永遠の密やかな恋人

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永遠の密やかな恋人

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私は兄の親友である嶋谷宏(しまたに ひろし)と三年間恋人関係にあった。けれど、彼は一度も私たちの関係を公にしようとはしなかった。 それ...

Chương (1)

第1章

私は兄の親友である嶋谷宏(しまたに ひろし)と三年間恋人関係にあった。けれど、彼は一度も私たちの関係を公にしようとはしなかった。 それでも、彼の愛を疑ったことはなかった。何しろ、宏はこれまでに九十九人の女と関わってきたのに、私と出会ってからは他の女を一瞥すらしなくなったのだから。 私が軽い風邪を引いただけでも、宏は数十億円規模のプロジェクトを放り出し、すぐに家へ駆けつけてくれた。 誕生日の日も、私は嬉しくてたまらなかった。宏に、私が妊娠したことを伝えるつもりでいたのだ。ところがその日、宏は初めて私の誕生日を忘れ、姿を消した。 家政婦の話では、彼は「大切な人を迎えに行く」と言った。 私は胸騒ぎを覚えながら空港へ向かった。そして、花束を抱え、落ち着かない様子で誰かを待つ宏の姿を見つけた。 ――私にとてもよく似た女の子を、待っていた。 後で兄から聞かされた。その女は、宏が一生忘れられない初恋の人なのだと。 宏は彼女のために両親と決裂し、彼女に捨てられた後は心を病み、彼女に似た女を九十九人も傍に置いて生きてきたのだと。 兄がそう語るときの声には、宏への同情と感慨が滲んでいた。 けれど、兄は知らない――大切にしてきた妹の私が、その「百人目」だということを。 私はあの二人の姿を、ただ黙って、長い間見つめていた。そして、迷いなく病院へ戻った。 「先生、中絶手術を受けたいです……」 第1話 私は兄の親友である嶋谷宏(しまたに ひろし)と三年間恋人関係にあった。けれど、彼は一度も私たちの関係を公にしようとはしなかった。 それでも、彼の愛を疑ったことはなかった。何しろ、宏はこれまでに九十九人の女と関わってきたのに、私と出会ってからは他の女を一瞥すらしなくなったのだから。 私が軽い風邪を引いただけでも、宏は数十億円規模のプロジェクトを放り出し、すぐに家へ駆けつけてくれた。 誕生日の日も、私は嬉しくてたまらなかった。宏に、私が妊娠したことを伝えるつもりでいたのだ。ところがその日、宏は初めて私の誕生日を忘れ、姿を消した。 家政婦の話では、彼は「大切な人を迎えに行く」と言った。 私は胸騒ぎを覚えながら空港へ向かった。そして、花束を抱え、落ち着かない様子で誰かを待つ宏の姿を見つけた。 ――私にとてもよく似た女の子を、待っていた。 後で兄から聞かされた。その女は、宏が一生忘れられない初恋の人なのだと。 宏は彼女のために両親と決裂し、彼女に捨てられた後は心を病み、彼女に似た女を九十九人も傍に置いて生きてきたのだと。 兄がそう語るときの声には、宏への同情と感慨が滲んでいた。 けれど、兄は知らない――大切にしてきた妹の私が、その「百人目」だということを。 私はあの二人の姿を、ただ黙って、長い間見つめていた。そして、迷いなく病院へ戻った。 「先生、中絶手術を受けたいです……」 「なんですって?!林(はやし)さん、中絶したいって言うんですか?今朝、妊娠がわかったときは、あんなに喜んで恋人に知らせたいっておっしゃってたのに!」 医師の驚きの声が、静まり返った診察室に鋭く響いた。 私は俯いたまま、指先でスカートの裾をぎゅっと握りしめた。喉が詰まって、声が掠れた。 「……もう聞かないでください。とにかく、この子は……いらないんです」 医師はしばらく黙って私を見つめ、それから深くため息をついた。 「林さん、何があったのかはわかりませんが、今のあなたは明らかに冷静ではありません。少し時間を置いて、もう一度考え直してみてください」 医師は中絶手術の同意書と診断報告書を私の前に押し戻し、そこに添えられた小さな影のような胎児の画像に目を落とした。 「これは……命ですよ」 私は画像に映る小さな黒い影を見つめたまま、目の奥がじんと熱くなった。やがて、書類をそっとバッグにしまい、無言のまま病院を後にした。 ぼんやりとした足取りで家へ向かって歩いていると、突然、目の前で赤いフェラーリが急停車した。 水たまりに靴音が響き、濡れた路面に映る光の中から、一人の男が傘を差しながら駆け寄ってくる。 宏…… 彼は私を勢いよく抱き寄せ、脱いだ紺のジャケットを私の肩に掛けた。 「もう大人なんだから、傘くらい持って出ろよ。君、体が弱いんだ。風邪でもひいたらどうするんだ」 焦りを帯びた横顔。その瞬間、私は、あの恋を始めたばかりの年に戻ったような気がした。 しかし、心の奥底では、もう戻れないことを、はっきりとわかっていた。 私は彼の着ている紺色のスーツを見つめ、苦く笑った。 それは、宏が一ヶ月前、私の誕生日パーティーのために特注したものだった。だが今日、私の誕生日に、そのスーツを着ている理由は、祝うためではなかった。 今日の午後、誕生日の準備をしている最中に、突然ひどい吐き気に襲われた。最初は胃の調子が悪いだけだと思っていたが、診断の結果、妊娠していると知らされた。 誕生日に授かった命――私は、それを神様からの贈り物だと信じた。 すぐに家へ戻り、宏にこの喜びを伝えようとした。けれど、彼の姿はどこにもなかった。 家政婦が言った。 「嶋谷さまは空港へ、大切な方をお迎えに行かれました。林さま、お腹が空いたら先に召し上がっていいと」 先に食べていい?今日は私の誕生日なのに。宏は盛大に祝うと約束してくれたのに…… 胸の奥で小さな怒りが弾けた。 「大切な方って誰?」 家政婦は一瞬ためらい、口ごもるように言った。 「よくわかりませんけど……出かける前、鏡の前でとても嬉しそうにしていました」 その答えを聞いて、なぜか胸の奥がじわりと苦しくなった。嫌な予感がして、私はすぐに運転手に空港へ向かうよう命じた。 人で溢れかえる到着ロビー、それでも宏を見つけるのは簡単だった。高い背と整った顔立ちが、いつだって人目を引く。 彼は花束を抱え、出口を見つめていた。 そして、その隣には……兄の林風馬(はやし ふうま)の姿。 宏の唇は固く結ばれ、目には焦りが宿っていた。私が知る限り、彼がこんな表情を見せたことは一度もない。 一体、誰を待っているの……? 私が到着口を見つめていると、一人の女性が現れた。艷やかな雰囲気を纏い、長い髪が揺れる。 「遥!」 宏が花束を掲げ、嬉しそうに叫んだ。 だが、彼女は花を受け取らず、宏を通り過ぎて、兄の腕にそっと手を添えた。その瞬間、宏の瞳に、深い未練の色が浮かんだ。 宏は以前、女遊びにふけっていたが、あの女たちはただの遊び相手で、未練などあるはずもなく、ごまかすことすら面倒に思っていた。 私はその女を見つめた。 思い出した。上原遥(うえはら はるか)か。 私は幼い頃から海外で育ち、国内にいる兄はいつも幼なじみの二人について話してくれた。嶋谷宏と上原遥。彼らと兄は、「京市の三羽烏」と呼ばれていた。 しかし、今見た光景が示しているのは、友情だけではない。 疑問を抱えたまま、兄が荷物を取りに行った隙に、彼に電話をかけた。 「お兄さん、うちの社長が上原遥さんを迎えに行ったって。二人、どんな関係なの?社長はすごく興奮してて、会社の会議までキャンセルしちゃったみたいだよ?」 兄は一瞬黙り、それから笑った。 「宏のやつ、そんなことまで話したのか。そりゃ相当嬉しかったんだな。あいつと遥は昔、すごく激しい恋をしてた。 けど、二人の関係が最高に熱い時に、遥が国外に行っちまってさ。宏は完全に……狂乱状態だったらしいよ。 宏は普段あんなにクールぶってるのに、あの時期は毎日俺に泣きついてきて、死ぬだの何だのって大騒ぎして……結局、遥に似た女を次々と探してた」 「……遥に似た女?」 スマホを握った手が震え始めた。 「そう。清芽(さやか)、まだ遥に会ったことないだろ?見たらわかる。宏が付き合ってた女は、みんな遥にそっくりなんだ。 あや、急に君も遥にちょっと似てる気がしてきたな……まあ、やっぱりうちの妹のほうが可愛いけど……」 その後言った言葉は、もう聞こえなかった。 耳の奥で甲高い音が鳴り響き、兄が言葉を紡ぐたびに、私の体は冷たさを増していった。呆然と顔を上げ、目の前に立つ妖艶な女性を見つめた。 実は、もう会ってしまった。 「清芽?どうしたの?そうだ、なんでそんなこと聞くんだ?」 兄の声が電話の向こうで繰り返されるが、もう応える力もなく、ただ小さく呟いた。 「社長を気遣ってるだけよ……そうだ、お兄さん、今日私が聞いたことは社長に言わないで」 肯定の返事を確認すると、私は急いで電話を切った。 スマホが真っ暗になった瞬間、黒い画面に私の顔が映った。 私はまた、少し離れたところにいる女性を見上げた。 「似てる……?」 私は苦笑いした。 唇の端に浮かぶえくぼが、あの女とまったく同じ場所にあった。 ……本当に、似ている。 その日、どうやって空港を出たのか覚えていない。ただ、外は大雨だった。 帰宅すると、宏は私の髪を拭き、温かいスープを作ってくれた。そして、穏やかに笑いながら話し出した。 「なあ、今日さ、危うくバレそうになったよ。お兄さんが、友達に君を紹介したいから、一度会わせてくれないかって言い出してさ。俺、思わず『ダメだ!』って言っちまった」 私はふりをして笑顔を見せた。 「それで?気づかれなかった?」 「もちろんさ。お兄さん、あれだけ鈍感なんだ。まさか親友が自分の妹の彼氏だなんて、思いもよるわけねえよ。知られたら、俺、生きて帰れねえよ」 宏の軽薄な口調に、私は手を上げて、髪を拭く彼の手を押さえ、真剣な口調で言った。 「宏……あなた、本当に私を恋人だと思ってるの?」 宏は一瞬驚いたようにし、その後笑い出した。そして私の前に歩み寄り、ゆっくりとしゃがみ込み、手を伸ばして私の頬をつまみ、優しい声で言った。 「思ってなきゃ、お兄さんが紹介しようとした男に嫉妬なんかしないさ」 他の男の話になると、宏の顔色が少し悪くなった。彼は私を抱き寄せ、薄い唇を私の首筋に這わせた。 「君が他の誰かと一緒にいるなんて想像しただけで、たとえ同じテーブルで食事をするだけでも、俺はたまらなく苦しくなるんだ」 温かい吐息が私の首をくすぐり、私の体はとろけそうになった。しかし、私が溺れかける寸前、勢いよく宏を突き放した。 「宏、私、疲れたわ」 宏は一瞬戸惑ったが、雨に濡れて風邪を引いたと思ったのか、慌てて私を抱き上げてベッドに連れて行った。 私が眠りに落ちるまで、彼は何度も私の額に触れ、熱がないことを確認してから、ようやく静かに部屋を出て行った。 固く閉ざされたドアを見つめ、ベッドに横たわる私はゆっくりと目を開けた。 私は頭を布団に埋め、息が詰まるほど泣いた。 何が「恋人」だ…… 私はただ、遥の代わりに使われている女に過ぎない。 以前、宏が私の笑顔が一番好きだと言って、もっと笑えと促したことを思い出すと、嫌悪感を覚えた。 涙で視界がぼやけ、体の熱もどんどん上がっていく。 頭がぼんやりとする中、ふと、ずっと昔のことを思い出した。 あれは私が十八歳だった年。兄が宏を連れて私を帰国させに来た。ほぼ一目見た瞬間、私はこの背が高くハンサムな男に一目惚れした。 その後、私は「恵まれたお嬢様」の身分を捨て、兄に頼んで、宏の会社にインターンとして入れてもらった。 最初は、私たちにはほとんど接点がなかった。宏は商談をしているか、さもなければレース場で車を飛ばしていて、彼の助手席に乗る女性は次から次へと変わっていった。 あの日、ビジネスのパーティーで、不意に彼が薬を盛られてしまった。異変に気づいた宏は、ふらふらとトイレに逃げ込んだ。 私は宏に何かあったらと心配で、慌てて後を追ったが、数歩進むと彼の姿が見えなくなった。 焦ってその場に足踏みしていると、突然大きな手が私を物置部屋に引きずり込んだ。 私は叫んで抵抗したが、宏の身に漂う独特の草木の香りを嗅いだ瞬間、静かになった。 背後の男は微かに息を荒げていた。白いシャツは三つボタンが外され、薬のせいでシャツの下の胸筋がわずかに赤みを帯びていて、とてもセクシーに見えた。 私は思わず唾を飲み込んだ。この様子を宏ははっきりと見ていた。 彼は低く笑い、私の顎を持ち上げた。その声は気だるく、そしてかすれていた。 「そんなに気に入ったか?」 内心を見透かされた私は、すぐに彼を突き放して言い訳した。 「ち、違います……」 しかし、彼は再び私を腕の中に引き戻し、私の手を彼の胸に強く押し当てた。 彼は眉をひそめ、少し苦しそうだ。 「気に入ったのなら、助けてくれ……」 私が返事をする間もなく、宏は顔を下げてキスをした。 私の瞳は大きく見開かれたが、やがてこの強引でありながらも抑制の効いたキスに、ゆっくりと溺れていった。 次に目覚めた時、私たちは裸でベッドに横たわっていた。宏は頭を腕で支え、横向きになって私を見ていた。 薬の影響はすでに消えているはずなのに、宏の目にはまだ消えない欲望が宿っていた。 その日、宏は言った。 「君には責任を取る」と…… 宏は本当に有言実行した。遊び暮らすのをやめ、真剣に私と付き合い始めた。 私も何度も政略結婚の話を断り、宏の会社に残り、彼のそばにいた。 兄は、他の令嬢たちがバルセロナで休暇を過ごしているのに、大切な妹が毎日薄暗いデスクにいるのを見て、この会社に一体どんな魔力があるのかと、何度も私に尋ねた。 私は何度も宏との関係を話そうと思ったが、いつも私の言うことに従う宏が、この件だけは譲らなかった。 当初、私は宏が兄に叱られるのを恐れているのだと思っていた。 しかし、今日、ようやく分かった。 兄は、宏と遥が愛し合う姿をずっと見てきた。宏がどれほど遥に狂っていたかを知っている。 だから、そんな男に自分の大切な妹を託せるはずがない。 宏は、私と恋人関係にあることを兄に知られるのを恐れていた。 もう宏がそれを心配する必要はない。だって、私と彼は、もう何の関係もないのだから。 遥が戻ってきたのだから、私は宏の愛を残らず彼女に返してやる。 この何年間の愛も、時間も、全部。私は、ちゃんと受け止めて、ちゃんと手放す。 第2話 翌日、目を覚ましたときには、すでに午後になっていた。 一晩中熱にうなされ、頭はぼんやりして、喉も枯れて声が出ない。 スマホを開くと、未読のメッセージが何十件も増えていた。 【清芽、誕生日おめでとう!兄さんがヨット買ってやったぞ。今度一緒に乗りに行こう!】 【清芽ちゃん、お父さんがどうしても帰国して誕生日を祝いたいって言うのよ。まったく仕方のない人ね】 【二十五歳の誕生日おめでとう!いつまでも愛してる!】 画面をスクロールしても、どのメッセージも「誕生日おめでとう」で埋まっている。 遠い海外にいる両親、兄、友人、同級生……皆が祝福を送ってくれていた。 ただ一人、毎晩同じベッドで眠る恋人の宏だけが、何のメッセージも寄こしていなかった。 私はため息をつき、昨夜のことをぼんやりと思い出した。 夜中に宏へ「お水を取ってきて」と頼んだ気がする。 けれど、彼はベランダで電話をしていて、その電話を切ったあと、慌ただしく出かけていった――それきり、戻ってこなかった。 重い体を引きずってベッドを降りる。高熱のせいで、足元がふらつく…… そのとき、ドアが開いて、宏が帰ってきた。 両手いっぱいに高級そうな贈り物を提げている。包装を見るだけで、一つ一つがかなりの値打ち品だとわかる。 私の視線に気づいた彼は、すぐに駆け寄ってきた。 「やっと起きたか、この寝坊助」 私は顔をそらし、差し出された手を避けた。贈り物の山を見つめながら、かすれた声で言った。 「宏、私の誕生日……もう終わったの」 宏は一瞬固まり、宙に浮いた手をそのまま止めた。 長い沈黙のあと、彼はそっとその手を下ろし、壁のカレンダーに目をやった。そして、贈り物を置くと、私の手を握って言った。 「ごめん、昨日は仕事が立て込んでて……今日、改めてお祝いしよう。な?」 「いいの。過ぎたものは、もう戻らない」 私はそのまま彼を拒んだ。落ち込んだような顔の宏を残して、部屋へ戻った。 頭のぼんやりはますますひどくなり、三十分ほどして、再びリビングに出ると、宏の姿はもうなかった。 不思議に思う私に、家政婦が慌てて説明した。 「嶋谷様は林様のために誕生日プレゼントを買いに出られましたよ。怒らないでくださいね、昨日は本当にお忙しかったんです」 「プレゼント?」 視線をテーブルにやると、先ほどの贈り物がそのまま置かれていた。 家政婦は私の目線に気づき、慌てて贈り物を抱え上げ、棚の奥にしまい込んだ。 「林様、これは嶋谷様が大切なお客様に差し上げるものです。誰にも触らせるなと仰ってました」 「……大切なお客様?」 化粧品や女性用バッグが詰まったその袋を見て、すぐに察した。 宏にとって、両親の次に――いや、もしかするとそれ以上に大切なのは遥。 かつて、彼は遥と結婚するために両親と激しく争い、ついには絶縁しかけた。 つまり、彼は私の誕生日を「間違えた」のではなく、「思い出しもしなかった」のだ。 本当なら、私に「勘違いしてた」と言い訳しながら、そのままこの贈り物を渡せばいい。 けれどそうしなかった。遥のために用意したものは、誰にも触れさせたくなかったから。 遥が帰国しただけで、私はもう負けていた。これから、私は一体、何度負けるのだろう。 宏が花束を抱えて戻ってきたとき、私はベッドに横たわり、無表情でスマホを眺めていた。 彼は私の様子を見て、隣に腰を下ろした。 「怒るなよ、な?ほら、いろんなもの買ってきた。どうしても気がすまないなら……俺を叩け。な?」 そう言って、宏は私の手を取り、自分の頬に当てた。 その卑屈な姿に、胸が締めつけられる。宏は本来、温厚な男ではない。 昔の恋人たちが機嫌を損ねても、彼は決して宥めたりせず、すぐに別れて新しい相手を見つけていた。 それなのに、私には頭を下げ、こうして許しを乞う。 彼が私をこれほどまでに甘やかすのは、愛しているからなのか?それとも、私が遥に一番似ているからなのか? そう考えた瞬間、私は顔を上げ、手を振り下ろした。 宏は一瞬たじろいだ。まさか本当に殴られるとは思っていなかったのだ。 しかし、彼は気にする素振りも見せなかった。ただ、私が怒っているだけだと思い込んでいるらしい。 頬に浮かんだ手の跡もそのままに、彼は急いで振り返り、ボックスを取り出した。中にはネックレスが一本。 それは私が最も好きなデザイナーの、半月前に発表されたばかりの新作で、私はずっと購入できずにいた。 まさか宏がたった半日で手に入れていたとは。きっと、相当な額を費やしたに違いない。 宏が一体何を考えているのか、私には少しわからなくなった。彼は相変わらず私に優しく、むしろ誰もが私を羨むほどに。 ただ一つ欠点があるとすれば、私は永遠に遥の後ろに立たされることだ。 宏は私の呆然とした表情を見て、わずかに口元を歪め、そっと私の髪を掻き分けて、自らこのネックレスを私の首にかけてくれた。 だが、指先が私の肌に触れた瞬間、彼の表情が一変した。 「熱い……どうした?」 ようやく、彼は私が高熱を出していることに気づいた。次の瞬間、彼は私を抱き上げ、病院へ向かって駆け出した。 家を出る前に彼は家中の使用人を大声で叱りつけた。 「清芽が発熱してるのに、誰も気づかなかったのか?もう明日から来なくていい!」 怒声を残し、十数個の信号を無視して、病院へと突っ走った。 病院に着くと、診察室で医師に問われた。 「お二人のご関係は?」 「兄です」 「彼氏です」 私と宏の声が、同時に重なった。 医師が怪訝そうに眉を上げた。宏はもう一度、はっきりと言い直した。 「俺は彼女の恋人です」 私は驚いて彼を見た。これまで彼は、どんな場所でも私たちの関係を認めようとはしなかった。 周囲に知人がいなくても、「妹だ」と言い張った。だから私も、自然と外ではそう名乗るようになっていた。 それなのに今、彼は自ら「恋人」だと口にした。 罪悪感からの行動だと、すぐにわかってしまう。 私は小さく笑い、点滴の滴が一つ一つ落ちていくのを見つめた。 そのとき、看護師がそばで口を開いた。 「間に合って良かったですね。もう少し遅かったら、お腹の……」 私は激しい咳で言葉を遮った。 宏は慌てて水を取りに行き、その隙に私は看護師へ小さく首を振った。「言わないで」と。 もう、彼とは終わりにすると決めている。だから、この子のことも彼には知られたくなかった。 宏は何も疑わず、私を支えて水を飲ませた。 そのとき、兄の風馬が勢いよくドアを開け、駆け寄ってきた。 「清芽!どうして病気のことを……」 言葉が途中で止まった。宏と視線がぶつかり、宏が我に返ったようにコップをテーブルへ戻した。 それを見た兄は問いかけた。 「どうしてここに?」 「会社で清芽が倒れたんだ。たまたま見かけたから、病院に連れてきた」 宏は落ち着いた声で嘘をついた。しかし、廊下の外にいる遥を見た瞬間、その顔が強張った。 遥はむしろ平然とした顔で、贈り物を手に笑いながら入ってきた。 「さっき風馬とカフェでコーヒー飲んでたの。彼が妹が倒れたって聞いた瞬間、勘定も忘れて飛び出していくから、心配で一緒に来ちゃった。 宏、その顔……まさか私、歓迎されてない?」 宏の表情が沈み、二人の視線がぶつかる。その瞳の奥にある感情を、私はもう読み取ることができなかった。 彼は怒っている。遥に軽く扱われたことに。私は、そんな彼を一度も見たことがなかった。 重たい空気を断ち切るように、私はベッドを降り、遥の前に立って手を差し出した。 「初めまして、林清芽と申します」 遥は私を上から下まで眺め、目を見開いてから、ふっと微笑んだ。 「初めまして、上原遥。風馬の友人よ」 その自己紹介を聞いた瞬間、宏の肩がわずかに震え、拳が固く握られた。 私はその反応を見て、苦笑した。 すると、遥が驚いたように口元を押さえた。 「まあ、清芽さん。偶然ね、あなたにもえくぼがあるのね。笑うと私にちょっと似てる」 第3話 その言葉が落ちた瞬間、宏の体はさらに強張った。だが、私の表情はいたって穏やかだった。 私は微笑みながら言った。 「そう……じゃあ、私たち、きっと縁がありますね」 兄がそのやり取りを聞いて、吹き出すように笑った。 「遥、相変わらず、人に親しくするのが下手だ」 遥は不機嫌そうに彼の腕を軽く小突いた。二人の様子は、見ているだけで分かるほど親しげだった。 宏は少し離れた場所に立ち、まるで場違いな傍観者のようだった。 細められたその目を見て、私は悟った。それは、宏が怒りを抑えている時の表情だ。 「じゃあ、清芽のことは任せる。俺はもう行く」 そう言って背を向けようとする宏を、兄が呼び止め、車の鍵を放った。 「ちょうどいい。帰りに遥を送ってやれよ」 宏はその鍵をしばらく見つめたまま、受け取ろうとしなかった。代わりに、遥が兄の手を押し戻した。 「いいの、わざわざ送ってもらわなくて。自分で帰るわ」 そう言って私に軽く会釈し、「早く良くなってね」と優しく言葉を添えて、踵を返した。 その間、宏の視線は一瞬たりとも遥から離れなかった。 兄は宏を見つめ、深くため息をついた。 「はあ……せっかくチャンスをやったのに、やっぱり掴めねえのか。ほら、早く追いかけろ。まさか、また彼女を逃すつもりか?」 その言葉に、宏は反射的に私を一瞥した。顔がみるみる険しくなり、苛立った声が返った。 「カフェインでも酔ったのか?何をわけのわからないこと言ってる!」 兄はぽかんとしたまま、訳もわからず肩をすくめた。呆れたように宏を押しのけ、車の鍵を弄びながら病室を出ていく。 「いいさ、じゃあ俺が送ってくるよ。遥を一人で帰らせるなんてできないからな」 すぐに、病室には宏と私だけが残った。どちらも黙ったまま、互いに口を開こうとしなかった。 私の落ち着いた様子が、かえって宏を不安にさせたのだろう。 彼は何か言い訳をしようと口を開きかけたが、その前に看護師が入ってきて、検査に連れていくと告げた。 宏は頷き、私を支えながらベッドから起こした。 「気をつけて。乱暴に扱わないでください」 看護師に向かってそう言う彼は、いつも通り優しかった。けれど、その目は明らかに上の空だった。 私は看護師に導かれながら廊下を歩いた。その途中、ふと目に入ったのは、向かいの通路に立つ二つの影だった。 兄が欄干にもたれ、低い声で言った。 「遥、さっきの態度……本気で宏とヨリを戻す気はないのか?」 遥はタバコに火をつけ、ゆっくりと煙を吐きながら唇を歪めた。 「死んでも、嫌」 その最後の一言が落ちた瞬間――私は廊下の向こうに立つ宏の姿を見た。 彼は完全に動きを止め、遥を凝視していた。まるで、この世界に彼女と自分しか存在しないかのように。 兄はため息をつき、煙草の火を揉み消しながら肩を叩いた。 「こりゃ面白いことになったな。俺は車庫で待ってる。ゆっくり話せよ」 兄が去った後、彼らは話しているようには見えなかった。むしろ言い争っているようだった。 声は聞こえないが、宏の荒い身振りを見れば、激しく言い争っているのは明らかだった。 私は遠くからそれを見つめ、胸の奥が複雑に揺れる。 ――宏がここまで取り乱すのを、私は初めて見た。 彼は利益を奪い合う商戦の場でも涼しい顔をしていた。危険なカーレースでも、恐怖ひとつ見せなかった。 それなのに今、遥の「死んでも嫌」という一言で、理性を失っている。 私はもう見ていられなくなり、静かに背を向けた。 検査を終えて戻る頃、廊下の先から兄の声が聞こえてきた。 「遥、俺の勘が正しけりゃ、君が今回帰ってきたのは宏のためだろ?未練があるくせに、さっきみたいなこと言って……本当に彼に見捨てられたらどうする?」 遥は、その言葉を聞いて、まるで滑稽な冗談でも聞いたように鼻で笑った。 「彼に見捨てられる?冗談でしょう。最初から、見捨てるのは私の方だけよ。 風馬、あなたは宏を分かってない。あの人は強い言葉にしか反応しないの。口論でもしなきゃ、あの別れの痛みを思い出せない。 痛みは、すなわち『愛』よ。私はあの人に、私を愛していた頃の感情を思い出させたいの」 「感情を?」 兄はスマホを取り出し、宏と数々の元恋人たちの写真を次々と見せた。 「見ろよ。宏は君を忘れたことなんてない。これだけ女を替えてきても、全員どこか君に似てる。遊びだよ、全部。 君が帰ってくるって聞いた途端、全員と別れたんだ。ここまで深情なのは、俺も驚いた」 遥はちらりと画面を見て、ふっと笑った。 「全員と別れた?本当に、そうかしら」 「どういう意味だ?」 兄が眉をひそめた。 「宏は確かに私を愛してる。でも、まだ足りない。全然足りない。もし本当に十分に愛していたなら、私はあの時、彼のそばを離れなかった。 みんな私がキャリアのために別れたって思ってるけど、違うのよ。 私の家が破産したあと、宏の両親が私を拒んだの。彼と結婚なんて絶対に許さないって。 だから私は国外へ出るしかなかった。彼が親に立ち向かう勇気を持てるようにするには……彼の心を私だけのものにするしかなかった」 唖然とする兄に、遥は穏やかに肩を叩いた。 「心配しないで。今日の喧嘩だって、どうせすぐに元通りよ。ちょっと甘い言葉をかければ、また子犬みたいに尻尾を振って寄ってくるんだから」 そう言いながら彼女は笑い、兄と並んで階段を降りていく。 去り際に、ふと上を見上げた。私はその視線を正面から受け止めた。 挑発にも似た、あの薄い笑みを。 第4話 病室に戻った時、宏の姿はもうなかった。ベッドの上には、彼の署名が入った支払い明細だけが残されていた。 看護師が説明してくれた。 「ついさっきお支払いを済ませて、慌てて出て行かれました。何か急用があったのかもしれませんね」 私はその紙をじっと見つめ、しばらくしてから小さく尋ねた。 「……彼、出て行く時、どんな様子でしたか?」 看護師は少し思い出すようにして答えた。 「あまり元気がなさそうでした。目の周りが赤くて……泣いていたように見えました」 ――泣いていた? 私は紙をぎゅっと握りしめた。 やっぱり私は、宏の遥への想いを、甘く見ていたらしい。 「大丈夫ですか?また体調が悪くなったんじゃ……」 私は首を振り、静かに言った。 「退院の手続きをお願いします」 「えっ?でも、まだお身体が……」 「もうここにいたくないのです」 この病室には、まだ遥の香水の匂いが残っている。それが、どうしようもなく嫌だ。 病院を出た私は、別荘には戻らず、実家へ向かった。 玄関に入ると、兄が驚いた顔で立ち上がった。 「清芽?入院してるはずじゃ……どうしたんだ急に?」 私の目に涙が滲み、気づけば兄の胸に飛び込んでいた。彼の肩を、涙が濡らしていく。 「おやおや、清芽さん、どうしたの?」 その声に、私ははっとして振り返った。 遥だ…… 「なんで、あなたがここに?」 兄が苦笑して説明した。 「今日は遥の歓迎会なんだ。彼女が主役でね」 私と遥の視線がぶつかった。彼女の瞳の奥には、あからさまな挑発と嘲りがあった。 兄が私の頭を撫でた。 「清芽、どうした?泣いてたじゃないか。誰かに何かされたのか?」 私は首を振り、乱暴に涙を拭って答えた。 「……なんでもないの」 そしてそのまま玄関へ向かった。 「おい、どこ行くんだ?清芽!」 兄が追いかけようとしたが、遥が彼の腕を掴んだ。 「私が行く。女の子同士、話したほうがいいでしょ?」 背後でヒールの音が響いた。遥が私の耳元で囁いた。 「清芽さん、ちょっと話さない?」 「話すことなんてないです」 私は冷たく言い放ち、手を振り払った。 彼女は笑みを浮かべた。 「どうして?」 そう言って、私にだけ聞こえるような小さな声で続けた。 「だって……私たち、同じ男を寝かせた仲でしょ?」 全身が一瞬で凍りついた。 遥は私をリビングへ連れ戻した。そこには彼女の友人たちが集まっており、私を見る目は、すでに好奇と侮蔑に染まっていた。 おそらく、遥がもう全部話していたのだろう。 それでも、彼女はわざとらしく笑って紹介した。 「この子ね、宏が処理し損ねたゴミよ」 その侮辱に、私は冷ややかに見返した。 「じゃあ、あなたは何?宏を操るために駆け引きする詐欺師?」 一瞬、遥の顔が固まった。どうやら私が言い返すとは思っていなかったらしく、彼女の表情はたちまち険しくなった。 周囲の女たちが、すぐさま彼女を庇って私を嘲った。 「詐欺師?」 「ふふ、遥さんは嶋谷の心を騙せたなら立派なもんよ!あんたは?」 「そうよ、泣きながら帰ってきたくせに、何様?」 「賭けない?嶋谷が何日でこの子を捨てるか」 「私は一日!」 「私は一時間!」 ガシャンッ! 私は勢いよくカップを床に叩きつけ、大きな音を立てた。 空気が凍りついた。 台所で忙しくしていた兄がすぐに駆けつけてきた。 遥はすぐにしゃがみこみ、割れた破片を拾いながら私の手を取った。 「大丈夫?怪我してない?」 その優しい仕草を見て、私はようやく悟った。 なるほど、宏がこれまで忘れられなかったのは、こういう計算高くて世慣れた女だったのか。 もし宏が、自分が遥のために味わった苦しみや狂乱の瞬間の数々が、全て巧みな芝居でしかなかったと知ったら、どんな表情をするだろうか? けれど、もう関係ない。私は兄のほうへ向き直った。 「嶋谷社長から聞いたけど、兄さん、私に縁談を紹介してくれるって?」 兄は少し驚いたが、すぐに笑ってうなずいた。 「おお、あいつそんな話までしてたのか。いつからそんなに親しくなるのか?」 その時、私は言いたかった。私たちは親しいだけでなく、恋人同士でもあるのだと。 しかし、口を開くと、にぶく苦い笑みを浮かべるだけだった。 「別に、親しくなんかないよ。お兄さんが紹介してくれるあの人……会ってみるつもり」 私はうつむいたまま外へ歩き出し、歩きながらその連絡先を追加した。 プロフィール写真は海の風景。どこか懐かしい。 すぐに、相手はメッセージを送ってきた。 【水橋龍一(みずはし りゅういち)】 ――その名前を見た瞬間、微かに胸がざわついた。 だが、次の瞬間、スマホが誰かの手に奪われた。顔を上げると、宏が玄関口に立っていた。 彼は少し機嫌が悪そうだった。 「退院したのに、なんで俺に一言も言わない?」 彼の視線が私のスマホに落ちた。 「水橋龍一?男みたいな名前だな。誰だそいつ?」 私はスマホを奪い返し、冷たく言った。 「あなたこそ、何も言わずに出ていったじゃない」 宏は言葉を詰まらせ、顔を強張らせた。その時、兄が声をかけた。 「お、ちょうどいいところに来たな。今夜は遥の歓迎会だ。飲んでけよ」 宏の目が、中央に立つ遥へ向いた。 「……歓迎会?俺の知らない、な」 空気が一気に凍った。誰かが慌てて取り繕うように言った。 「いやいや、遥さんが呼んだのは親しい人だけで……」 「そうそう、それに今日は遥さんの片思いの相手である黒沢哲哉(くろさわ てつや)さんも来てるし、ちょっと気まずいかなって」 「片思いの相手?黒沢?」 その名を聞いた瞬間、宏の表情がみるみるうちに暗くなった。彼が狂いそうになっていることだけはわかった。 もし私がその場にいなければ、宏はもう飛びかかって、遥を掴み取り、激しく問い詰めていたかもしれない。 彼が怒りに震える様子を見ながら、私は苦い笑みを浮かべ、兄に言った。 「私、もう帰るね」 熱がまだ残る身体で、ふらつきながら出口へ向かう。宏は手を伸ばしかけたが、遥の視線を受けて、動きを止めた。 「清芽さん、まだ本調子じゃないでしょ?宏に送ってもらいなさい……どうせ彼、ここにいても用事もなさそうだし。私は他のお客さんの対応で忙しいだから」 遥が笑いながら私の手を取った。宏がその姿を見つめた。その瞳に浮かんだ悲しみは、鋭い剣のように私の心臓を貫いた。 「いいえ、結構です」 宏は一瞬固まったが、追いかけたくなったものの、やはり足を止めた。 最終的に、兄が私を送ってくれた。車の中で私は黙って窓の外を見ていた。 そこへ新しいメッセージ。――遥から。 写真が一枚。 それは運転席に座る宏の横顔だった。 【あらまあ、彼って本当に小心者ね。あなたが足を踏み出したか出さないかのうちに、哲哉をぶん殴って、私を連れ去ったのよ】 【可哀想に、芝居を手伝ってくれた哲哉、今後はしっかり埋め合わせをしてあげなくちゃ】 【清芽さんはまだ男をうまく操る方法が分かっていないのね】 【男というものは、飴と鞭が必要だね。そうすれば彼はあなたのことを忘れられなくなるのよ】 私は写真を拡大し、宏の口元にたれた血痕を確認した。おそらく、さっきの乱闘でついた傷だろう。 「清芽、どうした?」 兄が車を止め、真っ赤に腫れた私の目をじっと見つめた。 「今日ずっと様子がおかしい。何があったんだ、話してみろ。必ず取り計らうから!」 私は唇を噛みしめ、言葉を探した。その瞬間、前方にポルシェが滑り込んでくる。 降りてきたのは――宏と遥。 宏は遥を車から激しく引きずり降ろした。二人は再び言い争いを始めたようだが、今回は別れでは終わらなかった。 宏は遥を車体に押し付け、激しく唇を奪った。 その手は彼女の腰を握り、深く貪るようにキスを重ねていった…… 私はその光景を静かに見つめ、体を微かに震わせた。 兄は私がじっと見つめる様子に、好奇心からだと思い、軽く笑った。 「そんなに驚くことじゃないよ。あの二人は昔からそうだった。口喧嘩してるかと思えば、次の瞬間にはホテルに行くんだ。とっくに慣れたよ。 久しぶりに会っても、遥は相変わらず、宏を完全に掌握してるんだな…… あれ?清芽、どうしたんだ!」 兄が振り向くと、私が冷や汗でびっしょりになっているのに気づき、すぐに動揺した。 私はお腹を押さえ、弱々しく言った。 「病院に……連れて行って……」 第5話 目を覚ましたとき、兄が険しい顔でベッドのそばに立っていた。 彼は一枚の妊娠検査結果の報告書を私の体に投げつけるようにして言った。 「清芽、この子、誰の子だ!」 私は唇を引き結び、シーツを握りしめたまま何も答えなかった。 兄はしばらく怒鳴り続けたが、私が沈黙を守り続けると、やがて病室のドアが開き、宏が入ってきた。 その瞬間、私は急に不安になった。 「宏、どうしてここに?」 兄が訝しげに彼を見た。 宏は表情を崩さずに言った。 「会社の同僚から清芽が倒れたと聞いた。上司として部下の容態を見に来るのは当然だろう?」 兄は眉をひそめながらも、特に疑う様子もなく言い放った。 「先に出ていけ。清芽と話がある」 宏は一瞬動きを止め、兄の手にある紙に目を留めた。 私は慌てて咳き込み、兄は咄嗟に紙を背中に隠し、怒鳴った。 「出ていけと言ってるだろ!」 宏は一瞬ためらったが、やがて静かに部屋を出て行った。 病室には再び私と兄だけが残った。 兄は声を低く、だが一層鋭く問いかけた。 「子供は誰のなんだ?」 その瞬間、私は言いたくてたまらなかった――その子の父親は、いま追い出されたあの人だと。 しかし、私にその資格があるだろうか。 彼はつい先ほど「部下」と呼んだ。 昨日の夜、彼は別の女を抱きしめ、夢中で口づけをしていた。 そんな人間が、どうして私の子供の父親になれるというの。 私は自嘲の笑みを浮かべ、兄の手から報告書を奪い取って、細かく引き裂いた。 「お兄さん、もう聞かないで。これは私の問題だから」 兄は怒りに笑い、何歩か後ずさった。 「そうか、もう大人になって俺の言うことなんて聞かないんだな。 いいさ……清芽、もし父さんと母さんが、君が父親不明の子を妊娠したと知ったらどうなるか考えたことはあるのか!」 兄の顔が真っ赤になっていくのを見て、胸が痛んだ。 私は深呼吸し、真剣に兄を見つめて言った。 「お兄さん、もう少しだけ時間をちょうだい。必ず全部話すから」 兄は長く私を見つめ、やがて背を向けて出ていった。ドアが勢いよく閉まり、その音に宏が外でびくりと肩を震わせた。 宏はゆっくりと病室に戻った。 「何を話してたんだ?あんなに怒鳴り声がして……」 私が答えないのを見て、突然表情をこわばらせた。 「まさか、俺たちのことを話したんじゃないだろうな……清芽、あれほど……」 「言ってない」 私は彼の言葉を冷たく遮った。 今となっては、宏はまだ兄に私たちの関係を話すのを恐れている。 それも当然だ。彼は兄の目の前で浮気をしたのだから、とても口にできるはずがない。 「ごめん、俺が焦りすぎた」 宏はベッドの脇に腰を下ろし、点滴の針が刺さった私の手をそっと撫でた。 「どうしてそんなに急いで退院しようとするんだ。熱もまだ下がっていないのに」 私は答えず、ただ彼の首筋を見つめた。そこには、私のものではない紅い痕が残っていた。 宏はその視線に気づき、慌てて襟を直した。 「蚊に刺されたんだ。最近、暑いからさ」 私は目を伏せ、小さく笑った。 「そうね、蚊が多い季節だもの」 ――その小さな肌の範囲に、いったい何匹の「蚊」がいたのだろう。 彼は私の返答に安堵したように息をつき、湯を注ぎ、他愛のない話をした。 やがて腕時計を見て言った。 「会社に戻らなきゃ。あとで家政婦を呼んでおく」 また嘘だ。 以前なら、私が足を捻っただけで、何億の契約を棒に振ってでもそばにいてくれた。 あの頃の彼は言った――「清芽はこの世界の何よりも大事だ」と。 けれど今、私は知っている。私は世界の誰に勝てても、遥には勝てない。 一時間後、遥がSNSを更新した。 写真には、夕陽の中で指を絡め合う二つの手。 その手は、私にとってこれ以上ないほど馴染み深いものだ。なぜなら、私も何度も握ったことがあるから。 投稿文にはこうあった。 【今度こそ、この手はいつまで離れずにいられるの?】 見事な駆け引きだ。「愛してる」とは言わず、宏に「努力しなければまた終わる」と暗に突きつける。 我に返ると、投稿にはすでに宏のコメントがついていた。たった短い一文。 【永遠に離さない】 私は笑いながら、その投稿に「いいね」を押し、スクリーンショットを撮った。 ベッドを降り、ふらつく足で診療室へ向かう。 そして医師に告げた。 「先生、この子をおろしたいんです」 医師は驚き、言葉を失った。 「林さん……本当にいいんですか?」 私は微笑んでうなずいた。 「ええ、もう決めました。だってこの子の父親は、もう彼を要らないんですもの」 手術の予約を終えて病院を出ると、遥からまたメッセージが届いた。写真には二枚の航空券。 ――彼らは旅行に行くらしい。 同じ頃、宏からのメッセージも届いた。 【出張に行ってくる。すぐ帰るから】 私はまた笑った。 何年も兄の前で嘘をつき続けたせいで、彼はまた嘘をつくことが癖になったらしい。 宏には返信せず、遥に返した。 【旅を楽しんで】 彼らは二人の旅路を歩き出した。私も、自分の道を行く。 別荘に戻り、荷物をまとめる。自分だけのものをスーツケースに入れ、宏との思い出はすべて捨てた。 木彫りの贈り物も、彼が初めて取ったレーシングトロフィーも。 荷造りを終え、空っぽになった家を振り返ると、目の奥が熱くなった。 ここで笑い合い、抱き合い、幾千もの「愛してる」を交わした。 しかし、もう戻ることはない。 第6話 私は小さなアパートを借り、そこで一人暮らしを始めた。そして、もう一度絵を描くことにした。 大学ではデザインを専攻し、国際的な賞もいくつか受賞したことがある。 けれど、宏と一緒にいるために、彼の会社で平凡な工業デザイナーとして働く道を選んだ。 本当は、そんな仕事が好きなわけではなかった。私が本当に好きなのは、ジュエリーや服飾のデザイン。 美しいものを創り出す時間が、何よりも私を幸せにしてくれるのだ。 最初のうちは、日々は穏やかだった。 だが、遥は私の平穏を許さなかった。彼女は休暇の間、毎日のように私へメッセージを送りつけてきた。 たとえば、彼女がビーチで横になり、宏がオイルマッサージをしている写真。 あるいは、乱れたシーツの上で、絡み合う二人の腕。 床に散らばる衣服と、ゴミ箱に溢れかえったコンドームの包み。 ――もう何も感じないはずの心が、そのたびに鋭く痛んだ。 そして、下腹部も鈍く痛み出す。 大丈夫、もうすぐ痛みは消える。 あと少しだけ時間が経てば、すべて終わる。 私は遥をブロックリストに入れ、再び絵筆を取った。 一週間後、二人の休暇が終わった。だが、帰ってきたのは宏一人だけだった。 ――遥が、拉致されたのだ。 再び宏に会ったのは、私の実家だった。 髪は乱れ、顔中に青あざ、真っ赤に充血した目。彼はほとんど狂ったような様子で、兄が必死に押さえつけていた。 「落ち着け!命を交換するだと?正気か!俺がもう調べをつけてる。遥は必ず無事だ、焦るな!」 まもなく、宏の両親も駆けつけ、屈強なボディーガードたちが彼を床に押さえつけた。 宏の父親は警告した。 「お前、今日もし人質の交換なんてしに行ったら、嶋谷家にお前はいないと思え! 遥なんてただの一般人だ。お前は嶋谷家の後継者だぞ。命の価値が全く違うんだ!そのために死ぬ気か!」 宏の母親も泣きながら叫んだ。 「そうよ!彼女をさらったのは赤炎組(せきえんきくみ)っていう組織なのよ!あそこから生きて帰った人なんていないの!腕が折れるか、腎臓を取られるか…! あなた、前にも彼女のためにカーレースに出て、事故で脚を切断しかけたじゃない!あの痛みを忘れたの?!もう二度と馬鹿な真似は許さないわ!」 だが、宏の耳には何一つ届かない。彼は狂ったように玄関へ突進し、私の体を強く突き飛ばした。 その瞬間、太ももから血が流れ落ち、私は激痛に身をよじらせた。 「清芽!」 兄が叫んで駆け寄った。 私は腹を押さえながら、霞む視界の中で宏の背中を見た。彼が振り返った瞬間、ほんの一瞬だけ、驚きが彼の目に浮かんだ。 ――まさか、自分が突き飛ばしたのが私だとは思わなかったのだろう。 しかし彼は私を一瞥しただけで、すぐに振り返り、車に飛び乗ると猛スピードで走り去った。 エンジン音が耳をつんざき、黒い排気が肺を焼く。 私はその車が視界の端で消えるまで見つめ、静かに目を閉じた。 ……次に目を覚ましたとき、腹は平らになっていた。もう、あの小さな鼓動はどこにもなかった。 自分で望んだことだったのに。いざ失ったとき、どうしてこんなにも悲しいのだろう。 兄がそばに座っていた。目の下には深い隈、長い間眠っていないのがわかった。 「清芽……」 彼は言葉を詰まらせ、壁を殴りつけた。 「クソッ!嶋谷宏、あの野郎!君の子を殺しやがって!」 私は小さく笑った。 「大丈夫だよ、お兄さん。もともとこの子は欲しくなかったんだね」 ただ、兄の話からすると、宏本人は無事だったようだ。 兄は動画を見せてくれた。拉致犯が送ってきた映像だった。 画面の中、遥は手足を縛られ、宏は数人の男に押さえつけられていた。彼は怒号を上げた。 「遥を放せ!取引だろ、命と命を交換するって!承知した!放せよ!」 影の中に隠れた男が笑った。 「放せ?そんな簡単じゃねえよ。お前が嶋谷家の息子だってな?へえ、いい身分じゃねえか。 一度でいいから偉い人物に土下座されてみたかったんだ。三十回頭を下げてみろ。そうしたら、放してやるよ」 ドン―― 言葉が終わる前に、宏はまっすぐ膝をついた。そして何度も頭を床に打ちつけ、血が額から流れた。 男は椅子に座り直し、愉快そうに笑った。 「本当に惚れ抜いてるんだな……だが、俺は嘘をついたんだぞ」 「……てめぇ!」 宏の目が血のように赤く染まり、嗚咽混じりに言った。 「どうすれば遥を放してくれるんだ……?条件を言え、何でもする」 男はナイフをくるくると回し、宏の目の前で止めた。 「いい目だな。それ、もらうぜ」 宏は、一瞬もためらわなかった。 「いい……」 男は笑みを浮かべ、一気に刃を突き立てた。 「うああああああ――ッ!」 宏は悲鳴を上げ、顔を押さえ、鮮血が床に散った。 映像はそこで途切れた。 兄は深く息をつき、スマホを閉じた。 「運良く助かった。目の傷も浅い。まったく、あいつ、本当に狂ってる。遥のためにここまでやるとは……彼女が死んでたら、あいつきっと後を追ってたな」 「彼女は死なないわ」 私は低く答えた。 だって、私は見たのだ。縛られた彼女が、宏の苦痛を見て、かすかに笑ったのを。 この女、私が想像していたよりずっと恐ろしい…… 兄はため息をつき、小さな服を取り出した。 「これ、君のために買っておいたんだ。俺、叔父さんになると思ってさ」 私はその小さな服を見つめた。 宏と遥の写真を見たときも、泣かなかった…… 彼のせいで流産したときも、泣かなかった…… けれど今、もう涙が止まらなかった。兄の胸に顔を埋め、子どものように泣いた。 兄は私の髪を撫で、優しく言った。 「大丈夫だ。兄さんがいる……でもな、その子の父親が誰なのか分かったら、俺は絶対にそいつを殺す」 その言葉で気づいた。この世界には、宏がいなくても、私を愛してくれる人がいるのだと。 兄が食事を買いに出たあと、私は入院中に友人たちからもらった贈り物を開け始めた。 その中に、小さなのボックスがあった。中身は、私の大好きなデザイナー・Diskeの作品――アメジストのネックレス。 記憶が確かなら、このネックレスは六億で取引されたが、本人が非売品にしたはずだ。どうして私の手元に? カードを探したが、送り主の名前はどこにもなかった。 首をかしげていると…… ドンッ! 病室のドアが勢いよく開き、宏が飛び込んできた。 怒りに満ちた顔で私に迫り、ネックレスを掴み取って床に叩きつけた。 「こんなガラクタ見てる暇があるのか!貴様、人を殺しかけたんだぞ!」 「……何を言ってるの?」 彼は私の肩を乱暴に掴み、ベッドに叩きつけた。 「遥が聞いたんだ!貴様が裏で電話で指示してたって!本当のことを言え!やったのか!」 その瞬間、すべてを悟った。私は冷ややかに彼を見た。 「そう。遥が『聞いた』のね。それで、私が何を話していたかまでは知ってるの?」 宏は言葉を詰まらせた。 私はかすかに笑った。 「つまり、何も知らないのね。彼女の一言で、私を犯人にしたの? 最初から、あんたは私に何の説明もしなかった。遥とのことも、全部隠して。 それなのに今度は、彼女のために私を疑って、手まで上げるなんて……」 腹部に激痛が走り、顔が真っ白になる。その時、看護師が駆け込んできた。 「嶋谷さん!上原さんがまたショック症状を起こしました!すぐに来てください!」 宏の顔から一瞬で怒りが消え、代わりに焦りと恐怖が広がる。 彼は壁を支えながら立ち上がり、出口へ駆け出した。が、途中で一瞬立ち止まり、振り返って私を見た。 「……もし本当にお前がやったなら、俺たちは終わりだ。 俺は、そんな邪悪な女とは一緒にいられない」 そう言い残し、宏は出て行った。 ドアが閉まった瞬間、私は力が抜け、床に崩れ落ちた。 兄が戻ってきたとき、持っていた弁当箱が床に落ち、叫んだ。 「清芽!」 再び私をベッドに戻した兄は、看護師に詰め寄った。 「どうなってる?!出るときは元気だったろ!」 看護師はおどおどしながら答えた。 「わ、私もよく分かりません。ただ……さっき嶋谷さんが来て、林さんと別れるって言って、その直後に倒れたんです……」 「別れる、だと?」 兄は呆然と呟き、次の瞬間、怒りに任せて病棟を駆け上がった。 ドアを蹴り開けると、宏が遥の病室で、スープを口元へ運んでいるところだった。 「風馬?どうしたんだ……」 バシャッ! 兄は彼の手から器を叩き落とした。 「貴様、清芽を妊娠させた張本人だったのか!」 「はぁ?妊娠……?」