春風を誤ちて

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春風を誤ちて

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仁美は、山口家の令嬢に見捨てられた俺様系社長・宮下直樹をひたすら追い続けていた。 直樹が山口家の令嬢のために豪雨の中で一晩立ち尽くし...

Chương (1)

第1章

仁美は、山口家の令嬢に見捨てられた俺様系社長・宮下直樹をひたすら追い続けていた。 直樹が山口家の令嬢のために豪雨の中で一晩立ち尽くした夜、仁美は彼の傍らで、ただ黙って傘を差し続けた。 直樹はある事で直樹父に鞭で九十九回打たれ、仁美は名医の家の前に一晩中跪き、彼のために薬を求めた。 直樹が骨髄提供で思わぬ入院生活を送ったときも、仁美は三か月間、片時も離れず彼の傍に寄り添った。 山口家の令嬢が海外に出発したその日、ようやく直樹の心は仁美に傾いた。 結婚から三年。二人は京市一の模範夫婦と呼ばれるようになった。 だが結婚記念の日、仁美は直樹のバッグの中に一通の書類を見つけてしまう。それは山口舞が送ってきた訴状だった。 子供っぽく書かれたその訴状の内容は、直樹に空港まで迎えに来させ、そして二人が恋人同士だった頃に彼女が手作りのプレゼントをその場で返してほしいというもの。 仁美は直樹と同じ法律事務所で働き、普段扱う書類はすべて彼女の手を経ていた。 だからこそ、直樹がこの訴状だけを、わざわざ別に取り出していたのを見た瞬間、仁美は理解した。自分たちの愛も、ここで終わりを迎えるのだと。 第1話 永長仁美(ながおさ ひとみ)は、山口家の令嬢に見捨てられた俺様系社長・宮下直樹(みやした なおき)をひたすら追い続けていた。 直樹が山口家の令嬢のために豪雨の中で一晩立ち尽くした夜、仁美は彼の傍らで、ただ黙って傘を差し続けた。 直樹はある事で直樹父に鞭で九十九回打たれ、仁美は名医の家の前に一晩中跪き、彼のために薬を求めた。 直樹が骨髄提供で思わぬ入院生活を送ったときも、仁美は三か月間、片時も離れず彼の傍に寄り添った。 山口家の令嬢が海外に出発したその日、ようやく直樹の心は仁美に傾いた。 結婚から三年。二人は京市一の模範夫婦と呼ばれるようになった。 だが結婚記念の日、仁美は直樹のバッグの中に一通の書類を見つけてしまう。それは山口舞(やまぐち まい)が送ってきた訴状だった。 子供っぽく書かれたその訴状の内容は、直樹に空港まで迎えに来させ、そして二人が恋人同士だった頃に彼女が手作りのプレゼントをその場で返してほしいというもの。 仁美は直樹と同じ法律事務所で働き、普段扱う書類はすべて彼女の手を経ていた。 だからこそ、直樹がこの訴状だけを、わざわざ別に取り出していたのを見た瞬間、仁美は理解した。自分たちの愛も、ここで終わりを迎えるのだと。 次の瞬間、直樹がドアを開けて入ってきた。 仁美は慌てて訴状をバッグに戻し、振り返って淡々と口を開く。 「数日後、出張に行くよ」 「分かった。俺も用事があるから、一緒には行けない」 直樹は軽くうなずいた。かつては細やかに気遣ってくれた男が、今は彼女の変化に気づくこともない。いや、もう気にもしなくなっていた。 「うん、大丈夫。私一人で平気」 仁美は持ち出す荷物を片づけながら言った。 最近、直樹はいつも同じ言い訳を口にする。 違うのは、今回は仁美の方も最初から彼に同行してほしいとは思っていなかったこと。 「今夜、舞が帰国する」 背を向けて書類を整えていた仁美の手が、ふと止まった。 「今夜?会いに行くの?」 「いや、俺には関係ない」 直樹は笑みを浮かべ、彼女の頬に軽く口づけを落とした。その視線の端には、彼は本来閉じていたはずのバッグが開いており、訴状の一角が覗いていた。 「今夜は会食がある。早めに休め」 バッグを手にし、直樹はそのまま出て行こうとした。だが、ドア口に差しかかったところで、ポケットの電話が鳴り出す。 彼はわずかに眉をひそめ、振り返ることなく出て行った。 空っぽの部屋を見つめながら、仁美は口元を引きつらせ、そっと目を閉じた。 夜、SNSを開くと、舞の投稿が目に飛び込んできた。 【弁護士さま、どうかご慈悲を】 添えられた写真はホテルのベッドの一角と、彼女の首筋に残る赤い痕。 気づけば、仁美の頬を涙が伝い、糸が切れたように零れ落ちていた。 胸を締めつける痛みに耐えながら、部屋中を探し回り、この三年間直樹と関わったものをかき集める。 彼からもらったラブレター。贈り物の数々。見るだけで、心臓が鋭い刃で刺し貫かれるようだった。 すでに三年が過ぎて、仁美は直樹が本当に自分を愛してくれたと信じていた。 だが舞が帰国した今、全ては自分の幻想だったと悟る。 直樹が未だに舞を忘れていないのでは、と疑ったこともあった。彼はいつも出張を口実に、半月も海外に滞在する。 舞が帰国することを知ったあの夜、酒に強いはずの直樹が初めて酔いつぶれた。 家まで背負って帰ったとき、彼は無意識に仁美を抱き寄せ、低い声で舞の名前をつぶやいた。 「舞、あの時のことは仕方がなかった。俺は君を責めないから......」 おそらく、あの時すでに心は死んでいた。それでもいつかで直樹が振り向いてくれる日を願っていたのだ。 だが運命は容赦なく仁美を嘲笑う。愚かだと、突きつけるように。 涙を拭い、直樹にまつわる全ての品を箱に詰め込み、そのままゴミ箱に捨てた。 部屋に戻り、引き出しから一枚の招待状を取り出す。記された番号に電話をかけた。 宮下家の妻としてどう振る舞っても直樹の心を温められないのなら、もう求めることはない。 電話が繋がり、仁美の声には決意が宿っていた。 「南城会社ですか。そちらのご招待をお受けします。一か月後から入社いたします」 第2話 直樹が今夜は帰ってこないことを知った仁美は、久しぶりにバーへ足を運び、酒に溺れた。 強い酒を何杯も流し込み、胸を締めつける痛みをようやく鈍らせた。 少し離れた席から、男たちが一人でいる彼女に気づき、声をかけてきた。 「お嬢さん、一人?一緒に遊ばない?」 いつもなら断っていた。直樹のいない場で男と二人きりになることなど決して一度もなかったから。 だが、心の中でふと切り替える。彼が平然と自分を裏切れるのに、自分がただ酒を飲むくらい、何が悪いのだろう。そう思い直し、彼らの誘いに頷いた。 個室に足を踏み入れた瞬間、視線が凍りつく。そこにいたのは直樹と舞だった。 「さっき拾った美人だよ。一緒に飲もう。終わったら俺が送っていくから」 先頭の男が口笛を吹く。 直樹の表情が険しくなり、ゆっくりと立ち上がって仁美の隣に腰を下ろした。低く落とされた声が胸を抉る。 「君はこういう場所が嫌いじゃなかったのか」 仁美は目頭を熱くし、顔を背けて涙を隠した。 「じゃあ、あなたは?仕事だって言ってたのに、結局は舞の歓迎会じゃない」 「取引先に誘われて来て、たまたま舞もここにいただけだ」 直樹はそう弁解したが、その言葉が終わるか終わらないうちに、舞がこちらへ歩み寄ってきた。 「仁美さん、直樹は私を友達として帰国の歓迎をしてくれただけよ。責めないであげて。ほら」 舞は笑みを浮かべ、仁美に一杯を差し出し、そのまま飲み干した。 「さっきもう十分飲んだじゃないか、舞。無理に仁美とまた飲む必要はない。君もだ、仁美。わがままはもうやめてくれ」 直樹はわずかに眉をひそめ、不満げな声を漏らした。 仁美は口元をわずかに引きつらせ、冷えた声で答えた。 「私は彼女に無理強いなんてしていないよ」 昔なら、彼は必ず自分の味方だった。今は何も言っていないのに、非難は自分に向けられている。 「彼女との関係はもう過去のことだ。いつまでもこだわる必要はないだろう」 直樹の声音には明らかな苛立ちが混じっていた。 仁美は何も言わず、ただ強い酒をもう一杯喉へ流し込んだ。 場の気まずさを紛らわすように、誰かがパーティーの遊びを提案する。 三杯の酒を誰かに捧げるとしたら、その人が自分のためにしてくれた三つのことを語る。最初に指名されたのは舞だった。 彼女はあっさりと自分の酒を満たした。 「一杯目は、私と一緒にいるために、父親から鞭を受け、高熱の体で山口家に来てくれた直樹に」 杯を干すと、続けて二杯目を注いだ。 「二杯目は、私が病を抱えていると知り、ためらわず骨髄を提供してくれた直樹に」 仁美は胸の奥がざわめき、彼女が三杯目を注ぐのを見つめた。 「三杯目は、別れた後も変わらず友達でいてくれた直樹に。友情が長く続きますように」 三杯を飲み干した舞はすっかり酔ってしまった。 直樹は立ち上がり、彼女を支えながら言う。 「舞が酔ったんだ。俺が送っていく」 仁美は耳を疑い、思わず息を呑んだ。 「送れる人ならここには何人もいるじゃない。なんでわざわざ直樹が?」 直樹はわずかに眉をひそめ、逆らうことを許さぬ威圧感を声に滲ませた。 「ここにいるのは舞が知り合って間もない連中ばかりだ。俺は心配なんだ。仁美は先に帰れ。送ったらすぐ戻る」 支え起こされたその瞬間、舞は仁美を見て挑発的な笑みを浮かべた。 「私、近いうちにパーティーを開いて、みんなで集まるつもりよ。仁美さんも当然来るでしょう?なら、着ていく服はよく考えた方がいいわ。昔みたいに、まるでウェイトレスみたいなみすぼらしい格好で来ないでね。直樹の顔に泥を塗ることになるから」 仁美の胸に鈍い痛みが走り、思わず直樹を見つめる。 かつてなら必ず自分を庇ってくれた彼は、ただ一言。 「酔っ払いの話を気にするな」 そう言い残し、直樹は舞を連れて個室を後にした。 残された仁美の心は、暗い底へと沈んでいく。酒ももう喉を通らない。 立ち上がって出ていくと、酒を運んできたウェイターとぶつかる。 相手がチップを欲しがって甘い言葉をかけてきたのを見て、仁美は何気なく直樹から贈られた婚約指輪を外した。 「これをあげる」 振り返ることもなく、その場を立ち去った。 愛がもう存在しないのなら、愛の象徴である指輪にも意味は持たないのだから。 第3話 仁美はタクシーを捕まえることができず、仕方なく歩いて家へ向かった。街灯が壊れている暗がりを通りかかった時、背後から不意に足音が響いた。 振り返ると、黒い服に身を包み、キャップを深くかぶった男がこちらへ歩いてくる。 理由もなく恐怖に胸が締めつけられ、仁美は、思わず歩を速めた。 すると男は一気に距離を詰め、口元に白い布を押し当てた。 「お嬢ちゃん、そんなに急いでどこへ行くんだ。少し兄さんに付き合えよ」 低く陰湿な声が耳元に囁きながら、彼女の腕を掴み、脇の草むらへと引きずり込み、服も容赦なく引き裂いていく。 「んんっ......!」 仁美は必死に目を開き、全身の力を振り絞って抵抗したが、男の力には敵わなかった。 布には薬が染み込んでいたのか、意識がどんどん薄れていき、手足から力が抜けていく。 絶望に濡れた瞳から、涙が落ち、やがて抵抗の力すら失われていった。 「安心しろ、兄さんがたっぷり可愛がってやるからな」 男がいやらしい笑みを浮かべ、唇を奪おうとしたその瞬間。 仁美は手探りで拾ったレンガを、全身の力を込めて男の頭に叩きつけた。 「ぐあっ!」 男の悲鳴が響く。隙を突い仁美は男を突き飛ばし、バッグを掴んで光の差す方へ必死に駆け出した。 だが焦りすぎて足首をひねり、鋭い痛みに思わず声が漏れる。 それでも立ち止まることはできず、歯を食いしばって走り続けた。 「お願い......繋がって......!」 震える手でバッグからスマホを取り出し、必死に直樹の番号を押す。 絶望の淵に沈みかけたその時、ようやく繋がった。 「直樹、助け――」 「仁美、舞が君のせいで飲みすぎて胃を壊したんだ。今日は彼女を看病するから帰らない。これが君への罰だ」 言葉を最後まで聞くこともなく、通話は一方的に切れた。 「このアマ!逃げ切れると思うな!捕まったらタダじゃおかねぇぞ!」 背後から男の怒声が追いかけてくる。 恐怖に駆られ、仁美はそのまま車道へ飛び出した。 そこにいた警察が咄嗟に彼女を抱き止める。 その瞬間、糸の切れた人形のように地面へ崩れ落ち、荒い息を繰り返した。 視線を落とすと、足首は真っ赤に腫れ上がり、足裏には小石で切れた傷から血が滴り落ち、道に赤い線を描いていく。 「お嬢さん、いったい何があったんですか?」 仁美は、まるで藁を掴むように震える手で警察の手首を必死に掴んだ。 「わたしは......」 最後まで言葉を紡ぐことはできなかった。 これ以上はもう耐えられず、そのまま彼女の意識は闇に落ちていった。 第4話 再び目を覚ましたとき、仁美は自分が病室のベッドに横たわっていることに気づいた。 その傍らには直樹が座っていて、真っ赤に充血した目で彼女を見つめていた。 「ごめん、仁美......君をあんな場所に一人にして、全部俺のせいだ......」 彼は彼女の手を握りしめ、指先が小さく震えている。 「あの男は?」 掠れた声で尋ねると、数人の警察がドアをノックして入ってきた。 「永長さん、犯人はすでに捕まえました。供述によれば......」 直樹が視線を鋭く送ると、警官の言葉はいったん途切れ、低く続いた。 「激情による犯行で、誰かに唆されたわけではありません」 仁美は黙ってうなずいた。 「この件はきちんと処理させる。君は心配せず、休むことだけ考えていればいい」 直樹は彼女の頭を優しく撫で、スープを差し出した。 しかし、仁美は口をつけなかった。 「私、バーを出てすぐ襲われたのよ。直樹は本当に偶然だと思うの?」 直樹の手が一瞬止まり、疲れを帯びた声が落ちる。 「舞のことを嫌っているのは分かっている。でも何でもかんでも彼女のせいにするのはどうかと思うよ。しかも、彼女は病気なんだ」 スープをテーブルに置くと、彼の顔は次第に冷たくなった。 「無実の人に濡れ衣を着せるなんて、仁美はいつからそんな人間になったんだ? 病院でゆっくり休みながら、自分のことをよく反省してろ。ここ数日は忙しいから、代わりに介護士をつけておくよ」 仁美が言葉を返す前に、彼は立ち上がり、病室を出ていった。 残された背中を見つめながら、目の奥が熱くなり、胸の奥が鈍器でかき回されるように痛んで、息さえ苦しくなった。 あれほどの怪我を負ったというのに、直樹は気遣いの言葉をひと言もかけてはくれなかった。 それどころか、舞を疑った途端、怒りをぶつけてきた。 それで舞とは「友人」だけだと言えるの? 夕食を済ませたあと、彼女はスマホを手に取った。 直樹からは六十秒の音声が十数件。再生する気にもなれず、代わりにXを開く。 一番上に表示されたのは、舞の投稿。場所はスイズ。 【遠回りしても、結局あなたはまた私のそばにいてくれる。】 雪山を背景にした写真。普段は映ることを嫌う直樹が、彼女の荷物を自ら運び、珍しく舞と何枚の写真を並べて撮っていた。その腕は彼女の腰にそっと添えられ、限りなく曖昧な距離だ。 【お似合いの二人】と無邪気なコメントが並ぶ。 舞はからかうように返信した。 【ただのいい友達よ。】 その下には「お幸せに」といった祝福の言葉がずらりと並んでいた。 仁美は何気なく「いいね」を押し、ついでに一言合わせてコメントを残すと、そのままスマホの画面を閉じた。 幸い、もう愛など残っていない。だから心はもう痛まない。 退院の日、直樹は仕事を休んで迎えに来た。 「スイズで、たまたま旅行中の舞と会って、一緒に写真を撮っただけだ」 「......そう」 彼は助手席のドアを開けたが、仁美は後部座席に座った。 その空席を見て、直樹の胸に妙な不安がよぎる。 途中、沈黙は重くのしかかった。 直樹が何度も話題を振っても、彼女は気のない返事。最後には目を閉じて眠ったふりをした。 「舞のコメントは冗談だ、気にすることは......」 「気にしてない」 淡々と遮られ、彼は言葉を失う。バックミラーに映る彼女の横顔は、無表情で嘘のないように見えた。 家に着くと、彼はふと気づいた。彼女が三年外したことのない指輪がなくなっている。 「気に入らないから、外しただけ」 彼女はこれまで、一度だって指輪を外したことなどなかった。 直樹は胸の奥に湧いたざらつく違和感を必死に押し込め、あえて柔らかな声音で言った。 「気に入らないなら取り替えればいい。ちょうど、スイズで新しい指輪を買ってきたんだ」 彼はバッグから取り出し、彼女の指に赤い宝石をはめた。 「仁美の好きなルビーだ」 鳩の卵ほどのルビーは光を浴びて血のように赤く輝く。 仁美は口元を歪めて、笑みを作った。 「直樹、覚えてる?最初にくれたのはパープルダイヤモンドだったよ。私の一番好きな宝石は、ルビーなんかじゃない」 直樹の喉がひきつり、慌てて弁解する。 「すまない、俺の記憶違いのようだ。すぐに新しいのを用意する」 「もういい」 仁美はどこか疲れたように、彼を素通りしてそのまま家の中へ入っていった。 直樹が覚えているのは、いつだって自分が最も愛する人の好みだけ。 何度取り替えたところで、その最も愛する人が自分に変わることはない。 だが幸いなことに、もうすぐ彼のもとに離れるのだから。 家に入った途端、仁美のスマホが震えた。 舞からのメッセージ。 集まりの場所と日時を知らせるものだった。 その下には、彼女がダイヤモンドの指輪をはめて写真が添えられていた。 【ごめんなさい、手が滑って送っちゃった。この二つの指輪は直樹が選んでくれたの。償いのつもりらしいけど、悪くないでしょ?】 その瞬間、仁美はようやく理解した。直樹が自分に渡した指輪は、ただのおまけにすぎなかったのだ。 第5話 パーティーの日、仁美は質素な服で現れた。 直樹から贈られたアクセサリーは、一つとして身につけていない。 階段を降りたとき、直樹の瞳にかすかな驚嘆が宿る。 「まるで俺たちが初めて会った頃の君みたいだ。宝石を着けていない方が、ずっと綺麗だよ」 彼は背後から彼女の華奢な腰を抱き寄せ、その熱を帯びた大きな手がゆっくりと下へと這っていった。 「やめて......」 仁美は全身を震わせ、慌ててその腕から逃れた。 「早く行きましょう。遅れたら困るわ」 空になった腕の中を見つめながら、直樹の瞳はふっと翳った。 胸の奥に正体不明の不安が忍び込み、まるで何かが自分の掌から零れ落ちていくような感覚に囚われる。 仁美がこれほどまで彼を拒んだのは初めてだった。 会場に足を踏み入れると、仁美の視線はすぐに人々に囲まれて舞の姿を捉えた。 「直樹、やっと来てくれたのね」 彼女は笑顔で歩み寄ってくる。 オーダードレスに身を包んだ姿は優雅そのもの。直樹の隣に立てば、まるで誰もが認める理想のカップルのようだった。 周囲から次々と声が上がる。 「舞、久しぶりだな。綺麗になったよ。さっき誰かが言ってたよ、『二人はカップルか』って」 「昔のことを思い出すと感慨深いね」 舞は目の奥にわずかな得意を隠しながらも、柔らかく微笑んだ。 「宮下奥様もいらっしゃるのに、そんなこと言わないで。仁美、皆の分も含めて、一杯どうですか」 舞が杯を掲げた瞬間、直樹の手がそれを遮った。 「医者から、舞は酒を控えるよう言われている。俺が代わりに飲む」 そう言って、酒を一気に飲み干した。 舞が仁美を見つめ、挑発めいた笑みを浮かべた。 「直樹は友情を何より大事にする人。どうか気にしないでね」 仁美は舞の挑発を帯びた眼差しを真正面から受け止め、淡々と答えた。 「直樹が義理堅いのは誰もが知っている。みんなの興を削ぐようなことは言わないわ。 そもそも、私は二人の関係を気にしていないから」 周囲から賛同の声を上げ、その場の空気は一気に和らいだ。 直樹も微笑み、仁美を抱き寄せて耳元で囁く。 「舞は体が弱いから、俺が気を配らなくては。ありがとう、仁美、よく場を収めてくれた」 仁美は俯き、答えなかった。 場を収めた? 違う。ただ、嘘偽りなく自分の本音を口にしただけ。 酒に弱きを理由に、仁美はひっそりと隅の席に腰を下ろした。 やがて、パーティーは本格的に幕を開けた。 一通りの思い出を語るスピーチが終わると、会場の大きなスクリーンに映像がが映し出される。 最初は懐かしい青春の日々を振り返る場面が続いたが、画面は突然歪み、別の映像へと切り替わった。 そこに映し出されたのは、顔の見えない女が片手にスマホを持ち、その画面にはある動画のスクリーンショットがはっきりと映っていた。 「パーティーが始まったら、この動画を差し込んで」 仁美はわずかに眉をひそめ、胸の奥で警鐘が鳴り響いた。 どうしてだろう、この声まるで自分のものに聞こえる。 考えがまとまるより早く、映像はそのまま再生されてしまった。 次の瞬間、スクリーンに舞の姿がが映し出される。 裸の上半身を薄いシーツで覆い、鎖骨には蛇の形をした刺青が覗いている。 その上に顔の見えない男が覆いかぶさり、低い吐息を漏らしていた。 「いやっ!」 舞が悲鳴を上げ、顔が蒼白になり涙をこぼす。 「早く消せ!」 直樹は険しい表情で彼女を抱き寄せる。 「仁美が私に恨みを抱いていることは分かっているよ。けれど、私と直樹はそういう関係じゃない。どうしてこんな映像で私を貶めようとするの?」 舞は嗚咽を混じらせながら仁美を指差した。 「違う......」 仁美の顔から血の気が引き、蒼白に染まる。唇がかすかに震え、言葉を紡ぐ力さえ失った。 「違うの、これは私じゃない」 直樹の額に青筋が浮かぶ。 「違うだと?じゃああの声は?映像に映る舞の刺青も捏造だと言うのか?仁美、本当のことを言え!」 喉を掴まれたように息が詰まり、仁美の瞳が潤む。 「信じてくれないの?」 「どうやって信じろと言うんだ!」 雲城の目尻は血走り、拳を固く握りしめた。声には揺るぎない威圧が宿る。 「彼女を家に連れ戻せ!地下室で反省させろ!」 仁美は目を見開き、全身が小刻みに震えていた。 「彼女のためにここまでするの?」 「お前が先に俺を挑発してくるからだ!」 その言葉を聞いた瞬間、仁美は抵抗をやめ、ボディーガードに腕を押さえつけられるまま身を委ねた。 涙は切れた糸のように頬を伝い落ちる。これが、彼女は直樹の前で初めて流す涙だった。 結婚式で「君を泣かせない」と誓ったその男の目には、今や他の女しか映していなかった。 第6話 仁美は汚れた地下室に放り込まれた。すぐに使用人と男の人が後から入ってくる。 男は歩み寄り、彼女の顔を乱暴に掴んだ。 使用人はカメラを手に取り、録画機能をオンにする。 「やれ」 命令が下った瞬間、男の手が振り上げられ、仁美の頬に叩きつけられる。 「パシッ!」 「パシッ!」 「パシッ!」 ...... 何度叩かれたのかも分からない。仁美の顔は腫れ上がり、視界には星が瞬き、耳には轟音が鳴り響いた。 鞭打ちも加わり、皮膚は裂けて肉がが露わになった。 「奥様、恨まないでください。これは全部、旦那様のご指示です」 その一言で、仁美の血は凍りついた。 ただの合成映像のために、直樹は彼女に何十発もの平手打ちと鞭で九十九回打たれたのだ。 激痛と寒気が全身を襲い、仁美の意識は遠のいていく。だが次の瞬間、頭から足まで冷たい水を浴びせかけられた。 「続けろ」 最後の一撃が頬に落ちた瞬間、仁美は喉の奥から血を噴き出した。 すべての音が遠ざかり、意識が徐々に霞んでいく。 「そこまでだ」 やっと終わったと思った次の瞬間、男の手が彼女の服を乱暴に引き裂こうとした。 「やめて!離して!」 必死に抗うも、太いロープが手首に食い込み、身体は動けない。 「奥様、旦那様はおっしゃった。山口様が受けた苦しみを償わなければならないと」 カメラのレンズが放つ冷たい光を見たとき、仁美の胸は刃で抉られるように裂けた。 彼女は信じられなかった。ただ舞のためだけに、直樹がほかの男に自分を辱めさせ、その映像まで撮らせようとしている。 額から血が流れ落ち、彼女はそのまま倒れ込んだ。 意識が途切れる直前、脳裏に結婚式の日の光景が鮮やかによみがえった。直樹が指輪を掲げ、片膝をついて彼女を見上げていたあの瞬間だった。 「仁美はこれほどまでに俺に尽くしてくれた。だから俺は一生、絶対に裏切らない。二度と仁美に辛い思いはさせない。たとえ死が訪れても決して仁美を離さない」 瞼が閉じると同時に涙が頬を伝って流れ落ちた。 すべての約束は愛されている時だけに意味を持つのだ。 再び目を覚ました時、仁美はまだ地下室の中にいた。 慌てて身を確かめると服は無事だった。 扉は開かれ、ロープも切られている。 壁を支えにしながら、足を引きずって病院へと辿り着いた。 診断は残酷だった。 左耳の聴力は失われ、右膝は骨折だった。 これからは一生、足を引きずって歩くことになるかもしれない。 どうりで、耳がほとんど聞こえず、脚にも感覚がなかったのだ。 仁美は目を閉じた。おそらく心はとっくに麻痺してしまっていて、もう何も感じることはなかった。 帰り道、彼女は離婚協議書を一枚印刷した。 家に入ると、直樹がソファに腰掛け、彼女の手にある薬へ視線を落としていた。 「反省したか」 仁美は黙って頷いた。 それを見て、直樹の表情はようやく和らいだ。 「分かればいい。近いうちに一緒に山口家に行って謝罪しろ。このことは俺にも非がある。何か欲しいものがあれば埋め合わせをしよう」 仁美はカバンから書類を取り出し、彼の前に差し出した。 直樹は中身も見ず、最後のページに署名をする。 「これは?マンションか、車か?」 珍しく大切そうに差し出す彼女を見て、少なからず驚きを覚える。 彼女がこれほどまでに何かを大切にするのは、今まで一度もなかったからだ。 仁美はまっすぐ彼の瞳を見つめ、微笑んだ。 「これは私にとって最高の贈り物よ」 それは、彼女の自由だ。 第7話 翌朝早く、二人は車で山口家へと向かった。 ドアをくぐると、庭のブランコに腰かけ本を読んでいる舞の姿が目に入る。 「舞、先日のパーティーの件は仁美が悪かった。わざわざプレゼントを用意させたから、どうか気を悪くしないでくれ」 直樹が手を振ると、使用人たちが箱に詰められた品々を運び込んだ。 舞の口元に、ふっと笑みが浮かぶ。 「わざとでじゃなかったのでしょう。きっと何か誤解よ。それに仁美は貧しい生まれで、ご両親も早くに亡くなって、ろくな教育も受けてなかった。だからあんなことをしてしまうのも無理はないわ」 仁美の表情は一切変わらず、ただ拳を固く握りしめた。 「この件はもう水に流しましょう。長年の友情を壊したくはないもの」 風に髪をなびかせながら、舞はわざと仁美の方に手をかざし、指に光るルビーの指輪を見せつける。 「お茶を淹れて」 舞が使用人に命じると、直樹が先に立ち上がった。 「俺が行こう。今日は詫びを入れるために来たんだ、君に手を煩わせられるものか」 「ちゃんと覚えてる?前と同じ場所だよ。昔来た時はいつもそこから茶葉を取ってた」 仁美が思わず直樹の顔を見やると、その瞳には柔らかな懐かしさが宿っていた。 直樹が去ると、舞は庭に咲くジャスミンに視線を移し、ふと口を開いた。 「この花はね、私の十八歳の誕生日に、直樹が二日かけて自ら植えてくれたものなの。それ以来、私がお茶を飲む時は、ジャスミン茶しか飲まなくなった」 仁美の眉がかすかに寄る。 「ここには私たちしかいない。もう芝居はやめて、何を言いたいのかはっきり言えば?」 舞は笑みを深め、その目元に棘のような皮肉が走る。 「仁美、直樹がどうして私にジャスミンを贈ったか、分かる?」 仁美は無言のまま、冷え切った湖のような眼差しで彼女を見据える。 三年経とうとも、直樹の心はなお彼女のものだ。 意外にも淡白な反応に、舞は一瞬眉をひそめる。 「直樹は誰を一番大切に思っているか、仁美も知っているはず。早く身を引いた方が、惨めな負け方をせずに済むわ」 仁美の口元に、寂しい笑みが浮かんだ。 「私は直樹の妻だ、山口さん。あなたにそんなこと言われる筋合いわ。それに、彼はもう私のために頭を下げてくれたでしょ。もう失礼するわ」 仁美は立ち上がり、その場を去ろうとした。だが舞が素早くその手首を掴み取る。 思うように取り合わない仁美に、舞は奥歯を噛みしめ、声を尖らせた。 「直樹はあなたを愛してなんかいない!あの日地下室で起きたことは全部私の仕掛けよ。彼は知っていたのに、止めなかった!私の男を奪った卑怯者!九十九回はむしろ足りないくらいだよ!」 仁美の瞳が大きく見開かれ、胸に鋭い痛みが走る。 だが彼女はかろうじて理性を繋ぎ止め、声を凍らせた。 「パーティーで流された映像はAIで作られた偽物。でも私の傷は本物よ。直樹があなたの本性を知ったら、まだ愛してくれると思ってるの?」 舞の顔色が一瞬にして曇る。 仁美は冷ややかに笑い、手を振り払った。 「でも、彼が本当に山口さんを愛しているなら、世間から第三者と罵らせこともなかったはず」 舞の顔は一瞬で赤く染まり、痛いところを突かれたせいで、恥じらいと怒りが入り混じる。 「このくそ女!あんたに何がわかるっていうの!?直樹はもうとっくにあんたに飽きてるのよ。色気もない、退屈極まりない女だって。彼の心を満たせるのはこの私だけなの!」 仁美の瞳が冷たく沈んでいく。 「そんな愛、安っぽいわね」 舞は口角を歪め、声を尖らせる。 「本当のことを教えてあげる。あんたがバーで働いていた頃、私が酒に薬を入れた。だからあんたは子供を失ったのよ。直樹は全部知っていた。だから私を国外に出し、罪滅ぼしのためにあんたを妻にした。全部彼が黙認したことよ!」 パァン! 仁美は、憤怒に震えながら舞の頬を打った。 「私に手を上げるなんて......!」 舞は顔を押さえ、信じられないというように目を見開く。 「この一発はさっきのお返し!」 仁美は涙に濡れた瞳で、もう一度手を振り上げた。 パァン! 「この一発は、失った子供のため!」 目に涙を浮かべ、さらに腕を振り下ろそうとしたその瞬間、後ろから鋭く手首を掴まれた。 「やめろ!」 第8話 直樹は低く唸り声を上げ、仁美を乱暴に突き飛ばすと、そのまま泣き腫らした顔を押さえる舞のもとへと歩み寄った。 「仁美、君がそんな悪辣な人間だと知らなかった。舞はわざわざ君を招いたというのに恩を仇で返すとはな!」 遠く離れた位置に立ちながらも、仁美には彼の口にした言葉がはっきりと聞こえなくてもわかった。 けれど、男の瞳に宿る嫌悪と失望を見た瞬間、仁美は悟った。自分が何をどう弁明しようとももう無駄なのだ。 「跪かせろ」 使用人たちが容赦なく彼女の背を蹴りつけた。ちょうど傷ついた膝を狙われ、鈍い痛みとともに仁美は地面に崩れ落ちた。 仁美は低く呻き声を漏らし、そのまま力なく膝をついた。 「ここで一晩中跪かせ、よく反省させろ」 舞は目を赤らめ、直樹の袖をそっと引いた。 「直樹、仁美だってわざとじゃないの。私は大丈夫だから、私のことで二人の仲を悪くしないで」 直樹は彼女を慈しむように抱き寄せる。 「舞は優しすぎる。だからいつも彼女に虐げられるんだ。だが俺がいる限り、もう舞に辛い思いはさせない」 仁美の膝の傷口が再び裂け、鋭い痛みに顔色が一気に青ざめた。 だが直樹は最後まで一瞥すら寄せなかった。 その背に隠れるように、舞は使用人に手振りで合図を送る。使用人たちはすぐに理解し、仁美をそのままプールへ突き落とした。 その時は真冬で、空気はひときわ冷え込んでいた。 泳ぎもできない仁美は必死に水を掻く。 「直樹......っ!」 彼女は全身の力を振り絞って彼の名を叫んだ。 だが絶望的なことに、直樹は終始一度も振り返ることはなかった。 使用人たちは彼女の頭を無理やり水面下に押し付け、その声さえ封じ込めた。 一晩中仁美は冷たい水に沈められ続けた。わずかに浮かび呼吸しようとすれば、再び力任せに押し戻される。 夜が明けかけた頃になって、ようやく仁美は水から引きずり上げられた。 彼女は傷だらけの身体を引きずりながら、家へと歩いて帰った。 執事は彼女に告げた。直樹は病院で舞に付き添っており、帰ってこなかったと。 仁美がスマホを開くと、今日はちょうど去る日だと気づいた。 直樹から届いたのは、ただ一通の短いメッセージだった。 【まだ自分の過ちを認めないのなら、事務所に戻ってくる必要はない】 仁美の返事もただ四文字だった。 【分かった】 彼女の過ちは、彼を愛してしまったことだった。 仁美は着替えを済ませ、スーツケースを取り出した。持ち運べるものはすべて持って行き、持ち出せないものはすべて捨てた。 そのあとで封筒を取り出し、中に届いたばかりの離婚受理証明と退職願を入れる。 空港へ向かう前に、仁美は事務所に立ち寄った。 蒼白な顔色に、周囲の人々は思わず息を呑む。 「伊藤さん、この書類を直樹にお渡しください」 「退職の件、社長はご存知なのですか?」 直樹の秘書伊藤は驚いたように問う。 「彼から直接言われた。もう事務所に来なくていいと。だからわざわざ伝える必要もないよ」 退職のことをきちんと伝えると、彼女は自分の机に向かい、荷物をすべて片付けた。そしてタクシーを呼び、空港へ。 南市行きの飛行機に乗り込むと、仁美は大きく息を吐いた。 さようなら。 京市、そして直樹。 三日間、直樹は舞の傍を片時も離れずにいた。 彼女が望むものなら、すぐさま人を遣わせて買い与えるほどに、直樹は彼女を甘やかしていた。 四日目の朝、直樹に伊藤から電話が入る。 「社長、取引先から、派遣されたはずの担当者が来ていないとの連絡が......」 直樹は眉をひそめ、苛立った声を漏らす。 「ベラリンのプロジェクトは仁美が担当していたはずだろう?」 「社長......奥さんは......」 「まだ拗ねているのか?それなら代わりを立てればいい。彼女でなくてもできるだろう」 伊藤の言葉を最後まで聞かず、彼は電話を切った。 「仕事?なら早く処理した方がいいよ」 舞は腕の中から顔を上げ、気遣うように微笑む。 「終わったら、すぐ戻ってくる」 直樹はさんざん悩んだ末に、事務所に戻ることにした。上着を手に取り、足早に出かけた。 事務所に戻ると、仁美の机は空っぽだった。直樹の心臓が不意に強く跳ねた。 「社長、こちらは奥さんから預かっていたものです」 伊藤が封筒を差し出した。 軽やかな封筒を手にした瞬間、直樹の胸中に得体の知れない不安が広がった。 しばし躊躇したのち、彼はついに封を裂いた。 紙一枚が床に落ちた。裏面には何も書かれていない。 直樹は胸が締めつけられるような重苦しさに襲われ、彼はあえて音を立てぬよう、ゆっくりと、ゆっくりと身をかがめて拾い上げた――