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闇の果て、無期の別れ
結婚の翌日、二人は早くも離婚届受理証明書を手にした。神崎雪乃(かんざき ゆきの)の五年間の献身が換えたものは、高遠怜司(たかとお れいじ) の...
Chương (1)
第1章
結婚の翌日、二人は早くも離婚届受理証明書を手にした。神崎雪乃(かんざき ゆきの)の五年間の献身が換えたものは、高遠怜司(たかとお れいじ) の隣で微笑む別の女の姿だけだった。
雪乃がミントアレルギーだと知ると、怜司はミントの香水を全身に浴びる。
怜司の友人に階段から突き落とされ、重傷を負い意識不明に。目覚めた雪乃に対し、怜司は薄ら笑いを浮かべ、警察に通報しないのなら願いを一つ叶えてやると言った。
地震が起きた時、かつて雪乃を深く愛したはずの男は別の女の手を引いて逃げ出し、雪乃一人が死を待つことになった。
こうなっては、彼女は去るしかない。
第1話
結婚の翌日、二人は早くも離婚届受理証明書を手にした。神崎雪乃(かんざき ゆきの)の五年間の献身が得えたものは、高遠怜司(たかとお れいじ) の隣で微笑む別の女の姿だけだった。
雪乃がミントアレルギーだと知ると、怜司はミントの香水を全身に浴びた。
怜司の友人に階段から突き落とされ、重傷を負い意識不明。目覚めた雪乃に対し、怜司は薄笑いを浮かべ、警察に通報しないのなら願いを一つ叶えてやると言った。
地震が起きた時、かつて雪乃を深く愛したはずの男は別の女の手を引いて逃げ出し、雪乃一人が死を待つことになった。
こうなっては、彼女は去るしかない。
……
怜司と雪乃は結婚式の翌日、すべての家族に隠れて離婚届受理証明書を手にした。
新婚の夜、怜司はセクシーなバニーガールの格好をした雪乃を冷たく突き放した。「お前は必死になって俺に嫁いだが、一体何の目的がある!」
怜司は雪乃を寄せ付けなかった。
雪乃がただ穏やかに話し合おうとするだけで、怜司は火がついたように怒り出した。
雪乃がミントアレルギーだと知ると、怜司は意地の悪い笑みを浮かべ、家政婦に全ての料理にミントを入れるよう命じた。
怜司の寝室、書斎、バスルーム、果ては香水に至るまで、雪乃にとっては命取りとなるミントの香りで満たされた。
ある使用人が見かねて、恐る恐る注意した。「旦那様、奥様は重度のミントアレルギーで……毎日抗アレルギー薬を飲み、夜も眠れていないご様子です……」
怜司は不機嫌に眉をひそめ、持っていたファイルをその使用人に向かって思い切り投げつけた。「いつからお前が俺に説教するようになった!」
使用人の額は切れて血が流れ、翌日には解雇された。
それ以来、使用人たちは口を閉ざし、誰も怜司に逆らおうとはしなくなった。
雪乃は何度も自分に言い聞かせた。怜司は交通事故で記憶を失い、二人のことをすべて忘れてしまっただけなのだと。怜司がしていることはすべてわざとではないのだと。
しかし結婚五年目、九百錠目のアレルギー薬を飲んだ時、山積みになった薬の空シートを見て、雪乃はふとこんな生活に嫌気が差した。
朝の三時に起きて一緒に日の出を見つめ、二人でペアリングを作り、海外の新聞のトップを一緒に飾った。そんな怜司はもうあの交通事故で死んでしまったのだ。
怜司が雪乃を不快がらせるためにミントの香水を手につける時、雪乃はいつも過去のことを思い出す。怜司が初めて雪乃に高価な国外のミントアイスクリームを食べさせてくれた時、彼女は全身に発疹が出て病院に救急搬送され、怜司が目を真っ赤にして心配してくれたことを。
怜司は心から痛ましそうな目で、点滴を受ける雪乃に付き添った。「ごめん、雪乃。君がミントアレルギーだなんて知らなかった。これからは二度とこんなミスはしないよ」
雪乃が高遠家を出ようとした時、普段の外出と変わらず、何も持たなかった。
屋敷の門を出る前に、スマホが鳴った。
雪乃は仕方なく門の両側で赤く点滅する監視カメラを見上げ、電話に出た。「弦蔵おじいさん」
電話の向こうから、怜司の祖父である高遠弦蔵(たかとお げんぞう)の申し訳なさそうな声が聞こえた。「雪乃、また怜司と口喧嘩かね?」
雪乃は乾いた笑いを浮かべた。
口喧嘩?
「口喧嘩するほど仲がいい」なんて言えるのはお互いが愛し合っているからこそだ。ここでは、雪乃に言葉を発する権利すらなかった。
「弦蔵おじいさん、私はもう努力しました……」
「いい子だ、もう少しだけ辛抱してくれんか。あの子は昔、お前と一緒になるためなら、この家と縁を切るのも厭わなかった。お前と地下室に一年も暮らし、おまけに敵の恨みを買って報復され、体まで壊してしまったんじゃ。
何も、お前の家柄のことを責めているわけではないんじゃ。ただ、もう少しだけ辛抱してほしいんだ。怜司は悪い子じゃない。いつかきっと、二人のことをすべて思い出してくれる」
雪乃は怜司の記憶が戻ることが非常に困難だと知っていた。
彼女はもう二十八歳だ。こんな実態のない結婚生活にこれ以上人生を食いつぶされるのは、もうごめんだった。
雪乃の今回の決意が固いことを感じ取ったのか、弦蔵は歯を食いしばり、魅力的な条件を提示した。「雪乃、あと一週間だけ待ってくれ。一週間経っても怜司の記憶が戻らなければ、二百億円をやろう。それでどこへなりと行くといい」
その日の夜、二百億円が雪乃の口座に振り込まれた。
後ろに続くゼロの列を数えながら、雪乃は結婚以来、初めて心からの笑顔を見せた。
雪乃は孤児だったが、努力して名門大学に入り、怜司と出会った。
怜司が雪乃にアプローチした時は、誰もが知る派手なものだった。
その頃の雪乃は目の前の御曹司を考えるまでもなく拒絶した。
彼女にとって、このような御曹司は遊び惚けているだけで、まともなことをする人間ではなかった。
だが、怜司は行動で自分が他の連中とは違うことを示した。
雪乃が海が見たいと言えば、怜司はプライベートジェットで海の上空に連れ出し、思う存分、自由な風を肌で感じさせてくれた。
雪乃が雪山に登りたいと言えば、怜司は十人ものガイドを雇い、万全の体制で彼女を頂上へと導いてくれた。
付き合い始めてからは、M国の雪原で固く手を繋いで互いの名前を雪に刻んだ。
海外でのキャンプファイヤーでは、互いにすべてを曝け出すように、夜が明けるまで語り合った。
怜司は雪乃を心から尊重していた。何度も腕の中で眠る夜があっても、彼は決して一線を越えなかった。
雪乃が「新婚の夜に、初めてあなたの人になりたいの」と言った、ただその一言を守るためだった。
雪乃と一緒になるため、怜司は家族との絶縁も厭わなかった。高遠家は怜司の全ての銀行口座を凍結し、各方面に手を回して彼が一切の仕事に就けないようにした。
その頃、怜司は雪乃と薄暗く狭い地下室で寄り添い、自責の涙を流し、必ず金を稼いでこの苦境から抜け出すと誓った。
二人は互いの温かい手を固く握りしめたまま、役所で婚姻届受理証明書を手にした。
シャッターが切られた瞬間、二人の最も真摯な笑顔が記録された。
その時、二人は心の中で必ず相手を幸せにすると誓った。
しかしその後、怜司は恨みを買って報復され、大型トラックにはねられ血の海に倒れ、全身を何ヶ所も骨折した。
怜司の母である高遠冴子(たかとお さえこ)は集中治療室の外で泣き崩れ、怜司が目覚めさえすれば、すぐ二人に盛大な結婚式を挙げさせると言った。
雪乃は役所で撮った記念写真を見つめた。指先で、そこに写る愛情に満ちた怜司の笑顔をそっとなぞると、胸の奥が鈍く痛んだ。
階下から突然、車のエンジン音が響いた。雪乃は涙を拭い、いつもと違い、部屋のドアに内側から鍵をかけた。
第2話
雪乃は知っていた。怜司が最近、あの秘書の女にうつつを抜かしていることを。
その女は大学を卒業したばかりだったが、怜司が競合他社から引き抜き、特別採用で入社させたのだ。
彼女は若く、活発で、怜司に尽きることのない新鮮さをもたらしていた。
その不穏な兆候に気づいた時、雪乃は必死にあらゆる手を尽くした。優しく諭し、脅し、金で誘い、果ては拉致を企ててまで、その女を強引に追い出そうとした。
しかし、返ってきたのは怜司の報復だった。
最も酷かった時は、怜司が包丁を雪乃の首筋に突きつけ、秘書の居場所を問い詰めた。
鋭い刃先が雪乃の白く細い首筋を走り、そこには生々しい傷跡が刻まれた。
その瞬間、雪乃の脳裏にかつて怜司が誓った言葉が蘇った。
彼は言った。「自分が死んでも、雪乃の指一本傷つけない」と。
その夜、雪乃は泣きながら怜司に問い詰めた。「あなたは、私を絶対に傷つけないと約束したじゃない」
怜司は冷酷に笑った。「嘘をつくな。俺が死んでもお前にそんな言葉を言うはずがない。
必死で俺に嫁いだのは、うちの金が目当てだろう?金ならくれてやる。だが、若葉が無事であるよう祈るんだな」
首筋の傷がかさぶたになるまで、怜司からの謝罪の言葉は一言もなかった。
階下の桜庭若葉(さくらば わかば)は周りを見渡した後、少し恥ずかしそうに怜司の胸に寄り添った。「雪乃、お留守?」
怜司はちらりと視線を送り、玄関にあるハイヒールに目が留まると、そばに立つ使用人に尋ねた。「彼女は何階にいる?」
使用人たちは顔を見合わせ、頷いて答えた。「雪乃様はお部屋に……」
若葉はそれを聞くと、すぐに立ち上がって階段へ向かった。「バーベキューをたくさん買ってきたの。雪乃を呼びに行ってくるね」
ドアを叩く音が響いた時、雪乃は海外行きの航空券を見ていた。
二百億円を手に、どこへ移住するか、まだ決めかねていた。
ノックの音を聞いても無視しようと思ったが、ドアの外の人間はなんと鍵を取り出し、内側からかけたはずのドアを開けた。
暗かった部屋の照明がつけられ、眩しい光に雪乃は思わず手で顔を覆った。
目の前の女は遠慮もなくベッドに腰掛けた。「雪乃、怜司とバーベキューを買ってきたの。一緒に食べない?」
ふわりとミントの香りが漂い、雪乃は思わず鼻を押さえて後ずさった。「いいわ、お腹空いてないから……」
言い終わるか終わらないかのうちに、若葉が甲高い悲鳴を上げ、ベッドサイドテーブルの水差しをなぎ倒し、そのまま床に倒れ込んだ。
割れたガラスが若葉の掌に突き刺さり、瞬く間に、掌から鮮血が滲み出した。
雪乃が何が起こったか理解する前に、階下から慌ただしい足音が聞こえ、次の瞬間、ある人影が飛び込んできて床に倒れた若葉を抱きしめた。
若葉はか弱く怜司に寄りかかり、涙を浮かべた。「雪乃、せっかくバーベキューに誘いに来たのに、どうして私を押すの?手が…」
どれほど愚かで鈍感な雪乃でも、今の状況を理解した。
雪乃は首を振って説明した。「彼女が自分で転んだの……」
だが次の瞬間、乾いた音と共に、怜司の容赦ない平手打ちが雪乃の頬を襲った。
瞬く間に、雪乃の美しい顔に、くっきりと紅い手の跡が浮かび上がった。
怜司は自分の手を見下ろし、一瞬、呆然とした。なぜか胸がざわついた。
若葉のか細い泣き声が耳に入り、怜司は我に返ると、若葉を抱きかかえて立ち上がった。「言ったはずだ。もし彼女をこれ以上傷つけるなら、容赦しないと」
そう言い残し、怜司は若葉を横抱きにして階下へ向かった。
去り際、若葉は雪乃に向かって挑発的に眉を上げてみせた。
使用人がこっそりと雪乃のために氷を持ってきた。雪乃は化粧台の前に座り、赤く腫れた自分の頬を見て、乾いた笑みを浮かべた。
使用人は憤慨していた。「雪乃様、先ほど怜司様が若葉様を連れて雪乃様のクローゼットに入り、雪乃様の一番お気に入りのブルーダイヤのネックレスを……」
あのブルーダイヤのネックレスは怜司が雪乃を口説いていた時、オークションで六十億円を投じて競り落としたものだった。
落札品が手に入った瞬間、怜司は愛情に満ちた目で自ら雪乃の首につけてくれた。「雪乃はこの世界で一番きれいな女性だ。
このネックレスは君だけのものだ。俺の愛も君だけのものだ」
だが今、怜司はその愛を他の女に捧げた。
雪乃は首を振った。「あげなさい。全部あげてしまいなさい」
ネックレスはいらない。怜司の愛ももういらない。
第3話
翌日、怜司の母、冴子から電話があった。
冴子の声は不機嫌だった。「今夜六時、怜司を連れてこちらに来なさい」
雪乃は「はい」と気のない返事をしたが、あの家に戻るなど、億劫でしかない。
冴子と会う時はいつも、気まずい思いをするからだ。
結婚した当初は、雪乃も冴子に歩み寄ろうと努力した。だが、冴子はそんな雪乃をまったく寄せ付けなかった。
怜司は朝早くから若葉を連れて会社に行った。雪乃の連絡先はとっくに怜司によってブロックされている。
若葉を守るため、怜司は会社の入り口に「神崎雪乃と犬、入るべからず」という立て看板を特注した。
この一件により、雪乃は社交界の物笑いの種に成り下がった。
今、雪乃が怜司に連絡を取る唯一の方法は会社に電話し、受付に取り次いでもらうことだけだった。
紆余曲折の末、ようやく怜司が電話に出た。
「要件を言え」
一言だけだったが、雪乃には、それが怜司が情事に耽っている時特有の低い声だとわかった。
「冴子さんが今夜、実家に来るようにって」
言い終わった瞬間、電話は切れた。
雪乃はスマホを持ったまま、通話していた時の姿勢で固まった。
脳裏には先ほど通話中の数秒間に聞こえた音が制御不能に蘇る。
若葉のか細い、喘ぐような声が不意に耳に飛び込んできた。
この結婚生活の五年間、怜司の女は数え切れないほどいた。
だが、彼は決して一線を越えず、本気になることもなかった。
しかし今回は……
雪乃は鈍い痛みが走る胸を押さえ、不快感を和らげようとした。
すべての無念が、「もういい」という一言に変わった。
実家へ向かう道中、雪乃は屋敷から百メートルほど離れた場所に車を停め、怜司を待った。
夜の帳が下り、街灯が一つ、また一つと灯り始めた頃、ようやく怜司の車がやってきた。
車の窓が下り、怜司の気品ある横顔が現れた。
雪乃も彼女の車の窓を下ろし、何か言おうとしたが、怜司の助手席にまだ人が座っていることに気づいた。
怜司はわざと見せつけるように隣の人に言った。「薬は塗ったか?」
若葉は嬉しそうに笑い、もとより清純なその顔立ちが、いっそう可憐に映った。「塗りました。でも、医者が少なくとも半月はダメだって……」
怜司は仕方なさそうに若葉の髪を撫で、その声は諦めと甘さを含んでいた。「俺のせいだな」
雪乃はもちろん二人の会話の意味を理解した。彼女はハンドルを握る手に力を込め、張り詰めた声を出した。「必ずそんな方法で私を辱めなければならないの?」
怜司はそこで初めて雪乃に視線を向けた。先ほどまでの優しい声は今嘲りに満ちていた。「若葉と普通に会話していただけだ。自意識過剰も甚だしい」
雪乃はもう二人を見ず、車の窓を上げてから横を向き、目尻の涙を拭った。
高遠家の屋敷の前に車が停まり、雪乃は怜司の後ろに続く若葉を見た。
「彼女も一緒に?」
怜司は意に介さず若葉の手を握った。「俺の秘書だ。何か問題でも?」
若葉の口角がきゅっと上がった。月明かりを映した瞳がきらりと光った。「雪乃、私が来たのはね、まだ仕事が残ってたから。別に、他には何もないんだから……変なこと考えないでね?」
明るい街灯が若葉の首にかかるブルーダイヤのネックレスをきらびやかに照らした。
雪乃はそのネックレスを静かに見つめ、怜司がこのネックレスを雪乃につけてくれた時の光景が、またも脳裏に蘇った。
しばらくして、雪乃は頷き、できるだけ平然を装って肩をすくめた。「そうね、あなたの言う通りだわ」
怜司は美しい眉をひそめた。理由はわからないが、心に妙な感情が芽生えた。
怜司はもう雪乃を見ず、若葉の手を強く握った。「放っておけ。行くぞ」
二人の背中が雪乃の視界から消えていった。
どれくらい門の外に立っていただろうか。冷たい風が吹き抜け、雪乃はコートの前を掻き合わせ、音にならない溜息がこぼれた。
門を開けてダイニングルームに入ると、冴子が若葉に料理を取り分けていた。「若葉ちゃん、怜司の会社の切り盛り、大変ね。このオマール海老、今日空輸されたばかりで新鮮よ。召し上がれ……」
若葉は恐縮した。「ありがとうございます、冴子さん。高遠社長のためなら当然ですわ」
若葉の殊勝な言葉を聞き、冴子はさらに上機嫌になった。「もうすぐ大晦日でしょう。今年は特例で帰省しないと聞いたわ。よかったら大晦日の夜、うちで食事しない?」
若葉は怜司に視線を送り、少し恥ずかしそうに微笑んだ。「よろしいんですか?ご迷惑では?」
怜司は若葉にジュースを注いだ。「もちろんだ。君はこの数日、会社の入札の件で疲れている。しっかり食べろ……」
彼らが和気藹々としている様子を見て、雪乃はふと思い出した。彼女が初めて怜司の仲間たちに紹介された時、怜司の仲間うちには、雪乃のことを「本気の相手」ではなく「遊び」だと高を括る者もおり、食事の席でしきりに酒を勧めてきた。
あの時、怜司は酒の入ったグラスを押しやり、新しい空のグラスにジュースを注いだ。「雪乃は酒が飲めない。怖がらせるな」
一度の事故が雪乃のすべてを奪い去った。
冴子がこのような眼差しをすることは稀だった。彼女が若葉に向ける満足げで慈愛に満ちた眼差しは、まるで若葉こそが自分の嫁であるかのようだった。
雪乃はその場に立ち尽くし、邪魔をすることもできず、このままこっそりと立ち去るべきか迷っていた。
「雪乃様、お帰りなさいませ」
第4話
後ろから執事の声がした。雪乃は驚き、同時に、先ほどまで賑やかだったダイニングルームも静まり返った。
雪乃の姿を認めた瞬間、冴子の顔から笑みが凍りついた。不機嫌な視線を雪乃に注ぎながら、肩にかけたミンクのショールを、いかにも尊大に引き寄せた。「入ってこないの?」
雪乃は重い足取りで中に入り、恐る恐る声をかけた。「お義母さん……」
冴子はその呼び名を聞き、さらに顔を歪めた。「書斎に来なさい!」
そばでは使用人が新しい椅子を追加しようとしていた。怜司が指先でテーブルを軽く叩き、ゆっくりと言った。「部外者のために、椅子を追加する必要がどこにある?」
その言葉は、疑いようもなく、雪乃の面目を丸潰れにさせるものだった。
顔が火照るのを感じながらも、雪乃は使用人に向かって無理に笑顔を作った。「結構だ。ありがとう」
そう言って、雪乃は階上へと向かった。
書斎の中、冴子は暗い顔で紫檀の椅子に座り、雪乃はその反対側に立っていた。
「跪きなさい!」
冴子の声には有無を言わせぬ響きがあった。もし以前の雪乃なら、きっと恐怖に足が震えていただろう。
あの頃は高遠家から追い出されること、怜司を失うことを恐れていたからだ。
だが、今はもう怖くない。
雪乃は初めて、冴子を真っ直ぐに見上げ、その瞳には屈しない光が宿っていた。「なぜ?」
冴子は少し驚き、一瞬、気勢が弱まった。「よくも聞けたものね?この前、あなたが若葉ちゃんを拉致させたせいで、高遠家はスキャンダルに巻き込まれ、株価が下落した。
もし若葉ちゃんが寛大にも事を荒立てず、自ら釈明して高遠会社の損失を下げようと努めてくれなければ、あなたは今頃、刑務所の中よ!
高遠家の家法はよく知っているでしょう。手のひらを鞭で十回。二度と過ちを犯させないための戒めよ!」
言うが早いか、雪乃の後ろから二人の使用人が現れ、雪乃を動けないように押さえつけた。使用人が雪乃の膝裏を強く蹴ると、雪乃は膝から崩れ落ち、床に跪いた。
間髪を入れず、鞭が空を切る鋭い音が走った。
一回目。手のひらは瞬く間に赤く腫れた。
二回目。皮膚が破れ開いて、肉が裂けた。
三回目。血が手首を伝って流れ落ちた。
……
十回目。両の手のひらは無惨に裂け、もはや血と肉が入り混じった塊のようだった。
使用人が手を離すと、雪乃は痛みでその場に崩れ落ちた。灼けるような痛みに思わず息を詰まらせた。無数の細かな棘の破片が、まだ裂けた肉に食い込んでいる。
冴子はその無様な姿を一瞥すると、冷たく鼻を鳴らした。「今後またこのような破廉恥な真似で高遠家の名を汚すようなら、その時は自ら進んで罰を受けに来なさい!」
そう言い残し、冴子は立ち去り、雪乃だけが書斎に残された。
雪乃は笑った。涙が出るほどに。
もう二度とこんなことはしない。愚かで、みっともない。
数分後、執事が救急箱を手に書斎へ現れ、雪乃の傷の手当てを始めた。消毒液が裂けた皮膚に染みわたる瞬間、骨の髄まで突き刺すような激痛が走った。だが雪乃は、声一つ上げず、その全ての苦痛をぐっと飲み込んだ。
痛い方がいい。
再び階下へ降りると、若葉が怜司の腕の中でイチゴを食べさせてもらっているのが見えた。
怜司は顔面蒼白の雪乃を見て、揶揄うような視線を向けた。「階上で話をしただけで、そんなに冷や汗をかくほど怖かったのか?」
若葉も笑った。「雪乃、女って一日中家に籠ってばかりじゃダメだよ。年長者のお説教でそんなに汗だくになるなんて、恥ずかしいじゃない」
雪乃は二人が固く握り合っている手を見やり、痛みをこらえて冷笑した。「そうかしら。私は、女として一番大切なのは、他人の家庭に踏み込まないことだと思うけれど」
痛いところを突かれ、若葉の整った顔が瞬時に青ざめた。
若葉が反論するより早く、横から皿が飛んできた。皿は雪乃の顔をすれすれでかすめ、数センチ横の壁に激突。耳を突き刺すような甲高い音を立てて砕け散った。
皿が髪をかすめて飛んでいくのをはっきりと感じた。あと数センチずれていれば、額に直撃していただろう。
遅れてきた恐怖が雪乃の頭を支配し、その場に凍りついたように立ち尽くし、呼吸さえ忘れた。
怜司は手を下ろし、嘲笑を浮かべた。「お前にそんなことを言う資格があるのか?」
そうだ。二人はとっくに離婚している。新婚の翌日に。
なんて皮肉だろう。
雪乃はうつむき、長い髪が彼女の悲しげな表情を隠した。
先ほどの皿が砕ける音がまだ耳にこびりついている。雪乃は鈍い足取りで階下へ降り、まるで抜け殻のように車に戻った。
手が痛んでハンドルを握れず、スマホで代行運転を呼ぶしかなかった。
怜司は螺旋階段の上の破片を見つめながら、心になぜか説明のつかない苦しさと罪悪感がこみ上げてくるのを感じていた。
だが、なぜ自分が苦しみ、罪悪感を抱くのか、怜司にはわからなかった。
その時、執事が血のついた鞭を持って、洗うために階下へ降りてきた。階段の上の破片を見ると、後ろの二人の使用人に片付けるよう指示した。
怜司はその鞭に見覚えがあった。子供の頃、怜司が過ちを犯すと、弦蔵がいつもこれで彼を叩いた。一発で半月は痛みが続いたものだ。
怜司は微かな違和感を覚え、若葉の手を振りほどいて執事のそばへ寄った。「誰か罰を受けたのか?」
第5話
執事は頷いた。「はい。先ほど雪乃様が、冴子様から鞭打ち十回の罰を受けられました」
十回……
怜司はそれを聞いて驚愕し、思わず声が大きくなった。「十回?!」
十回どころか、怜司は五回すら耐えられなかった。雪乃がそれを一言も発さずに十回も受けたというのか……
若葉が慌てて前に出て、心を痛めているふりをした。「まあ、十回も。雪乃、きっと痛かったでしょうね…」
そこで若葉は一瞬言葉を切り、続けた。「でも、さっき見た限りでは顔色も普通だったし、冴子さんも本気じゃなかったんじゃない?」
「そうだ、冴子さんはなんで雪乃を罰したの?」
執事は微笑んだ。「雪乃様が以前、若葉様を拉致させようとした件です」
怜司の苛立っていた心はその言葉を聞いて瞬時に静まった。
あの件は記者に嗅ぎつけられ、各社のトップニュースとなり、高遠会社の株価は下落し続けた。怜司は若葉の救出に奔走する一方で、記者会見での釈明にも追われていた。
最終的に、若葉が自ら表に出てくれたおかげで、ようやく騒動は収束したのだ。
そう思うと、怜司は若葉を連れてゆっくりとソファに戻った。「彼女のことは放っておけ。自業自得だ」
執事が鞭を持って外へ向かうと、ちょうど雪乃の車のテールランプが暗い夜の闇に消えていくところだった。
雪乃は車内に座り、窓を下ろすと冷たい風が吹き込んできた。
ついさっき、雪乃はようやく未来の居住地を決めた。
帰りたい。自分の家に。
航空券を購入した後、車は家の前に着いた。
家に戻ると、使用人が怜司の言いつけ通り、ミントのアロマを交換しているところだった。
雪乃が帰宅したのに気づくと、使用人はぴたりと手を止めた。
一人の使用人が雪乃の手の包帯から血が滲んでいるのに気づき、見かねたように声をかけた。「雪乃様、病院で手当てを……」
冷たい風に当たったせいか、あるいは、この家が常に彼女を不快にさせるミントの香りに満ちているせいか。
雪乃は吐き気がした。
次の瞬間、雪乃はとっさに口元を押さえて花壇のそばへ駆け寄り、数回、激しくえずいた。こみ上げる咳と共に、涙と鼻水が一度に溢れ出た。
使用人がティッシュを取りに踵を返した時、遠くから強い光が差し込んできた。
雪乃は喘ぎながら振り返った。車がようやく停止し、若葉が降りてきた。手には薬の袋を提げていた。
若葉は車を降りるなり雪乃に駆け寄り、有無を言わさず薬の袋を押し付けた。「雪乃、薬局で薬を買ってきたのよ」
雪乃の手に触れた時、若葉は軽く眉を上げ、すぐに雪乃の手を強く握りしめた。
痛みが全身に広がり、雪乃は思わず若葉の手を振り払った。
だが、若葉は大げさに後ろへ倒れ、無様に地面に尻もちをついた。「きゃっ!」
怜司が車を降りた途端、その光景が目に飛び込んできた。その瞬間、雪乃の心は一気に冷え切った。
またこの手口……
そばにいた使用人たちが慌てて若葉を助け起こした。怜司は怒りを露わに、車のドアを激しく閉めると、涙ぐむ若葉を抱きしめた。
怜司は怒りに満ち、かつては愛情深く雪乃だけを見つめていた瞳が、今は、底の知れないほど冷たく陰鬱な光を宿していた。「昨日、若葉を押していないと言ったな。じゃあ今日はどうだ?この目で見たんだぞ。それでも嘘か?
彼女がお前の手の傷を心配して、薬まで買ってきたのに、この仕打ちは何だ?
雪乃、お前はここ数年、俺が以前どれだけお前を愛していたか、お前でなければダメだったかと言い続けてきた。
だが今、はっきり教えてやる。俺は記憶を失ったが、お前でなければダメなほど、俺のセンスも腐ってはいない!
俺たちはとっくに離婚届受理証明書を手にしているんだ。ならば、お前ももうこの屋敷の女主人などではない。明日、家族全員にはっきり話す。
今夜中に荷物をまとめて出て行け!」
第6話
雪乃は手の傷を庇いながら、怜司の決然とした眼差しを見た。彼が本気で自分を追い出そうとしているのがわかった。
しかし、怜司はかつて雪乃の手を取り、一生雪乃を離さないと言った。
その約束は、結局、雪乃一人を過去の思い出の中に独り取り残すだけのものだった。
雪乃はうつむき、まだ血が滲む自分の傷口を見つめ、すべての屈辱と苦痛を飲み込み、淡々と頷いた。「出ていくわ。でも、今じゃない」
二百億円を受け取った以上、何があっても約束は果たさなければならない。
予想していたような騒ぎ立てる様子もなく、雪乃の落ち着き払った態度に、怜司の心は突然ざわついた。
若葉が泣きそうな声で言った。「怜司、腕がすごく痛い。もしかして怪我したかも……」
怜司はすぐに視線を落として確認した。若葉の腕は赤く腫れ、擦り傷もできており、彼は途端に心を痛めて眉をひそめた。
「行くぞ。病院で精密検査だ」
怜司が去った後、屋敷は再び静けさを取り戻した。
雪乃は疲れ果てた様子で部屋に戻った。使用人がそばに立ち、彼女の手の包帯の交換を始めた。
恐ろしい傷口が目の前に晒されると、使用人は息を飲んだ。「雪乃様、やはり病院で手当てを受けてください。これは……あまりにも酷すぎます!」
雪乃はとうに痛みで麻痺していた。彼女は手の傷口をしばらく見つめ、やがて疲れたように頷いた。
怜司と鉢合わせするのを避けるため、雪乃は遠くの病院を選んだ。
傷口を洗っていると、後ろからからかうような声がした。「雪乃さん?」
その言葉に続くように、後ろからどっと嘲笑が湧き上がった。
どうやら相馬翔吾(そうま しょうご)一人ではないらしい。
雪乃は振り返らず、医者の指示に従って傷口を洗い続けた。
だが、翔吾はしつこく雪乃のそばにしゃがみ込んだ。「怜司がさっき、あなたが絶対病院に追って来るから追い返せって言ったんだ。俺たちは信じなかったがな。
まさか本当に来たのか?
正直、たまには俺たちを勝たせてくれてもいいんじゃないか?」
ちょうどその時、傷口を洗い流していた水が止まった。雪乃は黙って床の空き瓶を拾い、注射室のある階段へ向かった。
雪乃は翔吾たちを避けられると考えていたが、それは甘かった。翔吾は素早く回り込み、雪乃の行く手を塞いだ。「話しかけてるのが聞こえないのか?」
雪乃が翔吾の横をすり抜けようとした瞬間、その目にかすかな嘲笑の色がよぎった。「若葉が好きなら、怜司と奪い合えばいいじゃない。私に八つ当たりするなんて、何様のつもり?
うまく隠せているとでも思ってる?」
図星を突かれて顔色を変えた翔吾は、逆上して雪乃を突き飛ばした。「何の証拠があって!」
雪乃はよろめき、体がバランスを失って前に倒れた。叫び声は喉で詰まり、彼女は階段を転げ落ちていった。
視界が激しく回転した。雪乃の頭は、大理石の最後の段差に鈍い音を立てて叩きつけられた。
額から熱いものが頬を伝って流れ落ち、真っ赤な血が雪乃の視界をぼやかせた……
雪乃が目を覚ますと、怜司がそばに立ち、看護師が彼女の傷の手当てをする様子をじっと見つめていた。
怜司のためらいがちな声が響いた。「もう何日も経つが、彼女は……大丈夫なのか?」
看護師は首を振った。「何とも言えません。CT画像はご覧になりましたね。血腫があります。目覚めた時に記憶障害などのリスクも……具体的には、患者さんが意識を取り戻してからでないと判断できません」
怜司が眉を寄せているのを見て、雪乃は一瞬ぼんやりとした。
かつて雪乃が足を怪我して入院した時も、怜司はこうして眉をひそめ、そばに付き添っていてくれた。
怜司が自分にこんな表情を見せるのは、久しぶりだった。
看護師が去った後、雪乃はかすれた声で言った。「警察を呼ぶ」
第7話
怜司はさらに眉を寄せた。彼は動かず、自分が聞き間違えなかったかを確認しているようだった。
雪乃はきっぱりと繰り返した。「警察を呼ぶ」
怜司は今度ははっきりと聞き取った。彼は唇を固く結び、冷たい視線を向けた。「その必要はない。翔吾もわざとやったわけじゃない……」
雪乃は目の前で他人を庇う男をじっと見つめた。「わざとじゃなければ、私は死んでもよかったと?」
怜司は顎に手を当て、二秒ほど黙った後、ふっと笑った。「願いを一つ叶えてやる。仲間を刑務所に入れるわけにはいかないんでな」
雪乃は心が微かに震え、布団の下で拳を固く握りしめた。
以前の怜司なら、こんなことは言わなかった。
雪乃はついに、今の怜司が自分を微塵も愛していないという事実を受け入れた。
二人はそのまま睨み合った。やがて、雪乃が折れ、冷たい顔で要求を出した。「明日、オークションがある。それに付き合って」
怜司は眉を上げた。「それだけ?」
雪乃は鼻で笑った。「ただし、若葉は抜きで」
怜司はあっさり承諾した。「いいだろう」
怜司が去った後、雪乃はスマホの時間を確認した。予約した飛行機は明日の夜だ。
翌日、オークション会場。
雪乃は革張りのソファに腰掛け、給仕が運んできたフルーツの盛り合わせを、銀のフォークで口にしていた。
オークションの最後を飾る目玉商品が披露された時、雪乃は視界の端に、見慣れた人影を捉えた。入り口のそばで、いかにも哀れを誘うような姿でたたずんでいた。
怜司は入り口の若葉に気づいていないようだった。
怜司の視線はオークションの最後を飾るその目玉商品に釘付けになっていた。
カット、透明度、カラット、そのすべてが完璧の域に達しようかという、ピンクダイヤモンドのジュエリー一式である。
雪乃はためらわずに札を上げた。
他でもない、雪乃もそれが気に入ったからだ。
数回の競り合いの末、価格は十四億円まで跳ね上がった。
雪乃がさらに札を上げようとすると、怜司が自分の番号札を上げ、その声は、まるで退屈しているかのように散漫だった。「五十億!」
会場はどよめき、好奇の視線が怜司に集まった。
「高遠社長じゃないか。隣は奥さんか?」
「らしいぞ。まさか奥さんにお金を出させたくなくて、愛のためにこんなに高い価格で?」
「そりゃそうだろ。奥さん、ちょっとアレだけど、社長はまだ愛してるんだな!」
周りの声は羨望に満ちていたが、雪乃だけは知っていた。このピンクダイヤモンドのジュエリーは彼女のために落札されたものではないことを。
怜司が札を上げる直前、「若葉がきっと気に入る……」と呟くのがはっきりと聞こえたからだ。
雪乃は視線を落とし、うつむいた。頬にこぼれた髪が、赤く潤んだ目元を隠す。耳に届くのは、高揚した司会者が「他にはいらっしゃいませんか」と繰り返す、甲高い声だけだった。
雪乃はスマホを取り出して時間を見た。飛行機の出発まで、あと八時間。
ちょうどスマホの画面をスリープにしようとした、まさにその瞬間。LINEの通知が視界に飛び込んできた。
【怜司があのジュエリーを落札したの、あなたのためじゃないでしょう?
私が指を鳴らせばすぐにでも靡く男を、あなたがいくら足掻いたところで取り戻せるはずないじゃない】
雪乃はスマホの画面をスリープにして、振り返ると、若葉の得意げな視線とぶつかった。
雪乃は皮肉たっぷりに笑うと、視線を落とさず、スマホで【馬鹿みたい】と打ち込んで送信した。
メッセージを受け取った若葉が顔を青ざめさせながらも何もできない様子を見て、雪乃は満足して微笑んだ。
そばにいた記者が寄ってきて、雪乃と怜司に向かって盛んにシャッターを切った。「高遠社長、奥様との不和が噂されていますが、今回、高額なジュエリーをプレゼントされた理由は?」
怜司の顔から笑顔が消えた。だが、機嫌は悪くないようだった。「いつ、これを彼女のために買ったと言った?
彼女とこれが、釣り合うとでも?」
雪乃の顔が青ざめたが、気丈にカメラに向かって宣言した。「私と怜司は、五年前にすでに離婚しています。今はただの友人です」
雪乃は、背筋をピンと伸ばして座っていた。それは、ありったけの自尊心で、かろうじて最後の尊厳を保っているかのようだった。
記者たちは一瞬、あっけに取られた。まさか自分たちが、これほどの大スクープを掴むとは、信じられないといった様子だ。
怜司も雪乃が公の場でこのことを持ち出すとは信じられず、何か言う間もなく、頭上のシャンデリアが突然揺れ始めた。轟音と共に、人々は頭を抱えて逃げ惑った。
地震だ!
雪乃が振り返ると、怜司の姿はすでになかった。
遠くから若葉の怯えた声が聞こえた。「怜司、助けて!」
声のする方を見ると、出口からわずか五メートルの場所に若葉が立っており、涙ながらに駆け寄ってきた怜司の胸に飛び込んでいた。
雪乃は必死に立ち上がり、出口の男に向かって叫んだ。「怜司!」
怜司は若葉を庇ってその場を離れ、振り返りもしなかった。
ドン!
安全な場所へ着いた直後、入り口の石柱が轟音と共に崩れ落ち、舞い上がった土煙が怜司の視界を遮った。
怜司の胸に、突然、鋭い痛みが走った。
周りの人々は九死に一生を得たことに胸をなでおろしていた。
怜司だけが、瓦礫と化したオークション会場を、ただ呆然と見つめていた。やがて、遅ればせながら事態を飲み込んだかのように、ぽつりと口を開いた。「雪乃は……逃げられた、よな?」
若葉はとうに恐怖で我を忘れていた。地震のような天災は、彼女の計画には入っていなかった。
彼女がここに来たのは、ただ雪乃への当てつけ、それだけが目的だったのだ。
救助活動は夜まで続いた。
その頃、雪乃は手ぶらで搭乗口に立っていた。
あまりに突然の出来事だった。雪乃は体の痛みをこらえ、オークション会場の裏口から走り出た。
雪乃が飛び出した次の瞬間、建物全体が完全に崩壊した。
もう、怜司の記憶が戻ることを望むのはやめよう。
北都での馬鹿げた物語は、雪乃の「死」をもってようやく幕を閉じた。
若葉は救助現場で半日、怜司に付き添った。
救助隊が担架を運び出すたび、怜司はそれが雪乃ではないかと確認しに行った。
だが、どれも違った。