過去から抜き出した私

Đang tải thông tin quảng bá...

過去から抜き出した私

GoodNovel Hoàn thành

自分の研究成果が、夫の留学経験のある後輩――仲程雲雀(なかほど ひばり)に盗まれたと知った葉山芙美子(はやま ふみこ)は、彼女を告訴した...

Chương (1)

第1章

自分の研究成果が、夫の留学経験のある後輩――仲程雲雀(なかほど ひばり)に盗まれたと知った葉山芙美子(はやま ふみこ)は、彼女を告訴した。 法廷で対峙したとき、夫――陸川夕星(りくがわ ゆうせい)は雲雀の証人を担当し、多額の弁護費用まで負担して守ろうとしていた。 一審の判決は、芙美子の敗訴だった。 法廷を出た後、夕星は彼女を見つけ、冷たい口調で言い放った。 「芙美子、雲雀はもう一編の論文を発表すれば、海外の企業に応募できるんだ。同じ貧しい出身なら、その機会の貴重さは理解できるだろう?」 芙美子は唇を噛みしめ、声を震わせて反論した。 「機会?彼女が帰国した時、あなたはわざわざ平安市のポジションまで手配してあげたでしょう。それでもまだ、彼女の方が私より『機会』を必要って言うの?」 夕星は鋭く遮った。 「雲雀は俺の恩師の娘で、俺の後輩だ。彼女を助けるのは当然だろう」 第1話 自分の研究成果が、夫の留学経験のある後輩――仲程雲雀(なかほど ひばり)に盗まれたと知った葉山芙美子(はやま ふみこ)は、彼女を告訴した。 法廷で対峙したとき、夫――陸川夕星(りくがわ ゆうせい)は雲雀の証人を担当し、多額の弁護費用まで負担して守ろうとしていた。 一審の判決は、芙美子の敗訴だった。 法廷を出た後、夕星は彼女を見つけ、冷たい口調で言い放った。 「芙美子、雲雀はもう一編の論文を発表すれば、海外の企業に応募できるんだ。同じ貧しい出身なら、その機会の貴重さは理解できるだろう?」 芙美子は唇を噛みしめ、声を震わせて反論した。 「機会?彼女が帰国した時、あなたはわざわざ平安市のポジションまで手配してあげたでしょう。それでもまだ、彼女の方が私より『機会』を必要って言うの?」 夕星は鋭く遮った。 「雲雀は俺の恩師の娘で、俺の後輩だ。彼女を助けるのは当然だろう。 もういい、この件はそれで決まりだ。雲雀は法廷で怖い思いをして、さっきまで泣き続けていたんだ。これから彼女の元へ向かう」 そう言い終えると、夕星は芙美子の肩を強くぶつかるようにすり抜け、その場を去っていった。 芙美子の喉が詰まった。 結婚して五年、これほどまでに冷たい態度を取られたのは初めてだった。 角を曲がった先で、夕星が雲雀を優しく抱きしめ、慰めている姿が目に入った。 「もう大丈夫だ、すべて任せておけ」 その言葉は、まるで針のように芙美子の心臓を刺し貫いた。 微かな痛みが、胸の奥で静かに広がっていく。 ――彼女と夕星の出会いは、とある講演会だった。 結婚前から、彼には一人の「後輩」がいることは知っていた。 「もし芙美子さんに出会っていなければ、夕星さんと結婚していたのは雲雀さんだったかもしれないね」 そうからかう人も多かったが、芙美子はこれまで気にしたことはなかった。 だって、結婚して五年。夕星は常に彼女を大切に扱ってくれたのだから。 彼女が「甘い物を食べたい」と言えば、夕星は真夜中でもデパートに駆けつけて彼女が一番好きな菓子を買ってきてくれた。 彼女を喜ばせようと、わざわざ他の町まで足を運び、高級時計を誕生日プレゼントとして贈ってくれたこともある。 しかし今日、夕星が雲雀の涙に心を痛める表情を見た瞬間、彼の心の内に、自分は一度も入り込めたことがなかったのだと悟った。 口元をわずかに上げ、芙美子は振り返ることなく歩き出した。 ――腐り切った男なんて、もう要らない。 芙美子は研究室の前に立っていた。 中では、数人の学生が心配そうに彼女を待ち受けている。 「先生……論文の件、聞きました。敗訴したそうで……」 「これから研究は、どうなさるんですか?」 「もちろん続けるわ」 芙美子はきっぱりと答えた。 「資料を整理して。臨床試験が終わる前に、上訴の準備を進めましょう」 ――偽物は本物にはなれない。自分のものなら、誰にも奪わせはしない。 第2話 芙美子はすぐに実験に没頭した。 しかし始めて間もなく、外から喧騒が聞こえてきた。 一人の学生が慌てて駆け込み、叫んだ。 「せ、先生!大変です!外に大勢の人が来て、私たちの論文が盗作だって非難してます!」 芙美子の表情が一瞬で凍りついた。 彼女は無言でドアへ歩み寄り、外を覗いた。 研究室の外は、大きな張り紙と横断幕で埋め尽くされていた。 そこには、敗訴した彼女を罵り、雲雀の研究を盗んだという非難が書き連ねられている。 「お前が葉山芙美子ね?」 数人のチンピラのような男が彼女に向かって歩いてきた。 その顔に見覚えがあった。一審の後、彼らが雲雀と一緒にいるのを見たことがある。 男が冷笑した。 「やれ」 その命令とともに、数人が研究室に乱入し、木の棒を振りかざして目につくものを次々と破壊し始めた。 燃やせそうなものには、ためらいなくライターで火をつけた。 芙美子と学生たちは、必死に身体でデータや資料を守ろうとした。 彼女は震える手でスマホを取り出し、夕星の番号を押した。 数秒後、ようやく通話が繋がる。 「ゆう――」 言葉を続けようとした瞬間、電話の向こうから甘ったるい女の声が聞こえた。 「夕星さん、もう……腰が痛くなっちゃった」 芙美子の表情が一瞬で硬直した。 何かを言おうと口を開いたその時――背中に鋭い衝撃が走った。 木の棒が容赦なく彼女を打ち据え、次の一撃で携帯が粉々に砕け散った。 「これが盗んだデータね?恥知らずめ、人のものを奪っておいて、よく平然としていられるな!」 男の怒号とともに、ライターの炎が点いた。 火はたちまち資料棚へ燃え移り、次の瞬間、炎が巨大な蛇のように広がって、研究室を飲み込んだ。 芙美子は火の熱さも忘れ、痛みに耐えながら燃え上がる資料に手を伸ばした。 しかし、それらの資料は、すでに灰となって崩れ落ちていった。 そのとき、上から物音がして――巨大な棚が一気に落下し、彼女の身体を押し潰した。 割れた後頭部から血が流れ出し、白衣は瞬く間に真紅に染まった。 外では、人々がざわめきながら集まり始めていた。 朦朧とする意識の中で、芙美子は遠くに夕星が駆けてくる姿を見たような気がした。 声にならない声で、彼女はかすかに呟いた。 「……あれは、母が……残してくれた……もの……」 第3話 目を覚ますと、芙美子は自分が病院のベッドに横たわっていることに気づいた。 枕元には、目を赤く腫らした夕星が座っていた。 「芙美子……すまない。もっと早く駆けつけるべきだった」 芙美子は慌てて彼の手首を掴んだ。 声はかすれていたが、瞳には焦燥の色がにじんでいた。 「……研究室のものは?」 夕星は唇をきつく結び、しばらく沈黙した。 「全部……燃えてしまった。持ち出せたものは何一つも……」 涙を見せるつもりはなかった。だが、温かい雫が腕に落ちてきたとき、自分が泣いていることに初めて気づいた。 「警察は?警察はなんと言っているの?」 夕星の目の奥に、複雑な想いが一瞬よぎった。 「まだ調査中だ……あの連中が衝動的にやったことかもしれない。専門的な組織的な犯行とは思えないと……」 芙美子は赤く腫れた目で、まっすぐ彼を見つめた――五年も連れ添えば、彼が嘘をついているかどうかは、一瞬でわかる。 涙に濡れた彼女の顔を見て、夕星は言葉を失った。 どんな言い訳も、もう通用しない気がした。 「雲雀を疑っているんだろう?だが、彼女はそんなことをする人間じゃない。それに、警察の結論もまだ出ていないんだ」 芙美子は冷ややかに笑った。 陸川製薬の社長である夕星の一言で、首謀者も守られた。 夕星の目に一瞬焦りの色が浮かんだが、彼女は疲れ果てたように目を閉じた。 「……お前の好きな鯛茶漬けを買ってくる」 彼はそう言い残すと、部屋を出ていった。 まもなく、医師が検査報告書を持って入ってきた。 「葉山さん、幸い外傷は軽度です……それに、妊娠されています。二ヶ月目です」 「……このことは、しばらく誰にも言わないでください」 彼女の声には苦みがにじんでいた。 ――子どもには罪はない。だから、産むつもりだった。 夕方、芙美子は疲れ切った体を引きずりながら家に戻った。 平安市には初雪が降っていた。 白い雪が肩に積もり、胸の上に重くのしかかるようで、息が詰まる。 いつもと同じ静けさのはずなのに、今夜ほどこの家が冷たく感じられたことはなかった。 彼女は机の引き出しから、かつて夕星がくれた全ての手紙を取り出し、庭の炉の中に投げ入れた。 やがてドアが開き、夕星が入ってきた。燃えさかる手紙を見て、胸の奥に漠然とした不安が広がる。 「芙美子、まだ怒っているのか?旅行にでも行こう、気分転換に」 彼は彼女の拒絶を無視し、手際よく荷物をまとめ始めた。 …… 海野市の海辺は風が強く、潮の音が彼の声をかき消した。 ここは二人が初めて愛を確かめ合った場所。毎年、記念に訪れていた。 五時間もかかる電車で海野市へやって来たが、二人の目的はそれぞれだった。 芙美子には海野市で弁護士をしている友人がいた。 今回の旅は、上訴と離婚の相談のためでもあったのだ。 「何度も呼んだのに、聞こえなかったのか?」 温かい黒いコートが、ふいに彼女の肩にかけられた。 顔を上げると、夕星の後ろに雲雀が立っていた。 「ちょうど海野市で特別な患者があるんだ。雲雀が研究のために来ている。女の子一人では心配だから、俺たちのホテルに泊まらせることにした」 芙美子はその言い訳がでたらめでいい加減だと思った。 特別な患者があるなら、ここの病院はまず彼女に知らせるはずなのに。 「芙美子、ちょっと雲雀の荷物を運んでくる」 そう言うと、夕星は彼女の視線を避けるように立ち去った。 残された二人。 雲雀はゆっくりと海の方を見やり、口元をほんのりと上げた。 「葉山さん、まだわからないの?そんなふうに自分を縛っていたら、ただの老いぼれになっちゃうよ。 条件を出して。どうしたら彼から離れてくれる?」 芙美子は静かに彼女を見つめた。 「私たちはほぼ同い年よ。私が『老いぼれ』なら、あなたも同じでしょう。それに、もしあなたが彼と結婚できるなら、それはあなたの腕前ね」 芙美子は「彼に私と離婚させるなら」とは言わなかった。そんなことは、いずれ必ず起こるとわかっていたから。 「葉山さん、夕星さんがあなたに心底失望するようにしてみせるわ」 雲雀は歯を食いしばり、左手の薬指にはめていた指輪を外すと、海へ投げ捨てた。 次の瞬間――彼女はそのまま、身を翻して海へ飛び込んだ。 第4話 芙美子は目を見開き、反射的に手を伸ばした。 しかし、ほんの一瞬、間に合わなかった。 冷たい海面で、雲雀が必死にもがきながら叫ぶ。 「助けて……!」 「雲雀!」 夕星が海へ飛び込み、荒れた波をかき分けて彼女へと泳いでいく。 雲雀の身体が沈みかけた瞬間、ようやくその腕を掴み、海面へ引き上げた。 夕星は自身のコートを、震える雲雀の肩に優しく掛けた。 そして、芙美子を見つめるその目には、暗い影が漂っていた。 「どうしてそんなことをした?」 芙美子は青ざめた顔で、かすかに笑みを浮かべた。 「……私がやっていないと言ったら、信じてくれる?」 しかし、どんな言葉も、既に固まった疑いの前には無力だった。 「ここにはお前と雲雀しかいなかった。お前がずっと彼女を嫌っているじゃない?まさか、彼女が自分から海に飛び込んだと言うつもりか!」 夕星は初めて声を荒らげた。 「夕星さん……私が悪いの。あなたにもらった指輪をしているのを、葉山さんに見られて誤解されちゃって。 どうしても外せって言われて、言い合いになって……」 雲雀は震える声でそう言い、夕星の袖を掴んだ。 「でも、葉山さんを責めたりしない。ただ……あの指輪、私にとって大切なものだったの」 夕星は彼女の背中を優しく撫で、慰めるように言った。 「気にすることはない。また新しいのを買ってあげる」 そして顔を上げ、芙美子を見つめる瞳は氷のように冷たかった。 「この間、お前を甘やかしすぎていたようだな」 彼はゆっくりと一歩ずつ近づき、急に両手で彼女を海に突き飛ばした。 芙美子の身体は海へ落ち、冷たい水が一気に彼女を包み込んだ。 夕星は見下ろしながら、冷たい声で言い放った。 「十分に反省してから戻ってこい」 その言葉とともに、彼は背を向けた。 ――信じられなかった。彼は、私が泳げないことを知っているはずなのに。 芙美子は歯を食いしばり、冷たい海水中で沈みながら、必死に光のある方へ腕を動かした。 四肢を刺すような痛みが全身に広がり、意識が遠のきかけたその時、ようやく岸へたどり着いた。 彼女は高熱を出したまま、疲れ切った身体を引きずってホテルの前までやって来た。 ――しかし、入口で告げられたのは、非情な言葉だった。 「お客様、お部屋にはお通しできません」 それは、夕星の指示だった。 芙美子はホテルの一角で身を縮め、濡れた服のまま震えが止まらなかった。 その時、突然、頭上に影が落ちた。 視界がかすみ、唇を開いて助けを求めようとした瞬間、耳に届いたのは雲雀の声だった。 「葉山さん、運がいいのね。一人で岸まで泳いできたなんて。どうして、溺れ死ななかったの?」 雲雀の足が、芙美子の右手首を踏みつけ、ぐいぐいと力を込めて踏み潰した。 「この手で研究してたんでしょ?もし壊れたら、もう私と張り合えないわね」 「ゆう……」 「呼ばなくていいわ。夕星さんは、すぐそばで見ているもの。あなたの手を壊すことは、彼の許可も得ているの。それが、あなたへの罰よ」 雲雀の声が耳元で低く囁いた。 そして、足に力が込められた瞬間、骨の折れる音が、静寂の中にはっきりと響いた。 手には焼けつくような痛み。それでも、胸の奥の痛みの方が、はるかに強かった。 芙美子は、全てが崩れ落ちる音を聞いたような気がした。 ――悔しかった。そして、憎かった。 あの人は約束してくれた。 「もう二度と悲しませない」と。 しかし今、彼は別の女の前で、自分の尊厳と体を踏みにじらせている。 ――五年の愛が、こんな形で終わるなんて。 結局のところ、愛というものは、最後には本当に良心だけで続いていくのだ。 第5話 目を覚ますと、芙美子は病室のベッドに一人きりで横たわっていることに気づいた。 医師がカルテを手に部屋へ入ってきた。 「葉山さん、身体がかなり冷えています。数日は安静にしてください。それと……右手のことですが――」 言い淀む医師の声に、芙美子の目がみるみる赤くなった。喉が詰まり、苦いものを飲み込むような感覚がした。 「……本当に元どおりにならないのでしょうか?」 「リハビリで、少しずつ動かせるようにしていくしかありません」 医師が出て行った後、芙美子は顔を枕に埋め、声を押し殺して泣いた。 最初は嗚咽、やがてそれは嗟嘆のような泣き声へと変わり、聞く者の胸を締めつけるほどだった。 どれほど時間が経っただろう。涙に腫れた目をこすり、ベッドから降りた。 着替えを整え、病院を出る。 彼女は友人で、弁護士である鈴木章男(すずき あきお)に会う約束をしていた。 法律事務所の応接室で、芙美子は封筒に詰めた報酬を章男の前に差し出した。 「今日は……離婚と上訴の件のために来たわ。二審の日が迫っているので、平安市での代理人をお願いしたいの」 章男は少し驚いた様子だった。 あれほど深い仲だった二人が、まさか離婚するとは。 封筒の中をちらりと見て、彼はわずかに眉をひそめた。 中の紙幣は古びたものばかりで、彼女がどれほどの思いでかき集めたかが一目でわかった。 「離婚訴訟は、決して簡単なものではないよ。 資料の準備は済んでいるの?一度で離婚が成立するよう、しっかり整えましょう。 ……それにしても、彼から何ももらっていないの?」 芙美子は静かに首を振った。 誰もが、彼女が「陸川奥さん」の座を狙って結婚したと思っている。 しかし彼女は――「夕星と結婚したかった」から、陸川奥さんになったのだ。 打ち合わせを終え、章男は「数日中に訴訟の手続きを進める。早ければ来週にも開廷できるだろう」と告げた。 事務所を出たところで、芙美子は偶然、雲雀と並んで買い物している夕星に出くわした。 法律事務所の看板に気づいた彼の顔が一瞬強張り、低く冷たい声が響いた。 「芙美子、法律事務所なんかに行って、まだ論文のことを諦めていないのか?」 芙美子は顔を上げ、淡々と彼の瞳を見つめた。 その虚ろな眼差しに、夕星の心臓が一瞬止まった。まるで全てを見透かされているようだった。 「それで、あなたは?後輩との『友情』がそんなに深いの?二人で出かけるほどに?」 ――なるほど。自分が病院で意識を失っていた間、彼が一度も見舞いに来なかった理由がわかった。 彼は雲雀の看病で忙しかったのだ。 人の心は、小さな器のようなもので、中に入るのはただ一人だけ。 夕星の表情に一瞬焦りが走ったが、すぐに平静を取り戻した。 「……嫉妬か?彼女が病気になったのは俺のせいだ。俺は放っておけると思うか?世間に知られたら、俺の立場もどうなる?」 彼は鞄から小さな箱を取り出した。 「ほら、贈り物だ。前から欲しがっていたネックレスだ」 中には、光を受けてきらめくダイヤのネックレスだった。 しかしその瞬間、芙美子の目は嘲笑っている雲雀の首元を捉えた。 そこにも――同じデザインのネックレス。しかも、より大粒のダイヤが輝いていた。 ――なるほど。私のはおまけ、というわけね。 芙美子は口の端をわずかに引き上げたが、もはや自嘲する力さえ残っていなかった。 ただ、ひたすらに哀れだと思った。 「夕星……あなたにとって、私は『おまけ』なの?」 彼の驚いた表情を無視して、肩をすり抜けるように立ち去った。 帰りの電車は、夕星とは別の便だった。 平安市に戻ると、家の中から料理の香りが漂ってくる。 台所から現れたのは――エプロン姿の雲雀だった。 「葉山さん、ちょうどご飯ができたの。一緒にいかが?」 その言葉には、まるで「女主人」のような余裕があった。 まるで、この数年間ずっと夕星のそばで風雨を共にしてきたのが、彼女であるかのようだった。 「芙美子、雲雀の家が水漏れしたらしい。だから数日うちに泊めてやることにした」 「家に空いてる部屋は一つもないけど、彼女をどこに泊めるつもり?」 芙美子の眉がわずかに動いた。 「鈴(すず)の部屋を片づけた」 一瞬で彼女の顔色が変わった。 鈴――母が遺してくれた愛犬だ。老犬のため、寒さには耐えられない。 結婚するとき、彼と「ずっと室内で飼う」と約束したのに。 「夕星……あの子を外に出したの?平安市の夜がどれほど寒いか、わかっているの?鈴が外にいたら生きていけないのよ!」 目に涙がにじんだ。 「じゃあ、雲雀を路頭に迷わせろと言うのか?いくら可愛がっても、犬は犬だ。命の重さは比べものにならないだろう?」 芙美子は乾いた笑いを漏らした。 言葉を交わすのも馬鹿馬鹿しくなり、くるりと背を向けて階段を駆け上がった。 ドアを蹴り開け、雲雀の荷物を次々と放り出した。 雲雀は目の前の光景に怯え、目に涙をにじませながら、夕星の服をそっとつまんだ。 「夕星さん……葉山さん、怒ってるみたい。私、出て行くね」 夕星の額で青筋がぴくりと浮かび上がった。 「俺がいる限り、誰もお前を追い出せない。 芙美子、いい加減にしろ。ここは俺の家だ。忘れたのか?嫌なら出て行け」 芙美子の拳を握る手が震えた。 ――五年の夫婦生活。その結末がこれなのか。 夕星は使用人を呼び、荷物を再び部屋へ運ばせた。 芙美子は無言で主寝室に戻り、数着の服と重要書類をバッグに詰めて家を出た。 「夕星さん、葉山さんを止めてあげて。もう夜も遅いし、一人で行くなんて危ないわ……私のせいで喧嘩しないで」 雲雀の声は、あえて少し焦ったように装っていた。 夕星は鼻で笑った。 「放っておけ。どうせ数日もすれば戻ってくる」 芙美子は唇を固く結び、庭へ向かった。 鈴を連れて出ろうとした。 物置の中で、鈴は震えながら身を寄せていた。 彼女はその小さな体を抱きしめ、餌を少し口元へ運んだ。 そのとき、背後から足音が聞こえた。 鈴が牙をむき、激しく吠え始めた。 現れたのは雲雀だった。柔らかな笑みが、冷笑へと変わった。 「さっさと出て行きなよ。この犬だけは気の毒ね。飼い主があんたじゃなければ、もっと幸せだったのに」 雲雀は手を伸ばし、鈴の頭を撫でようとした瞬間、鈴が牙を立て、雲雀の手に噛みついた。 第6話 「――あっ!」 雲雀は痛さに声を上げ、反射的に鈴を芙美子の胸から乱暴に引き離し、地面に叩きつけた。 「この畜生め!」 怒りが収まらないのか、彼女はさらに何度も蹴りを入れようとした。 芙美子は慌てて雲雀を押しのけ、鈴を胸に抱きしめた。 真っ赤に充血した目で睨みつけ、歯を食いしばりながら、雲雀に平手打ちを浴びせた。 その一撃は力を込めており、雲雀の頭がぐらりと揺れ、目の前に星がちらついた。 頬を押さえながら、彼女は信じられないという目つきで芙美子を睨み返した。 歯を噛みしめ、怒りに震える声を絞り出す。 「よくも……私に手を上げたわね!?一言で命令すれば、あんたの犬なんかすぐに――」 パシン! 芙美子の手が再び振り下ろされ、平手打ちの音が空気を切り裂いた。 「この二発はね、あんたが礼儀知らずで、厚かましく他人の夫に擦り寄ることのために、そして私の論文を盗んで反省もせず、人を見下して威張ることのために打ったのよ!」 さらにもう一発打とうと手を上げた瞬間、駆けつけた夕星がその腕を掴んだ。 そして彼は芙美子を力任せに押し倒した。 「夕星さんっ!」 雲雀は一瞬で泣き顔に変わり、彼の胸に飛び込んで嗚咽した。 「私……ただ鈴にご飯をあげようとしただけなのに、あの犬が突然噛みついてきたの!」 夕星の表情は暗く沈み、墨がにじむように陰鬱になった。 「俺の限界を、いつも試すような真似はするな」 その言葉を聞いた瞬間、芙美子はふっと笑った。 だが、笑いながらも目の端から涙がこぼれ落ちた。 ――彼はかつて言っていた。彼の「限界」は、自分だと。 「連れて行け。よく反省させろ」 数人の使用人が芙美子を押さえつけ、無理やり連れ出した。 夕星が雲雀を抱きかかえて去っていく背中を見つめながら、芙美子の胸の奥がぐしゃりと握り潰されるように痛んだ。 地下室に放り込まれると同時に、鈴が彼女の腕の中から奪い取られた。 「返して!鈴を返してっ!」 真っ赤になった目で暴れ叫ぶ彼女に、使用人は冷たく言い放った。 「奥様、申し訳ございません。これは旦那様のご命令でございます」 使用人は細い針を手に取り、芙美子の指先にそっと近づけた。 次の瞬間、鋭い痛みが指先から全身へと走る。 肉の奥をかき混ぜるように針がねじ込まれ、血と痛みが一気に広がる。 十指に走る激痛は、まるで刃物が心臓を貫いたようだった。 芙美子の顔から血の気が引き、背中は冷や汗に濡れ、身体が震えながら痙攣した。 どれほどの時間が経っただろう。 ようやく針が離されると、彼女の指はすでに血と肉片でぐちゃぐちゃになり、ぽたぽたと床に血が滴り落ちた。 使用人は今度は木の棒を手に取り、怯えて吠える鈴の前に立った。 そのまま一撃を振り下ろした。 「やめて!触らないでっ!!」 芙美子は目を見開き、全身の力を振り絞っても椅子から逃れられない。 ただ、何度も何度も棒が鈴の身体に打ちつけられるのを見つめるしかなかった。 やがて、あの小さな鳴き声は途絶えた。 雪のように白かった毛は血に染まり、赤黒くにじんでいる。 その血しぶきが芙美子の頬にまで飛び散った。 耳の奥が、静まり返った。 拘束が解かれると同時に、彼女は鈴の亡骸へ駆け寄り、抱きしめた。 「鈴……いい子ね。ママが病院に連れて行くから……」 彼女は自分の傷など構わず、震える体で外へ飛び出した。 外は、雨が滝のように降っている。 びしょ濡れになりながら、芙美子は最寄りの動物病院へ走った。 だが――もう助かるはずがなかった。 夜中では火葬もできず、翌朝の開院を待つしかない。 彼女は鈴を抱いたまま、一晩中雨に打たれていた。 冷たくなった小さな体を見つめながら、涙が止まらない。 脳裏に、父と母、鈴と過ごしたあの穏やかな日々が次々と浮かんだ。 運命とは、かくも残酷なものなのか。 唯一の希望を、容赦なく奪い去っていくなんて。 父を、母を、そして――鈴を、彼女は自ら見送った。 雨が上がり、雲の切れ間から光が差し込んだ。 鈴を医師に託すそのとき、芙美子の表情はどこか虚ろだった。 彼女は悟っていた。これから、またひとりになるのだと。 小さな瓶に鈴の遺灰を入れ、首から下げた。 陸川家から持ち出せた物はほとんどなかった。芙美子は研究所の近くに小さなアパートを借りた。 通勤途中、広場の大型ビジョンで、ニュースが流れていた。 ――「陸川社長、仲程雲雀さんの誕生日を祝し、高級ホテルを貸し切り」 ――「平安市の名士たちが勢揃い」 まるで、夢のような華やかさだった。 芙美子は傷だらけの指先を見つめ、唇にかすかな皮肉の笑みを浮かべた。 だが、すぐに視線を逸らし、歩き出した。 研究所のドアを開けた途端、郵便配達員が小包を差し出した。 開廷の通知書だった。 おそらく、夕星の手にも同じものが届いているだろう。 学生が彼女に伝えてきた。ホテルから電話があると。 受話器を取ると、冷たい男の声が響いた。 「何を送ってきた?くだらない真似はするな。間違いを認めたなら、戻ってこい」 「……うん、分かったわ」 芙美子の声は、風に溶けるように柔らかかった。 ――彼女の人生で最大の過ちは、夕星を愛してしまったことだった。 第7話 夜。 研究所の学生たちが一人、また一人と帰っていき、研究室には芙美子ただ一人が残されていた。 臨床試験のデータは良好だった。彼女は別の製薬会社とも連絡を取り、近いうちに製品化へ進められると確信している。 片づけを終え、帰ろうとしたその時、ドアの前に立つ見慣れた影が、彼女の目に映った。 芙美子の表情がわずかに冷えていく。 「聞いたわよ。臨床データがもう整理できたって?」 雲雀が靴音を響かせて中へ入り、周囲を見回した。 視線はやがて机の上の書類に止まった。 「あなたには関係ないわ。出ていって」 芙美子は冷たい声で言い放った。 「関係ない?忘れたの?今、その論文は『私のもの』なんだから」 雲雀の唇が意地悪く歪んだ。 「優しい葉山さん、本当にありがとう。このご恩は一生忘れないわ。私が出世したら、ちゃんと感謝してあげる」 彼女が手を伸ばし、書類を奪おうとした瞬間――芙美子はその腕を勢いよく払いのけた。 「仲程、二審は半月後よ。本気でまた運に頼れると思ってるの?」 この臨床データは、夕星でさえ見たことがない。 雲雀の敗訴は、もはや確定していた。 だからこそ、彼女は焦ってここへ来たのだ。 「……いいわ。お金で解決しましょう。いくら欲しいの?」 雲雀の声が低くなる。 「分かってるでしょう?夕星さんが雇ってるのは最高の弁護士よ。あなたが上訴しても、勝ち目なんてないの」 「本当にそう思うなら、今夜ここへ来たりしなかったでしょう。 もう出ていきなさい。さもないと警察を呼ぶわ」 芙美子はもはや相手にする気もなく、背を向けた。 雲雀の歯がきしみ、その目に狂気の光が走った。 彼女は机の脇にあった実験用の灯油缶を掴み、蓋を開けて中身を書類にぶちまけ、そして火を点けた。 「だったら、みんな燃えちゃえばいいのよ!!」 炎が研究室の薬品とぶつかり合った瞬間、火の手が一気に上がり、研究室全体を呑み込んだ。 芙美子は慌てて駆け寄り、体で火を押さえつけようとしたが、いくつもの資料が次々と燃え落ちていった。 雲雀の顔が真っ青になる。想像以上の火勢に、完全に取り乱していた。 炎は円を描き、二人を隅へと追い詰めた。 「どうにかしてよ!早くっ!!」 叫ぶ彼女を、芙美子は冷たい目で見つめた。 ――愚か者。 こんな場所で叫んでも、酸素が減るだけだ。 芙美子は身を縮め、呼吸がどんどん浅くなっていくのを感じた。 狭い空間、薄い酸素。 視界が暗く、霞んでいく。 外から足音と叫び声が響いてくる。 「芙美子!雲雀!」 夕星の焦った声だった。 雲雀はすぐさま泣き叫んだ。 「夕星さん!先に私を助けて!」 消防士の声が重く響いた。 「陸川さん、火の勢いが強すぎます!木造ですから、いつ崩れてもおかしくありません……今は、一人しか救えません」 夕星は唇を固く結び、顔を歪めた。 「助けてよ、夕星さん!私を守るって言ってくれたじゃない!?」 雲雀の嗚咽が響く。 芙美子の顔は蒼白に染まった。 「夕星、私のお腹には――」 「……雲雀を先に」 言いかけた言葉が、喉の奥で途切れた。 ――彼は、もうとっくに決めていたのだ。 ロープが投げ込まれ、雲雀はそれを腰に結ぶ。 消防士に引き上げられると、夕星が彼女を抱きとめた。 「夕星さん……葉山さん、まだ中に……」 雲雀が涙声で言う。 夕星の動きが一瞬止まり、低く答えた。 「……ここは危険だ。まずお前を外へ。すぐに戻る」 炎の向こうで、芙美子は彼が雲雀を抱えて人混みの中へ消えていく光景を見ていた。 一度も、振り返らなかった。 彼女が救出される頃には、すでに煙を吸いすぎて意識が遠のいていた。 倒れた棚に押しつぶされ、芙美子は動けないまま地面に崩れ落ちた。 意識が薄れていく中、走馬灯のように記憶が流れていった。 ――なんて皮肉だろう。あんなに優しかった彼が、今ではこんなにも遠い。 愛ってなんだろう。どうして彼の子を身ごもっているのに、彼女はいつも負ける側なのだろう。 芙美子には、分からなかった。 …… 目を覚ますと、病室の白い天井があった。 芙美子は五日間も昏睡した。 左脚は棚に長く押し潰され、膝が完全に壊死していた。 もう一生、普通に歩くことはできない。 病院に運ばれたとき、体中は血に染まり、お腹の子どもも――助からなかった。 いつかは中絶することになると分かっていたけれど、その知らせを聞いた瞬間、芙美子の涙が止まらなかった。 この世界で唯一、自分と血を分けた存在が、消えてしまったのだ。 退院の日が近づいても、夕星は一度も姿を見せなかった。 おそらく、雲雀のそばにいたのだろう。 裁判所はすぐに離婚を認めた。 彼は、訴状を冗談か何かと思ったのか、出廷さえしなかった。 だがもう、どうでもいい。 離婚すれば、彼女は完全に自由になる。 久しぶりに寺を訪れ、亡き子のために供養をした。 芙美子は仏前に膝をつき、深く三度、頭を下げた。 その三つの礼は、もはや夕星とは無縁のものだった。 帰り際、寺の門前で、彼女は夕星と雲雀に出くわした。 包帯だらけの芙美子を見て、夕星は一瞬動きを止め、その瞳に微かな後悔と痛みを滲ませた。 「すまない、芙美子。あの時は……状況が……」 「夕星」 彼女は静かに言葉を遮った。 「私たちの子ども、もういないの」 夕星の表情が凍りつき、思わず彼女を抱きしめようと手を伸ばした。 「知らなかったんだ……もし分かっていたなら、俺は――」 芙美子は微笑んだ。 「もしやり直せるなら……『子どものために』私を選ぶの?それとも、『妻の私』を選ぶの?」 ――夕星、あなたって人は、本当に残酷ね。 彼女はもう何も聞かず、彼の肩をすり抜けて去った。 家で、子のために灯す蝋燭が、小さな炎を揺らしながら燃えている。 燃えさかる蝋燭を見つめながら、芙美子は静かに息を吐いて、涙も少し滲んだ。 ――これまでの過去も、夕星との縁も、この炎のように、燃え尽くせばいい。 子どもとも、夕星とも、結ばれる縁はあっても、共に歩む運命はないのだ。 第8話 芙美子は新しい研究室に移り、研究に没頭した。 幸い、あの火事の際に自ら身を挺して守ったおかげで、焼失したデータはごく一部だった。 彼女はその後、寝る間も惜しんで実験に打ち込み、ついに全てのデータを復元することに成功した。 データが揃った夜、芙美子は最も信頼する学生を呼び出した。 「この資料を小林製薬に届けてください。必ず安全に、確実に渡してね。二審の勝敗は、これにかかっているから」 彼女の瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。 その頃、夕星は彼女の住まいを突き止め、毎日のように贈り物を届けさせていた。 添えられる言葉はいつも同じ、たった二言だけ。 ――【ごめんなさい】 ――【戻ってきてくれ】 ある晩、帰宅途中の芙美子は、自宅前にふらつく人影を見つけた。 「芙美子……」 夕星は彼女の抵抗も構わず、強引に抱きしめた。 「許してくれ……もう怒るな。な?子どもなら、また授かればいい」 酒の臭いが鼻をつく。 芙美子は眉をひそめ、力強く彼を押しのけた。 ――もう二人の間に子どもは生まれない。なぜなら、彼らに「未来」はないのだから。 「俺と一緒に戻ろう。欲しいものは何でも与える」 「それなら、仲程に私の論文を返させてください」 その言葉に、夕星は一瞬沈黙した。 そして、疲れたように答えた。 「……それだけは無理だ。金ならいくらでも出す。買い取らせてくれ。約束する、この件が片付いたら、雲雀とは縁を切る。二人でやり直そう」 芙美子はかすかに笑ったが、瞳には微塵の温もりもなかった。 本当は問い詰めたいこともあった。 だが――もう交わることのない二人に、言葉を費やす意味などなかった。 「お前が持って行ったものは、すべて新しく買っておいた。戻りたいときは、いつでも戻っておいで」 その声には、絶対的な自信と支配欲がにじんでいた。 まるで、芙美子が自分から離れられるはずがないと信じ切っているように。 彼女はもはや争う気力もなく、静かにうなずいた。 正式に離婚できるまでは、余計な波風を立てたくなかった。 「……分かった」 その言葉に、夕星の表情がほんのり明るくなった。彼は彼女の手を取った。 「まだ怒っているのは分かっている。裁判には出ても構わない。終わったら気分転換に海外へ行こう。どうだい?」 芙美子は長い間、彼の瞳を見つめた。 きっと、彼の中では彼女の敗訴は当然の結末なのだ。 彼にとって、彼女が積み重ねてきた努力など、子どもの遊び同然なのだろう。 「夕星……結婚式のとき、私に何を誓ったかまだ覚えているの?」 喉を詰まらせるように、彼は答えた。 「一生、愛するのはお前だけだ。芙美子、俺の気持ちは変わっていない」 ――その言葉を口にする本人でさえ、この馬鹿馬鹿しい誓いをもう信じていないだろう。 開廷の数日前まで、夕星は執拗に贈り物を続けた。 莫大な費用をかけて新しい研究室を建て、「芙美子」の名を冠して。 一方、雲雀は姿を見せなくなったが、時折手紙を送りつけては彼女を嘲笑するような言葉を並べていた。 そして開廷前夜、夕星は再び彼女を訪ねてきた。 「芙美子、明日は開廷だ。前回と同じ弁護士を手配した。どうあがいても、お前の負けだ。もうやめてくれないか?」 二審の準備で憔悴した彼女の目の下には、深いクマが刻まれている。 それを見た彼の目に、一瞬だけ哀れみの色が浮かんだ。 ――本当は、争いたくなどないのだ。 「夕星」 静かな声で、芙美子は言った。 「もし明日、私が負けたら……あなたの言う通りにする。研究をやめて、家庭に入る。あなたのそばで、ただの妻として生きる」 一瞬の沈黙の後、夕星は微笑んだ。 「そうしよう。すべてお前の望む通りに。判決が出たら、迎えに行く」 その背を見送りながら、芙美子は穏やかに笑った。 きっと彼は知らない。この約束を、彼女が一生果たせないということを。 二審の当日。 夕星と芙美子は、法廷に並んで現れた。 彼女は原告側として、彼は被告側の証人として。 法廷で雲雀を弁護する夕星を見つめながらも、芙美子の顔には何の感情も浮かばない。 愛が消えれば、心もまた、何も感じなくなるのだ。 予想通り、前半の証言は彼女にとって不利なものばかりだった。 そして判決が下されようとしたその時、芙美子が口を開いた。 「当方は、証人の出廷を請求します」 夕星の眉がわずかに動いた。 彼女が誰を呼んだのか、見当もつかなかった。 やがて、一人の男性が現れた。気品ある佇まいで、歩みに迷いはない。 その男性は夕星の視線を感じ取ると、挑発するように微笑んだ。 「小林製薬の社長?なぜここに?」 「知らないの?彼、葉山さんと仕事だけの関係じゃなくて……恋人同士なんだって!」