風の止まぬ夜に、もう振り返らない

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風の止まぬ夜に、もう振り返らない

GoodNovel Hoàn thành

深夜、私のもとへ、夫がかつて学費を援助していた女から、一枚の際どい写真が届いた。 薄く透ける黒いレースランジェリーでは、艶めきは少しも...

Chương (1)

第1章

深夜、私のもとへ、夫がかつて学費を援助していた女から、一枚の際どい写真が届いた。 薄く透ける黒いレースランジェリーでは、艶めきは少しも隠れない。 紅を差した唇は微かに開き、目元はネクタイで目隠しされ、白い両腕は背中で縛られている。 そのネクタイは、結婚記念日に私が彼に贈ったものだ。 【彼女のあそこにも噛んだりするの?】 【しないよ。彼女は妊娠してて匂いが変だし、君のほうが甘くていい】 底冷えに襲われ、私は手を震わせながらノートパソコンを閉じた。それから病院に電話をかける。 「もしもし。中絶手術の予約をお願いしたいのですが、できるだけ早く、お願いします」 …… 第1話 深夜、久遠直哉(くおん なおや)がかつて学費を援助していた望月奈央(もちづき なお)から、私あてにメッセージが来た。 【今日は安全日だよ、つけなくてもいいよ】 一分も経たないうちに、そのメッセージは送信が取り消された。 変に詮索するのも気が引けて、きっと送信先を間違えただけだろうと私は思った。 翌日、私は直哉の車で産科へ妊婦健診に向かう。 運転席のシートには、濡れた跡が広がっている。 頭の中で「ン」と鈍い音が鳴ったみたいに、思考が止まる。私は静かに車のドアを閉め、そのまま家へ引き返した。 震える指で病院の番号を押す。 「すみません、本日の健診はキャンセルで。代わりに、中絶手術の予約をお願いします。できるだけ早く」 「橘千紗(たちばな ちさ)様ですね。妊娠ごく初期で、胎嚢がまだ小さいので、今は手術ができません。半月ほど経ってからのほうがいいですね」 「わかりました。じゃあ半月後で、お願いします。ありがとうございます」 ちょうどそのとき、シャワーを終えた直哉がバスルームから出てきて、最後のひと言だけを拾った。 「半月後、どこ行くの?」 タオルで髪を拭きながら、彼は不思議そうに問う。 「産科だよ」 私は事実だけを返す。 「赤ちゃん、何かあったのか?」 直哉の顔にわずかな緊張が走る。この子は、私が何度も体外受精を繰り返して、ようやく授かった命だ。 「ううん。とても元気」 それも、事実だ。 直哉はほっと息をつき、私をそっと抱き寄せる。 「千紗、今月末は出張になるかもしれない。健診には付き添えそうにない」 「大丈夫。ひとりで行くから」 テーブルのノートパソコンから、メッセージの通知音が鳴る。 直哉の声は、さらに申し訳なさを帯びた。 「千紗、いつも本当にありがとう。愛してるよ」 五年間、変わらなかった優しい声色。 以前の私なら、幸せそうに「私も愛してる」と返しただろう。 けれど今は、胃の奥から強い吐き気が込み上げてくるだけだ。 言葉より先に、私は口を押さえ、洗面所へ駆け込む。胃の奥からせり上がるものを止められず、内臓ごとすべてを吐き出してしまいそうだ。 人って、本当に裏切りながらも、愛してるなんて言えるんだ。 「千紗、大丈夫か?」 直哉が慌てて後を追ってきて、そっと手を伸ばし、私の背を軽くさする。 その手は確かに温かいのに、私には氷のように冷たく感じられた。 「平気。初期のつわりだって、この前お医者さんも言ってた」 「つらいよな。代われるものなら、代わってやりたい」 その声は優しく、どこか痛みを含んでいた。もしあのメッセージと、車の中に残された跡を見ていなければ、私は、きっと信じてしまっただろう。 その夜、直哉は珍しく書斎にこもらず、ずっと私のそばにいた。 まるで、いまだに私だけを愛するあの頃の良い夫であるかのようだ。 けれど私は知っている──もう決してあの頃には戻れないと。 あと半月経てば、私はこの子を堕ろして、彼のもとを完全に離れるつもりだ。 彼にも、私が受けた痛みの百倍の苦しみを味わわせてやる。必ず思い知らせる。 第2話 翌朝、目を覚ますと、直哉がキッチンで忙しくしているのが目に入る。 「千紗、昨日いろいろ調べたんだ。つわりのときは梅干し粥がいいって。もうすぐできるよ」 エプロン姿の彼に、朝の光が窓から差し込む。絵に描いたように温かい光景だ。 食卓につくと、私は直哉の親指に絆創膏が巻かれているのを見た。絆創膏の隙間から、うっすらと血がにじんでいる。 「手、どうしたの?」 「大丈夫。梅干しを刻むときにちょっと切っちゃって。ほら、味見してみて。おいしくできたかな」 彼は相変わらず優しく笑う。端正な顔立ちに、私は一瞬だけ心が揺れた。 結婚したばかりの頃、彼は忙しい合間を縫って、私の好きな料理をよく作ってくれた。 けれど仕事が波に乗るにつれ、いつしかそんなことしてくれなくなった。 「もうしなくていいよ。お手伝いさんに頼めばいいだけだし」 私は淡々と言う。前みたいに、彼のことをいちいち心配したりはしない。 「君にひとりで我慢させたくないんだ。何か少しでも、楽にしてあげられたらと思って」 彼はやさしく応じた。私の素っ気なさに傷ついた様子はまったくない。 以前の私なら、きっと胸が熱くなっていた。きっと、これは私が何度も体外受精を繰り返してきたことへの思いやりだと信じただろう。 今になってようやくわかった。彼の優しさは、私への負い目から生まれたものだ。 私の顔色を見て、直哉が探るように口を開く。 「千紗、どうした?」 「なんでもないよ。妊娠のホルモンのせいかも。最近、気分が落ち着かなくて」 私はそう言って、ごまかした。 直哉はそっと私の手を取り、その目に優しさと痛ましさが滲んでいる。 「じゃあ、月末の出張から戻ったら、気晴らしにどこか行こう。君、ずっとバリ島に行きたいって言ってたよな?」 私は小さくうなずき、視線を落として感情を隠す。 もう一緒には行かない。あと十日間で、私は彼のもとを完全に離れる。 スマホの通知音が鳴り、直哉が手を伸ばして画面をのぞき込む。その頬に、さらに笑みが深まる。 「千紗、奈央が週末うちに顔を出したいって。彼女は君が妊娠したことを知って、とても喜んでたよ」 奈央――直哉が四年前に支援していた女子大生。昨夜、あの写真に映っていた女。 両親を亡くし、無垢な顔立ちのあの子は、恩返しだと言ってうちの会社に入り、直哉のアシスタントになった。 私はずっと、彼女のことを妹のように思っていた。まさか、直哉と関係を持つなんて。 スプーンを握りしめ、私は込み上げる憎しみをどうにか押し殺す。 「やめて。今は気分がすぐれないから、誰にも会いたくないの」 直哉は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにうなずいた。 「わかった。じゃあ断っておく。君の気分が戻ってからにしよう」 彼は私の目の前で、平然と彼女へ返信する。 破綻のないその横顔を見つめながら、私はふいに可笑しくなった。 ――どういう神経なら、ここまで平然でいられるのだろう。 直哉が出勤すると、私はつい我慢できなくなった。立ち上がり、彼が作ったものをすべてゴミ箱にひっくり返す。 ふと目に入ったリビングのウェディングフォトが、やけに眩しく、そして嘲笑うように見える。 私は額縁を外し、彼からもらった贈り物も一緒に、すべてをゴミ箱に放り込む。 宝物だったはずのものが、一つ残らず廃棄物に変わっていく。もう、見たくない。 夕方、直哉が帰ってきたとき、私はちょうど箱を抱えて玄関に出るところだった。 「千紗、それ……どうした?」 「今日、いらないものを片づけてた。捨ててくる」 私は淡々と答えた。 「俺が行くよ。妊娠中なんだから気をつけないと」 彼は箱を受け取り、階段を降りていった。 実のところ、中身をひと目でも見れば、私が何を捨てようとしているのか、すぐにわかったはずだ。中には、ウェディングフォトと、彼が私に贈ったものが詰まっている。 もし彼がそれを見ていたなら、私が何を知ったのか、すぐに気付くだろう。 もし彼が気付いたなら、きっと必死に謝って、許しを乞うはずだ。 けれど、彼は最後まで気づかなかった。 家を出る一週間前、私は会社に戻った。 第3話 体外受精を始めてから、私はもう半年も会社に顔を出していなかった。 「見て!これ、私の大好きな彼氏がくれた花!」 奈央はうれしそうに声を弾ませ、花束を皆に見せびらかしている。 近づいて見ると、それは百合の花束だ。 花びらの露がきらりと光り、朝、直哉が使いに頼んで送ってきた花と同じくらいみずみずしい。 ただ、私のもとに届いたのは赤いバラだった。 「勤務中に何を騒いでいるの?」 私がきちんと身支度をして現れると、奈央の笑みが一瞬だけ固まった。 「千紗、どうしてここに?」 「自分の会社に来るのに、理由がいるのかしら?」 私は淡々と彼女を見やる。今の奈央は頭の先からつま先までブランドづくし、デスクの上にはジェリーキャットのぬいぐるみが山のように積まれている。 「ここはあなたの家じゃない。仕事以外のことに気を散らす暇があるなら、もう少し仕事に集中しなさい」 私は冷ややかに言い放った。声は硬く、表情も一切崩さない。 「奈央、そのガラクタをすぐに片づけろ」 直哉が飛び出してきて、険しい表情で彼女を叱った。 奈央の目に悔しさと不満がよぎるが、けれど何も言わず、うなだれて片づけに取りかかる。 「千紗、家で休んでればいいのに。君とお腹の子が心配だよ」 直哉はやさしく私の肩を抱き、椅子に腰を下ろさせた。 私は微笑んで言う。 「急に、隣のカフェのサンドイッチが食べたくなって。それで来ちゃったの」 「わかった。今すぐ買ってくる」 直哉は私の頭を撫で、上着を取って出ていった。 ガラス越しに、直哉がビルの下に現れるのを見届け、私はバッグから用意しておいたピンホールカメラを取り出した。 三十分後、直哉が紙袋に入ったサンドイッチを手に戻ってきた。 食事を終えると、私は「ちょっと買い物に行ってくる」と言い訳をして会社を出て、近くのカフェに入る。 スマホを開くと、案の定――奈央が待ちきれない様子で、直哉の胸に飛び込んでいた。 「ねえ、さっきなんであんなに怒ったの?あれだって全部、あなたがくれたものじゃない? 罰として、キスマークつけちゃうから」 奈央は仰け反るようにして、直哉の首筋に唇を押し当てる。 次の瞬間、直哉は冷たく彼女を押しやった。 「千紗に見せたいのか? もし彼女に知られたら、その場でお前を辞めさせるから。自分の立場をわきまえろ」 奈央の目に、強い不満の色が一瞬走った。それでも媚びるように微笑み、直哉の頬にキスを落とす。 「わかってるって。千紗にバレない――それがルールでしょ? 今日はあなたの好きな制服風の服を着てきたの。この上着の下ね……」 甘く艶めく声が響き、奈央はそのまま彼の膝の上に跨った。 直哉の瞳に濁った衝動が宿り、次の瞬間、彼は手を伸ばして彼女の服を乱暴に引き裂いた。 もう、見ていられなかった。私は顔をそむけ、込み上げる吐き気を必死にこらえた。 スマホの中で、低い息づかいと湿った音が続き、長く経ってからやっと静まる。 私はすべての映像を保存し、その足で弁護士のもとへ向かった。 弁護士は言った――これだけの証拠があれば、彼が拒んでも離婚はできる、と。 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の重しがすっと下りた気がした。あと一週間もすれば、すべてが終わる。 夜、家に戻ると、直哉は珍しく残業もせず、風呂を済ませて私を待っていた。 第4話 彼はバスローブ姿のまま、アロマキャンドルを灯したテーブルの前に座っている。 「千紗、最近仕事ばかりで君を構ってやれなかった。今夜はふたりで、ゆっくりキャンドルディナーにしよう」 認めざるを得ない。彼は本当に抜かりがない。 匂いがつきそうなものは、ことごとく先に片づけてある。 テーブルには彼が手配しておいた料理が並び、どれも私の好物だ。 この五年間、彼はいつも変わらず気を配り、私の好みを覚えている。 それなのに、もう私は何ひとつ心が動かない。 「千紗、さっき気づいたんだけど、ウェディングフォートが見当たらない……あれ、俺が贈ったネックレスも外してる」 そのネックレスは、五年前に私たちが付き合い始めたとき、彼が貯金をはたいて買ってくれた最初の贈り物だ。 この五年、私は風呂に入るときでさえ外さなかった。 数日前、あの箱に入れて、彼自身の手で捨てられたのだ。 「ウェディングフォートは、なんだか見てると不快だったからしまった。ネックレスは検査のときに外したまま。つけ直すのが面倒でね」 半年にわたる体外受精のせいで、ホルモンに振り回された私のスタイルも顔も、もう昔のままではない。 直哉の目に、一瞬、うしろめたさと痛ましさがよぎる。 「全部、俺のせいで君がつらい思いをしてる。俺の中では、君はいつだって一番きれいだよ」 翌日、彼はどこか浮き立った様子で私を連れて、百貨店のベビー用品コーナーへと向かった。 「千紗、そろそろ赤ちゃんのもの、用意しておこう」 気づけば、彼は店員の案内に乗せられて、かごいっぱいにベビー用品を選び終えていた。 そして、それらを誇らしげに抱えてきて、私の前にしゃがみ込み、一つひとつ見せてくる。 私はソファに腰を下ろし、小さくて愛らしいベビーグッズを指先で撫でる。目頭が熱くなる。 ――ごめんね、赤ちゃん。ママはあなたを産んであげられない。 「千紗、どうした?泣いてるのか?」 直哉の顔色がさっと変わり、心配そうに問いかけてくる。 「なんでもないよ。ちょっと胸が苦しくなっただけ」 直哉はほっと息をつき、私を優しく抱き寄せる。 近くで見ていた店員が、羨ましそうに微笑む。 「奥さま、本当にお幸せですね。こんなに仲のいいご夫婦、今どきなかなかいませんよ」 私は軽く笑って受け流す。 彼は私に優しい――けれど、他の女にも優しさを配っている。 店を出ると、私たちは奈央と鉢合わせた。 直哉の手にある買い物袋を見た瞬間、彼女の目にかすかな陰が差す。 「千紗、直哉って本当に奥さん想いだよね。私の彼氏なんて、ベッド以外じゃ一緒に出かけてもくれないのよ」 彼女の声にはわずかな寂しさが混じっていた。私は直哉の表情を見ないふりをしながら、淡々と口を開く。 「女は、自分の価値を上げるべきよ。男に寄りかかるんじゃなくて」 奈央の顔が一瞬こわばる。 「私だって、彼のために妊娠して、自分の価値を上げたいって思ってるのに、彼がダメって。私の体型が好きだって言うの」 そう言って、彼女はくるりと身を回し、ふっくらした私の体をわざと見やりながら、意味ありげに微笑んだ。 「千紗の価値は、子どもで証明するようなものじゃない。彼女がいなければ今の俺も、今のお前もない」 直哉の表情は冷え切っている。その声には、明らかな警告の色が滲んでいる。 「すみません。そんなつもりじゃ……」 「帰れ。明日から、会社では二度と身体の線が出る服を着るな」 直哉が顔を強張らせて言い放つと、奈央は涙目のまま走り去った。 「千紗、気にするな。君はどんな君でも、俺は好きだ」 直哉は気遣うように私を車へ乗せる。 よくもまあ、演じ切れるものだ。私は口の端だけで笑った。 家に戻ると、直哉は大きな袋をいくつも抱えて、ベビールームへ運び込む。 その中の一つ、ぬいぐるみのうさぎを手に取って、感慨深げに言う。 「千紗、うちの赤ちゃんも卯年だ。きっとこの子より、何倍も可愛いぞ」 私はそれを受け取り、ふわふわの頬をそっと撫でた。 もう、私たちに赤ちゃんは生まれない。 あと三日で、私は中絶手術を受ける。 第5話 この二日間、私は弁護士のもとを訪れ、直哉の裏切りを映した映像をすべて託した。 彼は手際よく資料を整え、いつ離婚の訴えを起こすのかと尋ねてくる。 「二日後で」 二日後、それが、子どもをおろし、この家を離れる日になる。 家に戻ると、直哉からメッセージが届く。 【千紗、この二日間は出張の準備でバタバタしてる。そばにいられなくてごめん。食事はちゃんとして、食べたいものがあればお手伝いさんに頼んで。愛してるよ】 私は返信しなかった。胸の奥ではすべてを見抜いていた。そして、ピンホールカメラに映ったものを確認する。 案の定、奈央が直哉の膝に座り、食べ物を彼の口元へ運んでいる。 直哉は少し身を引いたが、奈央はくすくすと笑いながら言う。 「ねえ、これからは赤ちゃんにもごはんをあげなきゃいけないよね?だから今のうちに練習しておかないと。私がやり方、見せてあげる」 そう言うと、奈央は一切れのサーモンを口にくわえ、ゆっくりと直哉の唇へと近づける。 二人の唇が触れた瞬間、直哉は腕を伸ばし、彼女を強く抱き寄せる。 「……ほんと、悪魔だな」 低くかすれた声。その響きには、抑えきれない欲と熱が混じっている。 その場に、再び淫らな吐息が響き始める。 込み上げる吐き気を押し殺し、私は立ち上がってベビールームへ向かい、この前買い込んだものを片っ端からハサミで切り裂いた。 深夜、直哉がクローゼットを開けて、少し驚いたように声を上げる。 「千紗、どうしたんだ?服、ずいぶん減ってない?」 「もうすぐ旅行に行くから、先に荷物を詰めておいたの。出発のときにまとめて預けるわ」 私は寝室の隅に置いた大きなスーツケースを指さした。 その中には、私がこれから持って出るすべてのものが詰まっている。 直哉は小さく笑って首を振った。 「そんなことしなくていいよ。現地で一緒に買えばいい。手間だろ」 「いいの。最近、会社の資金繰りが厳しいから。節約できるところは節約しないとね」 私はそう言って、適当に話を合わせた。 ついに、中絶手術の予約日がやって来た。 ちょうどこの日は、直哉が出張へ発つ日でもある。 出かけ際、彼は一枚の封筒を私の手に押し込む。 「千紗、これ、君へのサプライズと、がんばったご褒美。今日、ひとりで病院に行かせてしまって、本当に悪かった」 中には、一週間後のバリ島行きの航空券が二枚。 「俺が戻ったら、これで一緒に行こう。いい子で待ってて。愛してるよ」 直哉はそう言って、私の額に軽くキスを落とし、スーツケースを引きながら家を出ていった。 私もそのあと病院へ向かい、ためらうこともなく、冷たい手術台に体を預けた。 夕方、私はぐったりとした体を引きずりながら家に戻った。 「千紗、たった一日離れただけで、もう恋しいよ」 ビデオ通話の向こうで、バスローブ姿の直哉が愛と想いを並べ立てる。けれど私の視線は、その背後、ホテルの大きなガラス窓に映った光景へと吸い寄せられる。そこには、テーブルの上に並ぶ二つのワイングラスが、はっきりと映り込んでいる。 悲しみと痛みと怒りが、いっせいに体を駆け抜ける。 私は通話を切り、直哉と奈央の連絡先をブロックした。 そして、あの二枚の航空券を細かく引き裂き、その横に中絶手術の明細を置く。 ――これが、私から彼への最後の贈り物。 スーツケースを引きずりながら、私は振り返ることなく、この五年間暮らした家を後にした。 ……