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消えた約束、戻らぬ日々
月島綾子(つきしま あやこ)は神宮寺柊(じんぐうじ しゅう)が裏の世界から奪い取った女だ。だが彼女は気性が強く、彼に妻と息子がいると知る...
Chương (1)
第1章
月島綾子(つきしま あやこ)は神宮寺柊(じんぐうじ しゅう)が裏の世界から奪い取った女だ。だが彼女は気性が強く、彼に妻と息子がいると知ると、無理やり屋敷に留められても、執事としてしか仕えることを許さなかった。
やがて神宮寺家のさまざまな事務はすべて彼女の手に委ねられ、彼女は百条もの新しいルールを定めた。
神宮寺家の正妻である雨宮七海(あめみや ななみ)でさえ、そのルールの前では反抗できない。
そんなある夜、息子が高熱を出し、七海はやむなく息子を抱いて屋敷の門へ駆け出した。だが綾子が数人のボディーガードを連れて立ち塞がる。
「奥様、門限を過ぎています」綾子が腕時計をちらりと見て、微動だにしない声で言った。「外出はお控えください」
第1話
月島綾子(つきしま あやこ)は神宮寺柊(じんぐうじ しゅう)が裏の世界から奪い取った女だ。だが彼女は気性が強く、彼に妻と息子がいると知ると、無理やり屋敷に留められても、執事としてしか仕えることを許さなかった。
やがて神宮寺家のさまざまな事務はすべて彼女の手に委ねられ、彼女は百条もの新しいルールを定めた。
神宮寺家の正妻である雨宮七海(あめみや ななみ)でさえ、そのルールの前では反抗できない。
そんなある夜、息子が高熱を出し、七海はやむなく息子を抱いて屋敷の門へ駆け出した。だが綾子が数人のボディーガードを連れて立ち塞がる。
「奥様、門限を過ぎています」綾子が腕時計をちらりと見て、微動だにしない声で言った。「外出はお控えください」
「今は非常事態なの!息子が高熱なのよ、どきなさい!」七海は歯を食いしばるように叫ぶ。だがボディーガードたちは一歩も動かない。
「明朝六時になれば、予定通り開門いたします」綾子の声は礼儀正しい。
「何だって?」七海は信じられない思いで彼女を見つめる。
腕の中の子は頬が真っ赤に染まり、呼吸も荒い。七海の声は震えた。「明日までなんて待てないのよ!お願い、一度だけ……」
「神宮寺家のルールは破れません」綾子の表情には一片の感情もない。
「ルールより人の命のほうが軽いの?」七海がついに堪えきれず、最も近くにいたボディーガードを蹴り飛ばす。
だが彼はよろめきながらも一歩も引かない。
綾子が小さく息を吐き、片手を上げると、黒服のボディーガードたちが一斉に取り囲んだ。
「申し訳ありません、奥様」
子を無理やり奪われた瞬間、七海の体は震え、喉が詰まって声にならない。
そのとき、背後から低く冷たい声が響いた。「これはどういうことだ?」
七海は救いを見たように、縛られていた手を振りほどき、声の主のもとへ駆け寄る。「柊!息子が熱を出してるのに、外に出させてもらえないの。早く病院へ連れて行って!」
柊は彼女の頬を伝う涙を拭い、跪くボディーガードたちに目を向けた。
「神宮寺様、ご命令の通り、我々はすべて月島様の指示に……あっ!」
銃声が夜を裂いた。柊の瞳に宿る怒気は凍てつくほど鋭く、その声は氷のように冷たい。「息子にもし何かあったら、お前たち全員、地獄まで付き合え」
彼が息子を抱き上げようとしたその瞬間、綾子が一歩前に出て、彼の前に立つ。
「神宮寺様。神宮寺家のことはすべて私に任せると、あなたが仰ったはずです」
七海の呼吸が止まり、柊の手がぴたりと止まった。
「規律がなければ物事はうまくいかない」綾子の声は穏やかだが、その一言一言が刃のように鋭い。
彼女はゆっくりと視線を落とし、冷ややかさが消え、代わりに失望が滲む。「もし私を信じられないのなら、帰らせてください」
柊の目が一瞬で変わり、息子を七海の腕に押し戻すと、勢いよく綾子に歩み寄り、その手首を掴んだ。「誰が帰っていいと言った?」
そして振り返り、冷然と命じた。「全員、下がれ」
七海はその場で凍りつき、全身から血の気が引く。「……どういうつもり?この子はあなたの実の息子よ!息子の命より、彼女のルールのほうが大事なの?」
だが彼女は知っていた。柊の言葉は絶対で、誰も逆らえない。
喉が乾き、七海はかすれた声で最後の願いを絞り出す。「せめて、家庭医を呼んで……」
「駄目です」
綾子はすでに冷静な執事の顔に戻っていた。「夜は深く、外は不穏です。今、人を入れるのは危険すぎます」
七海は、柊が綾子に向ける賞賛の眼差しを見て、胸を強く殴られたような衝撃を覚え、息が詰まり言葉も出なかった。
「熱くらい大したことありません。あなたも幼い頃、同じように乗り越えたでしょう」綾子の声は静かで揺るぎない。「坊ちゃまもあなたの血を継いでいます。氷で体を冷やし、薬を飲ませれば大丈夫です」
柊は彼女を見つめ、知らず知らずのうちに穏やかな目をしていた。「お前の言う通りにしよう」
七海はその光景を見て、胸が潰れそうだ。
抵抗する力もなく、ボディーガードに連れ戻される。
最後に見たのは、柊が綾子の髪に触れる姿だ。
その夜、七海は氷で息子の体を拭き続け、夜明けまで眠れなかった。
柊もまた、一晩中その部屋に付き添い、朝の電話が鳴るまで一歩も離れなかった。
そして六時ちょうど、門が開いたとき、ようやく七海は屋敷を出る許可を得る。
病院で下された診断は「高熱が長すぎました。後遺症が残るでしょう」
第2話
七海は、昏睡する息子の傍らで静かに寄り添っていた。指先が、柊にそっくりな眉と瞳の形をなぞる。胸の奥が硫酸に沈められたように、じわじわと溶けていく。
かつて、柊の瞳には熱と誠があった。その視線の先に映っていたのは、いつも彼女と息子二人だけだった。
その視線が、別の方向を見つめるようになったのはいつからだろう。
たぶん、綾子を宿敵の手から奪い取ったあの日から。彼の眼差しが彼女に向けられたとき、そこに生まれたのは賞賛ではなく愛情だ。綾子が初めて過ちを犯したとき、柊は罰するどころか、彼女のために例外を作り、家の掟さえも曲げたあの瞬間から、すべてが変わった。
自分はなんて愚かだったのだろう。偽りの優しさに浸り、気づくのが遅すぎた。
遅すぎて、息子はあの女の「ルール」というたった一言のせいで体を壊してしまった。
一週間後、息子の耳が本当におかしくなり、呼びかけても反応が遅い。その瞬間、七海の心の奥に押し込めていた怒りが、一気に爆発した。
彼女は人を遣わし、綾子を呼びつけた。
綾子は背筋をまっすぐ伸ばしたまま跪き、目に後悔の色など一つもなかった。あるのは、傲りにも似た静けさだけ。
「奥様。私は家のルールに従ったまで。過ちはございません。罰はお受けいたしません」
「執事としては間違っていない」七海の声は憎しみで震えた。「けれど、息子が耳を悪くしたのは、あなたのせいよ!それでも過ちがないと言うの?」
鞭が空気を裂き、綾子の背中に沈んだ音を立てて叩きつけられた。
綾子の抑えた悲鳴が、途切れ途切れに漏れた。
そのとき、扉が激しく開かれた。柊が勢いよく入って、目の前の光景に眉をひそめる。
「やめろ」
綾子の体から力が抜け、地に崩れ落ちた。
柊はすぐに彼女を抱き上げ、七海に向き直る。その瞳には、隠しようのない怒りと非難があった。「綾子が過ちを犯したとしても、女ひとりにこんな真似をするのか」
七海の瞳孔が震え、声が尖る。「息子は彼女のせいで、もう二度とちゃんと聞こえないかもしれないのよ!それなのに、あなたは彼女を庇うの?柊、私と息子は、あなたにとって何なの?」
「息子には最上の医師を呼ぶ。心配はいらない」柊の声は冷たかった。「綾子は任務を全うした。それが罪になるか?お前の罰など許さない」
そして彼は少し間を置き、七海の胸に突き刺すように言い放った。「彼女に権限を与えたのは、この俺だ」
柊は綾子を抱いたまま、迷いのない足取りで部屋を出ていく。ボディーガードたちは音もなく後を追い、室内には静寂だけが残った。
七海はその場に立ち尽くす。耳の奥で、彼の声が何度も反響した。「彼女に権限を与えたのは、この俺だ」
彼女は柊が消えた方向を見つめていたが、目の前に揺らめいていたのは、かつてためらいもなく彼女を庇い、銃弾の前に立ちはだかった男の姿、血と炎の夜を生き抜き、彼女だけに優しさを見せた帝王だ。
人々は羨んだ。冷徹な柊でさえ、七海のためだけに心を動かしたと。
だが今、彼女は全身の血が凍りつくような感じを覚え、この男を本当には理解したことがなかったと痛感した。
屋敷へ戻る途中、綾子の部屋の前を通ると、中からかすかな声が漏れてきた。
ふと、半開きの扉の隙間から覗いてしまう。
綾子は背中を裸にし、柊は黒いシャツ姿で彼女に薬を塗っていた。
「神宮寺様、自分でできます……」
「動くな」いつもの低い声。だが、妙に親しげに聞こえた。
「奥様が私を罰したのに、そこまで……」
少しの沈黙のあと、彼の声がかすれる。「お前が痛むのが、辛い。それじゃ駄目か」
「そんなことをなされては、奥様の立場が……」
再び衣擦れの音がし、続いて綾子の息遣いが慌ただしくなり、恥じらい混じりの声が上がった。「神宮寺様!下、下着は、自分で洗いますから!」
七海は一歩後ずさりし、見えない手で頬を打たれたように、よろめきながらその吐き気を催すところから逃げ出した。
あの女のせいで息子が苦しんでいるのに、それでも彼は、彼女を抱くのか。
もう、いい。
本当に。
七海は背を向け、瞳の光が消え、冷たい決意が瞳に宿る。
行こう。息子を連れてこの男から、完全に逃げ出す。
第3話
七海は電話をかけた。
短いやり取りのあと、向こうから低く押し殺した声が聞こえた。
「雨宮さん」その声は重く、慎重だ。「神宮寺さんの勢力は根が深い。完全に離れようとするなら、彼の前で少しの隙も見せない方がいい」
一瞬、通信の向こうが静まり返った。彼女の返事を待っているようだ。
「わかりました」自分の声が異様なほど落ち着いているのが分かった。ためらいなど一切なかった。
その時、寝室のドアが音もなく開いた。
柊の長身がドア口に立っていた。夜の闇をまとったような冷気と圧迫感が一瞬で室内を支配する。
「七海、誰と話してた?」低く響く声が静寂を切り裂いた。
七海の背筋が一瞬で強張る。必死に平静を装い、乾いた声で答えた。「なんでもない。医者に子どもの容態を聞いただけ」
幸い、柊はそれ以上追及しなかった。
彼女は分かっていた。彼はあまりに自信家なのだ。傲慢といっていいほどに。
彼は綾子への庇いを隠そうともしない。自分が彼の掌の中から逃げ出せるはずがないと、信じ切っているからだ。
柊はゆっくりと近づき、冷たい指先で彼女の頬に触れようとする。彼女は反射的に顔をそむけた。
「七海」彼の声にわずかな苦笑が混じる。大きな手が強引に彼女の顎を掴み、顔を正面に向けさせた。「トップクラスの医療チームが向かっている。もうすぐ着く。もう怒るのはやめよう、な?もう気も済んだだろう、あの子を叩いたんだから」
七海は心の中で嘲笑を呟いた。
柊は部下の失敗に容赦なく、手足の一本くらい平気で落とす。なのに、自分が綾子を二十回も鞭打っただけで、こんなにも心を痛めている。
「彼女は執事だ。俺が任せた仕事をきっちり果たしているだけだ」柊の声は穏やかに変わる。「有能なんだ。少しぐらい譲ってやってくれ、な?」
譲ってやれ?七海の胸の奥が息苦しくなる。
彼がわざわざ下手に出てまで宥めようとするのは、ただ、綾子を守るためだ。
誰も間違っていない。じゃあ、息子の聴力を奪われたこの現実は、誰が償ってくれる?
「柊」それでも、彼女は震えた声で、最後の希望を込めて言った。「もし本当に私と息子に申し訳ないと思うなら、彼女を辞めさせて」
言い終える前に、彼の冷たい声が割って入った。「七海、前にも言っただろ。彼女はただの執事だ。そんな者ひとりに振り回されるな。お前は神宮寺家の妻だぞ。執事ひとりも受け入れられないのか?」
その言葉とともに、長年権力の座にある者特有の威圧感が全身から滲み出た。息苦しいほどの圧だ。
だがすぐに彼は、やや穏やかな声に戻る。指先で彼女の顎を撫でながら囁いた。「いい子だ。言うことを聞いて」
それは話し合いなどではなかった。反論を許さない命令だ。
「……ええ」彼女は深くうなずく。
ようやく彼の表情が緩む。まるで従順なペットを撫でるように、彼女の髪をそっと撫でた。
翌日。
綾子が「仕入れの用事があります」と言って、七海を誘った。
息子が最近元気がないことを気にした七海は、気分転換に新しいおもちゃを選んでやりたいと考え、一緒に出かけることにした。
可愛らしいおもちゃ屋の前で、彼女は息子のためにいくつかおもちゃを選び、会計へ向かおうとした。
その時、綾子の声が鋭く響いた。「だめです、奥様。こんな見た目だけのもの、子どもの成長には害になります」
店員や荷物を持っていたボディーガードたちも固まり、それぞれ複雑な表情を浮かべた。
怒りの感情が七海の胸を激しく押し上げ、内臓が焼けるように疼いた。
「自分の子に買うものよ。いつから執事が口を出す権利を持ったの?」
「昨日、神宮寺様からお達しがありました。経費と家の支出は、すべて私の確認が必要だと」綾子の声は冷静を取り戻していた。「それがルールです」
なるほど、財政権まで、柊は彼女に与えたのか。
この家で、綾子に与えられていないものは何?次は、当主そのものを譲るつもり?
「ルール」という言葉ほど、今の彼女にとって不快なものはなかった。
七海は綾子の不機嫌な視線を無視して、ボディーガードに合図を送り、商品をレジに持って行かせた。
その瞬間も、綾子は横で冷静に注意を促した。「奥様、今月の支出はすでに上限を超えています」
七海は勢いよくバッグからブラックカードを取り出し、カウンターに叩きつけた。「じゃあ見せてもらうわ。私が自分のお金で、息子に物を買うこと、それすらも許されないの?」
第4話
帰り道の途中、綾子は「ルールですから」と言って、彼女の護衛を務めていたボディーガードを自らの部下に置き換えた。
車列が半分ほど進んだその時、突然、銃声が鳴り響いた。
七海は綾子に強く腕を引かれ、よろめきながら車の影へと引きずり込まれる。
一瞬、綾子なら多少の危機には対応できると思った。だが次の瞬間、彼女は凍りついた。綾子はただ彼女の前に立ち尽くすだけで、動きはぎこちなく、保護どころか逆に彼女の身を危険にさらしていた。
「戦えないの?」七海は思わず叫んだ。
その時、別の影が飛び込み、七海の体を覆うように抱き寄せた。ずっと彼女を守ってきた古参のボディーガードだ。
熱い血が頬に、彼女の腕に、服に飛び散る。彼の重たい体が覆いかぶさり、そのまま動かなくなった。
どれほどの時間が経ったのか分からない。交代で外されていたボディーガードたちがようやく駆けつけ、二人を救出した。
屋敷へ戻る間も、七海の脳裏には、地面に広がる血の光景が焼き付いて離れなかった。
そして、柊が風のように飛び込んできた。その目が最初に捉えたのは、七海ではなく綾子だ。
いつも冷静沈着な顔に、珍しく焦りの色が浮かんでいる。数歩で距離を詰め、綾子の腕を掴んで声を震わせた。「綾子、大丈夫か?どこか怪我は?」
七海はその場に凍りつき、彼の背中に滲む焦りを見て、喉の奥でかすかな笑いを漏らした。
彼は見ようともしない。彼女の蒼白な顔も、ドレスに散った血の跡も。彼の目に映るのは、怯えたふりをする執事ただ一人。
ようやく柊が彼女の存在に気づいた。
振り向きながら、わずかに眉をひそめて言う。「七海、大丈夫か?」
彼女は首を振るだけだ。全身の力が抜け、ただその場を離れたい。
だが、ほんの一歩動こうとした瞬間、綾子の視線が冷たく横切った。次の瞬間、両脇のボディーガードが一斉に動き、七海の腕を後ろにねじり上げ、床へ叩きつけた。
冷たく硬い大理石の床が膝と肘を打ち付け、鋭い痛みが七海を瞬時に現実に引き戻した。
痛みに息を呑むと、綾子の声が響いた。
「神宮寺様」綾子は冷たい声で言う。「帰路で待ち伏せに遭い、相手の火力は強く、ボディーガードを一名失いました」
柊は一瞬固まり、すぐに低く言った。「彼の家族は手厚く補償しよう。それで……」彼の視線が、押さえつけられた七海へと向かう。戸惑いの色があった。
だが綾子はすぐさま、柊の前に膝をつき、まるで訴えるように声を張った。「神宮寺様、この件は本来、起きるはずのない事故です。あのボディーガードは死ぬ必要のなかった人です」
七海の体がこわばる。信じられない思いで顔を上げると、綾子の事実を歪める顔を仰ぎ見た。「何を言ってるの?明らかにあなたが……」
もし綾子に腕がなく無理に彼女を守ろうとしなければ、あのボディーガードは体を盾にして彼女を守るようなことはせず、死なずに済んだのではないか。
綾子は冷たい目で見下ろし、淡々と続ける。「神宮寺様、原因は奥様がルールを無視し、忠告を聞かずにおもちゃを買おうとしたことにあります。そのせいで予定が狂い、結果、犠牲が出ました。奥様には、それ相応の罰が必要です」
七海は柊を見た。だが、彼の瞳には迷いと、わずかな同意の影があった。
彼女の心がまるで氷の底へ沈んでいく。血の気が引いていくのが分かった。
「柊、私じゃない、月島のせいよ、彼女の無能が招いたの!」七海は怒りと絶望に震える声を上げた。
しかし、彼女の弁明は鋭い風切る音によって遮られた。
バシッ!
重い鞭が彼女の背中に容赦なく叩きつけられ、焼けつくような激痛が炸裂した。彼女は支えきれず、悲鳴を上げて床に崩れ落ちた。
「柊、あの女の言葉だけで、私を罰するの?」彼女は必死に頭を持ち上げ、屈辱と混じった涙を流しながら、かつて自分を宝石のように扱っていた男を見上げる。
柊は少し心が揺らいだように見え、思わずに前に出て制止しようとした。
「神宮寺様!」綾子の声がそれを遮った。「これはルールです!私に家を任せるとおっしゃったのは、神宮寺様ご自身です!今日、もし例外を作れば、今後私はどうやって皆をまとめればいいんですか?奥様を連れて行くというのなら、いっそ私を……」
彼女の言葉が終わらないうちに、柊に遮られた。「俺がそんなことを言ったか?」
第5話
次の鞭が容赦なく振り下ろされ、七海は痛みに体を丸めた。「柊!私はただ、息子におもちゃを買ってあげたかっただけなのよ……それがあの女のルールに背いたっていうの?それだけで死ななきゃいけないの?」
けれど柊はただ顎を強く引き締め、無言のまま踵を返して去っていった。もう彼女を振り返ることはなかった。
「柊!あなたなんて大嫌い!一生恨んでやる!」彼の背中に向かって七海は絶叫した。吐き出される言葉に血と涙がにじむ。
彼女は間違っていた。あまりにも愚かだった。
まだ彼に、ほんのわずかな情けが残っていると信じてしまった。そして綾子に与えられた権限に逆らおうとした。
彼が綾子を甘やかす度合いは、すでに七海と息子の苦しみをはるかに超えていた。
そのとき、階段の方から小さな足音と嗚咽が聞こえた。
「ママ……ママ!」
よろめきながら駆け降りてきたのは息子だ。
七海ははっと顔を上げ、青ざめる。「月島、お願い、息子に見せないで。まだ子どもなの、お願いよ」
けれど綾子の瞳には一片の情もなかった。「神宮寺様の息子として、この家を継ぐ者が、この程度の光景も耐えられないようでは、将来はどうしますか?」
息子は使用人にしがみつかれ、必死にもがきながら泣き叫んでいる。
「月島、あんたなんて絶対に報いを受ける……」七海は泣き叫ぶ息子を見つめ、耳を裂くようなその声を聞きながら、背中に走る激痛と、愛した男の冷たい背中、そして憎い女の冷酷な横顔を見つめていた。
怒りと絶望が一気に血を逆流させ、意識が暗闇に飲み込まれていく。
倒れる直前、彼女の視界に映ったのは、どこか勝ち誇ったような綾子の冷たい顔だった。
そして、遥か遠くから聞こえてくるような、慌てて震える声の呼びかけがあった。
「七海!」
滑稽だった。あの人は自分の手で彼女を鞭に差し出し、この屈辱を黙認した。
今さら何を焦っているというのか。
七海は鋭い頭痛と背中の裂けるような痛みに目を覚ました。
あの二度の鞭打ちは、神宮寺家の罰としても異常なほど苛烈だ。
重たい瞼をどうにか持ち上げると、ぼやけた視界が少しずつはっきりしていく。
少し離れた場所で、柊が優しく声をかけながら、目を赤くした綾子を慰めていた。
「神宮寺様、わざとじゃなかったんです。こんなことになるなんて……」綾子の声は涙で震えていた。肩も小刻みに揺れている。
「分かってる」柊の声は驚くほど穏やかだった。「お前のせいじゃない。泣かないで、な?」
その光景が、背中の痛みよりも七海の胸を刺した。
怒る力すら残っていない。ただ手を振り、ベッド脇のコップを床に叩きつけた。
ガシャンという音が部屋に響き、二人が振り向く。
「七海、目が覚めたのか?」柊が慌てて駆け寄ってくる。声には焦りが滲んでいた。
七海はその手を無視し、かすれた声で問う。「息子は?」
柊は一瞬言葉を詰まらせ、視線を逸らした。「あまり良くない。少し心が不安定で……」
「どういう意味?」七海の胸が締めつけられる。身を起こそうとして、背中の痛みに崩れ落ちた。
「落ち着いて。医者が診たけど、ショックが大きくて静かに休ませた方がいいと言ってた。今は眠ってる」柊は彼女を制した。「お前は点滴が終わったら一緒に見に行こう。息子のことは俺がついてる」
七海は深呼吸を繰り返し、無理に心を落ち着けようとした。天井を見つめる瞳には、もう何の光も宿していない。
「ごめん、七海」柊の声にかすかな後悔が混じる。「本当に俺が悪かった」
かつて、彼は命を懸けて母子を守ると誓った。
けれど今、彼女と息子の傷は、すべてその手で刻まれたものだった。
「綾子はわざとじゃなかった。こんなことになるとは思ってなかったんだ」彼は弁明するように言った。
七海は目を閉じ、一言も返さなかった。
二人が部屋を出ていったあと、彼女はベッドから身を起こした。息子の顔を、この目で確かめなければ。
二階の角を曲がったとき、視界の端に怪しい男の影がちらりと映った。
七海の胸がざわつく。
柊に知らせようと足を進めたその瞬間、背後から大きな手が口と鼻を覆った。
強烈な薬品の匂いが鼻を突き、視界が闇に溶けて、意識も、音もなく途切れた。
第6話
再び意識を取り戻した時、七海は薄暗い廃倉庫の中にいた。
彼女が両手両足を椅子に縛り付けられた。正面には、頬がこけ、目に狂気を宿した男が立っている。手にはナイフが握られていた。
さらに七海を震え上がらせたのは、綾子までもが隣で同じように縛られていたことだ。
「あなたは誰?何が目的なの?」恐怖に震える声を押さえ込み、七海は必死に問いかける。
どうしてこの男が、同時に自分たち二人をさらうことができたのか理解できなかった。
男は甲高い笑い声を上げ、憎悪に満ちた目で二人をにらみつけた。「俺の弟が死んだ。
跡形もなく吹き飛ばされたんだよ!うちの両親は神宮寺家に行って、ただ約束された見舞金を受け取りに行っただけだ。それなのに犬みたいに叩き出されて、その帰り道で車に轢かれて死んだ!
お前らは神宮寺家の人間だろう。じゃあ俺が今何をしたいか、分かるよな?」
七海はすぐに悟った。彼女をかばって死んだボディーガードの兄だ。しかし柊は遺族には十分な補償をすると約束したのではないか。その金はどこへ消えたというのか。
思考を巡らせる間もなく、隣の綾子が悲鳴を上げた。執事の面影などどこにもない、取り乱した声だ。「彼女よ!全部この女のせい!彼女は神宮寺家の奥様だ。あんたの弟はこの人を守って死んだ!ご両親を追い返せって命じたのも彼女なのよ!私はただの執事で、何も知らないの!無関係なの、放して!」
七海はその嘘を聞いても、もはや驚きもしなかった。ただ冷ややかに口を開く。「確かに私は神宮寺家の妻よ。でもこの家の全ての事を仕切っているのは月島綾子。そう決めたのは神宮寺柊本人よ」
男の視線が二人の間を激しく行き来する。どちらの言葉を信じるか迷っているようだった。
「安心しろ……」男はしゃがれた声で言った。「無関係な奴は傷つけない」
その言葉が終わらないうちに、外から倉庫の扉が蹴破られ、凄まじい音が鳴り響いた。
逆光の中に柊が立っている。全身から放たれる圧迫感と殺気が空気を張りつめさせ、真っ先に縛られた二人を視界に捉えた。
「彼女たちを放せ」氷のような声だ。
男は一瞬動きを止めたが、すぐにナイフを七海の首に押し当てた。
「神宮寺!」男が狂ったように怒鳴る。「答えろ!弟の補償金はどこへ消えた!俺の両親を追い出して殺したのは誰だ!」
柊の目が激しく揺れる。七海の血の気を失った顔と、恐怖に震える綾子の表情の間で視線が行き交った。
「答えろ!」ナイフがさらに食い込み、七海の首筋を血が伝う。
柊はその刃を見つめたまま、顎を強く引き締める。
そしてゆっくりと腕を上げ、指差した。
「彼女だ」
七海は息を呑み、信じられない思いで顔を上げた。
ナイフが彼女に向かって突き出される瞬間、パンッという銃声が響き、男が崩れ落ちた。
ボディーガードたちが駆け込んできて、七海の縄を解いた。
傍らからはっきりとした言い争いが聞こえる。「神宮寺様!私を助けるなんて、ルールに反します!」
「俺が望んでやったことだ」柊の声は驚くほど穏やかだ。「もう一度同じ状況になっても、俺はお前を救う」
「でも、あなたは家のルールを壊したら、これで私が今後どうやって皆をまとめればいいのですか?あなたは……」綾子の声には泣き声が混じり始めた。
「なら、罰を与えればいい」柊は彼女の言葉を遮り、どこか甘く微笑んだ。「お前の手で、俺を罰してくれ。いいだろ?」
七海は静かに目を閉じた。
柊が彼女の方を振り向いた時、その表情には罪悪感が滲んでいた。
「七海、綾子の鞭の傷がまだ治っていない。だからまずは彼女を落ち着かせるしかなかった……」
彼には他の選択肢もあったはずだ。それでも、綾子を危険にさらすことだけはできなかった。
七海もまた、傷を負っているのに。
彼女はただ黙って顔を背けた。
柊の心の中で、綾子こそがいつも一番なのだ。
病院で、七海の瞳に宿る光の消えたその表情を見て、柊の胸がざわめいた。
「息子の手術日が決まった」彼は雰囲気を和らげようとした。
それからの日々、柊はずっと病院に通い、七海と息子のそばに寄り添っていた。まるで昔の穏やかな日々が戻ったかのように。
柊が満面の笑みを浮かべて病室に入ってきた、あの日までは。
第7話
七海は、手術を終えて安らかに眠る息子の顔を見つめながら、ようやく久しく忘れていた温もりをその瞳に宿した。
「七海、手術は大成功だった」柊の声にも、珍しく本物の喜びが滲んでいた。
その瞬間、柔らかな灯りが三人を包み込み、まるで過去に戻ったかのようだ。あの頃のように、何の亀裂もなかったそんな錯覚すら覚えるほどに。
だが、偽りはあくまで偽りだ。
綾子からの緊急の救助要請の電話一本で、柊の表情は瞬時に変わり、ためらうことなく立ち上がって出ていった。
七海は気にも留めず、むしろほっと息を吐く。
彼がいない方が都合がいい。ちょうど自分の人脈に連絡を取り、最後の脱出計画を整えるつもりだ。
息子が助かった今、もう未練はない。
だが深夜、病室の扉が乱暴に開かれた。
柊が戻ってきた。その身に纏うのは、氷のような殺気だ。彼の後ろには、数名のボディーガードが続いていた。
「七海、俺と一緒に帰る」彼の口調は強硬で、疑いの余地はなかった。
「どうしたの?まだ息子が……」
「今すぐだ!」彼は言葉を遮り、強引に彼女を病院から連れ出した。
神宮寺家の屋敷、リビングは眩しいほどに明るい。
綾子がソファに座り、肩を震わせながらすすり泣いていた。いつもは鋭く隙のない彼女が、今はまるで壊れそうな少女のように見える。
彼女の腕には包帯が巻かれ、顔には擦り傷もあった。
何が起きているのか理解する間もなく、背後のボディーガードが七海を押し倒し、床に膝をつかせた。
「七海、言ってみろ」柊の声は冷え切っており、見下すように彼女を見つめるその眼差しは、まるで他人を見るようだ。「お前が人を雇って綾子を報復したのか?」
「え?」七海は呆然とした。
「今夜、彼女を襲った連中お前の差し金だな?」柊の怒りは爆発した。「俺が間に合わなければ、綾子はもう死んでいた」
次の瞬間、額に冷たい感触が突きつけられた。
七海の呼吸が止まり、目が大きく見開かれる。それは、かつて彼女が柊に贈った銃だ。
彼が、その銃を自分に向けている。
「柊」衝撃と屈辱で七海の声は震えた。「私は何も知らない。やっていないわ!」
目の前の、長年愛してきた男を見つめながら、心が粉々に砕けていく。「彼女のために……私に銃を向けるの?私を殺したいの?」
「最近、綾子のことでお前を放っていたのは分かってる」柊の声は怒りに震えていた。「だが、お前は神宮寺家の女主人だ。どうして、そんな卑劣な手を使う?まさか……お前が、こんな人間だったとは」
銃口が彼女の額に強く押し当てられやがて、ふっと下ろされた。
「七海、俺がお前を殺せるわけがない」彼は目を閉じ、再び開いたときには、そこにあった温度が完全に消えていた。「誰か、彼女を地下の反省室に入れろ。俺の許可があるまで、誰も出すな」
ボディーガードたちが容赦なく彼女を引きずり上げ、冷たい反省室へと放り込む。
重い扉が閉まり、最後の光が消えた。
果てしない暗闇が彼女を包み込む。
七海は、暗闇が何より怖かった。昔は、悪夢でさえも柊が抱きしめて灯りをつけ、朝までそばにいてくれた。
彼は誓った。「お前をこの部屋に入れることは絶対にしない」と。
暗闇の中で、ササッという音が響いた。闇の中で、何かが足を這い上がる。直後、腕に鋭い痛みが走った。
彼女は恐怖で身を縮めた。ここには毒虫が入れられていたのか!
七海には逃げ場はなく、助けを求める声にも応えはなく、暗闇の中で激しい痛みと恐怖に耐えながら、意識は次第にぼんやりとしていった。
どれほど時間が経っただろうか、扉がようやく開かれた。
七海は地面に丸くなり、青ざめた顔で微かに息をしている。露出した肌には赤く腫れた噛み跡がいくつもあり、すでに膿が滲んでいる。明らかに、毒に侵されていた。
慌てて呼び出された柊が入り口に駆けつけた時、目にしたのはそんな光景だ。
第8話
七海が再び目を覚ますと、目に飛び込んできたのは、血走った柊の瞳と、疲れ切った顔だ。
彼はぎゅっと彼女の手を握りしめ、かすれた声で言う。「七海、目を覚ましてくれてありがとう、ごめん、中のことは……」
「あなたを見たくない」彼女は言葉を遮る。弱々しい声だが、どこか平静を帯びていた。「疲れたの」
だが柊はさらに強く手を握る。「七海、そんなこと言わないで、殴ってくれ、思いっきり出していいんだ」
ついに彼の支配感にほころびが生じた。
「誰かがわざと閉じ込められた部屋に毒虫を放ったのよ」彼女は淡々と事実を伝え、目に動揺もない。
柊の視線がわずかに揺れ、口調が硬くなる。「七海、また綾子のせいだなんて言わないよな?ただ運が悪くて、虫が紛れ込んだだけだろう」
七海の胸に、ほろ苦い笑みが浮かぶ。
忘れたのか、それともわざと無視しているのか。
彼は綾子が毒虫を飼っていることを知りながら、あの女を守るため、こんな拙い嘘で彼女をごまかそうとしている。
しばらくして、乾いた声が自分から漏れる。感情は込めずに。「うん」
彼女がその説明を受け入れたかのように聞こえると、柊は明らかに安堵の息を漏らす。
彼はかつてないほど低く柔らかい声で、ほぼ卑屈に彼女の手を頬に当てる。
「七海、最近いつもお前を傷つけてしまう。本当にごめん。元気になったら北国にオーロラを見に行こう、二人きりで、昔みたいに」
かつて誇り高かった男が、こんな姿勢で言葉を紡ぐことはなかった。
以前なら、彼女はきっと心を溶かし、この珍しい優しさに浸っただろう。
だが今は、ただ麻痺した感覚しかない。
彼の心は明らかに綾子に傾いているのに、その女のために自分を罰し、銃を向け、傷つけた。
それでも本当に手放せないなら、なぜ何度も他の人のために彼女を傷つけるのか。
理解できない。もう理解したくもない、疲れ果てた。
離れる日、七海は、かつて宝物のように大切にしていた品々を、贈り物から彼が撮った写真まで、全て柊との思い出を宿すものを、無表情で燃え盛るゴミ箱に投げ入れていった。
炎は跳ね上がり、過去の甘い記憶と誓いを焼き尽くすと同時に、傷だらけになった心も飲み込む。
はっと彼女は思い出した。何年も前、同じような晴れた日に、柊が、まるで神のように絶望の淵から彼女を救い、家を与えてくれた。
彼は彼女を抱き、溺れるほど愛し、温もりを知らなかった彼女に、初めて「一生の愛」を真剣に望ませた。
だが今は、灰だけが残っている。
結婚指輪を机に置き、最後に神宮寺家を一瞥すると、七海は迷わず息子を抱き、迎えの車に乗り込む。
「行きましょう」彼女は運転手に静かに告げる。その声は解放された安堵と疲労、わずかな震えを帯びた。
車は安定して発進し、愛憎をすべて詰め込んだ場所を後にする。
しかし、しばらく走った後、七海は鋭い違和感を覚えた。
心が急に沈み、咄嗟に抱く息子をさらに強く抱きしめた。
第9話
七海は激しいめまいの中で目を開けた。そこは薄暗い部屋で、両手は後ろで縛られていた。
「息子……私の子はどこ?」彼女は瞬時に混乱し、必死に身体を起こそうとする。
暗がりの奥から低く冷たい声が響いた。「雨宮さん、無駄なことはしない方がいい。坊やは元気だよ。今、誰かが一緒に遊んでやってる」
七海は顔を上げ、心臓が一瞬で沈み込む。声の主は柊の宿敵だ。
その瞬間、ドアが激しく開かれた。
柊が鋭い冷気をまとって現れる。細い眼差しが鋭く室内をなぎ払い、最後に七海を見据えた。氷のように冷たい声で言う。「妻を放せ」
「随分早かったな」宿敵は鼻で笑い、銃口で七海の頬を軽く叩いた。「どうやら、旦那さんは結構、お前のこと気に入ってるみたいだな?」
七海は心の奥で、苦い笑いを押し殺す。
宿敵はあっさりと言い放つ。「神宮寺、単純な話だ。裏切り者の月島綾子を返せば、すぐに奥さんを解放してやる。傷一つつけないと約束する」
彼は少し間を置き、嘲るような口調で続けた。「そんな裏切り者を手元に置くなんて、いずれお前にも牙をむくかもしれねぇぞ」
隣にいた綾子は、いつもの冷たい仮面を失い、顔面が真っ白になった。彼女は柊の腕をつかみ、震える声で泣き出した。「いやです、戻ったら殺されます。もう二度と裏切りません、絶対に!」
柊は冷たい視線を彼女に向けた。その瞳に宿る恐怖と哀願を見た瞬間、彼の硬く結ばれた顎がほんの少しだけ緩んだ。
すべてを、七海は見ていた。
麻痺していた心が再び痛みを覚える。
「両方、いただく」柊が低く言い放つ。その声に一切の迷いはない。「彼女を放せ」
宿敵はまるで冗談を聞いたかのように大笑いした。「両方だと?欲張りな男だな」
彼は銃に弾を込め、冷たい銃口を七海のこめかみに押し当てた。
「なるほど、月島を大事にしてるもんな。だから手を出せなかったわけだ。仕方ねぇ、代わりにあんまり大事にされてなさそうな奥さんに来てもらったわけだ」
そして顔を近づけ、挑発的に笑った。
「なぁ、旦那さん、そんなにお前を大切にしてないみたいだぜ?」
七海は笑った。その笑みには、絶望だけが残っていた。
部屋中は不気味な静寂に包まれ、呼吸の音さえも鮮明に聞こえる。
七海はゆっくり顔を上げ、かつて世界のすべてだった男をまっすぐ見つめた。
「柊、覚えてる?あなたが言ったの。北国のオーロラの下が、一生の約束をするのに一番ふさわしいって」
柊の呼吸が、ほんの一瞬止まる。まるで心臓を不意に撃ち抜かれたようだ。
七海は淡く微笑む。けれどその笑みは瞳に届かず、荒れ果てた虚無だけが残る。「でも今はね、北国は寒いから、オーロラなんてもう見たくない。その約束はもういいわ」
彼女の視線が彼の顔にわずかに留まる。
「寝室のナイトテーブル、見て。あなたに残したものがある」
柊の胸を激しい痛みが貫いた。彼女の言葉が、まるで遺言のように静かに響き、強い不安が彼を締め付けた。
七海は深く息を吸い、全身の力を振り絞って、最後の言葉を静かに、しかし確かに投げつけた。
「柊、これで終わり。もう二度と会わない」
だがその別れの言葉は、綾子の震える嗚咽にかき消された。
柊は拳を握りしめ、血管が浮き出る。七海の虚ろな瞳から逃げるように、低く言った。
「七海、今は奴も手を出さない。少しの間、耐えてくれ。
待っていろ、必ず迎えに行く」
そう言って彼は、絶望に沈む彼女を一瞥もせず、綾子を庇いながら背を向けた。
扉が再び閉まり、最後の光が遮られる。
七海の瞳には、もはや死のような静けさしかなかった。
宿敵は興味深げに、冷静な表情の七海を見つめる。
七海は顔を上げ、涙の跡を乾かしたまま、凍るように澄んだ声で言った。
「言ったでしょ。あの人は、私を選ばない」
「さあ、取引をしましょう」
……
飛行機が轟音を立てて雲を突き抜けた。
七海は窓越しに、遠ざかっていく街の輪郭を見つめる。
そして思い出す。柊が去る直前に言った言葉。
「待っていろ」
柊、あなたは間違ってる。私は、もうあなたを待たない。