愛は春の雪のように溶けて

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愛は春の雪のように溶けて

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京平市市立病院。 「院長先生、私、自ら志願して海野市の分院へ赴任させていただきたいと思います」 院長は驚いたように顔を上げ、しばらく沈...

Chương (1)

第1章

京平市市立病院。 「院長先生、私、自ら志願して海野市の分院へ赴任させていただきたいと思います」 院長は驚いたように顔を上げ、しばらく沈黙した後、慎重に口を開いた。 「晴子さん、本当に決心したのか?あの分院への異動は、少なくとも五年は戻って来られないが」 神原晴子(かんばら はるこ)は瞳の奥に浮かぶ苦みを押し殺し、静かに、しかし確固として頷いた。 「はい、覚悟の上です。今、海野市は開発の真っ最中と聞いています。ですから……そこに行きたいんです」 院長は小さく息をつき、沈んだ声で尋ねた。 「……福井先生やご家族とは、相談したか?」 その名を聞いた瞬間、晴子の胸がきゅっと締めつけられた。 ――姉の神原奈々(かんばら なな)が帰国し、両親と共に彼女と福井横生(ふくい よこお)の家に住み始めてから、横生の心は、少しずつ遠ざかっていった。 晴子は、子どもの頃に戻ったような気分だった。 家の中では、いつも奈々だけが中心で、皆が彼女を取り巻き、自分の存在はいつもかすんでいた。 横生はかつて、「君と一生も家族でいたい」と誓ってくれた。 だが、その約束は結局、守られることはなかった。 でも、もういい。一週間後には、彼のことで心を痛める必要もなくなる。 これからの未来は、もはや誰のものでもなく、晴子ただ一人のものだ。 横生なら、過去に置き去りにすればいい。 第1話 京平市市立病院。 「院長先生、私、自ら志願して海野市の分院へ赴任させていただきたいと思います」 院長は驚いたように顔を上げ、しばらく沈黙した後、慎重に口を開いた。 「晴子さん、本当に決心したのか?ご実家は京平市のはず。あの分院への異動は、少なくとも五年は戻って来られないが」 「はい、覚悟の上です。今、海野市は開発の真っ最中と聞いています。ですから……そこに行きたいんです」 明かりの下、神原晴子(かんばら はるこ)は瞳の奥の苦みを必死に隠し、力強くうなずいた。 院長はまだ躊躇い、言葉を続けた。 「……福井先生やご家族とは、相談したか?」 福井横生(ふくい よこお)の名を聞いた瞬間、晴子の胸奥がきゅっと締めつけられた。 彼女は院長に、穏やかな嘘をついた。 「はい、家族とも話し合いました。皆、私の決断を理解し、応援してくれています」 「そうか……ご家族に異存がなければ、早速人事に手配させよう」 礼を言って院長室を出ると、廊下で看護師長の佐藤麗(さとう れい)が待っていた。 彼女は目に涙を浮かべ、晴子の手をしっかりと握った。 「本当に一人で行くの?お腹の赤ちゃんはどうするの?」 「たとえ一人でも、この子はきちんと育てられるわ」 晴子はまだ目立たないお腹に手を当て、静かに微笑んだ。 「それに、分院には新しい医療機器が導入されると聞いている。もしかしたら、この腕の古傷も治せるかも。そうすれば……もう一度、執刀できるかもしれない」 その言葉に、麗の目が悲しみに曇った。 晴子の腕の傷は、かつての医療紛争で患者家族に切りつけられたものだ。 病院には「神の手」と称される二人の俊英がいた。 一人は横生、そしてもう一人が晴子。 三年前のある手術で、横生がわずかなミスを犯した。激昂した患者家族がメスを振り回したその時、当直だった晴子が彼の前に立ちはだかり、深い傷を負ったのだ。 その後、患者は無事回復し、横生の過失も問われず、彼は依然として病院の看板外科医として君臨し続けた。 ただ一人、晴子だけが、執刀医としての未来を失った。 横生はその恩義に報いるため――彼女を妻に迎えた。 結婚して三年、横生は惜しみない愛情と優しさを注いだ。 二人は周囲からは羨まれる、理想の夫婦に見えていた。 しかし、それが真実ではないことを知っているのは、晴子ただ一人だった。 横生が心から愛しているのは、彼女ではなく――姉の神原奈々(かんばら なな)だった。 彼はただ何度も自分に言い聞かせた。晴子を愛さなければ、奈々を忘れなければ、と。 横生は記念日のたびにプレゼントをくれた。 けれど、どれも晴子の好みとは微妙にずれていた。 真夜中、彼はうなされながら名前を呼んだ。 ――「奈々」と。 その声が、幾度となく晴子の鼓膜を震わせた。 横生は彼女の前でひざまずき、誓ったこともある。 「この福井横生は、この命の続く限り、ただ神原晴子ひとりを愛す。もしこの誓いに背くことがあれば、天罰くだるも悔いなし!」 晴子がその言葉を信じかけていた、まさにその時――奈々が帰国した。 その日、普段は冷静沈着な福井先生は別人のようだった。 何もかも放り出し、病院の車を飛ばして空港へと向かった。 彼が残していった仕事の山は、すべて晴子の肩にのしかかった。 その日を境に、姉と両親が帰国し、彼女たちは晴子と横生の家に住み始めた。 そして、横生の視線は完全に奈々へと向けられるようになった。 家の中はいつも姉を中心に回っていた。 時に晴子は思う――ここは、果たして自分の居場所なのだろうか、と。 横生はそんな彼女の寂しさに気づいていたのか、外では模範的な夫を演じ、家ではこう言った。 「あまり気にするな。奈々は治療のためだけに来ているのだから」 しかし彼は知らなかった。奈々が帰国したあの日、晴子が自身の妊娠を知ったことを。 三年もの間、横生は子供を待ち望んでいた。 その願いが叶ったというのに、晴子は彼に告げる気にはなれなかった。 夜勤明けの冷たい風が肌を刺す。晴子は一人で、震えていた。 今日は気温が下がると分かっていたから、横生は迎えに来ると言っていた。 なのに、彼は現れなかった。 家族に迎えられて帰っていく同僚たちを見送りながら、晴子は自嘲気味に唇をゆがめた。 ――もうすぐここを離れるというのに、まだ何を期待しているのだろう。 彼女の未来は、これから生まれてくる小さな命と、自分自身のためにある。 横生なら、過去に置き去りにすればいい。 第2話 疲れ切った体を引きずりながら自宅に戻り、晴子は玄関を開けると、両親と横生、そして車椅子に座っている奈々が食卓を囲んで、和やかに朝食を取っている姿を目にした。 晴子が現れた途端、場の空気が一瞬止まった。 どうやら誰も、彼女が夜勤明けで一晩中働き詰めだったことを思い出さないらしい。 奈々が最初に口を開いた。 「お腹が空きすぎちゃって、晴子を待たずに先に食べちゃった。晴子、気にしないでね?」 海外公演中の事故で負傷して以来、家族全員が奈々を中心に回るようになっていた。 「もちろん気にしてないわ。食事なんて大したことじゃないもの」 ――この程度のことは、これまで受けてきた傷に比べれば、何でもない。 晴子は横生の目に一瞬よぎった気まずそうな表情を見逃さなかった。 横生は晴子の機嫌を取るように、すぐ立ち上がってスープをよそいに行った。 だが、彼が椀を持って戻ってくる前に、晴子の鼻に強い匂いが襲った――羊肉の臭みだった。 母の神原亜由美(かんばら あゆみ)がにこやかに言った。 「これは一晩かけて煮込んだ羊肉のスープなの。お姉ちゃんの体を温めるためにわざと作ったのよ」 その言葉を聞いた瞬間、晴子の胃がひっくり返るように疼き、彼女は慌てて洗面所へ駆け込んだ。 横生は汁椀を持ったまま動きを止めた。 やっと思い出したのだ――晴子が羊肉が大の苦手で、その匂いを嗅ぐだけで吐き気を催すことを。 「私が悪いの。どうしても羊肉のスープが飲みたくて、晴子に迷惑をかけちゃった」 奈々の声にはどこか芝居がかった響きがあった。 亜由美は洗面所の方へ一瞥もせず、奈々の肩をさすって慰めた。 「まったく、あの子はわがまますぎるわ。ただの羊肉スープじゃないの。大げさなんだから。私なんてとてもいい香りだと思うけど?三年も結婚してまだ子ども一人いないんだし、運がない子ね」 ドア一枚隔てた洗面所の中で、晴子はその言葉をすべて聞いていた。 父の神原宗一郎(かんばら そういちろう)も亜由美の言葉に相槌を打っていた。 そして横生は――ただ黙って聞いているだけ。 そんな光景にはもう慣れていた。 それでも、傷だらけの心はまた疼いた。 気持ちを整えて戻ると、彼女は静かに言った。 「食欲がないから、少し休むわ」 ドアを閉めた瞬間、外の空気は再び賑やかさを取り戻した――まるで幼い頃の実家と同じように。 かつて晴子は、大人になって自分の家庭を持てば、もう「余計な子」扱いされないと思っていた。 けれど、何も変わっていなかった。 「一生守る」と誓った夫の心も、ずっと別の人で満たされていたのだ。 しばらくして、横生が部屋に入ってきた。 手にはお粥の入った椀を持っている。 「少しでも食べて。体を壊すよ」 晴子はお腹の子のことを思い、椀を受け取って口に運んだ。 横生は彼女が食べ終わるまで黙って隣に座り続けたが、落ち着かない様子だった。 「言いたいことがあるなら、言えば?」 晴子は椀を置き、まっすぐ彼を見つめた。 横生は躊躇ってから、口を開いた。 「奈々が今使ってる部屋は少し狭くて、日当たりも悪くて。だから……しばらく俺たちの部屋を使わせようと思う。日当たりもいいし、彼女の回復にもいいはずだ」 晴子は一瞬息を止めた。 「じゃあ、私は?どこで寝ればいいの?」 「病院の当直室で少しの間だけ我慢してくれないか。奈々も長くは居ないから」 晴子は苦笑した。 ――これが私の夫。いつだって他人のことばかり考えて、妻の気持ちだけは見えない。 今日、姉が求めているのは夫婦の寝室、明日には、きっと「夫」そのものを求めるのだろう。 横生がまた何か言いかけた瞬間、晴子が静かに口を挟んだ。 「分かった。後で部屋を片づけておく」 横生は驚いた。 いつもなら奈々の話になると、晴子は激しく反発する。 それが今日は、別人のように素直だった。 不思議に思いながらも、彼は深く追及せずに部屋を出ていった。まるで、彼女が気が変わる前に逃げるように。 晴子は三年間過ごした寝室を見渡し、胸の奥がきゅっと締めつけられた。 丹念に飾り、心を注いできたこの部屋。そして大切に守ってきた結婚生活。 それは結局、指の間からこぼれ落ちる砂のように、形を留められない。 ――この家も、横生も。 もう、どちらも要らなかった。 第3話 人事異動の通知書は、すぐに届いた。 晴子はその書類をしっかりと握りしめ、出発の日付を確認する。 あと七日。 七日で自分の荷物を整理し、この家から、そして横生から完全に離れるには十分だ。 夕暮れ時、ようやく全ての整理が終わった。 横生に関わるものだけで、段ボール三箱分になった。 彼に編んだマフラー、二人で作った飴細工、そして彼のために丹念に選んだのに、一度も締められることなく隅に追いやられていたネクタイ。 他には、横生が形ばかりに渡した小さな贈り物の数々もある。 例えば、かつては宝物のように思っていたブレスレット、今では、それはただ虚しい飾りに過ぎない。 彼女はそれを箱にしまい、処分するつもりだった。 本当に自分のものと呼べる荷物は、たった一箱だけ。 南の海野市へ行くことを決めた晴子にとって、どうしても気がかりなのは――拾って育てた三毛猫の「あんちゃん」のことだった。 三年前から一緒に暮らしてきた甘えん坊の猫、彼女にとっては、もう家族同然の存在だった。 古傷が疼き、死にそうに苦しい夜も、横生が奈々を遊園地に連れて行っていた時も。 つわりで吐き気が止まらず、温かいお茶一杯欲しい時も、横生は奈々のリハビリに付き添っていた時も、いつも傍にいてくれたのはあんちゃんだけ。 だから、海野市へ行く時も絶対に連れて行くつもりだった。 晴子がペットの輸送について調べようと考えていた時、背後から視線を感じて振り返ると―― 奈々が車椅子に座り、意味深な笑みを浮かべてドアの前にいた。 「それ、全部横生があなたにあげたものじゃない?」 「あなたには関係ないわ」 晴子は冷たく言い、通り過ぎようとした。 だが、車椅子が通路を塞いでいた。 奈々は口元を歪めて嘲笑った。 「まさか本気で、横生があなたを愛してるなんて思ってないでしょうね?あの人が哀れんでるだけよ」 奈々が家族や横生の前では決して見せないこの顔を、晴子だけが知っていた。 彼女は箱の中からブレスレットを取り上げ、自分の腕に付けたブレスレットを見せつけた。 そこには、まったく同じブレスレットが輝いていた。 「横生にとって、あなたはただの代わりに過ぎないの。彼があなたにあげたものは全部、もともと私が好きだったもの。 ねえ、彼がそれを見るたび、思い出してるのは誰だと思う?」 ――そんなこと、とっくに分かっていた。 だからこそ、横生に関するものはすべて捨てようとしているのだ。 「彼が誰を想っていようと、私には関係ない」 もう、この二人の世界に入り込む気はなかった。 ただ、子どもと静かに生きていきたかった。 だが、奈々はそれで終わる気はなかった。 その目に、冷たい光が一瞬走る。 「じゃあ、見せてあげる。横生が本当に大切にしているのは誰かを」 言い終わるやいなや、彼女はわざと体を前に倒し、車椅子から床に転がり落ちた。 「痛い……!晴子、私があなたの部屋に住むべきじゃないって分かってたけど、押すなんてひどいわ……!」 その悲鳴を聞き、宗一郎と亜由美が慌てて駆け込んできた。 床に座り込み、泣きじゃくる長女を見た瞬間、宗一郎は怒りに任せて手を振り上げた。 「このバカ娘!怪我してる姉さんを押したのか!」 亜由美は泣きじゃくる奈々を抱きしめながら、晴子を睨みつけた。 「どうしてこんな冷たい子に育ったの!」 幼い頃から愛されないことには慣れていた。それでも、晴子の胸の奥が締めつけられ、涙が頬を伝った。 「私は押してない!」 第4話 こんな茶番劇は、奈々が子どもの頃から何度も繰り返してきたことだった。 だが両親はいつだって彼女の言葉を信じ、彼女の味方に立った。 晴子は何度も思った――悪いのは自分なのだろうか、と。 しかし後になって、ようやく真実を知ることになる。 両親は最初、奈々を産んだ後に男の子を望んでいた。 だが生まれてきたのは、また女の子だった。 そのうえ、奈々は「妹ができたら愛されなくなる」と恐れ、両親の前で何度も妹を悪く言った。 そうして年月が経つうちに、元々息子を欲しがっていた両親の心は、ますます長女に偏っていったのだ。 ちょうどその時、横生が帰宅した。 床に倒れて泣く奈々を見て、彼は慌てて駆け寄り、抱き上げて車椅子に戻した。 その傍らに立つ、頬を腫らした妻の姿には、目も向けなかった。 奈々は涙に濡れた顔で、横生の胸にもたれかかった。 「横生、足がすごく痛いの……!」 彼は彼女の足の青あざを見て、表情を曇らせた。 「どうしてこんなことに?」 亜由美がすぐに晴子を指さして罵った。 「この子のせいよ!奈々を突き飛ばしたの!」 その言葉に、ようやく横生は晴子を見た。 頬を押さえ、涙を流している彼女の姿を見た瞬間、心の奥に小さな痛みが走った。 結婚して以来、彼女が泣くのを見るのは初めてだった。 思わず手を伸ばし、涙を拭ってやろうとした。 だが、晴子はその手を避けた。 胸の動揺に戸惑いながらも、横生は珍しく晴子をかばった。 「お義母さん、何かの誤解じゃないか?」 宗一郎がすぐに言い返した。 「誤解だと?じゃあ誰が押したっていうんだ?奈々が自分で転ぶはずがないだろう!」 「晴子のせいじゃないわ……私が悪いの。晴子を怒らせちゃったから」 奈々は涙をぽろぽろとこぼし、花びらのように震えていた。 晴子はそんな光景を黙って見つめた。 家族三人の姿を見渡し、最後に横生の方を見て、力を振り絞るように問いかけた。 「あなたも……私が押したと思う?」 横生は言葉に詰まった。 その時、奈々が両手で顔を覆いながら小さく泣いた。 「私、ただこのブレスレットをつけてただけなのに……晴子が、私が彼女の物を盗んだって。 でも違うの。晴子のものは、ほら、ここに落ちてる」 横生は視線を落とし、床に転がったブレスレットを見つめた。 奈々がつけているものと、まったく同じものだった。 その瞬間、彼の脳裏に浮かんだのは――些細なことで彼に食ってかかる晴子の姿。 「またか」 彼は冷たく息を吐いた。 「謝れ!」 横生の目には失望の色が宿っていた。 晴子はしばらく彼を見つめ、そして――笑った。 ――やはり。この人は、いつだって自分の味方にはならない。 三年の結婚生活が、一瞬で滑稽なものに思えた。 彼女は何も言わず、床にいたあんちゃんを抱き上げ、人々の間をすり抜けて家を出た。 背後から、奈々の甘ったるい声が聞こえる。 「横生……私の足、ひどくなってない?」 横生は晴子の背中を一度だけ見た。 だがすぐに視線を戻し、奈々の肩に手を置いた。 「大丈夫だ。すぐ包帯を替えよう」 亜由美は慌てて救急箱を探しながら、振り返って叫んだ。 「奈々に何かあったら、許さないからね!」 家を出ると、背後の喧騒は少しずつ遠ざかっていった。 広い通りに冷たい風、晴子が一人で街を歩いていた。 夜の闇と、胸に押し寄せる記憶が重なり、息が苦しい。頬がひりつくほど痛い。けれど心の痛みの方が、ずっと深かった。 横生の「大切にする」「守る」という言葉――全部、嘘だった。 もう彼との関係も、この家も、すべて終わりにしよう。 晴子は暗がりの中、しゃがみ込んだ。その時、小さな温もりが、彼女の頬を舐めた。 あんちゃんだ。 晴子は涙をこぼしながら、その体を抱きしめた。 「あんちゃん……もう、あなたしかいないの」 その夜、彼女は家に戻らず、そのまま荷物を持って病院へ行った。 院長は晴子の落ち込んだ様子を見ると、何も聞かず、彼女に休める部屋を用意してくれた。 真夜中、突然、病院が騒然となった。 交通事故の患者が運び込まれ、緊急手術が必要になったのだ。 だが、夜中で医師が足りず、横生のチームも助手が一人欠けていた。 「神原先生に頼みましょう!もともと執刀医だったじゃないですか!」 誰かの声に、晴子は一瞬ためらった。 昼間のことが頭をよぎり、横生と顔を合わせたくなかった。 だが――命を救うためなら、そんなことは言っていられない。 「私が入ります」 彼女はまっすぐ答えた。 執刀医ではなく助手としてなら問題ない。長く離れていても、手は覚えている。 だが横生は、彼女を見ようともしなかった。 少しの沈黙の後、冷たく言い放つ。 「実習医を呼べ、彼女はだめだ」 そして振り返りもせず、手術室へ向かった。 「彼女はもう長い間手術をしていない。この手術、失敗は許されない」 晴子はその言葉を聞いたまま、立ち尽くした。 胸の奥に冷たい風が吹き抜ける。 ――ああ、彼の目には、私はもう「役立たず」なんだ。 かつては彼と肩を並べ、いや、それ以上の技術を誇っていたのに。 横生は、一度も自分の価値を見ようとはしなかった。 その夜、京平市には雪が降り始めた。 街を静かに包み込む雪が、すべての音を飲み込んでいく。 明け方、手術はようやく終わった。 時間はかかったが、結果は成功だった。 病院のあちこちから拍手が起こる。 横生の顔には、疲労と、それでも隠せない誇りの色があった。 ――かつて、晴子も同じく、手術台の上で死神の手から命を奪い返す医者だった。 でもその輝きは、もう遠い昔のことだ。 晴子は静かに息を整え、何事もなかったかのように、最後の当直を続けた。 第5話 カウントダウン、あと五日。 晴子は、他人の口から横生の昇進の知らせを聞いた。 「晴子さん、本当に理想のご主人に恵まれましたね。若くして有能だし、浮いた噂も一切ない。情が深くて一途だって、皆が羨ましがってますよ」 「そうね。福井先生、病院史上最年少の医長になるんですって?」 周囲の明るい声の中で、晴子だけが笑えなかった。 夫の昇進を、他人の口から聞くなんて。 妻として、これほど空しいことはなかった。 彼女はただ静かにうなずいた。今日のお昼に、彼女はすでに、あんちゃんを海野市へ連れて行く手続きを終わらせた。 荷物はすべて病院に置いてあるが、晴子はあんちゃんを家に残すのが心配で、迎えに行った。 道の氷雪は溶けていたが、空気は冷たく、人通りはまばらだった。 奈々が戻ってきてから、横生は二度と彼女を車で送迎しなくなった。 どんなに寒い日でも、彼の口から気遣いの言葉は聞けなかった。 家に着いたとき、靴下までじっとりと濡れ、指先は氷のように冷えていた。 鍵を差し込み、回そうとしたが、開かない。 鍵穴をよく見ると、見慣れない新しい鍵がついていた。 胸の奥に苦いものが広がる。 彼女がまだ出ていかないうちに、もう鍵を取り替えるなんて。 あんちゃんがお腹を空かせているかもしれないと思い、一階の窓から何度も名前を呼んだ。 いつもなら、すぐに駆け寄ってくるのに、今日は何度呼んでも姿を見せない。 嫌な予感が、じわじわと胸を締めつける。 どれだけ待っただろう。ようやく車のライトが差し込み、横生たちが帰ってきた。 車のドアが開き、暖かな車内から四人が楽しげに降りてくる。 「今日の映画、本当に良かったね」 「横生、チケットありがとう」 「おいおい、家族なんだから礼なんて言うなよ」 彼らの笑い声を聞きながら、晴子はその場に立ち尽くした。まるで、ここだけが別世界のように。 横生は玄関先の彼女に気づくと、表情を強ばらせ、すぐに亜由美に車椅子を預けて駆け寄ってきた。 「こんなところで立っていたのか?寒いだろう」 ――寒さを知っているのね。 その皮肉が胸をよぎったが、口には出さず、彼の手を避けた。そして唇もかすかに震えていた。 「鍵、変わっていた」 宗一郎が横生に一つの鍵を差し出した。 「俺が替えたんだ。古くなっていたし、奈々も鍵を持っていなかったからな。不便だろう?」 横生は初めて知らされ、眉をひそめた。さらに憔悴した晴子の顔を見ると、胸の奥がざわつく。 「お義父さん、替えるにしても、一言言ってくれれば……」 そのとき、亜由美が奈々を支えながらゆっくり入ってきた。 「あら、奈々、気をつけてね。 まあまあ横生、それはあなたが悪いわよ。お父さんが気を利かせてお金まで出したんだし、あなたたちのためを思ってのことよ」 奈々が横生の袖をつまんだ。 「お父さんは、私が出入りしにくいのを見て替えてくれたの。横生、怒らないで」 横生はすぐに彼女の手を握り返した。 「怒るわけないだろ。そんなこと言うな」 晴子は、その吐き気を催すやり取りを見たくなくて、足早に中へ入った。 ただ一刻も早く、あんちゃんの姿を確かめたかった。 だがドアを開けても、あの馴染みの鳴き声は聞こえない。 電気をつけると、玄関の隅にあったはずの猫のベッドも、餌皿も、影も形もない。 晴子の心臓が激しく鼓動した。 横生の胸ぐらを掴み、声を震わせて叫んだ。 「あんちゃんは?どこにいるの!」 亜由美は奈々の肩についた雪を払いながら、何気なく言った。 「まさか、あの猫のこと?デブで性格も悪いし、玄関をふさいで邪魔だったわ。餌の無駄遣いだもの」 晴子の目が見開かれ、一気に血の気が引いていく。信じられないという思いが、全身を貫いた。 「それで?あの子をどうした?」 横生は晴子の表情に気づき、慌てて腕を伸ばした。 だが――もう遅かった。 第6話 晴子の感情は、限界を超えていた。 目は真っ赤に腫れ、声は震え、今にも崩れ落ちそうな様子だった。 だが亜由美は娘の苦しみを無視し、怒鳴りつけた。 「なんなのその態度!たかが猫一匹で母親にそんな口をきくの! 捨てたんだからどうした!お姉ちゃんが猫アレルギーなの、知ってるでしょ?わざと飼ってたんでしょ!」 晴子は涙をこらえ、窓の外の吹雪を見つめた。 そして、迷いなく外へ飛び出した。 なぜか横生の胸に微かな痛みが走った。 砕けそうな妻の姿に、抑えきれない不安が湧き上がる。 慌てて彼も外に出て、晴子の腕をつかんだ。 「外は吹雪だぞ!ひとりでどこを探すつもりだ!」 晴子はその手を振り払った。 「放っておいて。あんちゃんをどうしても探すんだ」 「ただの猫だろう!もともと野良だったんだ。いなくなったなら、それでいい!」 その言葉で、晴子は呆然と立ち尽くした。瞳の奥の光が、少しずつ消えていった。 ――いなくなったなら、それでいい。 猫だけじゃない。彼にとって、彼女の大切なものはすべて、取るに足らないものだった。 晴子は静かに横生を見つめ、そっとその手から逃れた。 振り返ることなく、吹き荒ぶ雪の中へ消えていった。 横生の胸に、かすかな焦燥が残った。 雪の中で遠ざかる彼女の背中を見ながら、何か大切なものが永遠に失われていくような気がした。 追いかけようとした瞬間、背後から宗一郎の声が響いた。 「横生、奈々が薬を飲まない。ちょっと見てやってくれ。あの娘なら、どうせすぐ戻ってくるさ」 横生は、結局引き返した。 その夜、誰も晴子を気にかけなかった。 吹雪の中、彼女がどれほど冷えていたか、誰も知らない。 彼女はひとりで、長い時間歩き続けた。 あんちゃんがよく行く場所をすべて回ったが、どこにもいなかった。 真っ白な雪夜、彼女は立ち尽くした。凍える風が頬を刺し、体の感覚が消えていく。 もう、あの小さな猫には二度と会えない――この街で唯一の絆が、完全に断たれたんだ。 病院に戻った時、空はまだ暗かった。 入口で立ち尽くす彼女を見つけたのは、看護師長の麗だった。 病院に入るなり、晴子は意識を失った。 目を覚ましたのは翌日だった。 傍らには、麗が心配そうに座っている。 「やっと目を覚ましたのね。ほんとに心配したわ。 こんな寒い日に外を歩くなんて……あなたはもうひとりじゃないの。お腹の赤ちゃんのためにも、自分を大事にしなさい」 麗は温かいお粥を差し出した。 晴子はぼんやりと受け取り、スプーンを口に運んだ。 だが、胸にあんちゃんの姿が浮かぶたび、あまいはずのお粥が、涙でしょっぱくなった。 麗はため息をついた。 「赤ちゃんのためにも、あんまり悲しみすぎちゃだめよ」 そして小さく呟いた。 「福井先生もどうかしてるわね、あなたを一人で歩かせて……」 晴子は答えなかった。 ただ、窓の外を見つめ続けた。 舞い落ちる雪が、彼女の心と同じくらい冷たく感じられた。 麗が休むように勧めたが、晴子は首を横に振った。 彼女にはまだ最後の仕事が残っていた。 そして、横生に渡すべき書類――離婚協議書もある。晴子はそれをカルテの間に挟んで、静かにデスクに置いた。 出勤時間になり、横生が現れた。疲れた顔に、少し苛立ちを宿している。 昨夜のことを責めに来たのだ。 ――どうしていつも感情的になるんだ。話し合えばいいだろう。 そう言うつもりだった。 だが、晴子の蒼白な顔を見た瞬間、言葉が詰まった。 「昨日、風邪ひかなかったか?だから外に出るなって言っただろう」 手を伸ばして彼女の額に触れようとした。 晴子は、静かに身を引いて避けた。 「大丈夫」 視線も合わせず、勤務表を確認しながら淡々と言った。 「福井先生、午後の手術の患者さんが待ってる」 横生の手は空中で止まった。 彼女の無表情な顔を見ながら、何かが変わり始めていると漠然と感じざるを得なかった。 晴子はこれまで、外では決して彼に向かって癇癪を起こしたりしなかった。 しかし、彼女の家族が来てからというもの、晴子は別人のようになってしまった。 横生は彼女とちゃんと話し合おうと思ったが、彼女は静かに書類を差し出した。 「こちらにご署名が必要な診療記録が何部かある。早くご署名いただければ、書類を整理できる」 横生が言いかけた時、同僚が駆け寄ってきた。 「福井先生、術前カンファレンスがもうすぐ始まります!」 彼は慌ててサインをし、去っていった。 気づかなかった。彼が署名した書類の一枚が――離婚協議書だったことに。 晴子の手は、緊張で汗ばんでいた。そして男の背中が遠ざかるのを見送りながら、ようやく、静かに微笑んだ。 涙がぽたりと、書類の「離婚協議書」という文字の上に落ちた。 ――やっと、自由になれた。 第7話 カウントダウン、あと四日。 晴子は、まさか病院で奈々と再び顔を合わせることになるとは思わなかった。 交代直前、病院の入口が突然騒然となった。 「どいて!急患だ!」 顔を上げると、横生が奈々を抱きかかえて駆け込んでくる姿が見えた。 奈々は横生の首にしがみつき、涙をぽろぽろとこぼしていた。 「先生は?早く先生を呼んで!」 晴子は当直医としてすぐに駆け寄った。 「どこか痛いところがある?」 だが、奈々は彼女の顔を見るなり、さらに横生の胸に顔を埋め、小さくすすり泣くだけで、答えようとしなかった。 横生はすっかり取り乱し、晴子の存在など目に入らない。 彼女は仕方なく、奈々の傷を確認しようと手を伸ばした。 その瞬間、奈々が鋭い悲鳴を上げた。 「横生、痛い!晴子が触ると痛いの!」 横生の表情が一変した。 次の瞬間、彼は反射的に晴子を押しのけた。 彼の目には奈々しか映っていない。 妻が床に倒れ込む様子など、気づきもしなかった。 晴子は本能的にお腹を守ったが、激しい痛みが腹部を貫いた。 その瞬間、お腹にある小さな命が、彼女の中から消えていくのを感じた。 「横生……赤ちゃんを……助けて……」 声は震え、息も途切れ途切れだった。 だが、誰も気づかない。 周囲の人々は皆、奈々を取り囲んでいた。 晴子は、横生が奈々を抱えて手術室へ走り去る姿を、かすむ視界で見送るしかなかった。 意識が遠のく。床に広がる赤い色だけが、鮮明に見えた。 同僚が血に気づいたのは、その直後だった。皆が慌てて彼女を担ぎ上げ、手術室へ運んだ。 ―― 「残念ですが……お子さんは、助かりませんでした」 目を覚ました晴子が、最初に聞いたのはその言葉だった。 彼女は天井を見つめたまま、動けなかった。 そして、お腹を触る勇気もなかった。 そこにはもう、何も感じない。 「ごめんね……赤ちゃん……ママが、守ってあげられなかった……」 枕が涙で濡れていく。 ――何もいらなかったのに。もうすぐすべてが終わるはずだったのに。 この前、彼女は家も守れなかった。今更、夫も、猫も、そして今度は子どもまでも守れなかった。 もしあの時、横生が自分を押しのけなければ――きっと、この子は生きられた。 けれど、もしかしたらこの子も、こんな家庭には生まれたくなかったのかもしれない。 彼女は冷え切った心のまま、同僚に頼んだ。 「……流産のこと、どうか内密にしてください」 看護師長の麗は晴子の手を強く握りしめ、ただ涙をこらえるしかなかった。 三日間、横生からの電話は鳴り続けた。 晴子はすべて切った。 もう、何も話すことはなかった。 …… カウントダウン、最後日。 彼女は退院手続きを済ませ、荷物をまとめ、同僚たちに笑顔で別れを告げた。 そして、離婚協議書を封筒に入れ、横生宛に託した。 麗が涙を浮かべながら抱きしめてくれた。 「今日は福井先生の昇進パーティーでしょ?行かないの?」 麗の目には、二人が理想の夫婦に見えていた。 だからこそ、理解できなかった。 晴子は静かに笑った。 「私が行かなくても、彼の昇進は変わらない」 麗はそれ以上、何も言えなかった。 ――晴子がここまで離れたいのは、本当に心の底から諦めたんだろう。 出発までの三時間。 すべての手続きを終えた晴子は、ふとあんちゃんのことを思い出した。 もしかしたら、もう一度会えるかもしれない。 奇跡を信じて、彼女は一度家に戻ることにした。 だが、玄関に近づいた途端、中から奈々と横生の声が聞こえた。 「横生、今夜の昇進パーティー、私が一緒に行っていい?晴子が知ったら、怒らないかしら?」 奈々はオーダーメイドのドレスに身を包み、嬉しそうに微笑んでいた。 横生の声が少し間を置いて響いた。 「大丈夫だよ。彼女がわがままで、三日も連絡が取れないんだ。この大事な日に来ないのは彼女の選択だ、誰のせいでもない。 それに、このドレスは少し露出が多いし……彼女の腕の傷跡には似合わないさ。 もしあの時、彼女が俺をかばって怪我しなければ……たぶん……」 その先は、言葉にならなかった。 ドアの外に立つ晴子は、胸の奥がずたずたに裂けるようだった。必死に唇を噛み、声を押し殺した。 手にしていたあんちゃんのおもちゃが、雪の上に落ちた。 ――彼女の傷跡を、誰が笑っても構わない。でも、横生だけは、絶対にだめだ。 あの傷は、彼を守るためについたものだった。 それは、晴子の一生の痛みだった。 なのに彼は、その犠牲を疎ましく思っていた。まるで自分の恋路を邪魔する傷のように。 三年間、晴子は一度も後悔しなかった。彼を救ったことを誇りに思っていた。 けれど、この瞬間――初めて、深く後悔した。 横生は、彼女の命を懸けた想いに、値しない男だった。 晴子の心は、南の海野市へ向かう決意で満たされた。 彼女は静かに背を向け、吹雪の中へ歩き出した。 ――その夜、彼女は南行きの列車に乗った。 それが、横生と晴子の最後だった。 彼女は南へ行く。彼は北に残る。二人の道は、もう二度と交わることはなかった。 第8話 空を覆う雪が、京平市の街をいっそう寂しく染めていた。 なぜだろう、窓の外の荒涼とした景色を見つめていると、横生の胸が締めつけられるように痛んだ。 彼は結局、奈々が言い出した「一緒に昇進パーティーに行く」という提案をやんわり断った。 どうしても、隣に立つのは晴子でなければ気が済まない。 実はこの数日、彼は密かに奈々のための療養施設を探していた。 良い場所が見つかったら、今夜の昇進パーティーで晴子と心ゆくまで話そうと思っていたのだ。 「俺、先に病院へ行く。今夜は来なくていい。晴子を連れてくるから」 そう言い残して彼は急いで家を出た。 気づかなかった――背後で奈々の顔に浮かんだ、歪んだ表情に。 「晴子、横生は私のものよ。あなたなんかにふさわしくない!」 奈々は拳を握りしめ、掌に血がにじむほど力を込めた。 三日前のあの騒ぎはただ、晴子を陥れるための芝居だった。実は彼女の脚の回復状況は順調で、今は神経の感覚も戻り、痛みを感じられるようになった。 この三日間、横生を自分の傍に縛りつけ、リハビリを口実に彼の時間を独占したのも、今夜のパーティーで彼の隣に立つためだった。 あと少しで願いが叶うというのに、彼はまた晴子を探しに行った。 奈々の心の底で、黒い嫉妬が渦巻く。 ――晴子なんて、もう二度と戻ってこなければいい。 …… 横生は病院に着くと、まず晴子を探した。 だがその日は珍しく院内が騒然とし、急患が次々と運び込まれていた。 焦りが胸を締めつける。 三日前のあの出来事以来、彼と晴子は一度も言葉を交わしていない。 同じ病院にいるのに、顔を合わせることもない。 なぜか今日は、いつもより強く晴子に会いたい。 しかし、仕事が終わったのは夜遅くで、さらに緊急のカンファレンスが招集された。 患者の脾臓に深刻な損傷があり、手術の成功率は五割にも満たない。 重い沈黙が流れる中、誰かが呟いた。 「神原先生の手が無事ならよかったです……彼女、この分野では随一の腕でした」 その言葉で、横生の脳裏に数年前の晴子の姿がよみがえった。 ――あの日、自信に満ち、輝くように手術台に立つ彼女の姿を。 晴子がこの病院に入った日からの夢はただ一つ、それは優れた外科医として、人を救うこと。 その夢が三年前、あの事件で止まった。 胸の奥にわだかまる罪悪感を否定できない。けれど今は医学が進歩している。晴子の腕だって治せるはず。 いつの日か、彼女は再び手術台に立てる。その日が来るまで、自分が傍で支え続けよう。 そう思うと、横生の胸に温かなものが広がった。 会議が終わるやいなや、彼は晴子を探しに飛び出した。 ――この数日の誤解を解き、彼女を笑顔にしたい。 奈々が療養院に行けば、もう家に他人はいない。 自分のすべてを晴子に捧げよう。 彼女だけが、自分の妻だ。 だが、救急科のナースステーションをいくら回っても、晴子の姿は見当たらない。 焦った彼は、新人らしい看護師に声をかけた。 「神原先生はどこに?」 「救急科に神原先生なんていませんけど……?」 横生は眉をひそめ、休憩室へ向かった。 この数日、晴子は家に戻っていない。ならば休憩室にいるはずだ。 晴子の顔を思い浮かべると、足が自然と速くなる。 ――早く会いたい。謝りたい。 しかし、休憩室のドアを開けた瞬間、彼は立ち尽くした。 そこは病院の北側にある、日も差さない陰の一角で、壁は湿り、冷気が漂っている。京平市の冬の冷たさが染み込んだような場所だった。 横生は一度もここに足を踏み入れたことがない。 外科のトップとして常に厚遇され、彼の休憩室は最新の設備で整えられていた。 まさか晴子が、こんな環境で夜を明かしていたとは。 胸の奥に、激しい罪悪感がこみ上げる。 そうだ、三年前のあの事件以来、晴子は第一線の外科医を退き、看護師の仕事をやって来た。 待遇が落ちるのも当然だった。 それでも、彼女は一言の不満も漏らさず、静かに、淡々と耐え続けていた。 喧嘩するたびに、自分は晴子をこんな場所に追いやっていたことを思うと――横生の胸が、締めつけられるように痛んだ。 「……俺は、なんてことを」 彼は自分の頬を叩きたい衝動に駆られた。 休憩区は狭く、部屋も少ない。 横生は一つずつドアを叩いたが、どの部屋にも晴子の姿はない。 「確かにこの辺にお医者さんが泊まってたけど、今朝もう出ていったよ」 ――出ていった? その言葉が、心臓を鋭く刺した。 ――晴子はどこへ行ったか?今朝、出ていった……なら、きっと家に帰ったんだ。 どんなに喧嘩しても、晴子が帰る場所は一つしかない。 京平市には、自分と彼女の家しかないのだから。 横生は礼もそこそこに、急いで家へ向かった。 今度こそ、すべてを話そう。もう二度と彼女を離さない。 外では、また雪が降り始めていた。晴子が猫を探して家を飛び出した、あの夜のように。 横生は人々の声も聞こえないほどの速さで歩き続けた。まるで、少しでも遅れれば、人生で最も大切なものを、永遠に失ってしまうかのように。