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悲しみの白髪
再婚して一年が経った記念日。朝倉彩葉(あさくら いろは)は花束とプレゼントを持って、夫の五十嵐望(いがらし のぞむ)にサプライズを仕掛け...
Chương (1)
第1章
再婚して一年が経った記念日。朝倉彩葉(あさくら いろは)は花束とプレゼントを持って、夫の五十嵐望(いがらし のぞむ)にサプライズを仕掛けようと、彼が出張中に滞在しているホテルまで行く途中に、交通事故に遭ってしまった。
そして病院で医者から流産の兆候があると告げられてしまった。「朝倉さん、あなたは以前一度人工流産されていますよね。それに腎臓の摘出手術を受けられていて、片方しかありません。今お腹の中にいらっしゃるお子さんは、危険かもしれません」
それを聞いた瞬間、彩葉は驚いた。「先生、カルテを他の方と間違えていらっしゃるんじゃないですか?私、今回初めての妊娠ですし、腎臓摘出手術なんて受けたことはありません」
「間違いないです。これは朝倉さんの過去のカルテです。それから旦那さんがサインしたご家族の手術同意書です」
彩葉がそれを見てみると、半年前に起きた事故の日付であることが一目で分かった。
「あの時、朝倉さんは昏睡状態で、旦那さんが腎臓の臓器提供書類にサインなさっていました。それに、手術が無事に成功するように、お腹の中のお子さんの中絶手術にも同意されましたよ。朝倉さんはご存じなかったのですか……」
彩葉には医者のその後の言葉は一言も聞こえていなかった。
彼女はじっとその書類に力強く書かれているサインを見つめていた。その一画一画しっかりと書かれた筆跡には嫌になるほど見慣れている。
第1話
再婚して一年が経った記念日。朝倉彩葉(あさくら いろは)は花束とプレゼントを持って、夫の五十嵐望(いがらし のぞむ)にサプライズを仕掛けようと、彼が出張中に滞在しているホテルまで行く途中に、交通事故に遭ってしまった。
そして病院で医者から流産の兆候があると告げられてしまった。「朝倉さん、あなたは以前一度人工流産されていますよね。それに腎臓の摘出手術を受けられていて、片方しかありません。今お腹の中にいらっしゃるお子さんは、危険かもしれません」
それを聞いた瞬間、彩葉は驚いた。「先生、カルテを他の方と間違えていらっしゃるんじゃないですか?私、今回初めての妊娠ですし、腎臓摘出手術なんて受けたことはありません」
「間違いないです。これは朝倉さんの過去のカルテです。それから旦那さんがサインしたご家族の手術同意書です」
彩葉がそれを見てみると、半年前に起きた事故の日付であることが一目で分かった。
「あの時、朝倉さんは昏睡状態で、旦那さんが腎臓の臓器提供書類にサインなさっていました。それに、手術が無事に成功するように、お腹の中のお子さんの中絶手術にも同意されましたよ。朝倉さんはご存じなかったのですか……」
彩葉には医者のその後の言葉は一言も聞こえていなかった。
彼女はじっとその書類に力強く書かれているサインを見つめていた。その一画一画しっかりと書かれた筆跡には嫌になるほど見慣れている。
彼女は右後ろの腰あたりに、痛々しく残っている傷口が再びズキズキと痛むような、そんな感覚に襲われてしまった。
しかし、その傷は彩葉が交通事故に遭った時に残ってしまった傷跡なのだと、望がはっきりと彼女に伝えていたのだった。
彼女はかすれた声で言った。「その臓器提供を受けた人は誰なんですか?」
医者は書類をめくった。「榎本花梨(えのもと かりん)さんですね」
それを聞いた瞬間、彩葉は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受け、目の前が一瞬真っ白になってしまった。
昔、望はなりふり構わず一度断られても諦めずに彼女を追いかけて、やっと結婚にこじつけたのだと周りは知っていた。
そして、花梨という女性は望が少年だった頃の憧れの人だった。しかも彩葉と望が一度離婚することになった原因でもある。
この時、突然携帯のバイブレーションの音が数回した。届いたのは望が彼女を騙すために、事前に撮っておいた動画だった。【会議に行ってくる。彩葉のことを想ってるよ】
彩葉はその送られてきたメッセージを見て、突然涙が溢れ、床に落ちていった。
彼女は当時、望と初めて出会った時のことを思い出していた。
彼は五十嵐グループの社長で、彩葉の通っていた大学が客員教授として招いた人だった。そして彼女は西海大学の三年生で、彼のアシスタントを担当した。
その日、大学の講義が終わった後、彼が彼女を呼び止めた。彼はスーツのジャケットを脱ぐと、彼女の腰に巻きつけて、突然生理が来て血がついている彼女の服を隠してくれたのだ。
その後、彼女は彼の服をクリーニングに出して綺麗にしてから返した。ちょうどその時彼は熱を出して苦しんでいて、彼女の手を掴み帰そうとしなかった。
その日から、彼は熱烈に彼女を追いかけるようになったのだ。
あの頃の彩葉は、彼と自分では立場的に差がありすぎると分かっていたものの、片田舎の町から自分の力だけで西海大学に合格し、大学院への推薦ももらっていたことで、ある種の自信を持っていたのだ。
望が一年かけて彼女を追い求め続け、ようやく恋人になれたのだった。
そして付き合って三年。望は彼女のことを目に入れても痛くないほど大切にしてくれた。
彼女が何気なく、「あのネックレス可愛いね」と言えば、その翌日には彼が億もするジュエリーを彼女に贈った。彼女が生理になり辛そうにしていると、かなりの額になる契約もほったらかして彼女のもとへ駆けつけ、生姜湯を作り彼女に飲ませてくれた。付き合いたての頃、彼はベッドで彼女の腰を掴み、「彩葉、愛してる」と囁き、彼女のことを魅力的だと言っていた。
そして、彼は「彩葉、愛してる」と囁き続け、「君はこの世で最高の暮らしが与えられるべき存在なんだよ」と言った。
彼女が大学院を卒業した年、彼女と結婚するためにご先祖を祭る祭壇の前で三日三晩も跪き、また家の掟を破ったため、99回も木の棒で血が床に流れるほど叩かれてしまった。それでも彼は無理に笑って大丈夫だと彼女を慰めていた。
その時、望が心の底から彼女のことを愛してくれているから、彼女自身の理想や夢を諦めても、彼と結婚する意味があると感じたのだ。
周りから彩葉は財閥家に見事嫁入りを果たしたと言われたが、彼女自身は本物の愛を手に入れたと確信していた。
だから、結婚して一年経ってから、彩葉は初めて望には憧れの女性がいて、自分はその女の代役だったのだと知ることになり、また望がその女とキャンドルディナーを楽しむのを目撃してしまった後、彼女は彼に離婚届にサインをさせて、彼から遠く離れていったのだ。
彼女はどんな些細なことでも、自分を無下にするようなら絶対に彼を許すことができなかった。
彩葉が去ってから三か月もせず、憔悴し、すっかりやつれてしまった彼が彼女の家の前に姿を現し、彼女のいない日々など死んだほうがましだと言ってきた。
彼は会社にも行かず、毎日毎日彼女の家の前で待っていた。そして、花梨とは何の関係もなく、彩葉のことを一度たりとも誰かの代わりとして見たことはないと何度も言い張ったのだ。
その頃、彼女はあまり仕事がうまくいっておらず、唯一の肉親である父親が癌を患い、かなり追いつめられた状態で眠れない日々が続いていた。
望は裕福な家庭の御曹司であるのに、毎日彼女の父親のお見舞いに病院に赴き、一言も愚痴をこぼさなかった。
そして父親が亡くなる直前、彼はベッドの前に跪き、必ず彼女のことを面倒見るから、安心してほしいと誓った。
その日、父親は震える手で彩葉の手を望の手に重ね合わせ、安心して永遠の眠りについたのだった。
望が彼女に代わって葬儀を終わらせてくれた後、彼女は彼との再婚に首を縦に振った。
再婚してからのこの一年間、彼は彼女を安心させるために、一日に十数回もメッセージを送ってきた。
しかし、結局どうなった?
この男は裏で、自分の好きな女性に私の腎臓を提供し、惜しまず自分の子供を殺すという選択肢を取ったのだ!
彩葉は体を震わせて泣いた。まだ現状を受け入れられず狼狽える中、望の出張先のホテルまで辿り着いた。
パーティー会場の隅のほうに、望が花梨を抱きしめている姿が目に飛び込んできた。彼女にダイヤモンドが散りばめられた誕生日のティアラをつけさせ、五十嵐家に伝わる大切なブレスレットをプレゼントにしていた。それから、彼自ら彼女にケーキを食べさせている。
彼は言った。「花梨、俺は君と結婚することはできないけど、永遠に俺の中で一番大切な人なんだよ。本当の妻は君一人さ」
望の兄弟たちが二人を囲んでお祝いの言葉を述べていた。望には大変だったなと声もかけているのだ。
「そうだよ、花梨さん、当時朝倉さんの腎臓がぴったり花梨さんの体に適合するんじゃなかったら、兄さんだってあそこまで苦労してあんな女追いかけ回してなかったんだ。仕方ないよな、だって夫という肩書がないと、臓器提供の書類にサインできないんだからさ」
「そうだよ、花梨さんが病気だって分かってから、兄貴はもう相当精神的にまいってたんだよ。一カ月で何キロも痩せちゃったもんだから、俺らもその様子見てて怖かったんだ」
「あの時さ、花梨さんを助けるために兄さんがわざと事故を起こして、さらに手術のために自分の子供まで諦めちゃったじゃないか。花梨さん、兄さんは本当にあなたのことを愛してるんだからね」
この時、彩葉は隅の方にいて、まるで魂を持たない氷の彫刻のように、呆然と立ち尽くしていた。
花梨がトイレに行くと、望は携帯を取り出した。するとすぐに彩葉の携帯が振動した。
彩葉は血の気が引き固まっていた体をようやく少し動かして、携帯を取り出した。
【ごめんよ、彩葉、今日は会議が長引いて遅くなりそうなんだ。君は先に休んで。明日帰ったら今日の埋め合わせをするからさ】
それを見た瞬間、笑いが込み上げてきた。
心臓が誰かに抉り取られるかのように、息もできないほどの痛みを感じたが、涙は一滴もこぼれなかった。
兄弟たちが集まってきて、「兄さん、あの女なんかに気を使ってんの?どうしてさっさと離婚して、花梨さんと結婚しないんだよ?」と言った。
「そうだよ、どうせ最初はさ、あいつが花梨さんにちょっと似てたから、代わりにしてただけじゃん?
しかも、妊娠までさせちゃうなんてさ」
望はここにいる数人をギロリと睨みつけ、グラスのワインを一気に飲み干した。「彩葉のことを、一度だって誰かの代わりだなんて思ったことはない。
もしかしたら、最初は彼女に花梨を重ねて見ていたところがあったのかもしれない。だけど、だんだん彼女のことを本気で愛するようになったんだ。ただ花梨は……彼女のことも手放すことができないんだよ。
彩葉の子供の件は、俺も申し訳ないと思ってる。それに、花梨は体が弱くて子供が生まれないしな。五十嵐家には跡取りが必要だろう。
だけど、彩葉はプライドの高い女性だ……もし、このことを知れば、絶対に俺から離れていってしまう」
そして望は警告するような目つきで周りを見まわした。「お前らしっかり秘密にしておくんだぞ。一生彼女に知らせてはいけないからな!」
ここまで聞いて、彩葉は一歩踏み出そうとした足をピタリと止めた。
彼女は自分のお腹を押さえた。五か月になる子供が、ちょうどお腹を蹴って、彼女の手のひらにその感覚が伝わってきた。
一回、また一回と、まるで何も知らずに無邪気に遊んでいるようだった。
彼女は突然、横にあったドアから駆けだしていった。かなり遠くまで逃げるように走ってきて、ようやく壁に手をついて、悲痛な声で泣き叫んだ。
その日の夜は一睡もできなかった。
そして翌日、彼女は朝早くに、ある三つのことをしに出かけていった--
第2話
まず一つ目。望と再婚するにあたって、念のために望にサインさせていた離婚届を持って、市役所に離婚手続きに行くこと。
二つ目。自分に関する全ての情報を国内から消し去る事。望が私がこの一切を知り、離れていくことを心配しているのであれば、完全に姿を消してしまおう。永遠に自分の居場所を知られてはならない!
そして最後、三つ目。中絶する事。
お腹の中の子供は、まるでそれを予感したかのように、以前よりも動きが活発になった。彩葉は病院の入り口に立つと、心がかき乱された。
しかし、それはある知らない番号から届いたショートメッセージを見るまでだった。
【私は榎本花梨です。お話しませんか】
彩葉は彼女から送られてきた住所を見つめ、その指定された場所に行ってみることにした。
カフェには、綺麗にメイクした花梨が頬を紅潮させて、何気なく手につけたブレスレットを触っていた。「望はあなたと結婚するために、家に逆らって99回も叩かれたけど、家宝のこのブレスレットは手に入れられなかったわ。そして今は、私がつけているのよ」
花梨は視線を上げ、皮肉交じりの笑みを浮かべて言った。「ねえ、朝倉さん、彼はただあなたにこれをあげたくなかっただけよ。私ね、昨日の誕生日パーティーにあなたもいたのを知ってるのよ。あなたがいるのを見ちゃったの。彼が今あなたに少しくらいは愛情を持っていることは知ってるわ。だけど、知っておいてちょうだい、彼の愛をあなたに半分わけてあげたとしても、あなたの分の重さは私よりもずっと軽いってことをね。
彼は長い間私に片思いをし続けていた。昔はいつも彼のことは弟のように思っていたから、恋人とかそういうのは考えられなかったの。でも、今ははっきり分かる。あなたなんかに彼を渡すことはできないってね」
この時、彩葉はただ黙って静かに花梨を見つめていた。
花梨も腹を立てることなく、髪の毛をくるくると指に巻きつけて遊んでいた。魅力的な雰囲気を醸し出すその姿は横を通り過ぎる男を釘付けにさせていた。
「望の家は私の隣よ。小さい頃から私の後ろをついて回るのが好きだったの。彼は十四歳から私に片思いし始めたんだ。彼が少年期に初めて夢精しちゃったのは私を夢に見たからなの。初めての自慰行為の時には私の名前を呼んでたんだから。
それに私のために人生で初めて喧嘩したし、生理で辛い私に初めて生姜湯を作ってくれたの。やったことのない料理を私のために作ってくれたり、それに……」花梨は自分の靴に目線を向けた。「彼が初めて私にヒールの靴を買ってくれた時は、すべての高級ブランドの店を調べ尽くして、この店のに決めてくれたのよ。
彼からそのヒールをもらってからは長いこと、このブランドの靴しか履いてないんだから」
彼女の話を聞いているうちに、彩葉の顔色がだんだんと青ざめていった。
そして突然、彼女は当時彼が自分を追いかけている時のことを思い出した。ある日、彼は彼女を連れて人生で初のハイヒールを買いに連れて行ってくれた。彼は慣れたようにこのブランドの店まで行き、「このブランドのが履き心地がいいんだ」と言っていた。
その時、彼女は驚いたように彼を見つめた。「どうしてそんなこと知ってるの?昔、彼女に買ってあげたことでもあるの?」
すると彼はクスリと笑って、跪き彼女に靴を履かせた。「君が靴を買いたいって分かってから、先に調べておいたんだよ」
あんなに前から、あの男に騙されていたのか。
彩葉の心はその言葉に傷ついていたが、顔にはそれを見せなかった。
「あんた、つまらないのね」花梨はそんな彩葉に不満そうに言った。「ねえ、ちょっとゲームでもしない?望にとって、私のほうが大切なのか、それともそのお腹の中にいる子供のほうが大切なのかさ」
「どうするの?」彩葉はかすれた声で尋ねた。
花梨は笑った。「あんたさ、交通事故に遭ったって言いなさいよ。私は足首を捻って捻挫したって言うから。望が一体どちらに先に返事するか、どっちを先に助けに来るか見てみるのよ。もし、あんたが負けたら、完全に私たちの前から姿を消して、五十嵐望の妻の座を私に譲りなさい」
「じゃあ、あなたが負けた場合は?」
「この私が負けるわけないでしょ!」
彩葉はじっと彼女を見つめた。「いいわ」
彩葉は携帯を取り出すと、望にショートメッセージを送った。【あなた、私さっき交通事故に遭ったの】
勝っても負けても、どちらにせよ自分はもう消えるつもりだ。
それでも……どうなるのか見てみたい。
第3話
二人は携帯をテーブルの上に置いた。そして三秒後、花梨の携帯が鳴り出した。
彼女は笑って、スピーカーをオンにして電話に出た。すると電話越しに望の切迫した声が聞こえてきた。「どこにいるんだ?大丈夫か?今からそっちに行くよ」
花梨は彼を落ち着かせるように言った。「そんなに焦らないで、ただ足首を捻っただけよ。私一人でも病院に行けるし……」
「勝手に動くんじゃない。その場で俺が来るのを待ってるんだ」電話の向こうからは雑音がしていた。「さっき着陸したばかりなんだ。二十分で着く!」
すると花梨は携帯を置き、笑って彩葉のほうへ視線を向けた。「あんたの負けね」
彩葉はきつく唇を閉じ、手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめていた。
そして花梨はある小切手を彼女の目の前に出してきた。「十億よ。あんたの腎臓代だと思って。貸し借りはなしよ」
そう言い終わると、彼女は立ち上がり去っていった。そして階段を降りる時にわざと足を踏み外して、ドタンッと地面に倒れてしまった。くるぶしの辺りがすぐに赤く腫れあがった。
そしてたった十分で、望の乗る車が急ブレーキを店の前でかける音が聞こえてきた。
花梨が道端に座り込んでいるのを見て、彼は焦って目を赤くさせ、彼女を抱き上げた。まるで落としただけですぐ割れてしまう宝玉のように優しく扱っていた。
彩葉は泣きたくなどなかった。しかし、まるで涙自身が意思を持っているかのように、ポタリ、ポタリとテーブルの上にこぼれていった。
こうなることなど目に見えて分かっていたというのに、彼女の心はやはり誰かにナイフで刺されたかのように、ズキズキと痛み悲鳴をあげた。
車に乗り込む直前、花梨は後ろを振り返り、挑発的な視線を彩葉に投げつけてきた。
彩葉はカフェを出ると、望が買ってくれた靴を脱いでゴミ箱の中に捨て、裸足のまま一歩一歩病院へと向かった。
アスファルトの道を裸足で歩くと、足の裏が破けて血が滲み、道の上に血でできた足跡を残していった。
今回、お腹の中の子供はとてもおとなしかった。
手術の時、医者が何度も彼女にその意向を尋ねた。彼女は下唇をきつく噛みしめ、瞳を涙で滲ませていた。張り裂けそうな胸の痛みが止むことはなかった。
手術台から降りると、彼女の子供は事前に用意されていた冷たい透明な棺の中に収められ、葬儀屋に一時的に保管された。
彩葉が去る日、彼女は子供の葬儀を行った。
二時間後、彩葉のもとにようやく望から電話がかかってきた。
「彩葉、大丈夫だったか?さっき飛行機の上だったから、メッセージを見ることができなくてさ、本当にごめんよ。今さっき着陸したばかりなんだ、今からすぐにそっちに--」
「その必要はないわ」彩葉は、焦って心配しているふりをしている彼の言葉を遮った。「私は大丈夫だから、あなたは自分のやることをやってちょうだい」
電話の向こうは数秒黙り込み、望の後悔するような声が聞こえてきた。「ごめんよ、彩葉。悲しませてしまっただろう。仕事が片付いたら、今夜はしっかり君に付き合うからさ。記念日の埋め合わせをさせてくれよ」
そして少しして、花梨からショートメッセージが届いた。【私が彼を引き留めたら、数日家に帰らないんじゃない?】
それから三十分後、望からのメッセージが届いた。【彩葉、本当にごめん。海外のあるプロジェクトでちょっと問題が起きてさ、必ず俺がその対応をしないといけないんだよ。君は自分と子供のことをしっかり面倒見るんだぞ。俺の帰りを待っててくれ、愛してるよ】
彩葉はその【愛してるよ】という言葉をじっと見つめ、唇をぎゅっと結び、皮肉に染まる笑みを浮かべた。
この時、ドアをノックする音が響いた。
望の秘書が何人も引き連れてやって来たのだ。「奥様、ここにあるのは、五十嵐社長からの記念日の贈り物です」
さまざまなブランド品に、ジュエリーがそこに置かれた。そしてすぐ、リビングにはそれで小さな山ができた。
彩葉はその間ずっと一言も発しなかった。その贈り物を確認するような気持ちにもなれなかった。
この日の夜、彼女はまた夜が明けるまで座っていた。
それからの数日、花梨から絶え間なくメッセージが届いた。彼女は自分がインスタにアップした内容を全てスクリーンショットに撮って送りつけてきた。
望が花梨をおんぶして海辺をゆっくりと散歩しているシーン。彼女を連れて山頂に行き流星を眺め、願い事をしているシーン。二人一緒に陶芸工房へ行って、お揃いのコップを作っているシーン……
【これね、全部望が昔から私と一緒にやってみたかったことなんだ。今やっと彼の願いが叶ったわね】
彩葉はさっき見たシーンは、望と一緒に全てやったことを思い出した。
その時、彼女は彼の懐に抱かれ、キラキラと輝く瞳で彼を見上げた。「どうしてこんなにロマンチックなことを考え出せるの」
望は彼女を見つめ、意味ありげな瞳で言った「君といろいろロマンチックなことをしておけば、年を取った時に懐かしむことができるだろう」
その時のあの彼の意味ありげな眼差しは、一体誰のためだったのか?
そして花梨はある動画を送りつけてきた。それは望が酒にべろべろに酔っぱらっている様子で、彼女の膝に頭を乗せて、酔って朦朧とする中、愛情深い眼差しでこう言った。「花梨、俺、やっと君と一緒になれたよ。とっても幸せだ……」
彼のその眼差しと口から出るその言葉は、まるで新婚の夜そのものだった。
そしてその新婚の夜の彩葉はというと、幸せいっぱいで、自分のことを世界で一番愛してくれて、その愛に応える意味のある男と一緒にいられると思っていた。
彩葉は手を震わせ、突然思いっきり携帯を壁に叩きつけた。
彼女は顔を両手で覆い、床にしゃがみ込むと、膝を抱いて悲痛な泣き声をあげた。
望、どうしてあんたが幸せになれるというの。幸せになる資格なんてあんたにあるのか?
彩葉は力強く顔に残る涙を拭い、携帯を拾い上げて、花梨が送ってきたメッセージを全てコピーして保管した。
そしてあの日、カフェで話した内容の録音も、ペン型のボイスレコーダーに移しておいた。
彼女がここを去るその日、彼らへの贈り物の一つとして、一緒にあの男に送ってあげるのだ。
第4話
それから数日後、彩葉は荷物をまとめ、過去に望からもらった全てのものを片付けてしまった。
山積みになった、あの高価なジュエリーやバッグたちを見つめ、彩葉はオークションに出品して売ることに決めた。そして得られたお金は全て児童福祉センターに寄付することにしたのだ。
物を運び出し終わったその日の夜、望は急いで家に戻ってきた。そして彼女を抱き上げてソファに座らせると、彼女の前に跪いた。
すると、ボディガードたちが彼女がオークションで売ろうと考えていたジュエリーを再びローテーブルの上に乗せた。
望は彼女の手にキスをして、心配した様子で言った。「一体何が起こったんだよ、彩葉。ここにあるものは俺が君に贈ったものだろう。どうしてオークションで売られていたんだ?」
この時の彼は本気で心配しているようで、彩葉は数秒彼を見つめてから視線を下に落とした。「別に、なんか急に好きじゃなくなっちゃって、オークションに出してそのお金を子供たちに寄付しようかなって」
望はそれを聞いてすぐホッと胸をなでおろし、立ち上がりソファに腰かけて、彼の膝の上に彩葉を乗せた。
「驚かせないでくれよ、寄付をしたいなら直接俺に言えばいいのに。ここにあるものが嫌いなら、また新しいのを買ってあげるからさ。だけど、さすがにオークションに出すのはどうかと思うぞ」
彼は彼女の鼻を突っついた。「今日、ここにあるもの全部オークションでかなりの金額で競り落としてきたんだからな」
彩葉は彼の瞳を見つめた。「出張に行ったんじゃなかったの?」
望はニコリと微笑んだ。「飛行機を降りてすぐにオークション会場に向かったんだよ。君に何か買おうと思っててさ」
彩葉の携帯が振動し、花梨からあるネックレスの写真が送られてきた。【これってあなた達が付き合い始めた記念に買ったネックレスでしょ?私、とっても気に入ったわ。望がくれたのよ】
彩葉は拳を固く握りしめ、目の前にある山積みのジュエリーに目を通した。「私たちが付き合い始めた記念に買ったネックレスは?」
それを聞いた瞬間、望の瞳が動揺した。「遅かったんだ。あのネックレスは他のやつに取られちゃってさ」
彼はぎゅっと彼女を抱きしめた。「彩葉、もし君があれを気に入ってるなら、また他に何か買うよ」
「いらないわ」彩葉はしっかりと目を閉じた。彼の中の愛はこんなにはっきりとしているのだ。しかし、彼女を騙す戯言を口を開くたびに吐き出すのだ。
彼女は彼のその演技に付き合いたくなかった。「私、疲れたわ。ちょっと休む」
そして彼女は急いで二階に上がり、望が入って来られないように内から鍵を閉めた。
ドア越しに、望が彩葉の様子を尋ねる声が聞こえてきた。「ここ数日、一体何があったんだ?妻はなんだか不機嫌そうだが」
使用人は恐る恐る答えた。「旦那様、何も起きていません。しかし、確かに奥様の気分はすぐれないようで、あまり食欲もないようです。ここ数日あまり召し上がっておられません」
「そんなに重要なことをどうして今まで黙っていたんだ?」望のその声は不機嫌そうだった。「妻のことは、何よりも優先するべきだ。今後、いつ如何なる時も、俺に報告するように。
キッチンには何がある?俺が彩葉の好きなものを何か作って来よう」
その声と足音がだんだん遠ざかると、彩葉は耳を塞いで布団の中に潜り込み、瞳に溜まった涙が流れ落ちた。
もう二度と、このような偽りの愛の言葉など聞きたくない。
夕食は豪勢だった。望が作った料理はどれも、彼女の好みに合わせた味付けだった。
しかし、彼女はたった一口食べただけで、彼が初めて料理をしたのは花梨のためであるという言葉を思い出した。それから、その花梨のためにした望の数多くの「初めて」を思い出し、何度もえずいてしまった。
それを見た望はすぐに駆けつけてきた。「どうしたんだ彩葉、口に合わなかったのか?」
彼女が生理反応で目に涙を浮かべているのを見て、彼も焦り、その目を潤ませて、サッと彼女を抱き上げた。「もしかして、妊娠中だからだろうか?病院に連れて行くよ」
彩葉がそれを拒否しようと思った瞬間、彼の携帯が鳴り響いた。
すると、電話の相手である花梨が誘惑するような声で話し始めた。「望、あなたに会いたい。今あなたのお家の前にいるのよ。出てきてみて、ちょっとサプライズがあるんだから--」
その瞬間、望の体が一瞬こわばり、彩葉は彼が唾をゴクリと飲み込むのが見えた。
そして次の瞬間、彼は彩葉のほうへ向いて申し訳なさそうにこう言った。「本当にごめん彩葉、会社でちょっと急に処理しないといけないことができたんだ。運転手に頼んで病院まで君を連れていってもらうからね」
そう言い終わると、彼は彩葉の返事を待たずに、サッと彼女に背を向けてせかせかとその場を去っていった。
彩葉はそんな彼の後ろ姿がどんどん遠ざかっていくのを見つめていた。
彼女は暗い隅のほうに立ち、遠くであの黒い車のドアが開き、セクシーな赤いキャミソールワンピースを着た花梨の手が伸びて来て、望をその中へ引き込んでいくのを見ていた。
そしてすぐに、車は規則正しく小刻みに振動し始めた。
彩葉はただ、全身の血液が凍り付いてしまうような感覚だった。
少し前に、彼女のことは最優先すると言っていた男が、この時、吐き気がして辛そうにしている妊娠中の妻を置いて、他の女と家の前でカーセックスをしている。
彩葉は低く笑い声を出し、大粒の涙をこぼし始めた。
彼女は相変わらず、その場に立ち尽くして彼らの様子を見つめていた。雪交じりの夜風が彼女の美しい髪を乱し、涙を乾かしていった。
第5話
そして夜、彩葉はまた花梨からのショートメッセージを受け取った。【あなたの旦那さんってね、毎回私の上に跨ると、今までに経験したことのない快感を覚えるんですってよ】
そして望はというと、夜中にようやく家に帰ってきた。
そして翌日の朝、彼は彩葉が沈んだ様子なのを見て、どうしても彼女を気晴らしに連れ出すと言ってきかなかった。
「郊外に買った新しい別荘を見に行こうよ。あそこは自然に囲まれていて空気が新鮮だから、今後、君が子供を産んで一カ月くらいはゆっくりそこで産後の体を休めたらいい。君にも子供にも良いだろう」
車を豪華な別荘の前に止め、望は彩葉の体を支えて車から降ろした。
数歩しか歩いていない時に、隣の家の門が開かれた。すると花梨が大型のアラスカ犬を連れて中から出てきた。
「あら、望じゃないの、偶然ね?」彼女は彩葉を見て笑った。「今後は私たちお隣さん同士ね」
望が彩葉を支えるその手に急に緊張が走り、笑って言った。「この人は榎本花梨さん。小さい頃に知り合ったお姉さんなんだよ」
花梨は意味深な笑みを浮かべた。「私と望はね、小さい頃から関係がとても良かったのよ。この別荘は私たちが一緒に購入しようって約束してたの。あなた達の家の内装も私が考えてあげたのよ」
すると望が急いで弁明してきた。「花梨姉さんは、インテリアデザインを学んでいたんだよ」
彩葉は口角を上げたが、心が底の見えない暗闇に落とされたように感じた。
もし、この二人の関係を知らなければ、子供を産んだ後ここで静養している間、望はこの榎本花梨とまさにここで浮気を楽しむつもりだったのか?
彼女は怒りで指先を小刻みに震わせ、望を押し退けて彼に背を向け去ろうとした。
数歩進んだところで、後ろから花梨が突然叫ぶ声が聞こえてきた。彼女が犬を繋ぐリードを離し、犬が彩葉をターゲットに素早く飛びかかってきたのだ。
花梨は驚いて呆然としたふりをして、犬を止める素振りも見せなかった。
彩葉は犬が怖いので、思わず後ろに数歩後退した。
「彩葉!」
望は驚いた声をあげて、彼女を引っ張ろうと手を伸ばしたが、犬のほうが早かった。
その犬はまっすぐに彩葉の腹部に突進してきて、数十キロがある巨体が彼女を地面に押し倒し、喉元から威嚇する鳴き声を発してた。
極限の恐怖を感じ、彩葉は一言も声を発することができなかった。
そして次の瞬間、その犬が口を開き直接彩葉の肩に噛みついてきたのだ。一瞬で真っ赤な鮮血が溢れ出した。
彩葉は悶える声を出し、顔色を真っ青にさせた。彼女は自分の体から生温かい液体が流れ出るのを感じた。
「彩葉!」
望は焦って目を真っ赤にさせ、直接彩葉の上に覆いかぶさっていた犬を蹴り倒し、血まみれになっている彩葉を抱きかかえて車に乗り込んだ。
「早く病院へ!」彼は怒鳴り声をあげながら、両手を震わせる彼女を抱いていた。彼の手も体も彼女の赤い血で染まっていった。
望は自分の顔を彩葉の血の気の引いた冷たい顔に当てた。「彩葉、心配しないで。君は大丈夫だからね……」
彩葉はこの時、自分の顔が濡れるのを感じた。それは望が流した涙だった。
朦朧とする中、彼女は大学四年のあの年に戻ったような気がした。彼女はインターン先の会社を自分で探すと言い張り、面接に行った時、質の悪いセクハラ面接官に当たってしまったのだ。
その日、かなり慌てていた彼女は三階から一気に飛び降りて、地面に叩きつけられ血まみれになったのだ。
望がちょうどその場に駆けつけ、その日彼女を病院へ連れて行く時、今のような様子だった。
それから、彼女に卑猥なことを企んでいたその会社の社長は彼女の目の前で全身血だらけになるまでボコボコに殴られ、アソコは使い物にならなくなり、会社は倒産したのだった。
彩葉は意識を失った。
そして再び目を覚ました時、彼女はすでに手術室から出るところだった。望は彼女を見るとすぐに駆け寄ってきて、ぎゅっと彼女の手を握りしめ、ずっと彼女に付き添っていた。
そして病室に到着してから、彼は医者に尋ねた。「彼女はどうしてこんなに血を流したんですか?妻の様子は?大丈夫ですよね?」
医者は不思議そうな目つきで彼を見つめた。「彼女は中絶した後、きちんと休んでいなかったからでしょう--」
その時、病室のドアが開かれた。
すると、花梨が花束を持って入り口に立っていて、後悔した様子だった。「ごめんなさい、望、謝りに来たわ」
望はぎゅっと唇を閉じ、彩葉が寝ているベッドの布団を整えた。「彩葉、ちょっと出かけてくるからね」
第6話
望と花梨の二人が出た後、医者はいくつか注意だけして、離れていった。
病室のドアは開いていて、廊下にいる二人は声の大きさを抑えてはいたものの、彩葉には彼らの会話がはっきりと聞こえてきた。
望は花梨を慰めていた。「花梨、泣かないで。君がわざとやったんじゃないってことくらい分かってるからさ。君が泣くと、俺は心が張り裂けそうだよ」
花梨は落ち込んだ声で言った。「望、私危うく彼女とお腹にいるお子さんまで命の危険に晒すところだったわ。私耐えられない。あなたに会わせる顔もないわ。暫くは私のところに来ないで、これを私への罰だと思って」
「それは俺を罰しているようなものだろう!」
彩葉は花梨の驚くような声と、望の切羽詰まった様子の声を聞いた。「俺はもう一日だって君と離れていたくないんだよ、花梨。もし君が申し訳なく思ってて、自分に罰を与えたいっていうなら……そっちから俺に十分間キスしてくれよ」
彩葉は両手で布団の端を手の関節が真っ白になってしまうほどきつく握りしめていた。
もうすでに麻痺してしまった心が、この時、やはりまた辛いと悲鳴をあげていた。
そして十分経ってから、望が病室に入ってきて、彩葉の手をぎゅっと握って辛そうな目で言った。「彩葉、気分はどう?どこか調子が悪いところはない?俺があの時とっさに反応できなくてすまなかった。でも、君と子供が無事でよかったよ。もし君たちに何かあれば、俺は一生自分を許せないから。
花梨さんもわざとじゃなかったんだ。彼女がさっき、今後はあの犬が出てこないようにするって約束してくれたよ。彼女を許してやってくれないか?頼むよ」
彩葉は後から来る恐怖と不安に満ちた彼の瞳を見つめ、彼が花梨を庇う言い訳を聞き、最後に彼の少し赤く腫れあがった唇に視線を落とした。
この瞬間、彼女はただただ、皮肉を感じていた。
「もう休むわ」彩葉は手を引っ込めて、彼に背中を向けた。
望は彼女の背中に手を伸ばし、軽くポンと叩いて、彼女の父親から教えてもらった子守歌を口ずさんでいた。
彩葉の目には突然ドバっと涙が溢れ出してきた。悲しみと血の気が引く思いで彼女は泣いていた。
それからの一週間、望は病院へ足繁く通い、彩葉の傍にいた。一日三食、彼は辛抱強く彼女に一口でも多く食べるように元気づける言葉をかけていた。点滴をする時には、点滴剤を温めるように手で包みこみ、夜中に彼女が寝返りを打つたびに、瞬時に目を覚まして彼女の様子を確認した。
そして周りは、彼女はきっと前世で良いことをしたのだろう、だから、こんなに優しい夫を見つけられたのだと囁いていた。
しかし、彩葉は始終黙って窓の外を見つめるばかりだった。
望はそんな彼女の姿を見て、きっと妊娠中だから彼女はこんな様子なのだろうと勘違いし、明らかに心配する様子を見せた。
そして退院の日、彼は彼女を連れて海に気晴らしに行こうと提案した。
高速に乗っている時、花梨が電話をかけてきて、恐怖が混じった泣き声で言った。「望、助けて、私拉致され--」
その言葉を聞いた瞬間、望は急激に車の速度を落とし、緊急レーンに駐車した。
そして電話の相手が男の声に変わった。「五十嵐望、こいつを助けたかったら、一人で西郊外にある倉庫に来い」
望は怒りに満ちた声で叫んだ。「すぐに行く!彼女に指一本触れるな!」
言い終わると、彼は助手席にあるドアまで手を伸ばして開けると、震える声でこう言った。「彩葉、彼女を助けに行かないと、君は自分で帰ってくれ」
彩葉は唇を噛みしめ、静かに車を降りた。
そして次の瞬間には、望の車が視界からあっという間に消えていった。
彩葉はしかたなく緊急レーンに沿って歩いていた。車の流れとは反対方向の車線を歩いていて、結局警察が駆けつけて来て、彼女を市内に連れて行ってくれたのだった。
そして車を降りてすぐに病院から電話がかかってきた。「朝倉彩葉様でしょうか?あなたの旦那様が重症を負い、命の危険にあります。今すぐに病院までお越しください」
それを聞いて彩葉は大きな衝撃を受け、一瞬にして頭の中が真っ白になってしまった。
彼女が病院に駆けつけて来た時、病院はすでに危篤通知を出していた。
花梨が全身汚れた状態で椅子に座り、両目を真っ赤に泣き腫らしていた。
看護師が慌てて中から出てきた。「患者さんはO型です。病院にはO型の血が不足しています、どなたかO型の方はいらっしゃいませんか?」
彩葉が立ち上がる前に、花梨がすでに口を開いていた。「私、今年腎臓移植手術を受けたばかりですので、献血ができないんです!」
彼女は彩葉を押した。「あなたもO型よね、早く献血に行って!」
第7話
彩葉は信じられないといった表情で花梨のほうへ顔を向け、怒声を浴びせた。「あんたねぇ、望はあんたを助けるために、今こんな状態になってるのよ!」
「だから何だって言うのよ!?それは彼が望んでやったことでしょ?望が起きてたって、私から献血してもらうなんて、私が可哀想で拒否するに決まってるでしょ!」
彩葉は花梨の瞳の底に隠れた冷たさをはっきりと感じ取り、突然何も言えなくなった。
これが望が自分の命を投げうってまで愛した女だというのか。この瞬間、彼女は彼がそこまでする価値などないと感じた。
彼女は看護師のほうを向いた。「私の血を使ってください!」
彩葉は看護師と一緒に献血室に向かった。少しして、冷たい注射針が静脈に刺さった。
200cc……400cc……600cc……
看護師が止めに入った。「すみません、お顔が驚くほど真っ青になっていらっしゃいますよ。もうやめたほうがいいです!」
彩葉は全身が冷たくなるのを感じ、目の前が暗くなってきたが、それでも意地になって首を横に振った。「まだ大丈夫ですから」
彼女は望のことをいくら恨んでいたとしても、目の前で黙って彼が死ぬのを見ているわけにはいかなかった。
父親の世話をしてくれた恩もあるし、彼女が八年間彼との間に培ってきた愛情に区切りをつけるためでもあった。
望、これがあなたにできる……最後のことだよ。
彩葉は意識を失った。そして再び目覚めた時に、望は助かり、ICUに入ったという知らせが聞こえてきたのだった。花梨はそのICUの入り口を死守して一歩も離れようとしなかった。
彩葉は病院に二日間入院して、退院する日には望はもう一般病棟に移っていた。
彩葉は彼から電話を受け取った。電話越しに彼の強がっているがやはりまだ弱っている声が聞こえてきた。【ごめんよ、彩葉。アハリアのプロジェクトで問題が発生して、急遽飛び出してきたものだから、君に一言告げる暇がなくて。俺は今到着したばかりなんだ、この件が終わったら君のところに戻るからね】
そして彼はアハリアの空港にいる動画を送ってきた。
彩葉はそれに返事はしなかった。
一週間後、彩葉が庭で彼と二人で植えた薔薇を綺麗に片付けている時、望がちょうど帰ってきた。
そして地面に散らかった花の残骸と、すでに解体されたブランコを目にして、望は驚き、焦って彼女の元へ駆けつけて手を引いた。
彼が近づくと、彩葉は彼の真っ青になった顔を見て、体からは微かに血の匂いがするのに気づいた。
しかし、彼はなんとか体調が悪いのに耐えて、彼女が泥だらけになっているのも気にせずに抱きあげた。
そして次の瞬間、彼は驚いた。「彩葉、どうしてこんなに軽いんだ?」
彼はかなり心配した様子で彼女を近くにあったベンチに座らせた。「なんで俺が君に作ってあげたものを解体しているんだ?もしかして、あの高速でのことをまだ怒っているのか?
ごめんよ、彩葉、あの時はすごく焦っていたんだ。花梨さんは小さい頃から俺のことをよく面倒見てくれててさ、彼女に何かあるのを見過ごせなかったんだよ。君は妊娠しているし、俺と一緒に行けば、危険な目に巻き込まれるかと思って。
それから、アハリアでも仕事でトラブルがあって、すぐに行かなくちゃならなくなったんだ。だから、すぐに君のところへ謝りに来ることができなかったんだよ。
彩葉」彼は彩葉の冷たくなった手を掴み、自分の頬に当てた。「許してくれるか?もう二度とこんなことはないって誓うからさ」
彩葉は静かに彼の演技を見守ると、ゆっくり手を引っ込めた。「別に怒ってないわ。これはただ好きじゃなくなっただけ」
彼女は立ち上がると家に入っていった。望も彼女の後に続いた。
そして家に入った瞬間、リビングにあった彩葉の物がたくさんなくなっていることに気づいた。
彼はギクリとして、すぐそばにある棚に目を向けると、カレンダーのある日付に赤く丸がつけてあった。
その日付は今日から三日後だ。
彼は後ろから彼女を抱きしめた。「彩葉、三日後、何か大切な日だったっけ?」
「ええ、とても重要な日よ」
彩葉は彼を押し退けて、彼のほうへ振り返り目を見つめ、何を考えているのか分からない表情になっていた。「三日後、分かるわ」
懐から彼女の温もりが再び消え失せ、望は心の中に得体の知れない不安を感じていた。そして、引き続き彼女に質問しようとしたその瞬間、携帯がまたいつものように鳴り響いたのだった。
その電話の向こうは、やはり花梨で、怒った声で言った。「望、私を拉致した奴らに調べがついたわ!」
第8話
そして望は再び急いで去っていった。
彩葉は彼が去ろうが残ろうがどうでもよかった。ただ黙々と自分の荷物を整理して、屋敷にある自分に関係するものを跡形となく、消し去っていった。
二人で共有している記憶に関するもの。大学時代に彼が学校で広まる噂を消し去るために、送ってきた99通のラブレター。初めてのデートで街を歩き回った時に贈ってくれた彼女のお気に入りの髪飾り。街中で一緒に撮ったプリクラ……以前は彼女がとても大事にしていた宝物のようなコレクションたちが、今やすべて段ボールの中に押し込まれている。そして、それは一つずつ外のゴミ捨て場に彼女自ら運び出していった。
最後のゴミを捨てた後、彼女が薄暗い街灯の下に立っている時、突然空からハラハラと雪が舞い降りてきた。
彼女は空に顔を向けて、雪が顔に落ちる冷たさを感じていた。
そしてふいに、望が初めて彼女の家の下に来て、復縁してほしいと懇願してきた情景が目に浮かんできた。
その日は激しく雪が降っていて、望はただコートを着て、彼女の家の下で昼から空が暗くなり、また深夜になるまでずっと立っていた。
その日、彼女は上から彼を見下ろして、一体どのくらい持ちこたえられるのか見てみたいと思っていたのだ。
彼は三日三晩立ち尽くし、最後には高熱を出して肺炎にかかり、入院することになった。
彼は以前、そのように愛情深く装い、彼女に戻ってきてほしいと懇願した。深い愛情というものは、結局はただのドロドロした偽りの愛情劇だったのだろう。
雪の結晶が彼女の瞳に落ち、解けて涙へと変わった。
彩葉はその場に長い間立っていて、ようやく帰ろうと振り向いた瞬間、頭に麻袋をいきなり被せられてしまった!
そしてすぐに頭に激痛が走り、彩葉は完全に意識を失ってしまった。
次に目を覚ました時、彼女はまだ麻袋の中に入れられていた。手足をきつく縛られ、口もしっかりと塞がれている。
そして彼女は少し聞き慣れた声を聞いた。「五十嵐社長、捕まえました。こいつが榎本さんの元夫から指示されて、彼女を拉致した犯人です」
五十嵐望!
「うーうー--」彩葉は目を見開き、狂ったように大きくもがき始めた。
望は冷たく言い放った。「縄を解け、よくもそんな度胸があったもんだな。俺の大事な人にまで手を出すとは!」
ボディガードは「はい」と応え、彼女のほうへと近づいていった。
腰をかがめて縄を解こうとした時、花梨がそれを制止した。「もういいわ。私、全然そいつの顔なんて見たくないもの。
今回拉致されたのは私だけど、怪我をしたのは望のほうよ。この悪人、今日は私が教訓を与えてやるわ!だけど、直接その女が血まみれになるのは見たくないわ」
麻袋の荒い網目から透けて、彩葉は花梨が鉄の棒を持ち、冷たく笑いながら自分に近づいてくるのが見えた。
この時、彩葉は全身が凍り付いた。
今日この拉致事件は、全て花梨の自作自演であるとようやく理解できた。彼女はこの麻袋の中にいるのが彩葉だということを分かっているのだ!
彩葉はさらに激しくもがき始めた。しかし次の瞬間、鉄の棒が手加減なく彼女に襲いかかってきた。
彩葉は悶える声をあげ、冷や汗が流れ落ちた。
鉄の棒はひたすら彼女に振り下ろされ、一回、二回、三回……と、一体どれくらいの間殴られていたか分からない。そして花梨の甘えるような声が伝わってきた。「望、もう疲れちゃった。代わりにこいつを叩いてよ。99回殴ってやらないと気が済まないわ。残り半分はあなたに任せるわね」
「分かった」望は花梨を溺愛する声で答えた。
そしてすぐ、振り下ろす勢いが増した鉄の棒が再び彼女を襲い、ボキッと、彩葉の骨が折れる音が響いた。
そして彼女は完全に意識を失った。
そして次に目覚めた時には、望が最後の一撃を彼女に向けて振り下ろすところだった。その後、あの血まみれになった棒を適当に地面に放り投げた。
彼女はすでに息絶え絶えで、意識は朦朧としていた。望の優しい声が異常なまでにはっきりと聞こえてきた。「これで気が済んだかな?」
「足りないわ!」花梨は未だ不満そうにしていた。「あいつら、あなたにあんな重症を負わせるほどにひどく殴ってきたのよ、私とても胸が苦しいわ」
「雪が降ってるし、そこら辺の川にでも投げ捨てて魚の餌にしよう」彼はボディガードに言いつけた。「死なせるなよ」
彩葉は這って起き上がろうとしたが、すぐに勢いよく蹴られて氷のように冷たい川の中に落ちてしまった。
川に落ちるその瞬間、望の声が聞こえてきた。「寒いし、もう帰ろう。さあ、手を温めてあげるよ」
冷たい川の水が彩葉の口と鼻から侵入し、肺へと向かってきた。
冷たい--
彩葉の呼吸が止まった。
そして目を覚ました時には病院にいて、ベッドの横で看護師が彼女の点滴を交換しているところだった。
看護師は驚き喜びの声をあげた。「やっと目を覚まされましたか?気分はいかがですか?あの日、助けられて病院に運ばれた時はとても危ない状況でした。あの黒い服の方はお金だけ置いて帰っていったんですよ。ここ数日もご家族の方はお見舞いにも来ないし--」
彩葉は窓の外の太陽の光を見つめて、暫く経ってからようやく反応できた。
彼女は看護師にお礼を言い、制止を振り切って、点滴の針を抜き取り家に帰った。
携帯は依然としてローテーブルの上に置かれていて、そこには三つのメッセージが届いていた。
一つ目は望からのだった。【彩葉、ちょっと数日用事があって、帰れないんだ。君は家で子供とゆっくり休んでるんだよ。何かあったら、いつでも俺に連絡してくれな。一段落したら、休暇を取って君に付き添うからね。愛してるよ】
彩葉は皮肉の笑みを浮かべた。
口では愛しているとぬかしている男が、自ら私を半殺しにするまで殴ったのだ。しかも、私の行方も知らないのか。
そして彼女はサッとこのメッセージの下を見ていった。
【朝倉彩葉様、あなたに関する情報はすでに消去する手続きが完了いたしました】
【朝倉彩葉様、離婚は無事成立いたしました。確認されたいのであれば、市役所まで離婚証明の発行をしに行かれてください】
そのメッセージを見た瞬間、彩葉は歓喜のあまり涙を流した。
やっとだ、これでようやく五十嵐望から離れることができる。今後の人生はこの男とは一切関わる必要がないのだ!
市役所から戻り、彼女は花梨が挑発してきたメッセージとペン型のボイスレコーダーをテーブルの上に置いた。
そして、彼女は葬儀屋に電話を入れた。「子供のあの棺を五十嵐家の邸宅へ送ってください」
彼女は邸宅の住所も送った。
最後に、望へ一つのメッセージを送った。【今夜八時に、あなたが永遠に忘れられないサプライズを用意したの。絶対に帰ってきてね】
全てを終え、彩葉はスーツケースを持ち、一度も振り返ることなく去っていった。
彼女は埠頭まで来ると、転売屋から買った船のチケットを片手に、船に乗り込んだ。
船の汽笛が鳴り響き、岸辺のビルがどんどん遠ざかっていった。目の前には際限のない大きな海が広がっている。
海風が自由気ままに彼女に吹き付け、カモメが空を旋回し頭の上をかすめて遠くへ飛び去っていった。
そして彩葉もこれから新たな世界へと飛び立つのだ。
そこには無限の可能性が広がっている。五十嵐望はもう存在することはない。