もう振り返らない

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神栄市中の誰もが、天城怜司(あまぎ れいじ)が遥(はるか)を心の底から愛していると信じていた。 結婚して八年。遥は天城家の親族から「跡...

Chương (1)

第1章

神栄市中の誰もが、天城怜司(あまぎ れいじ)が遥(はるか)を心の底から愛していると信じていた。 結婚して八年。遥は天城家の親族から「跡継ぎを産んでない」とずっと責められてきた。 怜司の祖母の静江(しずえ)は何度も怜司に離婚して新しい妻をもらうよう迫り、怜司は三度も家族会議で反抗し、血を吐いて倒れたこともあった。 「俺には遥だけなんだ。絶対に離さない」 そう言い切った怜司だったが、やがて静江は田舎から一人の女性を呼び寄せ、怜司に無理やり押しつけた。 女の名前は香坂沙羅(こうさか さら)。肌は荒れがちで頬は強く赤く、言葉には濃い訛りがある。 怜司は彼女に対して露骨に嫌悪感を示す。「こんな田舎者、遥の足元にも及ばない」 遥は沙羅のことなどまるで眼中にない。 こんな世間知らずの女が、自分みたいな名門の娘に敵うわけがない。 だが二ヶ月後、遥は屋敷の使用人たちが噂しているのを耳にする。 「あの田舎娘、なかなかやるよね。もう妊娠したんだって。これで静江さんも満足するんじゃない?」 「でも、不思議な話だよね。一発でできるなんて」 「怜司さん、あの子を本気で見てたことあった?これじゃまるでシンデレラだよ」 …… 遥は拳をギュッと握り、爪が手のひらに食い込む。頭が真っ白になる。 第1話 神栄市中の誰もが、天城怜司(あまぎ れいじ)が遥(はるか)を心の底から愛していると信じていた。 結婚して八年。遥は天城家の親族から「跡継ぎを産んでない」とずっと責められてきた。 怜司の祖母の静江(しずえ)は何度も怜司に離婚して新しい妻をもらうよう迫り、怜司は三度も家族会議で反抗し、血を吐いて倒れたこともあった。 「俺には遥だけなんだ。絶対に離さない」 そう言い切った怜司だったが、やがて静江は田舎から一人の女性を呼び寄せ、怜司に無理やり押しつけた。 女の名前は香坂沙羅(こうさか さら)。肌は荒れがちで頬は強く赤く、言葉には濃い訛りがある。 怜司は彼女に対して露骨に嫌悪感を示す。「こんな田舎者、遥の足元にも及ばない」 遥は沙羅のことなどまるで眼中にない。 こんな世間知らずの女が、自分みたいな名門の娘に敵うわけがない。 だが二ヶ月後、遥は屋敷の使用人たちが噂しているのを耳にする。 「あの田舎娘、なかなかやるよね。もう妊娠したんだって。これで静江さんも満足するんじゃない?」 「でも、不思議な話だよね。一発でできるなんて」 「怜司さん、あの子を本気で見てたことあった?これじゃまるでシンデレラだよ」 …… 遥は拳をギュッと握り、爪が手のひらに食い込む。頭が真っ白になる。 遥は離婚を切り出し、怜司は大雨の中で丸一日、ひざまずき続けた。 「遥、ごめん。あの日、俺は酔っていて、彼女をお前だと勘違いした…… 安心して、すぐにでも彼女を追い出すから!」 怜司が寒さで体を震わせ、唇が紫色になっているのを見て、遥は心を許してしまった。 だが半年後、遥は病院で怜司が沙羅の妊婦健診に付き添う姿を見てしまう。 怜司は目を赤くしながら説明する。「おばあちゃんが妊娠のことを知って、自殺すると脅されたんだ。俺にはどうしようもなくて、彼女を郊外の別荘に隠した。 子どもが生まれたら、おばあちゃんに渡すだけだ。お前との生活には絶対に影響させない」 遥はもう一度、怜司を信じることにした。 しかし三日前、凶悪な拉致犯が沙羅を遥と間違えてさらっていった。 普段は「どうでもいい」と言っていた怜司が、犯人からの電話を受けて、取り乱した。 「いくらでも払う!沙羅には絶対に手を出すな!」 だが、犯人の要求は金ではなく、「天城家の奥さまの命」だった。 怜司は目尻を赤くしながら、遥の肩を掴んで必死に頼んだ。 「遥、頼む。沙羅を助けてやってくれ。彼女は妊娠してるし気が弱いんだ……無事に戻ったら、すぐにお前を助けに行くから、な?」 遥はその瞬間、すべてに気づいた。怜司が沙羅のことを最初は「田舎者」と呼んでいたのに、次第に「沙羅さん」とさん付けで呼ぶようになり、今ではすっかり「沙羅」と名前だけで呼んでいることに。 知らないうちに、沙羅は怜司の心に入り込んでいたのだ。 遥は苦笑いを浮かべた。「もし、私が行かなかったら?」 怜司の目が一瞬冷たく光った。「遥、沙羅が孕っているのは、天城家の跡継ぎだ。お前も一度くらいこの家跡継ぎのために貢献してくれ。 大丈夫だから。絶対にお前を救い出すから」 遥は鼻をすすり、震える声が途切れがちになる。 「もし……私が戻れなかったら?」 怜司は眉をひそめた。「遥!命がかかってるんだぞ。いい加減わがまま言うな!」 怜司のその決意を見て、遥の心は粉々に砕けた。 怜司に突き飛ばされ、遥は犯人のもとへ向かった。絶望の中で、目を閉じるしかなかった。 その瞬間、沙羅が怜司の胸に飛び込んできた。 「沙羅!」怜司の顔色が一変し、声が震えた。 「無事でよかった……」 沙羅は怜司の腕にしがみつき、弱々しく手を伸ばした。「怜司さん……私、あなたの子ども、守れるか不安で……」 怜司は一瞬で涙ぐみ、彼女を抱きかかえて走り出した。 「絶対に何があっても守る。絶対に!」 彼は急いで駆け出したせいで、拉致犯に押されていた遥の姿には目もくれなかった。 遥は硬いコンクリートの上に倒れ込んだが、もう何も感じなかった。 ぼんやりと、怜司がプロポーズしてくれた日のことを思い出していた。 彼は遥を強く抱きしめ、何度も何度も言った。「遥。俺は、絶対に誰にもお前を傷つけさせない」 ……今思えば、どれほど滑稽な言葉だったろう。 遥は足を縛られて海へ投げ込まれ、どんどん沈んでいく。そのまま、意識が遠のいていった。 第2話 遥が目を覚ますと、怜司がそばで見守っていた。 「遥、やっと目を覚ましたんだな」 彼が自分の無事を喜んでいるのかと思ったが、次の言葉で違うことに気づいた。 「これで沙羅も安心できるよ。あの子、自分をどれだけ責めてたか、知らないでしょ」 …… 沙羅は手を引っ込め、皮肉っぽく言う。「自分を責めてる?責めるべきことは、それだけじゃないんじゃない?人の夫のベッドに入り込んで、しかも……」 怜司の顔色が一気に変わる。「もうその話は蒸し返さないって約束しただろ?なんで子どもを産ませることにしたのか、もう説明したよな」 遥と目が合うと、怜司は少し声を和らげた。「沙羅は、ずっと遥さんに謝りたいって言ってて。俺がそれを隠してただけだ。お前が知ったら出ていくだろうと思って」 …… 「それに、今回だって何事もなく帰ってこられたんだ。もう過去のことにこだわるな」 遥は一瞬言葉に詰まり、皮肉っぽく言う。 「もし犯人が私を海に沈めるんじゃなく、ナイフで刺してたら、たぶん今頃私は死んでたのよ」 怜司は眉をひそめて舌打ちした。 そのとき、沙羅が突然駆け込んできて、遥のベッドの前で膝をついて泣き出す。 「全部私のせいです……怜司さんが酔ってる時に、良い覚ましのお茶なんて持っていかなきゃよかったし、子どもを残すべきじゃなかった」 怜司はすぐに沙羅を起こしてベッドに座らせ、優しく声をかけた。 「悪いのは俺だ。自分を責めるな。 それに、おばあちゃんが『子どもを産め』って言ったんだ。田舎から出てきたお前が自分で決められるわけないだろ」 怜司は沙羅のお腹をそっと指でなぞり、甘やかすように言う。「もう余計なことは考えるな。赤ちゃんに悪いから」 沙羅は涙を拭い、頬を赤らめて甘えるように言う。「怜司さん……東区の焼き栗が食べたい」 怜司は少しも迷わず立ち上がった。 「ここで大人しく待ってて。今すぐ買いに行くから」 遥はそんな二人を冷ややかに見つめ、胸に重い石がのしかかっているような痛みを感じていた。 部屋に残ったのは遥と沙羅の二人だけ。 沙羅は腰を押さえ、また跪こうとするそぶりを見せた。「怜司さんが優しくしてくれるのは、私がちゃんと子どもを産むためです。本当は、怜司さんの心の中にいるのは、いつだって遥さんだけです。私はここにいる資格なんてありません……」 遥はもう彼女の芝居に付き合う気もなかった。「怜司はもう出て行ったよ。もう演技はやめて。 昔、怜司が一億円渡すから消えてくれって言った時、下働きのままでもいいからって残って、いろいろやって子どもまで作ったの、全部知ってるよ。あなたがどんな女か、分かってるから」 沙羅の顔から一気に表情が消える。 遥は視線を落として、静かに言う。「腐った恋人なんて、腐ったリンゴと同じ。私はもういらない。 できるだけ早く離婚協議書を用意する。あなたが天城家の奥さまになりたいなら、あとは怜司にサインさせるだけだよ」 沙羅は眉を震わせ、小声で言う。「遥さん、誤解です。天城家の奥さまになりたいなんて思ったこと一度もないです……」 「決めるのはあなただよ。私からは一度だけチャンスをあげる」 少し間を置いて、沙羅は深々と頭を下げる。 「天城家の跡継ぎの代わりに、感謝します」 天城家の跡継ぎ? 遥は自嘲気味に笑う。「じゃあ、家族三人でお幸せに」 沙羅が出て行った後、遥は退院同意書にサインし、そのまま病院を後にした。 八年暮らした家に帰ると、リビングの壁一面には数千枚の写真が並んでいる。 プロポーズの日、怜司の顔が真っ赤になっている写真。バリ島での婚約式、感激して泣いている自分の顔。 どこを見ても、怜司との幸せな思い出ばかり。 遥は家政婦を呼び、家中の写真をすべて壁から外させ、庭に山のように積み上げてから、一気に燃やし尽くした。 遥は、この先ずっと怜司と添い遂げるものだと思っていた。けれど、地味で素朴な田舎娘が、あっさりと怜司の誓いを壊してしまった。 これからは、怜司とは、それぞれ自分の道を行く。もう、交わることはない。 第3話 もしかしたら、遥への罪悪感からかもしれない。怜司は秘書に頼んでリュミエールのファッションショーの招待状を届けさせた。 リュミエールコレのショーを観に行くのは、毎年、遥と怜司にとって欠かせない恒例行事だ。 一緒に届いたのは、真紅のベルベットドレスと、カルティエのジュエリー。 ぼんやりしている遥の背後から、怜司が優しく抱きしめてくる。 「遥、まだ俺のこと怒ってる?」 遥は震える声で「そんなことない」と返し、目が赤くなった。 怜司はそっと耳たぶにキスをして、「やっぱり遥は、俺のことを本気で怒ったりしないんだな。沙羅が子どもを産めば、全部元通りになる」 遥は心の中で問いかける。本当に、元に戻れるの? 沙羅という存在が、もう二人の間に大きな壁を作っている。それを乗り越えることなんて、できるはずがない。 怜司の息が耳元でどんどん荒くなる。片手で沙羅の腰をつかみ、ぐっと引き寄せた。 彼が、かつて沙羅にも同じことをしていたと想像した瞬間、遥の口の中に苦い感情が広がる。 そっと身体をすり抜ける。「今夜のフライトだから、荷物をまとめてくる」 怜司は少し物足りなさそうにしながらも、無理に引き止めようとはしない。 ふと、さっき見た何もなくなった壁アルバムを思い出し、怜司は何気なく尋ねる。 「遥、あの写真たち、どうしたの?」 遥のまつ毛が一瞬震える。「全部、古くなったから。また新しい写真を飾るつもり」 怜司は少しも疑う様子はない。「そうか。じゃあリュミエールでいっぱい撮ろうな」 深夜、怜司の車が別荘の前に停まる。 運転手が遥のスーツケースを持ち上げながら、どこか気まずそうな目をしている。 嫌な予感が胸をよぎる。 予感は当たる。助手席のドアが開くと、そこには沙羅が座っていた。 沙羅はリネンのマタニティウェアを着て、頬の赤みが素朴さを際立たせている。 落ち着かない様子で手をもみながら、どこか媚びるような口調で話しかけてくる。 「遥さん、ごめんなさい。私がどうしても一緒に行きたくて怜司さんを困らせたの。怜司さんは悪くないから……」 沙羅が口を開く前に、怜司があわてて彼女を背中にかばった。 「俺が心配で沙羅を国内に残せなかったんだよ。それに、沙羅も『二人の時間を邪魔したら嫌われるかも』って気にしてた」 遥は無理やり口元を持ち上げて笑う。怜司が誰かを庇うこの仕草、かつて、遥が家族に責められていた頃と同じだ。 二人はまるで、遥が恐ろしい悪役か何かみたいな空気を作っていく。 怜司の想定と違い、遥は「別にいいよ」とだけ言い、黙って後部座席に座る。 その態度に怜司は戸惑いを隠せない。 彼はルームミラー越しに遥の様子をうかがうが、遥は静かすぎるほど静かで、逆に不安になる。 沙羅がそっと怜司の袖を引っ張る。「怜司さん……喉が渇いちゃって」 怜司は眉をひそめる。「水なら右側の引き出しにあるだろ」 沙羅は一瞬きょとんとする。 沙羅が妊娠してから、怜司は何もかも自分で世話をし、細かいところまで気を配っている。 リュミエール行きが決まったと知ったとき、沙羅は朝から「お腹が痛い」と怜司に訴えていた。 怜司はその度に予定をキャンセルしかける。 そんな怜司に、沙羅は「私は大丈夫だから、遥さんと二人で行ってきて」と控えめに譲るフリをした。 怜司が納得するはずもない。 「沙羅、いっそ一緒に行こう。俺もそっちの方が安心だから」 そう言われて、沙羅はしぶしぶ同意した。 遥は驚くほどすんなり沙羅の同行を受け入れた。 最初はそれがうれしかった。でも今、怜司の表情を見ると、まだ遥のことが気になるんだと気づいてしまう。 沙羅は内心、苛立ちを覚えながらも、平然を装う。 彼女は大きなお腹をわざと強調しながら、水を探すふりをする。額にはうっすらと汗が滲む。 怜司の注意はすぐ沙羅に戻り、慌てて彼女を座り直させる。 「妊婦なんだから、車が走ってる間はじっとしてろ」 そう言って、シートベルトを丁寧に締め、具合が悪くないか確かめてやる。 沙羅はその隙に怜司の頬にキスをする。「ありがとう、怜司さん」 怜司の体が一瞬こわばる。視線の端で後部座席の遥をちらりと見る。 彼女が窓の外を見ていて何も気づいていないのを確認して、ようやくほっと息をつく。 第4話 車が止まり、遥は真っ先に降りて歩き出す。 怜司は沙羅を気遣いながら、ゆっくりと後ろから続く。二人が並んで歩く姿は、VIPルームに向かう途中でたくさんの視線を集めている。 「わあ、あの男の人、めちゃくちゃイケメンだし優しい。ずっと妊婦さんを支えてる」 「奥さんは正直、そんなに美人じゃないよね。その前にいるサングラスの子のほうが、どう見てもトップレベルの美人!」 「でも、いくら綺麗でも意味ないじゃん?どうせ一人ぼっちで誰かに愛されてるわけでもないし」 沙羅は道行く人たちの噂話を聞いて、得意げに一瞥し、胸を張ってまるでセレブ妻のような態度をとる。 その言葉は一言も漏れず、すべて遥の耳に届いていた。 怜司は沙羅を座らせると、今度は遥の隣に腰かける。 「遥、沙羅にあんまりきつくしないでやってくれ。田舎育ちだから、何もかもが珍しくて仕方ないんだ」 遥は怜司を無視した。怜司は気まずそうに、そっと彼女に毛布をかけてやる。 「痛っ!」 後ろから沙羅の悲鳴が聞こえる。お腹を押さえ、青ざめた顔で席に寄りかかっている。 「毛布を取りに立とうとしたら、足をひねっちゃって……すごく痛くて……」 怜司は一瞬で顔色を変え、遥を押しのけて沙羅のもとに駆け寄る。 怜司はしゃがんで沙羅の足首を優しくマッサージする。その手つきは、まるで壊れやすい芸術品を扱うみたいに繊細だった。 遥の胸の奥に、冷たい痛みが広がる。去年、自分がブランコから落ちて手首を捻挫したとき、怜司は涙を流してずっとそばを離れなかった。その思い出がよみがえる。 このとき遥はやっと気づく。愛は死なない。ただ、居場所を変えるだけなんだ。 その後の十数時間、怜司はずっと沙羅のそばから離れない。 「怜司、赤ちゃんに絵本読んであげて。すごく喜ぶから」 「いいよ。よし、赤ちゃんに、今日は『星の王子さま』の話をしてあげよう。 遠い星に、小さな王子さまが住んでいました……そして最後は、一番大切なバラのもとへ帰ることにしました」 手の甲に涙が落ちて、遥はそのとき初めて、自分がもう泣きじゃくっていたことに気づく。 イヤホンを耳に差し込み、睡眠薬を何錠も飲んで、無理やり眠りに落ちる。 どれくらい眠ったのか、喉が焼けるように乾いて目が覚める。 水を入れようと立ち上がると、後部座席から二人の会話と笑い声が聞こえてくる。 「怜司さん、お腹の子はどっちに似てるのかな?できれば怜司さんに似て、かっこよくなってほしいな……私なんて田舎くさいし」 沙羅の声は、とろけそうに甘い。 怜司は眉を上げて微笑む。「俺は沙羅みたいな子に生まれてほしいけどな。素直で、優しくて、純粋で……」 遥は横目で二人を見る。沙羅は赤くなった顔を怜司の肩に寄せる。 まるで本物の夫婦。新しい命を心から待ち望んでいる家族にしか見えない。 遥の手からコップがカランと落ちて、床で粉々に割れた。 遥はしゃがんで破片を拾おうとしたが、目の前が真っ暗になり、そのまま倒れ込んだ。 手のひらにガラスの破片が突き刺さり、鮮血が滴る。激しい痛みに全身が震える。 「遥、大丈夫か?」 怜司がすぐに駆け寄り、彼女を抱きかかえてソファに座らせる。 沙羅はすかさず、わざとらしい声で口を開く。「全部私のせいです。でも、遥さんだって怪我をしてまで怜司さんの気を引こうとしなくても……」 その言葉に、怜司の目に迷いが浮かぶ。 怜司はティッシュを取り、遥の傷口を押さえながら、どこか責めるような口調になる。 「欲しいものがあるなら言ってくれればいいだろ。なんでこんなことまでするんだ? リュミエールのファッションショーにも付き合ったし、お前の好きなジュエリーも全部プレゼントした。それでも、まだ足りないのか?」 遥は怜司の肩越しに沙羅を見る。彼女は冷たい目で遥を見返してくる。田舎娘の素朴さなんて、そこにはかけらもない。 怜司は遥の視線を追い、沙羅の方を見る。沙羅はすぐに無邪気で無垢な顔を作る。 怜司は眉をひそめて言う。「自分で転んでケガしたくせに、それまで沙羅のせいにするのか?」 遥は血のにじむ手のひらを引っ込め、言葉が喉で詰まる。 「怜司、あなたの中で私はそんなにも卑しい人間なの?」 第5話 怜司の手が途中で止まる。自分が言いすぎたと、ようやく気づいた。 「遥、そんなつもりじゃない。俺は、その……」 遥は首を横に振り、言葉を遮る。「もうすぐ着陸するよ。お医者さんを呼んで。お願い」 飛行機が着陸するとき、揺れが大きくなり、沙羅は怜司の胸にしがみついて思わず声を上げる。 怜司は優しくなだめる。「俺がいるから、大丈夫だ。絶対にお前を危ない目には遭わせない」 遥の胸がきゅっとなる。同じ言葉を、あの人は前にも自分に向けて言っていた。 あの年、怜司は二十二歳。遥を囲む不良の群れに飛び込んできて、震えながらも両腕を広げて庇った。 「遥、大丈夫だ。俺がいるから、絶対に傷つけさせない」 飛行機が無事に着陸すると、専属の医師が遥の傷の手当てをしてくれた。 「傷がちょっと深いから、跡が残るかもしれません」 遥は小さな声で礼を言う。怜司の目に、ほんのり心配そうな色が浮かぶ。 沙羅は怜司の腕にすがりつきながら甘える。「怜司さん、私、赤ちゃん産んだらお腹に目立つ傷が残っちゃうのかな?」 怜司は優しく笑って言う。「世界中から最高の医者を集める。絶対に痕なんて残させない」 沙羅はとろけるように微笑む。「ありがとう、怜司さん」 ホテルに着くと、沙羅は怜司の袖を引いて街を見たいと言い出す。 「私、ずっと田舎で育ったから。こんな綺麗な通り、初めてで」 怜司はすぐに沙羅を連れてリュミエール中の高級ブランドを買いまくり、ありとあらゆるラグジュアリーな品をホテルに運び込んだ。 エルメス、シャネル、ダイヤモンドジュエリー…… 沙羅は怜司の腕に絡みながら、無邪気を装う。「こんなに買ったら、いくらになるんだろ。私の田舎なら家が一軒建っちゃうよね」 怜司は優しく沙羅を見つめて言う。「バカだな。欲しいなら何でも買ってやるよ。お金の心配なんていらない。だってお前は天城家の大功労者だからな」 その言葉を言い終わるや否や、怜司はふと角に立つ遥の姿に気づいた。 表情が固まり、ぎこちなく声をかける。「遥、お前も何か欲しいものがあったら選んでいいんだぞ」 遥はそのまま部屋へ引き返す。その背中に、沙羅の声が響く。 「怜司さん、こんな高いもの、全部遥さんにあげてください。私みたいな田舎出身の女には、もったいなさすぎて……」 怜司は眉をひそめて沙羅を制する。「そんなこと言うな。お前にだって十分ふさわしい。遥にはもういっぱいあるし、欲しいものがあればまた買いに連れていくから」 夜になると、怜司は「沙羅が環境に慣れてないから」と言い訳して、ずっと彼女のそばについていた。 翌日、遥がファッションショーの会場に着くと、怜司と沙羅はすでに指定席に座っている。 怜司は隣の小さな席を指さして言う。「沙羅、長く座ってると腰が痛くなるから、この席を譲ってやってくれ」 遥は淡々と答える。「私はショーを見に来ただけ。イチャイチャを見るためじゃないから」 怜司は言葉に詰まる。 この春夏コレクションは、遥がずっと楽しみにしていた。有名デザイナーが参加しているのだ。 ウェディングドレスのランウェイが始まると、沙羅の目は驚きでまん丸になった。 「これがウェディングドレス……きれい」 怜司が柔らかい目で聞く。「気に入った?」 沙羅は少しうつむき、名残惜しそうに言う。「うん。でも、私なんか一生こんなドレス、着るチャンスないよね」 怜司の表情が揺れる。「誰がないって言った?気に入ったのを買ってやる。子どもが生まれたら、ウェディングフォトを撮ろう」 沙羅は尊敬のまなざしで見上げる。「本当に? でも、新郎がいない……」 遥はわざと咳払いをして言った。「怜司、一晩中『新郎』やってたのに、今さらウェディングフォトまで付き合えないってことはないよね?」 怜司の顔が一気に青ざめる。「遥!」と叫んだその瞬間―― 真上のシャンデリアがガシャンと音を立てて、突然落ちてきた。 第6話 「怜司さん、危ない!」 沙羅が叫び、身を投げ出して怜司をかばう。 重いシャンデリアが彼女の背に落ち、クリスタルの破片が四方に散る。 怜司の顔から血の気が引く。「沙羅!」 沙羅は顎を少し上げる。「無事で、よかった……」 そう言って、彼の腕の中で気を失う。 怜司は唇を震わせ、沙羅を抱き上げて駆け出す。 「どいてくれ!」 怜司の肩が遥に思い切りぶつかる――ドン! 遥はそのまま床に倒れ、額をランウェイの角で打ちつけてしまう。すぐに額から血が流れ出す。 倒れたまま、怜司が遠ざかっていく背中をぼんやり見つめる。妊娠している体で、人をかばうなんて。 沙羅は、怜司の心から決して消えることはない。 周りの人たちに助け起こされ、遥はひとりふらふらと病院へ向かう。 やっと救急の入り口まで来たところで、ばったり怜司と鉢合わせる。 そこへ看護師が慌てて駆け寄ってくる。「妊婦さんに輸血が必要です。でも血液型がRHマイナスで、今、血液バンクに在庫がありません。ご家族で献血できる方はいませんか?」 怜司が振り返り、遥の手首をつかむ。「遥、お前はマイナスだ。沙羅を助けてくれ!」 遥は信じられない思いで怜司を見つめた。彼は、遥が貧血持ちだということを誰よりも知っているはずなのに。 昔、貧血がひどかった遥のために、怜司はわざわざプライベートの病院を作った。専属の医療チームまで用意して、24時間体制でサポートしてくれていた。 なのに、今は―― 怜司は早口で言い放つ。「沙羅は俺を助けようとしてケガしたんだ。お前、そんなふうに黙ってるのは自分勝手だぞ!」 言い終えるより早く、怜司は遥を採血室へと強引に押し込む。 太い針が血管に刺さり、遥は思わず胸に手を当てる。 心臓が見えない大きな手でぎゅっと締め付けられるようで、苦しさに息が詰まりそうになる。 600ミリリットルの血が抜かれていく。 怜司は沙羅の方ばかり見ていて、蒼白になった遥の顔に気づかない。 採血が終わり、ようやく怜司がこちらを見る。「額、どうしたんだ? 悪かった、遥。今すぐ医者に全身を診てもらって、手当してもらおう」 遥は自嘲気味に口角を上げ、されるがまま検査室へ入る。 すぐに医師が検査結果を持って出てくる。 怜司は慌てて駆け寄り、「妻はどうですか」と問いかけた。 医師は首を振って言う。「どうして彼女に献血なんてさせたんですか。彼女が妊娠しているの……」 そのとき、看護師が慌てて飛び出してくる。「沙羅さんのご家族の方ですか?意識が戻ってから、ずっと『怜司さん』って呼んでいます」 怜司はためらいもなくその場を立ち去り、医師の言葉の続きをまったく聞いていなかった。 「遥さん、もともと貧血気味なのに、しかも妊娠8週目ですよ。献血なんて本当に危険な行為です!」 遥は驚いて検査報告書を受け取る。「……私、妊娠してたの?」 遥は頭が真っ白になり、次の瞬間、下腹から温かいものが流れ出す。 ゆっくり視線を落とすと、太ももの内側を伝って血が落ち、床に点々と広がる。 意識が遠のく前、遥は怜司が沙羅の頬を優しく撫でているのを見た。 目を覚ますと、遥はひとりで病室のベッドに横たわっている。 医師が気の毒そうに告げる。「たくさん輸血してしまったせいで、お子さんは助かりませんでした」 涙があふれ出す。 遥はベッドを何度も叩き、喉の奥から低い嗚咽が漏れる。 医師の反対を振り切り、強引に退院した。 ふらつく体でホテルに戻り、洗面所の鏡の前で泣いたり笑ったりする。 左手の薬指にはまったままの結婚指輪を見つめ、思い切り引き抜く。 ダイヤのリングがカランと音を立てて排水口へ転がり落ちた。 第7話 翌日、遥は用意した離婚協議書を手に、病院へ向かう。 怜司は沙羅のために病院のフロアを丸ごと借り切り、安静に過ごさせていた。 それだけでなく、片時も離れずベッドのそばに付き添い、沙羅が少しでも眉をひそめれば、すぐに大慌てするほどだった。 「怜司さん、お腹の赤ちゃんがミルクティー飲みたいって」 怜司は沙羅のお腹をそっと撫で、名残惜しそうに立ち上がる。 「待ってて。すぐ買ってくる」 遥は廊下の角で足を止め、彼が去るのを待ってから病室のドアを押し開ける。 沙羅は遥の目に一瞬おびえの色を浮かべ、警戒するようにお腹を守る。 「遥さん、いらっしゃったんですね」 遥は軽く鼻で笑う。「安心して。あなたとその子どもに手を出す気はない。 でも正直、あなたを見くびってた。あそこで飛び込んだのは、あなたとお腹の子の将来を勝ち取るためだったのね」 沙羅は観念したように作り笑いをやめ、正直に言う。「他に方法なんてなかったんです。私は遥さんほど綺麗でも頭が良いわけでもない。怜司さんが今みたいに大事にしてくれるのも、結局お腹に天城家の子どもがいるからです。 こうして必死に勝負しなきゃ、この先に希望なんてありません。もし怜司さんが昔のあなたへの情を思い出して『子どもだけ引き取る』なんてことになったら、私は田舎に戻って畑仕事するしかないんです」 このとき遥は、逆に沙羅の正直さに少しだけ感心してしまう。 沙羅は続ける。「世の中って女には厳しいですよね。私にあるのは、せいぜいこのお腹だけです」 遥は深く息を吸い込んだ。「正直、ちょっと羨ましいよ。あなたは賭けに出ればまだ道が開ける。でも私は……私の行き場なんてどこにもない」 遥は離婚協議書を持って沙羅の前へ歩み寄る。「これ、もし私から怜司に渡したら、絶対にサインなんてしない。でも、あなたなら、うまく気づかれずに署名させる方法があるはず」 沙羅はしばらく無言で書類を見つめ、やがて手を伸ばして受け取った。 「ありがとうございます。助かります」 遥はかすかに口元を引きつらせて笑う。「私は二人を応援してるんじゃない。自分を解放したいだけ」 遥がドアに向かおうとしたその時、沙羅が急に声をかけてくる。 「遥さん。もし私が、将来あなたにひどいことをしたら、ごめんなさい」 遥はなぜ急にそんなことを言うのか分からなかった。追及する気力もない。 「せいぜい、後悔しないように」 病院を後にし、ホテルへ戻ると荷造りを始める。先に帰国するつもりだ。 一時間後、部屋のドアが蹴り開けられる。 怜司は全身から冷たい空気をまとい、容赦なく遥の腕をつかんで外へ引っ張り出した。 遥は痛みに顔をしかめる。「痛い、やめて、離して!」 けれど怜司は聞く耳も持たず、そのまま遥の腕を引っ張ってホテルのロビーまで連れていく。 怜司は顔を近づけ、低く問い詰める。「遥、沙羅をどこへやった?」 遥は一瞬きょとんとして答える。「沙羅さん?彼女なら病院で安静にしてるはずでしょ。私がどこにいるかなんて知るわけない」 「看護師にも聞いたし、防犯カメラも全部見た。今日、沙羅の病室に出入りしたのはお前だけだ。 お前が出て行ってすぐ、沙羅はいなくなった。本当にお前じゃないのか?」 怜司は唇を真一文字に結び、氷の刃のような目で睨みつける。 「これが最後のチャンスだ。沙羅をどこへやった?」 遥は困惑したまま、かすかに首を横に振った。 怜司は怒りで頬の筋肉をピクつかせながら、スマホを遥に投げつけた。 遥は訝しげにそれを拾い上げる。画面には、年老いた両親が手を縛られて吊るされ、その足元には怜司が飼っている猛獣たちがうごめいている。 その瞬間、遥の全身から力が抜け、周囲の人目も気にせず、怜司の足元にひざまずいて必死に頼む。 「怜司、お願いだから私の両親を解放して!お父さん、最近また心臓を悪くしてるの。こんなことされたら、本当に命が危ない! 本当に沙羅さんの居場所なんて知らないの、どう言ったら信じてくれるの?」 第8話 怜司は遥の顎を指でつまみ、露骨な嫌悪をにじませる。 「いいか、覚えておけ。今日お前の両親に何かあったら、それはお前の意地のせいだ」 そう言って、画面の向こうに合図を送る。 縛られた両親を吊るしていたロープが一気に下がり、映像はぐにゃりと歪んで真っ暗になる。 スピーカーから、母の張り裂ける悲鳴だけが響く。「あなた!」 遥は弾かれたように立ち上がり、怜司に飛びかかる。「人殺し」 次の瞬間、力が抜けて、そのまま怜司の腕の中で気を失う。 遥は夢を見る。 舞台は、あの日の結婚式。父がやさしい顔で、娘の手を怜司の手に重ねた。 「うちの大事な娘を、頼むぞ」 怜司は彼女の手を強く握り、誓った。 「安心してください。誰よりも大事にします」 その笑顔が、いつの間にか冷酷な色に変わる。怜司は父を、サファリ施設の檻へ突き落とす。 「お父さん!」 遥は叫んで、冷や汗で目を覚ます。 隣の部屋から甲高い笑い声が漏れてくる。「怜司さん、間に合ってよかった。あのままだったら、どうなってたか」 遥は裸足でドアを押し開ける。 沙羅は髪をぼさぼさに乱し、顔色も真っ青なまま、怜司の胸にしがみついている。 怜司は顔を上げて遥を見つめる。「病院の霊安室で沙羅を見つけた。見張りの人間が、お前が沙羅が寝ているすきに冷蔵庫に押し込んだって証言してる」 沙羅は涙目で怜司の袖をつまむ。「怜司さん、大丈夫よ。私は平気だから、遥さんのことは責めないであげて……」 怜司は沙羅の手の甲を優しく叩きながら言う。「遥、沙羅に謝れ。彼女が許してくれたら、今回のことは許してやる」 遥は唇を震わせながら尋ねる。「……私の両親は?」 怜司はうんざりしたように眉をひそめる。「ちゃんと無事だ。沙羅の体が丈夫で、冷蔵庫の中でも大事にならなかったから助かったんだ。もし何かあったら、お前の両親がどうなってたか、俺にも保証できないけどな」 両親が無事だと知って、遥はようやく胸をなでおろした。 「私じゃない、だから謝らない!」 沙羅は小さくため息をついて言う。「もういいの、怜司さん。遥さんが私をどう扱っても、全部当然のことだから。謝ってほしいなんて……」 そう言って、泣きそうな声で続ける。「全部私が悪いの。怜司さんの子どもなんて授からなきゃよかったし、海外までついて来なきゃよかった……」 沙羅は重いお腹を抱えながら、よろよろと出口へ向かう。 怜司はすぐに彼女の腕を掴んで引き止める。 「沙羅、どこにも行くな!お前がいなくなった数時間、俺がどんな気持ちだったかわかるか? これからは絶対に、俺の視界から離れるな」 そのままスマホを取り出して警察に電話をかける。 「警察ですか、傷害事件の通報をしたいんです」 遥は衝撃で顔を上げ、信じられないという目で怜司を見た。 「怜司、正気なの?」 怜司の目に冷たい光が宿る。「遥、人は自分のしたことに責任を持つべきだ。俺は全部警察に話すつもりだ。最大で三日間の拘留だろう、それが沙羅への償いだ」 足元から冷たいものが這い上がり、遥はその場で固まって動けなくなった。 怜司の腕の中でしおらしくしている沙羅を見たとき、遥は病院で彼女に言われた言葉を思い出す。 「もし私が、将来あなたにひどいことをしたら、ごめんなさい」 ――そういう意味だったのか。 遥は力なく、沙羅を指さしていた手をだらりと下ろした。「……そういうことね。自分のためなら、他人を犠牲にしたっていいんだ」 そこへ大柄な警察官たちがドアを開けてなだれ込んできて、怜司の指示通り遥に手錠をかける。 「妻は一時の気の迷いで、実害はないです。法律通り、72時間の拘留だけでいいです」 現地の警官は鼻で笑い、ぶっきらぼうに言った。 「処置のことは、こちらに任せてください」 連れて行かれる直前、遥は最後に怜司を見つめる。 怜司は口を開くが、何も言わない。 遥は監房の隅で絶望的に身を縮め、体を抱きしめて震えていた。 流産したばかりで一日中何も口にできず、全身がだるく力が入らない。 他の女囚たちは、黄色人種でやせ細った遥を見て、面白がってにやにや近づいてくる。 「おい、あんたは何やらかして捕まったんだ?万引き?それとも体を売ってたの?」 遥は涙で赤くなった目で睨み返す。「私は無実よ!あなたたちとは違う!」 その強気な態度がリーダー格の女囚を怒らせ、彼女は手下たちに合図して遥を囲ませる。 遥は必死に頭を守り、歯を食いしばって女たちの暴力に耐え続けた。 …… 夜が更け、全身傷だらけの遥は、冷たい床に一人座り込んでいた。 きっと今ごろ、沙羅は自分の策がうまくいったと得意になっていることだろう。 怜司も、まさか自分が「少し痛い目に遭わせてやる」と思っていた遥を、死の淵まで追い詰めてしまうとは思いもしなかった。 翌朝、遥は血の海の中で倒れているところを発見された。 大量出血……体内の血の四分の一が流れ出ていた。 すぐに救急搬送され、五時間にも及ぶ必死の救命措置の末、かろうじて一命をとりとめた。 そのころ怜司は、沙羅と一緒にセーヌタワー近くを散歩していたが、突然胸が締めつけられるような痛みに襲われる。 「沙羅、なんだか胸騒ぎがする。もしかして、遥に何かあったんじゃないか?」 沙羅は彼を車まで連れて戻す。「心配なら警察に電話してみたら?」 「……警察署に迎えに行く」 怜司はほとんど迷うことなく、すぐに警察署へ向かった。 「どういうことだ?『その人はいません』って?」 女性警官が名簿を何度も見直し、きっぱりと答える。「天城遥さんは、今朝すでに出所されました」