君を消して、君に出逢う

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君を消して、君に出逢う

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タトゥーの施術者が声をかけた。「小林さん、本当に消してしまうんですか?その『愛』のタトゥー」 小林愛は一拍置き、静かに頷いた。「はい…...

Chương (1)

第1章

タトゥーの施術者が声をかけた。「小林さん、本当に消してしまうんですか?その『愛』のタトゥー」 小林愛は一拍置き、静かに頷いた。「はい……全部で、何回かかりますか?」 「詰めて通っていただいて、七回、といったところですね」 七回――その響きが、鈍く胸を打った。櫻井湊と過ごした、七年という月日。そのすべてと同じ回数。 この七年間、肌を重ねるたび、湊は必ず彼女の腰に顔を埋め、そのタトゥーをなぞるように何度も口づけを繰り返しながら、熱に浮かされたように囁いた。「愛……愛、大好きだ」 愛がスマホで決済を済ませると、施術者は淡々と準備を進め、レーザーを腰に当て始めた。 記憶の熱とは裏腹な、機械の冷たさが肌を刺す。 「七回……終わったら、これ、跡形もなく消えますか?」 「いえ。タトゥーは消えますが、火傷の跡は残りますよ。まあ、いずれ薄くはなりますけど」 施術者は、何の感情もこもらない声で、さらりと答えた。 第1話 「小林さん、本当に消してしまうんですか?その『愛』のタトゥー」 施術者の問いかけに、小林愛(こばやし あい)はしばし黙し、やがてゆっくりと頷いた。「はい……ちなみに、何回かかりますか?」 「詰めて通っていただいて、計七回ですね」 七回――その響きが、胸の奥を冷たく疼かせた。櫻井湊(さくらい みなと)と過ごした七年間と、奇しくも同じ数。 振り返ってみると、この七年、肌を重ねるたび、湊は必ず彼女の腰に顔を埋め、そのタトゥーに唇を這わせながら囁いた。「愛……愛、大好きだ」 だが今、愛は自らの手でそれを消し去ろうとしている。 スマホで決済を済ませると、施術者である店主がレーザーを腰に当て始めた。 「七回終わったら……完全に消えますか?」 「いえ。火傷の痕は残りますよ。まあ、時間が経てば薄くはなりますけど」 本当に薄れてくれるというのだろうか。流れ去ってしまった、この七年という――あまりにも甘ったるい月日が。 脳裏を、湊との七年間が、まるで走馬灯のように駆け巡っていく。 一年目。櫻井家に身を寄せた最初の夜、湊が彼女の部屋を訪れた。目尻に艶っぽい笑みを浮かべ、「試してみる?」と誘うように囁かれた。 幼馴染だった二人。思春期の衝動。実はずっと前から彼に恋をしていた。でも怖くて、どうしていいか分からない。湊が耳たぶに唇を寄せた瞬間、体が痺れるように震えた。そして唇を奪われ、身を焦がすほどの熱で求められた。 あの日から、絡み合った後、湊は彼女の腰に自らの手で「愛」のタトゥーを彫った。「お前は、俺のものだ」そう、刻みつけるように。 二年目。湊が恵川大学を卒業し、離れていった時、二人の関係はてっきり冷めていくと思っていた。だが湊は大学の向かいにマンションを買い、「毎晩来い」と命じた。 三年目。そのマンションで、我を忘れて溺れあった。湊の求めは常軌を逸し、場所を選ばなかった。学校で、車の中で、マンションで、彼の部屋で、彼女の部屋で…… 四年目。湊の仕事が多忙を極めても、彼は彼女が自分から一秒たりとも離れることを許さなかった。ビデオ通話の最高記録は、実に二十三時間に及んだ。 五年目。湊が二人の結婚準備を始めた。十六億円のウェディングドレスをオーダーメイドし、すべて手作業で、六百日以上かけて完成させた。 六年目。彼女が緑色を好きだから、結婚指輪のために、湊は六年かけてグリーンダイヤモンドを探し出した。あの二百億円の指輪は、世界中のメディアを騒がせた。 七年目。すべてが変わった日。湊の親友、荻原哲朗(おぎわら てつろう)が事故に遭った。レース中、哲朗が湊を庇い、車ごと崖から転落した。その日を境に、湊は哲朗に代わり、彼の妹・荻原詩帆(おぎわら しほ)を守ると誓った。 昨夜、恵川市の夜空――午前四時十二分。青い花火が恵川市の空の半分を染め上げた。花火の最後に大輪と咲いた二文字が、愛の目を焼いた。 「詩帆」 花火を上げたのは、湊だった。花火の下で、湊は詩帆を手すりに押し付けていた。苦々しげにかすれた声で、彼女を叱りつけている。「体にタトゥーなんざ入れるな。そんなもんは悪い奴らの印だ」……かつて自分の腰に「愛」と刻んだ、その唇で。 二週間後は、愛と湊の結婚式の予定日だったのに。詩帆との恋を知った愛は、ただただ笑っていた。 そして今、腰に走る鋭い痛み。レーザーで焼かれた皮膚は赤く腫れ上がっているが、そこにあるはずの「愛」は、まだ一回目で鮮やかな色を保っている。でももう、構わない。あと六回。 それでこの「愛」は完全に消える。 そして、湊との愛も、綺麗さっぱり終わらせる。 スマホが鳴った。画面に浮かぶ、見慣れた名前。「湊」 電話に出る。いつもの深みのある、色気のある声。一言一句が、かつてのように甘く鼓膜を震わせ、心臓を掴む。 「愛、すまない。今夜の便が遅れちゃって、明日にならないと帰れない。埋め合わせは、ちゃんとするから、怒らないで」 愛の体はぴくりとも動かない。しかしその心は、とうに引き裂かれていた。 彼が今詩帆と一緒にいることを知っている。昨夜、詩帆を連れて帰ってきたことも。それでも愛は、凍てついたような平静さで、湊に何の違和感も抱かせないよう答えた。 「わかった。気をつけて」 「ああ……おやすみ」 電話が切れた。 かつては、どちらが先に切るかで、互いに通話終了のボタンを押すのをためらった。 一言も話さなくても、どんなに遠く離れていても、彼は一晩だけ会うために飛んできた。 以前、愛が家に引きこもって誰とも連絡を絶っていた頃、玄関先には湊が届けた食べ物や日用品が毎日置かれていた。 しかし、いつからかだろうか。その習慣は途絶えた。 この一年、湊が多忙だから一緒にいる時間が減ったのだと、そう信じようとしていた。 実際は、一年前から湊が詩帆の留学を手配し、毎月海外まで密会を重ねていた。 湊が急に海外事業を展開したのも、すべて詩帆のいるM市に拠点を置くためだった。 詩帆が電話口で泣き言を漏らせば、たとえ真夜中に愛を抱いている最中であろうと、湊は平然と体を離し、空港へ向かい、M市へ飛んでいった。 爪が掌に食い込み、血が滲む。愛は痛みすら感じなかった。次の瞬間、スマホを手に取り、別の番号へ電話をかけた。 「田原(たはら)さん、タレコミがあります」 「愛ちゃん、分かっているのか。麻薬捜査は危険すぎる。ご両親もお兄さん方も亡くされ、君は一家でただ一人の生き残りなんだぞ」 「もちろん。だからこそ、それは私が生きる唯一の理由なんです」 田原は長い沈黙の後、ついに折れた。「わかった。そちらを片付けたら、数日後に境見市へ来い。二度と、戻れない覚悟をしておけ」 「分かりました」 六時間後。 愛は家に戻った。休む間もなく、寝室へ向かい荷物をまとめ始める。 この寝室には、湊の痕跡が嫌というほど染み付いている。クローゼットには、湊が買い与えたダンス衣装がぎっしりと詰まっている。 彼は、彼女を好きなように「着せ替え」て、弄ぶのが好きだった。 愛はダンス衣装をすべて黒いゴミ袋に叩き込んでいく。そして、湊がこれまで贈ってきたプレゼントも、何もかも。 すべてを袋に詰め終わった、その時だった。 がチャッ。ドアが開く音が聞こえた。 戸口に立ったまま、湊が愛の様子をじっと見つめている。その昏い視線は、床に無造作に散らばる黒いゴミ袋に突き刺さっていた。 部屋に静かな圧力が満ちていく。 それでも、彼が口を開くと――「愛。どうしたんだ?」 その声色は、険しい眼差しとは裏腹に、あくまで優しかった。 第2話 愛は湊の手を見つめた。 昨夜、この手が振り上げられ、詩帆の誕生日に二億円の花火が夜空を埋め尽くした。 七年間共に過ごして、どんな高価な贈り物も、どんなロマンチックな演出も、湊は愛にしてくれた。 ただし、花火だけは違った。 「確かに綺麗だけど、俺は好きじゃない」そう、彼は言っていた。 愛は知っている。湊が花火を嫌うのは、幼い彼が母親と花火を見た直後、その母親が櫻井家を去ったからだということを。 その心の傷を、湊は別の女のためにあっさりと捨て去り、盛大な祝福を贈ったのだ。 愛は視線を落とし、努めて平静に言った。「古い服を整理してるだけ」 湊が近づき、愛の体を軽々と抱き上げると、そのままクローゼットに押し付けた。熱いキスが、有無を言わさず唇に落ちてくる。 愛の脳裏に浮かぶのは、湊が詩帆の額に触れた、あの優しいキスだけだった。 壊れ物を扱うように、大事な宝物のように。 だというのに、今、自分に向けられるのは、苛立ちをぶつけるような荒々しい所有欲だけだ。 愛は、衝動的に湊を押しのけた。 湊の表情が、ガッと険しくゆがんだ。次の瞬間、伸びてきた彼の人差し指と親指が、ギリ、と痛いほど強く愛のあごを掴む。 そのままグイ、と力任せに顔を上向かされた。 金縁のメガネの奥にある瞳は冷たい。その姿は、それでもなお圧倒的な威圧感と強さを放っていた。 「お前、怒ってるのか?」低い声が問う。 愛は、自分の感情が常に淡白だと思っていた。それでも、この男には見抜かれる。 「ううん。もっとセクシーなのを買ったよ。だって好きでしょう?」 必死で、誘うような声を絞り出す。 湊の濃い眉がすぐに緩んだ。「ああ。今夜はここにいる」 その声は限りなく甘く、機嫌を取るように響く。しかし、続く言葉は刃のように突き刺さった。 「そうだ。恵川市バレエ団の首席、明日付けで辞退しろ」 無情に告げられた言葉に、愛の指先が、ぷるぷると小刻みに震えだした。 その震えを、まるで確かめるかのように。湊の手が、ぴたりと愛の下腹部に当てられる。 「子供が欲しいって言ってたよな?早速明日から、妊活しよう」 愛の顔から血の気が引いた。「どうして、急に……」 「詩帆が、今回俺と一緒に帰ってきた。だが足を怪我していてな。この一年、ずっと海外でリハビリしてたんだ。ようやく普通に動けるようになった。あいつは俺が小さい頃から見てきた子だし、死んだ哲朗の代わりに、俺が面倒を見なきゃならん」 湊は淡々と続ける。 「というわけで、首席の座を詩帆に譲ってやれ。俺はお前と結婚して子供を作る。お前は元々、キャリアでがむしゃらに成功したいタイプじゃないだろう?」 最後の言葉が、愛の心を鈍く抉った。長い睫毛が震え、濡れた瞳を伏せる。 キャリアを追求していないわけじゃない。悟りを開いているわけでもない。 ただ、この七年間、湊という存在を、自分自身のすべてよりも大切にしてきた。 彼との結婚や、彼との子供を、自分のキャリアより優先してきた。 だというのに。今、その結婚と出産が、詩帆に席を譲るための「取引材料」にされた。 それが、ただ悲しかった。 恵川市バレエ団は全国でもトップクラスだ。愛は卒業後すぐに入団し、この三年間、首席の座を守り続けてきた。 詩帆が帰国した、たった一日で――愛の仕事も、そして大切な恋人も、奪われようとしている。 愛は湊から身を離した。その瞳には、果てしない失望と哀しみが浮かんでいた。 最後に、ありったけの力を振り絞って問いかける。「もし……私が、嫌だと言ったら?」 湊の眉間に、深く皺が刻まれる。その暗い眼差しは冷え冷えとしているのに、声だけは相変わらず優しい。 「分かってるだろ。お前を『分からせる』方法なんて、いくらでも持ってる」 愛の目から、涙がこぼれそうになる。じっくりと目の前の男を見つめた。 ビジネスの世界で、湊が冷酷で容赦ないキングと呼ばれる存在であることは知っていた。 しかし、まさかいつか彼が、その非情なやり方を、自分に向ける日が来るなんて。 湊の長い指が、愛の頬に触れる。声は氷のように冷たかった。 「詩帆は、失ったものが多すぎる。彼女の兄貴が死んだ……俺のせいでな。 哲朗は、俺の一番の親友だった。この一年、俺はすべてを注ぎ込んで、詩帆が兄の死の影から抜け出し、新しい人生を始められるよう尽くしてきた。 お前はもう、十分すぎるほど持っている。俺も、お前のものだ。だから、大人になれ。あいつに、少しくらい譲ってやれ」 愛の震える手が、強く握りしめられる。 もう一度、はっきりと告げた。「嫌よ」 その答えを聞く限り、目の前の男は忘れているようだった。 愛が、そもそもなぜこの櫻井家に身を寄せることになったのか――その根本的な理由を。 小林家は代々警察官を輩出する名家だった。祖父も、三人の兄も、両親も、全員が麻薬捜査官だった。 彼女は、家族全員が命を懸けて守り抜いた、ただ一人の人間だった。 愛が小林家を離れたのは、家族全員が、彼女にだけは平和で幸せに生きてほしいと願ったからだ。 今、かつて自分を守ってくれたはずの男が、自らの手で、自分のすべてを奪おうとしている。 そんなこと。彼女は、嫌だった。 けれど同時に、自嘲するように、愛はもっと見たかった。 湊が詩帆のために、どこまで堕ちていくのかを。 第3話 翌朝、愛が目を覚ました時、すでに世界はひっくり返っていた。恵川市中のありとあらゆるマスコミが、一斉に彼女のスキャンダラスな写真で溢れかえっていたのだ。 画像の中では、薄暗いダンススタジオで、愛のダンス衣装が男によって無残に引き裂かれている。 涙を流しながら、男に組み敷かれ、求められている。 男の背中は、意図的にぼかされている。 だとしても――彼女の腰に食い込むように置かれたその手は。 あまりにも見覚えのある、あの強い力に満ちた感触を思い出させた。 写真の下のコメント欄には、ネット民の悪意に満ちたコメントが殺到していた。 【へぇ〜首席ダンサーの小林愛じゃん。クールな女神とか言われてたさ、裏じゃこんなことしてたんだな】 【ヤバすぎ。こんな女だと思わなかったぜ。学生時代に知ってたら、金払ってでもヤってたのに】 【小林愛のスタイルと顔はガチで極上品だろ。億単位の資産がなきゃ手も出せねえよ】 【まあ、小林愛みたいな女は、嫁には向かないよな。愛人には最高だけど……】 愛は震える手で、湊に電話をかけた。 昨夜、彼女が従わなかったことに怒り、湊は家を出て行った。 彼女はただ、確かめたかった。これが彼の仕業なのかを。 コール音の末、電話が繋がった。 だが、愛が何かを問いかけるより早く。 「もしもし?あ〜愛さん?」 詩帆の、甘ったるい声が聞こえてきた。 「ごめんなさいね〜湊さんなら今シャワー浴びてるの。さっき、すごく汗かいちゃってね……スマホ、持って行ってあげようか?」 詩帆の、勝ち誇ったような優しい声が、研ぎ澄まされたナイフのように愛の心臓を突き刺した。 愛の頬を静かに涙が伝う。必死に声を平静に保って、絞り出した。「……いえ、結構です」 通話を切り、愛は湊にメッセージを送った。 【わかった。すべて、あなたの望む通りに】 恵川市バレエ団の首席の座も湊も、もう手放す。 一時間後。 愛は私物をまとめるため、バレエ団を訪れた。 入ってすぐ、純白の白鳥の衣装をまとった詩帆と出くわした。 彼女は、まるで本物の白鳥のように誇らしげに、ステージの中央に立っている。 愛の姿を見つけた瞬間、電話口の猫なで声は消え失せた。 冷たく傲慢な口調で、詩帆は言い放つ。 「ふん。本当に使えないわね。二人のベッド写真をちょーっとだけネットに流しただけで、もう耐えられなくて、私に席を譲るなんて」 愛は七年前を思い出した。バレエコンクールのバックステージ。 三歳年下の詩帆が、愛に勝つために、彼女のトウシューズに画鋲を仕込んだ。それを愛が見つけ、現行犯で押さえた。 詩帆は悔しそうに叫んだ。「小林愛!絶対に、あんたなんかに負けないから!」 結果は詩帆の惨敗。優勝は、愛だった。 七年後、詩帆は傲慢に笑う。 「この一年、湊さんはずっと私と一緒だったの。ずっと私のそばにいてくれた。そんなことも知らなかったのは、あんただけ。周りのみんなが隠してたのよ。 湊さんとあんたなんか結婚させない。彼は、私のものよ!」 詩帆の本性を目の当たりにしても、愛はもはや驚かなかった。そもそも、詩帆と争うつもりなどない。七日後には、田原と共に境見市へ発つのだ。 踵を返し、立ち去ろうとした、その瞬間。 「キャァァァッ!!」詩帆が、ステージからバランスを崩し、激しく床に転落した。 悲鳴のような泣き声が、がらんとしたダンスホールに響き渡る。 「湊さん!ごめんなさい、全ては、私が悪いの!やっぱり首席の座なんて争うべきじゃなかった……!」 愛は詩帆の怯えたような視線を追って、入口を振り返った。 湊の高く堂々としたシルエットが、逆光の中に立っていた。その冷え切った瞳が、氷のように、まっすぐに愛を射抜いていた。 湊は素早く詩帆に駆け寄る。詩帆の足首が、見るからに赤く腫れ上がっているのが見えた。 瞬間、彼の暗い目に、制御できない怒りの炎が燃え上がった。 「お前、何をした?」 第4話 愛は、湊が事実確認すらしようとせず、一方的に自分を断罪したことに愕然とした。 「私が詩帆を突き落としたと、本気で思ってるの?」 「詩帆の足は、元々怪我をしていたんだ」湊は冷たく言い放つ。「首席の座を一つ譲るのも嫌で、譲った挙句、今度は彼女を直接傷つけるのか」 愛は、湊が詩帆を心底心配そうに見つめる横顔を、ただ見つめていた。 湊が痛みに呻く詩帆を抱き上げる姿をも。 詩帆は、か弱く湊の腕の中に寄りかかり、涙でぐしゃぐしゃになって泣きじゃくっている。 「湊さん、私の足……また、折れちゃったかも……」 詩帆の涙は、常に湊の理性を奪う。その引き金に引かれるように、彼の深い瞳が、剥き出しの憎悪を込めて愛を睨みつけた。 「詩帆を傷つけた償いはしてもらう」 そして湊は、傍らに控えていた親友に命じた。「隼人、こいつの両足を折れ」 愛は衝撃に息を呑んだ。何の反応もできないうちに、鷹野隼人(たかの はやと)と呼ばれた男に無慈悲に地面に押し倒された。 頭上から、湊の低く、温度のない声が降ってくる。 「加減はしろ。再起不能にはするな」 その言葉が許可証だった。次の瞬間、隼人の手が愛の足首を掴み、ありえない方向へと激しく捻った。 ゴキリ、と鈍い音が響き、足首に想像を絶する激痛が走った。 愛の顔から、瞬時に血の気が失せる。 その声も上げずに涙を堪える表情に、湊の胸がわずかに痛んだ。 口を開き、愛への罰は詩帆への見せしめ程度で止めさせようと――本気で愛のキャリアを奪うつもりは、なかったのだ。 しかし、湊が動こうとした瞬間、詩帆が泣きながら彼の腕を強く掴んだ。 「湊さん、やっぱり痛いの……!早く、病院に……っ」 湊の端正な顔が、ふっと和らぐ。「待たせてすまない。すぐ連れて行く」 湊はもう、床に倒れる愛を一瞥することもなく、詩帆を抱いて足早に立ち去った。 愛は、遠ざかっていく二人の背中を見つめながら、こらえていた涙を流した。 足首が焼けるように痛い。 この二十年間、どれだけこの足首を大切にケアしてきたか、自分だけが知っている。 バレエを踊り続けて、一度だって足首を本格的に怪我したことなどなかった。 だが今、湊が彼女のキャリアを、完全に破壊した。 その時だった。 湊が去っていくと、隼人の態度が豹変した。さっきまでの忠実な友達の仮面が剥がれ落ち、欲望に濁った目が現れた。 愛の足首を掴んでいた手が、ゆっくりと太腿を上へと滑り始めた。 狂ったように、ねっとりと声で笑う。「おっと。どうやら湊も、もうあんたは要らないみたいだな。俺が早めに『お下がり』を味見させてもらおうかな」 そう言いながら、隼人は愛のスカートを乱暴にめくろうとした。 愛の顔が恐怖に引きつった。必死で叫ぶ。「いやぁああ!湊!助けて!!」 今日は月曜日でバレエ団は休みだ。誰も来ないことは分かっていた。 彼女が唯一期待したのは、あの男が戻ってきてくれることだった。 だが、期待は裏切られ、愛は隼人にスカートを破り裂かれた。 真っ白な太腿が露わになり、隼人の興奮が頂点に達する。 「ひひっ、さすが極上品だ。湊が言ってたぜ、あんたとは七年も遊んだから、もう飽きたってな。詩帆ちゃんが帰ってきた今、あんたはもう用済みだ」 隼人は下卑た笑いを浮かべる。「俺に尽くせよ。じゃなきゃ、孤児のあんたが湊に捨てられたら、どこでお嬢様生活が送れるんだ?」 そう言って、隼人は愛の体に組み伏せた。湿った舌がぬるぬると、気持ち悪く愛の顔を舐め回した。 愛の目から、絶望の涙がぼろぼろと落ちる。最後の力を振り絞って、抵抗した。 「離して!鷹野……!私、湊の子供を、妊娠してるの!」 案の定、隼人の動きが止まった。だが、すぐにその目に、残酷な悪意が浮かんだ。 「詩帆ちゃんはな、スタイルが崩れるのを気にしてるんだ。だから、もう了承済みなんだとよ」 隼人は、もっと邪悪に嗤った。「湊が、あんたの体を『母体』として使って、お二人の子供を産ませるってさ」 愛の顔が、真っ青に染まった。そんなはずがない…… 湊が、そんなことまでするはずがない! 第5話 七年間、共に歩んできた。 湊がどれほど自分を愛していたか、愛は誰よりも分かっているつもりだった。 たとえ二人の関係がここまでこじれても、湊がこんな仕打ちを許すなんて信じられなかった。 隼人に服を引き裂かれても、愛はもう何も感じなかった。ただ、胸が引き裂かれるように痛かった。 確かめなければならない。湊の口から、直接。 愛は突如、隼人を突き飛ばし、狂ったように外へ走り出した。 後ろから隼人が下卑た大笑いをしながら、追いかけてくる。「逃げろよ、逃げれば逃げるほど燃えるぜ。あんたとはずっとヤりたかったんだ。ようやく湊も飽きて、お払い箱になったしな!」 そう言いながら、隼人は愛の目の前で、スーツのベルトに手をかけた。 バルコニーに追い詰められた愛は、一瞬の躊躇もなく身を投げた。三階から、コンクリートの地面へ。 ドン!という鈍い音が、バレエ団の建物に響いた。 隼人は驚愕に目を見開いた。「マジかよ、本当に飛びやがった……」 慌てて電話をかける。声がどもっていた。「し、詩帆ちゃん!ヤバい、飛び降りたぞ!クソ、あんたの言う通り、湊との嘘を適当に並べただけなのに、本気で死ぬ気になりやがった! どうすんだよ、さっき湊の子、妊娠してるって……!さ、三階から飛んで、死んだりしねえよな……?わ、わかった、すぐ消える!」 痛みが全身を貫いた。愛は、全身の骨が砕け散ったように感じた。 涙で濡れた瞳で空を見上げる。どこまでも澄んだ青い。昨夜、湊が詩帆のために打ち上げた、あの花火の色にそっくりだ。 下腹部に、灼けるような激痛が走る。 温かい液体が、止めどなく体から流れ出していく。 それが何なのか、愛は理解していた――赤ちゃんが、失われていく。 体の血液がすべて流れ出していくようだった。愛は、冷たい地面にどれだけ横たわっていたか分からない。 すると、遠くで悲鳴が聞こえた。「大変!誰か飛び降りたわ!」 愛はすぐさま病院に運ばれた。体の痛みは、意識が途切れるほど激しかった。 しかし、手術室のベッドに寝かされても、医者は誰も来なかった。 二人の若い看護師だけが、ひそひそと噂話をしていた。 「どうしよう?今重症患者が入ってきたのに、先生たちが全員、櫻井グループの社長に呼ばれちゃって」 「全員?何があったの?」 「櫻井社長の婚約者さんが足を骨折したらしくて。社長、心配でたまらない様子で、ウチのグループ病院の医師、全員招集したらしいのよ」 「でも、なんで産婦人科の先生まで?」 「それがね……どうやら、その婚約者さん、ご懐妊らしいのよ」 愛の目から、音もなく涙が流れ落ちた。 詩帆が、妊娠?それは、愛が想像だにしなかった、最後の一撃だった。 愛はゆっくりと目を開けた。二人の看護師が息を呑む。 「……に、電話して」 この瞬間、自分を救えるのは、自分だけだ。 田原に連絡し、愛は意識を失う直前、ようやく櫻井病院から連れ出された。 田原が手配した別の病院を退院できたのは、二十四時間が経過した後だった。 愛は、ふらつく体で家に戻った。 湊がリビングのソファでタバコをふかしていた。 その深い瞳が、静かに愛を見つめている。 かすれた声で、彼が言った。「お前が怒ってるのは分かるが、詩帆のことは放っておけない」 湊が近づき、愛の体を抱きしめた。 その瞬間、愛の体は爆発するような激痛に襲われた。「……っ!」 湊の声が、頭上から降ってくる。「隼人が言ってた。家まで送ろうとしたのに断って、一人で帰ったそうだな。愛、機嫌を損ねないでくれ。結婚式まで、あと十三日しかないんだ」 湊の腕が、愛の腰をきつく抱きしめる。 愛は耐えきれなかった。 顔は真っ青になり、額には脂汗が滲む。全身が、悲鳴を上げていた。 力なく愛は言った。「湊……別れましょう」 最後の最後、お互いの体面を保ちたかった。 湊の深い瞳が、瞬時に驚愕で見開かれた。その端正な顔に、みるみる怒りが浮かぶ。 「俺たちの間に、その言葉はあり得ない。お前は俺のものだ。絶対に離さない。 詩帆のことで怒ってるって分かってる。俺はただ、兄として当然のことをしただけさ」 その言葉を聞いた瞬間。愛の中で、最後の何かがぷつり、と音を立てて消えた。 彼女は、すべてを諦めて言った。「……うん、わかった」 その力ない返事で、湊は愛が許してくれたと解釈したようだった。 湊の険しかった眉間が、優しく緩む。愛の額に、柔らかなキスを落とした。 「愛。詩帆と仲良くしてくれて嬉しい。結婚したら、詩帆も新居に住む。三階をあいつの部屋にしよう。いいだろう?」 湊の無邪気な計画を聞きながら、愛の心は、完全に凍てついていた。 第6話 新居は、湊が長い時間をかけて設計したものだった。あの時、「この家の女主人は、お前だけだ」と、彼は確かに言った。 だというのに。今、三階を詩帆に使わせると言う。 別荘は三階建てだ。一階はリビングとキッチン。二階は主寝室。三階はゲストルームで、将来は子供部屋にする予定だった。 今、その場所を、詩帆が占領する。 この別荘の名前は、すべて湊が愛のために付けたものだった。 愛の口元に、乾いた嘲笑が浮かんだ。腰の奥がズキリと痛む。 タトゥーショップへ二回目のレーザーを当てに行かなければ。そうすれば、すぐに彼女と湊は終わる。 「……わかった」 この言葉以外、愛に返せるものはなかった。 すべて、彼の望む通りに。 その後、愛は適当な理由をつけて別荘を出て、すぐさまタトゥーショップへと向かう。 そしてベッドに横たわり、上着を脱ぐと、三階から飛び降りた際にできた無数の痛々しい傷痕、そして青あざが背中や体中に広がっていた。 それを見た女性店主が息を呑んだ。「これは……!昨日来なかったのは、こんなひどい怪我を……?」 愛の瞳は虚ろで、生気がなかった。か細い声で、彼女は言った。「構いません。今日は強めにお願いします。昨日、来れなかった分も……全部」 店主の瞳に痛みが走る。「できなくはないけど、ものすごく痛みますよ」 「耐えきれます」 レーザーの針が、一本一本肌を焼いていく。愛は痛みで涙を流したが、一度も声を上げなかった。 体から湊の痕跡を、すべて消し去らなければならない。 その時、スマホにニュース通知が来た。ピン、と軽い音が鳴る。 彼女は画面を見た。 【名門・荻原家の令嬢が電撃帰国、恵川市バレエ団の新首席に!前首席・小林愛の行方は?】 誰がこのニュースを流したのか、考えるまでもなかった。 湊は、もうこれっぽっちも待てないのだ。 スマホが再び鳴った。湊からの電話だ。 優しく、どこか懐かしむような口調。「愛、おじいさんが今夜、家族で食事会を開くそうだ。俺は詩帆を先に連れて帰る。後で家で会おう。詩帆のことは、おじいさんに俺からきちんと説明する。余計なこと言うなよ」 愛は、最後の望みをかけて言った。「湊。詩帆を櫻井家に連れて行くの、あと五日だけ待ってもらっていい?」 もうすぐ、自分はここから去る。五日後には、彼の世界から完全に消える。 その時になって彼が詩帆とどうなろうと、もう痛みは感じない。 この五日間だけ、どうか穏やかに過ごさせてほしい。 だが、湊は有無を言わさぬ口調できっぱりと断った。「すまない。もう、詩帆と約束したんだ」 ……そう。櫻井家に来た当初、もし湊に出会わなければ、彼女は櫻井家に七年もいなかっただろう。せいぜい一年。大学を選ぶ時、警察学校を選んでいたはずだから。 湊のせいで、人生の岐路で違う道を選んだ。 今、すべてを元に戻すだけだ。 彼女は、もう一度選んだ。 今度は湊を諦めて、自分の生きたいように生きる、と。 愛はタトゥーショップを出たものの、櫻井家の本邸には向かわなかった。 しかし二時間後、櫻井家で起きた出来事を知ることになった。 湊が詩帆を櫻井家に連れて行ったら、櫻井家の当主、櫻井正雄(さくらい まさお)が激怒し、湊を鞭で打ったという。詩帆を今すぐ叩き出せ、と。 案の定、湊は拒否した。「哲朗の代わりに、詩帆は俺が守らなければならない」と。 正雄は怒り狂い、容赦なく湊を打ち続けた。 それを見た詩帆が、湊を庇って鞭の前に立った。 その瞬間、湊は詩帆を抱きしめて守った。詩帆が指一本傷つかないように。 愛が湊に再会したのは、真夜中だった。 傷だらけの彼が、なんとか家に帰ってきた。 そして、怒りと狂気をたたえたまま、愛をベッドに押し倒す。 赤く充血した瞳が、憎しみを込めて彼女を睨みつけていた。「お前……っ、どうしておじいさんに告げ口したんだ?お前だけを愛してるって言ったくせに!詩帆の世話は、親友への義理だ。彼女を、殺さなきゃ気が済まないのか!?」 第7話 愛の肩甲骨が、軋むように痛んだ。それでも、必死に落ち着こうとする。 震える声で絞り出した。「告げ口なんて、してないわ」 しかし湊の目に、怒りが満ちている。フッと彼は鼻で笑った。 「フン。おじいさんの前で俺と詩帆のことを話せる人間なんて、お前以外にいない。誰もが恐れて口をつぐむ。だが、お前は違う。冷静で、決断力がある。報復する時には、容赦ない」 湊は一言一句、愛を追い詰めるように告げた。 「大学一年の時、誰かに『孤児』と罵られて、絵の具のボトルを丸ごとそいつの頭にぶちまけたな。三年の時は、両親のことを言われて、ダンススタジオのドアを閉め、監視カメラを切り、その女の手を折れるまで殴った……」 愛の瞳に驚愕が走った。すべて、知っていたのか。 湊の薄い唇が、愛の耳元に触れる。「愛、他人への報復なら、俺が後始末してやる。詩帆だけは別だ。今、おじいさんが荻原家に、詩帆をB市に送れと命じてる」 ベッドに押し倒され、脅しつけられる。 「今すぐおじいさんに電話しろ。詩帆をここに残させろ。お前には豊市の療養施設に、おばあさんがいたよな。毎月、会いに行ってるだろう?」 愛の顔が、真っ青になった。信じられないという涙の瞳で、湊を見つめる。 初めて祖母のことを話した時、湊は愛を優しく抱きしめ、熱いキスで体中を覆った。共に祖母に会いに行き、大金を払い、海外の医療チームを雇い、豊市の療養施設にずっと付き添わせた。 祖母は意識不明のままだったが、湊の尽力のおかげで七年も長く生きられたのだ。 「今自分が何を言っているか、本当に分かってるの?」愛の震える手が、湊の白いシャツを強く掴んだ。 彼は愛のすべてを、一つ一つ破壊していく。 彼が自分にしてくれた、すべての愛を引き裂いていく。 正雄への電話をかける、その寸前。湊のスマホに、拉致犯からビデオ通話がかかってきた。 「櫻井さん、荻原詩帆は預かってますぜ。身代金は六百億円。この金がなけりゃ、俺たちで散々楽しんだ後、殺すことになりますね」 湊の顔が冷たく凍りつく。「お前らは誰だ!」 拉致犯が下卑た笑いを浮かべた。「ははは、小物ですよ。金が欲しいだけ。あ、そうだ。傍らにいる小林愛も連れてきてください。小林愛を楽しめるなら、荻原詩帆みてえな水臭い女には興味なくなるんでね」 画面の向こうには、ボロボロの倉庫が映っていた。 詩帆が縛られ、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、泣き叫んでいる。「湊さん、助けて……っ!」 愛はその光景を見て、動こうとした。だが、湊は彼女の手首をきつく掴んでいた。 震える涙の瞳で、愛は湊を見つめる。「嫌です、湊!私は、詩帆に何の借りもない。だから……っ!」 湊は自分のネクタイを引き抜き、愛の両手を荒々しく縛った。 愛の涙が雨のように流れ落ちる。「もうやめて……詩帆と交換なんて、死んでも嫌だ!」 その時、ビデオの中で、拉致犯の一人が詩帆に近づき、着ていた白いドレスを引き裂いた。 瞬間、その白い肌が、全員の目に晒された。 湊の目に殺意が満ちた。喉から絞り出すような声で、彼は言った。「いい……三十分後に、そっちの人間が愛を引き取りに来い」 拉致犯が、嘲笑うように大笑いした。「いいね!恵川市で一番美しい女をいただくぜ!あのダンス、俺たち兄弟はみんな夢中になって見てたんだ。やっぱり小林愛の方が、味があるぜ!」 ビデオ通話が切れた。 愛は、湊に強く抱きしめられた。熱いキスが、愛の目尻に落ち、涙を飲み込むように吸い上げた。 かすれた声で、湊が囁く。「心配するな。俺は、お前のすぐ後ろにいる。詩帆の場所さえ分かればいい。お前には、絶対に傷一つつけさせない」 愛は、涙に濡れた瞳で湊を見つめたが、もう何も言わなかった。 失望しきった今、もう、彼に幻想など抱くべきではなかった。 第8話 愛は、湊の車で拉致犯が指定した場所まで連れて行かれた。 車中で、湊は警察に通報し、友人にも電話をかけた。櫻井家の勢力もすでに動いているという。 大橋まで来た時―― 湊は、手を縛られたままの愛を見つめた。 その指が、愛の唇に触れる。目には、深い愛情が宿っている。 限りなく優しく、彼は告げた。「愛。戻ったら、すぐ結婚しよう。詩帆は、俺たちの間の障害じゃない。愛してる」 愛は最後の告白を聞き、ただ乾いた笑みを浮かべた。 愛してる、と?今さらなんて、とんだ笑い話だ。 本当に愛している人間が、別の女のために自分を差し出すはずがない。もう、信じなかった。 愛は拉致犯に連れ去られた。 車の中で、拉致犯が待ちきれずに、彼女の体にベタベタと触り始めた。 「ふぅ〜さすが恵川市の白鳥、肌が最高だぜ」 「この荻原という女が仕組んだ拉致は、俺たちにこいつを壊させるためだ。俺が……」 愛は、「荻原」という言葉を聞いた。 拉致犯が、愛の服を引き裂いている。 愛は尋ねた。「その荻原って、荻原詩帆なの……?」 拉致犯が大笑いした。「そうだ!俺たちに六億円くれた!しかも櫻井湊の女を楽しめるなんて、こんなにいい仕事、滅多にねえぜ!」 そう言いながら、拉致犯は興奮に顔を歪めた。 愛の服を引き裂こうとしたその時。 前で運転している男が、鋭く叫んだ。「兄貴、警察だ!後ろにも!」 この時、車はすでに大橋の真ん中にいた。 拉致犯のボスが、愛の頬を容赦なく平手打ちした。愛の顔が瞬時に腫れ上がる。 ボスが怒りに声を荒げた。「お前の男が、罠を仕掛けやがったな!」 遠くからスピーカーの声が聞こえてきた。「愛を放せ!そうすれば、お前たちは生き延びられる!」 湊の声が聞こえて、愛の手が震えた。 しかしその時、詩帆の泣き叫ぶ声も聞こえてきた。「湊さーん!私は船の上!助けて……っ!」 拉致犯は、愛の体を車から引きずり下ろした。 湊は愛のスカートが拉致犯に破られているのを見た瞬間、その目に殺意が満ちた。 冷たく彼は言い放った。「彼女に、手を出したな!」 拉致犯が嘲笑うように笑った。「でも、櫻井社長が自分で女を俺たちに送ってきたんだぜ?車の中で手を出さないわけないだろ。一分あれば、こいつを頂ける」 湊が激怒し、拉致犯に向かって突進しようとした。 ところで同時に、大橋の下の船から、詩帆の泣き声がさらに大きくなった。 「湊さん!助けてぇええー!」 拉致犯が愛の首にナイフを突きつけ、脅迫した。「俺たちを逃がせ!でなきゃ、荻原詩帆は死ぬ!」 すると、彼は愛の体を大橋の欄干から放り出した。 愛が宙に浮く。 拉致犯が手を放せば、百メートルの高さの橋から、濁流に落ちる。 彼女は泳げない。水が怖い。湊は、そのすべてを知っているはずだ。 しかし愛は湊がはっきりと叫ぶのを聞いた。 「詩帆を放せ!愛は、連れて行け!」 愛はこの瞬間、遠くに見える湊の姿を見た。 そして、自らの手で拉致犯の手を振りほどき、そのまま落ちていった。 橋の上の人々の悲鳴。遠くの道端に立つ人々の悲鳴。どれも、愛の心を凍らせた。 見知らぬ人でさえ、自分の安否を心配しているというのに。七年間、共にいた湊はなぜ詩帆のために、自分の命を顧みないのか。 冷たい水が、愛の体を侵食する。 腰の「愛」のタトゥーが、焼けるように痛む。この傷だらけの体も、愛の心の痛みには及ばない。 湊の叫び声が聞こえた。その直後、湊が叫んだ別の声も。 「……詩帆……っ!」 もう一度水に落ちる音が響いた。詩帆も水に落ちたのだ。 その後、愛は湊がどちらを先に救ったのか、知る由もなかった。 愛は病院のベッドに横たわっていた。何日経ったのか、分からない。 目を覚ました時、部屋に湊はいなかった。 田原が、傍らに座っていた。 愛が目覚めるのを見て、彼は言った。「愛ちゃん、やっと目が覚めたな」 愛の声は、かすれていた。「田原さん……今日は……何日ですか?」 「ちょうど君と約束した、境見市へ出発する日だ。まさか、地方から急いで戻ってきたら、君が重傷で入院したって知らせを受けるとは……」 愛の体は、もはや痛みを感じなくなっていた。 彼女は言った。「でしたら、今夜出発しましょう」 愛は窓の外を見た。太陽はすでに沈み、真夜中まであと三、四時間しかない。 「わかった。他にやり残したことは?」 愛は答えた。「南のほうにタトゥーショップがあるんです。店主を呼んでもらって、タトゥーを消してもらいたいんです」 店主が来た時、手にケースを持っていた。 愛の体の傷がさらにひどくなっているのを見て、彼女の瞳に痛みが走る。「三回目のレーザーですね……七回目まで待てないでしょう。今回は、もっと強めの薬を使って、この部分の肌を、跡形もなく消してあげますよ。いい?」 愛は店主の瞳をまっすぐ見つめて頷いた。「はい。お願いします」 この三回目の痛みは、本来の四回、五回、六回、そして七回目を、すべて兼ねるほどの激痛だった。 店主の手は躊躇なく重い。まるでこの一寸の肌を、無理やり剥ぎ取るかのように。 最後の瞬間まで、愛は痛みで震える手でシーツをぎゅっと掴んでいた。 ついに、最後の赤い「愛」の文字が消えた。肌には、もはや何も痕跡がない。 愛は鏡の中の自分を見た。 腰には、凄惨な火傷の跡が残っているだけ。 もう、そこには彼女と湊の痕跡は何もない。 店主はケースを持って去った。田原が愛を病院の屋上へ連れて行った。ヘリコプターが飛び立った、その瞬間。 病院の最上階、愛が入院していた部屋が爆発を起こった。 同時に愛はスマホを取り出し、拉致された全過程をツイートに書いて送信した。 湊。私とあなた、これでついにきれいに終わった! これからは他人同士。二度と振り返らない! 湊が病院に戻ると、愛が死んだという知らせを受けた。 医者が青ざめた顔で告げる。「櫻井様、最上階VIP病室の小林様は今夜、息を引き取られました。遺体を収容しようとした際、最上階の病室で爆発が発生し、小林様の遺体は焼失してしまいました……!」