して気にすることでもないだろう。 それに最近は公務が山積みで、そちらを片付けるだけで手一杯だ。そんなことを考えている暇はない」 裕也の秘書はため息をついた。 「では三浦さんのことは?彼女はただ足を捻っただけなのに、七日間も入院に付き添われる必要があったのですか?」 男は眉をひそめ、持っていた万年筆を乱暴に置いた。 「直美は特別なんだ」 そう、三浦直美(みうら なおみ)は特別だ。 裕也の幼馴染であり、妹のような存在なのだから。 では、私は? 私はただの、妻という肩書があるだけの他人なのだろう。結局、彼にとって私は妥協の選択肢に過ぎないのだ。 そう思いながら、目頭が熱くなるのを堪え、私は息を深く吸い込んでドアを開け、やつれた顔で彼の前に出た。 私の姿を見るなり、秘書は慌てて口実を見つけてオフィスを出て行った。 裕也は私をチラッと見ると、何気ない口調で尋ねた。 「何か用か?」 七日間も家を空けていたというのに、彼は私がどこに行っていたのかも、なぜやつれた顔をしているかも、気に留めることがなかった。 他の書類と混じれて私は離婚届を机の上にさりげなく置き、静かに口を開いた。 「これにサインして」 彼は一瞬戸惑い、私の冷たい態度に面食らったようだった。 「なんのサインだ?それだけのために来たのか?てっきり……」 彼は言葉を途中で切り、書類を受け取って、内容に目を通そうとしたその時、電話が鳴った。 病院にいる直美からだった。 「裕也さん、もう仕事終わった?病院にいて、退屈で仕方ないの。付き添いにきてくれない?」 理由も口実もいらない。ただそんな甘えた一言で、男は途端に慌てた様子を見せた。 「ああ、すぐ行くよ」 電話を切ると、裕也は書類をめくり、ちゃんと目を通すこともなく、さっさとサインをした。 「先に帰って休んでてくれ」 そういうと彼は急ぎで部屋を出ようとしたが、出て行く直前、彼はふと足を止め、私の方を振り返った。 「俺を……引き止めないのか?」 彼は眉間を寄せ、信じられないという顔をしていた。 私はただ、首を横に振った。 「もう、疲れたから引き止めないよ」 裕也はしばし黙り込んだ後、どこかぎこちなく言った。 「直美の体調が戻ったら、お父さんのところへ見舞いに行こう。ずいぶん会っていないし、君のことを恋しがっているはずだ」 それを聞くと、私は一瞬涙が溢れそうになった。 「ええ」 裕也が去った後、私は空気に残るジャスミンの香りを嗅ぎながら、皮肉な笑いを浮かべては目頭を赤らめた。 それは、父が海外から私に送ってくれた香水の香りだった。 私がもったいなくて使えずにいたものを、裕也は私に断りもなく直美に渡してしまったのだ。 どうやらこの七日間、二人は相当親密に過ごしていたらしい。 七日前、父は海外で暗殺者に襲われ、生死の境を彷徨っていたのだ。 第2話 知らせを受け、私は気が動転し、裕也のオフィスに駆け込んで彼に懇願した。 「裕也、一緒に海外へ行ってもらえない?お父さんが……」 しかし、私が最後まで言い終えるを待たずに、ドアの外から直美の声が割り込んできた。 「裕也さん、早く。買い物に付き合ってくれるって約束したじゃない」 直美の声を聞いた途端、裕也は苛立ちを隠そうともせず、私の手を振り払って部屋を出て行き、一言だけ言い捨てた。 「急用だ。先に行っててくれ。時間ができたら、連絡する」 しかし、それから七日間、彼が来ることはなかった。 そして、父が埋葬されるその日まで、「時間ができたら連絡する」という裕也からの連絡は一切なかった。 私を迎えたのはただ息を引き取る直前に私の手を握りながら話す父の最後の言葉だけだった。 「裕也くんはいい子だ。国のため、国民のために尽くしているのだから、忙しいのは当たり前だ。 彼を責めないでやってくれ。帰っても彼と喧嘩するんじゃないぞ」 でも、裕也が忙しいのは、仕事のせいじゃない。他の女に付き添っているからなのだ。 涙を拭い、私は無表情のまま机に向かうと、書類の中から離婚届を引き出し、丁寧にしまった。 いよいよここから離れる日までのカウントダウンが始まったのだ。 あと六日。 翌日、私は離婚届を役所に提出するとその足で部長である石田隆史(いしだ たかし)のオフィスへ向かった。 「部長、私と裕也の離婚届出しました。もう受理されたから、ご報告させていただきました」 それを聞くと隆史はお茶を飲む手を止め、まじまじと見つめてきた。 そして、私が冗談を言っているわけじゃないと確信すると彼は深いため息をついた。 「君と裕也くんは順調だと思っていたが……どうして、離婚なんてことになったんだ?」 そう、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。 私の父と裕也の両親は、古くからの付き合いで、長い間親しんだ仲だった。 十八歳の時、父は仕事の都合で海外へ赴任することになった。 その際、父は私を、若くして成功をおさめていた裕也に託したのだ。 彼は将来を嘱望されたエリート一で、そして私も外務省に勤める有能な翻訳者なのだ。 そんな私たちを誰もがお似合いの二人だと言い、私たちの結婚を羨んだ。 しかし、直美が戻ってきてからというもの、私が最もよく耳にする言葉は全く別のものになっていた。 「大野課長って、三浦さんに本当に優しいわね」 そんな今までのことが一瞬頭に過ったが、私はそれらの雑念を振り払って、隆史の問いに答えた。 「部長、人の気持ちは無理強いできません。私たちは、ただ円満に別れたいだけなんです」 それを聞くと、隆史も溜息をつき、それ以上何も言わなかった。 「君がちゃんと決心がついたならそれでいい」 オフィスを出た私は、デパートへと向かった。 店に着くとすぐ、香水売り場の棚にジャスミンの香水が置かれているのが目に入った。 父が送ってくれたものと、全く同じ香水だ。 胸がざわつき、私は店員に尋ねた。 「この香水、いつから販売されているんですか?」 店員は少し考えてから、ハッキリと答えた。 「確か半年前にはもう販売されていましたね。新商品として入荷した時は、ちょっとしたブームになったんですよ。 お客様も一本いかがですか?」 私は首を横に振った。だが、目頭が熱くなるのは止められなかった。 半年前からすでに販売されていたというのに、どうしてわざわざ私のものを奪う必要があったのだろう。 一ヶ月前、父が海外から小包を送ってくれた。その中で最も珍しかったのが、この香水だった。 それは、亡き母が一番好きだったブランドであり、父の母への想いが込められた、形見のようなものだったからだ。 私はもったいなくて使えずにいたのに、裕也はそれをいとも簡単に直美に渡してしまったのだ。 私がそのことに気づくと、彼はこう言い放った。 「たかが香水じゃないか。千佳、いつからそんなに心の狭い女になったんだ? 直美は離婚したばかりで落ち込んでいるんだ。香水一本くらい、くれてやればいいじゃないか。まさか返せとでも言うつもりか? みっともない真似はやめろ」 その時のことを思い出すと、私は未だにやりきれない気持ちを感じるのだ。 裕也、あなたは知らないでしょう。 あの香水が、父が私に残してくれた、最後の贈り物だったということを。 そして、家で待機していた五日目。 家の事をそろそろ片付け終わった私は、職場へ引継ぎの手続きに向かった。 ちょうど週末だったため、オフィスに人はまばらだった。 自分の席で荷物をまとめようとしたが、そこで目にしたのは、私のものではない荷物で埋め尽くされた机だった。 それらは、机の上を完全に占領していた。 父が贈ってくれたノートはその下敷きになっており、取り出すと無残に潰れ、元には戻らないほどの折り目がついてしまっていた。 それを目にした同僚が、私に注意を促した。 「千佳さん、この荷物、新しく来た人のだから。触らない方がいいよ」 第3話 「この間、前田さんがうっかり本を倒してしまっただけで、大野課長はすぐに彼を怒鳴りつけたんだ。 危うく辞めさせられるところだったらしい」 同僚が言う新しく来た人とは、直美のことだ。 一ヶ月前、直美は彼女の元夫と離婚して京市に戻り、仕事に復帰した。 現在はここで翻訳をしているが、まだ臨時職員である。 それを聞いて、私はフンと鼻を鳴らし、机の上にあったものを床に移して、自分の荷物だけ片付け始めた。 片付けがもう少しで終わるという時、背後から突然、甲高い声が上がった。 振り返ると入口には直美が立っており、その後ろには私に付き添うと言っていたはずの裕也の姿もあった。 「裕也さん、見て。 どうして私の荷物が床に放り出されてるの?」 裕也は不機嫌そうな顔で部屋に入ってきた。 「千佳、どういうつもりだ?ちょっと荷物を置いただけだろう、そこまでしなくてもいいじゃないか?」 直美が彼の袖を引き、しおらしく言った。 「ごめんなさい、千佳さん。ここ数日いらっしゃらないから、一時的に使わせてもらおうと思っただけなんです。 まさかこんなに怒らせてしまうなんて……私の荷物を床にまで投げ捨てて……」 そう言うと、彼女は今にも泣き出しそうな顔で、私にお辞儀をしようとした。 裕也はすぐに彼女がお辞儀しようとするのを止め、冷たい視線を私に向けた。 「千佳、あまり出すぎた真似をするな。 直美だってわざとやったわけじゃないんだ。いい加減にしろ」 彼が直美のために私に腹を立てるのは、これで何回目だろうか。 もはや、数えきれない。 こんな茶番に付き合う気はなかったので、私は箱を抱えてまっすぐその場を立ち去ろうとした。 しかし、直美のそばを通り過ぎようとした瞬間、突然彼女に足を引っかけられてしまった。 裕也ははっとした表情で私を掴もうとしたが、一足遅かった。 私は床に倒れ込み、箱の中身が散らばり、手首を擦りむいてしまう。 裕也が二、三歩近づき、私に手を差し伸べた。 私は手首の大切な腕時計の状態が気になり、彼を動きを無視して腕時計を確認した。 だが、彼は何かを見つけたように、床から二枚の便箋を拾い上げた。 「異動届?それに、もう一枚は……」 私は慌てて立ち上がり、彼の手から便箋を引っ張り取った。 「自分で片付けるから、触らないで」 私のあまりの剣幕に、裕也は愕然として私を見つめた。 「異動するのか?」 どう説明すればいいのか分からず口ごもっていると、裕也は不意に笑みを漏らした。 「君が異動すれば、一つ席が空くわけだな? それなら直美が正社員になれる。彼女がちゃんとした職に就ければ、俺も安心だ」 それを聞いて、私は説明しようとした言葉が喉元で詰まったようだった。私は彼をじっと見つめたあと、散らばった荷物には目もくれず、オフィスを後にした。 しかし、異動届を提出し終えると、ドアの外で私の荷物の箱を抱えて待っている裕也とばったり会った。 私が出てくるのを見ると、裕也は唇を引き結び、箱を差し出してきた。 「君の荷物だ」 私の気持ちが少し和らぎ、お礼を言おうとしたその時、裕也は続けた。 「直美のために推薦状を書いてくれないか。その方が正社員になれる確率が上がるんだ」 その瞬間、風が吹き、目に砂が入ったかのような感覚がした。 じんと熱くなる目頭を押さえながら、私は淡々と答えた。 「いいよ」 これで今までの夫婦の情に対する、最後の締めくくりだと思えばいい。 望み通りの答えを得た裕也は口角を上げたが、ふと何かを思い出したように尋ねてきた。 「それで、君は?どこの部署に異動するんだ?」 私は顔をそむけ、何気ないふうを装って言った。 「別の部署で、同じく翻訳の仕事をする予定よ」 それを聞いて、裕也は頷き、ほっとしたようだった。 彼は箱をその辺に置くと、私を抱きしめた。 「千佳、さっきは悪かった。俺も少し焦りすぎていたんだ。 ちょっと落ち着いたら、また君と一緒にお父さんに会いに行こう。お父さんの料理が、大好きだっただろう?思う存分食べさせてもらうよ」 それを聞いて彼の腕の中で、私は胸が締め付けられるようだった。 もう食べられない。永遠に、もう。 裕也がさらに何か言おうとした時、直美がやって来た。 「裕也さん、少し気分が悪いので、先に帰りませんか」 彼女の血色の良い顔を一瞥し、私は自分から裕也の腕から離れた。 案の定、彼も私を抱いていた手を離し、慌てた表情を見せた。 「先に直美を家に連れて帰る。何かあればまた後で話そう」 そう言うと、彼はまるで宝物でも扱うかのように直美を甲斐甲斐しく支えながら、去っていった。 第4話 私はそれを目の当たりにしても引き止めもしなければ、泣き喚きもしなかった。 ただ静かにしゃがみ込んで荷物の入った箱を抱え上げると、その辺のゴミ箱に投げ捨てた。 裕也が触れた物など、もういらない。 ここを去る最後の日、私は友人たちに別れを告げようと腕によりをかけてご馳走を作って皆を招いた。 集まった友人たちは、ほとんどが裕也の官舎仲間だった。 最後の料理を運んでいくと、彼らが囃し立てる声が聞こえてきた。 「裕也さん、千佳がいないうちに、直美とチュウでもしちゃえば?」 「この機会を逃したら、次はもうないぞ」 「そうだよ、チュウしちゃえ!」 それを言われ、直美は裕也の隣で、顔を赤らめていた。 「やめてよ、裕也さんには千佳さんがいるんだから」 すると、誰かが鼻で笑った。 「他の人たちは知らなくても、俺たちは知ってるぞ。そもそも直美が結婚してなかったら、裕也さんもやけになって千佳さんと結婚することもなかったのにな。 それに、今千佳さんもこの場にいないじゃないか」 それを聞いて、手にしていたのは出来立ての温かい料理のはずなのに、私はそれを氷よりも冷たく感じられた。 かつて彼らが私のことを「姉さん」と慕うように呼んでいたことを思い出すと、今はただただ吐き気がするのだ。 囃し立てられた裕也は箸をやや乱暴に置くと、不機嫌な顔で口を開こうとした。 そのタイミングで、私は咳払いをしてから出ていき、料理をテーブルに置いた。 「さあ、食事にしましょう」 他の者たちは顔を見合わせ、私が早く出てきすぎたのを残念がっているようだった。 裕也は何も言わずに箸を取ったが、ふと眉をひそめ、私を問い詰めるように言った。 「なんで直美の嫌いな料理ばっかりなんだ?」 気遣ってもらった直美は気にしないように手を振りながら、優しい声で言った。 「大丈夫、大丈夫よ。私は野菜をいただくから。 千佳さんもきっと……わざとじゃないと思うし」 しかし彼女は口ではそう言いながらも、その目は赤く潤んでいた。 それを見た裕也はすぐに立ち上がり、眉間にあからさまな不快感を滲ませた。 「外で食べよう。レストランに連れて行ってやる」 「待って」 私は不意に声を上げ、テーブルの酒を手に取ると、自分のグラスに注いだ。 裕也は愕然として私を見つめた。 なにせ結婚して五年、彼がお酒の匂いを嫌うから、私は一度も彼の前で飲んだことがなかったのだから。 私はグラスをかざし、「せっかく来てもらったので、乾杯くらいしましょう」と言うと一気に飲み干した。 久しぶりに飲んだせいか、酒が喉を通ると焼けるような感覚がして、私は激しく咳き込んでしまった。 それを見た裕也は眉をひそめ、私の背中をさすろうと手を伸ばした。 だが、私は無意識にその手を避けてしまった。 彼の伸ばした手は宙で止まり、その表情がみるみる険しくなった。 「千佳、君は本当に訳が分からないんだけど」 そう言い捨てると、彼は直美を連れて出て行った。 残された数人も顔を見合わせ、次々と席を立って去っていった。 私は庭先に一人座り、残された料理をすべて平らげた。 この時フライトまで、あと四時間。 私は丹精込めて育てた花を種類ごとに分け、両隣の家にあげた。 そしてフライトまで、あと三時間。 離婚届を出した時にもらっておいた離婚届受理証明書をテーブルの上に置き、寝室に戻って荷造りを始めた。 いよいよフライトまで、あと二時間。 私はスーツケースを手に、車で空港へ向かった。 車を運転してくれた若い同僚の職員が、私に尋ねた。 「千佳さん、また海外ですか?今度はどのくらい滞在されるんですか?」 私は彼に飴をいくつかあげながら、微笑んで答えた。 「さあ、どうかしら。もう二度と帰ってこないかもしれないね」 同僚の職員は私が冗談を言っているのだと思ったらしく、楽しそうに飴を受け取って言った。 「ではお戻りの際は、一声かけてください。またお迎えにあがりますので」 私は頷きながら、心の中で静かに呟いた。 「もう、戻っては来ないかもしれないから」 夜八時。裕也が直美を連れて帰宅した。昼間の官舎仲間も一緒だった。 一行は楽しげに談笑しながら、手にはレストランの手土産を提げていた。 「千佳さん、戻って来たよ!」 先に家に入った者が声をかけたが、室内に明かりがないことに気づき、手探りでスイッチを入れた。 「千佳さん、出かけてるのか?」 男は頭を掻きながら、手にしていた手土産をテーブルに置いた。 その時、テーブルの上に置かれた離婚届受理証明書が目に入り、彼は息を呑んで、思わず叫んだ。 「裕也さん、千佳さんがこれを……これ、り……離婚届……受理証明書だ……」