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愛あるところ、すべては虚妄
私・篠原美月 (しのはら みづき)と藤崎彰人 (ふじさき あきひと)は大学時代に出会い、恋に落ちた。 卒業後、私たちはごく自然な流れで結婚...
Chương (1)
第1章
私・篠原美月 (しのはら みづき)と藤崎彰人 (ふじさき あきひと)は大学時代に出会い、恋に落ちた。
卒業後、私たちはごく自然な流れで結婚した。
翌年、藤崎遥斗 (ふじさき はると)が生まれた。けれど、不幸にも聴力を失うという後遺症が残ってしまった。
それでも、私はその運命を甘んじて受け入れ、彰人が築いてくれた幸せな世界に、満ち足りた想いで浸っていた。
けれど、ある日突然、私の耳が再び聞こえるようになってしまったのだ。
彰人が部下の女性と睦言を交わす声。
遥斗が、誕生日のパーティで「ママなんて、永遠にいなくなればいいのに」と願う声。
それらを聞いてしまった瞬間、私の心は音を立てて崩れ落ちた。
再会は、アズマニア共和国。
遥斗がみすぼらしい姿で駆け寄り、泣きながら私に抱きついてこようとした時だった。
私はその手をすり抜け、そばにいた別の子供を愛おしそうに抱きしめると、平坦な声で言い放った。
「私はあなたのママじゃない。今度は……私があなたを捨てる番だ」
第1話
私・篠原美月 (しのはら みづき)と藤崎彰人 (ふじさき あきひと)は大学時代に出会い、恋に落ちた。
卒業後、私たちはごく自然な流れで結婚した。
翌年、藤崎遥斗 (ふじさき はると)が生まれた。けれど、不幸にも聴力を失うという後遺症が残ってしまった。
それでも、私はその運命を甘んじて受け入れ、彰人が築いてくれた幸せな世界に、満ち足りた想いで浸っていた。
けれど、ある日突然、私の耳が再び聞こえるようになってしまったのだ。
彰人が部下の女性と睦言を交わす声。
遥斗が、誕生日のパーティで「ママなんて、永遠にいなくなればいいのに」と願う声。
それらを聞いてしまった瞬間、私の心は音を立てて崩れ落ちた。
再会は、アズマニア共和国。
遥斗がみすぼらしい姿で駆け寄り、泣きながら私に抱きついてこようとした時だった。
私はその手をすり抜け、そばにいた別の子供を愛おしそうに抱きしめると、平坦な声で言い放った。
「私はあなたのママじゃない。今度は……私があなたを捨てる番だ」
……
「なんでまたあの足手まといからだよ。パパ、早く電話出て!」
画面の向こうから聞こえてきた幼い声に、私ははっと息を呑んだ。
それが息子の声だと、少し遅れて気づく。
どういうことだろう。今朝、幼稚園に行ったはずなのに。どうして彰人と一緒にいるの?
「い……ま、どこ……?」
聴力を失ってから、他人に嘲笑されるのが怖くて、私は一度も声を発したことがなかった。
彰人は少し驚いたように私を見つめ、慌ただしく手話で伝えてくる。
「会議、今終わったとこだよ、美月。どうした?俺に会いたくなった?
今日、声が出せるようになったのか?!」
私が口を開くより先に、画面の外から、軽蔑のこもったはっきりとした声が聞こえてきた。
「フン!声が出たって何の意味があるんだよ。どうせ聞こえてないくせに」
彰人はその声を無視し、優しい眼差しで私だけをじっと見つめ、辛抱強く答えを待っている。
すると、少し焦ったような女の声が、息子を優しくなだめるのが聞こえた。
「遥斗くん、パパの邪魔しちゃだめよ。学校に行ってないのがママにバレたら、また叱られちゃうでしょ」
遥斗は嫌悪感を隠すことなく言った。
「ありえないよ。あの人、耳が聞こえないんだぞ!何がわかるっていうんだ。せっかく遊園地に来たのに、僕のこと指図する気?
やっぱり沙友理お姉さんがいい。ねえ、先に僕と遊びに行こうよ、いいでしょ」
私はその場に凍りついたようだった。衝撃と失望で、身動き一つ取れない。
彰人は、私が呆然としているのに気づいたのだろう、表情が険しくなり、慌てて手話で尋ねてくる。
「美月、どうした?気分でも悪いのか
すぐにチケットを取って、そっちに帰る」
私は大丈夫だと手で制し、深く息を吸い込んでどうにか感情を押し殺した。
再び画面の外から急かす声が聞こえ、私は慌てて通話を切った。
手から力が抜け、携帯電話が滑り落ちる。ガシャン、と音を立てて床に落ちた。
はっと我に返った時、私はソファに崩れ落ちていた。
心臓が激しく、胸から飛び出してしまいそうなほどに高鳴っている。
私は力なく左胸を押さえた。そして、今更ながらに思い出す。私が電話をかけたのは、彰人に聴力が戻ったという、この吉報を伝えるためだったのだと。
今朝、目が覚めた時、不意に足を踏み外し、私は階段から転げ落ちた。
再び目を開けると、耳の奥で「ボン」という音が響いた。
耳鳴りがすべて止み、周囲の環境音が、突如として信じられないほど鮮明に流れ込んできた。
私はその場で呆然とし、しばらくして、居ても立ってもいられず彰人に電話をかけたのだった。
まさか、回復して最初に聞いた言葉が、いつもは素直で聞き分けのいいはずの息子の、私への恨み言だったなんて。
階段から落ちた時に打った頭のたんこぶが、ズキズキと痛み始める。
私はぼんやりとしたままソファに横たわる。悔しさが涙と共に溢れ出し、ソファのクッションを濡らしていった。
どれくらい時間が経っただろうか。額に、そっと触れられるくすぐったい感触がした。
目を開けると、彰人が痛ましそうな顔で、綿棒に消毒液をつけて私の頭の傷に塗ってくれているところだ。
「あなた……どうして帰ってきたの?」
私は習慣的に手話で尋ねた。
彰人もすぐに手話で返す。その顔に浮かんだ心配は、嘘偽りのないものに見えた。
「美月のことが心配で。だから、出張を切り上げて帰ってきたんだ」
第2話
彼は恐る恐る私の傷に触れる。
「痛むか?」
私は首を横に振り、彼の表情をじっと見つめた。嘘でもいいから、彼の方から何か説明してほしかった。
けれど彰人は何も言わず、向き直ると鞄から小さなクマのぬいぐるみを取り出し、得意げに宝物を見せるかのように私の腕の中に押し付けた。
「気に入ったか?俺がわざわざ手配させたんだ。
これが最後の一つだった。怪我を乗り越えた、勇敢な美月へのご褒美だ」
彰人は出張のたびに、私にぬいぐるみを買ってくる。
「次に離れる時は、このぬいぐるみが俺の代わりに君を守る『臨時の騎士』になるんだ」、とか言って。
けれど今回、私は淡々とそのぬいぐるみを脇に置き、彼から顔を背けた。
彰人は心配そうに私の手を握り、緊張した面持ちで手話で尋ねてきた。
「気に入らなかったか?」
私は彼の手を振り払い、答えをはぐらかすように目を閉じた。彰人はため息をつき、少し不満そうにぼやいた。
「急いで帰ってきたってのに、機嫌が悪いな。本当に手がかかる」
彼がシャワーを浴びてベッドに戻ってきた時、私は固く目を閉じ、眠ったふりを続けた。
彰人は鞄に入れていたジャケットのポケットから携帯を取り出す。ほどなくして、女性の恨めしそうな声が再生された。
「一週間一緒にいてくれるって約束したじゃない!嘘つき!」
彰人は私を抱き寄せ、私が聞こえないのをいいことに、耳元で堂々と相手にボイスメッセージを返す。
「美月のことは、お前なんかより常に最優先だ。自分の立場をわきまえろ」
そう言うと、彼は私の耳に優しくキスを落とし、「おやすみ」と囁いた。
疑惑は、確信に変わった。何かが私の心臓を掴んで、痛みが止まらないように締め付け続ける。涙が枕にこぼれ落ち、私は湿った夢の中へと沈んでいった。
翌朝、階下で遥斗の姿を見かけ、私はいつものように屈んで彼を抱きしめ、手話で「おはよう」と伝えた。
まさか、彼は顔では素直に微笑んでいながら、口では悪態をつくなんて。
「おはよう、このツンボ」
私は一瞬、呆然とし、信じられない思いで息子を見つめた。
彼は挑発するように私を見返す。そこへ彰人が朝食を運んでキッチンから出てきた。彼は息子の背中を軽く叩き、かすかな怒気を込めて言った。
「何度言ったらわかる。ママをそんな風に呼んじゃだめだ」
遥斗の態度を、彰人がまるで当たり前のことのように窘めているのを見て、私は想像もできなかった。私が聞こえなかった間、彰人は一体何度、こんな風に私をからかう「ゲーム」で遊んでいたのだろうか。
遥斗は私の腕から飛び降り、不服そうにわめいた。
「なんでだよ?!なんで?!あの人のせいじゃなかったら、僕は今日も遊園地に行けたのに!
こんなツンボのママなんていらない!沙友理お姉さんがいい!」
彰人は仕方なさそうにため息をついた。私は慌てて、何が起きたのか分からない、という表情を作る。
彼は手話で説明してくれた。
「遥斗が学校に行きたくないって駄々をこねてるだけだ。大丈夫」
そう言うと、彼は私の前にあるたまごサンドをそっと押しやった。
「今夜、テレビ局でチャリティオークションのパーティがあるんだ。ドレスを手配して届けてもらうから。夜、迎えに来るよ」
玄関で、彰人は私に尽きせぬ愛情を湛えた眼差しを向け、別れのキスをしようと顔を傾けた。
その視線を感じ、私の胸がズキンと痛む。
目の前の彼が、かつての純粋だった頃の彼と、ゆっくりと重なっていくようだ。
十数年前、彼もこうして大学の寮の玄関に立っていた。
私にキスをねだる時、いつも屈み込んで、子犬のような上目遣いで私を見つめていた。
歳月は彼にだけ優しいようだった。十数年が経ち、彰人からは幼さが少し消えただけ。
代わりに、よりはっきりとした顔立ちが残り、成熟した大人の男性としての威圧感すら加わっていた。
ただ、私の前では、昔と変わらない幼稚な駆け引きを、今も見せることがある。
鼻の奥がツンとする。いつから、彰人はこんなにも平然と嘘をつけるようになってしまったのだろう。
私が応じないのを見て、彰人は仕方なさそうに身を寄せ、私の額に優しいキスを一つ落とした。
彼は少し寂しそうな顔で私を見つめ、車のキーを手にして出て行った。
午後、家のチャイムが鳴った。ドアを開けると、一人の若い女性が快活に挨拶をしてくれた。
彼女はドレスのかかったハンガーラックを部屋に押し入れながら、手話で話しかけてくる。
「美月さん、私のこと、覚えてますか?」
第3話
私は頷いた。
彼女には見覚えがあった。まだ私が現役の記者だった頃、何度か顔を合わせたことがある。
その後、出産がきっかけで聴力を失う後遺症が残った。
それは記者にとって致命的な打撃で、私は毎日、心が張り裂けそうな状態だった。
彼女は当時、彰人とパートナーを組んでいて、彼がキャスターを務めるお昼のニュースの手話通訳を担当していた。
私のことで彰人が憔悴しきっているのを見て、彼女はまるで小さな太陽のように私たちの生活に飛び込んできた。
私の世話をさせてほしいと自ら申し出て、私に手話を、そして彰人に私とのコミュニケーションの取り方を教えてくれた。
そこまで思い至り、私は彼女に感謝の笑みを向けた。
「あの時はバタバタしていて、お名前も伺っていませんでしたね」
私が手話でそう伝えると、彼女は携帯を取り出し、文字を打ち込むと私の目の前に差し出した。
ちらりと画面に目を落とした瞬間、心臓が激しく揺さぶられ、全身の血が凍りついた。時間も空間も、すべてが停止し、私の目にはただ、そこに表示された文字だけが映っていた。
【如月沙友理】
如月沙友理 (きさらぎ さゆり)は携帯を服のポケットに戻す。
携帯には、私とお揃いのクマのストラップがついており、それがわざと挑発するように、ゆらゆらと揺れていた。
沙友理。
沙友理お姉さん……
どうやら、あの遊園地の一件の「ヒロイン」を見つけてしまったらしい。
私は呆然と沙友理を見つめる。一体いつから、彼女は私の生活に入り込んできたのだろう?
目の前にある、若く活力に満ちた彼女の顔を見て、その答えは難なく見つかった。
彰人にとって、私といるよりも彼女といる方が、比べるまでもなく気楽なのだろう。彼はただ、体面を保つために私に切り出せないだけ。だからわざわざ沙友理を寄越して、私に自ら身を引けと暗示しているのだ。
心は千々に乱れていたが、夜、私は彰人の腕に手を回し、パーティ会場のホールへと足を踏み入れた。彼の同僚たちが次々と集まってきて、私たちをからかう。
「あらまあ、結婚してもう何年にもなるのに、お二人さんは相変わらず幸せそうだね」
「本当だよ。関係も安定していてラブラブで。お二人は本当に、お似合いの夫婦だね」
彰人は、私が聞こえないことで気まずい思いをしないよう、慌てて手話で通訳してくれる。同僚たちの話を聞いている間も、彼の視線はずっと優しく私に注がれていた。
「ははっ、見ろよあいつ。美月さんのことが可愛くて仕方ないって顔だ」
「彰人の手話もすっかり板についたな。こりゃ今夜は、我らが藤崎キャスターに『ベスト愛妻家賞』でも贈らないと」
私の頭の中は、まるで猫が掻き乱した毛糸玉のようにぐちゃぐちゃだった。疲れたふりをして端のソファに腰掛け、人々の中心で堂々と振る舞う彰人を眺める。彼は時折、心配そうにこちらへ視線を投げてよこした。
オークションが始まった。彰人は何度も価格を吊り上げ、あるルビーのネックレスを競り落とそうとしていた。
私は少し不安になって彼の袖を引く。その金額は、すでにネックレス本来の価値を遥かに超えていた。
けれど彼は、私を安心させるように手の甲を軽く叩くと、必ず手に入れるという強い意志のこもった目つきで私を見つめ、手話でこう伝えた。
「これは『ディアレスト』シリーズ最後のネックレスだ。俺、昔言っただろ。君に全シリーズ贈るって。今日でやっと、その願いが叶う。最近、君が塞ぎ込んでいたから、これをプレゼントしたかったんだ。いくら高くても、その価値はある」
私の目頭が、不意に熱くなった。一体どちらが、本当の彰人なのか、もうわからなかった。
パーティが閉会に近づいた頃、彰人はネックレスを受け取りに行き、私はホールで彼を待っていた。
面識のない若いインターンが数人、私を値踏みするように見ながら、小声で噂話をしているのが聞こえてきた。
「あの人が藤崎さんの奥さんか。すごく綺麗だけど、残念。耳が聞こえないんだって」
「耳が聞こえなくたって、あの人は幸運よ!藤崎さんみたいな旦那さん、誰もが憧れるわ。若くてお金持ちで、イケメンで一途で。しかも、近々メインニュースのキャスターに抜擢されるって話じゃない。まさに前途洋々よね」
「そんなこと言わないの。美月さんだってすごい人なんだから。この間、藤崎さんが研修で使ってた原稿、あれ、美月さんが大学時代に書いたものらしいよ」
第4話
誰かが私の後ろで息を呑むのが聞こえた。
振り返ると、そこには剥き出しの嫉妬と憎しみを湛えた沙友理の瞳があった。
彼女は挑発するように片眉を吊り上げると、くるりと踵を返し、エレベーターに乗り込んでいった。
随分と時間が経ち、会場からはすっかり人気がなくなった。それなのに、彰人が戻ってくる気配はない。
悪い予感がして、私は震える手で携帯を取り出し、車のドライブレコーダーの映像を呼び出した。
真っ暗な画面の中、二人の熱っぽい喘ぎ声だけが、やけにはっきりと響いていた。
「彰人さん……ん……もう、ゆっくり……」
広々とした後部座席で、二人が服を乱したまま、もつれ合うように抱き合っていた。
彰人は沙友理のしなやかな腰を掴み、その目を赤く充血させていた。
「ん?……ほんの少し離れただけなのに、我慢できなくてコソコソ誘惑しに来たのか。今日、美月に何を言った?あいつ、一晩中機嫌が悪かったぞ。言っておくが、裏でコソコソ小細工するのはやめろ。お前と俺はただの遊びだ。美月だけは……俺の絶対的な一線なんだ」
彰人の言葉が終わるか終わらないかのうちに、沙友理はわざとらしくしゃくり上げる声を出した。
「私に何ができるっていうの。どうせまた、私が悪いって言うんでしょ。私の唯一の間違いは、彰人を好きすぎること。あなたの心に私がいないってわかってるのに、それでも自分を安売りして、第三者でいることに甘んじてる。
あなたのキャリアのために、脇役に徹してる。毎日、こんなに長い時間あなたと一緒にいるのに、まだそんな風に私を疑うの?」
彼女の泣き落としに、彰人はすっかり絆されたようだ。気まずそうに口調を和らげ、彼女の唇の端にキスを落として、なだめる。
「わかった、わかった。俺が悪かったよ。こうしよう。お前がいい子にしてるなら、褒美をやる。何が欲しい?」
沙友理はピタリとしゃくり上げるのをやめ、可哀想な私、という顔で彰人を見つめ返した。
「さっき、彰人が競り落としたあのネックレスが欲しい」
彰人の声が、低くなった。
「ダメだ。あれは、美月にやるとずっと前から約束していたものだ」
その瞬間、沙友理の目から再び涙がこぼれ落ちた。実に憐憫を誘う泣き顔だ。
「それが『ディアレスト』シリーズのジュエリーだってこと、知ってる。私はあなたと公の場で一緒にいることもできない。欲しいのは、ほんの少しの愛の欠片だけなのに……それすらも、くれないの?」
彰人は彼女の涙に根負けし、ついに折れた。
「もういい。欲しいならくれてやる。ネックレス一本でそんなに泣くな」
私は、彰人が再び彼女に覆いかぶさり、キスをするのを、ただ見ていることしかできなかった。
心臓が、長く修理もされずに錆びついた機械のように、ぎこちなく軋みながら回っている。ギ、ギ、という音さえ聞こえてくるようだった。
手足が抑えきれずに震え、冷や汗が背中を伝っていく。
私は奥歯をきつく噛み締め、涙がこぼれないように必死で堪えた。彰人と過ごした甘い日々が、映画のように一場面、また一場面と目の前を滑っていく。瞬きを一つすると、それらはすべて、粉々に砕け散った。
浮気の現場をこうして目の当たりにし、どうしようもない無力感が、私の神経のすべてを蝕んでいく。
私は疑い始めていた。あの時、自分の夢を諦め、彰人と共にこの地に根を下ろし、安定した生活を選ぶという決断は、本当に正しかったのだろうか、と。
彰人から、メッセージが届いた。
【美月、ごめん。急なトラブルで、これから少し出張しなきゃならなくなった。ネックレス、今日は受け取れそうにない。必ず、もっといいものを埋め合わせに贈るから、先にタクシーで帰ってくれるか?】
私は力なく笑いながら首を振った。急なトラブルなんかじゃない。沙友理が、彼を捕めて離さないだけだ。
私はついに決心を固め、久しぶりに、局長のオフィスを訪ねた。
彼女は私を見て少し驚き、「どうしたの?」と尋ねてきた。
すぐに私が聞こえないことを思い出し、デスクの上から慌てて紙とペンを探し出してくれた。
私は、自ら口を開いた。
「局長、アズマニア共和国へ、戦場記者として派遣させていただきたく、申請に参りました」