夕暮れの山に隠された夢

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夕暮れの山に隠された夢

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結婚してちょうど五周年を迎えたその夜、朝倉恵梨(あさくら えり)はお腹の中の四カ月目の双子を失った。 土砂降りの中で、恵梨は、夫の牧原...

Chương (1)

第1章

結婚してちょうど五周年を迎えたその夜、朝倉恵梨(あさくら えり)はお腹の中の四カ月目の双子を失った。 土砂降りの中で、恵梨は、夫の牧原圭吾(まきはら けいご)が彼の初恋の白石詩月(しらいし しづき)とオフィスでが絡み合う光景を、はっきりと見た。 口では詩月のことを憎むと言いながらも、圭吾は恵梨に隠れて四カ月ものあいだ、詩月と関係を続けていた。 未練はもう、どこにもなかった。恵梨は離婚協議書を整え、圭吾に差し出した。だが圭吾は、胃痛を訴える詩月に付き添っており、書面に目も通さずにサインした。 そこまで詩月が好きなら、譲ってあげる。恵梨はそう決め、背を向けた。 第1話 切迫流産で救急搬送されたその日、医師は牧原圭吾(まきはら けいご)に何度も電話をかけたが、始終つながらなかった。 外では土砂降りの雨が降りしきる。朝倉恵梨(あさくら えり)は血に染まったベッドに横たわり、痛みに喉を裂くような悲鳴を上げた。医師と看護師がベッドを押し、慌ただしく手術室へと運び込む。 「もう待てません。すぐに手術を始めます。これ以上遅れれば、母子ともに命がもちません!奥様に何かあったら、牧原様に殺されかねません!」 分厚い手術室の扉が勢いよく閉じられた。けれど、手術が終わるまで、圭吾は現れなかった。 そして、恵梨の腹の中で四か月目まで育った双子は、光を見ることなく、その命を閉じた。 恵梨が目を覚ましたとき、医師はまだ圭吾に電話をかけ続けている。 「牧原様、どうなさったんでしょう……奥様のお子さんはお二人とも助かりませんでしたのに、どうしてお電話がずっとつながらないんでしょう?それに、今は電源まで切られているようです!」 恵梨はぼんやりと天井を見つめたまま、身じろぎひとつしない。圭吾がどこにいるのか、彼女は知っている。帰国したばかりの初恋の女と、いま絡み合っている。 お腹の子を死なせたのは、彼だ。 昨日は二人の結婚五周年の記念日だった。恵梨はテーブルいっぱいに料理を並べ、圭吾の帰りを待っていた。 けれど料理がすっかり冷めても、圭吾は帰ってこなかった。 会社で残業しているのだと思い、恵梨は土砂降りの中、会社へと足を向けた。だが、社長室のドアを押し開けたその瞬間、彼のスマホの中で何度も見たあの女が、そこにいた。 白石詩月(しらいし しづき)――圭吾の初恋。 五年前、二人は深く愛し合っていた。けれど詩月は、圭吾がどん底にいた時期に、自分の将来のため迷いなく彼のもとを去って、海外へ渡った。 それからの五年間、誰かが詩月の名を出すたび、圭吾は平然と答えた。 「彼女のことはもう忘れた。覚えているとしても、憎しみしかない」と。 忘れた証拠だと言って、圭吾はかつて二人で撮った写真を破り、詩月にまつわるものをすべて処分した。 だから恵梨も、彼がもうとっくに彼女のことを忘れたのだと信じていた。 けれど結局、彼は皆を欺き、自分すら欺いていたのだ。 「何してるの、圭吾!離して!」 突如、大きな物音が響き、恵梨の思考の思考が一瞬で断ち切られた。顔を上げると、圭吾が片手で詩月の腰を引き寄せて机に腰掛けさせ、もう片方の手で荒々しく彼女のブラウスのボタンを外していた。 「何って?」 圭吾は身を屈め、荒々しく詩月の唇を噛みつぶした。 「償うために戻ってきたんだろ?五年前、俺を置き去りにして、あんなに苦しませておいて……いいか、償いたいなら、体で払え。いつか飽きたら、放してやる」 「……っ!」 痛みに顔を歪めながらも、詩月は圭吾の首に腕を回した。甘い声が唇の隙間から漏れた。 「この方法で償えるなら、私はそれでいい。でも、圭吾……私たちの間には、もう憎しみしかないの?」 「何を期待してる?俺はもう結婚してるんだ。どうした、後悔でもしたか? 今さら俺と一緒になりたい?もう遅い」 そのまま彼は詩月の細い腰を掴み、身を屈めて唇を塞いだ。掠れた声が、抑え込んだ熱を帯びていた。 「ごめんなさい、圭吾。あの時、わざとあなたを置いていったわけじゃないの。私のことを許して。もう一度、やり直せない?ねえ、朝倉さんと離婚して……」 「何様のつもりだ。恵梨と離婚しろだと?俺は彼女を愛している。一生離婚なんてしない」 「じゃあ、放して。行かせてください!」 詩月は彼を押しのけようとしたが、圭吾は微動だにせず、放すはずもなかった。 「行かせる?詩月、覚えておけ。これはお前の負い目だ。返しきるまで、どこにも行かせない」 詩月は目を閉じ、涙がひと筋、こめかみを伝った。 彼女が海外へ出なければ、圭吾と結婚したのは本来、彼女だったのに。 熱を帯びた息遣いと、机を打つ鈍い衝撃音が、波のように鼓膜を打つ。 恵梨は扉の外に立ち尽くし、圭吾の恍惚とした表情を見つめていた。 胸の奥が裂かれるように痛い。 ――この何年、自分はいったい何だったのだろう。 思考がぐちゃぐちゃに絡まりながら、恵梨は彼らが何度も重なり合うのをただ見つめていた。そして、抜け殻のようにエレベーターに乗り、会社を後にした。 だが、車に乗り込んだ瞬間、あまりの悲しみに腹部が激しく痛み、出血が始まった。 すぐに病院へ運ばれたものの、子どもは助からなかった。 第2話 「奥様、牧原様はきっとお忙しいんだと思いますよ。ご安心ください、こちらから引き続き連絡を試みてみます。それか、他にご家族の方で、付き添ってくださる方はいらっしゃいませんか?」 医師がおそるおそるそう尋ねると、恵梨はゆっくりと瞬きをして、目尻からひとすじの涙が滑り落ちた。 ほかの家族? 恵梨が二十二歳のとき、父が病に倒れ、彼女を生涯の友の息子である圭吾に託した。 八歳年上の彼は、飄々としていて何事にも執着がなく、しかも忘れられない恋人がいると噂される男だった。 恵梨は、そんな彼と結婚するなんて一度も考えたことがなかった。 それは、詩月が海外へ去るまでのことだった。詩月を失ってからの圭吾は、何もかも投げ出したように日々を過ごし、恵梨もまた、父の急逝で一気に生活が傾いた。 そんな、互いに寄るべのなかった時期に、二人は支え合うようにして過ごし、やがて圭吾のほうから恵梨にプロポーズしてきたのだ。 恵梨はそれを、てっきり家どうしの都合のいい結婚だと思っていた。ところが結婚したその夜、圭吾は彼女をリビングの大きな窓に押しつけ、何度も何度も求めてきた。 彼は彼女の柔らかく細い腰を掴み、耳元に唇を寄せて囁いた。 「恵梨……ありがとう。俺を救ってくれて」 そのたった一言で、恵梨の心は、最初の抵抗から完全な恋へと落ちていった。 結婚してからの圭吾は、まるで人が変わったように優しくなった。恵梨を何よりも大切にした。 五年のあいだ、彼は恵梨の生理の日を覚えていて、風邪を引けば一晩中そばにいてくれた。恵梨がふと口にした小さな願いも、ひとつずつ叶えてくれた。 そして恵梨が妊娠を告げたその日、圭吾は彼女の目の前で、スマホに残っていた詩月の写真をすべて消した。 さらに、詩月に関するものをしまっていたその部屋を開け、中にあった思い出の品をすべて処分し、そこを赤ちゃんのための部屋に作り替えた。 「この部屋は、これから俺たちの子どもの部屋にしよう。好きに飾っていいからな」 恵梨は少しためらいがちに問いかけた。 「圭吾、本当にもう吹っ切れたの?あんなに彼女のことを愛していたのに」 「恵梨、何度も言っただろ。もう彼女のことは愛してない。もし気持ちが残っていたとしても、それは憎しみだけだ。あいつはもう過去の人間だよ。お前こそが、俺の未来なんだ」 彼がそこまで言うから、恵梨も信じたのだ。 これまでの妊婦検診には、どれだけ忙しくても圭吾は必ず付き添った。 恵梨は採血が怖いといえば、圭吾は後で山ほどプレゼントを買ってご機嫌をとってくれた。 朝から晩まで、彼はほとんど彼女のそばを離れなかった。 けれど、誰が知り得ただろう。詩月はとっくに帰国していて、しかも彼の手で隠されていたなんて。 詩月のことを憎んでいるなんて、全部嘘だった。 本当に憎んでいるなら、一緒に寝たりするだろうか?本当に憎んでいるなら、妻との結婚記念日の夜に、彼女のもとへ行くだろうか? 「奥様、牧原様からお電話です!」 医師がちょうど電話に出ようとした、恵梨がそれを止めた。 「もういいです。今日私が流産したことは、圭吾には言わないでください」 恵梨は自分で通話を切り、そこにいる医師に視線を向けた。 「退院の手続きをお願いします」 医師は困ったように眉をひそめる。 「ですが、奥様は流産されたばかりで、お体がかなり弱っています。牧原様にお迎えをお願いしたほうが安心かと……万が一のことがあると、私どもでは責任を負いかねます」 「大丈夫です。何かあっても、自分で責任を取りますから」 病院を出ると、恵梨は弁護士事務所へ向かった。 彼女の求めに応じて、弁護士はほどなく離婚協議書を完成させた。 「朝倉様、こちらがご要望に沿って作成した協議書です。ご本人と牧原様お二人の署名がそろえば、正式な離婚手続きに入ることができます」 「ありがとうございます」 恵梨は迷いもなく、自分の名前を書き入れた。 あとは、圭吾のサインをもらうだけだ。 手元の離婚協議書を見つめながら、恵梨はふっと鼻で笑った。父がこれ以上ない縁だと信じていた結婚が、たった五年で終わるなんて。 第3話 恵梨が家に戻ると、運転手が車を洗っている。昨夜、病院に運ばれたときに使った車で、どれだけ洗っても血の跡が落ちないらしい。 恵梨はまっすぐ運転手のところへ行き、クレジットカードを一枚差し出した。 「これで、まったく同じ車を一台買ってきて。この車はあなたにあげる。けど、二度とこの家に停めないで」 運転手が出ていったあと、恵梨はリビングに入った。圭吾はすでに帰っていて、恵梨の姿を見るなり、真っ先に抱きしめようと手を伸ばしてくる。 「恵梨、俺、帰ってきたよ。会いたかった?赤ちゃんは?パパのこと待ってた?」 恵梨は表情ひとつ変えず、さりげなく身をかわした。圭吾は眉をひそめる。 「どうした?昨日俺が帰れなかったから、怒ってる?昨日は、会社のことでバタバタしててさ、徹夜だったんだよ。でもね、ちゃんとプレゼント買ってきたよ」 圭吾が手を叩くと、数人のボディーガードが次々とプレゼントの箱を運び込んでくる。 けれど恵梨は視線すら向けず、ふと彼の胸もとに目を落とした。圭吾の鎖骨のあたりに、赤い跡が残っている。白いシャツには、口紅の色がくっきりとついていた。 目の前の男を見つめながら、恵梨はどうしても理解できなかった。どうしてこの人は、他の女と関係を持ったあとで、何事もなかったように、こんな顔で自分の前に立てるのだろう? 「どう?気に入った?気に入ったなら、ちょっと抱っこさせて。疲れてるの」 恵梨は動かなかった。触れたくなかった。汚らわしいと思った。 「私も、疲れたわ」 「疲れた?もしかして、双子ちゃんが元気すぎるのかな?」 圭吾はそう言って、恵梨のお腹に耳を当てた。 「パパだよ、二人とも何してるの?」 しばらく耳を当てていた圭吾は、やがて眉をひそめる。 「恵梨、なんだか、お腹が前より小さくなってないか?最近、食欲ないのか?今日は俺がご飯作るよ。お前、少し痩せすぎだ」 そう言うと、圭吾はキッチンへ入っていった。 暖かなオレンジの光に包まれながら、彼はエプロンをつけて手際よく支度を始める。 恵梨の妊娠を知った日から、彼は料理を習い始めていた。 妊婦にどんな食材が栄養になるのか、赤ちゃんの体重をどう管理すればいいのか、さらには産後の回復期に食べるべきものまで、圭吾は一つひとつを、まるで専門家のように言い当てる。 この四か月間、圭吾がいちばん長く姿を消していたのは、料理を習いに行っていたときくらいだった。 恵梨は目の前の男をじっと見つめ、ぼんやりと考え込んでいた。けれど、結局、抑えきれずに口を開く。 「圭吾、昨日の夜、本当に会社で残業してたの?」 包丁を持つ彼の手がピタリと止まり、少し間を置いてから答える。 「そうだよ。まさか俺がお前に嘘をつくとでも?」 「もし、いつか詩月が戻ってきたら、あなたはどうするの?」 恵梨の口から詩月の名が出た瞬間、圭吾は思わずぎくりとした。 振り向き、彼女が何かに気づいたのかと、圭吾は一瞬疑う。 けれど恵梨の表情は穏やかで、詩月のことを知っているようには見えなかった。 「恵梨、詩月が戻ってこようと、もう俺には関係のないことだ」 圭吾はそう言って近づき、恵梨を抱き寄せる。 「たとえ本当に戻ってきたとしても、俺の中にあるのは憎しみだけだ。彼女にしたことは、全部その憎しみのせいだ。でもお前のことは、心から愛してる」 恵梨は眉を寄せ、さらに何か言おうとした。そのとき、圭吾のスマホが鳴った。彼はそちらに目をやると、あわててエプロンを外す。 「恵梨、ごめん。会社で用事があって、ちょっと行ってくる。眠かったら先に寝てて」 恵梨は思わず笑いそうになった。 「また会社?私が妊娠してから、あなたの会社の用事って、やけに多くなったわね」 「仕方ないだろ、恵梨。双子のためにも、もっと頑張らなきゃいけないんだ。先に行くよ。お前は早めに休んで、俺を待たなくていい」 「圭吾、お腹が痛いの。今日は会社に行かないで、そばにいてくれない?」 恵梨は引き留めたかったわけではない。 ただ、彼の口にする愛という言葉に、どれほどの重みがあるのか――それを確かめたかっただけだ。 「もう、わがままを言うな。お腹が痛いなら運転手に病院まで送ってもらって。俺、すぐ戻るから!」 結局、行くのだ。恵梨の中で、何かが音を立てて落ちた。 「わかった。じゃあ、この書類にサインしてから行って」 「なんの書類?」 圭吾はポケットから万年筆を取り出し、書類に目も通さないまま、自分の名前を書きつけた。 「どんな書類でもいいさ、恵梨。お前が俺の命を欲しいって言うなら、それだってやる。本当に会社の用事があるんだ。食べたいものがあれば、お手伝いに作ってもらって。俺はもう行く」 彼はうつむき、恵梨の額に軽く口づけると、待ちきれないようにその場を後にした。 あまりにもあっさりとサインしたので、恵梨には「これは離婚協議書だ」と告げる隙すらなかった。 けれど、それでいい。彼が知らないままでいい。 第4話 離婚協議書をバッグにしまうと、恵梨は運転手に「圭吾についていって」と告げた。圭吾の車を追っていくと、やがて隣の住宅街の一軒家の前で止まった。 圭吾が車から降りると、ボディーガードが慌てて駆け寄ってきた。 「牧原様、白石様が胃を痛めておられます。いつもの持病です。つい先ほど病院から戻られました。医師によると、ここのところ食事が十分でなかったせいで、症状が悪化したとのことです」 その言葉を聞き終えると、圭吾の表情が一変した。 「頼んでおいた家政婦は?一日三食、時間どおりに作れって言っただろ。もし彼女が食事不足で具合を悪くしたら、全員責任を取ってもらうぞ」 「家政婦は料理を用意しましたが、白石様は召し上がらず……牧原様の作ったご飯じゃないと食べたくないとおっしゃっていました」 圭吾は眉を寄せ、冷たい声でありながら、どこか諦めたように吐き捨てる。 「まったく……自分を何様だと思ってるんだ。俺がわざわざ料理を作ってあげるほどの女か?」 「でも、白石様が帰国されてから体調を崩されたと伺って、牧原様はお料理をお習いになりましたよね。この数か月、家政婦が見つからない間は、毎日ご自身でお作りになったお料理を、私どもに持たせて白石様のお宅までお届けさせておりました……牧原様、やはりまだ白石様のことをお忘れになれないのではないでしょうか?」 圭吾は鋭く目をやった。 「俺が詩月に料理を作ってることは、絶対に恵梨には言うな。わかったな?」 ボディーガードは何度も頷く。 「承知しております。決して口外いたしません」 「それから、食材を買ってこい。詩月は胃の調子が悪いから、あっさりしたものを用意しよう。豆腐と鶏ひき肉のあんかけが好きだし、それからかぼちゃの煮物もいいな。豚肉を使うなら、脂の少ない新しいのを……」 口では「詩月なんか憎んでる」と言いながら、彼女の好きな料理の名前がすらすら出てくる。 真剣な眼差しで指示を出すその横顔を見て、恵梨は思わず冷たい笑みを漏らした。 ――そういうことだったのか。 彼が料理を習ったのは、恵梨が妊娠して食生活を心配したからじゃない。 胃の弱い詩月のためだったのだ。 胸が締めつけられて息ができない。恵梨は唇を震わせながら、かすかに声を出した。 「……家に帰りたい」 家に戻ると、恵梨はまっすぐ赤ちゃん部屋へ向かった。 妊娠してからのこの期間、二人は一緒にこの部屋を整え直していた。 圭吾は「子どもが好きなんだ。自分の子どもが欲しい」と言っていた。 彼女が双子を身ごもったと知ったとき、圭吾は我を忘れるほど喜び、次々と物件を買い与え、彼女の口座へ繰り返し大金を振り込んだ。 けれど、今、目の前に並ぶベビーベッドや哺乳瓶、小さな服や靴下を見つめても、恵梨の胸に込み上げてくるのは、痛みだけだ。 彼女は黙々と片づけを始める。小さな服や靴下をすべてゴミ箱に放り込み、お手伝いを呼んでベビーベッドも運び出させた。 夜が明けるまで、彼女はひとときも眠れなかった。何もなくなっていく赤ちゃん部屋を見つめながら、彼女の胸の中まで空っぽになっていく。 「奥様、これは何でしょうか?捨ててしまってよろしいですか?」 片づけを終えかけたとき、お手伝いがクローゼットの奥にしまわれていた箱を見つけた。 恵梨は手を伸ばしてその箱を受け取った。 箱のふたを開けると、中には圭吾がかつて破り捨てた写真、投げ捨てた手紙、そして数えきれないほどの小さな贈り物が詰まっている。 恵梨は震える手で写真を拾い上げた。ぐちゃぐちゃに破かれていたはずのそれは、圭吾が一枚ずつテープで貼り合わせ、詩月の顔を元の形に戻していた。 胸の奥に細かな痛みがじわじわと広がる。恵梨は唇を噛み、目のふちが熱くなる。 ――嘘だ。全部、嘘だ。 彼は彼女の目の前で芝居を打って、詩月なんてもう愛していない、忘れた、彼女に関するものは全部捨てた――圭吾はそう言った。 けれどその裏で、彼はこっそりと拾い戻し、こうしてまたここに隠していたのだ。 「ふっ……」 恵梨は苦笑がこぼれ、指先が震えるほど写真を握りしめる。けれど、結局は何もせず、そのまま写真を箱に戻した。 ちょうどそのとき、スマホの通知音が鳴った。 誰かが友だち追加をしてきている。 アイコンを見ると、詩月だ。 恵梨はほとんど迷わず承認した。するとすぐに、詩月から一枚の写真が送られてきた。 ――二人が裸のまま並んでベッドに横たわっている写真だ。 圭吾はぐっすり眠っていて、その頬に詩月がそっと口づけしている…… 画面を見つめながら、恵梨の胸に鋭い痛みが走る。 もう圭吾のことなんて気にしない、とあれほど自分に言い聞かせたのに。どうしてまだ、こんなに痛むんだろう。 第5話 【朝倉さん、私が誰かもう分かってるわよね。白石詩月、圭吾の初恋。さっきの、全部見たでしょ。圭吾が本当に好きなのは私よ。あなたと結婚してるって言っても、口では「もう憎んでる」って言ってても、私が胃が痛いって言えば彼はすぐ来る。ちょっと機嫌を悪くしてみせれば、そのままベッドに来るの!】 続けて、今度は別荘の内装をぐるりと撮った動画が送られてきた。 その内装を見た瞬間、恵梨は息をのんだ。 【どう?見覚えあるでしょ。あなたの家とそっくりよね?この別荘は圭吾が私にくれたの。五年前にもう内装までやってくれた、私たちの家よ。あなたが今住んでるのは、そのコピーにすぎないの。私が海外に行かなかったら、あなたなんて最初から彼と結婚できない。空気読めるなら、さっさと圭吾と離婚して】 画面を消して、恵梨は一言も返さなかった。 そのあと三日間、圭吾は家に帰ってこなかった。 【出張に行くから、三日後に戻ってくる】とメッセージだけが届いた。 一方で、恵梨が雇っていた探偵からは写真が次々と送られてくる。 この三日間、圭吾はずっと詩月と一緒だ。 二人は海外旅行に行き、エッフェル塔の前でキスを交わし、セーヌ川沿いでは肩を寄せ合って踊っていた…… まる三日、べったりと寄り添い、外に出ていないときはホテルで絡み合っていた。 これらの写真はどれもこれも、恵梨の胸をえぐるようなものばかりだ。 けれどこの三日間、恵梨のもとに圭吾からの写真も届いていた。 エッフェル塔、セーヌ川沿い──どれも圭吾ひとりしか写っていない写真。 ただ、彼は気づいていなかった。よく見れば、その端々には詩月の気配がしっかりと写り込んでいた。小さくのぞくマニキュアの指先、ワンピースの裾──それは詩月が恵梨に向けて、わざと見せつけるように撮ったものだ。 「奥様、牧原様はもう飛行機にお乗りになりました。まだ追跡を続けますか?」 「いいえ、もう結構です。これが報酬です」 探偵を帰らせると、恵梨は自分の荷物を片づけ始める。 この数年、圭吾にまつわる物を、捨てるものは捨て、寄付するものは寄付し、丸一日かけてようやく片づけ終えた。 翌朝早く、恵梨は病院へ再診に行った。 産婦人科の入口でちょうど詩月と鉢合わせる。 恵梨の姿を見た詩月は、あからさまに挑むような笑みを浮かべる。 「朝倉さん?産婦健診?」 初めて真正面から向き合ったが、詩月の敵意はむき出しだ。 けれど、恵梨は落ち着いたままだ。 「ええ。偶然だね、白石さん」 「私が何しに来たか、知りたい?」 詩月は眉をひょいと上げて、勝ち誇ったように言う。 「私も検診よ。妊娠したの。誰の子かなんて、あなたなら分かるわよね?」 恵梨の胸の奥がかすかに震えた。そうか、彼女は妊娠したんだ。 なんて皮肉なんだろう。自分の子はもういないのに、彼女は子を授かった。 これも、そういうめぐり合わせなのかもしれない。 恵梨はふっと笑った。 「おめでとう」 それだけ言って、恵梨は診察室に入った。 「奥様、検査の結果を見るかぎり、お身体に大きな問題はありません。今後のご妊娠にも影響はないと思われます。ただ、今回はお二人分を流産されていますので、これからは少し気をつけてお過ごしになったほうがいいですね……」 医師の言葉が終わらないうちに、診察室のドアが勢いよく開け放たれた。 詩月がにやりと笑う。 「やっぱり流産したんだ?本当に流れちゃったんだ。ふふ、やっぱりね、神様っているのね」 恵梨は眉をひそめる。 「白石さん、こんなふうに押しかけるのはさすがに失礼じゃない? ご両親に、最低限の礼儀って教わってないの?」 「礼儀?あなたに言われたくないわ。人の男を掴んで離さないで、彼が誰を愛してるか分かってるくせに、まだ離婚しないのはどっちよ。圭吾がずっとあなたと離婚しなかったのは、あなたがお腹に子どもを宿してたからよ。でも、もういないんだから、これで圭吾がどっちを選ぶか、見てなさいよ」 恵梨の表情がすっと冷たくなる。 「白石さん、ちょっと自惚れすぎじゃない?圭吾はずっと、あなたが五年前に勝手に出ていったことはずっと彼の中引っかかっているのよ。彼が、本気であなたを愛してるって思ってるの?」 「圭吾が私を愛してないって?じゃあ、あなたを愛してるとでも?」 詩月の目に、今度は憐れむような色が浮かぶ。 「私ね、戻ってきてもう4か月になるの。その4か月、圭吾は、私の生理の日まで覚えてて、自ら温かい飲み物を作ってくれたり、お腹をさすってくれたりしたのよ。私が駅前のケーキが食べたいって言ったら、彼は大雨の中でも買いに行ってくれた。フランスに行きたいってぽろっと言ったら、すぐチケットを取って連れて行ってくれたのよ。 憎んでるって口では彼は言うけど、心の中にいるのは最初から私だけよ。あなたなんて、ただの代わり。圭吾は最初から、あなたを愛したことなんてない!」 第6話 恵梨は、詩月がこのことを圭吾に話すだろうと思っていた。けれど、数日経っても圭吾は何事もなかったかのように、いつも通り優しくしてくれている。 出て行く日が近づくにつれて、恵梨は、離婚したあとのことを考え始めた。これから、自分は何をして生きていけばいいのだろうかと。 本当は、教育支援の教師として、環境の整っていない過疎地の学校で子どもたちを教えるのが夢だった。けれど、その夢を叶えるチャンスが自分にあるのかどうかは分からない。 ふと、昔そういう活動をしていた先輩のことを思い出し、恵梨は電話をかけて会う約束をした。 五年ぶりに再会した藤川俊哉(ふじかわ しゅんや)は、ほとんど変わっていなかった。銀縁の眼鏡をかけ、相変わらず穏やかで落ち着いた雰囲気を漂わせている。 恵梨が教育支援に興味を持っていると聞いて、俊哉の目がぱっと明るくなった。 「本当に教育支援に行きたいのか?結婚したって聞いたけど、牧原さんはそんな遠い場所に行くのを許してくれるのか?」 恵梨はうつむいてコーヒーを一口含んだ。 「もうすぐ離婚するの」 俊哉は一瞬言葉を失い、「ごめん」と小さく言った。 「気にしないで。もうすぐ四月ね。できれば早めに段取りしてもらえる?」 「うん。ちょうどこの四月から、山間の小学校に行くんだ。もし興味があるなら、一緒に行く?」 恵梨は少し浮き立った気分で席を立ったが、足元がふらつき、危うく俊哉の胸に倒れ込みそうになった。 俊哉がとっさに腕を伸ばし、彼女の肩を支えて、「気をつけて」と優しく言った。 「ありがとう」 そのときは本当に、それだけのつもりだった。まさかその何でもない一度の再会が、とんでもない騒ぎになるとは、恵梨は夢にも思わなかった。 家に戻ると、圭吾がソファに腰を下ろしていた。その表情は暗く、空気が張り詰めている。 その隣には詩月が座り、勝ち誇ったように眉を上げて微笑んだ。 「朝倉さん、お帰りなさい。どこへ行ってたの?」 恵梨は何も言わず、踵を返して階段を上がろうとした。だが圭吾が突然駆け寄り、彼女の喉を掴んだ。 「詩月の質問に答えろ。どこへ行ってた?」 圭吾の目は血走り、握る手にどんどん力がこもっていく。 「離して……」 こんなにも荒々しく彼に扱われたのは、これが初めてだった。 圭吾の目が怒りで燃えていた。その気迫に飲まれ、恵梨はさすがに怖くなった。 「友達に会ってたの」 「友達?それとも、外の男?」 詩月がさらに煽るように言う。 「朝倉さん、言わせてもらうけど、あなたもう結婚してるのよ?もう少し自覚を持ったらどう?」 「何のこと?全然意味が分からない」 息がどんどん苦しくなって、恵梨は圭吾の手を必死に引きはがそうとする。しかし圭吾は逆に、彼女を床に強く突き飛ばした。 「恵梨、答えろ。子どもは、もういないのか?」 その言葉は鈍い雷鳴のように胸の奥で響き、世界が一瞬止まった。 ――圭吾は、もう知っていた。 「そうよ。あの日、あなたが詩月と……」 「お前、あの藤川俊哉って男のために、俺たちの子どもをおろしたのか!」 バシッ。容赦ない一発が頬を打ち、恵梨は倒れ込みそうになった。 恵梨は赤く腫れた頬を押さえ、信じられない思いで圭吾を見つめた。 「圭吾、何変なことを言ってるの?」 「まだしらばっくれる気か!」 次の瞬間、写真の束が目の前に叩きつけられた。恵梨が視線を落とすと、そこには自分と俊哉が写った写真ばかりだ。 一緒に買い物をしているもの、並んで散歩しているもの、向かい合って食事をしているもの、カフェで話しているもの──さらには、二人でホテルに入っていくように見えるものまである。 本物と細工が、わざと分からないようにごちゃ混ぜにされている。 それに、切迫流産したときの書類まであった。圭吾が彼女の部屋で見つけたものだ。 恵梨は一目で、これが仕組まれたものだと分かった。 「違う!この写真は全部仕組まれたものよ。私と俊哉はあなたが思ってるような関係じゃない!」 「まだ言い張るのか?今日会いに行ったのは誰だ。藤川俊哉だろ?」 怒りで全身を震わせる圭吾を前に、恵梨は何をどう説明しても届かない。 「そうよ、でも今日会ったのは……」 「恵梨、お前、よくも俺を裏切ったな!俺との子どもをおろしててまで!俺があんなに楽しみにしてたあの子たちだったのに、どうしてそんな冷たいことができるんだ!」 圭吾は恵梨の顎をつかみ上げ、一語一語を噛みしめるように言い放つ。 「いいだろう。お前の腹の中にもう俺の子はいない。だったら今日から、詩月がこの家に住む。彼女は妊娠してる。これからはお前が、彼女の世話を事細かにしろ。彼女のお腹の子が無事に生まれるまでだ!」 恵梨は男の冷たい顔を見つめながら、こみ上げる痛みに耐えながら言う。 「私のことを信じないなら、それでいいわ。どうせ、何を言っても無駄だよね。圭吾、あなたは私を裏切り者だと言うけど、自分はどうなの?詩月と関係を続けてるじゃない?しかも、もう子どもまでできてるくせに、どの口で私を責めるの?彼女なんてもう憎いだけだって言いながら、結局、一度だって忘れたことなんてないじゃないか?」 「恵梨、本当にがっかりだ。ここまできてまだ認めないのか?だったら罰を受けてもらうしかないな」 圭吾は彼女の顎を振りほどき、ボディーガードたちを呼び入れた。 「恵梨をプールに放り込め、頭を冷やさせろ!自分のしたことを認めるまでだ!」 ボディーガードたちは一瞬ためらった。 「ですが、牧原様、奥様は泳げないじゃないですか?」 「いいから、やれ!」 命令が下った以上、逆らえない。ボディーガードたちは恵梨を抱え上げると、そのまま庭のプールへと放り込んだ。 ドボンという音とともに、おもちゃを投げ捨てるように、恵梨の体は水面に叩きつけられた。大きな水しぶきが弾け飛ぶ。 冷たい水が口や鼻に流れ込み、恵梨は恐怖に駆られて必死に手足をばたつかせる。 「やめて!誰か、助けて!私は、何もしていない…… 圭吾、私、していないの! 助けて!私、泳げない……ぐっ……」 恵梨はプールの中で必死にもがき、水を何度も飲み込んだ。 それでも圭吾はプールサイドに立ったまま、冷ややかな目でその様子を見下ろしている。 「どうだ?少しは頭が冷えたか?俺を裏切るって、こういうことだ」 「ごぼっ、ごぼっ……わかったの、もう許して……」 恵梨は嘘をついた。とにかく生きなければならない。あと三日で、圭吾から逃れられる。だから、どんなに苦しくても、今は耐えるしかなかった。 体が沈んでいく。視界がぼやける中、恵梨の耳に圭吾の冷たい声がかすかに届く。 「恵梨を引き上げろ!医者を呼べ、今すぐだ!」 第7話 恵梨が目を覚ましたのは、すでに翌日の午後だった。 彼女は心の中でそっと数える。あと一日、もうすぐ自由になれる。 「目が覚めたのか?」 耳もとで男の掠れた声が響く。恵梨がまぶたを開けると、圭吾が焦った顔でベッドのそばに立っていた。 恵梨が目を覚ましたのを見ると、圭吾は慌ててその手を握りしめる。 「どこかまだ気分悪いところは?」 「……」 彼の顔を見ると、恵梨は口をつぐんだまま、そっと顔をそむけた。 「写真のことは調べた。確かに偽造だった。昨日お前と藤川俊哉が会ったのは久しぶりだったってこともわかった」 圭吾は悔しさをにじませながら続ける。 「でも、どうしてお腹の子がいなくなった?どうして俺に言わなかったんだ?」 恵梨は唇を噛みしめ、涙が頬を伝った。 ――どうして、いなくなってしまったの?もし彼が詩月なんかとあんなことをしなければ、あの子たちはまだ生きていたはずなのに。 「もういい。話たくないなら話さなくていい。子どもなら、またできるさ。それにお前、前から『出産は怖い、痛いのは嫌だ』って言ってただろう?だったらしばらくは子供を作らなくていい。どうせ詩月も妊娠してるんだし、お前が産みたくないなら、無理に産むことはない」 恵梨は、圭吾の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。思わず顔を向け、彼を鋭くにらみつける。 自分の子どもがいなくなったのに、彼は「どうせ詩月も妊娠してるんだ」と軽く一言で済ませるつもりなのか。 「圭吾、あなたは詩月なんて愛してないって言ったよね?憎んでるって言ってたくせに、結局、子どもまで作ってるんじゃない?」 彼女の視線を受け、圭吾は眉間にしわを寄せた。 「俺は確かに詩月のことを憎んでる。あいつと関係を持ったのも、あいつに報いを受けさせるためだった。子どもは本当に想定外だった。でも、もうできてしまった以上、放っておくわけにはいかない。お前だって知ってるだろ、俺はずっと自分の子どもが欲しかったんだ。 恵梨、今回だけは許してくれないか。詩月の子どもが無事に生まれたら、必ず彼女には出て行ってもらう。もう二度と会わないって約束する」 何を言われても、恵梨はもう信じないのだ。 彼女は、圭吾に握られていた手をすっと引き抜き、顔をそむけた。 「疲れたわ。休みたい」 「わかった。じゃあ、俺は出る。ゆっくり休んで」 圭吾は立ち上がり、唇を寄せようとしたが、恵梨はすっと顔をそむけた。 彼女の気分が沈んでいるのを察して、圭吾は無理には迫らず、ただ布団の端を整えてあげて、「ゆっくり休め、あとで降りてきてご飯食べよう」とだけ言った。 ひどく疲れていたせいか、恵梨はそのまま朝までぐっすり眠ってしまった。 階下に降りると、詩月がお手伝いに新しく買った荷物を運び込ませているところだった。 「気をつけてね、それ、圭吾と一緒に選んだベビーベッドなんだから。ぶつけないように。 それから、こっちの小物も私と圭吾のお気に入りなの。丁寧に扱って」 まるで自分がこの家の奥様であるかのように、詩月は堂々とリビングの真ん中に立って振る舞っていた。 そこへキッチンから圭吾が出てきた。 「もう片づけはいい。先に朝ごはん食べよう」 「うん、圭吾、今日も私の好きなメニュー?」 詩月は微笑みながら近づき、当然のように圭吾の腕に手を絡ませる。 圭吾はその手をふりほどき、冷ややかな声で言う。 「食べるならおとなしく食べろ。ベタベタするな。お前が食べ物にうるさいのは知ってるから、お前の好きなのを作ってやった。でもそれはお前の腹の子のためだ。勘違いするなよ。俺が許したわけじゃない」 「もう、強情ね。口ではそう言っても優しいんだから。でも、もう少しゆっくりして。お腹の赤ちゃんにさわったら大変よ?」 詩月がそう言うと、圭吾の手の動きが目に見えてゆるやかになり、声の調子までやわらいだ。 「わかったよ。じゃあ、おとなしく座って食べてろ。俺は恵梨を呼んでくる」 ちょうどそのとき、恵梨がダイニングに入ってきた。 テーブルには料理がずらりと並んでいる。けれど、そのどれもが恵梨の好きなものではなかった。 昔から出されれば食べてはいた。だが本当はさほど好きではない。「赤ちゃんのためになる」と圭吾が言うから、食べていただけだ。 今思えば、この数カ月、圭吾が必死で覚えていた料理は、妊婦食なんかじゃなかった。詩月の好物だったのだ。 胸がずきっと痛む。恵梨はもう食欲がわかなかった。 「ごめん、あなたたちで食べて。私は外の空気を吸ってくる」 彼女は離婚届を出しに行くつもりだ。あれさえ出せば、彼のもとから、きっぱり離れられる。 「どこ行く?俺も一緒に行く」 圭吾がすぐに追ってきて、恵梨の手をとって言う。 「雨が降ってる。お前は体がやっと良くなったばかりだろ。送っていくよ」 そんなふうに気遣われると、恵梨はもう断ることができなかった。 彼が知っていようがいまいが、離婚の書類はもう整っている。一緒に行けば、そのまま提出できる。 「うん」 恵梨は小さくうなずき、ふたりで並んで出ようとした。その矢先、詩月が急にお腹を押さえて声を上げた。 「痛っ……お腹、痛い、圭吾!」 圭吾はぱっと恵梨の手を離す。 「ごめん、恵梨。一人で行っておいで。欲しいものは何でも買っていい。お金のことなんて気にするな」 そう言うと、圭吾はすぐに詩月のもとへ駆け寄り、身をかがめてそのお腹に手を当てた。 「ほら、いい子にしてろ。ママを苦しめちゃだめだぞ」 恵梨はその光景から目をそらし、何も言わずに傘を開き、一度も振り返ることなく車に乗り込んだ。 第8話 離婚届の手続きはすんなり終わった。恵梨が車に乗り込むと、ちょうど俊哉から電話がかかってきた。 「恵梨、全部手配できたよ。ただ、向こうが少し急いでいるんだ。できるだけ早く現地の環境に慣れてほしいって。明日出発になりそうなんだけど、大丈夫?」 「うん、大丈夫」 恵梨の声は少し弾んでいた。 「もう準備はできているから」 「よかった。じゃあ明日、駅で待ってる」 電話を切ると、恵梨はもうじっとしていられなくなった。 近くのショッピングモールで子どもたちに渡すおみやげを買っていこうと思い、運転手には「一度帰ってていいから、買い物が終わったらまた迎えに来て」と伝えた。 ところが、戻る頃になっても運転手の電話がまったくつながらない。仕方なく、恵梨は自分でタクシーを拾って帰宅した。 家に着くなり、お手伝いがあわてて駆け寄ってくる。 「奥様、やっとお戻りになりました!白石様が事故に遭われました!旦那様が、至急病院に行ってほしいとおっしゃっています!」 状況がのみ込めないうちに、ボディーガードたちが恵梨の腕を抱え、そのまま病院へと連れて行った。 恵梨が病院に着いたとき、詩月はベッドに横たわり、胸を引き裂くような叫びをあげていた。 「五年前、私は自分の将来のためにあなたのもとを離れた。あれは私の間違いだった!悪かったってわかってる、もう後悔してるの!償うために戻ってきたのに、どうして……どうして神さまは、私たちの子どもを奪ったの! もう私のこと憎まないで、圭吾。お願い、許して、許してよ!」 圭吾は詩月の手を強く握りしめ、声を詰まらせながら言う。 「憎んでなんかない、もう憎んでない、詩月。お前に再び会えたその瞬間から、俺はもう憎むことなんてできなかったんだ。詩月、愛してる。俺はお前を愛してる!」 「嘘、きっと嘘よ。そんなの、私が子どもを失ったから同情してるだけでしょ!いらない、出て行って!あなたの奥さんが私の子を奪ったのよ!もうこれで私があなたに負ってたものは全部返したわ!」 詩月は錯乱したように圭吾を突き飛ばそうとする。だが、圭吾は彼女を強く抱きしめ、離そうとはしない。 「違う、もう二度とお前と離れたりしない。俺たちは、これからもずっと一緒にいるんだ。詩月、子どもがいようがいまいが、そんなことどうでもいい。俺にはお前さえいればいい!」 「牧原様、奥様がいらっしゃいました」 恵梨は半ば押し込まれるように部屋へ入った。圭吾がゆっくりと振り返り、赤く濁った目で恵梨を見据えた。 次の瞬間、詩月はベッドから身を起こし、思いきり恵梨の頬をはたいていた。 「朝倉さん、どうして私の赤ちゃんを殺したの?圭吾の妻になりたいなんて、一度も思ったことない。あなたのものを奪うつもりなんて、最初からなかったのよ。なのに、あなたが子を失ったからって、私にも同じ痛みを味あわせたいの?」 恵梨は腫れ上がる頬を押さえ、呆然としたまま口を開く。 「何を言ってるの?まったく意味わからないわ」 「まだとぼけるのね!」 詩月がもう一度手を振り上げ、容赦なく平手打ちを浴びせた。 怒りがこみ上げ、恵梨はためらうことなく手を振り上げた。そして勢いよく、詩月の頬を打ち返した。 「恵梨、間違ったことをしておきながら、詩月を殴るなんて!」 圭吾は力任せに恵梨を突き飛ばし、詩月を庇うように抱き寄せた。 「誰か!彼女を押さえろ。動かすな。詩月の気が済むまで、好きなだけ殴らせろ!」 その言葉と同時に、恵梨は床に押さえつけられた。 詩月の手が振り下ろされる。一発、また一発。 恵梨の頭は殴られすぎてぼんやりとし、頬は見る影もないほど腫れ上がっていた。それでも詩月の手は止まらなかった。 やがて恵梨が意識を失うと、圭吾は人に命じて冷水を浴びせさせた。 「水を持ってこい。ぶっかけて起こせ」 次の瞬間、冷たい水が容赦なく彼女に浴びせかけられる。 「げほっ、げほっ……」 頬は焼けつくように痛み、体も痛みで震えている。 圭吾が恵梨の前に歩み寄り、彼女の顎を乱暴につかんだ。 「お前、自分の子を失くしたからって、運転手に詩月を轢かせたんだな?同じ痛みを味わわせようとしたのか?恵梨、お前いつからそんなに性根が腐った?」 恵梨はやっとのことで言葉を絞り出す。 「……何のことを言ってるのか、私にはわからない」 「まだ言い逃れする気か?お前、運転手を使って詩月を轢かせたんだろう?それに罪を隠すために、同じ車種の新車にまで替えて、俺が気づかないとでも思ったのか?」 圭吾の目が冷たく光る。 「今日からお前はここを出ろ。郊外に別荘を買ってある。そこに住め。詩月が流産後の療養を終えるまで、戻ってくるな」 恵梨は寂しげに笑った。もう、何を言っても届かないのだとわかったからだ。 ならば、もう、認めるしかない。 「わかったわ。あなたがそう決めつけるなら、私は何も言わない」 「誰か!恵梨を家まで連れていけ!」 ボディーガードたちに腕を取られて外へ出されるとき、恵梨は一度だけ圭吾を振り返った。 「詩月、これは俺が自分で作ったスープだ。つらいのはわかってるけど、少しでいい、飲んでくれ。心配するな。俺がついてる。もう二度と誰にも傷つけさせない。子どものことも、約束する。俺たちには、きっとまた、二人目も、三人目も授かる」 その瞬間、恵梨の中で圭吾に対する最後の愛も、跡形もなく消え去った。 ――そこまでして詩月との子どもが欲しいなら、どうぞお幸せに。 家に戻るころには、もう夜が明けていた。 ボディーガードたちは恵梨の荷物をまとめ、郊外の別荘へ運ぼうとしていた。 けれど、恵梨は彼らの手からスーツケースをつかみ取った。 「いいわ。自分で行くから」 「奥様、そんなこと……私たちは困ります。どうか大人しくなさってください。しばらくの間だけでも、牧原様の前から姿を消していただけませんか?」 「心配しなくていい。郊外の別荘へは自分で行くから。圭吾にも伝えて、これから先、私は二度と彼の前には現れないって。それに、彼と白石さんの幸せを、心からお祈りしてるって」 そう言って、恵梨は一通の書類をその場にいたお手伝いに渡した。 「これ、圭吾が帰ってきたら渡して」 それだけ告げると、彼女は振り返りもせずタクシーに乗り込んだ。 駅に着くと、俊哉はすでに彼女を待っていた。 朝の光の中、彼の姿は金色の縁をまとったように見える。 「恵梨、来たんだね……その顔、どうしたんだ?」 恵梨は首を横に振った。 「大丈夫。もうすぐ電車が出るんでしょ。行こう」 彼女は俊哉と並んで駅の構内へと歩いていった。電車に乗る直前、恵梨は圭吾からもらったスマホをゴミ箱に放り込んだ。 ――これで終わり。 圭吾とは完全に縁が切れた。彼女は、ようやく自由になった。