二度と温まらない私たちの関係

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二度と温まらない私たちの関係

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月島雪代(つきしま ゆきよ)は、財閥御曹司・桐原慎一郎(きりはら しんいちろう)にとって、忘れえぬ「亡くなった」永遠の初恋だった。 一ヶ...

Chương (1)

第1章

月島雪代(つきしま ゆきよ)は、財閥御曹司・桐原慎一郎(きりはら しんいちろう)にとって、忘れえぬ「亡くなった」永遠の初恋だった。 一ヶ月前に、彼女は突然姿を現した。しかし、そこで知らされたのは、慎一郎が彼女の面影を残す異母妹・月島夏実(つきしま なつみ)と、結婚しているという現実だった。 …… 「お願いです。もう一度だけ、確認していただけませんでしょうか?」 雪代は窓口に離婚届受理証明書を押し出し、声を詰まらせた。 職員は戸惑いながら首を振った。「お客様、これで三度目です。桐原慎一郎様と月島夏実様の離婚届の受理記録は、どこにもございません。お二人は現在も正式な夫婦です」 雪代の胸を、言い知れぬ絶望が襲った。 一ヶ月前、慎一郎は離婚届を手に、真摯な眼差しで、彼と夏実の間は単なる取引だったと、彼の心は決して変わっていないと、誓うように彼女に言ったのだ。 「雪代、あの時は君が死んだと思い込んでいた。それに、月島家も危機に瀕していた。桐原家が資本を注入する条件は、俺と夏実の結婚だった。全ては仕方なかったんだ」 その言葉を、雪代は信じた。 昨日、慎一郎のオフィスで、彼が夏実と夫婦名義で基金を設立すると計画を話しているのを偶然耳にするまでは。 聞き間違いだと願った。だが今、残酷な現実がもう目の前に。 雪代は偽りの離婚届受理証明書を握りしめた。七月の太陽が容赦なく照りつける中、彼女の心だけが、氷のように冷え切っていた。 第1話 月島雪代(つきしま ゆきよ)は、財閥の御曹司・桐原慎一郎(きりはら しんいちろう)にとって、忘れえぬ「亡くなった」永遠の初恋だった。 一ヶ月前に、彼女は突然姿を現した。しかし、そこで知らされたのは、慎一郎が彼女の面影を残す異母妹・月島夏実(つきしま なつみ)と、結婚しているという現実だった。 …… 「お願いです。もう一度だけ、確認していただけませんでしょうか?」 雪代は窓口に離婚届受理証明書を押し出し、声を詰まらせた。 職員は戸惑いながら首を振った。「お客様、これで三度目です。桐原慎一郎様と月島夏実様の離婚届の受理記録は、どこにもございません。お二人は現在も正式な夫婦です」 雪代の胸を、言い知れぬ絶望が襲った。 一ヶ月前、慎一郎は離婚届を手に、真摯な眼差しで、彼と夏実の間は単なる取引だったと、彼の心は決して変わっていないと、誓うように彼女に言ったのだ。 「雪代、あの時は君が死んだと思い込んでいた。それに、月島家も危機に瀕していた。桐原家が資本を注入する条件は、俺と夏実の結婚だった。全ては仕方なかったんだ」 その言葉を、雪代は信じた。 昨日、慎一郎のオフィスで、彼が夏実と夫婦名義で基金を設立すると計画を話しているのを偶然耳にするまでは。 聞き間違いだと願った。だが今、残酷な現実がもう目の前に。 雪代は偽りの離婚届受理証明書を握りしめた。七月の太陽が容赦なく照りつける中、彼女の心だけが、氷のように冷え切っていた。 …… 雪代と慎一郎は幼なじみだった。小さい頃から、彼は彼女の騎士になると誓い、彼女を守り抜くと言っていた。 十歳の時、隣家の狼犬に追いかけられて噛まれそうになった彼女の前に、彼が身を挺し、腕の肉を食いちぎられる覚悟で守ってくれた。 十五歳の時、彼女が遊びに夢中になって山道で迷子になると、彼が人を連れて三日三晩探し回り、体力の限界で倒れそうになった頃に彼女を見つけた。 十八歳の時、海で波に飲まれた彼女を、死の淵から必死の思いで引きずり戻したのも彼だった。 同じ年、二人は交際を始め、五年間を共に過ごした。慎一郎が彼女をこの上なく寵愛していることは周知の事実だった。 彼はかつて、生涯彼女以外とは結婚しないとまで言った。 五年前、結婚式直前のあの事故が起こるまでは……誰もが彼女が火災で亡くなったと思い込んだ。 そして再び戻ってきた今、全てが変わっていた。 ウェディングドレスショップで、雪代は鏡の前に立ち、映る自分を見つめていた。 五年前に彼女が着るはずだった、慎一郎自らがデザインしたこのウェディングドレス。五年の時を経て全てが変わってしまい、昔のままなのは、このドレスだけだった。 「雪代、気に入ったか?」いつの間にか背後に立った慎一郎が、彼女の腰を抱きしめた。 「この日を俺は五年も待ち続けた。それでも、神様は俺を見捨てなかった。やっぱり君を俺の元に返してくれた」 その声は優しさに満ち、目には取り戻したものへの惜しみない愛おしさが溢れている。 雪代には、もうどちらが本当の彼なのか見分けがつかなかった。 「慎一郎……」彼女は振り向いて彼の目を見た。「あなたは、まだ私を愛しているの?」 慎一郎は一瞬たじろいだが、すぐに笑顔を浮かべた。「そんなこと、聞くまでもないだろう?十八歳の時から今まで、俺の心は微塵も変わっていない」 彼は彼女の鼻先を軽くつまみ、その眼差しには誠実さが滲んでいて、雪代は錯覚が起きたかと自分を疑った。 もしかしたら、あの離婚届には何か彼女の知らない事情があるのかもしれない。 そう口にしようとした瞬間、慎一郎の携帯が振動した。 ちらりと見えた画面には、夏実からのメッセージが表示されていた。 【慎一郎、今日、お腹の子が動いたの。パパに会いたいって。いつ来てくれる?】 雪代は全身の震えを覚えた。 お腹の子? パパ? つまり、離婚届が偽物なだけでなく、二人の間には子供までいるということ? 慎一郎は表情を一瞬で硬くし、素早く画面を消した。 「雪代、会社に急ぎの用件が入って。行ってみないと」 彼は彼女が見ていないと思っている。 そして、平常を装って嘘をつき続ける。 「どんなに急ぎの用件? ドレスのフィッティングが終わってからじゃだめ?」雪代は自分の声が震えているのを感じた。 「悪い、雪代」慎一郎は既に上着を手に取っていた。「すぐに戻るから」 彼が振り向いた瞬間、彼女は彼の袖を掴んだ。 「慎一郎、いてほしいの」 以前なら、数千億円規模のプロジェクトの契約が待っていようと、彼女が「傍にいて」と一言言えば、慎一郎は全てを放り出して残ってくれた。 しかし今、慎一郎の目は一瞬揺らぎ、最後にはそっと彼女の手を振り解いた。 「すぐ戻るから、待っててね」 慎一郎は彼女の額に慌ただしくキスをすると、その場を離れた。 その断固として去っていく背中を見つめ、雪代は胸が締め付けられるような痛みを感じた。 かつて彼女を命のごとく愛したあの慎一郎は、もうどこにもいない。 今の慎一郎は、偽の離婚届で彼女を騙し、ほかの女性のために彼女を置き去りにし、そしてついに他の女性との間に子どもまで作った。 雪代は棒立ちになったまま、時が経つのも忘れていた。しばらくして、突然の着信音で我に返った。 「月島様、結婚式の招待状とポスターのご案内書類について、ご確認をお願いしたくて……」 「私の名前を、月島夏実に変えてください」 先方が言い終えるのを待たず、雪代は静かに遮った。 電話の向こうは呆然とした。「え? 何とおっしゃいましたか?」 「招待状とポスターの新婦の名前を、全て月島夏実に差し替えて」彼女は一語一語、力を振り絞るように言った。 「この件は、慎一郎には内密にしてください」 彼らこそが正式な夫婦なら、結婚式も当然すり替えるべきだ。 これで、彼らへのせめてもの祝福としよう。 電話を切り、彼女は別の番号にダイヤルした。 相手はすぐに出た。少し不安げで、優しい男の声だった。 「雪代ちゃん?」 「賢人」 雪代は鏡に映る、ウェディングドレスを纏った自分を見つめ、ついに音もなく涙がこぼれ落ちた。 「あなたの気持ち、受け入れる。付き合おう。あと半月だけ待っててね、M国に戻るから」 五年前、火災に閉じ込められた彼女を救い出したのは高杉賢人(たかすぎ けんと)だった。 この数年、最も辛い時期を共に支え続けてくれたのも彼だった。 幾度もの皮膚移植の苦痛に、彼女が諦めかけていた時、彼女の手を握り「俺はここにいる」と言ってくれたのも彼。 そして賢人が彼女に想いを打ち明けた時、彼女は言った。 「ごめん、私にはもう愛する人がいる」 その人こそ、慎一郎だった。 しかし今、彼はもはや彼女の愛する人と呼ぶに値しない。 彼が新しい人生を歩み始めたのなら、彼女も過去に執着し続けることはない。 第2話 翌日、雪代は、五年前に慎一郎と共に暮らしていた家を訪ねた。 彼女がかつて心を込めてデザインした家は、今や夏実のものになっている。 雪代が戻ってきた後、慎一郎はようやく夏実にここから出て行くよう頼んだのだ。 「慎重に運んでね。これらは全て、慎一郎が大事にしているものよ」 雪代が玄関に入ると、書斎から夏実の声が聞こえてきた。 使用人たちが幾つかの箱を注意深く運び出している。 パタンと、一冊の写真アルバムが床に落ちた。 雪代の視線が自然とそこへ向かう。 物音に慌てて飛び出してきた夏実は、そのアルバムを拾い上げた。 そしてわざとらしく雪代に見せ始めた―― 北ヨーロッパのオーロラの下で抱き合う二人、雪山の頂上でキスを交わす二人、デンマークの小さな町で手をつなぐ二人、クルーザーのデッキで朝日を眺める横顔…… それらは全て、かつて雪代が慎一郎と「いつか行こう」と約束した場所だった。 しかし今、写真に映っているのはすべて夏実の姿だ。 「あの時はみんな、姉さんが死んだと思ってた。慎一郎が、悔いを残したくないって言うから、私をこれらの場所に連れて行ってくれたんだ。姉さん、気にしないでね」 夏実は雪代を見て、目元に明らかな挑発を浮かべた。 雪代は冷たい瞳で彼女を一瞥した。「あなたが慎一郎に近づけたのは、単に私に幾分か似ていたからに過ぎない……」 「姉さんは、慎一郎が私を姉さんの代わりとして見てる、って言いたいの?」 夏実の口元がほころんだ。「そうだね、一つ賭けをしよう。今の彼の心の中で、どっちがより大事か、確かめてみない?」 雪代と夏実は同時に携帯電話を取り出し、慎一郎に電話をかけた。 待っている間、雪代の心中は不安でいっぱいだった。 彼女は元々、夏実とそんな幼稚なゲームを繰り広げるつもりはなかったが、それでもなお、答えを知りたくてたまらなかった。 数回の呼び出し音の後、雪代の電話が先に繋がった。 「雪代、どうした?」 「私の車が高速道路で故障してしまって……」彼女が適当な理由を口にしたが、言葉が終わらないうちに慎一郎に遮られた。 「慌てないで、今すぐ向かうから」彼の声には隠せない焦りと、優しい慰めが込められていた。 雪代は横目で夏実を見た。夏実の表情には一瞬の動揺が見えた。 夏実は再び発信ボタンを押した。 今度は繋がった。 「慎一郎、桜木町の栗きんとんが食べたいの。今、買いに行ってくれない?」 相手は一瞬沈黙し、しばらくしてから「待っていて」と答えた。 その声は冷静で、感情を読み取ることはできなかった。 電話を切ると、すぐに雪代の携帯が再び鳴った。慎一郎からだ。 「雪代、急なプロジェクトの問題で、今どうしても抜けられない。まずボディーガードを向かわせる」 彼の声には申し訳無さがにじんでいた。 雪代の胸は締め付けられ、喉も詰まったようだった。 「……わかった」 やっとの思いで声を絞り出すと、相手はすぐに電話を切り、ツーツーツーという無機質な音が、心を強く打つ重りのように響いた。 「姉さんの負けだよ」 夏実は携帯電話を置き、勝利者の姿を見せた。 「慎一郎は、私が食べたいって言うと、雨の中を買いに行ってくれるっていうのに、姉さんを高速道路に置き去りにするんだね。 今でも慎一郎が、私を姉さんの代わりとしてしか見てないと思う? 正直に言うと、慎一郎と私は全然離婚なんてしてないの。あの離婚届なんて、彼が姉さんを騙すための口実よ。法律的には、私と彼が正式な夫婦。今の姉さんこそが、私たちの間の第三者なんだ」 夏実は一歩一歩雪代に近づき、一言一言が刃のように雪代を貫いた。 30分後、慎一郎の車が別邸に到着し、彼は車からお菓子の包みを手に降りてきた。 雪代は向かい側に立ち、雨と涙が頬を伝うのを感じた。 全身が震えている。激しい雨に打たれる寒さよりも、心底から湧き上がる冷たさに凍えながら。 かつて、雪代が何気なく「隣町の老舗のチーズケーキが食べたい」と言えば、慎一郎は夜を徹して車を走らせ、朝一番の店頭に並んで買ってきてくれたものだった。 しかし今、雪代は、彼の愛情がもはや自分だけのものではないという、冷たい現実を突きつけられた。 よろめきながら帰路につく。たった数歩の距離が、果てしなく遠く感じられた。 かつての大火傷の古傷が、雨の度に疼く。今夜は特に、骨の髄まで凍りつくような痛みだ。 ドアを開け、中へ入った瞬間、視界がぐるりと回り、雪代は床に倒れ込んだ。 しばらくして、誰かが彼女を抱き上げ、「雪代!雪代!しっかりして!」と焦って呼びかける声が聞こえる。 ぼんやりと、慎一郎の整った顔が近くに見えた。幻ではないかと恐れ、彼女は必死にまぶたを持ち上げた。 すると突然、手の甲に鋭い痛みが走った。注射の針が刺さる瞬間、彼女は苦痛に顔をしかめた。 「もっと優しくしてくれ。雪代は痛がりなんだ」 慎一郎が医師をとがめるような口調で言う声で、雪代は完全に意識を取り戻した。 彼女がかすかに目を開けると、慎一郎は張り裂ける思いで彼女を抱きしめた。 「本当にすまない……全部俺のせいだ、ボディーガードが君を見つけられなくて……何度も電話したが、君が出なくて……」 慎一郎の言葉は嗚咽とともに途切れがちに続いた。 慎一郎は入り口で雪代が倒れているのを見た瞬間、心臓が止まるかと思った。 二度と雪代を危険にさらすまいと誓ったというのに。 「ロードサービスを呼んだけど」彼女は何でもないような口調でそう言った。 「真っ先に駆けつけるべきだった。そうすれば……そうすれば、君をこんな目に遭わせずに済んだのに」慎一郎はさらに自分を責め、涙を必死にこらえて、瞳を揺らせた。 雪代は、彼の赤く染まった目を見つめ、ついさっきの出来事を思い返した。胸が、きりきりと痛んだ。 雪代は、彼が必ず駆けつけて来るはずの理由を作ったつもりでいた。だってかつては、彼女に何かあれば、慎一郎は何をしていようと、全てを放り出してすぐに飛んで来たのだから。 なのに今、彼の心のうちで一番大切な場所を占める者は、もう夏実へと変わってしまっていた。 「……疲れた」 雪代が目を閉じた。 「ゆっくり休んで。俺がそばにいるから」慎一郎は布団の端を整え、囁いた。 翌朝、雪代が目を覚ますと、慎一郎はベッドの傍らにいた。 彼の目の下にはクマができ、一晩中まぶたを閉じずに彼女を見守っていたのだ。 「雪代、君の好きなお粥を作ったよ。温かいうちに」 彼は碗を手に取り、一口すくって食べさせようとした。碗の中のエビを見て、雪代は固まった。 「私、エビアレルギーよ。それは夏実が好きなもの」 雪代は拳を握りしめた。 彼は以前、彼女の好き嫌いをすべて覚え、家の者はもちろん、出入りの料理人に至るまで、彼女のエビアレルギーには細心の注意を払うよう言いつけていたのに。 五年の時が、彼のその記憶までも消し去ってしまったのだ。 慎一郎はすぐに思い出し、表情に一瞬の慌てた色が走った。「……すぐに作り直す」 彼が碗を置いて立ち去ろうとした時、電話が鳴った。 雪代には相手の声は聞こえなかったが、慎一郎の表情が一瞬で険しくなるのが見えた。 「雪代、ちょっと急用ができて……」 「行って」彼が言い終わらないうちに、雪代は先回りして言った。 何の用事か、知りたいとも思わなかった。 しかしその午後、雪代の携帯に届いたニュースのプッシュ通知が容赦なく現実を突きつけてくる――【財閥御曹司・桐原慎一郎と月島家次女、5年間の秘密結婚が発覚】 第3話 この数年、慎一郎と夏実が結婚していた事実はごく一部の者だけが知るところで、世間的には夏実は慎一郎が探した「代わり」の恋人だと囁かれる程度だった。 何と言っても、当時の雪代と慎一郎は社交界で認められた、おとぎ話のようにめでたいカップルだったのだ。 彼女の事故後、慎一郎が彼女を追って幾度も自棄騒ぎを起こしたことは、大きく話題になった。 そんな中で秘め婚が発覚したのだから、世論が一瞬で沸き立つのも無理はない。 夜には、桐原家と月島家の合同チャリティー晩餐会が開催する。 雪代は行く気はなかったが、父からは「ここ数年は夏実がグループの業務を切り盛りしてきた。お前が携わりたいのなら、この社交界に再び溶け込まなければならない」と強硬に言い渡されていた。 晩餐会は、杯が交わされ、華やかな衣装が行き交う中で進んでいく。 慎一郎と夏実は両家の代表として、一つになるように並び立ち、美しい夫婦のように見えた。 「桐原社長ご夫妻は、本当にお似合いの仲でいらっしゃいます。慈善事業へのお心遣いもお二人揃って同じで」 噂が広まる中、早くも取り入るようなお世辞を口にする者も現れた。 慎一郎はわずかに眉をひそめたが、結局は否定せず、淡々と会釈をするだけだった。 雪代は少し離れた場所に立ち、増えゆく人々が恭しく夏実を「奥様」と呼ぶのを聞き、一つ一つのお世辞が針のように彼女の耳に刺さっていった。 彼女は背を向け、展望台へと向かった。 夜風は涼しいのに、彼女の胸の苦しみは吹き飛ばせない。 ほどなくして、夏実の声が背後から聞こえた。 「姉さん、どうしてここに隠れてるの? ネット上の雑言、あまり気にしないでね」 彼女の紅唇がほころび、含み笑いのような挑発を浮かべた。 雪代は冷ややかに笑った。「あなたがやったんでしょ? 芝居くさくすることないわ」 夏実は眉を上げ、あっさり認めた。「そうよ、それが何か? 慎一郎も否定なんてしなかったし、私と一緒に出席してくれた。それでまだわからないの?」 彼女は桐原家の家紋が刻まれた有田焼の白磁ブレスレットを軽く揺らしながら、得意げに笑った。「桐原家の証であるこのブレスレットでさえ、今は私のもの。まだ理解できないの?」 それは桐原家に代々伝わるブレスレットで、桐原家の嫁にしか渡らないものだった。 かつては、慎一郎の母が直々に雪代の腕にはめてくれたそのブレスレットが、今、夏実の腕に煌いている。 雪代の瞳が冷たく冴え渡った。口を開く間も与えられず、夏実は突然彼女の手を掴むと、白磁のブレスレットを石彫りに叩きつけた。 パリンと硬質な音と共に、白磁は粉々に砕け、細かい破片が飛び散った。 夏実は一声悲鳴を上げ、よろめきながら後ずさった。「姉さん、欲しいなら言ってくれればよかったのに……これは桐原家の家宝よ、どうして壊すのよ?」 物音に驚いた人々が振り返ると、夏実が雪代をまっすぐ指差している姿が目に入った。 「ねえ、あの人、月島家の死んだはずの長女じゃない?」 「確か、社長と結婚目前だったのに、事故に遭って……」 「今、社長は彼女の妹を娶ったんだ。妬んでるんじゃないか?」 「桐原家の嫁にしか渡らない家宝さえ壊すなんて、ひどすぎる!」 非難の声が四方八方から押し寄せた。 混乱の中、慎一郎と両家の親が慌てて駆けつけた。 「姉さんのせいじゃないんです。このブレスレットは元々姉さんのもの。私が長年独占していたのが悪いんですから……姉さんが怒るのも無理はありません……」 夏実は手首を押さえ、たちまち哀れっぽい様子に変貌した。 慎一郎の母はそれを聞くや、雪代に鋭い目を向けて、言い放った。 「雪代さん、どうしてそこまで変わってしまったのですか? 何があろうと手を出すなんて……本当に失望しました」 雪代はその眼差しに胸を刺された。かつては実の子同然に慈しんでくれた慎一郎の母までもが、今は夏実に味方している。 「私が壊したんじゃありません……」雪代は説明しようとした。 しかし展望台に監視カメラはなく、誰も彼女を信じはしない。 「母さん、雪代がそんなことをするはずがありません」慎一郎はすぐに口を挟み、彼女の傍に立って庇った。「何か誤解があるに違いありません。俺は彼女を信じます」 庭園の他の賓客が去った後、慎一郎の母はしばし沈黙した後、ため息をついた。 「もういい、この件はここまでにしましょう。しかし、慎一郎……」 彼女は慎一郎に向き直った。 「世間の噂が立っているというのに、今日こんな事があっては。雪代さんとの結婚式は、ひとまず見合わせた方がいいでしょう」 慎一郎の母がそう言い終えると、夏実の瞳にかすかに勝利の笑みが掠めた。 慎一郎の表情は一瞬で険しくなった。「それはできません」 彼の声は揺るぎない決意に満ちていた。「母さん、俺が解決しますから、雪代との結婚式は予定通り執り行います」 慎一郎の母は彼のここまでの断固たる態度に予想外だったようで、一瞬言葉に詰まった。 「慎一郎……」 「外に運転手が待っています。先に家までお送りします」慎一郎は母の背中を押し、それ以上の言葉を遮った。 二人が遠ざかった後、雪代もその場を離れたが、廊下の突き当たりで二人の会話を耳にした。 「慎一郎、夏実はあなたの子を身ごもっているのです。彼女のことは考えなければなりません」 雪代の足が止まった。慎一郎の声が聞こえてくる。 「分かっています。だからこそ、夏実と離婚はしていないのです」 その答えに雪代の全身が冷え切った。これ以上聞くことはなく、彼女は足早にその場を通り過ぎた。 慎一郎の口調はさらに冷たくなっていた。「遅くとも夏実が子を産んだら、すぐに離婚します」 「それじゃあ、その時まで待ってから雪代さんと式を挙げなさい……」 「母さん、私はもう五年も待ちました。これ以上は待てません。雪代にもこれ以上のつらい思いをさせられないのです」 翌日、慎一郎のアシスタントが早朝から雪代を記者会見場へと招きに来た。 慎一郎が噂に対して正式な対応をするため、彼女には必ず同席して欲しいという。 雪代が到着した時、慎一郎と夏実はもうフラッシュを浴びて立っていた。 「この度の秘め婚に関する諸説について、正式にご説明申し上げます。月島夏実さんと、確かに五年前に婚姻関係を結んでおりました」 第4話 会場内が一瞬でざわめきに包まれ、記者たちが一斉に質問を投げかけ始めた。 その騒ぎを慎一郎が再び遮るように口を開いた。 「しかし、私たちは一ヶ月前に離婚を済ませています。 実際、この結婚は両家の政略的なものであり、私と月島夏実さんとの間に個人的な感情は一切ありません」 壇上で慎一郎の言葉を聞いた夏実の表情が硬直した。 慎一郎は人々を掻き分け、雪代へ歩み寄る。 雪代が状況を理解する前に、慎一郎は彼女の手を取って記者団の前に立たせた。 「本日会見を開いた理由は、真相を明らかにするためと、私と月島雪代さんが半月後に結婚式を挙げることを発表するためです」 瞬く間に世論の風向きが変わった。 会見後、雪代が控え室で着替えていると、カーテンの外で夏実の陰険な声が聞こえた。 「五年前の火事で死ななかったのは運が良かっただけ。今回はもう同じようにはいかないわ」 「本当に実行なさるんですか?桐原様がもし……」 「慎一郎は彼女が不注意だったと思うだけよ」夏実は含み笑いを漏らした。「五年前だって事故だと思い込んだじゃない?」 雪代の全身の血液が凍った。五年前の大火は夏実の仕業だったのか? 考える暇もなく、彼女は外に飛び出した。 既に人影はなく、ドアを引いたが、びくともしない。 次の瞬間、鼻を刺すような煙がドアの隙間から流入し、炎がカーペットを這うように広がっていった。 雪代の息が詰まり、身体が硬直した。 重度のトラウマがこの瞬間爆発した。 肌の痛み、煙に詰まる苦しみ、火の海に一人取り残された絶望が、見えざる手で彼女を締め付け、身動きできなくさせた。 かすんだ意識の中、ガラスのドア越しに、慎一郎が火の中に駆け込んでくるのが見えた。しかし、その目的は彼女ではなかった。 慎一郎は少し離れた場所で倒れている夏実を抱き上げ、振り返らずに立ち去った。 「慎一郎!」雪代は嗄れた声で叫んだが、何の返事もない。 絶望が潮のように彼女を飲み込んだ。まるで五年前に引き戻されたようだった。 あの時、慎一郎は我を忘れて彼女を救おうとし、爆発の衝撃で吹き飛ばされた。 だが今回は、彼は彼女を火の海に置き去りにした。 煙が肺に入り、意識が遠のいていく。暗闇がゆっくりと雪代を包み込んだ。 再び目を開けると、病院の真っ白な天井が見えた。 雪代が意識を取り戻したのを見て、慎一郎は激しく動揺した。彼は彼女の手をしっかりと握りしめ、目の周りを赤く染めていた。 「雪代、ごめん。人を間違えた。夏実のドレスが君に似ていて……パニックで先に彼女を連れ出した。すぐに駆け戻ったら、君が倒れていて……無事でいてくれて、本当に良かった」 彼の詫びる言葉に、雪代の胸は刺されるように痛んだ。 しかし、雪代の耳には、炎の中で慎一郎が「夏実!」と叫んだ声が焼き付いていた。 「……疲れた」 彼女はそう呟くと、そっと手を引いた。これ以上、彼との偽りのやり取りを続ける気力は、もうなかった。 慎一郎が痛そうな声を漏らし、傍らのアシスタントが口を挟んだ。「社長は、雪代様の皮膚移植のため、ご自身の腕の内側から大きな皮膚を切除されました」 「余計なことを」慎一郎はアシスタントを睨みつけ、それ以上を遮った。 雪代は慎一郎の袖を捲くり、包帯で覆われたその腕を見つめた。 「あなた……」言葉に詰まった。 慎一郎は優しく彼女を宥めた。「痛くない。君が無事でいればそれでいい。ゆっくり休んで、そばにいるから」 その後数日、慎一郎は彼女から離れず、細かいところまで世話を焼いた。 退院一週間後、自宅に戻った雪代は賢人から電話を受けた。 「雪代ちゃん、例の件について、少し手がかりが掴めた」 雪代は意識が戻って真っ先に賢人に連絡し、五年前の火事についての調査を依頼した。思ったより早く進展があった。 「調べたものを送るよ。俺が帰国して手伝おうか?」 「大丈夫。すべて弁護士に任せればいいの。私は予定通り戻るから」 雪代はこれ以上、賢人を巻き込もうとは思わなかった。その言葉が終わらないうちに、背後から声がかかった。 「どこへ戻るんだ?雪代、君はどこへ行くつもり?」 第5話 慎一郎が雪代の前に立った。 雪代は指の動きを一瞬止め、さりげなく携帯電話をしまった。 「聞き間違いよ。ちょっと外の空気を吸いたいだけ」 「どこへ行くにしても、俺が付いていく」慎一郎は自然に彼女の手を握った。 雪代は何も答えなかった。 今の彼女に必要なのは、証拠を見つけることだけだ。 彼女は現場のホテルを訪れ、スタッフに聞き込みをした末、ついに夏実が放火するのを目撃し、証言に応じると言う人を見つけた。 二人で警察署へ向かったが、その人は警官の前で突然証言を翻した。雪代に指差して、「彼女です。あの日見たのはこの人。電気室へ行った直後に火事になりました」と言った。 雪代の瞳が一瞬で縮んだ。 警官は冷たい表情で雪代を拘束した。「月島さん、放火未遂の疑いで告発された以上、調査にご協力ください」 「私じゃありません。電気室なんて行っていない……」 慌てて抗議したが、当日の監視カメラは焼失しており、残っているのは証言だけ。 警察はひとまず証言を受け入れ、雪代を拘留した。 拘留所での二日間は、雪代の人生で最も長い時間だった。 最も汚い監房に閉じ込められ、同室者たちは雪代を執拗に辱めた。 冷水を浴びせられ、食事に砂を混ぜられ、寝ている間に髪を引っ張られる…… 雪代は一言も発せず、ただ拳を握りしめていた。 二日後、保釈された。 警察署を出た瞬間、記者たちが殺到し、カメラのフラッシュが目を開けていられないくらいまぶしかった。 「雪代さん、ホテルの火事は妹さんを陥れようとした計画なんですか?」 「雪代さんがいないあいだに妹さんが桐原さんを奪ったのが妬ましくて、犯行に及んだのですか?」 雪代は状況が理解できず、口を開こうとしたその瞬間、頭の上から一桶の赤いペンキが浴びせられ、全身にまみれた。 「人殺し、死ねっ!」 赤いペンキが髪から滴り落ち、雪代の顔を覆った。 彼女は全身を震わせた。眼前の人だかりは彼女に軽蔑と好奇の混じった視線を投げかけ、カメラを構え続けた。 この時、男の影が猛然と駆け寄ってきた。 「どけ!」慎一郎の声は氷のように冷たく鋭く響いた。 報道陣たちは即座に沈黙し、道を空けた。 慎一郎は上着を脱いで彼女に覆い、抱き寄せた。「雪代、遅れてすまない」 声には彼女を愛おしむ気持ちがあふれている。 雪代が顔を上げると、彼の目に浮かぶ後悔の色が、ただ滑稽なものに思えた。 彼女はとっくに夏実からのメッセージを受け取っていた。慎一郎はこの二日間、H市にいないというのだ。 ちょうど彼女が汚名を着せられたまさにその時、彼は夏実と一緒にあちこち遊び回っていた。 さらに滑稽なのは、彼女が釈放されたのは、夏実が「親切」にも雪代のアリバイを証明したからだという事実だった。 そしてあの証人もすぐに「見間違えた」と証言を翻していた。 その瞬間、雪代は悟った。全てが夏実の仕組んだ罠だと。 あの証人も、初めから彼女の手の者だったのだ。 雪代はすぐに夏実の元へ向かい、直接問い詰めた。 「あの証人はあなたが唆したのね?五年前の火事もあなたの仕業?」 夏実は微塵も恐れる様子がない。「だから何?証拠があるの?」 「なぜ……」 ここまであっさり認めるとは思わなかった。ましてや実の妹が自分を殺そうとしたなんて。 「あなた自身のせいよ」夏実は一步近づき、瞳に毒をたたえて言い放った。「どうして五年前に死ななかったの?なぜ戻ってきて私と慎一郎を邪魔するの? 何年もかかったんだから……ずっと彼があなたに夢中なのを見ながら、優しいふりをして、やっとここまで来たのに!あなたが戻ってきて、彼は私を捨てようとしているの。どうして私ばかりがこんな目に遭わなきゃいけないの!」 その瞳には見たこともない狂気と憎悪が満ちており、雪代は思わず一歩後ずさった。 「そんな理由で、私をここまで追い詰めるの?」雪代は夏実の手首を掴んだ。「私はあなたの姉よ!」 夏実の目に一瞬の動揺が走り、すぐに大声で叫んだ。「姉さん、何するの!離して!」 雪代が反応するより早く、夏実は彼女の手を掴み、自分の顔にビンタを食らわせた。 パシッと音が響いた直後、ドアが勢いよく開いた。 「雪代!」父の厳しい叱責が飛んだ。「妹を殴るとは何事だ!」 両親が入ってくるのを見て、夏実はすぐに顔を押さえてすすり泣いた。 「姉さん、火事のことは知らないよ!私には関係ないんだから!姉さんを害そうなんてこれっぽっちも思ってない!ホテルで慎一郎が私を助けてくれたから、姉さんが怒る気持ちはわかるけど……火事まで私のせいにするなんて、ひどいよ……!」 「違う!あなたが私を害そうとしたんでしょ!」 「もういい!」父が遮った。「いつまで騒ぐつもりだ?夏実が証言してくれなければ、あなたはまだ刑務所にいるんだ。彼女はあなたの妹だ。お前を害するわけがないだろう!」 その言葉に、雪代は声も出なかった。証拠がなければ、何を言っても誰も信じてはくれない。 …… その夜、慎一郎は彼女を慰めるため、彼女の最も好きなピアニストを招いて独奏会を開いた。 「雪代、すまない、二日間も辛い思いをさせた」 慎一郎は彼女の手を握り、優しい口調で言った。「レオの演奏が好きなのは知っている。結婚式でも彼に伴奏してもらおうか?」 雪代は静かにピアノの演奏を聞き、虚ろな眼差しをしている。 硬くうなずいた。 彼は知らない。もうこの二人に結婚式はないのだ。 今の彼女に必要なのは、証拠を見つけ、五年前の大火の真犯人が夏実であることを証明することだけ。 そして、ここから完全に離れることだ。 ピアノの音がまだ響く中、慎一郎の携帯電話が鳴った。 彼は一瞥し、表情がわずかに変わった。「雪代、ちょっと電話に出る」 そう言い残して、彼は急いで去った。 雪代は視界の隅で夏実の名前を捉え、胸が沈んだが、それ以上は何も言わなかった。 慎一郎はその後、戻っては来なかった。 彼は彼女一人をコンサートホールに置き去りにした。 雪代が家に帰り、初めて知った―― 夏実が拉致されたのだ。 慎一郎と月島の両親に一通の動画が届いた。 画面の中、夏実は椅子に縛られ、息も絶え絶えで、露出した肌には無数の傷跡が刻まれていた。 犯人は身代金の受け渡しを慎一郎に要求し、さもなければ人質を殺すと言ってきた。 月島の両親はすでに慌てふためき、顔面蒼白となっている。特に母は、崩れ落ちて声を上げて泣いる。 雪代はどこかおかしいと直感した。「こんな大事なこと、まずは警察に通報したほうが……」と言いかけたとたん、母の口調が鋭くなった。「警察なんてダメ!犯人が知ったら夏実を傷つけるかもしれない!」 慎一郎は沈んだ顔で言った。「俺が助けに行く」 そう言ってから、雪代がまだ傍にいることに気づき、説明を加えた。 「雪代、彼女は君の妹でもある。君の家族を危険にさらすわけにはいかない」 彼は顔色を変えなかったが、眼差しには慌てがにじんでいる。 雪代は彼の焦る様子を見て、胸が痛んだ。 彼は本当に夏実を妹と思っているのか? もう聞きたくはない。 その時、彼女の携帯電話が鳴った。 見知らぬ番号だ。 雪代が電話を切りたかったその時、横からさっと手が伸び、携帯を奪い取って通話ボタンを押した。 「ご指示の通りに縛っておきました。桐原慎一郎が本当に身代金を持って来たら……予定通り、月島夏実を始末してよろしいでしょうか?」 第6話 相手の言葉が終わるやいなや、慎一郎と月島の両親三人の視線が一斉に雪代に集中した。 「雪代、これはいったいどういうことだ?」 「知らないよ。私には関係ない」 彼女が首を傾げていると、相手から位置情報が送られてきた。慎一郎に送られたものと全く同じだ。 「この番号は犯人のものだ」慎一郎の声は急に険しくなった。 母は悲鳴を上げて雪代を指さした。「あなたが夏実の拉致を指示したの?」 もはや雪代に弁解の余地はなかった。 説明する間も与えられず、慎一郎に引きずられるように連れ出された。「一緒に来い。彼らに人質を解放させろ」 その口調は、もう拉致が彼女の仕業だと信じ切っているようだ。 「慎一郎、本当に私じゃない」 しかし、どんなに訴えても、慎一郎は無言だ。 彼は唇を堅く結び、冷たい表情で、限界とも言える速度で雪代をその場所へ連れて行った。 廃工場はじめじめと湿り気を帯びている。犯人は雪代を見るなり、親しげな笑顔を見せた。「おや、雪代さん、ご自分でいらっしゃったとは」 「あなたたちなんて知らない。なぜ私を陥れるの!」雪代は声を荒げて反論した。 犯人の表情が一変した。 「雪代さん、今さら知らん顔するか?妹が邪魔だって言ったのはあなただろうが。『始末してくれたら身代金に加えて報酬もやる』ってな。 なのに、旦那さんを一緒に連れてくるって、どういうつもりだ? 金を払う気がないんじゃねえだろうな?」 慎一郎の目つきが完全に冷え切った。 「人を返せ!」 彼はそう言い放つと、隅に縛り付けられた夏実へ一直線に歩み寄り、抱き上げてその場から連れ去った。 雪代があとを追おうとすると、犯人たちに包囲された。 「どいて!あなたたちなんて知らないって、何度言えばわかるの!」 「知ろうが知るまいが、もう手遅れだよ!」 慎一郎が去ると、数人はすぐに態度を一変させ、首謀者は不気味な笑みを浮かべて彼女に近づいた。 雪代は「まずい!」と悟り、声を張り上げて叫んだ。 「慎一郎!」 彼は一瞥もくれず、素早く車に乗り込んだ。 マイバッハが砂塵を巻き上げて走り去り、雪代の心は深淵に沈んでいった。 逃げ出そうとしたその時、彼女は後頭部を強く殴打され、その場で気を失った。 「夏実さんのご命令だ。俺たちが楽しんだ後は、海に沈めて魚の餌にしろ」 かすかな意識の中、雪代はこの言葉だけを聞いた。 必死で目を開けようとしたが、押さえつけられて正体不明の液体を無理やり飲まされた。 しばらくすると全身が熱くなり、頭はさらにぼんやりとしてきた。 媚薬を盛られたのだ。 最初から最後まで、いわゆる拉致は全て夏実の自作自演で、実は狙われていたのは彼女の方だった。 その事実に気づくと、雪代ははっと我に返った。 数人がもう彼女に手を伸ばし、粗く脂ぎった大きな手が彼女の体を這い回り、吐き気を催させる。 絶望に駆られていたその時、雪代は視界の隅にクリスタルの灰皿を見つけ、それを掴んで犯人たちに投げつけた。 慌てて逃げ出そうとしたが、自分がヨットの上にいることに気づいた。周りは海だ。 犯人たちはすぐに追いかけてきた。雪代は覚悟を決めて海に飛び込んだ。 最後の記憶は、冷たい海水が口と鼻に激しく注ぎ込んできた瞬間で途切れた。 雪代は自分がどうやって岸に上がったのかわからない。 目が覚めると病院で、傍らには誰もいなかった。 看護師によれば、親切な漁師が海上で彼女を救助し、病院まで運んでくれたのだという。 「そういえば、ご家族は?ご両親と彼氏さんに電話してみたんですが、誰も出なかったんですよ」 看護師は憐れみの色を浮かべた。雪代は思わず涙ぐみ、目を閉じて答えなかった。 看護師たちの噂話から、彼女の家族も同じ病院にいることを知った。 しかし、彼女のためではなく、夏実のためにいたのだ。 雪代は最上階のVIP病室へ向かった。ドアを開けた瞬間、室内では慎一郎が細心の注意を払いながら夏実に水を飲ませており、その眼差しは痛いほど優しいものだ。 彼女が入ってくるのを見るなり、夏実はいっそう慎一郎にすがりつくように身を寄せた。「姉さん……こ、こっち来ないで……」 慎一郎が振り返ると、その目は一瞬で険しいものに変わった。「医者が言ってた。夏実はショック症状で、今はこれ以上の刺激は禁物だ。先に帰ってくれ」 雪代の胸は締めつけられるように痛んだ。彼はもはやためらうことなく、あからさまに彼女の面前で夏実を守っている。 「彼女がショック?私に何が起きたのか、あなたは知っているの?」 雪代の言葉が終わらないうちに、両親が慌てて駆け込んできた。 「このばか娘!」父は彼女の頬にビンタを食らわした。「お前の妹だろう!よくもそんな真似ができたな!」 雪代は顔をそむけ、頬にひりりと痛みを走らせた。 子供の頃から、父に殴られたことなど一度もなく、強い口調で叱られたことさえなかった。 「私じゃない」声は涙で掠れていた。「全部、夏実の自作自演よ。みんな騙されているの。あの連中の本当の目的は私だった。あの人たちは私に……」 「もういい!」母が遮った。「夏実の傷は何だっていうの?偽物?自作自演で、自分からあんな傷だらけになるわけないでしょう!」 「姉さん……この数年、慎一郎さんのそばにいたから、自分の居場所を奪われたって思う気持ちはわかるよ。打つなり蹴るなり、私が耐える。火事の罪を着せられても構わない。でも……どうして私を拉致までしなきゃいけなかったの?私が死ねばいいの?」 夏実は泣きじゃくりながら「この家にはもういられない」と言い張り、騒ぎを大きく見せた。 周囲は慌てて彼女をなだめ、その矛先は再び雪代へと向けられた。 父は彼女を押さえつけて夏実に謝罪させようとした。 「私に何の落ち度もない!なぜ謝らなきゃいけないの!」 「雪代!夏実はお前のせいで傷ついたんだ!妹が傷だらけなのに、一言謝ることもできないのか!」 慎一郎も表情を曇らせた。 雪代は信じられないという目で慎一郎を見つめた。「慎一郎……あなたも私がやったと思うの?私を信じてくれないの?」 慎一郎は視線を逸らし、冷たく言い放った。「今回は、明らかに君が悪い」 雪代は全身を震わせ、胸を激しく波打たせながら、振り返らずに病室を飛び出した。 背後から父の怒鳴り声が響く。「出て行くなら、二度と戻って来るな!」 雪代はよろめきながら歩き、出口で正面から来た車に轢かれそうになった。 そうだ…… おそらく、彼女は戻るべきではなかった。あの時、死んだと思われたままであるべきだった。 彼らはもう、完璧な家族の絆を築き上げている。そこに彼女の居場所はなく、ただの邪魔者でしかない。 だから、彼女はまもなく去る。 二度と、彼らの邪魔はしない。 第7話 雪代が数日家に戻らなかった間、賢人から紹介された人脈を使って、ホテルの火事とあの犯人たちの調査を進めていた。 ようやくいくつか証拠をつかむことができた。 資料の整理が終わった時、賢人から電話がかかってきた。 「雪代ちゃん、五年前の火事の真相が全部わかった。黒幕は間違いなく夏実だ。資料は全部弁護士に送ったよ」 雪代は電話を握りしめ、感激をこらえた。「ありがとう、賢人、明日の用事が済んだら戻る」 明日は実の母の命日だ。彼女がこの地に半月も留まった理由はそれだ。 一人で墓園に足を運んだ。海外にいる間、母の墓参りする者など誰もいない。 両親は雪代が幼い頃に離婚し、母は彼女が二十歳の時にこの世を去った。最期の時、母は彼女を慎一郎に託した。 あの時、慎一郎は母の病床の前でひざまずき、一生彼女を幸せにすると誓った。 今では、すべてが変わってしまった。 「お母さん、私たち二人とも人を見誤りました」 冷たい石碑に触れたが、その冷たさも心の底から湧き上がる寒さにはかなわなかった。 墓園をあとにし、雪代は家に戻って荷造りを始めようとした。 ドアを開けると、部屋中にいた全員の視線が一瞬で雪代に注がれた。 アシスタントは彼女の姿を見ると、泣きそうな声で叫んだ。「やっとお帰りなさいました!社長は雪代さんが見つからず、もうほとんど正気を失うところでした!」 彼女が数日姿を見せず、携帯の電源も入っていなかったため、慎一郎はH市をくまなく探し回った。 警察、ボディガード、私立探偵、果てはアンダーグラウンドの勢力まで動員して、ただ彼女を探すためだけに。 雪代の姿を見るなり、慎一郎はソファから躍り上がると、すぐに彼女の前に駆け寄り、強く抱きしめた。「雪代、どこにいたんだ?事故に遭ったんじゃないかと……」 その腕の力は尋常ではなく、二度と彼女を離したくないという思いが伝わってくるようだった。 雪代は抱かれたまま、微動だにしなかった。 慎一郎は雪代がまだ怒っているのだと思い、彼女の顔を両手で包んで心苦しそうに謝った。「すまない、雪代。あの時は言葉がきつすぎて、君を傷つけてしまった。あの件は必ず調べる」 当時は焦っていたが、冷静になってみると不審な点が多いと彼が感じていたと。 しかしその後、雪代が行方不明になったことで、慎一郎の頭の中は彼女を探すことでいっぱいになり、犯人たちの調査などしている余裕はまったくなかった。 「もういい。過去のことは忘れよう」雪代は彼を押しのけた。慎一郎は彼女の表情がおかしいことに気づき、不安を覚えた。 そしてすぐに結婚式のことを思い出し、話題を変えた。 「嫌なことは全部忘れよう。あと二日で俺たちの結婚式だ。世界一幸せな花嫁にしてみせるから」 雪代はうつむいた。彼が言わなければ、すっかり忘れるところだった。 しかし、花嫁はもう彼女ではない。 数日間にわたる行方不明以来、慎一郎の監視の目は以前より厳しくなり、外出時には必ずボディガードが付き添う。 雪代は逃げ出したいと思いながらも、その機会をうかがうことさえできない。 結婚式前日、アシスタントがウェディングドレスを届けに来た。ちょうどその時、夏実も訪れた。 彼女の視線はウェディングドレスに留まり、目を暗くした。「姉さん、このドレス、きっとよく似合うわね」 「気に入ったなら、あげるよ」 「どういう意味?」 夏実は一瞬、呆然とした。 雪代は立ち上がり、彼女に詰め寄った。「あなたがここまでして、火事や拉致を計画したのは、私の代わりになりたかったからでしょ?なら、譲ってあげる」 雪代は結婚式のポスターを見せた。 「すべての名前、とっくにあなたの名前に変えてあるの。 実は前から決めてたんだ。結婚式はあなたに譲るって」 もともと名前を差し替えたのは、慎一郎を苛立たせてやろうという、ただの意地悪からだった。 今、彼女は慎一郎の手下に監視されている。おそらく結婚式の当日でなければ、逃げ出す隙などない。 ならば、夏実に舞台の主役を譲ってやるのが、最善の策だ。 雪代は夏実が彼女を傷つけたすべての証拠を弁護士に渡しており、この結婚式は夏実への最後の「贈り物」となる。 「本当?」夏実は目を細め、警戒した表情で雪代を疑わしげに見た。 「結婚式の日、私はここを離れる。信じられないなら、誰かつけて監視してもいいわ」 夏実の口元がほころんだ。深く考えもせず、雪代が負けを認めたのだと思った。 結婚式当日、雪代はウェディングドレスを着て式場に現れ、控え室で夏実と入れ替わった。 彼女は普段着に着替え、帽子とマスクで姿を隠した。 結婚式が始まり、メインステージにはスーツ姿の慎一郎が緊張した面持ちで立っていた。 音楽が流れる中、夏実はゆっくりと彼に向かって歩いていった。 慎一郎は夏実の手を握り、深い感動に胸を震わせながら、「雪代、この瞬間を五年も待ち続けた。ついに……ついに今日を迎えられた」と言った。 雪代は隅に立ち、慎一郎の誓いの言葉を聞きながら、冷ややかな笑みを浮かべた。 携帯が振動し、弁護士からメッセージが来た。 【全ての証拠を提出しました。警察は事件を受理し、月島夏実に対する逮捕状を即刻発行します】 雪代は口元をわずかに上げ、返信した。 【計画通りに】 そばには、夏実がつけた監視役がすでに待機していた。雪代は背を向けて立ち去り、夏実が手配した車に乗り込んだ。 会場内では、慎一郎と夏実が指輪を交換し終えていた。 慎一郎はそっとベールを上げた―― そして笑顔が一瞬で凍りついた。 「な……なぜ、君なんだ……?!」