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愛のカウントダウン
妻も俺も、嘘つきだった。 彼女は俺に九十九個の嘘をついた。「初恋の人は忘れる」と言いながら、その実、一度も忘れていなかった。 そして俺...
Chương (1)
第1章
妻も俺も、嘘つきだった。
彼女は俺に九十九個の嘘をついた。「初恋の人は忘れる」と言いながら、その実、一度も忘れていなかった。
そして俺は、たった一度だけ彼女を欺いた。あの離婚届に、彼女自身の手で署名させたことだ。
今日は、それを提出する日だ。最後のカウントダウンが、始まる。
提出三時間前——全ての荷物をまとめ上げ、この国を去る航空券を手配する。
提出二時間前——彼女と写った写真を全て切り取り、アルバムには俺一人の姿だけを残す。
提出一時間前——彼女へ残す、最後のメッセージを録画する。
「紗穂。君を愛した十年。そして今日が、君のもとを去る、最初の日だ」
後にこの映像を目にした彼女は、狂ったように取り乱したという。
第1話
「先生、離婚の手続きをお願いします」
心は決まっていた。妻に悟られることなく、すべてを終わらせるのだ。
弁護士は手際よく離婚協議書と離婚届を作成してくれた。
「奥様の署名をいただき、正式に効力が発生します」
帰宅すると、岡見紗穂(おかみ さほ)は珍しく酒に溺れていた。初恋の男が離婚したというニュースに、心が舞い上がっているのがわかった。
翌朝、二日酔いで気怠げな紗穂が言った。「ねえ、結婚式、ちゃんと挙げない?」
分かっている。これは、あの男を揺さぶるための策だ。
俺は笑顔で頷いた。
だが、彼女がサインする式場の契約書――その束の中には、密かに離婚届を忍ばせておいた。
「結婚式場の契約書って、こんなに分厚いの?」
紗穂が眉を寄せ、ページを繰る。だが、なかなかペンを握ろうとしない。
江原市でも名の知れた大物実業家である彼女は、それだけにそう簡単に騙せる相手ではない。
後ろから二枚目。そこに、俺の署名済みの書類がある。
俯いたまま、俺の心は妙に凪いでいた。
「キャンセル規定とか色々あるから。時間がある時にゆっくり見てくれればいい」
彼女に、そんな暇などないことは知っている。
なにしろ今日は、あの男――伊佐光司(いさ こうじ)が帰国する日なのだから。
光司が婚約した時、紗穂は当てつけのように俺と結婚した。
そして今、光司が独り身に戻った。彼女は泥酔し、目覚めるなり結婚式を挙げようと言い出した。
すべては光司を刺激するため。ただそれだけのために。
俺との結婚生活など、二人の恋の駆け引きに使われる小道具に過ぎない。
予想通りだった。紗穂の表情に、隠しきれない焦燥が滲む。
「空港まで迎えに行かなきゃいけないの。これ、後でいい?」
その瞳に一瞬、鮮烈な喜びの色が宿った。
俺に向けられるのは苛立ちだけ。あの輝きは、光司だけのもの。
急いで署名を走らせると、紗穂は俺に背を向け、慌ただしく出て行った。
——三日前、紗穂が唐突に結婚式の話を切り出したのは、そんな背景があったからだ。
結婚して五年。盛大な披露宴もなければ、世間への公表もなかった。
双方の両親と親しい友人だけが知る、秘密の結婚。
メディアの紹介記事には必ず「独身」の文字が踊り、たまに出るゴシップも、彼女と光司の儚い恋の物語ばかり。
密かに夫である俺の名が出ることは、決してない。
本当は、ずっと知っていた。
紗穂には忘れられない人がいる。心の底から愛した男が。
五年の結婚生活で、彼女が俺に見せる優しさもあった。けれど、それはほんの僅かな施しのようなもの。
俺なりに愛を注ぎ、関係を築こうとしたが、この家で紗穂が心から笑うことは一度もなかった。
あの日までは――
普段は酒に手をつけない紗穂が泥酔し、満面の笑みだった。
探りを入れると、光司が離婚したのだという。
深夜まで看病し、寝息を立てる彼女のスマホの画面ロックを――ふと、光司の誕生日で解除してみた。
写真フォルダは、容量が尽きるほど埋め尽くされていた。
すべて、光司の写真で。
俺の姿は、一枚もなかった。
アルバムの表紙に設定されていたのは、俺たちのウェディングフォトだ。
けれど俺の顔は、精巧に光司のものへと加工されていた。
入籍の時、式は要らないと言った紗穂が、写真だけは撮ると頑なに主張した理由……
それが、ようやく分かった。
その瞬間、悟ったのだ。
五年続いたこの結婚に、終止符を打つ時が来たのだと。
残されたのは、彼女がサインするまでのわずかな時間だ。
奇しくも、紗穂が俺と挙げると約束した結婚式の日と、ほぼ同じタイミングだ。
カウントダウン。予定の提出日まで、あと二十日。
最近、紗穂の早出と帰宅の遅さが、日に日に拍車がかかっている。
あの日交わした結婚式の約束など、とうに霞のように消え失せていた。
第2話
たまに、紗穂の親友の投稿がタイムラインに流れてくる。写真の片隅に、いつも彼女が甲斐甲斐しく男の腕を取る姿が映り込んでいる。
その横顔は、彼女のスマホで見たあの男――光司のものだ。
この日、会社のパートナー、安井要(やすい かなめ)が声をかけてきた。
「後で設計案を持って先方と契約しに行くぞ。
なんでも今回のクライアント、岡見社長の『噂の恋人』らしいな」
俺は頷いた。少し、意識が霞むのを感じながら。
パートナーとはいえ、彼は俺が紗穂を知っていることすら知らない。
ましてや、俺たちが戸籍の上だけの夫婦だなんて。
クライアントのオフィスは、紗穂の会社の真下のフロアにある。
光司が帰国して立ち上げた新会社だ。岡見グループが出資しているという。
最近、経済ニュースは二人の過去の恋を煽る記事ばかりだ。
社長室のドアが開くと、予想通り、紗穂がいた。
彼女は上品な包装の箱を手に、社長椅子にふんぞり返る男へ微笑みかけている。
光司だ。
紗穂の表情が、俺を見た瞬間に凍りついた。
その場にいた全員が、空気が歪むのを察した。
光司が俺を見る目には、値踏みするような余裕が滲んでいる。
「こちらは?」
紗穂が黙り込む。どう説明すべきか、言葉を探している。
俺は先に、完璧なビジネススマイルを浮かべた。
「岡見慎……松永慎也(まつなが しんや)と申します。今回のプロジェクトの設計を担当いたします。岡見社長とは……」
俺の声に、紗穂の声が慌てて重なった。
「大学の同級生です」
言葉が落ちた瞬間、設計案を握る俺の手が白く強張った。
指先が、紙に痕を刻んだ。
紗穂の嘘に加担するのは、これが初めてではない。彼女が俺の存在を隠したがるのも、今に始まったことではない。
いわゆる秘密結婚。それは、俺たちの結末がとうに決まっていたことの証でもあった。
商談は、そこからうまく進むはずもなかった。
紗穂はすぐにビジネスエリートの仮面を被り直し、光司の代理として俺たちを攻め立てる。
「価格をあと10%下げてください」
紗穂は俺たちの利益と限界を、正確に把握した上で追い詰めてきた。
要がしばらく悩んだ末、歯を食いしばって承諾した。
「……分かりました。岡見社長、さすがですね。こちらの底値を完璧に見抜いておられます」
紗穂は顔を背け、気まずそうに俺と視線を合わせようとしない。
噂に違わぬ、冷徹な交渉人だ。
ただ、その刃が今、正式な夫である俺に向けられているだけだ。
光司はずっと黙ったまま、どこか挑発的な視線を俺に送り続けていた。
やがて、テーブルの上の箱に手を伸ばす。
「皆さん、お疲れ様です。お茶と共に、ケーキでもどうぞ」
ところが、交渉中ずっと冷静だった紗穂が、血相を変えてその箱を奪い取った。
「光司、触らないで。あなたピーナッツアレルギーでしょ。先に確認させて」
目の前の光景が、心臓を氷の手で掴まれたようだった。
俺の身体も、血が滲むほどに切り裂いていく。
結婚して五年。紗穂は結婚記念日を忘れ、俺の誕生日だって平気で間違えた。
俺が頼んだことは、ことごとく軽んじられ、記憶の外へと追いやられた。
――実は、俺もピーナッツアレルギーなのだ。
それでも彼女は、俺のアレルギーだけは、ずっと覚えていた。
俺はそれを、密かな救いにしてきた。彼女が俺を愛していないことが明らかでも、この一つだけは、彼女が俺を気にかけている証だと。
違った。
この一片の気遣いさえも、俺に向けられたものではなかった。
プロジェクトは皮肉なほど順調に進んだ。
けれど紗穂には遅く感じるらしい。彼女は要に何度も念を押す。
「光司の帰国第一号案件ですので、失敗は許されません」
俺は冷めた目で、その茶番を眺めていた。
あの日の商談が終わって帰宅すると、紗穂はソファでずっと逡巡していた。
第3話
やがて、言い訳のように口を開いた。
「まだ秘密結婚のままだし、ちゃんと説明できる機会が見つかってないの。
いずれ、公表するから。
今は、このプロジェクトを成功させることが先決よ」
俺は頷いた。何も言わずに。
当面の最優先事項は、俺たちの「結婚式」だったはずだが、そんな指摘はしない。
その結婚式の日が来れば、俺が離婚届を提出しに行くことも、教えない。
結局、彼女の目には光司しか映っていないのだから。
プロジェクトの最中、紗穂が俺と光司を会わせないよう配慮する様子を、要が察知した。
彼は興味津々に訊いてくる。
「おい、お前。昔、岡見社長と何かあったんじゃないのか?」
俺は笑った。「まさか」
彼は納得いかない顔で口を尖らせた。
「だってさ、何度もすごく申し訳なさそうな目でお前を見てたぞ。
あれは明らかに、罪悪感を抱えた女が元カレを見る目だ」
俺は一瞬戸惑い、記憶を辿った。
気づいていなかったわけではない。ただ、これまでのすべてが、彼女のその視線を信じさせてくれなかった。
カウントダウン、残り十日。
この日は、定例の打ち合わせの予定だった。
光司がわざとらしく長々と話しかけてくる。俺と紗穂の関係を薄々感づいているのだろう。
俺は淡々と応対した。
会議が終わると、紗穂が珍しく「家まで送る」と言い出した。
初めてのことだった。
「あなたの仕事、予想以上に優秀ね」
結婚して五年、彼女が俺を褒めたのは初めてだった。
資料をまとめる手が止まる。戸惑いながら彼女を見ると、紗穂は長い沈黙の後、ようやく口を開いた。
「結婚式、まだ間に合うかしら?」
俺は顔を伏せた。式を取りやめたいのだろう。
十中八九、光司のせいだ。
「中止でいいよ。もう日数もないし」
俺は顔を上げ、彼女を見た。真実を暴くつもりも、今更互いに気まずくなるつもりもなかった。
紗穂が呆然としている。信じられない答えでも聞いたような顔だ。
すると、彼女が問い返す。
「……気にならないの?」
そうだな。以前の俺なら、その場で取り乱して答えを求めていただろう。
この歪な結婚生活で気まずい場面を作ったのは、いつも俺が感情を抑えきれなかったせいだ。
もっとも、その原因のすべては彼女にあったのだが。
俺は首を振った。
「別に。ただの形式だろ」
長い沈黙の後、紗穂がまた口を開いた。
「じゃあ数日後、隣町の古江市に一緒に行かない?リフレッシュしましょう」
俺はスマホの画面を見下ろした。離婚届を提出予定日まで、あと十日。だから断った。
ハンドルを握る彼女の手が強張り、危うく赤信号を無視しかけた。
「海辺は?それとも、あなたがずっと行きたがってたレストランとか?」
紗穂は立て続けに提案してきたが、俺はどれも淡々と断った。
車を降りる頃には、気まずそうだった彼女の表情は、やがて困惑と不満が入り混じったものに変わっていた。
俺は彼女の顔を見て、自分から言った。
「昔の家なら、行ってみたいかな」
昔の家。俺と紗穂が新婚時代に住んでいた場所だ。
確かに、少しだけ懐かしかった。
紗穂がしばらく固まっている。俺の真意を測りかねているようだ。
俺が車を降りた後も、彼女はずっとそこから動かなかった。
長い時間、ただ座ったまま。
離婚届提出予定日、カウントダウン一日。
暗黙の了解ができたのか、俺と紗穂はプロジェクトの会議で顔を合わせることが少なくなった。
ただ時折、光司がいない隙に、紗穂が突然会議室に現れる。何も発言せず、ただ何度か俺を見て帰っていった。
第4話
この女が最近何を考えているのか、理解できないし、理解したくもない。
俺は少しずつ、彼女に気づかれないように、荷物を運び出し始めた。
けれど、結局気づかれた。
この日、会議の後。紗穂が俺をオフィスに呼んだ。
椅子に座るなり、彼女が訊いてきた。
「最近、荷物をかなり運び出してるみたいね。家にもあまり帰ってないし」
俺は頷き、用意しておいた理由を告げた。
「ああ、しばらく昔の家に泊まろうと思って」
紗穂の表情が少し揺れた。
「結婚式のこと、ずっと考えてたんだけど……やっぱり、挙げても……」
俺は遮った。「もう時間ないし、いいよ」
彼女が驚いた顔をする。「もう時間ないって、どういうこと?」
俺は迷った。署名済みの離婚届を見せるべきか、と。
光司からの電話が、絶妙なタイミングで俺を救った。
彼女のスマホに表示された名前に、俺は自嘲の笑みを浮かべた。
「先に用事済ませなよ。俺たちの話は急がないから」
紗穂がドアノブに手をかけ、謝るかのように振り返って約束を口にした。
「明日、必ず昔の家に行くから」
翌日、彼女は約束を破った。
俺は昔の家のソファに座り、スマホを見つめていた。
カウントダウン、十二時間。
ニュースアプリに地元の経済記事が流れた。
光司が新プロジェクトの発表で注目を集めている。紗穂はその背後に、彼を支えるように立っていた。
昨日彼女が交わした約束を思い出し、乾いた笑いが漏れた。
もしこれが、俺との最後の十二時間だと知っていたら、彼女は約束を守っただろうか。
守らなかっただろう。いや、どちらでも同じことか。
もう、答えはどうでもよかった。
数時間かけて、家を片付けた。
がらんとした部屋には、驚くほど俺の物は少なかった。
ただ、ここで結婚生活が始まったから、名残惜しかった。
要に電話した。予め伝えていたが、改めて別れを告げる。
それから、弁護士へ。
「離婚届は一ヶ月前にお互い署名済みです。今更、手続きは必要ないですよね?」
弁護士の返答は簡潔だった。
「不要です」
少しの間を置いて、祝福の言葉が届いた。
「おめでとうございます、岡見……いや、松永さん」
俺は笑って、電話を切った。
そのまま静かに、出発の時刻を待った。
カウントダウン、三時間。全ての荷物をまとめ、翌朝の航空券を買う。
カウントダウン、二時間。彼女との写真を全て切り抜き、アルバムには自分だけを残す。
カウントダウン、一時間。離婚届を提出した。そのコピーを、テーブルに置く。
何か言葉を残そうかとも思ったが、やめた。
心の中で呟くだけにした。
「紗穂。これが最後だ、君を妻と呼ぶのは。
十年、君を愛してきた。人を十年愛し続けるのは難しい。けれど俺は、ついに手放すと決めた。
おめでとう、君も。そして、俺も」
荷物を手に、カウントダウンが終わる瞬間、ドアノブに手をかけた。
終わった。
俺の、結婚が。
その時、ドアが外から開いた。
紗穂の額に汗が滲んでいる。どこかから走ってきたようだ。
息を切らせながら、申し訳なさそうな笑顔を浮かべる。
「ごめんなさい、慎也。さっき人を送ってて……」
彼女が言葉を切った。その視線が、俺のスーツケースと、手に持った航空券に落ちる。
「……どこか、行くの?」