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清風、余年に寄せて
御影彰仁(みかげ あきひと)は私の専属執事だった。 何度想いを告げても、そのたびに彼に拒まれてきた。 だが、私と御影家の後継者との間に、...
Chương (1)
第1章
御影彰仁(みかげ あきひと)は私の専属執事だった。
何度想いを告げても、そのたびに彼に拒まれてきた。
だが、私と御影家の後継者との間に、幼い頃からの許婚があったと知ったとき、彰仁はようやく私の想いを受け入れてくれた。
彼と駆け落ちするため、私は父に婚約解消を申し出た。
いつも利益第一の父が、あっさり承諾したうえに、彼の大事な私生児――白川芹奈(しらかわ せりな)を代わりに嫁がせるつもりだと言い出したのだ。
この朗報を彰仁に伝えようとしたそのとき、街路に停まっていたマイバッハのリムジンの中で、彼を見かけた。
彼は切なげに芹奈の写真へ唇を寄せ、指先でそっとなぞり、瞳いっぱいに愛情を滲ませていた。
あの車のナンバープレートを見た瞬間、私はすべてを悟った。
そう――彰仁こそが、御影家の後継者だったのだ。
私は静かに踵を返し、家へ戻った。
そして父に、もう一つの条件を突きつけた。
第1話
御影彰仁(みかげ あきひと)は、私の専属執事だった。
何度想いを告げても、そのたびに彼に拒まれてきた。
だが、私と御影家の後継者との間に、幼い頃からの許婚があると知ったとき、彰仁は突然私の想いを受け入れ、さらには「一緒に駆け落ちしよう」とまで言った。
私は喜びに浮かれ、父に婚約解消を申し出た。
これまで政略結婚を命のように扱ってきた父が、あっさり承諾したのだ。
この朗報を彰仁に伝えようとしたそのとき、街路に停まっていたマイバッハのリムジンの中で、彼を見かけた。
彼は切なげに芹奈の写真へ唇を寄せ、指先でそっとなぞり、瞳いっぱいに愛情を滲ませていた。
「芹奈……もうすぐお前は俺の妻になり、御影家の奥さんになる」
その言葉に息が詰まり、視界がぐらりと揺れた。
そう――彰仁こそが御影家の後継者だったのだ。
私と駆け落ちするというのは、私に自ら婚約解消させるための口実にすぎなかった。
そして父があれほどあっさり承諾したのも、彼の私生児である白川芹奈(しらかわ せりな)を送り込むためだったのだ。
私は涙を飲み込み、踵を返して家へ戻り、父に新たな条件を突きつけた。
……
私が戻るのを見るなり、白川靖徳(しらかわ やすのり)の顔色が一気に険しくなった。
彼は気まずげに笑い、指にはめた深緑の翡翠の指輪を弄びながら、私を見つめた。
「沙雪、どうして戻ってきた?」
私は余計な言葉を挟まず、単刀直入に切り出した。
「会社の株の六割を私に譲っていただく」
私が株の話を持ち出した瞬間、靖徳の表情が微妙に歪み、危うく指輪を砕きかけた。
「もし拒んだら?」
「その時は、あなたの私生児が御影家に嫁ぐ道は閉ざされるわ。二度とそんなすり替えは通用しない」
靖徳の指が机をリズムなく叩く。五分後、ようやく彼が口を開いた。
「俺にも条件がある。江原家へ嫁げ。お前が江原家に入れば、俺は彼らの後ろ盾を得て新事業を拓ける」
私は鼻先で笑った。江原家がどれほど扱いにくいか、誰もが知っている。彼は芹奈を南城へやりたくないから、私を差し出すのだ。
親子といえども、最後は取引の駒。
「いいわ、嫁ぐ。七日後に江原家に迎えに来させて」
七日後――それは御影家の婚礼の日でもある。
靖徳の視線が泳ぐ。雷のように決断の早い彼の顔に、初めてそんな表情を見た。
「そのとき、俺はお前を送り出せない。芹奈にはずいぶん負い目があってな、だから――」
私は手を振って言葉を遮った。
「私はひとりで行くわ」
彼が私の結婚式に来るかどうかなんて、もはやどうでもよかった。
母が亡くなったあの日から、私には帰る家などなかったのだから。
第2話
祖母の口から聞いた話だ。
母が妊娠八カ月のとき、靖徳は初恋の女を連れ帰った。しかも二歳になる女の子まで一緒に。
「昔は誤解して、彼女を手放してしまった。悲しみのあまり、お前の母と結婚しただけだ」――そう言って、誤解が解け、しかも子どもがいると知ると、彼はその娘を白川家の子として迎え入れようとした。
母はその衝撃で早産し、私を産んだ直後に大出血で命を落とした。
本来は子を持たないつもりだったのに、それほどまでに靖徳を愛し、子を産むことを選んだのだ。
そして最愛の春に、最期を迎えた。
母を弔う間もなく、靖徳は初恋の女に盛大な結婚式を挙げた。
その日から、誰も私を本当の「お嬢さま」としては扱わなくなった。屋敷の人々の視線は、いつも芹奈の方へ向けられ、私は次女のように扱われるだけになった。
誰も母を思い出さず、靖徳の初恋の女を「奥さま」と呼ぶようになった。
誰も、靖徳が母の実家の後ろ盾で成り上がったことを口にしない。
私は靖徳を心の底から憎んだ。
部屋の扉を押し開けて階下へ降りようとしたとき、彰仁が半身を屈め、芹奈の足首を揉んでいるのを目にした。
黄昏の光に浮かぶ彼の口元には微笑があり、風に揺れる前髪さえ穏やかで美しい光景だった。
けれど、私といるときの彰仁は、決してこんな顔を見せたことはない。
彼はいつも冷ややかで、「私は執事であって、あなたの召使いではないです」と突き放してきた。
私が現れた瞬間、静謐な空気は途切れ、彼は無表情に立ち上がり、淡々とした声に戻った。
「お嬢さまが足を挫かれたので、処置をしていただけです」
私は手を欄干に置き、目の中の嘲笑を隠さずに吐き捨てた。
「家に医者がいないの?それとも、あなたは医者より役に立つとでも?」
芹奈がとっさに彰仁の前へ身を差し出す。
「沙雪、そんな言い方はやめて。両親はそんなふうに私たちを育ててないでしょ?」
私は眉をひそめ、人差し指を唇に添えた。
「私の母はもう死んだの。あなたの、あの成金趣味の母親と、人殺しの父親――私には関係ない」
芹奈の顔が一瞬にして真っ青になり、彰仁は痛ましげに眉を寄せた。
「白川さま!その言葉はお控えください!」
その呼び名が、胸を鋭く抉るように響いた。
屋敷の者は皆、私を「お嬢さま」とは呼ばない。
まるで余分な娘であるかのように、形式ばった呼び方で距離を置く。
ただひとり、彰仁だけが変わらず「お嬢さま」と呼んでくれた。
「白川家の娘はあなたひとりです」と、かつて彼は言ってくれたのだ。
今思えば、あれもただの慰めにすぎなかったのだ。
私は深く息を吐き、胸の奥の痛みを押し隠した。
「御影彰仁……身の程をわきまえなさい。彼女が私に口出しする資格はないし、執事のあなたにはなおさらよ」
その瞬間、彰仁の瞳に冷たく暗い影が落ち、底知れぬ闇が広がった。
私は踵を返し、自室へ戻った。
母の写真を丁寧に拭っていると、背後で扉が開いた。
彰仁が珍しく、手にグラスを持っていた。
差し出されたのは搾りたてのフレッシュジュース。
だが、口を開いた最初の言葉はこうだった。
「どう、御影家との婚約は解消できそう?」
第3話
「ないわ」
私の答えに、彰仁の瞳に一瞬、失望の色が走った。
「沙雪、お前は御影家との婚約を必ず解消しなければならない」
私は問い返した。
「私が婚約を解消したら、誰が御影家に嫁ぐの?」
彰仁は思わず口を滑らせた。
「もちろん芹奈が……お嬢さま」
胸の奥に冷たい笑いが広がる。
自分の天真爛漫さと愚かさに――
彼が私の想いを受け入れたのは、私の粘り強さに心を動かされたからではなかった。
すべては、私に婚約を解消させ、芹奈を堂々と送り込むための計算だったのだ。
失言に気づいたのか、彰仁は視線を逸らした。
「俺たちはすでに一緒にいる。お前が嫁いでしまったら、俺はどうなる?」
その声にはかすかな震えが混じっていた。
危うく、また騙されるところだった。
彼が恐れているのは、芹奈が順調に御影家に入れなくなること。私の存在など関係ない。
私は唐突に口にした。
「御影家の後継者は、白川芹奈を好きになると思う?」
長い沈黙。
答えは返ってこないと思ったそのとき、彼は小さく口を開いた。
「そう思う」
胸を締めつけるはずの苦しさはなく、むしろ淡い解放感があった。
「なら、あなたの願いは叶うわ」
「……何?」
聞き返す彼に、私はもう何も答えなかった。
互いに言葉を失っていると、ドアを叩く音が響いた。
「沙雪、入ってもいい?」――芹奈の声だ。
その声を聞くなり、彰仁はすぐに私の手を放し、恭しく横に控えた。
私が黙っていると、芹奈は勝手に扉を開けて入ってきた。
「彰仁さんもいたね」
彼女は一度も彰仁を「執事」と呼んだことはない。
いつも淑やかに、甘やかに「彰仁さん」と呼ぶ。
その瞬間、普段は無口な彰仁の頬に、かすかな朱が差した。
そして珍しく口を開いた。
「白川さまに、オレンジジュースをお届けに」
芹奈はにっこりと頷き、嬉しそうに言った。
「私ね、もうすぐお嫁に行くの。沙雪、一緒にウェディングドレスを選んでほしくて」
彰仁の表情が固まり、朱が一瞬で怒気に変わった。
「どうして急に……どこの家に?」
我を忘れた彰仁は、自分の立場を越えたことにも気づかない。
今度は芹奈が恥じらう番だった。
唇を噛みしめ、小さく「秘密」と告げる。
彰仁がさらに言葉を重ねようとしたそのとき、芹奈は一本の電話に呼び出されて部屋を出ていった。
残された彰仁は心ここにあらず。
不意に机の上の香炉を倒してしまった。
灼けた灰と炉壁が私の腕を直撃し、水ぶくれがみるみる広がる。
「……っ!」思わず息を呑んだ。
だが彰仁は、なおも芹奈の背中を追いかけるように視線を外へ向けていた。
「御影彰仁!」
私の声で、ようやく彼は我に返り、床に転がる香炉と私の火傷に気づいた。
その瞳に、一瞬、痛ましさと迷いがよぎったのは錯覚だろうか。
彼は初めて私の傷を手に取り、丁寧に薬を塗った。
だが、その口からこぼれる言葉は――やはり芹奈のことだった。
「沙雪……もう芹奈を敵視しないで。あの子は本当に哀れなんだ……
もうすぐ嫁に行くんだ。お前にとって脅威にはならない」
私は思わず腕を引いた。
痛みに顔を歪める――だが、その痛みより胸の痛みの方がずっと鋭かった。
哀れなのは誰か。
母を失い、父に愛されなかった私ではないのか。
涙がこぼれ落ちた。
それを彼は「傷が痛むから」だと勘違いした。
最後に、彼は諦めたように小さく吐息を洩らした。
「もうすぐお前は御影家の後継者と婚約する。だが、お嬢さまは――あの身分では、良縁を望めない」
その声は小さかったが、はっきりと私の耳に届いた。
彼は言った――「彼女を補ってやるべきだ」と。
私は心の中で叫んだ。
補う必要なんてない。
だって――彼と結ばれるのは、白川芹奈なのだから。
第4話
その後の三日間、彰仁は一度も私の前に姿を見せなかった。
「最近は忙しい」とだけ言い、私にかまう暇すらないと。
だが忘れているのだろうか。
彼は私の専属執事であり、白川家の雑務など本来関係ないはずだ。
最初に数多の候補から彼を選んだのは、八カ国語を操り、あらゆる礼儀作法に通じ、さらには宝飾や金融にも精通していたから。
そして――何よりも、容姿が際立っていたからだ。
これほどの経歴を持ちながら、なぜ執事に甘んじているのか。
その疑問を口にしたとき、彼は笑って答えなかった。
「それでも、私を選びますか?」とだけ言った。
自分でも理由が分からぬまま、気づけば頷いていた。
思えば、そのときからすでに不審な点はあったのだ。
けれど、私は見ようとしなかった。
考え込んでいると、メールボックスに一通の招待状が届いた。
オークションへの招待状――
私は彰仁に連絡し、【一緒に行って】と頼んだ。
返事は、ほとんど即座に返ってきた。
【最近忙しくて、抜けられない】
問い詰めに行こうとした矢先、再びメッセージが届いた。
【行く】
二日後、私は彼と共にオークション会場へ足を運んだ。
そして理由を悟った。
そこに――芹奈が現れていたからだ。
前半の出品物に私はまるで興味を示せなかったが、芹奈は意気込んで競り合い、まるで嫁入り道具でも選んでいるかのようだった。
そして彰仁の視線もまた、彼女に釘付けのまま動かなかった。
後半が始まったとき――私は言葉を失った。
展示台に並んでいたのは、あの「陽緑の翡翠のブレスレット」だった。
それは母の形見。
祖母から託され、私は金庫にしまっていた。
だが、靖徳が金庫を破壊し、会社の危機を凌ぐために担保として差し出したのだ。
――今度こそ、母の遺品を取り戻す。
私は迷いなく札を掲げた。
「二十億!」
会場の視線が一斉に私に集まった。
芹奈の瞳もすぐさまブレスレットに注がれる。
二秒後、彼女も札を掲げた。
「三十億!」
そして、私に向かって作り笑いを浮かべる。
「ごめんなさいね。このブレスレット、私も欲しくて」
私はこれ以上言葉を費やさず、きっぱりと再び札を上げた。
「六十億!」
私は心の中で冷静に弾いていた。白川家の流動資金など、四十億を超えるはずがない。
六十億――靖徳がどう足掻いても芹奈には用意できない額。
案の定、芹奈の顔は引きつり、苦々しい影が広がった。
傍らの彰仁は一言も発せず、何を思っているのか分からない。
オークショニアが私の方へ手を伸ばし、声を張り上げた。
「白川さまが六十億!六十億を超える方はいませんか?」
私は確信していた。
もうこのブレスレットは、私の手に戻る――
そう思った瞬間。
会場の別の方向から、威厳に満ちた声が響き渡った。
「この品、俺がいただく!」
第5話
声のする方へ目を向ける。
そこに立っていたのは、深灰のスーツを完璧に着こなした男だった。
高く通った鼻筋、奥行きのある眼差し。
仮面をつけていても隠しきれない、圧倒的な気品が漂っていた。
男はポケットから一枚の翡翠の牌を取り出した――御影家の象徴。
「白川家の令嬢、白川芹奈が望むものは、すべて俺が落札する」
会場にざわめきが広がる。
仮面の男こそ、これまで姿を見せたことのない御影家の後継者ではないかと。
私は冷ややかにこの茶番を見ていた。
――よくもまあ、短期間で体格の似た男を用意し、代理を立たせたものだ。
私は彰仁へ振り返った。
「このブレスレットは私にとって大切なもの。必ず落とさなければならない」
彼は一瞬息を呑み、すぐに目を逸らした。
「俺はただの執事だ。御影家の跡取りと競うなど、到底できない」
涙が込み上げ、天井を仰いでようやく零れ落ちるのを堪えた。
オークションが終わったあと、私は駐車場で芹奈を呼び止めた。
「あなたの欲しいものなら、何でも差し出すわ。でも、このブレスレットだけは譲ってほしい。いくらでも払う」
その瞬間、彼女は上品な仮面を捨て、傲慢な笑みを浮かべた。
「誰のものか、私が知らないとでも?たとえ捨てても、あなたには渡さない!」
次の瞬間、彼女は手を放ち、翡翠のブレスレットは床に叩きつけられ、四散した。
私は抑えきれず、芹奈の頬を打った。
彼女は悲鳴を上げて倒れ込み、顔を覆って泣き出す。
そこへ、どこからともなく彰仁が現れ、芹奈を抱き起こす。
私を見据える目は、まるで人を喰らう鬼のように鋭かった。
「彰仁さん……このブレスレットは確かに私が落札したもの。ただ、うっかり落としてしまって……どうして沙雪が私を叩くのか分からない」
彰仁は芹奈をそっと落ち着かせると、勢いよく立ち上がった。
「白川沙雪(しらかわ さゆき)!所詮ただの物じゃないか!お前は一体何を学んできたんだ?母親から、人としての礼儀さえ教わらなかったのか!」
涙が止まらなかった。
靖徳は外には「母は療養で海外にいる」と言いふらしていた。
誰も知らない。母が難産で命を落としたことを。
生まれたときから母の顔を知らず、父は芹奈母娘に心血を注いできた。
誰も、私に生き方を教えてはくれなかった。
私は背を向け、涙を拭い、散らばった破片を拾おうと手を伸ばす。
その手の甲を、芹奈がわざとらしく踏みつけた。
鋭い破片が指を貫き、真紅の血が緑の翡翠を染めた。
私は思わず手を振り上げたが、彼女はすぐに頭を抱えて隅に逃げ込み、怯えた芝居を打つ。
「白川沙雪!もうやめなさい!」
赤く充血した目で振り返った彰仁は、芹奈を抱き上げ、その姿は無情にも視界から遠ざかっていった。
第6話
私は痛みに耐えながら、割れた欠片を一つ残らず拾い集めた。
けれど手から流れる血は止まらず、ますます増えていく。
必死に立ち上がり、車で病院へ行こうとしたが、車はすでに彰仁に乗って行かれていた。
残り1%だった携帯も電源が落ちてしまい、それが私の心を押し潰す最後の一撃となった。
積み上がった破片を見つめたまま、声をあげて泣いてしまう。
「ごめんなさい、お母さん。あなたが最後に遺してくれたものさえ、私は守れなかった……」
朦朧とした意識のまま家へ向かって歩いた。
指先から滴る血が道に落ち、その一滴一滴が心臓を槌で打つように響いた。
扉を押し開けると、そこに立っていたのは少し罪悪感を帯びた表情の彰仁だった。
「すまない、沙雪……あのとき俺は取り乱していて……」
彼の横をすれ違いざま、乾いた唇を開くと裂けるように痛んだ。
「御影彰仁、私たち……別れましょう。
私は嫁ぐの。もう、終わりにするときだわ」
あまりにも小さな声。まるで幻聴のように彼には聞こえたかもしれない。
だが彼は一瞬の迷いもなく頷いた。私の予想どおり。
きっと彼は、私が嫁ぐ相手も結局は自分だと思っているのだろう。立場を変えて傍にいるだけだと。
階段を上ろうとしたとき、背後から呼び止められた。
「沙雪……あの家に嫁いでも、お前は決して幸せになれない」
「いいえ、幸せになれる」
私の確信めいた言葉に、彼は驚いたように目を見開いた。
「聞いたよ。御影家の跡取りは善良な人だって。たとえ愛がなくても、きっとお前を大事にして、残りの人生を共に過ごしてくれるだろう」
彼の声は静かにそう告げた。
私は応えず、部屋に戻って荷物をまとめ始めた。
母の写真と、砕け散った翡翠のブレスレット――それだけを持っていく。
白川家からは、母に属していた六割の株式を持ち出すだけだった。
荷物を整えたところで、江原尚紀(えはら なおき)から電話がかかってきた。
弾んだ声で「沙雪、本当に俺と結婚する決心をしたのか?」と訊かれる。
「ええ」
ただ一言。それだけで彼は抑えきれぬほど喜んでいた。
彼は興奮気味に次々と語り続けた。なぜだろう、私の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
電話を切ったとき、入口には彰仁が立っていた。
その瞳にはどこか不安の色が混じっている。
「誰からの電話だ?」
「御影執事、それは出過ぎた真似よ」
――初めて、私は彼をそう呼んだ。
牛乳の入ったグラスを握る指がぎゅっと強張った。
「俺は白川家の執事を辞める。お前の傍から去る」
私は静かに頷いた。それは意外でもなんでもなかった。
ただ彼の眼差しには、暗い翳りが差していた。
それから三日間、彰仁は姿を見せなかった。
私は知っている。彼がその間、芹奈と一緒にいたことを。
結婚までのカウントダウン。
三日前、私は彼に関するものをすべて燃やした。写真も、手紙も、炎に呑まれて消えていった。
二日前、母の墓を訪れ、一日中話しかけていた。
前日、私は一人で屋敷の前に停められたロールスロイスに乗り込んだ。
後ろに残る白川家の邸宅は、視界の中でどんどん小さくなり、やがて完全に消え去った。