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春風は尽きず、愛は静かに永く
結婚から五度目の正月、藤堂瑠璃(とうどう るり)は突然と姿を消した。 安部澄人(あべ すみと)が警察署に駆け込み、失踪届を出した。対応し...
Chương (1)
第1章
結婚から五度目の正月、藤堂瑠璃(とうどう るり)は突然と姿を消した。
安部澄人(あべ すみと)が警察署に駆け込み、失踪届を出した。対応した警察は事情聴取を終えて記録に目を通すと、顔つきを一変させ、妙な表情を浮かべる。
「奥さまが藤堂瑠璃だとおっしゃいましたね。では、あなたのお名前は?」
「僕は安部澄人です。妻のことで何か分かったんですか?」
彼は白杖をぎゅっと握りしめ、普段は冷ややかに沈んだ黒の瞳が、この時だけ不安を映して揺らいでいる。
警察は眉をひそめ、机を強く叩く。
「ふざけないでください。本当の名前を言いなさい!」
澄人は眉をわずかにひそめる。
「僕は確かに、安部澄人です」
背後で金髪の若者たちがどっと嘲笑を噴き出す。
「この目の見えないやつ、似てるからって本人のふりなんかできると思ってんのかよ。
この港町じゃ誰だって知ってるんだよ。藤堂瑠璃は、安部澄人との子どもができた祝いに、彼に二千億円のヨットを贈ったんだ。安部澄人はSNSに連日投稿していて、何日間もトレンドに上がってたじゃねえか。
それでお前が安部澄人だって?なら次は、自分が御曹司だって言ってみろよ!」
第1話
結婚から五度目の正月、藤堂瑠璃(とうどう るり)は突然と姿を消した。
安部澄人(あべ すみと)が警察署に駆け込み、失踪届を出した。対応した警察は事情聴取を終えて記録に目を通すと、顔つきを一変させ、妙な表情を浮かべる。
「奥さまが藤堂瑠璃だとおっしゃいましたね。では、あなたのお名前は?」
「僕は安部澄人です。妻のことで何か分かったんですか?」
彼は白杖をぎゅっと握りしめ、普段は冷ややかに沈んだ黒の瞳が、この時だけ不安を映して揺らいでいる。
警察は眉をひそめ、机を強く叩く。
「ふざけないでください。本当の名前を言いなさい!」
澄人は眉をわずかにひそめる。
「僕は確かに、安部澄人です」
背後で金髪の若者たちがどっと嘲笑を噴き出す。
「この目の見えないやつ、似てるからって本人のふりなんかできると思ってんのかよ。
この港町じゃ誰だって知ってるんだよ。藤堂瑠璃は、安部澄人との子どもができた祝いに、彼に二千億円のヨットを贈ったんだ。安部澄人はSNSに連日投稿していて、何日間もトレンドに上がってたじゃねえか。
それでお前が安部澄人だって?なら次は、自分が御曹司だって言ってみろよ!」
ちょうどその話を裏づけるかのように、正面のLEDスクリーンに瑠璃の生中継のインタビューが映し出される。
「昨日は大晦日でしたが、藤堂社長の新年の願いは何ですか?」
「もちろん、澄人の子を無事に産めることです」
「愛してるよ、瑠璃」
耳に届いたのは、聞き覚えのある井上俊也(いのうえ しゅんや)の澄んだ声だ。澄人の頭の中で何かが爆ぜたように混乱し、顔色が真っ白に変わった。
……
五年前、二人が結婚する前夜のこと。
澄人は交通事故で視力を失い、瑠璃は深い絶望に沈んだ。
港町の誰もが口をそろえて言った――この街一番の名門令嬢が、盲目の男に嫁ぐはずがない、と。
中には、澄人にそっくりな貧しい大学生を探し出し、密かに瑠璃の部屋へ送り込む者までいた。
瑠璃は激しく声を張り上げ、護衛にその少年――俊也を取り押さえさせ、危うく命を奪わせるところだった。
艶やかな瞳は怒りに燃えるように赤く染まり、胸の奥で渦巻く感情を必死に抑え込んだ。
「出ていって!私が愛してるのは澄人だけよ。似ている誰かなんて、見るだけで胸が悪くなる!」
真夜中、瑠璃は車を飛ばして病院へ向かい、澄人を力いっぱい抱きしめた。熱い涙が彼の肩にぽろぽろと落ちる。
「澄人、明日籍を入れよう。あなたを堂々と私の夫にしたいの。夫婦別姓でいい、あなたを正式に藤堂家に迎え入れたいの」
誰もが知っている――瑠璃は澄人を狂おしいほど愛し、俊也を心底憎んでいる、と。
なのに今、堂々と瑠璃の隣に立っているのは、澄人に成り代わった俊也なのだ。
澄人の心に、大きな裂け目が走り、冷たい風にさらされているようだ。
いったい、何が起きているのか?
彼は瑠璃に会って、確かめなければ。
警察署をふらつきながら出たところで、落下してきた看板に頭を打たれ、澄人はそのまま意識を手放した。
意識を失う直前、澄人の耳に狂おしいほど切羽詰まった女の声が届く。
「あなた!どうしたの!」
次に目を開けたとき、目前のまばゆい白光に思わず目が痛む。
そしてその瞬間、澄人は驚愕に目を見開いた。
視界が戻っている。奇跡のように、はっきりと。
目の前の見知らぬ世界を見渡す間もなく、扉の外から瑠璃と親友の江崎祈(えざき いのり)の声が聞こえてくる。
「瑠璃、いつまで俊也に澄人のふりをさせるつもり?もう丸五年よ!」
瑠璃はため息を吐き、苦しげに言う。
「私だって分からないの。当時、藤堂家の古株の取締役たちが、盲目の人との結婚は絶対に認めないって……でも私は澄人を愛しすぎて、彼の目が治ったと嘘をついて、俊也に澄人のふりをさせるしかなかったの」
「でも、あの古株の取締役たちはもうみんな亡くなったのよ!なのにどうして、あなたはまだ……」
「どうしようもないのよ!私、俊也の子を身ごもっているの!」
瑠璃は食い気味に遮り、苛立った声をこぼす。
「それに、自分でも分からないけど、芝居を続けているうちに、本当に俊也なしでは生きられなくなったみたいなの。だって、彼は私の子の父親でもあるんだから……」
祈は息をのむ。
「正気なの?俊也に情が移ったっていうの?忘れたの、あの事故の加害者は俊也の飲んだくれの父親だったってことを。
もしあれがなければ、澄人が失明することなんてなかったのよ。もし澄人にこのことが知られたら……」
「もうやめて!」
瑠璃は眉をきつく寄せた。
「俊也は無実よ。あの罪は彼の父親のものよ。私はあの酔っぱらいを刑務所に送ったし、二度と外には出られないわ。
澄人は失明してから外に出たがらないし、ここには電波も届かない。この私が設えた豪奢な邸宅で暮らしている限り、一生このことを知るはずがないよ」
部屋の中で、澄人は唇を固く結び、震える両手をどうしても抑えられない。
この邸宅の中は一年中春のように穏やかなはずなのに、全身の骨の髄まで凍りつくような寒気に襲われる。
彼は枕元から、精緻な絵を束ねたファイルを取り出した。瑠璃が自ら描いたもので、彼との過去が刻まれている。
一枚目は、瑠璃と彼が砂漠の探検で出会った日の絵。彼女は脚を折って命も危うかったが、澄人は三日三晩、彼女を看病し続けた。
三枚目は彼に振り向いてもらうため、彼女はただ一人、四千メートルの雪山に登り、彼の喘息を癒やすために雪蓮を摘んできた場面。
八枚目は、澄人がジャズダンスが好きだと口にしたとき、瑠璃は何千億円もの大金を惜しげもなく投じて、北欧各国のジャズダンスの巨匠たちを総勢で招き、彼の誕生日を盛大に祝った場面。
十五枚目は、瑠璃が澄人のために特別に設えた、視覚に障がいがあっても暮らしやすい豪奢な邸宅。華やかで荘厳、そして安全で快適な空間だった。
指輪を彼の指にはめながら、瑠璃は言った――「澄人、これからは私があなたの目になる。あなたは、私の心でただ一人の人よ」
絵の中の男は比類なき美貌を備え、穏やかなまなざしを浮かべて彼女を抱き寄せている。
澄人は苦笑を浮かべ、口の端をわずかに歪めると、その絵を一枚ずつ火にくべた。
そして燃え上がるそれらを、すべてベッドの上に投げ落とした。
瑠璃、君のその愛は汚れてしまった。もう、僕はいらない。
第2話
猛り狂う炎が燃え広がり、火災報知器が狂ったように鳴り響く。
その混乱に紛れて、澄人は別の出口から外へ出ると、道端の電話ボックスを見つけ、ある番号にかけた。
「ソフィア、五年以内なら、いつでもオーケストラに戻れるって言ってたよね。まだ有効かな?」
女の澄んだ声が電話口から響く。
「もちろんよ、私の愛しい澄人。北欧のファンたちは、あなたを恋しがって胸を痛めてるわ」
「ただ、今の僕の立場が少し厄介でね。出国手続きに五日間かかる」
「どうやって港町を抜けるつもり?私の知る限り、瑠璃はそう簡単にあなたを手放したりはしないわよ」
澄人は瞳を深く沈め、低く言う。
「彼女には僕の遺体を届けるつもりだ」
瑠璃は俊也に澄人を演じさせている。
ならば、彼は彼女の人生から、跡形もなく消えてやる。
突然、細い腕が彼の腰に回り、彼女だけの香りがふわりと押し寄せてくる。
瑠璃は彼の肩に顔を埋め、震える声で言う。
「あなた……無事でよかった。もしあなたに何かあったら、私も生きていけない」
「澄人、瑠璃はあなたがまだ中にいるって思い込んでて……あなたは目が不自由だからって、どうしても助けに入るって聞かなくて。火はすごい勢いで、シャンデリアが落ちてきて、もう少しで瑠璃が下敷きになるところだったの」
祈が胸を押さえ、まだ怯えの残る顔でそう言った。
そのとき初めて澄人は気づいた――
瑠璃の腕には火傷が走り、服は大きく裂け、目は煙で真っ赤だ。
息が詰まり、心臓に無数の針が刺さるような細かな痛みが広がる。
瑠璃、君は僕のためなら命さえ惜しまない。
なのに、どうして君の心は、二人の男を同時に愛せるんだ。
「藤堂社長」
背後から、聞き覚えのある男の声がした。
白いシャツ姿の俊也が、スーツケースを引きながら、二人が抱き合うのを見て、目の奥に暗い影が走った。
澄人は腕の中の瑠璃がはっきりと身を強張らせたのを感じた。そして、彼女はすぐに彼から身を離す。
瑠璃は一瞬だけ澄人の目を確かめて、ほっと息をつくと、顔色ひとつ変えずに嘘を口にする。
「澄人、取引先が来てるの。少し待ってて」
続けて瑠璃は足早に歩み寄り、俊也の腕に自分の腕を絡めると、手話でそっと伝える。
「俊也、どうして一人で来たの?今夜、あなたのところへ行くって言ったじゃない?」
俊也も手話で返す。
「君に会いたくて……それに、安部さんの世話をして償いたいんだ。彼のふりをしたことは、僕の罪だから」
「あなたは悪くないわ。他人の名を背負わせた私こそ、あなたに申し訳ないのよ」
そう言って瑠璃は俊也の唇に口づけ、瞳にあふれそうなほどの痛ましさを宿す。さらに小腹に手を添え、手話で続ける。
「私たちの赤ちゃんの名前、もう決めたの。男の子なら藤堂悠真(とうどうゆうま)、女の子なら藤堂紗和(とうどう さわ)」
――藤堂悠真?藤堂紗和?
澄人はその光景を茫然と見つめ、胸が刃で細かく刻まれるような痛みに襲われる。
ちょうど一年前、瑠璃は澄人の子を身ごもったとわかった。
「澄人、私、ママになるの!
私たちの赤ちゃんの名前、もう決めたの。ひとりはあなたの姓にして、もうひとりは藤堂にする。名前は、男の子なら悠真、女の子なら紗和」
彼女は有頂天になり雪山の中腹にある温泉山荘をまるごと貸し切ったうえで、澄人に一枚のディスクを贈った。そこには、自ら吹き込んだ9999の愛の言葉が収められていた。
澄人がそれを開こうとしたまさにそのとき、瑠璃に一本の電話がかかってきた。受話口の向こうから、微かに、男の悲鳴が混じる。
瑠璃ははっとしたように慌ててスマホを握りしめた。喜びに満ちた顔の澄人を見つめ、ひと呼吸ためらったものの、結局こう告げた。
「澄人、会社で急ぎが入ったの。すぐ戻るから、待ってて」
澄人は疑わなかった。雪山で、静かに待ち続けた。
日が暮れ、夜が明け、瞳の奥の光は薄れ、呼吸はどんどん苦しくなり、ほとんど窒息しそうになった。
高地の空気は薄く、二年ぶりに喘息の発作が出て、胸は今にも破裂しそうだった。
澄人は地面に倒れ込み、必死に耐えながら瑠璃に電話をかけた。だが受話口から返ってきたのは、女のかすかな吐息と、男の荒い息遣いだった。
しかし、聞きただす前に、天地を覆う雪崩が襲い、すべてを飲み込んだ。
九死に一生を得て目を覚ましたとき、澄人が耳にしたのは、瑠璃が自分を案じるあまり流産した、という悲報だった。あのときの彼は愚かにも、自分が二人の子を死なせてしまったのだと責め続けていた。
だが今にして思えば、あれは二人の行為があまりに激しかったせいではなかったのか。
いま、瑠璃が俊也の手を自然に自分の腹へ導く仕草を見て、澄人は苦く笑う。
結局、あの雪崩に閉じ込められていたのは、彼ひとりだけだったのだ。
「澄人、最近ちょっと忙しくてね。だから、あなたの身の回りを世話する専属のボディーガードを雇ったの。名前は俊也よ」
瑠璃は俊也の腕に絡み、その瞳には甘やかな愛情がにじんでいる。
「安部さん、こんにちは」
俊也は一見すると恭しく挨拶したが、その目の奥にはあからさまな挑発が潜んでいる。
澄人の視線は、俊也の唇に残る女の歯形に数秒間とどまり、指先が手のひらに食い込む。
そのとき、ふいに体が温もりに包まれた。瑠璃の指示で執事が、カシミヤのコートを澄人の肩に掛けたのだ。
「外は寒いわ。帰ろう、あなた」
彼が反応する間もなく、次の瞬間には俊也が素早く「わかった」の手話を示し、瑠璃から恥じらうような口づけを受け取っていた。
澄人は、二人が手をつなぎ、親しげに並んで前を歩いていくのをただ見つめる。
本来なら油の匂いを何より嫌うはずの瑠璃が、俊也のために料理を作るとエプロンを身につけ、髪をまとめ、換気扇の轟音の中で楽しげに笑っている姿を、彼はただ見つめる。
瑠璃がいつものように気遣わしげに自分のためにスープをよそいながら、その直後には俊也の口元についたご飯を自らの唇でそっと取る姿を、彼はただ見つめる。
「俊也、ゆっくり食べて。食べたいものがあれば、また作ってあげる」
瑠璃は手話でそう伝え、目元にはやわらかな温もりが宿っている。
澄人は温かい粥を口にしながらも、胸が締めつけられ、喉が塞がったようで、飲み込めなかった。
心はさらに沈み、暗い底へ落ちていく。
かつて瑠璃に愛されたからこそ、彼女の仕草や視線を目にしながら、澄人はついに認めざるを得なかった。
彼女は、本当に俊也を愛してしまったのだ。
第3話
食事が終わったあと、いつものように専属の主治医が澄人の目を診察しにやって来た。
「藤堂社長、中山医師が急用で来られないため、代わりに伺いました。カルテを拝見しましたが、ご主人の目は投薬を続ければ回復の見込みが十分にあります」
澄人は扉の外で、医師と瑠璃が病状をやり取りするのを聞きながら、胸が締めつけられる。
たとえ視力が回復したとしても、彼と瑠璃が昔のように戻れることはもうないのだ。
この嘘と欺きに満ちた茶番の中では、むしろ「盲目」のままでいたほうがましだと、彼は思った。
残された五日間、彼が願うのは港町を無事に出ることだけ。
そして瑠璃とは、生きても死んでも、二度と顔を合わせないように。
そう心に決めた矢先、部屋の中が数秒間静まり返り、そして、女の淡々とした声が響く。
「必要ないわ」
「中山医師から聞いていない?この五年間、私が中山医師に処方させていたのはただの滋養剤よ。視力なんて治らないわ。
もし彼が見えるようになったら、俊也はどうすればいいの?」
――パキン、と。
澄人の指にはめられたダイヤの指輪が力任せに折れ、掌を裂いた血が指の隙間からじわりと滲み出た。
彼はほとんど逃げ出すように部屋へ駆け戻り、全身が無意識のうちに激しく震えている。
その拍子に、テーブルの上に飾られていたウェディング写真立てが、ガタンと倒れた。
写真の中で、瑠璃はつま先立ちになり、澄人の口元に清らかな口づけを落としている。
写真を見つめる彼の顔は蒼白に変わり、瞳には消えない赤が滲んている。
外では霞む雨が降りつづき、いつもはまっすぐな背が、見る影もなく折れていく。
ぽたり、ぽたり――床に涙が落ちていく。
やがて澄人は狂おしいように笑いはじめる。胃が痙攣し、苦味がこみ上げる。
「ははは……瑠璃、たいしたもんだ」
彼が途方に暮れ、恐れ、怯えながら過ごした千にも及ぶ暗い夜――そのすべてが、瑠璃が仕組んだものだったのだ。
震える手で、彼はウェディング写真を抜き取り、シュレッダーに差し込む。
紙が砕け散るのとともに、瑠璃との数え切れない甘い記憶までもが、彼の脳裏から少しずつ色を失っていくようだ。
「あなた、何してるの?」
不意に瑠璃が扉口に姿を現す。
澄人は真っ白な紙屑をゴミ箱に捨て、乾いた声で言う。
「何でもない。間違った書類を処分していただけだ」
瑠璃は眉をひそめ、砕け散った紙片を見つめた。どこかで見覚えがある気がする。
だが、その正体を思い出す前に、俊也が花束を抱えて入ってきた。
次の瞬間、彼女の視線は俊也に吸い寄せられ、そのまま離れなくなる。
花束は澄人の腕に押し込まれる。
「安部さん、お誕生日おめでとう!」
澄人は花束の強烈な香りにむせて咳き込み、涙まで滲ませた。
彼には喘息があり、そもそも花粉に触れてはいけないのだ。
だが瑠璃はそのことをすっかり忘れ、注意は、すべて俊也に向いている。
俊也はさらに澄人の目を覆い、そのまま食卓へと半ば強引に連れていく。
「準備はいい?サプライズだよ」
真っ白な大理石のテーブルには、血がにじむような骨付き肉と、真っ黒に炒め焦げた野菜が並んでいる。
あまりに滑稽で、むしろ嘲笑めいている。
俊也は悔しげに頭を叩いた。
「あっ、忘れてた。安部さん、目が見えな――」
言い終える前に、慌てて自分の口を押さえ、失言したとばかりの顔をした。
瑠璃はすぐさま手話で彼を慰める。
「大丈夫。澄人は気にしないわ」
俊也はしゅんと肩を落とし、手話で訴える。
「どうして僕は、いつも何ひとつ上手くできないんだろう。
大丈夫。安部さんのために、マンゴーケーキも作ったから!」
その様子に、瑠璃の瞳にはあふれんばかりの憐れみが宿り、彼女は澄人を促す。
「澄人?早くケーキを食べて」
澄人はその場に立ち尽くし、手のひらを固く握りしめた。
疲労がどっと押し寄せ、声は荒い砂利で喉を削られるように乾いている。
「瑠璃、今日は僕の誕生日じゃない。僕たちの、亡くした子の命日だ。
それから、僕はマンゴーアレルギーだ」
瑠璃ははっと目を見開き、その瞳に悔恨と気まずさが入り混じる。
「澄人、私……」
だが彼はその力ない言い訳を振り払うように、踵を返す。
部屋へ戻った彼は、俊也の自責の声も、瑠璃がそれを慰める声も、扉の向こうに閉め出した。
どれほど眠ったのか分からない。階下から、妙な物音がして澄人は目を覚ます。
枕元には瑠璃がいて、柔らかな目を向ける。
「あなた、目が覚めたのね。
黒糖入りのくず餅を作ったの。少し食べてみない?」
澄人はそっと彼女の手を避けた。
「いや、僕、食欲がない」
彼女の手は宙に止まり、かすかにため息をつく。
「澄人、嘘はだめ。まだ怒ってるのよね?
この時期が片づいたら、一緒にコンサートへ行こうよ」
澄人は視線を逸らし、布団の模様をただ見つめたまま、口を閉ざしていた。
瑠璃は唇をきゅっと結び、整った眉をわずかに寄せる。
やがて彼の手を取り、静かに告げる。
「澄人、俊也があなたに償いたいって、猛獣の出し物を用意してくれたの」
澄人は眉をひそめ、今にも断ろうとした。だが瑠璃は有無を言わせず、彼を階下へと連れて行った。
正月の夜、凍てつく風が肌を刺す。
澄人は薄い寝間着一枚のまま、端正な面差しも血の気を失って蒼ざめていたが、闇がそれを隠した。
彼は何度も身震いしながら、瑠璃が腕に衣装を抱えて俊也のもとへ歩み寄るのを見つめた。
瑠璃は俊也に厚手の防護服を整えてあげ、手袋とヘルメットをきちんと身につけさせ、最後にその頬へ深い想いを込めて口づけを落とす。
「俊也、無理はしないで。あなたこそ、私にとっていちばん大切な人だから」
柔らかな声は風に乗り、澄人の耳へと突き刺さる重い一撃となった。
そして、俊也が檻の覆い布をはね上げた瞬間、澄人の瞳孔はぎゅっと縮む。
第4話
そこに現れたのは、成長しきった虎と黒い狼だ。
何かの匂いを嗅ぎつけたのか、獣たちは檻の中で狂ったように暴れ回る。
アオーン――
狼は天を仰いで遠吠えし、黄金色の瞳で獲物を狙うように澄人を睨みつける。
澄人は思わず一歩後ずさり、ふとあの異様に鼻をつく花束の匂いを思い出す。
澄人はハッと警戒し、不安を覚えながら口を開く。
「瑠璃、僕、ちょっと気分が悪い。先に部屋へ戻る」
これまでなら、彼が体調を訴えれば、瑠璃は決まって大慌てで彼を部屋へ連れ戻したものだ。
だが今は、ただ困ったように眉をひそめるだけだ。
「澄人、そんなこと言わないで。俊也はあなたに謝るために、ずっと準備してきたのよ」
澄人は拳を握りしめ、唇を固く結んだ。血の気が引き、口元はすっかり白くなっている。
やがて出し物が始まる。俊也がぎこちない手つきで虎と狼を操っている。
二頭の猛獣は火の輪をくぐり、細い橋を渡っていく。一見、すべて順調に見えている。
「すごいわ!俊也、本当に上手!」
瑠璃は惜しみなく拍手を送り、その視線は俊也に釘づけだ。そして、そこに宿っているのは、あふれんばかりの愛だ。
彼女には、澄人の視力がまだ戻っておらず、この「償いの出し物」を見ることができない――そのことに全然気づいていないんだ。
だが、それ以上に澄人の胸を締めつけたのは、抑えきれない恐怖だ。指先の震えは止まらず、全身に広がっていく。
彼だけが気づいていた――虎と狼が振り返り、自分を狙うように視線を向けてくる回数が、明らかに増えている。
その目の底にあるのは、本能むき出しの食欲。
彼は気づかれないように後ずさる。ひと歩、またひと歩。
もう少しで、攻撃の間合いから抜けられる――そのとき。
「きゃっ!」
指揮台の上で俊也の体が大きく揺れ、手にしていた制御用のチェーンがぱっと外れた
同時に、虎と狼が突如として暴れ狂い、耳をつんざく咆哮を上げる。
「俊也!」
瑠璃が思わず悲鳴を上げ、護衛たちを引き連れて駆け出した。
その刹那、澄人は完全に二頭の猛獣の前にさらされる。
虎と狼の動きがぴたりと止まり、剥き出しの牙をこちらへ向ける。
澄人の瞳孔が縮み、呼吸が喉元で止められる。
ほとんど瞬きする間もなく、二つの巨大な影が彼に向かって飛びかかってくる。
痛い!あまりにも、痛い!
内臓が押し潰されるような激痛だ!
「ああっ!」
澄人の喉から、命尽きる寸前の絶叫がこぼれる。
視界は血の色で染まり、遠くに、瑠璃と護衛たちが俊也をしっかりと守りの輪の中心に抱え込む姿がぼんやりと見えた。
……
再び目を開けたとき、澄人は藤堂グループ傘下の病院のVIP病室に横たわっていた。
胸と脚に走る激痛に、澄人は思わずうめき声を漏らす。
「動かないでください」
看護師が彼の肩を押さえる。
「あなたは本当に運がよかったわ。肋骨は三本骨折、肝臓出血。昨夜は救急が手薄で佐藤先生しかいなかったのに、それに、藤堂さんが夫を先にって言い張って……
幸い、彼のほうは擦り傷だけで、あなたの治療に遅れは出なかったけど。
ところで、ご家族は?」
澄人は全身をまるで車に何度も轢かれたかのように痛めつけられ、声は乾ききってかすれている。
「僕に家族はいません」
看護師ははっとし、目に一瞬、憐れみの色を浮かべた。
そのとき、病室の外から俊也の声が聞こえる。
「瑠璃、ごめん!本当にわからなかったんだ、どうしてあいつらが突然暴れ出したのか。僕のせいで安部さんがこんなことに……」
「俊也、あなたのせいじゃないわ。あなたも怪我をしているのよ」
瑠璃は彼の赤くなった目元に口づけし、囁く。
「泣いちゃだめ。大人しく病室に戻って横になって。私も赤ちゃんも、それを見ていると胸が痛むの」
俊也は声を詰まらせ、さらに泣いた。
「戻りたくない。安部さんに、償いたいんだ」
また「償う」という言葉を耳にして、澄人の堪えていた怒りはついに決壊した。彼は手にしていたコップを力任せに投げつける。
外の気配がぴたりと止まり、瑠璃が慌ただしく病室へ駆け込んでくる。
「澄人、水が欲しいの?私が入れてあげる」
作りものではないその心配そうな顔を見て、澄人の胸にどうしようもない倦わしさが広がる。
「調べたのか?どうしてあの猛獣たちが、あんなふうに突然暴れ出したのか」
彼の声はかすれて乾ききり、瞳の奥にはかろうじて最後の光が揺れている。
虎と狼があれほど暴れ出したのは、何かの匂いを嗅ぎ取ったからに違いない。
しかも、狙いは間違いなく彼ひとりだった。
「ただの事故よ」
瑠璃は一瞬の迷いもなく答え、澄人の掛け布団を整える。
「ゆっくり休んで。余計なことは考えないで、ね?」
澄人の瞳に宿っていた光は、ついに完全に消え去った。
彼はしばらくのあいだ瑠璃を見つめ続け、胸が締めつけられるように何度も痛んだ。
澄人は三年前のことを思い出す。瑠璃と外出した際、彼らは激しい雨に見舞われ、車が立ち往生してしまった。ところが、思いもよらず不良の一団に囲まれてしまったのだ。
「おい、そこのお嬢さん。車が動かないみたいだな、俺たちの車に乗せてやろうか?」
先頭の男が下卑た笑みを浮かべ、瑠璃の手をつかもうと伸ばしてくる。
澄人はとっさに彼女を車内に押し戻し、自らがドアの前に立ちふさがった。
「瑠璃、絶対に出てくるな!」
逆上した連中は罵声とともに殴る蹴るに及んだ。
「この役立たずの盲野郎が、俺たちの邪魔をする気か!」
澄人の端正な顔にはすでに傷が走り、口元から血がにじんでいた。それでも彼は車のドアを離さず、瑠璃に一指たりとも触れさせまいと踏ん張り続けた。
瑠璃は車の中から叫び声を上げた。
「澄人、大丈夫なの?」
幸い護衛が駆けつけ、不良たちを取り押さえた。
瑠璃は目を真っ赤にして、憤りを滲ませながら言い放った。
「徹底的にぶちのめして。あなたたちが澄人に加えた一発一発、その何百倍もの代償を払わせて!」
路地に響く悲鳴は三時間もやまず、血が地面を赤く染め上げた。
澄人は、あのとき瑠璃があれほど激しく怒るのを見たことがなかった。
その後、その一味は全員逮捕されて刑務所に送られた。澄人を殴った男は腕を折られ、その後の獄中生活に耐えきれず、命を落とすことになった。
けれど今や、澄人は瀕死の目に遭い、全身に傷を負わされかけたというのに――
瑠璃は真相を探ろうともせず、俊也を疑う素振りさえ見せない。
澄人の心はすっかり冷え切り、何の感情も残っていないかのようだ。彼は顔をそむけ、静かに言う。
「わかった」
瑠璃はどこか引っかかるものを覚えたが、深く考える間もなく、俊也の病室から騒がしい声が響いてくる。
彼女は慌ただしく立ち上がる。
「澄人、食べ物を用意してくるわ。待っててね」
澄人はただ、無言で横たわっていた。彼女に視線を向けることもなく。
第5話
それきり、瑠璃は戻ってこなかった。
澄人は空腹と眠気に流され、深い眠りへ落ちた。
夢の中でも悲しい出来事に苛まれているのか、澄人の眉間はずっと寄せられている。
腕に走った鋭い痛みで澄人は目を覚まし、思わず視線を落とす。そこには血に染まった大きなガーゼが巻かれている。
「ガーゼを替えますね。さっき皮膚を移植する手術を終えたばかりですから」
看護師が新しいガーゼを取り出す。
「皮膚移植の手術?なんのことだ」澄人は愕然とした。
「隣の病室の藤堂社長が、夫の腕に擦り傷ができたからと、あなたの皮膚を少し移植するよう頼んだのです」
看護師はため息をつき、ぽつりとこぼす。
「同じ人間でも、立場が違えばこうも扱いが変わるんですね。安部さんがちょっと擦りむいただけで、藤堂社長は大げさに心配するんです。私たちとは違いますね」
澄人の顔からさっと血の気が引き、胸の内を鋭い刃でえぐられたような痛みが走る。
唇が震え、焼けた炭でも呑み込んだかのように喉が灼け、目の奥に湿りが差す。
「すみません、転院の手続きをお願いできますか?」
「転院?」
扉が開き、両手いっぱいに栄養剤と、澄人の好物を抱えた瑠璃が入ってくる。
彼女はコートを脱ぎ、澄人の手足を丁寧に拭き清めた。果物を洗って一口大に切り分け、口元まで運ぶ。さらに、最も美味しい栄養食を作ろうと、何度も配合を変えながら繰り返し試したという。
「ねえ、澄人。ちゃんと食べて、早く治って」
彼女はスプーンで一口分のスープをすくい、息を吹きかけて丁寧に冷ましてから、澄人の口元へそっと差し出した。
その仕草は、昔と変わらぬ細やかさと優しさに満ちている。
澄人はその様子を見つめながらも、心は日に日に冷え切っていく。
彼には分かってしまう。瑠璃の愛は、もう別物だ。
彼女は用意した栄養食の中で一番出来の良いものを俊也に食べさせるだろう。
そして何度も俊也の手を自分の腹に添えさせ、待ち遠しそうに言うだろう――
「俊也、あと少ししたら胎動が感じられるわよ」
澄人が眠りについた後で病室に俊也を呼び入れ、互いの体に熱の痕を残すのだろう。
そして周囲にはこう紹介する――
「こちらが私の夫です。どうぞお見知りおきを」
澄人は、ただ黙って見つめるだけだ。涙もなく、声を荒げることもない。
本気で去ろうと決めた者は、「さよなら」を口にすることすら惜しみ、別れの言葉さえ無駄に感じるのだから。
冬は厳しく、風が落ち葉を何度も巻き上げる。
澄人は、瑠璃が俊也に会いに行っている間を見計らって、北欧へ渡るためのビザや手続きを代行している代理人に電話をかけ、進捗を確認する。
退院の日、代理人からようやく知らせが届く。
「安部様、手続きは明後日の朝には完了する見込みです」
澄人はようやく息を吐き、肩の荷が下りたように微笑んだ。
瑠璃は俊也の手を取ったまま、ふとその笑顔に目を止める。
彼の笑顔は五年前と同じ、比べようのないほど整っている――何も変わっていないように見える。
けれど、よく見れば眉間に憂いの影が差している。
胸の底に言葉にならないざわめきが広がり、瑠璃は思わず澄人の手を取った。
「澄人、元気を出して。私は、ずっとそばにいるから」
澄人はさりげなくその手を振りほどき、かすかに微笑む。
「大丈夫だよ」
不安を押し込め、瑠璃は彼の口元へ軽く口づけした。
「わかったわ。家に帰ろう」
車を走らせる道中、瑠璃の視線はずっと澄人に注がれている。
そして、その手を取ろうとした瞬間、俊也の叫びが車内に弾ける。
「危ない!」
――ドン、と耳をつんざく衝撃音。
黒いワンボックスカーが横合いから突っ込んできて、車体ごと彼らは地面へと叩き落とされた。
第6話
澄人は、とても長い夢を見た。
時は五年前――彼が初めて瑠璃と出会った日へ戻る。
そのころ、彼はまだ視力を失っておらず、いちばんの楽しみはアウトドアでの冒険だった。
その日、瑠璃が険しい山道で足を踏み外し、脚を折って高熱にうなされ、今にも命が尽きそうになった。
彼は持っていたすべての保存食と水、それに薬まで差し出して、なんとか彼女の命を取りとめた。
瑠璃が目を覚ましたのは三日後のことだった。そのとき、澄人はすでに力尽きて倒れていた。
彼女は自分の手首を切り、十度にわたって血を飲ませ続け、救助隊の到着まで二人で持ちこたえたという。
瑠璃が澄人を追い求めていた頃、彼女はよく言っていた。
あの山を生きて出られたのは、きっと前世からの宿縁。運命に結ばれた生死を共にする絆なのだ、と。
だが、場面はふいに反転する。
目の前で瑠璃は、俊也を守るために、澄人を猛獣の前へと突き放していた。
澄人は思わず叫び声をあげ、はっと目を見開く。
だが手足は固く縛られ、視界は黒い布で覆われており、何ひとつ見えない。
ただ、かすかに人の声が聞こえる。
「藤堂社長、あなたがうちの土地を奪ったせいで、うちは破産寸前だ。このまま何もなしってわけにはいかないだろう?」
「夏川沙耶(なつかわ さや)、あんた、私を拉致するなんて正気じゃないわね。命が惜しくないの?」
それは、瑠璃の声だ。
そして、沙耶――彼女の宿敵である。
沙耶は高らかに笑い、狂気じみた調子で言う。
「死ぬのも構わないわ。あんたを道連れにしてやる。でも、あんたをただ殺すだけじゃ安すぎるのよ」
彼女はしばらく澄人と俊也を眺め、口元を不気味に吊り上げて、笑った。
「ゲームをしようか」
瑠璃は手をぎゅっと握りしめ、目に殺気を宿して言う。
「無駄口はやめて。彼らを放す条件を言いなさい」
「お仕置きは三つ。あんたが選びなさい。どちらを助けるか」
そして、彼女の合図ひとつで、澄人と俊也は沙耶のそばへと引きずり出される。
「ううっ!」俊也は怯えて必死にもがく。
澄人は歯を食いしばり、砂利が背中に食い込む痛みに耐える。
瑠璃はその光景を目にして、額に青筋を浮かべる。
「彼らを放して。私とあなたのことなら、ほかの人を巻き込む必要はない」
だが沙耶は耳を貸さない。
「一つ目は――海に投げ込むことよ」
瑠璃は息をのんで震えながら言う。
「あなたが望むものなら何でも差し出す。だから彼らを放して」
沙耶は目を鋭く光らせて言う。
「余計なことを言うんじゃない!選ばないなら、二人とも海に投げ込んでサメの餌にしてやる!」
このとき、俊也は沙耶に、ほとんど気づかれないほどの合図を送った。
沙耶の瞳がきらりと光り、澄人を一瞥して言う。
「じゃあ、こっちから」
言葉と同時に、澄人は蹴り飛ばされ、冷たい海へ叩き込まれた。
「だめ!」瑠璃の悲鳴が裂ける。
一瞬にして海水の塩辛く生臭い匂いが鼻と口を突き抜け、澄人は窒息感に覆われる。
彼は水中でもがき、肺が引き裂かれるような痛みに襲われる。
落とされ、引き上げられ――それを三度も繰り返された。
澄人はすでに息も絶え絶えだ。
沙耶は冷ややかに笑い、恐がっているふりをしている俊也を見つめて、わざとらしく脅すように言う。
「こっちも、いってみる?」
「やめなさい、夏川沙耶!」
瑠璃は目を真っ赤にし、声をかすらせながら叫んだ。
「わかった、私選ぶわ」
「おや?藤堂社長は誰を助けるつもり?安部澄人、それとも井上俊也?」
瑠璃の視線は澄人と俊也の間をしばらく行き来する。
「私が選ぶのは……」
第7話
俊也は苦しげにうめき声を漏らし、口に詰められていた布切れが外れた。彼は惨めな声で叫ぶ。
「瑠璃、助けてくれ!僕たちの子に、父親を失わせるな!」
その一言に、瑠璃の喉までこみ上げていた言葉がぴたりと止まり、彼女はそっと目を閉じる。
しばらくの沈黙のあと、瑠璃はかすれた声で言う。
「俊也」
一瞬にして、澄人の全身から力が抜け落ちた。
沙耶は狂ったように笑い声を響かせる。
「いいわ!さすが藤堂社長、肝が据わってる!」
合図ひとつで、沙耶の手下が澄人の髪をつかんで引きずり、冷たい海へ放り込む。
四度、五度、六度――そして十度目まで。
見ていられなくなった瑠璃は、目を真っ赤にして叫ぶ。
「彼、喘息なのよ!殺す気か?」
「自分で選んだんじゃないの?」と沙耶は鼻で笑いながら、面白そうに瑠璃の暗い面差しを見つめる。
「二つ目の仕置きよ。私の愛しい人は腎臓がもう機能していない。調べはついてるわ――この二人の男、どちらもドナー適合。さあ、今度はどちらを助けるの?」
瑠璃は鋭い爪が食い込むほど手のひらを握りしめ、血がにじむ。胸は激しく波打ち、呼吸さえ乱れている。
澄人はなおも胸が裂けるように咳き込み、海水が五臓六腑にまで染み込み、全身の細胞が悲鳴を上げるような痛みに襲われている。
彼は泳ぎがまったく苦手なうえに喘息を抱えている。ひとたび溺れれば、命に関わる危険は避けられない。
瑠璃はこれまで、澄人を一人で水辺に近づけたことなどなかった。だが今は……
澄人は引きつった笑みを浮かべた。鼻腔も気道も血の匂いで焼けつき、血管がはち切れそうだ。
もう、もたない。
そう思った刹那、瑠璃の答えが、彼を奈落の底へ突き落とす。
「俊也」
隣で俊也が歓喜に涙し、唇を結んで澄人に視線をよこす。
「安部さん、つらかったね」
澄人は応えない。ただ、信じられないものを見るように瑠璃のほうを向き、胸の痛みはしびれるほどに麻痺していく。
ずしりと重みを感じさせる麻酔針が一瞬で体に突き立ち、彼は低くうめき声を漏らし、冷や汗が噴き出す。
沙耶と俊也は意味深げに視線を交わし、唇をわずかに歪めて、瑠璃には聞こえない声で囁く。
「麻酔はいらない」
医師は一瞬ためらったが、麻酔針を引き抜くと、簡単に消毒しただけでそのまま澄人の下腹にメスを入れた。
「――ああああっ!」
激痛に、澄人の長い十本の指が荒れた地面を必死に掴み、砕けた石の上に生々しい十本の血の爪痕を刻む。
出血はみるみる広がり、彼は意識を手放しかけた。
瑠璃はその光景を目の当たりにし、心臓が引き裂かれるような痛みに襲われる。
「やめて!お願い、やめて!」
瑠璃は絶望の叫びを上げ、束縛を振りほどいて澄人に飛びつこうとする。
その時、俊也が突然、胸を押さえて悲鳴を上げ、顔を真っ白にする。
「助けて!息が、息ができない……」
瑠璃の動きが止まり、とっさに彼の手を握りしめる。
「どうしたの?」
その刹那のためらいの間に――
医師の手がすっと振り下ろされ、澄人の額に青筋が浮き出る。全身が痙攣し、声にならない悲鳴をあげた。
――生きたまま、腎臓を抉り出されたのだ。
澄人の腕は力なく垂れ下がり、意識は今にも途切れそうになる。
瑠璃の瞳孔がきゅっと縮む。
「澄人!」
沙耶はこの荒れ果てた光景を眺め、満足げに笑った。
「藤堂社長、ここに医療班は揃ってるわ。でも助けられるのは一人だけよ
さあ、今度も井上俊也を選ぶの?」
澄人の耳には、もう鋭い耳鳴りしか残っていない。言葉のやりとりは遠く、届かない。
必死に目を開けた彼が見たのは、瑠璃と沙耶が切迫した様子で何かを言い合い、やがて沙耶がうなずく姿だ。
その後、彼女は俊也の体を支え、足早に背を向けて去っていく。一度も澄人を振り返ることなく。
「はは……」
澄人は全身の血がすっかり冷えきったように感じ、絶望とともに砕け散る笑みを漏らした。
腹を裂かれる痛みすら、胸の張り裂ける痛みに比べれば、取るに足りない。
西の空では残照が血のように滲み、澄人の体にカモメが舞い降りる。吐き出された臓のかけらをついばみ、その純白の羽はたちまち真紅に染まる。
瑠璃、君が口にした運命の縁も、生死を分かち合う絆も、結局この程度のものだったんだね。
澄人の視線は焦点を失い、残されたのはただ一筋の息だけだ。
彼の目の前の世界はゆっくりと霞み、輪郭を失っていく。
――瑠璃、もし来世があるのなら、もう二度と君を愛したりはしない。
第8話
どれほどの時が過ぎたのか、耳をつんざくサイレンが空に響き渡る。
澄人は救出された。
病院で応急処置だけを受けた彼は、入院の勧めを断り、ひとりで誰もいない邸宅へ戻った。
かつて瑠璃が、彼を笑わせたい一心で自ら図面を引き、現場にも立ち会って仕上げた場所だ。
俊也がこの邸宅に住みついて、まだ二か月にも満たないというのに――すでに至るところに彼の生活の痕が散らばっている。
もともと澄人のためのクロークルームも、音楽室も、いまは雑多な荷で埋め尽くされている。
澄人が瑠璃のために手彫りした木彫りの一式でさえ、いまは無造作に床へ投げ出され、歪んで転がっていた。
あの頃、彼女は目を赤くしながら、一生大切にすると言っていたというのに。
澄人は窓を通して、外の真っ暗な夜空を見つめ、惨めに笑みをこぼす。
もう丸一日と一夜が過ぎた。
瑠璃はいまだ俊也のそばにいる。
澄人は力なく笑みをこぼし、口端の血を拭うと、邸宅の門前に据えられたポストへ三つの品を入れた。
一つ目。
それは、昨日俊也が彼に贈った花にまぶされていた粉の検査報告だ。
瑠璃がこれを開けば、あの夜、虎や狼が狂ったのは偶然ではなく、人為によるものだとすぐに分かるだろう。
その花には、発狂を誘発する香料がふんだんに仕込まれていたのだ。
二つ目。
それは、彼が先ほど病院で受けた健康診断の報告書だ。そこには、彼の身体がすでに古びた機械のように綻びだらけであることが記されている。
左腎をえぐり取られたとき、澄人は俊也と沙耶の会話を聞いた。
腎臓に問題があるのは――俊也の方だ!
すべては、澄人に俊也の腎臓移植を強いるための罠。
そして瑠璃は、彼らの思惑どおり、自らの手で澄人を深淵へと突き落とした。
腎臓に疾患を抱える男に、どうして子を宿させる力があるというのか?
瑠璃の腹の子は、紛れもなく澄人の子だ。
澄人は惨めに笑みを浮かべる。
けれど、もういらない。
子も、瑠璃も、すべていらない。
三つ目。
それは録音・録画機能を備えたダイヤの指輪。海辺での沙耶と俊也の密談が、そこに残されている。
それは五年前、瑠璃が澄人にプロポーズするために、自らアフリカへ渡り、心を込めて選び、丹念に磨き上げた指輪だ。
千三百回にも及ぶ磨き――半年を費やしたという。
こんなにも純粋で揺るぎない愛は、当時、港町じゅうを沸かせた。
心のいちばん奥に彼を置いたのも、彼女だ。
結婚式の場で永遠の愛を誓い、生涯愛し抜くと言ったのも、また彼女だ。
だが、俊也の立場を考え、澄人の目をいつまでも治療へ向かわせなかったのも彼女だ。
俊也の「償い」と称した獣の見世物に彼を巻き込み、破滅の淵へ追いやったのも、彼女だ。
十度もの溺水と、腹を裂かれる苦痛を、目の前で見届けながら止めなかったのも、彼女だ。
かつて炎のように燃え盛った愛は、港町に続く幾度もの雨季のなかで、すでに燻り尽くし、わずかな炭屑と化していた。
この五年、どれほど言い争っても、澄人は一度たりともその指輪を外したことはなかった。
だが今、瑠璃、返すときが来た。
ヘリコプターの轟音が空から降り注ぐ。
澄人は目を細めて見上げる。そこには、見覚えのある顔が頬杖をついて彼を見下ろしている。
「行かないの?澄人」
彼はしばし黙って立ち尽くし、ふっと笑って彼女に問う。
「ソフィア、ライターはあるか?」
ソフィアは片眉を上げ、小箱を放って寄こした。
「マッチしかないわ」
澄人は小さくうなずく。
「これで十分だ」
澄人は身を苛む痛みに耐えながら、一歩、また一歩と邸宅へ向かう。
二人の愛が芽吹いたのはここだった。だが、幾度もの裏切りと欺きの果てに、その愛はたちまち枯れ果て、跡形もなく潰えていった。
澄人は手にしたマッチを擦り、炎を灯すと、そのまま中へと放り投げる。
「ゴォッ」と音を立て、炎が瞬く間に邸宅を飲み込む。
かつては温もりに満ちていた家は、今や生き物のように人を呑み込む地獄ような牢獄と化している。
「瑠璃、永遠にさよならだ」
澄人は低くつぶやき、そして一片のためらいもなく背を向け、ヘリコプターへと乗り込む。
エンジンがうなり、澄人の衣の裾は闇のなかで烈しくはためいた。機体は大洋の彼方へと向かってゆく。
同じ頃、瑠璃は澄人が救出されたとの報せを受け、狂ったように車を走らせ、戻ろうとしている。
地上と空。
逆向きに伸びる二本の直線は、決して交わることはない。