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流れる時に沈む月
一ノ瀬明咲(いちのせ あき)と芦屋時也(あしや ときや)は、三度も結婚式を挙げたけど、そのたびに、みんなの笑い者になった。 一度目の式。...
Chương (1)
第1章
一ノ瀬明咲(いちのせ あき)と芦屋時也(あしや ときや)は、三度も結婚式を挙げたけど、そのたびに、みんなの笑い者になった。
一度目の式。誓いの言葉を交わしている途中で、朝比奈若菜(あさひな わかな)が鉄のハンマーを持って乱入してきた。
二度目の式。司会が「新郎新婦、ご入場です」と明るく宣言した直後、会場のスクリーン一面に、時也と若菜のツーショットが次々と映し出された。
三度目の式。バージンロードを歩き出す寸前、時也のスマホに若菜からビデオ通話が入る。
「時也、私ここから飛び降りる。これで借りをチャラにしてよ?」
時也は鼻で笑う。「飛びたいなら早くしろ。俺の結婚の邪魔をするな」
でもその直後、会場の誰かが叫ぶ。「若菜さんが本当に飛び込んだ!」
時也は「誓います」と言いかけたけれど、そのまま明咲を見つめて「どうあれ、一人の命だ。明咲、式は延期しよう」と静かに告げた。
それきり、彼は会場から消えた。
明咲は崩れ落ちた。「時也、もう延期なんてしなくていい……私、結婚やめる!」
第1話
一ノ瀬明咲(いちのせ あき)と芦屋時也(あしや ときや)は、三度も結婚式を挙げたけど、そのたびに、みんなの笑い者になった。
一度目の式。誓いの言葉を交わしている途中で、朝比奈若菜(あさひな わかな)が鉄のハンマーを持って乱入してきた。
血走った目で祭壇の花を叩き落とし、ガラスが割れる音と悲鳴。あっという間に、幸せの場は修羅場に変わった。
時也はすぐに警察を呼び、若菜はあっけなく連行された。
二度目の式。司会が「新郎新婦、ご入場です」と明るく宣言した直後、会場のスクリーン一面に、時也と若菜のツーショットが次々と映し出された。
どの写真も直視できないほど生々しい。明咲は、その場に立ち尽くすしかなかった。
時也は何も言わず、スタッフに目配せして電源を落とすと「明咲、俺が全部片付ける。待ってて」とだけ告げて会場を出ていった。彼女とゲストを置き去りにして。
後から聞いた噂では、時也は若菜を郊外の更生施設に突っ込んで「生き地獄を見せてやる」と言い放ったらしい。
三度目の式。バージンロードを歩き出す寸前、時也のスマホに若菜からビデオ通話が入る。
画面の向こうで、若菜は海を背に微笑んだ。「時也、私ここから飛び降りる。これで借りをチャラにしてよ?」
時也は鼻で笑う。「飛びたいなら早くしろ。俺の結婚の邪魔をするな」
でもその直後、会場の誰かが叫ぶ。「若菜さんが本当に飛び込んだ!」
SNSのトレンドには【#朝比奈若菜、海へ身を投げ捨てる】
時也は「誓います」と言いかけたけれど、そのまま明咲を見つめて「どうあれ、一人の命だ。明咲、式は延期しよう」と静かに告げた。
それきり、彼は会場から消えた。
明咲は崩れ落ちた。
まわりのざわめきと、好奇の視線が肌に刺さる。
「三度目だよ?やっぱり時也さんは若菜さんに未練があるんだろうね」
「明咲さんも運が悪い……」
父の一ノ瀬和正(いちのせ かずまさ)は慣れたようにゲストへ頭を下げ、母の由紀子(ゆきこ)は駆け寄ってきて明咲を抱きしめる。「明咲、もうやめよう?時也さんは、信用できない」
胸の奥が強く締めつけられて、息が詰まる。
悔しさがこみ上げてきて、スマホを握りしめた指が震える。今すぐ時也に電話したい。帰ってきてほしい。その思いだけが胸を満たす。私って、いったい何者なんだろう。あなたにとって私は、何なんだろう――
けれど、そのとき。画面の上にニュース速報の通知が表示され、指先が空中で止まった。
【朝比奈若菜、海に飛び込み、芦屋時也が救出。元恋人たちの因縁?】
手の震えがさらにひどくなる。無意識のまま通知をタップした瞬間、ニュース動画が自動で再生された。
ニュース動画には、ずぶ濡れの若菜を抱きしめる時也。その声は憎しみを隠しながら、でもどこかに情けが滲む。
「若菜、君はまだ償いが終わってない。死ぬなんて許さない」
若菜はそっと彼の顔に触れる。
「時也、私、こんなに恨まれているんだから、私が死んだら本当は嬉しいはずじゃないの?」
「……いや」
時也は力いっぱい若菜を抱きしめる。
「死んでほしくないのは、まだ愛してるからでしょ?」
その問いに、時也は何も返さなかった。
額を寄せて、静かに涙を流す。
明咲の心は、そこで音を立てて崩れた。
いまさら、全部わかった。時也が若菜を憎んだふりをしていたのは、結局「愛」があるから。
中途半端な愛と憎しみは、誰も救わない。
五年前の記憶がよみがえる。
あの頃、時也と若菜は「完璧なカップル」だった。明咲も、きっとふたりは一生一緒だと思っていた。
その頃の明咲と時也の接点は、たった一度だけ。
通学路で不良に絡まれていた明咲を、時也が助けてくれた日。
白いシャツの時也が逆光の中に立っていて、まるで月みたいに遠くて。でも、その瞬間、明咲は一目で恋に落ちた。
けど、自分は釣り合わないってわかっていた。だからその気持ちは、心の奥底にしまったまま。
その後、芦屋家には突然の不幸が降りかかった。両親は心労で自殺して亡くなり、時也はすべてを失った。
朝比奈家はすぐに縁談を白紙に戻し、若菜は家族の命令で他の家へ嫁いでいった。
傷心の時也は、若菜に詰め寄ったけど、逆に突き飛ばされ門前払い。
愛は憎しみに変わった。
明咲は、そんな時也の転落を見ていられなかった。昔の恩と秘めた想いから、両親に頼んで時也を助けた。
見返りなんて考えず、もう一度彼が立ち上がってくれればそれでよかった。
やがて時也は、五年かけて芦屋家を再興し、再び一族の頂点へ返り咲いた。
そして彼が最初にしたのは――明咲へのプロポーズ。
その求婚は華やかで、ネットでも配信されたほど。
白いバラを手にした時也は、カメラ越しでも伝わるほどまっすぐに言った。
「明咲、どんなときもそばにいてくれてありがとう。これからは俺が、君を幸せにする。結婚してほしい」
明咲は泣きながら何度もうなずいた。
そして時也は、二つ目の復讐に手を染めた。朝比奈家を破滅させ、若菜の夫の家も容赦なく潰した。
やり方は徹底していて、若菜を何もかも失わせた。
「今でも若菜さんのこと、好きなの?」
明咲が問い詰めると、時也は手を握り返して答えた。「もう彼女には何も感じていない。あの日見捨てられた瞬間、すべて終わった」
その言葉を明咲は信じてしまった。
唇を震わせて笑おうとしたけど、涙の方が早く溢れた。
「……お母さん、私、やめる」
母は驚き、でもすぐに明咲を抱きしめる。「うん、やめよう。絶対もっといい人がいるよ。自分を大事にしよう」
母の腕の中で、明咲は昔言われた言葉を思い出していた。
「時也と若菜は、どうやったって離れられない。そんな相手を選んだら、傷つくだけだよ」
その言葉が、現実になっただけ。
明咲は連絡先リストから、ある番号を選び、通話ボタンを押す。
「……ねえ、前に言ってた、私をお嫁さんにするって話……まだ有効?」
第2話
電話の向こうの声は、一瞬の迷いもなかった。
「もちろん。今、海外にいるんだ。二週間だけ時間をくれ。仕事を片付けたら、すぐに帰国して明咲を迎えに行く」
男の声には揺るぎのない真剣さがにじむ。「明咲、待ってて」
電話を切ると、目の前には母の由紀子の心配そうな顔。
「明咲、頼むから、やけになって変な人にすがったりしないでね」
「大丈夫だよ、お母さん。ちゃんと考えてるから」
由紀子はしばらく黙って明咲を見つめていた。
小さいころから人一倍しっかりしていた娘だということを、よく分かっている。
やがて、ふっと息をついて明咲の手をそっと包む。「分かった。お母さんは明咲の味方だから。これからは、とにかく幸せになって。もう、我慢だけはしないでね」
母の言葉が、冷たくなった心にじんわりとしみていく。
明咲は思わず鼻の奥がつんとした。私は、ずっと一人じゃなかったんだ――
両親と一緒に結婚式の後片付けを終えたころには、すっかり夜も更けていた。
母が「今夜は家に泊まれば?」と勧めてくれたけれど、明咲は断って、ひとりで時也との新居へ戻る。
婚約破棄を決めた以上、ちゃんと本人に会って、きっぱり話をしなきゃ。すべて片付けてから、その部屋を去るつもりだった。
玄関のドアを開けると、リビングの灯りがついている。数歩入ったところで、明咲の足が止まった。
キッチンの入口に、エプロン姿の若菜が立っている。ちょうどできたての肉じゃがをお盆に載せていた。
若菜の顔色はまだ青白い。なのに、その目には、どこか芝居じみた従順さが浮かんでいる。
「お帰りなさい、明咲さん。ご飯できてますよ。時也さんが、今日は一日中大変だったでしょうって。あなたの好きなメニューを頼まれました」
若菜は料理をテーブルの中央に置く。その手つきも、すっかりこの家の女主人のようだった。
言いたいことが喉につかえて、明咲は一言も発せなかった。
まさか時也が、若菜をこの家に連れてくるなんて。こんな皮肉、想像もしなかった。
明咲の顔色の変化に気づいたのか、時也がソファから立ち上がる。
そして、振り返るなり若菜に向かって怒鳴る。「何を突っ立ってる。明咲が帰ってきただろ。家政婦なら家政婦らしく、出しゃばるな」
若菜は顔をこわばらせ、何か言いかけたけど、黙ってキッチンに引っ込んだ。
明咲の目線は、テーブルの端に置かれた時也の手元に落ちる。
握りしめては離し、何度も繰り返している。見せかけの冷静さの下で、焦りと動揺があらわだった。
明咲は俯いて、静かに尋ねる。「彼女、どうしてここにいるの?」
「……償いたいって言ってきたんだ」
時也はそっと近づいて、明咲の手を取ろうとする。でも、明咲はその手をそっとかわす。
「今は住む家もないみたいだし、家政婦として置いてるだけだ。まあ、せめてもの罪滅ぼしだと思えば……」
そう言って、明咲を無理やり椅子に座らせる。それから、箸で肉じゃがをひときれ取り、彼女の茶碗に入れた。
「味はまあまあだぞ。食べてみて。
何か欲しいものがあれば、遠慮なく言え。もともと全部、あいつが背負うべきなんだから」
最後のひと言は、やけに強い口調だったけど、明咲にはもう響かない。
昔は、時也のこういう優しさが心地よかった。笑顔も穏やかさも、全部本物だと思っていた。
でも、それは違った。
本当はずっと仮面だったんだ。時也の本音や熱は、いつも若菜にしか向いていない。
そこまで気にしていないなら、どうして今になって、こうやって動揺を見せるのか。
茶碗の肉じゃがは美味しそうなのに、全然食欲が湧かない。
箸を置こうとした瞬間、時也が口を開く。
「式のことは心配いらない。全部やり直す。今度こそ、絶対に誰にも邪魔はさせない」
そのまっすぐな目と声は、前に何度も邪魔された時とそっくりだった。
でも、もう心は揺れなかった。
そんな言葉、今まで何度も聞いてきた。もう信じられない。
明咲はゆっくりと息を吸い、はっきりと時也を見つめる。
「時也」
その呼びかけだけで、時也の顔色が変わる。
きっとこの後の言葉が、一番聞きたくないものだと分かっているから。
リビングには、キッチンの水の音だけ。二人の間に重たい沈黙が落ちる。
「私たちの婚約、もう……」
その時、パリーンという鋭い音が、キッチンから響く。
時也は反射的にそちらを向き、何も言わずに「ちょっと見てくる」とだけ残し、急いで台所に駆けていった。
ぽつんと取り残されて、明咲は呆然と時也の背中を見つめる。
「もういいや」
冷めきった肉じゃがを見下ろす。目頭が熱くなるけど、涙は出てこなかった。
「時也、もう好きでいるのはやめる。
あなたのこと……若菜さんに返すよ」
第3話
明咲が部屋に戻ろうと立ち上がったとき、台所から聞こえた物音に足が止まった。
若菜が床にしゃがみ込んで、割れた陶器の破片を一つひとつ丁寧に拾い集めていた。
その前には時也が腕組みをして立っていて、見下ろすような目で嘲りの笑みを浮かべている。
「若菜、どうしてこんなこともまともにできないんだ?
俺を蹴って金持ちに鞍替えしたときは、なんでもできるって顔してたくせに。俺の前じゃ何もできないのか?」
若菜の指が一瞬止まったが、何も言い返さず、また破片を掌に集めていく。
そのとき、チッという小さな音がした。破片で指先を切ったのだ。真っ赤な血が、白い手にじわりと広がる。
その瞬間、時也の顔から嘲笑が消え、目の奥がぎゅっとすぼまった。動揺を隠せない表情に変わるのが、明咲にもよく分かった。
彼は思わず一歩踏み出し、若菜の手を掴もうとしたが、途中でピタリと動きを止めてしまう。代わりに手を強く握りしめて、何もできずにいる。
若菜が顔を上げると、目尻には涙が浮かんでいた。傷ついた手を抱えたまま、何も言わない。
数秒だけ、時也はその様子をじっと見ていたが、とうとう我慢できなくなって、若菜を立ち上がらせた。
「自分の世話もできないで、ここにいる意味なんてないだろ」
ぶつぶつ文句を言いながらも、ポケットから絆創膏を取り出して、そっと彼女の指に貼る。その手つきは、驚くほど優しかった。
二人の距離はすぐ近い。呼吸が混じるほど。
若菜が鼻をすすりながら、柔らかく言う。「時也、本当に……そんなに私のこと、憎いの?」
声が震えていた。「もう一度、私を好きになってくれることは、ないの?」
時也の体がびくりと固まる。
明咲の目にも、彼の心の揺れがはっきりと見て取れた。
胸の奥が、きつく握りつぶされたみたいに痛い。
彼らがかつて愛し合い、そして激しく憎みあったことを、明咲は誰よりも知っている。人を心から切り離すことが、どれほど難しいかも知っている。
だから、あのとき手を差し伸べたとき、見返りなんて考えなかった。愛していると言ったのも、家に迎え入れてくれたのも、時也の方だった。でも、本当にこの家で暮らしてみて気づいた。彼の心の一番奥、決して誰にも触れさせないその場所には、ずっと若菜が住んでいる。絶対に踏み込めない、禁じられた部屋。
もうこれ以上は見ていられなかった。明咲は静かに背を向け、そのまま逃げるように部屋を後にした。
翌朝早く、明咲はすぐに引越し業者を手配した。
一刻も早く、ここから出ていきたかった。時也とのつながりも、全部断ち切りたかった。
荷物をまとめて、最後の箱を抱えて階段に向かう。ちょうどそのとき、熱々のスープを持った若菜と鉢合わせた。
二人の間に沈黙が落ちる。
やがて、若菜が先に口を開いた。どこか挑発的な声。「明咲さん、昨日の夜、台所の前にいたでしょ。全部見てたんでしょ?」
明咲は息をのんだ。
昨夜の自分の足取りは、若菜にすべて気づかれていたのだ。
「だったら、もう遠回しなことはやめる」
若菜はスープの椀をテーブルに置き、腕を組む。「時也がどんなに私を憎んでるふりをしてても、結局、心の中では私を忘れたことなんて一度もない。
十数年の絆は、あなたの数年じゃ埋まらないよ。どうせ許されるのは時間の問題。明咲さん、見苦しい真似はやめて、早く諦めたほうがいいよ」
箱を持つ手に、力が入る。
もう相手にしたくない。明咲は無視して通り抜けようとした。けれど、若菜がいきなり腕を掴む。
その瞬間、まだ湯気の立つスープが、明咲めがけて勢いよくぶちまけられた。
同時に、若菜自身も大げさに後ろへ倒れる。
「若菜!」
時也の声が背後から響き、次の瞬間、明咲を突き飛ばしてまで、倒れた若菜に駆け寄る。そのスピードに、明咲はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
後ろへよろめいた拍子に、こめかみを階段の角で強く打った。
鋭い痛みが襲い、視界が真っ暗になる。すぐに、熱い血が額をつたい流れていくのがわかった。
若菜は時也の腕の中で唇をかみしめ、怯えた声で言う。
「私、ただ……明咲さんに、スープを飲んでほしかっただけなのに……嫌われただけじゃなくて、押し倒されて……」
言いかけて、声を詰まらせる。誰がどう見ても、明咲が悪者にされてしまう状況。
そのときようやく、時也は明咲の存在に気づく。だが、次に出てきた言葉は冷たいものだった。
「若菜、君は家政婦だ!たとえ明咲に意地悪されたって、我慢するのが当然だろ」
頭が割れるように痛い。なのに、何の説明もさせてもらえず、「意地悪した犯人」に仕立て上げられる。
口を開こうとしたが、若菜が先に遮った。
「全部、私が悪いの。私が余計なことをしたから……ごめんなさい」
泣きながら、火傷した腕をわざと見せびらかす。
さらにふらふらと倒れこみ、そのまま意識を失ったふりをする。
時也はすっかり取り乱し、もう明咲の方を振り返りもしない。慌てて若菜を抱き上げ、叫ぶ。
「医者!早く、救急車呼んで!」
床に倒れたままの明咲は、最後まで彼に一度も見られなかった。
「時也……」
額から血が止まらず、どんどん視界がぼやけていく。遠ざかっていく時也と若菜の後ろ姿を、ただ呆然と見送るしかなかった。
力が抜けて、箱をそっと下ろす。胸の奥が、冷たくしびれたように痛む。
――この人の世界では、私はきっと「見てもらう」ことすら、許されていなかったんだ。
第4話
明咲は額を押さえながら、一人で病院に向かった。
傷は深くて、痛みに耐えながら十数針も縫うことになった。
ようやく救急処置を終えて廊下に出ると、時也が若菜を支えながら病室へ歩いていく姿が見えた。
若菜は青ざめた顔で、半分身体を時也に預けている。時也も眉をひそめながら、それでも彼女を払いのけようとしない。
思わず、明咲は柱の陰に身を隠した。二人が一緒に病室へ入っていくのを、じっと見送ってしまう。
どうしてここまで来てしまったのか、自分でも分からない。ただ、気がついたら病室の前に立っていた。ドアは半開きで、中の会話がはっきり聞こえてくる。
ベッドの上の若菜が、突然時也のシャツをぎゅっと掴んで、涙を溜めて訴える。
「ねえ、どうしてそんなに私に優しくしてくれるの?もしかして、まだ私のこと……好きなの?」
「そんなこと……」
時也が言いかけたところで、若菜が首を伸ばして彼にキスをした。
息が止まった。
明咲は廊下から、その一部始終を見てしまった。最初こそ、時也はわずかに抵抗していた。けれど、次の瞬間には彼の手が若菜の後頭部を包み、今度は自分から激しく応え返していた。
胃の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような吐き気。明咲は口を押えて、トイレに駆け込んだ。何度もえづいても、何も出てこない。ただ、生理的な涙だけが頬を伝う。
思い出すのは、過去二回の結婚式が台無しになったとき、時也が「若菜のことは自分がちゃんと片付ける」と何度も言っていたこと。でも、「片付ける」なんて全部嘘だったんだ。結局、二人の関係は何も終わってなかった。
苦笑が漏れる。
心の中を片付けていないのに、どうして他人を入れようとしたんだろう。こんな単純なこと、時也だって本当は分かっていたはずだ。
一方で自分と婚約しながら、若菜とはずっと断ち切れない。私はいったい、何だったの?
薬を受け取ると、もう一秒もここにいたくなくなった。
急いで時也との新居に戻り、荷物の箱をガムテープで閉じた。
少しでも早く、時也と離れた場所へ。
最後の箱を閉じ終えたとき、スマホが鳴った。親友からのメッセージだ。
【明咲、トレンド見た?】
胸がざわつきながら、SNSを開く。一番上には、こんなトピックが。
【#朝比奈若菜の裏切りに隠された真相】
タップすると、最初に流れてきたのは一本の動画。
画面の中で、若菜が朝比奈家の両親に土下座して泣きながら頼んでいる。「時也を助けてあげて……」両親は冷たく、「助けてやってもいいが、一ヶ月以内に他の人と結婚しなさい」と告げる。
コメント欄は大騒ぎだった。
【えっ、時也さんを救ったお金って、若菜さんが頭下げて用意したの?かわいそすぎ!】
【これが真実の愛でしょ。時也さん、絶対復縁すべき!】
【じゃあ明咲さんは何?結局、隙を突いただけの略奪女?若菜さんの手柄を横取りしたってわけ?】
【泥棒猫なんて消えろ!時也さんと若菜さん復縁して!】
……
体が無意識に震える。
あのときの救いの金は、本当は自分が貯めて送ったものなのに、時也本人だって、そのことを知っているのに……どうして、全部若菜の手柄みたいになっているの?
さらにスマホが鳴った。親友からだ。
【明咲、ネットが地獄。今は絶対外に出ないで!どこか安全なところに避難して。下手したら危ない人が来るかもしれない】
まだ返信もできないうちに、玄関のチャイムが鳴る。
業者かと思ってドアを開けかけた瞬間、外の誰かが強引にドアを押し開けてきた。足元がもつれて後ろへよろめく。
次の瞬間、女の人が顔を平手で叩いてきた。顔半分が焼けるように熱くて、思考が真っ白になる。
「泥棒猫!時也さんと若菜さんの邪魔しないで!」
髪をぐいっと引っ張られ、女の怒声が耳元で響く。「若菜さんの功績を騙し取った罰よ。あんたなんか、今すぐ裸にして、みんなの前で恥かかせてやる!」
他にも何人かが押し寄せてきて、服を引き剥がそうとする。
この人たちは、ネットの憎悪を真に受けて集まってきたんだ。
必死に抵抗しながら、声を張り上げる。「私は泥棒猫なんかじゃない!時也と若菜さんが別れてから付き合った。プロポーズも、全部あっちからだった。あのお金も、私が出したの!」
誰も聞く耳を持たない。腕が痛いほど引っ張られる。
明咲は手を震わせながらスマホを取り出し、時也に電話をかけた。
すぐに通話がつながり、スピーカーモードで叫ぶ。「時也、はっきり言って!あの時のお金、誰が出したのか」
数秒の沈黙。やがて聞こえてきたのは、時也の罪悪感だけに満ちた声。でも、その言葉は明咲に向けられたものじゃなかった。
「明咲、俺、さっき若菜がどれだけ俺のためにしてくれたか、やっと知ったんだ。ずっと誤解してて、長い間恨んできた。全部、俺が悪かった。
若菜に助けてもらった分は、返さなきゃいけない。
明咲、君なら分かってくれるよな?」
第5話
電話からツー、ツーと無機質な音が響いた。時也は、明咲の返事を待つ気もなく、そのまま通話を切った。
その瞬間、誰かの手が勢いよく振り下ろされてきた。パシンという音とともに、スマホが床に転がった。
女が顔をぐっと近づけてきて、吐き捨てるように言った。「聞こえた?このクズ!若菜さんの手柄を横取りしようなんて思うなよ。時也さんは最初から、あんたの味方じゃないんだから!」
明咲の髪を乱暴に掴み、玄関の方へ引きずっていく。頭皮が焼けるように痛い。
他の女たちも群がってきて、手を伸ばし、むき出しの腕を強くつねる。
涙がこぼれるのを止められなかった。こんな連中に、何を言っても通じない。明咲は、ただ必死に暴れるしかなかった。
指先が壁の「緊急通報ボタン」に触れる。思いきり力を込めて押した。
「通報する気!?」
誰かが叫んで、腕を思い切り押さえつけてくる。さらに別の手が服を剥ごうとした。
心が真っ暗になる。もうダメかもしれない。そのとき、外から怒鳴り声が響いた。
「そこで何してる!?」
警備員が駆けつけてきた。
明咲は、藁にもすがる思いで叫ぶ。「助けて!この人たち、無断で家に押し入って、私を殴ったんです!」
警備員たちはすぐに間に入って、女たちを取り押さえた。
明咲はその場に崩れ落ちた。髪はボサボサ、頬には赤い手形、腕や肩は青あざだらけ。惨めな姿で地面に座り込んだまま、まだ誰かが怒鳴っていた。
「時也さんと若菜さんを引き裂いた罰よ!絶対に許さないから!」
明咲は髪を押さえて、冷ややかに笑う。「許されるかどうかは知らないけど、あんたたちの不法侵入と傷害、これで捕まるのはあんたたちの方よ」
そのまま通報し、警察が到着して女たちを連行していった。明咲も事情聴取と被害届のため警察署へ。弁護士を呼んで、「絶対に許さない」と強く伝えた。
警察署を出るころには、外はすっかり夜だった。
通りを歩けば、道行く人たちがこちらを指差し、ひそひそと噂する声が聞こえる。「……略奪女……」、「泥棒猫……」誰かが小さくそう呟くのも聞こえた。
胸が焼けるような思いで、予備のスマホを取り出し、SNSのトレンドをチェックする。
昼間の【#朝比奈若菜の裏切りに隠された真相】はまだランキング一位。そこへ新たに、こんなトピックが追加されていた。
【#一ノ瀬家のお嬢様、略奪愛で炎上】
胸の奥がごうごうと燃えるように熱くなった。もう我慢の限界だった。明咲は、再び時也に電話をかける。何度コールしても出ない。
スマホをぎゅっと握りしめ、タクシーを拾って病院へと向かう。
病室のドアを開けると、時也はベッドの脇で、若菜にお粥を食べさせていた。
ガシャン!
明咲はその手元の器を叩き落とし、真っ赤な目で叫ぶ。
「時也!ネットのデマ、今すぐ全部訂正して!」
時也は驚き、まず若菜を気遣うように見下ろし、それから明咲を廊下へ連れ出した。
「もうやめてくれよ。今さら何をどう訂正しろっていうんだ。
若菜がようやく同情してもらえたのに、ここで訂正したら、また叩かれるだけだぞ?
若菜を守るためなんだ。あのとき、俺は彼女を誤解していた。これまでずっと酷いことをしてきた。もうこれ以上、傷つけたくないんだ」
心臓を刃物で突き刺されたような衝撃。立っているのがやっとだった。
それでも、明咲は笑った。目に涙がにじむ。「じゃあ私は?家に押しかけられて暴力を受け、全ネットから略奪女呼ばわりされて、それでもあなたは彼女を守るっていうの?」
時也は唇を噛んだ。「明咲、君は違うだろ。家族もいるし、支えてくれる人もいる。でも、若菜は今や俺しかいないんだ」
爪が掌に食い込むほど、強く握りしめる。
――そうか。家族がいるからって、全部耐えろってこと?
もう涙も乾いた。「時也、私はもう十分チャンスをあげたから」
スマホを取り出し、証拠をまとめて発信する。彼の目をまっすぐ見つめながら。
「あなたがやらないなら、私がやる!」
そう言い残し、ヒールで床を鳴らして去っていった。
時也はハッとしたように追いかけようとしたが、もう遅かった。
その直後、SNSには【#一ノ瀬明咲の真実の声明】がトップに躍り出た。
声明文には、過去に明咲が時也に送金した際の振込記録の画像と、時系列の説明が添えられていた。
時也と若菜が別れたあと、明咲が援助したこと、プロポーズされたこと、すべてが証拠として並んでいる。
世論は一瞬でひっくり返った。
今度は、全ネットが一斉に若菜を責め始めた。
第6話
もう、時也とこれ以上揉める気もなかったし、若菜とべったりの二人を見るのもごめんだった。
明咲は時也との新居に戻ると、すぐに引越し業者を呼び、持ち物をすべて運び出してもらった。
服も、本も、時間をかけて選んだインテリアも、冷蔵庫の中の食材さえ一つ残らず。
部屋ががらんどうになり、自分の痕跡が何一つなくなったのを確かめてから、玄関の棚に鍵を置いて、そのまま振り返ることなく出ていった。
その後の数日、ネットは完全にカオスだった。
前まで若菜の可哀想アピールに騙されていた人たちは、一転して彼女を叩きまくり、「嘘つき」、「売名」、「炎上商法」などの言葉が飛び交った。
でも、時也は若菜のことを必死に隠していた。住所はもちろん、最近の写真すら一枚も出回らない。どんなにネットで叩かれても、若菜自身には一切届かない。
明咲はニュースを見ながら、どこか冷めた目で嘲りの笑みを浮かべた。
時也の「愛」って、これだけ分かりやすかったんだ。
若菜のことは、誰にも触れさせないように守ってる。
自分のことは?家に押しかけられて殴られても、見て見ぬふり。
それなのに、若菜は毎日のようにSNSを更新していた。まるで、明咲に見せつけるかのように。
【彼のおかげで手に入れた宝物】ジュエリーがずらりと並ぶテーブルの写真。
【食べたいって言ったら、十キロ以上先まで買いに行ってくれた】シュークリームがきれいに並んだ写真。
【暗闇が怖くても、彼がいてくれれば大丈夫】病室のベッド脇で眠る時也の優しい横顔。
明咲は、わざと自分を痛めつけるみたいに、その投稿を一つ一つスクロールした。
昔、時也と一緒にいても、彼が「何が好き?」と聞いてくれることなんてなかった。スーパーに買い物に付き合ってくれたことも、誕生日や記念日を大切にしてくれたことも、思い出せない。
当時は、家族を失った人間に、そんな余裕はないんだと自分を慰めてきた。
でも今なら分かる。「愛せない」のではなく、「自分を愛せない」だけだった。
スマホの通知が鳴った。若菜からのメッセージだった。
【時也が全部考えてくれてるから、もう安心していいって。明咲さん、ごめんね】
一瞬で心臓が凍りつく。メッセージの意味を飲み込めないうちに、親友からリンクが届いた。
【芦屋時也と朝比奈若菜、復縁の噂!一ノ瀬家のお嬢様は恩をタテに結婚?】
記事はあいまいな書き方で、時也と若菜は「やり直している」、「明咲は元々、恩をきっかけに婚約を勝ち取った」などと匂わせている。
読み進めるほど、明咲が「略奪女」、「計算高い女」として悪意を背負わされていくのが分かった。
こめかみがずきずきと痛む。スマホを持つ手が震え、今にも落としそうになる。
最後の望みにすがるように、時也に電話をかける。一言一言、しっかりと問い詰めた。
「時也、ネットの噂、あなたが流したの?いったい、どういうつもりなの?」
しばらく沈黙が続いた。やっと聞こえてきたのは、静かな声。
「若菜には『略奪女』なんてレッテルを貼らせたくないんだ。
明咲、もうちょっとだけ我慢してくれ。今、また式の準備をしてる。ちゃんと結婚すれば、みんな正妻は明咲だって分かるようになる。だから今だけは……申し訳ないけど、耐えてくれ」
電話を切ったあと、体中の血がすっと冷えた。
若菜には一言でも悪口を言わせたくないから、私が全ての罵倒を引き受けろって?
スマホを強く握りしめて、声が震えた。「もういいよ、時也。結婚式なんて、もういらない。
そんなに若菜さんを手放せないなら、婚約は解消する。あなたのこと、彼女に返すから」
第7話
「明咲、何言ってるんだ!」
時也の声が突然大きくなった。焦りと怒りが混じった口調で、彼女の言葉を遮る。「若菜とはもう終わったんだ。俺がこの先、結婚したいのは明咲、君だけだ!」
その声には、明咲を説得しようとしているというより、自分に言い聞かせているような必死さが滲んでいる。
「今、ちょっとすねてるだけだろ?今回は大目に見る。ネットのこともすぐ静かになるから、心配するな。結婚式ももうすぐだ」
話が終わらないうちに、電話は唐突に切れた。無機質なツー、ツーという音が耳に残り、「私は冗談じゃない」という言葉は結局伝えられなかった。
画面を見つめながら、頭の中は真っ白だった。
時也は明らかに今でも若菜を忘れられないはずなのに、誤解が解けた今も、なぜここまで結婚にこだわるのか。
自分はただ、感謝のための代役か、あるいは世間を黙らせるための「見せかけの婚約者」なのか――
ふうっと息を吐き、もうこれ以上悩むのはやめた。
婚約を解消する気持ちは、もう変わらない。本当にその時が来れば、時也にも「私は本気だった」と分かるはずだ。
その後も、ネットの炎上は次々と形を変えながら続いた。
時也の裏からの誘導もあって、明咲がどれだけ証拠を出しても「恩をタテに結婚を勝ち取った女」として、すぐ悪意ある話題にすり替えられていく。
スタッフと頭を抱えてネット対策を相談していたその日の夕方、ふとスマホを見た明咲は目を疑った。
これまで自分を叩いていた書き込みやトレンドが、一夜にして跡形もなく消えていたのだ。
呆然としたまま画面を見つめる。
――時也が手を回して助けてくれたわけじゃない。それなら、一体誰が?
考えても分からず、明咲は仕事を切り上げて帰ろうとした。
会社のビルを出たところで、冷たい空気をまとった時也が突然現れ、いきなり手首を掴んで、無理やり車へ連れて行かれた。
「何するの!」
思わず振り払おうとするが、時也の手は鉄のように固い。
「行くぞ、若菜と交換だ」
「……は?何の話?ちゃんと説明して!」
助手席に押し込まれ、ドアをバタンと閉められる。
時也は怒りをあらわにした目で明咲をにらみつけた。
「若菜から助けを求める連絡があった。君がビジネスのために、彼女を蒼木不動産の社長に差し出したってな!
明咲、君も蒼木(あおき)社長がどんな人間か知ってるはずだろ。あいつに関わった女がまともに戻ってきた例はない。どうして若菜をそんな危ない目に遭わせた?」
頭が真っ白になる。一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
「何言ってるの?私はたしかに蒼木グループとの話を進めてたけど、あの男が最低だと知った瞬間に手を引いた。
そもそも、若菜さんは自分の意志で動いてる大人だよ。私が無理やりどうにかできるわけないでしょ!
それでも全部私のせいにするつもり?」
ドアに手をかけて車を降りようとしたが、時也が再び手を押さえた。
「運転して、青波ホテルまで」
運転手に冷たく命じる。
「若菜の家はもう破産してるんだぞ。どうしてそんな仕打ちを?」
時也は全く耳を貸さない。「この商談はもともと君が始めたことだろ。責任は自分で取れ。
蒼木社長も、君が直接来ればそれで手を引くって言ってた。若菜を返してもらえる」
明咲の体が、凍りつく。
蒼木社長がどんな男か、業界では有名だ。どれだけ多くの女性が、彼のせいで壊されてきたか知っている。
若菜が何をやらかしたのか分からないけれど、少なくとも自分には一切関係がない。それなのに――
「彼女を守るためなら、私を犠牲にしてもいいの?」
時也は鼻で笑う。「君はビジネスパートナーだ。利益さえ渡せば、あいつは手を出さないよ」
「私と蒼木不動産は何の取引もない……」
言いかけた瞬間、車がホテルに到着した。
黒服の男たちが車を囲み、ドアを開けるなり、明咲の腕を強引に掴んでホテルの中へ引きずっていく。
「やめて!放して!」
必死にもがいても、誰も相手にしない。
時也は無表情のまま、後ろからついてくる。
大きなスイートルームの前でようやく止まると、時也は軽くノックした。「蒼木社長、明咲が来ました。本人が話をつけると言っています。若菜はもう返してやってください」
ドアが少しだけ開き、ボサボサの髪と涙で顔を濡らした若菜が現れる。
彼女は明咲に目もくれず、まっすぐ時也の胸に飛び込んだ。
次の瞬間、明咲の背中を誰かが押し、勢いよく部屋の中へ突き飛ばされた。
ガチャリと重たい音を立てて、ドアは固く閉ざされた。
第8話
蒼木不動産の社長は、脂ぎった顔をソファに沈めて座っていた。その脇には、黒服の屈強なボディーガードが二人、無言で控えている。
明咲が無理やり部屋に押し込まれると、社長はにやりと笑い、ボディーガードたちに合図を送った。「動くなよ、しっかり押さえろ。お嬢さんに逃げられちゃ困るからな」
両腕をがっちり掴まれ、明咲は床に無理やり膝をつかされた。
蒼木社長はゆっくり立ち上がり、すぐそばの棚から鞭を取り出す。その先端が、からかうように明咲の肩をなぞった。
「一ノ瀬さん、芦屋社長が君をよこしてくれたんだ。せいぜい楽しく遊ぼうってさ。調子に乗らない方がいいぞ。脱がせろ!」
突然怒鳴り、鞭で床を激しく叩いた。
心臓が止まりそうになる。明咲は睨み返し、声を振り絞る。「私が誰だか分かってるの?一ノ瀬家が黙ってると思うの!?」
たとえ蒼木不動産と一ノ瀬家が互角の力を持っていても、本気で揉め事になれば、蒼木側が無事で済むとは限らない。そんなことは百も承知だ。
だが、蒼木社長は余裕の笑みを浮かべて、身をかがめ、明咲の耳元でささやいた。「一ノ瀬さん、俺が君に手を出すのに、何も考えずに来ると思ったかい?
君の婚約者の芦屋社長が、全部許してくれてるよ。今夜どんなことをしても、彼は絶対に止めない。ましてや、一ノ瀬家にバレることもない」
社長はゆっくり身を起こし、明咲の頬を軽く叩いた。
「芦屋社長の力があれば、君の家族にこれくらい隠すのは簡単なことさ」
明咲の顔から血の気が引いていく。
――時也が、ここまで冷酷になれるなんて。
胸の奥を鋭い刃で貫かれたような痛み。息ができない。
「もう婚約は解消した。彼には何の権利もない!」
最後の意地で叫ぶ。
だが蒼木社長は鼻で笑い、手を振って指示を飛ばす。「脱がせろ。無駄口は聞くな!」
ボディーガードたちがすぐに駆け寄り、服の襟を力いっぱい引き裂く。生地が裂ける音が響いた。
明咲は必死に叫び、両手で服を押さえる。
死んでも、絶対にこの人たちの好きにはさせない!
激しく抵抗したせいか、しばらくの間、ボディーガードたちもなかなか思い通りにできなかった。
見かねた蒼木社長が苛立ち、ボディーガードを突き飛ばして自ら鞭を振り上げる。「調子に乗るな!」
バシン!
鞭が風を切り、明咲の服の上から容赦なく叩きつけられた。その瞬間、布越しでも分かるほど鮮やかな赤い痕が、背中に走った。
痛みで全身が震え、冷たい汗が背中を濡らす。
息を整える間もなく、次の一撃、さらにもう一発。背中はすぐに血まみれになった。
意識が遠のく中、明咲は舌を噛みしめて、なんとか正気を保とうとした。もう顔も上げられない。
やがて社長が息を切らし、鞭を床に放り投げる。
「ベッドに運べ!」
ボディーガードたちは明咲を抱え上げ、そのまま大きなベッドに投げ出す。
蒼木社長がゆっくりと近づき、ベッドに上がり込んだ。ずしりと重い体が覆いかぶさり、脂っぽい肌が触れた瞬間、鳥肌が立つ。胃がひっくり返るほどの嫌悪感。
「やめて!触らないで!」
どこにこんな力が残っていたのか、明咲は両手で必死に社長の胸を突き飛ばした。
だが、傷だらけで力が入らず、すぐに手首を押さえつけられる。もう片方の手で服を引き裂かれ――
服が次々と破かれていくのを、涙が止められずに見つめていた。
全部間違いだった。あの時、時也を助けたことも、彼の言葉を信じたことも、全部、全部。
もしあの時、時也なんかと出会わなければ、きっと、こんな目には遭わなかったのに。
でも、人生に「もしも」はない。
すべてを諦めかけたその瞬間、ドンという大きな音とともに、部屋のドアが激しく蹴り破られた。
蒼木社長は驚いて振り返る間もなく、部屋に飛び込んできた男に床へ叩きつけられた。
明咲の体に、温かなジャケットがそっとかけられる。
「明咲、迎えに来た」
その声は聞き慣れた、優しくて力強い声だった。
「律……?」
「そうだよ。約束通り、君を迎えに来た。遅くなってごめん」
篠原律(しのはら りつ)はベッドのそばにしゃがみ込み、そっと明咲を抱き上げた。
彼女の背中の傷を見て、律の目が氷のように冷たくなった。
その直後、黒服のボディーガードたちが雪崩れ込んできて、蒼木社長と手下を瞬く間に取り押さえた。
蒼木社長は床に這いつくばったまま、顔を上げて律の顔を見た瞬間、真っ青になった。
まさか、明咲が律と知り合いだなんて、想像すらしなかった。
律の力と影響力は、一ノ瀬家なんか足元にも及ばない。蒼木不動産がいくつ束になっても、この男の敵にはなれない。
どうしてあんな噂に乗せられて、こんな無謀なことをしてしまったのか。一瞬の欲に負けて、律を怒らせるなんて、死んでも悔やみきれない。
明咲は律のジャケットの裾を必死で掴み、嗚咽混じりに言う。
「律、お願い、連れてって……」
「大丈夫、俺がついてる。もう何も怖くない」
律は優しく背中をなでながら、静かに約束する。「君を傷つけたやつは、誰一人として許さない」
律の腕の中で、明咲の意識は少しずつ遠ざかっていった。それでも、最後の力を振り絞って、彼の服をぎゅっと掴む。
「違う……これは……自分で、終わらせる」
時也、若菜、そして蒼木社長……
この決着は、必ず自分の手でつける。