戻れぬ二人、江海の涯に

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戻れぬ二人、江海の涯に

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国民護衛隊に所属する軍人である婚約者に、99回目のプロポーズをしたが、またも冷たく拒まれた。ついに堀友夏見(ほりとも なつみ)は諦めた。...

Chương (1)

第1章

国民護衛隊に所属する軍人である婚約者に、99回目のプロポーズをしたが、またも冷たく拒まれた。ついに堀友夏見(ほりとも なつみ)は諦めた。もう彼と結婚することを望まず、十年前のあの約束に縛られることもない―― 第1話 国民護衛隊に所属する軍人である婚約者に、99回目のプロポーズをしたが、またも冷たく拒まれた。堀友夏見(ほりとも なつみ)は親友の足立志帆(あだち しほ)に電話をかけた。 「もしもし、志帆。この前言ってた、一緒にアトリエを開こうって話だけど、まだ開きたいと思ってる?来週の新幹線のチケットを取ったよ。M市に帰るつもり」 電話の向こうで志帆が思わず目を見開いた。 「M市に帰るって?近石基之(ちかいし もとゆき)、今じゃもう隊長に昇進したんでしょ?あの人がキャリアを捨てて、あなたと一緒に戻ると思う?」 夏見はスマホを握りしめ、小さく自嘲するように言った。「ううん、私ひとりよ。もう彼とは、終わりが近いの」 その一言に、志帆は信じられないように声を荒げた。「夏見、正気なの?! 近石がまだ新隊員だったころから、あなたはずっと彼のそばで支えてきたじゃない。 任務に失敗して死にかけたときだって、肝臓を提供したのはあなただよ! 今や彼はS市基地で最年少の隊長となり、そんな立派な人の妻として安泰に暮らせるのに―― わざわざこんな田舎に戻るなんて、頭おかしいんじゃない? まさか、近石に何かされた?」 夏見は指先をぎゅっと握りしめ、無理に笑みを浮かべた。 「……ううん、何でもない。ただ、ちょっと疲れただけ」 電話を切ったあと、夏見はその場に力が抜けるように崩れ落ちた。 床に転がる婚約指輪を見つめると、基之に拒まれたときの、あの毅然とした表情が思い浮かんだ。 「近石家の家訓だ。勲章をもらうまでは、結婚は許されない。 悪いけど、君の気持ちには応えられない」 99回のプロポーズ、99回の拒絶。理由はいつも同じ。 夏見はずっと、基之も苦しんでいるのだと思っていた。けれど今日、偶然彼のスマホを見てしまい、その内容がすべてを覆した。 そこには、国民護衛隊の同僚・玉村誠(たまむら まこと)からのメッセージがあった。 【お前さ、何なんだ?勲章の話が出るたびに逃げてばかりだな。お前んとこの許婚、ずっと待ってるんだろ?】 基之の返信を期待してスマホを握りしめた夏見。けれど彼の返事は胸を抉るような内容だった。 【傷つけたくないだけだよ。俺にとって、あいつは妹のような存在だから】 夏見はその言葉を思い出すと、涙が音もなく頬を伝った。懐かしい日々が次々と胸を締めつけた。 基之は幼馴染で、同じ団地で育ち、とても仲が良かった。 お互いの親が決めた許婚の約束が、二人の絆をさらに強めた。 けれど、両親が事故で亡くなってからは、夏見は近石家で暮らすようになった。 それからずっと、彼の背中を追い続けてきた。 「俺、軍人になる」そう言われたとき、夏見は独学で看護を学んだ。彼が傷ついたとき、誰よりも早く手当てできるように。 「短い髪が好きだ」そう言われたとき、十八年間伸ばしていた長髪を迷わず切った。ただ、彼に少しでも見てほしかったから。 初めての任務で彼が瀕死の重傷を負った際、医者が肝臓の提供を求めた。両親でさえためらう中、夏見は迷わず署名した。 あのとき、麻酔から目覚めた基之は、夏見の手をしっかりと握りしめ、声を詰まらせながら言った。 「近石家の家訓では、勲章を取らなければ結婚できない。取れなければ、一生独り身で終わる。 待っててくれるか?必ず勲章を手に入れて、君と結婚する」 彼がそう言ったとき、夏見は信じた。そして十年間、待ち続けた。 ついに彼が功績を挙げ、夢だった勲章を手に入れたとき――夏見はようやく報われると感じた。 だが現実は残酷で、勲章はただの口実に過ぎなかった。 彼にとって、夏見は妹のような存在だ。 回想に沈んでいた夏見は、不意にテレビの光に顔を照らされた。 画面には、今日の任務に従事している基之の姿が映っている。 医務室でインタビューを受ける彼に、記者がマイクを向けた。 「近石隊長、昇進後初の任務はいかがでしょうか。以前と比べて、現在のお気持ちに何か変化はございますか?」 その瞬間、彼の眉間にわずかな皺が寄った。 十八年間も彼を見てきた夏見には、それが苛立ちのサインだと分かる。 どう答えるのだろうと見守っていると――冷たい女性の声が割り込み、記者の質問を遮った。 「失礼ですが、取材はここまでにしてください。私たちは軍人です。マスコミに注目されると困ります」 その声に、夏見はテレビに目を向けた。彼女の知っている人だ。 横島静菜(よこしま しずな)――基地に新たに配属された医者。 この一年間、基之が怪我をするたびに、彼女がいつも治療してきた。 夏見の前で基之も何度か静菜の話をしており、そのたびにどこか嬉しそうだった。 テレビの中で、静菜は記者を押しのけ、綿棒を手に取り、冷ややかな声で言った。 「顔を上げて」 その口調で基之に命じられる者は他にいない。静菜だけが例外だ。 だが基之は怒るどころか、素直に顔を上げ、その瞳には夏見が一度も見たことのない優しさが宿っている。 記者が苛立ち気味に口を挟んだ。「あなたは誰ですか?私が聞いているのは近石隊長のことですよ!」 基之は少しだけ目を細め、唇の端を上げて言った。 「彼女の言うとおりだ」 その瞬間、夏見の指先が掌に食い込んだ。けれど痛みは感じなかった。 もう辛さを感じて見ていられず、リモコンを取ってテレビを消した。 これ以上彼のことを想うのは、失礼かもしれない。 終わりの見えない片想い。自分で始めたのなら、自分の手で終わらせよう。 握りしめた新幹線のチケットを見つめながら、夏見は静かに決意を固めた。 一週間後、彼女はこの街から完全に姿を消す。 もう二度と彼を困らせないために。 第2話 基之が任務を終えて戻ってきた日、部隊はミシュラン三ツ星のレストランを予約し、盛大な打ち上げ会を行う予定だ。 家族同伴が条件なので、基之は珍しく夏見にメッセージを送った。 【今夜八時に打ち上げ会を開く。支度しておけ。迎えに行く】 画面を見た夏見は、いつものように【分かった】とだけ返した。 基之はいつもそうだ。冷たい口調で一方的に予定を告げるだけで、彼女の都合を一度も聞いたことがない。 きっと彼の中では、夏見に対して「自分以外に大事な用事はない」と思っているのだろう。 夜、基之の車が時間ぴったりに夏見の家の前で停まった。 車に乗り込んだ夏見は、助手席にすでに誰かが座っていることに気づいた。 ――静菜。 その瞬間、ドアを閉める手が一瞬止まった。 基之は昔から、誰かが助手席に座るのを嫌っていた。 「視界が遮られる」と言われて、夏見でさえ一度も座らせてもらえなかった席。 それなのに、今そこにいるのは別の女性。 呆然とする夏見を現実に引き戻したのは、静菜の穏やかな声。 「初めまして。横島静菜なの。 もし間違ってなければ――あなたは基之のいとこだよね?」 ……いとこ?一瞬、夏見は息を呑んだ。基之は普段から、自分のことをそう紹介しているのだろうか。 胸の奥に苦みがじわりと広がる。けれど、夏見は無理に笑みを浮かべた。 「ええ、いとこです」 静菜はにこやかに頷き、スマホを取り出して夏見に差し出した。 「せっかくだし、ライン交換しよう?」 そして、半分冗談めかして笑いながら言った。 「この人ね、基地ではいつも私をいじめるのよ。 次やったら、あなたに告げ口するから――そのときは味方になって、彼を止めてね」 もしこの言葉を夏見が言ったなら、基之はきっと笑いもせずに、「子どもみたいだ」「君は昔から変わらないな」と軽く流しただろう。 だが今、彼は違った。静菜の方を見つめ、目尻をやわらかく下げ、声も優しくなった。 「はいはい、分かったよ。君の言う通り」 …… 車内は二人の笑い声で満ちている。二人だけに分かる冗談や、基地での出来事。 夏見は後部座席に座り、一言も口を挟まず、ただ静かに目を閉じて居心地の悪さを誤魔化している。 けれど、耳に入ってくる基之の柔らかな声――自分には一度も向けられたことのないその声色に、堪えきれず瞳が熱くなった。 ようやくレストランに着いたとき、静菜が突然足をくじいた。 「大丈夫?」と基之が即座に駆け寄り、揺るぎない口調で言った。「おぶってやる」。 「平気。自分で歩けるから」赤くなった顔で首を横に振る静菜に、彼は眉をひそめ、強気な口調で言った。 「無理するな」 そう言うや否や、ためらうことなく彼女の腰に腕を回し、抱き上げた。 そして静菜を抱えたまま、夏見に言い放った。「かばん、持って」 呼ばれた夏見は、指先がぎゅっと掌に食い込み、黙って静菜のかばんを掴んだ。 心の中で波打つ感情を必死に押し殺しながら、二人の後を追った。 個室に入ると、すぐに周囲の視線が二人に集中した。 ざわめきの中、誰かが茶化すように声を上げた。 「おやおや、近石さん、横島先生を抱っこして登場とは!そんなに見せつけなくてもいいでしょ!」 「いやぁ、これは完全にイチャイチャでしょ?こっちは独身だ!」 「俺、前から思ってたんだよ。近石さんが横島先生を見る目、普通じゃねぇって!ほら見ろ、やっぱりな!」 騒ぎの後で、ようやく誰かが夏見の存在に気づいた。 「え?そっちは……?」 基之が彼女を友人に紹介することはほとんどなかった。この場で顔見知りなのは、誠ただ一人だけだ。 誠が何か言おうとしたその瞬間――静菜は椅子を引き、夏見に「座って」と目で合図した。そして微笑みながら口を開いた。 「紹介するね。基之のいとこ、堀友夏見さん。 みんな、あんまり怖がらせないでね。こう見えて、すごくおとなしい子だから」 彼女の柔らかな言葉に、場がどっと笑いに包まれた。 「おっと、横島先生、もう義姉さんモードに入ってるか!まだ付き合ってもないのに!」 夏見の顔から血の気が引き、恐る恐る基之の反応をうかがった。 だが彼は怒るどころか、ただ苦笑を浮かべただけ。 そのまま静菜のカップにお茶を入れ、まるで何事もなかったかのように箸を差し出した。 彼と違って、静菜は頬を赤らめながら言った。「もう、やめてよ。せっかくの美味しい料理が冷めちゃうじゃない」 食事の間、誰かが静菜に酒を勧めるたびに、基之はすかさず手を伸ばし、彼女の代わりに杯を空けた。 そんな彼の様子を見つめるうちに、周囲の人々も次第に真剣な表情へと変わっていった。 「なあ、基之さん。俺、見てて思うんだ。あんたら、どう見ても両想いじゃねぇか」 「両想いなら、なぜ付き合わないんだ?」 誰からともなく同調の声が広がっていった。「そうそう、こんなにも好きなのに、ツンデレで何も言わないなんて」 「この前、近石さんが銃弾を受けたとき、横島先生は手術室で泣きながら弾を抜いてたんだぞ。それなのに、近石さんには言うなって口止めしてたんだ」 「そういえば、横島先生、前に『朝の食事が毎日机に置いてあるけど、誰が用意してるのか』って言ってたでしょ?あれは近石さんなんだよ。横島先生が低血糖だと知ってて、毎回『ちゃんと食べさせとけ』って俺たちに言うんだ」 言葉が一つ増えるたびに、夏見の顔色はますます青ざめていった。椅子に座った体は硬直し、まるで心臓を直接殴られているかのような感覚。 そうか、彼らの世界では、自分の知らない時間が流れているのだ。 彼女は家で祈りながら、「早く勲章を取って、結婚の約束を果たして欲しい」と願うことしかできなかった。 この恋は果てしない待ちであり、最初から結末などなかった。 自分の深い愛情は、最初から一人芝居に過ぎなかったのだ。 場が再び盛り上がったとき、ようやく誠が口を開いた。 「おい、もうやめろよ。お前ら、知らないのか?基之にはもう婚約者がいるんだ」 第3話 言い終えると、誠は無意識に夏見の方を見た。その目には、かすかな警告の色が宿っている。 だが、基之のそばにいる同僚たちは気づく様子もなく、むしろ調子に乗って話を続けた。 「おお、お前が言ってるのは基之さんの許婚のことだろ?」 「その相手は家柄もなけりゃ、後ろ盾もない。昔から釣り合わなかったのに、今や基之さんが昇進までした。もうますます釣り合わねぇよな」 「肝臓を提供して何年かそばにいただけのくせに、それを恩に着せて無理やり基之さんと結婚しようとしてるんだろ?」 「俺は、ああいう奴が一番嫌いだ。恩を武器にして、感謝を踏み台にするタイプ」 「恋愛ってのは、互いに想い合ってこそだろ?一方的にモラルを言い訳にして押しつけるのは何なんだ?あいつのやってることは、基之さんの罪悪感を利用してるだけだ。ほんと胸くそ悪い……」 その言葉を聞くうちに、夏見の胸の奥が鈍くえぐられた。まるで鈍い刃で心臓のあたりを何度も何度も抉られているかのようだ。 彼女はテーブルの端をつかみ、ゆっくりと立ち上がった。指先が小刻みに震えている。「……みんなさん、ゆっくり食べてください。私、ちょっと気分が悪いから先に帰ります」 そう言って、夏見は個室を出て行った。 ドアに手をかけた瞬間、背後から荒い足音が迫ってきた。 基之が彼女の手首をつかみ、息を乱しながら言った。「怒ったのか? 気にするな。彼らは昔からああいう奴らで、何でもズバッと言うんだ。もし無礼があったなら、俺が……」 「基之、それは謝るような話じゃない」彼女は自嘲気味に笑い、彼の言葉を遮った。 「じゃあ、何なんだ?」基之の声には戸惑いが混じっている。 夏見はまっすぐ彼の目を見つめ、爪が掌に食い込んだ。 「どうして……みんながいとこだなんて言ったとき、あなたは一言も否定しなかったの?」 基之の体がぴくりと固まり、喉仏がごくりと動いた。けれど、言葉は出てこなかった。 「あなたの心の中では――」夏見の声は震え、今にも泣き崩れそうだ。 「私は……あの人たちが言うように、恩を盾にしてあなたに結婚を強要する卑しい女なの?」 空気が凍りついた。基之は視線を落とし、長い沈黙が夏見の心を鈍く切り裂いていった。 「夏見……君、酔ってるんだ」彼はようやく口を開き、彼女の手首をそっと握った。「送っていくよ」 かつては、その手の温もりに胸が高鳴った。けれど今は―― 「今日、私お酒なんて飲んでない!」夏見は勢いよくその手を振りほどき、血を吐くような声を上げた。 その声は、刃のように二人の間の空気を断ち切った。 基之は二歩ほどよろめき、驚愕のあまり顔を歪めた。 十八年―― これまで一度も見たことがなかった。こんなにも涙と怒りと絶望に染まった夏見を。いつも従順な彼女が、今は呼吸さえも震えている。 「基之、知ってる?来週、私――」 「基之さん!」突然、個室のドアが勢いよく開いた。一人の同僚が慌てた様子で顔をのぞかせた。 「横島先生の足首がひどく腫れてて、すぐに病院へ行かないと!」 基之の表情が一瞬で変わった。夏見の言葉を最後まで聞くことなく、「夏見、ちょっと待ってて。すぐ戻るから――」 そう言い残すや否や、彼の背中はすでにドアの向こうに消えている。 廊下の白い照明が、夏見の顔を冷たく照らしている。 彼女は口を開き、やっと残りの言葉を風に溶かすように呟いた。 「来週……私はM市に帰るの」 …… それ以来、基之は戻ってこなかった。そして夏見も、もう待つことはなかった。 帰りのタクシーで、彼女はまっすぐ別荘へ戻ると、十年間大切にしまっていた一冊の日記帳を取り出した。 それは十年前―― 基之が「勲章を取ったら必ず君と結婚する」と言ってくれたあの日に買ったもの。 その後の十年間、彼女は彼がその勲章を手にする日を、毎日心待ちにしていた。 待つ時間があまりにも長く、彼女は期待と苦しみのすべてを日記に書き留めてきた。 けれど――もう、必要はない。 彼はもう彼女を必要としていない。そして彼女も、もはや書く意味を見いだせない。 震える指先で日記帳を持ち上げ、夏見はゆっくりと暖炉に投げ入れた。 紙が音もなく燃え上がり、少女の想いを込めた言葉が灰となっていく。 十年かけて書き上げたものが、わずか十秒で燃え尽きた。 炎が最も激しく燃え上がったその時、背後から驚愕と怒りが入り混じった声が響いた。 「君、何してるんだ!」 第4話 「それ、君が一番大事にしてた日記帳だろ?なんで燃やしてるんだ?」 基之の睫毛がかすかに震えた。 「もう……好きじゃないの」夏見の声は、遠くからかすかに届くように、淡く響いた。 「好きじゃない?」基之は眉をひそめ、彼女の穏やかな表情の奥に何かの裂け目を探そうとするように、じっと見つめた。 「うん。もう二度と、好きにはなれない」 その瞬間、基之の胸はぎゅっと締めつけられた。まるで体の中から何か大切なものを突然引き抜かれたかのような感覚。 理由は考えなかった。ただ、彼女を見つめたまま言葉を発した。 「明日は静菜の誕生日だ。君にも一緒に来てほしいって言ってるけど……来られるか?」 その言葉を聞いた途端、夏見は唇を噛み締めた。舌の先に、鉄のような血の味が広がった。 明日?――でも、明日は自分の誕生日でもある。 十八年の間、彼女は覚えている。彼が砂糖を入れないブラックコーヒーを好むことも、バスケットボールの練習で痛めた古傷の位置も、毎年の誕生日に食べるのはショートケーキだということも。 それなのに、彼は一度も彼女の誕生日を覚えていなかった。 「基之……」夏見の声は、羽が地に落ちるほどかすかに響いた。「明日が……何の日か、知ってる?」 基之はしばらく考え込んだ末、困惑したように首を振った。「何の日だ?」 夏見はふっと笑った。だがその口元に浮かんだ笑みは、まるで傷口のように痛々しかった。「明日、私は行けない」 基之の眉間にさらに深い皺が刻まれた。十八年の間で初めて、彼女が自分の誘いを断ったのだ。 「俺以外に、何の用があるんだ?」 沈黙を貫く彼女を見つめながら、ふと基之の表情が変わった。「……怒ってるのか?静菜の怪我は本当にひどかったんだ。俺は――」 「違う」彼女は静かに遮った。 「じゃあ、勲章のことか?」彼の声が一気に高くなった。 「夏見、もう俺を追い詰めないでくれ!俺が取りたくないんじゃない、取れないんだ!」 夏見の爪が掌に深く食い込み、声が震えている。「……私は責めてない。ただ、明日は本当に……行けないだけ」 バン!ドアが激しく閉まる音が、静寂を粉々に打ち砕いた。 だが今回は、夏見はもう追いかけなかった。 布団にくるまり、胸の奥に押し込んでいた涙がついに堰を切ったようにあふれ出した。 ――本当に痛いのは、忘れられることじゃない。当然のように忘れられてしまうことだ。 翌朝、目を覚ました夏見が最初にしたのは、枕元にあるスマホを手に取ることだ。 画面が光った。そこに表示されているのは、志帆からの【誕生日おめでとう】という、午前零時ちょうどのメッセージ――ただ一件だけ。他には何もない。 彼女は無意識のうちにインスタを開いた。すると、目に飛び込んできたのは静菜の投稿。 写真の中で揺れるロウソクの灯り。ケーキの前で目を閉じ、願い事をする静菜。 その隣に立つ基之は、これまで見たことのないほど柔らかな表情をしている。 添えられたキャプションには、こう書かれている。【午前零時。わざわざ来てくれて、一緒に誕生日を迎えてくれた】 そして――もっと夏見の心に刺さるのは、基之のコメントだ。【誕生日おめでとう。これからの誕生日も、毎年俺がそばにいるよ】 爪が掌に食い込み、三日月形の傷跡が赤く滲んでいる。けれど夏見は、それに気づかなかった。 昨夜、あのドアを叩きつけて出て行ったのは、静菜の誕生日を祝うためだったのだ。 十八年もの間、基之は一度も夏見の誕生日を覚えていなかったのに、別の女性のためにはわざわざ零時に駆けつける。 「佐藤さん……」夏見は無理に笑みを浮かべながら朝食を口に運び、ふと尋ねた。「今日のご飯、塩は入れた?」 「え?いつも通りですよ」家政婦の佐藤由梨(さとう ゆり)は、不思議そうに首をかしげた。 「じゃあ……なんで……」夏見が言い終える前に、一粒の涙がぽたりと茶碗に落ちた。 気がつくと、頬はすでに濡れている。 …… 今日もまた、一人きりの誕生日か――そう思った瞬間、スマホが震えた。 志帆からのメッセージだった。【夏見、私の現在地を見て!】 返信を打つ間もなく、次のメッセージが届いた。 【正解!今、あなたの大好きなフレンチレストランで席取ってるよ!一緒に誕生日祝いしよう!早く来てね!】 画面を見つめること二秒。次の瞬間、夏見は上着を掴んで飛び出した。 レストランに駆けつけると、息を切らせた彼女の前で、志帆が大きく手を振っている。 髪は少し乱れ、足元にはまだキャリーケースがある。どう見ても、飛行機を降りてすぐに駆けつけてくれたのだ。 夏見の胸の奥が熱くなり、思わず彼女に抱きついた。 「志帆……!」声が震え、涙が滲んだ。「会いたかった……本当に」 M市から二千キロ。志帆は、ただ彼女のために誕生日を祝おうと飛んできてくれた。 同じ屋根の下に住む基之は、「おめでとう」の一言さえくれなかったのに。 ――そうか、覚えているかどうかは、距離や時間の問題じゃない。思っているかいないかの違いだけだ。 その時、横から明るい男性の声が聞こえた。 「夏見、今日は志帆だけじゃない。俺も来たよ」 振り向くと、足立健(あだち たけし)が穏やかな笑みを浮かべて立っている。 志帆の兄であり、夏見にとって最も信頼できる異性の友人。 彼の手には、夏見の大好きなケーキ屋の紙袋がぶら下がっている。 「ありがとう……本当にありがとう。二人が来てくれて嬉しい……」涙で滲む視界の中、夏見は震える声で言った。 両親を亡くして以来、こんなに温かい誕生日は初めてだ。 「お礼なんていいよ」健は微笑みながら、彼女の頭を優しく撫でた。 三人で席につこうとしたその時―― 不意に背後から不穏な声が響いた。 「おい、あれ……基之さんのいとこじゃねぇか?なんでこんな店に?」 空気が一瞬で張り詰めた。 基之がゆっくりと近づいてきた。その瞳は氷のように冷たく、健を射抜いた。そして、冷酷な声で言った。 「予定があるって言ってたのは……この見知らぬ男と会うことだったのか?」 第5話 夏見は伏せた睫毛の影に、一瞬だけ傷ついた色を浮かべて隠した。それでも唇の端を強がるように引き上げ、薄く笑った。 「もしあなたが私のことをそういう人間だと思っているのなら、もう何も言い訳する必要はないわ」 基之の喉仏がごくりと動いた。言い返そうと用意していた冷たい言葉は、舌の先でほどけ、夏見の痛みに滲む瞳を見た瞬間、すべて飲み込まれた。 「基之さん」傍らの誰かが声をかけた。「早く行かないと、静菜さんの誕生日パーティーに遅れるよ」 その言葉が落ちた瞬間、まるで雷鳴のように響き渡った。それを耳にした志帆は、驚きのあまり目を見開いた。 「近石基之!」彼女は信じられないというように声を張り上げた。「あなたがここに来てたのは――他の女の誕生日を祝うためなの!?」 怒りで声が震えている。「今日も夏見の……」 「志帆」夏見が静かに口を開け、志帆の服の裾をそっと引き、小さく首を振った。 基之は眉をひそめ、夏見を見つめた。その目の奥には、言葉にできない感情が渦巻いている。 しかし結局、唇をきつく結んだまま無言で背を向け、反対方向へと歩き去った。 このレストランの座席はすべて、一階のホールに並んでいる。 夏見は視線を逸らそうとしたが、背後のテーブルから聞こえる笑い声が、一言一句、耳の奥まで突き刺さってきた。 彼女は手にしたグラスを強く握りしめ、指の関節が白く浮き上がった。 「そんな顔しないで」心配そうに見つめる友人たちに向かって、無理に口角を上げて笑ってみせた。「本当に、大丈夫だから」 志帆の目が赤くなった。「……なるほど、前にあなたが夜中に電話してきて、もう基之のそばを離れたいって言ってたわけだ」 彼女の声が詰まった。「彼のそばには、もう別の人がいるのね」 そして怒りをこらえながら、言葉を絞り出した。「約束、彼は忘れたの? 勲章を取ったらあなたと結婚するって言った、その言葉を!あなたはそれを信じて、十年も待ってたのに」 志帆の声は震えた。「なのに、今になって――出世して最初に捨てたのが……」 言葉の続きを飲み込み、顔を背けた。 その場に沈黙が訪れた。やがて、夏見の瞳が静かに赤く染まっていく。うつむいたまま、小さな声でつぶやいた。 「……きっと、もう忘れたのね」 あの「勲章」に縛られていたのは、最初から彼ではなく、彼女の方だったのだ。 言い終えると、夏見は気丈に笑い、「さあ、食べよ」と友人たちに声をかけた。 その瞬間、背後のテーブルから突然どよめきが起こった。 「基之さん、賭けに負けたんだから、真実か挑戦か、選べ!」 一瞬の間の後、「……挑戦で」 「よっしゃ!」歓声が湧き上がり、まるで天井が震えるかのようだ。 「じゃあ、ここにいる女子の中から誰でも一人選んでキスして!注意してね――全・員・の・中・か・ら・誰でも、だよ!」 夏見の手にある箸の先からスープがぽたりと落ちた。テーブルクロスにできた赤茶色の染みは、まるで胸の奥に裂けた傷のようだ。 反射的に顔を上げた。その瞬間、彼女の視線は基之の深く底の見えない瞳と真っすぐにぶつかった。 次の瞬間、彼は静菜の後ろ髪をつかみ、耳を塞ぎたくなるほどの歓声の中で、ためらうことなく深く唇を重ねた。 静菜の耳たぶは真っ赤に染まり、指が彼の袖をぎゅっと握った。 夏見はただ静かに見つめている。胸の奥で、何かがパキンと砕ける音がした。 そのとき、耳元で志帆の声が聞こえた。「夏見、早く願い事言って!今言わないと、もう叶わなくなっちゃうよ!」 夏見の睫毛が震え、揺れるロウソクの灯に目を落とした。 二十八本の小さな炎がゆらめく中、そこにはかつてのすべての願いが映し出されている。 ――「基之と結婚できますように」 彼女はゆっくりと目を閉じ、溶けた蝋がケーキのクリームにぽたりと落ちた。 「二十八歳の誕生日の願いは……基之の出世が順調で、勲章を取りたいと思えるような女がそばにいますように」 第6話 願いを言い終えた頃には、基之のテーブルはすでに片付けられ、誕生日会もすっかり終わっていた。外はすでに夜の気配が濃く、健と志帆もそろそろ帰る時間だ。 夏見が彼らを入口まで見送りに出たとき、階段の上で健がふと立ち止まり、振り返った。 彼はもともと多くを語らない性格だが、そのときはまっすぐに夏見の瞳を見つめて言った。 「夏見――本当の愛っていうのは、相手を不安にさせるものじゃない。基之のああいう態度は……」 夜風が彼の言葉をさらっていった。「……それは、愛の形とは言えない」 夏見の目尻がわずかに赤くなり、拳をぎゅっと握った。「うん、健さん……分かってる」 二人を見送ったあと、彼女はあてもなく歩き出した。気づくと、足はいつの間にかレストラン近くの広場にたどり着いた。 夜風に乗って、どこからか笑い声が聞こえてきた。顔を上げると―― 夜空いっぱいに色とりどりの花火が咲き乱れている。その光の下で、基之は静菜の耳をそっと両手でふさいでいる。 彼女を見下ろすその眼差しは、痛いほどに優しい。それは、夏見が一度も受けたことのない、特別な扱いだ。 静菜は空に咲く花火を見上げ、嬉しそうに笑っている。けれど基之の視線は終始その笑顔に釘付けだ。 夜風が冷たくなり、夏見は立ち尽くしたまま、自分の影が花火の光に照らされて揺れるのを見つめている。 そして呆然とした様子で、服の裾を握りしめながら、自嘲気味に微笑んだ。 「……どうやら、私の誕生日の願いは、もう叶っちゃったみたいね」 彼女が振り向こうとしたとき、背後の夜空から突然、異様な破裂音が響き渡った。 驚いて顔を上げた瞬間、基之の鋭い視線とぶつかった。 数発の暴発した花火が流星のように四方へ弾け飛び――そのうちいくつかが夏見と静菜の方へまっすぐ飛んでくる。 刹那、基之の瞳孔がぎゅっと縮んだ。 思考が追いつく前に、彼の体が動いた。脱ぎ捨てたジャケットを宙に投げ、静菜の体をしっかりと包み込んだ。 そのすれ違いざま、彼が起こした風が夏見の髪をかすめた。 ひとつの火の粉が彼女の開いた掌に落ち、肌に小さな火傷の跡を残した。 だが、彼女は痛みを感じていないかのように動かなかった。ただ、彼の背中を見つめながら、夜風に肌の焼けた匂いを任せている。 ――心が何度も置き去りにされると、痛みさえも鈍くなってしまう。 夏見はもう片方の手でそっと体を支えながら、一人で病院へ向かった。 冷たい廊下の白い照明が霜のように降り注ぎ、彼女の細い影を際立たせている。 「お嬢さん、どうしてひとりで?ご家族は?」夜更けの診療室に、看護師の声が響いた。 彼女は一瞬だけ息を止め、小さく答えた。「……家族はいません」 ――あの頃は、両親を失った自分にとって、基之こそが家族そのものであった。 けれど、今はもう違う。アルコールの匂いが急に刺すように感じられ、夏見は包帯で巻かれた掌を見下ろした。 幾重にも巻かれた白布の下でも、心の裂け目だけはどうしても隠せなかった。 手当を終え、タクシーに乗って帰る途中、彼女はスマホを取り出した。画面には静菜のインスタの投稿が表示されている。 夜空に咲く花火の写真と、短いひとこと。 【ふいに、恋がしたくなった】 コメント欄はすでに賑やかで、共通の知人たちの書き込みが溢れている。 【恋がしたくなった?それとも基之さんと恋をしたいってこと?】 【基之さん、まだ動かないの?これ、完全に脈ありでしょ!】 だが不思議なことに、いつも真っ先に【いいね】を押す基之の名前は、【いいね】した人の一覧にない。 ネオンの光が車窓を透かして彼女の顔に揺らめき、スマホの光が淡く唇の苦い弧を照らした。 その瞬間、二日間まったく音沙汰のなかった基之とのトーク画面が、ふいに光った。 【明日会おう】 第7話 スマホの画面に浮かんだ、たった五文字の短いメッセージ。それを見つめる夏見の指先には強い力が入り、節が白くなるほどだ。 胸の奥で、得体の知れない不安が静かに渦巻いている。けれど彼女は、その正体を突き止めようとはしない。 その夜、彼女は何度も寝返りを打ち、夜明けが差し込むまで一睡もできなかった。 そしてようやく、【わかった】と短く返信した。 ――いずれにせよ、終わりをつけなければならないことがある。 約束の場所はKレストラン、昼の12時。 そこは、かつて基之が初めて彼女を連れて行った洋食屋だった。 当時の夏見はナイフとフォークの使い方すら知らなかったが、彼が手を取って教えてくれたおかげで、恥をかかずに済んだ。 約束の日、彼女は基之からもらった白いワンピースを身にまとった。それは彼からもらった最初で最後の贈り物だ。 ワンサイズ小さいそのワンピースを着るために、彼女は必死に食事を減らし、体重を落とした。 それでも、ウエストはまだきつく、呼吸をするたびに苦しくなる。 ドアを押して店内に入ると、基之はすでにいつもの席に座っている。 大きな窓から差し込む日差しが、彼の端正な横顔をやわらかく縁取っている。 目が合った瞬間、彼は久しぶりに優しい声で言った。「今日の君は、とても綺麗だ」 「……ありがとう」掠れた声で、夏見は答えた。 ウェイターがメニューを差し出すと、基之は迷うことなく「ステーキ、ミディアムレアで」と注文し、彼女に視線を向けた。 「君は?」 ナイフとフォークの金属が光を反射し、それは初めてこの店に来た日の光景と同じだ。 ――ただ、もう誰も彼女の手を取って使い方を教えてはくれない。 「ウェルダンでお願いします」夏見はメニューを閉じ、金色の文字を指先でそっとなぞった。 ウェイターが去ると、基之はグラスを手に取った。立ち上る水蒸気が、彼の表情をかすかに曇らせた。 「覚えてるか?初めてここに来たとき、俺が国民護衛隊に入りたいって言ったこと」 彼の親指が無意識にグラスの縁をなぞっている。「両親――二人とも元軍人なのに、反対してて。でも君だけが言ってくれた……」 「やりたいことは、やってみたらいい」夏見が小さく続きを口にした。 睫毛の影が頬に細やかな揺らぎを落とした。 「……あの頃の私はね」彼女は小さく笑ったが、目は暗いままだ。 「何も分かってなかった。ただ、そう言うとあなたが嬉しそうだったから」 基之の手の中で、グラスがかすかに震えた。 しばしの沈黙のあと、彼の喉仏が上下した。「この何年も……」 ナイフとフォークがぶつかる音の中で、彼の声はより低く響いた。 「俺は走ることばかりで、一度も振り返らなかった。君がちゃんとついてきてるかどうかも」 彼の指先は白くなるほど力が入っている。「ずっと俺の背中を追いかけてきて、疲れなかったのか?」 基之がふと顔を上げると、夏見が小さく微笑んでいるのが見えた。その笑顔には、かすかにえくぼが浮かんでいる。 「その頃の私はね」彼女の声は、溶けかけた蜂蜜のように柔らかい。 「あなたは私の宇宙のすべてだった。星を追いかける人が疲れると思う?」 微笑みはやがて、明らかな寂しさへと変わった。「でも今はね……」彼女は目を伏せ、テーブルクロスを見つめながら言った。「もう、追いかける力がないみたい」 「え?」基之が身を乗り出した。 「なんでもない」夏見は髪を耳にかけ、本音を隠さずに尋ねた。 「今日、私を呼び出したのは、何を話したかったの?」 基之は目を逸らし、喉を鳴らした。 「昨日……静菜がインスタで『恋がしたい』って投稿してるのを見たか?」 「うん、見た」グラスの反射が夏見の鎖骨にちらついた。「それで?」 「実は……この数年間、俺は君に嘘をついてた」基之の睫毛が震えた。 「勲章が取れなかったって話…… 本当は、俺自身が受け取る資格を諦めたんだ」 「知ってるわ」 「――知ってる?」基之はふと顔を上げ、目を見開いた。 夏見は何も説明せず、ただ静かに彼を見返した。「続けて」 彼は力を入れて、やっと喉仏が一回ごくりと動いた。 「今になって……あの勲章を取りたいと思ってる」 押し殺したような声で彼の唇からこぼれる言葉は、それぞれが棘のように夏見の胸に突き刺さった。麻痺していたはずの感覚が、まるで再び息を吹き返したかのように、はっきりと痛みを訴えている。 基之は焦燥のあまり身を乗り出した。 「静菜の家は厳しいんだ。結婚を前提としない交際なんて、彼女の父親が許すわけがない」 ――じゃあ、私の十八年は? 夏見は彼の焦りに満ちた表情を見つめ、突然問い詰めたくなった。 ――もし静菜が結婚を前提とした関係しか許されないとしたら、私はどうする? あの十八年間は、一体何だったのだろうか。 けれど、その問いは飲み込んだ。 なぜなら、その答えは――すでに分かっているからだ。 彼女はただ黙って、硬くなったステーキのかけらを口に運ぶ。 噛みしめるたびに、歯の間で抵抗する固い肉が、あの十年も続いた絶望的な日々そのもののように感じられる。そう、彼女は彼が勲章を取るのを待ち続けた日々。 「……年を取ったのね」夏見がぽつりとつぶやいた。 「え?」基之のフォークが空中で止まった。「どういう意味だ?」 「つまり――」夏見は皿を押しのけ、陶器がぶつかる軽い音が響いた。 「私たちの関係は、このステーキみたいなものよ」 ナイフを指の間で軽く回しながら、「焼きすぎて硬くなって、もう飲み込めない」 彼女は、基之の代わりにミディアムレアのステーキを切り分け、皿に盛ってそっと彼に差し出した。 完璧な菱形に整った断面には、彼に教わったナイフの跡がそのまま残っている。 「食べてみて」夏見は指先でテーブルを軽く叩いた。「ちょうどいい焼き加減――」 その言葉を言い終える前に、基之の表情が一瞬で暗く沈んだのが分かった。 「……あなたと彼女みたいにね」夏見は穏やかに笑みを浮かべ、最後の言葉を付け加えた。 「焼き加減も完璧よ。あなたにぴったりだわ」