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霜落ちて、別れの季節に
林北斗(はやし ほくと)は緘黙症を患っており、桐島霜乃(きりしま しもの)と結婚して三年が過ぎた。三年目になる頃には、二人の間に交わされ...
Chương (1)
第1章
林北斗(はやし ほくと)は緘黙症を患っており、桐島霜乃(きりしま しもの)と結婚して三年が過ぎた。三年目になる頃には、二人の間に交わされる言葉はほとんどなくなっていた。
霜乃は北斗の病を治そうと、あらゆる手段を試みた。食事療法、漢方、鍼灸、心理カウンセリング、さらにはスタンドアップコメディまで……
だがある日、霜乃は偶然耳にしたラジオ番組で、北斗が初恋の相手、香月明希(かづき あき)への深い想いを語っているのを聞いてしまう。そして、ようやく理解したのだった……
北斗の緘黙症を癒す薬は、最初から自分ではなかったのだと……
今回こそ、霜乃は北斗のもとを離れる決意を固めた。彼女は、自分自身の人生の価値を見つけたいと思った。北斗のためだけに生きるのではなく。
第1話
「俺は林北斗(はやし ほくと)。愛している人に、想いを伝えたい」
眠れない深夜、桐島霜乃(きりしま しもの)はラジオをつけた。そこから聞こえてきたのは、緘黙症のはずの夫、林北斗の、低くて心地よい声だった。
霜乃は北斗と結婚して三年になる。最初の二年は何とか会話もできていたが、三年目に入ってからは、ほとんど口をきかなくなった。ここ三ヶ月は、たとえ向き合っても、北斗は一言も発さない。
「君と会うのは三年ぶりだね。明日、会えるのを楽しみにしているよ」
ラジオから流れてくる内容は、明らかに霜乃に向けたものではなかった。
「愛してる、明希」
北斗の声にこれほどの感情がこもっていたことは、かつてなかった。告白はあっという間に終わり、続いてパーソナリティの羨望と称賛の言葉が流れた。
しかし、霜乃はベッドにもたれたまま、長く呆然としていた。
彼女は家族の縁談で北斗と知り合った。一目惚れだったが、北斗は常に冷淡で、初対面のときに彼の母が横で説明してくれただけだった。
「霜乃、理解してあげてね……北斗は緘黙症なの」
昔のことを思い出して、霜乃は彼の母に電話をかけた。
「霜乃?こんな夜中にどうしたの?」
鼻の奥がツンとし、声に涙がにじむ。北斗の母はすぐに察し、少し慌てた様子になった。
「どうしたの?北斗が何かした?
明希が戻ってきたこと、知ってたかね?」
霜乃は言葉に詰まる。どうやら、知らなかったのは自分だけのようだった。
「ごめんね、霜乃……三年前、本当のことを言えなかった。北斗の緘黙症は、元カノの明希がいなくなった時から始まったの。
どうにもならなかったから、無理にでもお見合いさせて……
笑っちゃうでしょ?あの上京市の林家の跡取りが、言葉を話せないなんて。でも霜乃、安心して。私がこの子のことはしっかり見てるから」
霜乃は自分がどうやって電話を切ったのか覚えていないし、どうやって孤独な夜を過ごしたのかも思い出せなかった。
あの頃の霜乃は、病気についてたくさん調べた。その発症原因の項目には、こう書かれていた。
「外的な重大なショック」
霜乃には意味が分からなかった。林家の人々に遠回しに聞いても、誰も答えてくれなかった。
その後、霜乃は様々な方法を試した。心理カウンセリング、電気治療、美食療法、チャクラヒーリング。スタンドアップコメディにも連れて行った。彼女が大笑いしている間も、北斗は背筋を伸ばし、無表情のままだった。
プロポーズの時だけ、彼は大きな決意を持って、ようやく二文字を口にした。
「……結婚」
あの時の霜乃は、どれほど嬉しかったことか。今の霜乃が、どれほど辛いか。
そうだ、自分は北斗の緘黙症を治せるはずがなかった。自分は「薬」じゃなかったから。
霜乃の心の中に、苦しさが湧き上がる。そして恐怖もゆっくりと忍び寄る。彼の「薬」は戻ってきた。それなら、自分は?
開きかけた手を静かに握りしめ、意地が込み上げる。北斗が自分を愛していないなら、こんな結婚生活に浸っている必要はない。
北斗は離婚しようとしない。じゃあ、自分は?
だったら、自分から離婚すればいい。北斗とその「薬」を、きれいに解放してあげよう。
決意した霜乃は、身なりを整えた。三年前、北斗のために海外での医学部の留学を諦めたけれど、もしかしたら今でも遅くはないかもしれない。
一時間後、彼女は家を出て、近くのショッピングモールへ向かった。新しい自分に生まれ変わるために、新しい服を買おうと思ったのだ。
……
「お客様、こちらの試着されたお洋服は最後の一点になります。ご購入されますか?」
霜乃は頷き、バッグからカードを取り出して販売員に差し出した。
「申し訳ありません、別のお客様が追加料金を払ってでもこの服を購入されたいと……お譲りいただけますか?」
霜乃が販売員の視線をたどると、そこにはハイヒールを履いた華やかな女性がいた。隣の男性と楽しそうに話している。
彼女が立ち上がって二歩進むと、その男性と目が合った。
北斗だ。
では、この女性が……明希なのだ。
北斗の顔が一瞬で厳しくなり、口を開いたが、やはり声は出なかった。無表情のまま霜乃を見つめ、右手の人差し指でスマホを軽く叩く。
その仕草は霜乃には見慣れたものだった。スマホで会話をしよう、という意味。
【なんでここにいる?】
【俺をつけてきたのか?】
【家に帰れ】
三つのメッセージが続けて届き、霜乃の胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちた。
隣にいた明希は北斗の腕に抱きつき、笑顔で尋ねた。
「北斗、この人だれ?友達なの?」
そう言って体を揺らし、甘えるように声を弾ませた。
「ねえ、この服、譲ってもらえない?あたし、これ欲しいの」
北斗は穏やかに微笑み、私をなだめるように、そっとスマホを軽く叩いて、確認もせずにカードを取り出して販売員に渡した。
「友達だ」
その言葉は、氷の刃のように霜乃の胸を刺した。全身に鳥肌が立ち、立っているのがやっとだった。そうか……三年間が、たった一言の「友達」に置き換えられたのか。
ショッピングモールの照明がパチパチと音を立てた。霜乃が反射的に顔を上げた瞬間、頭上のシャンデリアが外れた。
バンッという轟音とともに、背中に激しい痛みが走る。
ほんの一瞬の出来事だった。霜乃は下半身に生温かい感覚を覚え、手を当てると、血で濡れていた。
店内は一気に混乱に包まれ、悲鳴と通報の声が霜乃の耳に響いた。彼女が目を上げると、北斗が明希を抱きかかえ、周囲を必死に見回しているのが見えた。
「救急車を!救急車を!」
霜乃は、北斗がこれほど取り乱した姿を見たことがなかった。
……
「申し訳ありません。こちらの方を先に救急車で搬送させてください。次の車はすぐに来ます。この方の傷の方が重症です」
救急隊員が半ば意識のない霜乃を慎重に担架に移そうとしたその時、怒りに満ちた北斗がそれを遮った。
「彼女を助けてくれ!」
次の瞬間、霜乃は強く押され、担架から床へと落ちた。激しい痛みが走り、意識が一気に戻る。
目の前で、北斗が明希を大切そうに担架に乗せているのが見えた。
「そちらの方は手首を捻っただけです!重症ではありません!」
「医療資源の無駄遣いです!」
「明希の手は大事なんだ!彼女は医者なんだ!」
霜乃は驚いた。これが、北斗がこの二年間で話した中で最も長い言葉だった。だが、その中には、自分に向けられた言葉は一つもなかった。
北斗はそのまま人々を押しのけ、救急車に乗り込んだ。
霜乃は近くの棚にもたれながら、大きく息をついた。だが、呼吸をするたびに背中の傷がうずき、痛みがさらに増していく。
体の痛みなのか、心の痛みなのか、もう分からなかった。
自分は、北斗のために医者になる夢を諦めたのに。どうして、彼にとって明希の方が「大切」なの?ならば自分は、一体何だったの?
霜乃は無意識のうちに、引きつるように口角を上げた。
自分は、ただの「友達」。
そして、霜乃の意識は闇の中へと沈んでいった。
第2話
霜乃が病院で目を覚まして最初にしたことは、北斗にメッセージを送ることだった。
【離婚しよう】
送った直後、北斗がドアを押して病室に入ってきた。
手には二つのギフトボックス。今日モールで見かけたあのブランドのものだった。
彼はそれらを棚の上に置き、何も言わず霜乃のベッド横の椅子に腰を下ろした。
北斗はスマホを取り出した。霜乃が送ったメッセージを見たはずだったが、その表情には波一つなかった。
息が詰まるような沈黙の中、霜乃のスマホが鳴った。北斗からのメッセージだった。
【このブランド、君が好きだったよね。君に似合いそうなドレスを二着選んだ】
【退院したら、このブランドを家に呼ぶよ。店ごと買ってもいい】
【明希は医者なんだ。医者にとって手は命、だから……あんなに動揺した。怒らないでくれ】
霜乃はうつむいたまま、次々と届くメッセージを見つめ、ふいに涙が溢れた。
堪えきれず、声を発した。
「あなた、あの人とは普通に話せるのに、どうして私とは話せないの?目の前にいるのに、どうしてメッセージなの?
わざとでしょ!?これってモラルハラスメントじゃないの!?」
顔を上げた霜乃の頬には、すでに涙の筋がくっきりと刻まれていた。声はかすれ、喉が詰まる。
北斗の顔は、相変わらず静まり返った水面のようだった。しばらく沈黙が続いたのち、彼は俯いてスマホを打ち始めた。
【ごめん、俺は緘黙症なんだ】
打ち終えた北斗は、ポケットから一枚の書類を取り出し、霜乃に差し出す。サインを促しているようだった。
霜乃が目を落とすと、それは現在住んでいる家の不動産権利譲渡書だった。
【これは補償だ】
その時、突然スマホの着信音が鳴り響き、北斗の顔が強ばる。彼は素早くスマホを手に取り、通話に出た。
通話音はまったく漏れてこなかったが、霜乃には相手が誰か分かっていた。
次の瞬間、北斗が口を開く。
「すぐ行く」
明希からの電話だった。霜乃の胸の奥で、答えが確信へと変わった。
……
霜乃はもう迷わなかった。スマホを開き、離婚するために必要な書類、手続きなど
の情報を検索する。
訴状、双方の身分証明書、婚姻届受理証明書を用意し、別居の証明にはさっきの不動産登記事項証明書を見つけ出した。
必要なものは全て用意できた後、霜乃の胸の奥で、長く詰まっていた息がすっと吐き出された。
後三十日この関係が終わるのだ。
……
【午後三時、市役所で、名義変更。】
入院して一週間後、霜乃は北斗から一通のメッセージを受け取った。
この一週間、北斗からは一切連絡がなかった。電話も、メッセージも、顔を見せることもなかった。
霜乃は徐々に、ひとりの時間に慣れ始めていた。
午後三時半、霜乃は予定より少し遅れて到着した。だが、珍しく北斗はすでにロビーで待っていた。
時間に厳しい彼が、遅刻に何一つ文句を言わない。表情に焦れや苛立ちも見えなかった。
霜乃が近づくと、VIPカウンターのスタッフがすぐに駆け寄ってきた。
北斗は花束まで用意してくれていて、その隣にはベルベットの小箱が置かれていた。きっとジュエリーだろう。
スタッフが椅子を引こうとしたが、北斗はそれを制し、自ら椅子を引いて霜乃に勧めた。
その行動に、霜乃は少し驚きながら、静かに口を開いた。
「そんなこと……しなくてもいいのに」
北斗はかすかに笑みを浮かべ、ゆっくりと首を振った。
そして、口を動かし、何文字だけ絞り出した。
「……気にしないで」
北斗にしては、珍しいほどの優しさと意思表示だった。
手続きはあっという間に終わった。
【先に帰ってて。俺、まだ仕事がある】
その言葉を見た瞬間、霜乃の中で奇妙な違和感が広がっていった。膨らんで、膨らんで、やがて限界に達した。
霜乃は建物の外でタクシーを呼び終えた直後、バッグを忘れたことに気づき、急いで引き返した。
そして――目撃してしまった。北斗はまだロビーに立っていた。今度は、さっきよりも大きな薔薇の花束を抱えていた。そこへ、明希が建物の正面から入ってきた。北斗はすぐに彼女の元へ駆け寄り、ふたりは抱き合い、北斗は彼女の頭を優しく撫でた。
「林社長、新しい不動産のご購入は、こちらへどうぞ」
「別荘をご希望とのことですね。先ほど名義変更されたマンションのおかげで、購入制限の枠が空きましたので、今は購入できますよ」
「奥様、お足元にお気をつけください」
明希は北斗の肩に頭を預け、ふたりは幸せそうに笑い合いながら、建物の奥へと消えていった。
真夏の七月。けれど、霜乃の体は、これまで感じたことのないほど冷えていた。震えるほどの寒さ、立っていられない。背中も、額も、冷や汗でびっしょりだった。
ああ、自分は排除された側だったんだ。
第3話
「桐島様、申し訳ありません。旦那様の林北斗様からは今回の訴訟に関して一切の応答がありません。お電話には出られましたが、無言のままでしたので、本件は『離婚請求に同意』とみなし処理いたします。
したがいまして、手続きがまだ未完了の状態であれば取り消しが可能ですが、手続きが完了した場合、ご夫婦の婚姻関係は正式に解消されます」
裁判所のオペレーターの声には、一片の感情もなかった。彼らが日々処理する訴訟の中でも、これは最も単純な部類なのだろう。
霜乃は大きく息を吸い込み、手が震えながらも「分かりました」とだけ返した。
彼女はタクシーに乗って家へ戻り、静かに部屋を見渡した。そしてすぐに、北斗の荷物を整理し始めた。自分が出て行くつもりはない。北斗の存在だけを、この家から消したかった。
「奥様、お届け物です」
ドアをノックする音と共に、宅配業者の声が聞こえた。差し出されたのは、一通の封筒だった。
「もう、奥様じゃありませんけど」
霜乃がふとそう口にすると、配達員は戸惑ったように目を見開き、気まずく笑った。
封筒を開けると、中には一枚の手書きのカードが入っていた。文字は北斗のものだ。
カードを開いた瞬間、中から北斗の声が流れ出す。
「君が恋しい、君が好き、君を愛してる」
霜乃が戸惑う間もなく、突然そのカードが彼女の手から奪い取られた。
体がぐらつき、転びかけた霜乃が顔を上げると――そこには険しい顔つきの北斗が立っていた。
【勝手に俺の物に触るな】
スマートフォンが震え、霜乃の画面に北斗からのメッセージが表示された。
返事をする間もなく、北斗は踵を返して階段を下りていった。
「北斗!あなた、ひどすぎる!」
怒りに駆られた霜乃は、そのまま階段を駆け下りて追いかけた。
「あなたの物なんか、触ってない!どうしてそんなに私をバカにするの!
あなたと『明希』がどんな関係でも構わないけど、私を侮辱する資格はない!」
キィィィッというタイヤの音とともに、強烈なブレーキ音が響いた。
霜乃の脇腹に激痛が走る。何も見えないまま、車が彼女の体を跳ね飛ばした。
ドンッという音と共に、霜乃の体は道路に叩きつけられる。
必死に起き上がろうとした瞬間、顔の前に鮮やかなメイクとサングラスの女性の顔が迫る。真っ赤なハイヒールが、霜乃の右手を踏みつけた。
「……っ、あああああ!」叫び声が霜乃の喉から絞り出される。
意識が遠のく中、彼女の視界に映ったのは、焦った様子で駆け寄る北斗の姿だった。その表情は、先ほどとは別人のように取り乱していて、彼が最初に駆け寄ったのは、明希の方だった。彼女の手を取って確認し、安堵の表情を浮かべる北斗。
霜乃が意識を完全に手放すその瞬間まで、北斗は一度も、霜乃の方を見なかった。
……
「桐島さん、大変申し訳ありません。林グループ病院のSVIPステータスは取り消されております。個室ではなく一般病室でのご案内になります。
確認したところ、一般病室も満床のようで……手術まで廊下でお待ち下さい。
それと、右手の手のひらの損傷がかなり深刻です。すぐに手術を行わなければ、将来、繊細な作業ができなくなる恐れがあります」
その言葉を聞いた瞬間、朦朧としていた霜乃の意識が一気に覚醒した。
「北……北斗は……どこなの?
私のスマホ……取ってきて」
必死に体を起こし、震える声で北斗に連絡しようとする。
「おかけになった電話の電源は入っていないため、繋がりません」
無機質な音声が耳に響いた。喉の奥から、かすれた嗚咽が漏れ出す。
霜乃は手に持っていたスマホを思い切り投げつけた。「バンッ!」という鈍い音と共に、右手に鋭い痛みが走る。神経を突き刺すような痛みが、容赦なく彼女を襲った。
「桐島さん、林社長の居場所が分かりました。現在、心理カウンセリング室にいらっしゃいます。香月先生も同行しており、どうやら彼女がショックを受けたようで……林社長のご指示で、誰も入らないようにとのことです」
霜乃は左手で顔を覆った。血と涙が混ざり合い、袖を濡らしていった。
「憎い……憎いよ……
大っ嫌い……北斗……!」
第4話
霜乃は鎮痛ポンプに頼りながら廊下で一夜を過ごし、ようやく手術の順番が回ってきた。
体の痛みも、心の痛みも、もう区別がつかない。痛みが重なり、やがて何も感じなくなりそうだった。
「申し訳ありません、桐島さん。右手は粉砕骨折に加えて、手術まで時間が経ってしまったため、一部の筋肉が壊死しています。これからは重い物を持つのは難しいでしょう」
医者は気まずそうに笑った。
「あなたも医学を学ばれていたそうですね。残念ですが、もうメスを握ることはできないと思いますね。
林社長にご相談されてはどうですか?林家は医療界でも大きな影響力があります。海外で治療すれば、あるいは希望があるかもしれませんよ」
霜乃は首を振り、包帯で覆われた自分の右手を見つめた。今は、指を曲げることすらできない。
「新しいスマートフォンを買っていただけますか?警察に通報したいんです」
その言葉が終わらないうちに、「バンッ」と扉が勢いよく蹴られて開いた。
入ってきたのは、北斗だった。
険しく強ばっていた表情が、包帯だらけで点滴を打たれている霜乃の姿を見た瞬間、わずかに驚きと和らぎの色に変わった。口を開いたが、結局何も言葉は出てこなかった。
彼はすぐに紙とペンを手に取り、書き始めた。
【昨夜、君がそんなに重症だとは思わなかった。その右手は、海外の専門医に連絡して治療してもらう】
霜乃は鼻で笑った。少し可笑しくてたまらなかった。
「いらない。自分の手は自分で治す」
北斗は眉をひそめた。霜乃の反応が気に入らないようだった。
霜乃は離婚のことを口にしかけたが、言うだけ無駄だと悟って口をつぐんだ。
北斗は再び内ポケットから小切手帳を取り出し、金額を記入してテーブルの上に置いた。
【これは君への補償だ。明希のことを責めないでほしい】
その名を見た瞬間、霜乃の全身がわなわなと震え始めた。
「出てって!もう顔も見たくない、林北斗!
何が明希よ、絶対に警察に通報するから!お金なんかいらない!」
彼女はテーブルの小切手を手に取り、真っ二つに引き裂いて、北斗の体に叩きつけた。
北斗は一瞬、呆然とした。霜乃がここまで激しく怒った姿を見るのは初めてだった。
【俺は、明希を傷つけさせない】
その言葉は、鋭い針のように霜乃の心に突き刺さった。
北斗は何も言わず病室を出て行った。部屋には、全身を震わせる霜乃だけが取り残された。
「あと十日……十日で、私たちは本当に終わるのね」
……
「桐島さん、林社長からお花が届いています」
北斗は三日連続で花を送ってきていたが、霜乃は見ることもせず、乾いた声で「ありがとう」とだけ答えた。
松葉杖をついて、簡単に荷物をまとめると、退院することにした。
病室のドアを押し開けて出たところで、霜乃はようやく気がついた。病院のこの廊下全体が花の海で埋め尽くされていた。ここ数日、北斗が送ってきた花とまったく同じ、すべて赤いバラだった。
霜乃の心臓が一瞬跳ねた。北斗は、どうして今日自分が退院することを知っていたの?
だが、次の瞬間、廊下にいた他の患者たちの声が、その幻想を無残に打ち砕いた。
「林グループの林社長って本当に優しいよね。顔を立てるために、顔色一つ変えずに明希先生のために病院中のすべての病室に花を送ったんだって。しかも明希先生のいるフロアは全部リフォームまでしたんだってさ」
「毎日十数万かかってるらしいよ。やっぱり金持ちの恋愛は違うよね」
「しっ!声を抑えて、林社長の奥さんもまだこの病院に入院してるのよ」
……
霜乃は息を整えながら、顔面蒼白のまま壁に手をつき、自嘲気味にひとつ笑った。
歓声が次々と上がり、霜乃は反射的に身を乗り出して下を覗いた。
すると、一階のロビーも真っ赤なバラで飾り直されていて、その中央に北斗と明希が立っていた。
「明希、これからもずっと一緒にいてくれないか?」
北斗は片膝をつき、ありふれた台詞を口にした。
明希は頬を赤らめ、恥ずかしそうにしながら、彼の差し出した指輪の箱を受け取った。周囲の人たちが拍手し、祝福していた。
北斗は明希の唇にキスをした。
霜乃は無意識に自分の唇に触れた。最後に北斗に触れられたのは、いつだっただろう?
たった千日あまりの時間なのに、もう思い出せない。あの頃、彼は緘黙症だけでなく、極度の潔癖症でもあったのかもしれない。
その瞬間、霜乃は自分の世界がまるで大きな芝居のように感じた。
自分の緘黙症の元夫が、元恋人に堂々と愛を告白している。
そうか、愛されないことこそが罪だったのか。
第5話
霜乃は外で少し時間を過ごし、新しいスマートフォンを購入し、警察に通報して被害届を出した。
その後、留学エージェントと下半期の大学院申請計画を決め、10日後にアメリカ行きの航空券も購入した。
彼女は治療と勉強を並行して行くつもりだった。
家に戻ったのは夕方7時だった。部屋の中は半分片付けられていて、ほこりが厚く積もっていた。霜乃は、もう北斗は戻ってこないことを確信した。
食事を取った後、彼女はまた片付けを始めた。
そのとき、ドアが「カチャッ」と音を立てて開き、北斗が入ってきた。
霜乃の動きを見て、彼はまた冷たい表情に戻った。今日は少し違う霜乃を見て、どこが違うのか分からないものの、何かが変わったような気がした。
彼は止まらず、ただそのまま寝室に向かって歩いていった。その後、引き出しをガサガサと引っ掻く音が聞こえた。
そして、急に飛び出してきた彼は、霜乃が整理した北斗の服や細々とした物をめちゃくちゃに引っ掻き回していた。
「何してるの?」
霜乃が前に出たが、北斗の手が彼女を制し、そのまま地面に倒れた。
「ボイスレコーダーはどこ?」
北斗の声だった。それが、彼が霜乃に久しぶりに言った言葉だった。
「ボイスレコーダー?私は取ってない」
霜乃は右手に巻かれた包帯が再び血をにじませ始めたのを感じながら、ゆっくりと言った。
またガサガサと物を探す音が響く。霜乃は顔を上げて見た。今まで見たこともないくらい、北斗は取り乱していた。顔中に汗をかき、ネクタイはゆるんでいて、スーツの袖にはほこりの跡が残っていた。
「ボイスレコーダーはどこだ!」
北斗は止まって、彼女を見下ろすように立っていた。
「言ったでしょ、見てないって!」
霜乃は初めてこんなに強く言い返した。左手を地面につき、よろめきながら立ち上がり、北斗と目を合わせた。
北斗は少し戸惑っているようで、怒りが次第にこみ上げてきているようだった。彼の拳は何度も握ったり放したりしていたが、「バンッ!」と大きな音が鳴り、隣のガラス戸に拳を打ち付けた。ガラスが割れ、音と共に破片が散乱した。
「俺のボイスレコーダー、どこにあるんだ」
北斗はさらに数歩近づき、止まることなく問い詰めた。
彼の右手からは、滴り落ちる血が止まらない。霜乃は、こんなにも狂気に満ちた北斗を見たことがなかった。
彼女は必死に勇気を振り絞り、彼を押しのけて、足を引きずりながら大きなドアから逃げ出そうとした。
「俺は林北斗、18歳。今年、俺は明希に告白したい」
「明希、今年は俺たちが一緒になって2年目の記念日だ。これからもずっと一緒にいたい」
「明希、俺たちは付き合って3年目だ。今年の願いは、これからもずっと一緒にいることだ」
「明希……どうして君は去ったんだ?」
「明希、俺、結婚することになったんだ」
……
その瞬間、北斗はガラガラと物にぶつかり、何かが転がり落ちてきた。それは、古びたボイスレコーダーだった。赤い光が点滅し、その中の内容が再生され始めた。
それは、北斗が若い頃から明希に向けて送っていた情熱的な告白の言葉だった。
「さよなら、明希。また会えるといいな」
「さよなら」
「さよなら」
ボイスレコーダーは衝撃で壊れたのか、繰り返し「さよなら」という言葉を流し続けていた。
北斗は素早く立ち上がり、ボイスレコーダーを拾い上げ、必死にスイッチを押したが、うまくいかないようだった。
霜乃はそのまま立ち止まり、ゆっくりと振り返ると、玄関の靴箱に寄りかかりながら、涙がぽたぽたと頬を伝って落ちていった。
「北斗。
どうして私を愛さないのに、結婚したの?」
北斗は喉を動かし、何か言おうとしたが、結局何も言葉が出なかった。
【聞いて、霜乃。説明させてくれ】
スマホにメッセージが届いた。
霜乃は目を閉じ、深呼吸をして冷静さを取り戻そうとした。
胸の中で込み上げる痛みを無理に押し込める。
「出て行って。全部持って、私の家から出て行って」
北斗は唇を噛みしめ、手に持ったまま壊れたボイスレコーダーを握りしめて、霜乃を越えてドアを開けて出て行った。
【ごめん】
第6話
霜乃はその後、北斗とは一度も顔を合わせなかった。
だが、出発前にもう一度だけ病院に行かなければならなかった。薬を取り替えるためだ。
病院の廊下には、明希のプロフィールが更新され、1階の多くの専門医の中に掲示されていた。
霜乃は何度もそれを見たが、明希の個人の出版論文に驚愕した。
それは、霜乃が大学時代に書いた卒業論文だった!
名前と日付を何度も確認したが、明希の論文は霜乃とほぼ同じ時期に発表されていた。
「桐島さん、こんにちは」
突然、女性の声で霜乃は呼び止められ、振り向くと明希が立っていた。
「少し話をしない?」
明希は片眉を上げ、横にある休憩所を指さした。
……
霜乃は明希を見ながら、確かに完璧な女性だと感じた。白衣はきちんとアイロンがかかり、波状の髪は一本一本が完璧に手入れされている。
明希はニッコリ笑ってから、話を切り出した。
「先日、裁判所からの電話、実は北斗が出たんじゃなくて、あたしが出たんだよ」
彼女は少し困ったような表情で、まばたきをした。
「沈黙って、離婚に同意したってことになるなんて知らなかったの。桐島さん、怒ってないよね?」
霜乃は数秒黙ってから、ゆっくり首を振った。
「怒ってない。離婚は私が望んだことだし、しがみつかれない方が楽だから」
明希は霜乃の答えを気にする様子もなく、すぐに話を続けた。
「それとね、あの日の事故は本当にただの偶然だったの。北斗にもちゃんと謝ったし、大丈夫だって言ってくれた。だから……桐島さんも、気にしないでくれるよね?」
霜乃はじっと彼女を見つめたまま、言葉を返さなかった。
心の中では、今の自分ひとりの力じゃどうにもできないこともあると理解していたし、北斗が明希を庇うのは予想通りだった。
「論文、見たでしょ?」
明希はさらに続けた。声のトーンが少し低くなる。
「そう、あれはあなたが思った通りのものよ。北斗がね、あたしが研究してるって知ってて、自分から渡してくれたの。
この三年間、北斗のことを面倒見てくれてありがとう。あたしは海外で研究に集中してて、ずっと一緒にはいられなかった。でもね、あたしが突然出国したことで……彼、緘黙症になっちゃったみたいで」
そう言って、明希は困ったように額に手を当てたが、すぐに笑みを浮かべた。
「でもあたし、戻ってきてまだそんなに経ってないのに、北斗ずいぶん元気になったのよ!」
霜乃は目を伏せ、手にした看護師から渡されたコーヒーを無意識にかき混ぜ続けた。
「あんたさ、わざわざ来て、北斗がどれだけあんたを愛してるか、見せつけに来たの?」
スプーンを置き、顔を上げて、ブラックコーヒーを一口で飲み干す。
「もういいわ。北斗の過去も、今も、未来もどうでもいい。私、喋らない男なんて興味ないの。
どうぞ、好きなだけ使えば?私の『お下がり』だけどね」
霜乃はもう明希に目もくれず、すっと立ち上がってそのまま会計カウンターへ向かった。
「桐島さん!」
明希は、霜乃の冷たい態度に不満そうに立ち上がり、霜乃の右手を掴もうとした。
掴まれた瞬間、激痛が走り、霜乃は力強く手を振り払った。
「ガンッ!」
霜乃の視界の端に、見覚えのある高身長の人影が入った――北斗だった。
北斗は明希を抱き起こした。明希はさっき欄干にぶつかって倒れていた。
「北斗、大丈夫よ、大丈夫……あたしはそんなにヤワじゃないから。ただちょっと、足元がね」
霜乃の足が一瞬止まる。けれどすぐに無視して歩き出す。その直後、北斗の手が振り上がり、霜乃の頬に張りつけられた。
「パチンッ!」乾いた音が廊下に響き渡り、周囲の患者や看護師が一斉にこちらを見た。
北斗自身も、少し驚いたような顔をした。
「お前……」
自分の手を見下ろしたあと、すぐに無表情に戻る。
「謝れ!」
霜乃は痛みの走る右頬を押さえながら、思わず笑ってしまいそうになった。北斗が自分に言葉を向けてくるとき、決まって明希が関わっている。
自分の何が、彼女に劣ってたの?――でも、もうどうでもいい。
「北斗!なんで桐島さんを叩くの!
いいの北斗。桐島さんには謝ってもらわなくても」
北斗はなおも口を開こうとしたが、明希が自然な仕草で彼の腕にすがり、優しく語りかける。
その瞬間、北斗の表情から、氷のような冷たさがまた少し消えていった。
かつて、霜乃はずっと信じていた。自分がもっと気を遣えば、いつか北斗は振り向いてくれると。
あらゆる文献を読み漁れば、北斗の緘黙症もいつか治ると。
たくさんの未来を、何度も何度も夢に見ていた。
けれど、現実の北斗は――最初から、一度も彼女のものではなかった。
第7話
アメリカ行きの飛行機は午後4時の便だった。
霜乃は正午12時に裁判所の判決書を受け取り、そこから彼女は完全に自由になった。
【午後1時、会社の下のカフェで会おう】
北斗からのメッセージだった。
霜乃は少し考えたが、結局行くことに決めた。
霜乃は荷物を持ち、判決書を手にして、早めにカフェに到着した。
1時から1時半まで、1時半から2時まで、待ち続けた。
北斗が自分から約束したにもかかわらず、彼は来なかった。
霜乃は何度もメッセージを送ったが、全く返信はなかった。
最後に届いたのは、短い文言だった。
【忙しい】
……
「もしもし、桐島さんですか?
私は林社長のアシスタントです。社長からお伝えするように言われました。急な用事で、今お越しできません」
霜乃は黙っていた。それは彼女の予想通りだった。
「社長から伝言です。桐島さんのために、イギリスの手の骨と筋肉を修復する専門家を手配しました。後日、治療のために行っていただけるように調整します。
それに、桐島さんの口座に4億が振り込まれています。これは生活費と治療費です」
霜乃は電話を持った手を上げ、もう片方の手で荷物を持ちながら立ち上がった。
「そんなこと、いらない」と言おうとしたが、目を上げると、道路を挟んだ向こうのカフェに、北斗と明希が座って笑い合っているのが見えた。
明希は少し頭を下げて微笑み、北斗は優しく彼女の髪を整えている。
今日は太陽の光がとても良く、金色の太陽が二人に美しい光を与えているようだった。
北斗は、過去の3年間でこんなに楽しそうにしていることはなかった。
霜乃はすぐにその思考を止めた。
「桐島さん、聞いてますか?」
電話の向こうでアシスタントが話し続けていた。
霜乃は迷うことなく、赤い「終了」ボタンを押し、支払いを済ませると、速足で店を出た。
そのまま、北斗と明希の前に歩み寄り、離婚判決書をしっかりと握り、テーブルに叩きつけた。その瞬間、ジュースとコーヒーが揺れ、明希の服にかかってしまった。
霜乃の右手が再び北斗に掴まれた。
彼はその書類を一瞥もしなかった。
数秒間の沈黙の後、北斗は彼女と喧嘩をしても意味がないことを理解したようで、すぐにテーブルの反対側に回り、紙ナプキンで明希のドレスを丁寧に拭き始めた。
「大丈夫か、明希」
霜乃はしばらく静かに立っていた後、タクシーで空港へ向かった。
「アメリカ行きの旅客はT1ゲートでチェックインをお願いします」
【霜乃、君は明希に謝るべきだと思う】
それは北斗からのメッセージだった。
霜乃は一切迷うことなく、即座にそのメッセージをブロックして削除した。
ID、パスポート、ビザを手に、彼女はセキュリティチェックの係員に渡した。
係員は疑念の目を向けて一瞥した。
「今日は離婚したばかりですか?」
霜乃は荷物を預け、顔を上げて微笑みながら答えた。
「はい、離婚しました」
……
飛行機の冷房は効きすぎていた。霜乃は空港のスタッフに無料のカシミヤブランケットをお願いし、それを体に巻きつけて、深い眠りに落ちていった。
飛行機が離陸するアナウンスも聞こえなかった。
彼女の心の中には、ただ一つの思いだけがあった。
北斗、さようなら。