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振り向くことのない君へ
社長である夫との結婚は、6年間ずっと秘密だった。彼は、たった一人の息子に「パパ」とさえ呼ばせてくれなかった。 そんな彼が、また女秘書を...
Chương (1)
第1章
社長である夫との結婚は、6年間ずっと秘密だった。彼は、たった一人の息子に「パパ」とさえ呼ばせてくれなかった。
そんな彼が、また女秘書を優先して息子の誕生日をすっぽかした日。
もう限界だった私は、離婚協議書を残し、息子を連れて彼の元を去った。
あの冷静な夫が信じられないほど取り乱して、私の居場所を突き止めようと、オフィスにまで乗り込んできた。
だけどもう、遅い。私と息子は、二度と振り返らない。
第1話
「鈴木部長、来月から海外研修へ行くことになりました。これが退職届です」
鈴木智也(すずき ともや)は、意外そうな顔で私を見た。
「どうしてそんなに急なんだ?」
私は、あらかじめ用意していた口実を告げた。
「息子の父親がS国にいるんです。息子を連れて行って、家族みんなで一緒に暮らそうと思います」
智也はうなずいた。
「そうか。君が一人で子育てするのは本当に大変だったろうしな。みんな、君はシングルマザーなんだと思っていたよ」
私は微笑んだ。今までは違ったけど、これからはその通りになるんだから。
部屋を出ると、ちょうど向かいから歩いてくる黒崎恭平(くろさき きょうへい)と宮本杏(みやもと あん)にばったり出くわした。
恭平は私の上司。そして私の息子・黒崎悠斗(くろさき ゆうと)の父親だ。
七年前、私は恭平の秘書をしていた。酔った勢いの一度の過ちで、私たちは子供を授かったのだ。
私たちが家族や友達に内緒で籍を入れてから、今年で六年も経つ。
恭平が、悠斗に「パパ」と決して呼ばせないようになってからも、六年が経っていた。
恭平の歩幅は小さく、隣を歩く女性を気遣っているのが明らかだった。
杏は片手に書類を、もう片方の手で恭平のスーツの裾を掴んでいる。その甘ったるい光景は、少し目に痛かった。
二人とすれ違う瞬間、心臓がどきりと跳ねる。私はたまらず口を開いた。
「恭平さん……」
男の足が止まる。その表情は氷のように冷ややかだ。
「黒崎秘書」
丁寧だけど他人行儀なその呼び方には、警告の色が滲んでいた。
ここは会社だぞ。俺たちはただの上司と部下にすぎない、と。まるで私にこう言い聞かせているみたいに。
私はその言葉の裏にある意味を察して、胸にこみ上げてきた想いをぐっと飲み込んだ。
「社長」
恭平は短く返事をすると、足を止めることなく、まるで赤の他人の横を通り過ぎるように去っていった。
私は乾いた笑いを浮かべ、退職の件を切り出そうとした言葉をぐっと飲み込んだ。
どうせ、彼が気にするわけないでしょ。
スマホの画面が光った。悠斗がキッズケータイから送ってきたメッセージだ。
【ママ、パパは僕の誕生日、お祝いしに帰ってきてくれる?】
私ははっとして、思わず振り返った。
目に飛び込んできたのは、恭平が優しく身をかがめ、杏と話している姿だった。
誰かが通りかかると、彼はとっさに杏を腕でかばう。その眼差しには、隠しきれない優しさが滲んでいる。
胸がちくりと痛むのをこらえながら、私は恭平にメッセージを送った。
【今日、悠斗の誕生日なんだけど、夜は時間ある?】
廊下の向こう側で、恭平がスマホを手にするのが見えた。でも、三秒と経たずにそれを置いてしまう。表情はまったく変わらない。
いつまで経っても返信のない画面を見つめながら、私はどこか諦めたような笑みを浮かべた。
まだ気づかないの?
最初から無理だってわかってたじゃない?
スマホをポケットにしまい、私は深く息を吸い込んで、歩き出した。
恭平、あなたももうすぐ自由になれるから。
……
会社を出て、私はまっすぐ幼稚園へ悠斗を迎えに行った。
私を見るなり、悠斗は駆け寄ってきてこう言った。
「ママ、今日、僕のお誕生日なんだ!」
そして、こう続けた。
「ママ、パパも一緒にお祝いしてくれる?」
人通りの多い道で、私は思わず涙がにじんだ。
「パパはね……」
そう言いかけたとき、スマホが鳴った。
ようやく、恭平から返信が来た。
【空いてる。帰る】
嬉しさが一気にこみ上げてきて、私は悠斗に満面の笑みでうなずいた。
「大丈夫だよ、悠斗。パパは帰ってくるからね」
悠斗はぱちぱちと手を叩くと、嬉しそうに私の胸に飛び込んできた。
結婚して六年、恭平が悠斗の誕生日を一緒に過ごしてくれるのは、これが初めてのことだった。
夜、私は腕によりをかけて料理をたくさん作った。悠斗も早々に宿題を終わらせていた。
一時間、二時間、三時間……
恭平に何度もメッセージを送った。
でも、いつもと同じで、返信は一向に来ない。
悠斗も何かを察したのか、おずおずと私の顔を見上げた。
「ママ、パパはお仕事がすごく忙しいのかな?」
私は胸がずきりと痛んだ。何か言ってあげたかったけど、言い訳ひとつ思いつかなかった。
結局、こんな言葉しか出てこなかった。
「大丈夫だよ。ママがずっと一緒にいるからね」
悠斗はもう何も聞かず、おとなしくバースデーハットを手に取った。
「ママ、これかぶせて」
私がうなずいて手を伸ばしたとき、ふと、杏のSNSの更新が目に入ってしまった。
【最高の一日だった。すごく気に入っちゃった】
第2話
添えられていたのは、高級レストランの料理の写真。
顔は写ってなかったけど、右上にちらっと写り込んだ結婚指輪に、私は気づいてしまった。
あれは恭平との結婚のとき、二人でこだわって選んだ指輪だった。
でも、彼はいつもそれを左手の小指にはめていた。
それが「独身」の印だから。
なんて皮肉なことだろう。
結婚の証であるはずの指輪が、恭平にとっては独身の印だなんて。
悠斗の六歳の誕生日に、彼は愛人と高級レストランでディナーを楽しんでいたのだ。
今までのつらさが、この瞬間、すべて静かな諦めに変わった。
私は「いいね」を押して、スマホを置いた。
そして、悠斗の頭にバースデーハットをかぶせてあげる。
「悠斗、お誕生日おめでとう」
ろうそくの光に照らされて、悠斗はそっと目を閉じ、両手をぎゅっと合わせた。
「誕生日のお願いごとはね、ずっとママと一緒にいられるよ」
私はスマホを構え、その瞬間を写真におさめた。
離れようという気持ちが、このとき、確かな決意になった。
「ええ、ママが約束するわ」
その夜、私たち親子は、誰も恭平の名前を口にしなかった。
まるでこの家には、最初から私たち二人しかいなかったみたいに。
悠斗が眠った後、私は引き出しから準備しておいた離婚協議書を取り出した。
心のなかにあった最後の迷いが、すうっと消えていった。
深夜2時、恭平がようやく家に帰ってきた。
テーブルの上のケーキに気づくと、彼の目に「しまった」という色が浮かんだ。
「悪い、忘れてた」
なんだかおかしくて笑ってしまった。スマホに、あれだけメッセージが来ていたのに。
本当に気づかなかったっていうの?
それとも、甘いひとときが、なにもかも忘れさせてくれたのかしらね。
離婚協議書を取り出して署名欄を開き、私は必死に平静を装いながら彼に差し出した。
「これにサインして……」
私の言葉が終わる前に、恭平のスマホが鳴った。
電話の向こうから、杏の怯えたような声が聞こえる。
「社長、私の家、停電しちゃったみたいで、そばに来てくれますか?こわいですよ」
恭平はすぐさま立ち上がった。その目には、あからさまな焦りが浮かんでいた。
「待ってろ、すぐ行くから」
電話を切ると、恭平は書類の内容も見ずに、さっとサインをした。
私は脇によけて、彼が去っていくのを黙って見送った。
恭平、どうか忘れないで。
この家を捨てたのは、あなたの方なんだって。
……
翌日、私は会社へ仕事の引き継ぎに行った。
すると恭平の方から声をかけてきて、きれいなギフトボックスを差し出してきた。
「悠斗への誕生日プレゼントだ。昨日、渡しそびれてて」
私は一瞬きょとんとして、それを受け取って開けてみた。
中身は、犬のおもちゃだった。
息子が一番こわがっているのが、犬なのに。
悠斗が5歳のとき。恭平が、彼を遊園地に連れて行ったことがあった。
でも、途中で友達に会ったからって、悠斗とつないでいた手を離してしまった。
幼い悠斗は人ごみにはぐれ、迷子になってしまったのだ。
ようやく見つかったときには、野良犬に怯えて、道ばたでがたがた震えながらうずくまっていた。
それからというもの、犬は悠斗のトラウマになってしまった。
それなのに、元凶である犬が、こともあろうにそれをプレゼントとして渡してくるなんて。
怒りなのか失望なのか、自分でもわからない。私はギフトボックスを適当に横へ置いた。
そして、感情のこもらない声で言った。
「ありがとう」
恭平は怪訝そうに私を一瞥すると、なにか思い出したように話を続けた。
「杏の家が停電で、うちの家に泊まらせることにしたんだ。
君は今日、もう仕事は上がっていい。家に帰って荷物をまとめて、悠斗を連れて二、三日どこか外に泊まってくれ」
軽い口調で言われたその言葉が、私の心を重いハンマーで打ち砕いた。
私は信じられないという気持ちで恭平を見つめた。
「どういうこと?宮本さんのために、私と悠斗を追い出すってこと?」
恭平は眉をひそめた。
「そんな人聞きの悪い言い方をするな。一時的に泊めるだけだ。
結婚のことは秘密にしてるんだから、同僚に変に勘ぐられないようにするのは当然だろ」
私は乾いた笑いを漏らした。本当に、皮肉な話だ。
本当にただの同僚?
本当にただ、変に勘ぐられないだけ?
それとも、私と悠斗が彼の邪魔で、世間に知られたくない存在だってこと?
もう恭平の顔を見ていたくなくて、私は自分のデスクに戻り仕事に向かった。
「わかったわ。
できるだけ早く荷物をまとめて悠斗と出ていくから。あなたたちのお邪魔はしないわ」
どうせ出ていく身だ。それが一日早まったところで、どうってことない。
私があまりにあっさりとうなずいたので、恭平は逆にぽかんとしていた。
彼はなにか言いたそうに口を開き、珍しくやさしい口調になった。
「埋め合わせはするから」
私は顔も上げず、ただ黙っていた。
つけられた傷は、もう元には戻らない。どんな埋め合わせだって、無意味だ。
家に帰ると、私は荷物をまとめ、悠斗を連れて家を出た。
ドアを開けたところで、ちょうど杏を連れて帰宅した恭平と鉢合わせてしまった。
彼は片手で杏のスーツケースを引いていて、その姿は頼もしい彼氏そのものだった。
目が合った瞬間、恭平の目にうかんだ一瞬の焦りを、私は見逃さなかった。
第3話
杏が、驚いたように声をあげた。
「黒崎秘書、どうして社長の家にいますか?」
その言葉を聞いて、私はとっさに悠斗を背中へ隠した。
「私は……」
「俺の親戚だよ。しばらくここに住むことになってるんだ」
私が話し始めた途端、恭平に言葉をさえぎられた。
スーツケースのハンドルを握る手に、ぎゅっと力が入る。
もう何度もあったことだけど。
でも、何度聞いても胸に鋭い痛みが走る。
私が口を開くより先に、悠斗が話し始めた。
「おじさん、こんにちは」
信じられない気持ちで振り返ると、悠斗の目元が赤くなっているのが見えた。
「ママ、もう行こう」
こみ上げてくる言葉をすべて飲み込んで、私は無理やり口角を上げてささやいた。
「うん」
すれ違いざま、恭平にぐっと腕を引かれた。
彼は、信じられないという顔で私を見ていた。
「今、悠斗は……俺を何て?」
あまりの皮肉さに、私はつい乾いた笑みを浮かべた。
「社長が、ずっと望んでいたことでしょう?」
六年間の秘密の結婚生活。恭平は、ただ私たちの関係を隠していただけじゃない。
悠斗に彼のことを「パパ」と一度も呼ばせたことがなかったのだ。
ただ一つ、前と違うのは。
以前は、恭平が悠斗に「おじさん」と呼ぶよう強いていた。
そして今は、悠斗自身の意志で、彼と線を引こうとしている。
私はうつむいて、恭平の手を力いっぱい振りほどこうとした。でも、全然ほどけなかった。
恭平は、複雑な目をして私を見ていた。
「数日だけ、待ってくれ。
悠斗には、俺からちゃんと話すから」
私は彼に思い出させた。
「宮本さんが待ってるよ。手を離して」
恭平はそれでようやく気づいたように、名残惜しげに私の手を離した。
私はふんと笑い、悠斗の手を引いて背を向けた。
だけど、恭平が突然私たちを呼び止めた。
「ちょっと待って」
彼は車へ駆け戻ると、ケーキの箱を持ってきて私に差し出した。
「悠斗、誕生日おめでとう」
そこへ、杏が絶妙なタイミングで割り込んできた。
「このケーキ、もともと社長が私に買ってくださったものなんです。お子さんのお誕生日だったなんて、すごい偶然ですね。
黒崎秘書、どうぞお受け取りください」
手にしたケーキが、突然、鉛のように重く感じられた。
ケーキを返そうとした、その時。悠斗の嬉しそうな表情が視界に入った。
その表情に、私の決意は鈍ってしまった。
大人たちのやりとりなんて分かりっこない悠斗は、ただ期待いっぱいの瞳で恭平を見つめていた。
「おじさんも一緒に食べてくれる?」
恭平は一瞬ためらったが、すぐにうなずいた。
悠斗は歓声をあげてリビングへ駆け込むと、早くケーキを開けてと私をせがんだ。
私は彼の頭をなでて、すぐにケーキを取り分けた。
でも、ケーキを口にした途端、私の笑顔は凍りついた。
「吐き出して!食べちゃダメ!」
私はパニックになりながら、悠斗の手からケーキをひったくった。
恭平の表情が、一瞬で険しくなった。
「瑠衣、気でも狂ったのか?」
涙で赤くなった目元で、私は彼を見上げた。
「悠斗はマンゴーアレルギーなの。知らないの?」
私の言葉を聞いて、恭平の顔に動揺が広がった。
「すまない、知らなかった」
また、その言葉。
悠斗が生まれてから今日まで、私は数えきれないほどその言葉を聞いてきた。
悠斗も状況を理解したのか、呆然と恭平を見つめていた。
もう、その瞳にさっきまでの輝きはなかった。
「大丈夫だよ、ママ。おじさんたちが知らないのは、仕方ないよ」
そう言って、悠斗は私の胸に顔をぎゅっとうずめた。そして、もう恭平を見ようとしなかった。
もう何の迷いもなかった。私は悠斗を抱きかかえて、外へと歩き出した。
家を出るまで、申し訳なさと動揺に満ちた恭平の視線が背中に突き刺さっていた。
でも、もう私たちの心は少しも揺れなかった。
……
あの家を後にして、私はまっすぐ会社に向かい、手早くデスク周りを片付けた。
ちゃんとしたお別れも考えたけど、もう、その必要もないだろう。
サイン済みの離婚協議書をデスクに置いて、私はふっと長い息を吐き出した。
荷物を持つと、私は悠斗を連れて空港へ向かった。
飛行機に乗る前に、私は悠斗に尋ねた。
「ママがこうやって連れてきちゃって、怒ってるかな?」
悠斗はううん、と首を振って、私の頬にぴとっとくっついた。
「ママさえいればいいよ」
ついに涙腺が壊れてしまった。すべての痛みが、この瞬間に解放された気がした。
私はスマホを取り出し、恭平からの連絡先をすべてブロックした。
さようなら、恭平。もう、会うことはない。
翌日、恭平は時間通りに出社した。
昨夜の一件以来、彼の心はずっとざわついていた。
メールボックスを開くと、一件の決裁完了通知が目に飛び込んできた。
「退職届?」